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2023/12/30

来年は、J・M・クッツェー『その国の奥で/In the Heart of the Country』です

 今年1年を振り返る時期になったけれど、ここには来年のことを書いておこう。

 現在、新訳を進めているのは、長らく絶版だったJ・M・クッツェーの第二作『In the Heart of the Country/その国の奥で』だ。河出書房新社から、来年半ばには刊行される予定。河出書房新社はチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの邦訳全作品を出している出版社で、クッツェーの『鉄の時代』が入っている池澤夏樹個人編集の世界文学全集の版元でもある。

 この第二作目はまったくもって一筋縄ではいかない作品だ。ファンタジックでゴシックで、実験的という点では初作『ダスクランズ』をはるかに凌ぐ。とにかくものすごい妄想、また妄想なので、読みこんで日本語にするのは作品との「格闘また格闘」となる。やたら時間がかかる。半ページしか進まない日もある。翻訳を始めたのは何年か前だが、全139ページがまだ終わらない。それでも、あと〇〇ページを残すところまできた。

 この作品の出版をめぐる経緯については、以前このブログでも書いた。ウォルコヴィッツの『生まれつき翻訳』について触れたときだ。(ここで読めます。)クッツェー作品としてこの小説が英米で初めて出版されたのは1977年、南アフリカ本国でバイリンガル版として出版されたのは翌年のことで、『鉄の時代』の年譜にも書いたし、自伝的三部作の年譜にも、『J・M・クッツェーと真実』の詳細な年譜にも、必ず書いた。この作品が出版された経緯は、この作家の作家活動にとって非常に重要な細部だからだ。

 当時の南アフリカにはまだ厳しい検閲制度があり、異人種間の結婚はおろか、性交まで禁止する法律があった。世界から切り離されたような南アフリカ奥地の農場を舞台に、極端に狭い人間関係のなかで、事件は起きる。姦通、泥酔、銃撃、殺人、レイプ、ect. ect. しかしそれが実際に起きたのか、起きなかったのか、事実と妄想の境界がきわめて曖昧なのだ。銃を握るのは三十代の独身女性マグダで、彼女の独白が全編を貫いている。

 日本語訳は原著の出版から約20年後の1997年、スリーエーネットワークの「アフリカ文学叢書」の一冊として出た。それから四半世紀以上が過ぎて、その間、この作家は二度目のブッカー賞を受賞、その3年後にオーストラリアへ移住、直後にノーベル文学賞を受賞した。そんなニュースと相前後して作品が次々と紹介されて、作品や作家の全容がほぼ見えるようになった。

 今年6月に日本語訳が白水社から出版された『ポーランドの人』(それについてはここで)は、非常に無駄のない、端正な、流れるような文体で書かれていた。このレイトスタイルへ至るまでの半世紀におよぶ長い道のり。

 これまでにクッツェーは南アフリカを舞台にした長編小説を8作書いている。出版順にいうと、『ダスクランズ』『その国の奥で』『マイケル・K』『鉄の時代』『少年時代』『恥辱』『青年時代』『サマータイム』で、このうち6冊を拙者訳で読んでいただける。来年は新訳『その国の奥で』が出る予定で全7冊となるはずだ。

 南アフリカの作家クッツェーと出会った者として、あまり知られていな南アフリカの自然や風土、作品舞台となった時代の人間関係の細部をあたうるかぎり潰さずに、なおかつ、含みをもって伝える責任を、これでほぼ果たせるように思う。感慨深い。

 手元にあるこの作品の紙の書籍3冊と、Kindle版1冊のカバー写真をあげておく。左上からペンギン版のペーパーバック(1982)、右へ行ってヴィンテージ版(2004)、スイユ版のフランス語訳(2006)、そしてKindle版スペイン語訳(2013)である。

 いろいろ心が砕けそうになる事件や出来事が起きた2023年だったけれど、それでも今年は藤本和子さんの4冊目の文庫や斎藤真理子さんとの往復書簡集『曇る眼鏡を拭きながら』が出版された年でもあった。

 人生はまだまだ続く。La lutte continue!

 🌹 みなさん、どうぞ良いお年をお迎えください!🌹


2020/12/11

訳者あとがきってノイズ?──『ブルースだってただの唄』復刊を祝って


 この本(傍点)はあとがきを書くために翻訳した──と冗談まじりに口にしたのは、忘年会には少し早い、楽しい酒席でのことだった。するとテーブルの端から「訳者あとがき」について原稿依頼が飛んできた。締め切りまで間があったので、それは頭の引き出しにしまい込まれた。ところが、冬だというのになにやら薄暗がりでつぶつぶが芽を出して、光を放ちはじめた。あれはひょっとしたら、口から出まかせではなくて本当だったんじゃないか、本当にあとがきを書くために翻訳したんじゃないのか、とつぶつぶが問いつづけるのだ。

「この本」とは昨秋、新訳したJ・M・クッツェーの初作『ダスクランズ』(人文書院刊)のことだ。そういえば翻訳作業のスケジュールでは、あとがきを書く時間を二カ月と最初から見積もっていたんだ。約四十枚と編集担当者にも伝えてあったじゃないか──増えたけど。仕上がった訳をそばに寝かせて、あとがきを書いた。取り憑かれたように、二十四時間そればかり。あそこはやっぱりこうかもしれない、ふと浮かんだことばを書きつけるため、真夜中にがばっと起きあがってキーボードに向かう、そんな日がつづいて「J・M・クッツェーと終わりなき自問」がぼんやりと形になっていった。


 二〇一七年三月下旬にクッツェー研究の第一人者デイヴィッド・アトウェル氏が来日して事実関係をあれこれ確認できて、あとがきはとてもすっきりしてきた。だが、それにも増して自分でもはっきりさせたかったのは、一度日本語になった作品をあらたに訳し直す理由である。この作家は一九七四年に『ダスクランズ』を出してから現在までどんな作品を書き継いできたか、その作品群を一望にするとなにが見えてくるか、それは書いてみなければ分からなかった。クッツェーという作家を日本に紹介することになった拙訳『マイケル・K』の出版からでさえ、ほぼ三十年が過ぎている。作家を見る視点を日本の読者、世界の読者がどのように変化させてきたかも探りたかった。寝ても覚めてもとはこのことか、と思いながら遅い春の日々を送った。さて。


 翻訳はね、コンテキストが生命よ!──と藤本和子さんはいった。八〇年代初めにわたしが翻訳をやろうと思ったときのことだ。きっかけは、これまでにも何度か書いてきたが、「女たちの同時代 北米黒人女性作家選 全七巻」との出会いだった。その編集翻訳をやってのけたのが藤本さんと、朝日新聞社図書編集室の故・渾大防三恵さんだ。一九三九年生まれの藤本さんは、この仕事を三十代後半から四十代にかけてやったことになる(驚嘆!)が、そのとき『塩を食う女たち』という黒人女性の聞き書き集も出している(岩波現代文庫に入ったのは本当に嬉しい)。


 選集には「女たちの同時代」とあるように、同時代を生きる黒い女たちの圧倒的な声があった。その力強さと存在感に打ちのめされて、貪るように読んだ。知らないうちに自分は「衰弱」していたのではないかと気づいたのだ。気づけばあとは回復をめざすのみで、そのパワーをもっぱらアフリカン・アメリカンの女性たちの作品群からもらったのだ。

 怒涛の六〇年代末から七〇年代初めにかけてたまたま学生時代を送り、四苦八苦しながら子育てのトンネルに入り、出口に光が見えたのはこの選集と『塩を食う女たち』を読んだときで、あれはわたしにとって生き延びるための文学だった、といまも思う。だから翻訳紹介をするときは呪文を唱えるように、コンテキスト、コンテキストとつぶやいてしまう。藤本さんからは、ただの紹介屋にはならないで、とも言われた記憶がある。わたしがそう受け止めただけかもしれない。ところが。


「あとがきはノイズだ」と言う人がいると聞いた。唖然とした。

 アフリカから出てくる文学や、アフリカにオリジンをもつ作家を紹介するとき、その背景を解説するだけでかなりの分量になる。たとえ詳細に書いても、受け手の網の目が粗いときは思うように伝わらない。そんなもどかしさを体験してきた者に「あとがきはノイズ」とはびっくりするような主張だった。そこからは、あとがきなどなしに読者は作品とじかに接する方がいいと言う「正論」が響いてくる。作品の真価は作品のみで理解されるべきだと言い切れる強さがにじみ出てくる。だが、その強さはどこからくるのだろう。

 目を凝らし、耳をそばだてて観察すると、おぼろげに見えてくるものがある。「あとがきノイズ論」を支えているのは、かりにそこにあっても、目に見えるものだけが存在して見えないものは無、と断言できるマジョリティゆえの強さではないのか。ラルフ・エリソンの小説『見えない人間』を思い出す。人間以下のものとして無視されてきた存在が書くことで可視化され、書かれることで存在を主張しはじめる、そのことをこのタイトルは示している。


 敗戦後、日本に入ってくる情報は圧倒的にアメリカから、となった。それを世界の情報をめぐる「非対称性」と言ってみる。わかったようで実感の伴わない表現だ。でもほら、バドワイザーに訳註はいらないけど、チブクビールはどう? ワシントンといえばすぐに当たりがつくけど、アブジャと言っても「?」となるでしょ。かく言う筆者もメルカトール図法の歪みから頭を解放するため、就職したての娘に地球儀を買ってもらったのは何歳の誕生日だったか。それを見て、おお、イスラム世界のなんと広いことか、とため息をついたのだった。そして世界を、地球上の人間の営みの全体像を、地球儀に乗って爪先立ちするつもりで想像してみるのだ。眼球の表面にごしごしと、懐疑というブラシをかけて。


 アフリカ大陸南端で生まれた作家の作品を三十年前に翻訳しはじめたわたしは、「アフリカに文学あるの?」という問いに出くわすたびに絶句してきた。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェのTEDトーク「シングル・ストーリーの危険性」が世界を駆けめぐったころから、さすがにそんな、あからさまに差別的な質問を面と向かって言う人は少なくなったけれど。アフリカ大陸は、面積だけでも日本が約八十個すっぽり入る広さで、国の数はゆうに五十を超えるのだ。どれほど多種多様な人たちが多種多様な文化をいとなんできたか、いるか。「暗黒大陸」として学んだ者(わたし)が蒙を啓かれることに遅すぎはしないのだと、今日も地球儀を引き寄せる。


 なにをわたしは言いたいのだろう? 文学作品を日本語に訳して出版するプロセスで、あとがきがノイズだと言えることが、どれほど特権的かということだ。もちろん場合にもよるが、そこにはいちいち説明しなくても、読者がすでに作品の背景や文化をある程度知っている、あるいは知らなくていい、という前提が暗黙の了解としてある。それがいかに特権的なことか。イギリスの文化、フランスの文化、と言い換えてもこれはある程度あてはまるだろう。日本とアメリカとヨーロッパだけが「世界」の中心ではないのだと陳腐なことをまた言わなければならないのだろうか。でも「欧米」とひとくくりにする乱暴な物言いが「あとがきノイズ論」では生き生きとよみがえるのだ。


 一歩踏み込んで、もう少し奥行きをもって見てみると、そのアメリカでさえ、たとえば黒人文学と呼ばれるものは、ある程度の歴史的、社会的背景を浮上させる解説がなければ伝わりにくいことがわかるだろう。その事実と早い時期から向き合ったのが先述した「北米黒人女性作家選」だった。全七巻の各巻に、丁寧な解説と日本で書くことを仕事とする女性たちの「応答」の文章が添えられていた。ントザキ・シャンゲの『死ぬことを考えた黒い女たちのために』の巻末には、先日他界した石牟礼道子さんがエッセイを寄せている。つまり、読者の社会内部の「見えない存在」を照らし出す網が、国境や言語を越えるつながりとして準備されていたのだ。


 そこには、六〇年代南部アメリカの公民権運動、都市部の貧困対策として子供たちに給食を提供することから始まったブラックパンサーの運動、それらをくぐり抜けて滋味豊かな果実として生み出された黒人女性作家たちの作品と、その全体像を伝えたいと腐心する編者たちの熱意があった。通信手段は郵便、電話、テレックス等に限られ、インターネットはおろかファクスさえない時代だ。作品を日本語に移し替えて読者に手渡すときの立体化、コンテキストの可視化への努力がそこからはひしひしと伝わってくる。アフリカン・アメリカンのアート作品を全巻にあしらった美しい平野甲賀氏の装丁によるこの選集は、出版文化賞にあたいするきわめて先駆的な仕事だった。当時のアカデミズムには逆立ちしてもなし得ない性質の仕業だったのではないか。しかし、時代はバブル期へ向かい、その後の流れはアメリカ発のミニマリズムへと舵を切り、他者と関わらないことを強く決意する端正な文体の小説が読まれる時代へと向かった。


 いま、顔を黒塗りするミンストレルショーに差別のニュアンスがあることが指摘される時代を迎えて、ようやく奴隷制をめぐる歴史は過去のものではないと認識されるようになったのだろうか。だとすれば、これまで翻訳文化が「主に」追いかけてきたアメリカは「白い」アメリカだったと知るべきだろう。それが認識の地図を激しくゆがめてきたことも。


「訳者あとがき」はノイズなどではない。とはいえ、どれほど調べて書いても、それに代価が支払われるわけではなく、やればやるほどボランティア性が高くなる作業だ。それでも、訳者あとがきは、そばにあるのに見えなかった世界を示す広角レンズになる。広い視野から世界を見渡すパースペクティヴ装置にもなる。「コンテキストがすべて」とは、そのことを言っているのだろう。それは日本語文学に風通しのよさを吹き込む「同時代性」をも指差している。

 それで『ダスクランズ』の新訳とあとがきはどうなったかといえば、視界は良好、クッツェーの現在地を伝える最新作『モラルの話』を、なんと英語のオリジナルより先に出すため翻訳中(二〇一八年五月刊行)、とお伝えしておく。


(岩波書店「図書」2018年5月号掲載)

2019/10/27

都会の擁護者こそ野蛮人──J・M・クッツェー

  メキシコ国立自治大学でのセッションは、ここ数年のJ・M・クッツェーの著作と幅広い活動の総まとめのような感じだった。

2018年4月末にアルゼンチンの大学で実施された「南の文学」講座のラウンドテーブルで、北のヘゲモニーを批判するクッツェーのことばを聞いて、「すばる 6月号/2019」にこう書いた。

「この作家が1974年に初作『ダスクランズ』を出すために、まずイギリスやアメリカのエージェントに何度も働きかけていたことを思い出す。すべて不首尾に終わって、ようやく南アフリカの小さな出版社から出すことができたのだ。そして『夷狄を待ちながら』でブレイクして世界的な作家になった。北で認められたいという野心をもって書いてきたと、2018年5月末にマドリッドでクッツェー自身が語っている。だからこれは自分の体験を批判、検証することによって見えてきたものなのだろう。ここでもまた批判の対象は作家である自分自身となる」
       ──「北と南のパラダイム──J・M・クッツェーのレジスタンス」

 これは今回のセルールの質問に対するクッツェーの答えと思いっきり重なるが、クッツェーはその当時の自分を「彼」として突き放し、精緻かつ簡潔なことばで表現していく。『ダスクランズ』を出したころの自分への分析にはさらに磨きがかかり、ロンドンやニューヨークの出版社から本を出すことをめざしていた自分は、北の大都会こそが「リアル・ワールド」だと考えていた、と述べる。青年ジョンの頭のなかには「本物世界」とは「北」だという思い込みがあったのだ。(東京へ出ることを北海道の片田舎でひたすら目論んでいた60年代半ばの自分をつい思い出す...)

 そして62歳でアデレードへ移り住んだジョン・クッツェーは、来年2月で80歳になろうとしている。UNAMでのセッション前日に公開された映画「Waiting for the Barbarians」のテーマについて問われたクッツェーは、北と南、都会と田舎、の関係を類比的に見透しながら、「大都会を擁護する者こそ本当の野蛮人なのかもしれない」と述べる。クッツェー自身の現在の立ち位置と、その世界観をきっぱりとあらわすところだ。
 これは田舎者が都会人になった「ふりをする」ことへの、根底的批判なのだろうか。それともなれなかったことを足場に考え抜いた結論だろうか。(なんだかアディーチェの『アメリカーナ』で、アメリカへ渡ったイフェメルが本来の自分にもどるためにラゴスへもどるところとも重なるな。
 しかし同時に、ジェンダーの視点からすると田舎の地縁血縁の容赦ない縛りからいったん逃れるためには、都市の暮らしは必要悪でもあるのだけれど...)

 だが、クッツェーの憧れは、自分の育った環境には複雑なアイデンティティーのあいまいさがあって、幼いころからThe Children's Encyclopedia という事典──これは2つの大戦間にイギリスで編集された、アングロサクソンを最優秀な人種とする、非常に差別的なプロパガンダだった──をすみずみまで見て、読んだこによる深い影響と不可分だったと語る。(この子供百科について述べたシカゴ講演は来年、雑誌に訳出します。)

 このセッションでは、『サマータイム、青年時代、少年時代』でくりかえし語られる「都会と田舎」の関係が、都会生活と田園生活といった対立&補完の構造を超えて、旧ヨーロッパ宗主国と植民地との関係がもたらした「現在」をベースに、いま「世界」の中心である欧米とそれ以外の地域との関係として語られるようになっていく。
 この自伝的三部作には、1997年に出た初巻『少年時代』から一貫して「Scenes from Provincial Life」という副題がついていた。3巻を1冊にまとめたとき、それが正タイトルとなった。ものごとの全体を類比的に考え抜こうとするJ・M・クッツェーの面目躍如といえるだろう。

 5年ほど前に、3巻まとめて出したとき、タイトルをどうするか、とても悩んだ。原タイトルの「Scenes from Provincial Life」をそのまま訳しても、訳書タイトルにはおさまりが悪い。いっそ一案として訳者が出した『とことん田舎者』とすべきだったんじゃないかといまでも思うのだ。

 ──クッツェーでそこまで崩していいんですか? 

と言われてあのときは引っ込めたけれど、じつは、この『とことん田舎者』というタイトルは結構気に入っているのだ。クッツェーが自分は「ダーク・コメディ」を書いてきたつもり……という、倫理性に込められた諧謔に満ちた「ひねり」が、じわじわと伝わるようになったいまは、それもありだったかなあと思う。惜しかったな😆。

 ちなみに2018年「すばる 5月号」には、作家から送られてきた「英語のヘゲモニーに抗う」という文章が引用されていたが、クッツェーの立ち位置を明言する、詩と言語をめぐるその文章が、今回のUNAMのステージでそっくり朗読されています。Please listen!

2019/08/23

渇いた土地:ナマクワランド

ひさしぶりの更新になりました。

 うんざりするほど長かった梅雨に、いきなり猛暑が襲ってきて、疲労困憊の東京住人としては、そろそろ秋の訪れと、乾いた風を感じたいところですが、いっこうにその気配はなく、しとしと降る雨のなかで、終わりゆく夏を惜しんで蝉たちが鳴いています。
 気温は少し下がりましたが、今日も湿度は高く、そんなとき世界のあちこちに散らばった友人、知人たちがアップする写真にどれほど慰められるか。すずしい山の写真をみてほっと息をつきます。湿気の多い空気のあいまをぬいながら渇いた土地のことを思います。そんな「異界の」写真を2枚アップ!

Dried up Springbok area, 2019
8月末、南部アフリカのナマクワランドは冬から解放されて春が訪れる季節。その写真を2枚。撮影者は8年前のケープタウン旅行でお世話になった Fukushima Koshin さん。

 いつもなら一面に花が咲き乱れるころなのに、1枚めの写真にはまったく花がなく、石ころまじりの地面は乾ききっているとのこと。
 2枚めの写真にようやくナマクワの花、ナマクワランド・デイジーが……。これもほんの数週間の出来事のようです。
 以前、ここでナマクワランドのことに触れたのは、ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』を訳していたころ、ずいぶん昔です。2011年11月のケープタウン旅行でも、ナマクワランドまでは行くことはできませんでした。ケープタウンからはちょっと遠い。

Skilpad Nature Reserve,  Kamiesberg, 2019
その後、クッツェーのデビュー作『ダスクランズ』を訳しているとき、この作品の第二部がナマクワランドを舞台としていたことを思い出して、ああ、行っておくべきだったと思っても、あとの祭り! 
 2枚めの写真のまんなか奥に立っているのが、掘抜き井戸の翼です。オランダの風車を思わせる作りで、アフリカーナと自らを呼ぶようになったオランダ系の農民たちが、乾いた土地に井戸を掘り、水を調達したんですね。
 Kamiesberg カミスベルグは、忘れられない地名です。『ダスクランズ』に出てきたこの地名は、ヤコブス・クッツェーが象狩りの旅に出てまもなく、逃亡したディコップを従者クラーヴェルといっしょに追い詰める場所だった。

 南アフリカは、もう一度行ってみたい土地です。

2018/11/30

ヘンドリック・ヴィットボーイの日記(2)


Dusklands 初版カバー
J・M・クッツェーが Late Essays の最終章になぜ「The Diary of Hendrik Witbooi/ヘンドリック・ヴィットボーイの日記」を入れたか?
 それを考えるために、ヴィットボーイが生きた大ナマクワという土地の歴史について再度学び直している。舞台は南西アフリカ、現在のナミビアである。

 クッツェーの初作『ダスクランズ』を訳した者として考えざるをえないのは、現在78歳のこの作家のこだわりがどこにあるかだ。というより、むしろ考えなければならないのは、「英語で発表した」最新エッセイ集、というか作家論ともいえる書評集の最後に、19世紀から20世紀にかけて南部アフリカの土地で起きた出来事をめぐる文章を置いた理由だ。
 
念のため、Late Essays の目次を書いておこう。

1. Daniel Defoe, Roxana
2. Nathaniel Hawthorne, The Scarlet Letter
3. Ford Madox Ford, The Good Soldier
4. Philip Roth's Tale of the Plague
5. Johann Wolfgang von Goethe, The Sorrows of Young Werther
6. Translating Hölderlin
7. Heinrich von Kleist: Two Stories
8. Robert Walser, The Assistant
9. Gustave Flaubert, Madame Bovary
クッツェーの最新エッセイ集
10. Irène Némirovsky,  Jewish Writer
11. Juan Ramón Jiménez, Platero and I
12. Antonio Di Benedetto, Zuma
13. Leo Tolstoy, The Death of Ivan Ilyich
14. On Zbigniew Herbert
15. The Young Samuel Beckett
16. Samuel Beckett, Watt
17. Samuel Beckett, Molloy
18. Eight Ways of Looking at Samuel Beckett
19. Late Patrick White
20. Patrick White, The Solid Mandala
21. The Poetry of Les Murray
22. Reading Gerald Murnane
23. The Diary of Hendrik Witbooi

 23以外はすべて、イギリス(デフォー、フォード)、アメリカ(ホーソーン、ロス)、ドイツ(ゲーテ、ヘルダーリン、クライスト)、スイス(ヴァルザー)、フランス(フロベール)、フランス語で書いたウクライナのユダヤ系詩人(ネミロフスキー)、スペイン(ヒメネス)、アルゼンチン(ベネディット)、ロシア(トルストイ)、ポーランド(ヘルベルト)、アイルランド出身の英語・フランス語で書いた作家(ベケット)、オーストラリアの作家(ホワイト、マーネイン)や詩人(レス・マレー)を論じる文学論である。仏語訳の序文を依頼されて書いた文章とはいえ、どう考えても最後のヴィットボーイだけが異様に際立って見えるのだ。

ペンギン版 Dusklands
『ダスクランズ』の第二部「ヤコブス・クッツェーの物語」は、前にも書いたが、作家クッツェーの出発点だった。18世紀にケープ植民地から大ナマクワランドへ象狩りにでかける「冒険」の旅を記したこのノヴェラは、ヨーロッパ人開拓者のすさまじいまでの自己中心的、暴力的行動とその心理を、これでもかという力技で書いた作品だった。その語りを「歴史文書」として扱う学者の文章をつけ、「歴史の哲学」を問う構成になっている。刊行発表は1974年、南アフリカがアパルトヘイトから解放される20年前、ナミビア独立より16年前のことだ。

 そしていま、ふたたび南部アフリカの土地を舞台にした歴史について書いた「ヴィットボーイの日記」をLate Essays の最後に置く。これは、どういうことだろう。

 ここで着目すべきキーワードは「土地」だ。

ナミビア国花:ウェルウィッチア
クッツェーという作家の、土地へのこだわりを考えていくと、避けて通れないのがケープ植民地を中心にした南部アフリカの歴史である。昨日はナミビアとして独立に至ったその土地の歴史について、Sさんの講義を聞いてきたが、これがめっちゃ面白かった。
 南西アフリカと呼ばれた土地には、まずオランダ人やイギリス人が入りこみ、19世紀末に新興ドイツが植民地にし、さらにイギリス/南アフリカの実質植民地となり、おびただしい血が流されたのち、1990年にナミビアとして独立した。解放闘争時はウランを買わないでくれ、と嘆願していたSWAPO(南西アフリカ人民機構)も独立後に政権党となるや、どんどん外資を招き入れてウランを露天掘りし、外貨を稼いでいる。労働者はウランが身体におよぼす危険性を知らされずに働いているという。

 クッツェーの母方の曽祖父バルタザール・ドゥ・ビール(ポーランド名:バルツァル・ドゥビル)が、ドイツ人宣教師となって南部アフリカへやってきて布教活動を行ったのはこの土地だった。クッツェーが光をあてようとしている土地、一筋縄でいかないナミビアの近現代の歴史については次回に!

 こうしてみると、4月末にブエノスアイレスで開かれた「南の文学:ラウンドテーブル」で語っていたことが一気に浮上してくるのだ。ヨーロッパと植民地、北と南の歴史的な関係の後遺症について。具体的には、報道や文学作品の内容をめぐって、北のメトロポリスを中心にした聴衆や読者が望むものを南が忖度して番組や作品に反映させてしまう、という力学の問題だ。それについては、クッツェーの発言を含めてあらためて論じたいと思う。(つづく

2018/11/22

ヘンドリック・ヴィットボーイの日記(1)


J・M・クッツェーの最新エッセイ集Late Essays(2017) の最後に The Diary of Hendrik Witbooi 「ヘンドリック・ヴィットボーイの日記」という1章がある。

ヘンドリック・ヴィットボーイ(1830-1905)
ダニエル・デフォーの『ロクサーヌ』、ナサニエル・ホーソーンの『緋文字』、フィリップ・ロス、ゲーテ、ヘルダーリン、クライスト、ベケット、パトリック・ホワイトなど錚々たる作家たちの名前に続いて、最後に置かれている。
 ヴィットボーイの名前が「文学者」と並ぶと、ちょっと奇異な感じがするのは、日記を残したとはいえ彼は文学者ではなく、19世紀半ばから20世紀初めにかけて生きた南西アフリカの一民族集団「オールラムOorlams」の王だからだろう。
 クッツェーがここで取りあげる日記は、ケープ・ダッチで書かれているという。ケープ植民地で使われ、部分的に簡素化されたオランダ語だ。ヴィットボーイが王となる集団は、ボーア(オランダ語で農民の意)つまりオランダ系入植者と、コイサン諸民族とのあいだに生まれた「混血」の人たちで構成されていた。『ダスクランズ』第二部「ヤコブス・クッツェーの物語」やゾーイ・ウィカム『デイヴィッドの物語』に出てくるグリクワも、ナマ、コイコイ、サンといった先住民とオランダ系白人との混血が中心となる集団で、白人入植者の奴隷だったり、集団として自立しようとしてもヨーロッパ人の統治を受けざるをえなかったことを思い出してほしい。

「ヘンドリック・ヴィットボーイの日記」は、2015年8月にケープタウン大学で行なわれた講座でクッツェーが朗読したテクストで(このブログで触れた)、初期バージョンは、Votre paix sera la mort de ma nation: Lettres d'Hendrik Witbooi (Saint-Gervais: Passager clandestin, 2011)「あなた(方)の平和はわたしの民族の死となるだろう: ヘンドリック・ヴィットボーイの手紙」への序文だったという。フランス語に訳されたヴィットボーイの日記に、J・M・クッツェーが序文を書き、それを4年後にケープタウン大学の講座で朗読音源として披露し、加筆したものを 2017年の Late Essays の最後の章に収めたということである。
 朗読が公開されてから3年後のいま、ケープタウン大学のサイトに記録は残ってはいるが、クッツェー自身の朗読は削除され、残念ながら聞くことができない。(ここからダウンロードすれば聞けます!

さて、ヴィットボーイをめぐるこの文章がクッツェーの最新エッセイ集の最後の最後に入った理由を考えてみたい。

 ヴィットボーイが生きた土地は、クッツェーのデビュー作「ヤコブス・クッツェーの物語」の舞台とそっくり重なる。『ダスクランズ』の第二部であるこの物語は、訳書解説にも書いたが、クッツェーが30代前半の米国滞在中に書きはじめ、1971年に南アフリカに帰国を余儀なくされたころには、ほぼ完成していた。第一部「ヴェトナム計画」は南アに帰国してから書き加えられた作品である。つまり、作家 J・M・クッツェーの出発点はこの「ヤコブス・クッツェーの物語」にこそあるといえる。

 その物語と強烈に響きあう「ヘンドリック・ヴィットボーイの日記」は、2018年現在、クッツェーが向き合おうとしている、土地と歴史の関係に強い光をあてるテクストといえるだろう。

「ヤコブス・クッツェーの物語」の舞台は、ケープ植民地から北西部へ向かってのびる地域だ。時代は18世紀半ば、オランダ系入植者が象狩りのために奥地を探検する話だった。この土地にドイツが侵攻しだしたのは19世紀末のことで、クッツェーの「ヘンドリック・ヴィットボーイの日記」によると1882年にドイツ人貿易商アドルフ・リューデリッツがまず交易のための拠点を築き*、2年後の1884年にドイツは南西アフリカ(現在のナミビア)を植民地にする、とビスマルクの名前で宣言した。

 第一次世界大戦の敗戦国になったドイツが手放すことになったこの植民地は、イギリスの委任統治領になり、さらにアパルトヘイト政権下で南アフリカが統治権を握ることになる。

 その南西アフリカで1904年から1907(1908?)年のあいだに実行された「ヘレロとナマの大虐殺」が20世紀最初の「ジェノサイド」と認められたのは最近のことだ。ここでドイツが行なったことは、その後のホロコーストへの序盤だったという説が有力になってきている。なぜなら、たびたび起きた先住民の抵抗をドイツ軍が武力で制圧し、最後にヴィットボーイ率いる抵抗軍を完敗させたのがドイツの将軍ローター・フォン・トロータで、彼は絶滅作戦によって北部のヘレロ(バンツー系の黒い肌の人たち)をカラハリ砂漠へ追いやり、南部のナマ(レッド・ピープルと呼ばれる褐色の肌の人たち)を悪名高いシャーク島の収容所に捕虜として隔離し、順次、計算づくで殺していったからだ。まさに、実験的に。
 そのような実践を支えた思想は何か? クッツェーは、ダーウィンから始まる進化思想だと指摘している。なにもドイツ特有というわけではないと。ここは注目したいところだ。

 2004年にドイツ政府はこのヘレロ虐殺についてナミビア国民に謝罪した。
 
 そのとき「ドイツ政府のスポークスパーソンは、ナミビア国民に向けて慎重なことばづかいでスピーチを行なったが、ドイツ人の犯罪に対して、許しを乞う"Bitte um Vergebung"(plea for forgiveness)としながら、"Enschuldigung"(apology)という語は避けた」とクッツェーは書いている。スポークスパーソンが「当時、犯された残虐行為は現在ならジェノサイド(Völkermord)と呼ばれるだろう……そして今日ならフォン・トロータ将軍は起訴され、有罪判決を下されるだろう」と述べた、とクッツェーは Late Essays (p282)の最後に記録したのだ。(つづく
 
2018.11.23 付記──ドイツ植民地政策の専門家であるSさんによれば、リューデリッツがドイツに保護を求めたのは1883年、とのこと。ほかにもいくつか事実関係の細部を訂正しました。Merci, S-san!

2018/09/13

J・M・クッツェーの軌跡をたどる秋

5月末に発売された拙訳、J・M・クッツェー『モラルの話』が重版になりました。出来上がってきた本を見ると、とても感慨深い。

 2冊ならぶと壮観です。昨年新訳の出た1974年のデビュー作『ダスクランズ』から、今年クッツェー自身が英語版より先に他言語で発表した『モラルの話』まで、長い時間と、その間のこの作家の果敢な試みをたどると、現在78歳のクッツェーという作家がなしとげた仕事が見えてきます。

 J・M・クッツェーの軌跡をたどる秋がやってきました。

2018/03/16

翻訳文学も日本語文学──図書新聞のインタビューがアップ

今年のお正月明けに「図書新聞」に掲載されたインタビューがこちらで読めるようになったようです。

   翻訳文学も日本語文学

「クッツェーを読むとき読者もまたクッツェーに読まれてしまう」というこわ〜いサブタイトルがついてます。

昨年9月に、J・M・クッツェーの初作『ダスクランズ』の新訳を出したあと、なぜいまクッツェーなのか、ということを中心に語りました。ぜひ! 

追記:2ページ以降はこちら、をクリックすると出てくる画面の「サブタイトル」がちょっと違ってますが(???)、ご愛嬌!  括弧付きの「世界文学」作家、からがインタビューの中身です。


2017/12/23

今年をふりかえる

2017年も残りわずか。備忘のために今年の仕事をふりかえっておこう。

 1月 昨年から引き続き、JMクッツェー『ダスクランズ』の翻訳、こつこつ。
 2月 『ダスクランズ』訳了。はあ〜〜〜!脱力。 アディーチェ『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』の初校。
 We=男も女も、にした理由。まだまだ、まだっ💢!
 ミア・コウト『フランジパニの露台』第1章「死んだ男の夢」(すばる)のゲラ。「白い肉体、黒い魂」のミア・コウト恐るべし。

 3月 『ダスクランズ』の解説「JMクッツェーと終わりなき自問」を書く。
   寝ても覚めても『ダスクランズ』──助けて〜!
   アディーチェ『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』の再校ゲラ。
   デイヴィッド・アトウェル来日、駒場で2日間、読書会、レクチャーと討論。
   (渋谷近くの居酒屋で、いやあ南アの80〜90年代は大変な時代だったねえ!
    現在のANCは……と嘆き合う。)
 4月 『ダスクランズ』の解説に手を入れる。キリがないほど何度も。
   「早稲田文学女性号」のためにアディーチェ「イジェアウェレ」を訳す。
   『ダスクランズ』の解説、完成。JMクッツェーのこれまでの仕事を俯瞰。
 5月 「たそ、かれ、ボードレール」を「すばる」に書く。
   70年代初頭の記憶が迫ってくる。
   ジャン・ミシェル・ラバテの講演(クッツェー作品の精神分析的研究)。
   「イジェアウェレ」訳了。子育てはやってみなけりゃわからないヨ!
 6月 『ダスクランズ』の初校ゲラ。これもまた手強い。
 7月 メアリー・ワトソン「ユングフラウ」(すばる)訳す。高密度の短編。
   『ダスクランズ』再校ゲラ。すっきりしてきた。
   Slow Philosophy of J.M.Coetzee の著者、ヤン・ヴィレムの講演。
   (「クッツェーと翻訳」について、滅法面白かった)。
 8月 「ユングフラウ」解説書く。メアリー・ワトソンはケープタウン大学卒。
   大学院でクッツェーも参加したブリンクの授業を受けた人。
   『ダスクランズ』最後の読み。すごい迫力でやりとり。完成!
 9月  アミラ・ハス来日。存在感に圧倒される。
   『パレスチナから報告します』復刊したい。
   『ダスクランズ』刊行! 
10月 資料と書籍類の整理。LPの断捨離。読書。大事な本が消えた😭。
11月 新たに翻訳開始。仕事してるのがいちばん落ち着く。
12月 80年代のシンプルなクリスマス・リースをサツキの茂みに絡みついてた
   蔓と実でカスタマイズ。

なんか他にもあったなあ。日経の書評(ガエル・ファイユ『ちいさな国で』)とか、ENGLISH JOURNALのコラム(アディーチェのスピーチをめぐり)とか、5月には『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』刊行記念の、B&B(星野智幸さん、お世話になりました!)や神田でのイベント(朝日のディアガールズのみなさんと!)とか、あれやこれや!
 去年はアディーチェ『アメリカーナ』の分厚いゲラと格闘しながら『鏡のなかのボードレール』も刊行したけど、今年は複数のことが同時進行して、次から次へとスケジュール表みながら動いた。来年はもう少しのんびり行きたいなあ。でも、しょっぱなから獰猛な「犬」に吠えられそうだ💦💦!

 そうだった、来年の干支は「犬」だよ。ひやあ〜。

2017/11/26

「挑発的な」風のなかでほかほか

今日は朝から大勢で建物の周囲や芝生などの庭そうじ。日差しは暖かいけれど風は冷たく、緋寒桜の美しく色づいた黄色い葉を揺らしながら吹いていて、確実に冬が近づいているのを感じました。
 さて、人の心の温かさを試してくる挑発的な??その風のように😎──「挑発的」という表現でクッツェー『ダスクランズ』を的確に評してくれたのは、江南亜美子さんです。

「さあ行くぞ」。ちなみにこの掛け声は……冒頭一行目の言葉でもある──中略──作家クッツェーは、南アフリカの白人という自身のルーツにもかかわる物語を、三十歳にしてすでにこのように提示していた。ひと癖ある本作は、あくまで読者に挑発的で、まさにクッツェーらしさが横溢している。

写真は江南さんのtwitterから拝借しました
「本の雑誌」の12月号、「新刊めったくたガイド」のページに、いっしょに並んでいるのがこれまたすばらしい本たちです。ありがたきかな。寒風のなか心がほかほかします。
 
都甲幸治著『今を生きる人のための世界文学案内』(立東社)
・エンリーケ・ビラ=マタス著/木村榮一訳『パリに終わりはこない』(河出書房新社)
・ダニエル・デヴォー著/武田将明訳『ペストの記憶』(研究社)
・J・M・クッツェー著/くぼたのぞみ訳『ダスクランズ』(人文書院)

2017/11/14

J・M・クッツェーの自己形成期(3)

そしてTLSの記事はこんなふうにまとめられる。
*****
 ライブラリーは若き芸術家の発達過程における鍵となる瞬間を刻みながら、最初期の文学的嗜好との決別を示してもいる。『少年時代』(拙訳 インスクリプト)』で述べられるように、クッツェーはイーニッド・ブライトンの推理小説、『ハーディ兄弟』シリーズ、「ビグルズ」の物語を貪るように読みふける。だが、この自伝作品はこういった本以外のものを読もうとする早熟な野心をも記録している。「もしも偉人になりたかったら、まじめな本を読まなければいけないのはわかっている」と。
 本棚はまた、クッツェーのヨーロッパの伝統的古典との複雑で、発展途上の関係を示す鍵となる瞬間を物語っている。エッセイ「古典とは何か?」のなかで、クッツェーはバッハの「平均律クラヴィア曲集」を聞いてその場に釘付けになった経験を「その音楽が続いている間、私は凍りついてしまい、呼吸する気力さえなかった。音楽がそれ以前には決して語りかけなかったような仕方でその音楽に語りかけられていたのである」(『世界文学論集』田尻芳樹訳 みすず書房)と述べる。彼が詳述するように、それはプラムステッドの家の裏庭で、「15歳だった1955年の夏、ある日曜日の午後」に起きた光景だ。バッハ体験の瞬間は極めて重要な出来事であり、知的発展と文化的嗜好の方向性を立て直す契機を刻印しながら、クッツェーが「ヨーロッパのハイカルチャーを選び取るシンボリックな」瞬間を示している。しかし当時を振り返りながら、クッツェーは自分の情熱的反応は「その音楽に固有の性質」によって惹き起こされたものなのか、あるいはバッハとは当時の辺境的南アフリカにおける「社会的、歴史的行き詰まり」を表象するものではなかったのか、と問いかける。若いクッツェーがその当時収集しはじめた書籍類は、その意味で、このような切望の結果だったといえるだろう。
エリオット、ワーズワース、キーツが並ぶ
 クッツェーはここに写っている書物のうちの何冊かとはそれ以後も長く深い関係を結んでいく。2010年にポール・オースターに宛てた手紙のなかで、書棚にあった一冊、トルストイの『戦争と平和』について「半世紀のあいだ、大陸から大陸へ移動する僕についてきた。僕はそれに感情的な結びつきを感じている──あの途方もなく大きなことばと思想の構造物であるトルストイの『戦争と平和』に対してではなく、1952年にリチャード・クレイ・アンド・サンズという印刷所から出てきて、ロンドンのどこかにあるオクスフォード大学出版局の倉庫から出荷され、ケープタウンにあるその出版局の販売代理店に配送され、そこからジュタ書店を経由して僕のところへやってきたモノに対してだ」(『ヒア・アンド・ナウ』拙訳、岩波書店)と書いた。写真のなかで、書棚の下段中央付近にある、背の低い、かなり厚めの本がそれだ。
 『戦争と平和』の隣にある、何度も読み込まれた本もまた重要である。それはフェイバー&フェイバー社から戦後出版されたT・S・エリオットの『選詩集 1990-1935』で、ペンギン版のエリオットの散文作品補遺として出されたものだ。第二の自伝作品『青年時代』でクッツェーはエリオットについて、彼の「詩と初めて出会って圧倒されたのはまだ高校生のころだ」と書いている。「Homage」というエッセイのなかでクッツェーは「エリオットの詩はじつに魅力的だと思い」「T・S・エリオットふうな詩を書いた」と吐露している。作家クッツェーがイニシャルを二つ重ねるスタイルは(J.M.はジョン・マクスウェルの略)、トマス・スターンズが言うように、エリオットの影響といえそうだ。
 書棚にある何冊かの来歴をたどることも可能だろう。たとえば『ワーズワースの詩作品』は、自伝作品に記述されたことばを信じるなら、クッツェーの父親から譲られたものかもしれない。『少年時代には「ある日、父親がワーズワースの本を手にして彼の部屋に入ってきて、「おまえはこれを読んだほうがいい」 といって、鉛筆でしるしをつけた詩を指し示す」気まずい場面が描かれている。やがて父親が戻ってきて「ティンタン修道院・Tintern Abbey」について息子と話をしようとするが、困惑した少年は知らんぷりを決め込み、興味がないという。クッツェーのロマン派文学との関係には相反する心情が混在しているのは確かである──少なくとも『恥辱』(1999)のなかでバイロンへのオブセッションを取りあげていることからも、それは推測できるだろう。
 自己形成期の読書を振り返りながら、クッツェーはエッセイ「Homage」のなかで、これは「人が人生において、ほぼ不可避的に、自己のアイデンティティを定義したり、あるいは、少なくともその境界づけを開始する」時期であり、「成長するにつれて失われる熱烈な没頭によって」本を読む時期だと述べている。こういった思春期の気持ちがゆるんだとしても、むしろ、さらに自意識の高い、自己批判的な態度がそれに取って代わり、『ダスクランズ』(1974)から始まるすべての本にその刻印が残されることになったのだ。

********
 二段重ねの書棚にならんだギリシア哲学、古典思想書、イギリスのロマン派詩人の詩集など、どれも『青年時代』で言及されたり、のちの作品にくっきりと刻印されるものだ。しかしこれは、16歳の少年が読破しなければならない、という強烈な野心によってならべた書物だということでもあるのだ。高校生というのは硬い哲学書を「読破」することを自分に課したがる時期でもあって、消化不良を起こしながらも、とにかく「読む」。クッツェーはおそらくこのうちから何冊かを大陸から大陸へ彼が移動するあいだずっと携えながら暮らしてきたのだろう。オースターに宛てた手紙に書いたように、たとえば『戦争と平和』、たとえば……
 クッツェーの自己形成期には、詩の本やロシア作家の小説はあってもイギリス小説がなかったことは彼の作品を考えるうえで、どこか決定的なことを物語っているように思えてならない。そこがわたしのような英文学門外漢にとって、まことに興味深いところなのだが。
(了)


2017/11/13

毎日新聞にインタビュー記事が載りました

自分のブログでお知らせするのをすっかり忘れていました(汗)。

11.9 毎日新聞夕刊
11月9日(木)の毎日新聞夕刊にインタビュー記事が載りました。

 読者を試す真実の曖昧さ
  クッツェー第一作を新訳

 J・M・クッツェーの衝撃のデビュー作『ダスクランズ』の新訳が9月に発売になり、それをめぐる話ですが、クッツェーのことになると、とりとめもなくあっちこっちへ話が飛んで、とまらなくなる訳者の話をきちっとまとめてくれたのは、記者の鶴谷真氏です。Muchas gracias!

 記事はネットでも読めます。 
『ダスクランズ』、じわじわ動いています。そしてまた、新たな作業がはじまりました。

*****
追記:『ダスクランズ』の帯について、備忘のために、あらためてここに記しておきます。

<暴力の甘美と地獄を描く、驚愕のデビュー作>
  ヴェトナム戦争期の米国と、植民地期の南部アフリカ
  男たちは未来永劫、この闇を抱え続けるのか

帯の部分は基本的に編集者の領分ですが、今回は訳者もあらかじめ相談を受けて意見や対案などを出し、その結果が今回の帯になりました。
 ある男性読者から「男たちは未来永劫、この闇を抱え続けるのか」というところに強いジェンダー・バイアスがかかっている、とご意見をいただきました。でも、この部分は訳者が考えたわけではなく、若い編集者Aさんの考案によるもので、訳者としては、鋭い、優れた切り込みだと感じていることをお伝えしておきます。そしてAさんは女性ではありませんので、誤解しないでくささいね。⭐️

2017/09/09

『ダスクランズ』──J・M・クッツェーのデビュー作


みほんができた。作家が30代前半に書いたデビュー作は、「クッツェー、すげえ!」と口走りたくなるような本だった。こう書くか、ここまで書くか!と。

新訳『ダスクランズ』(人文書院刊)
彼の作品を訳しはじめて何年になるだろう。ペンギン版の『マイケル・K』と出会ったのは1988年だから、かれこれ30年か……とつい回顧的になってしまう。まあそういう年齢だからね(笑)。なにこれ?という驚きから始まり、ただならぬ作家と知って居住まいを正し、翻訳者としてこれは外せないと思うところを調べているうちに今日にいたった。この30年、いまも発見の連続なのだ。

 最初のきっかけとは前後するが、南アフリカ関連の書籍や短編をいくつか訳してきた。収穫は大きかった。それは翻訳する作品の時代背景を探るための、訳者として欠かせない作業にとどまらず、作家の生い立ちや考え方を形成したものを知る作業でもあった。いや、過去形ではなく、現在形としてそうなのだ。

・IDAF/UNESCO『まんが アパルトヘイトの歴史』1990
・マジシ・クネーネ『アフリカ創世の神話』1992
・ベッシー・ヘッド『優しさと力の物語』1996
・ゾーイ・ウィカム『デイヴィッドの物語』2012
・メアリー・ワトソン「ユングフラウ」2017──雑誌「すばる 10月号」

J.M.Coetzee in the World

クッツェーは「数々の偽装を凝らした作品」を書いてきた。だから、いろんなアプローチが可能だ。しかし彼にとってまず切実なテーマは「歴史の哲学」だった。『ダスクランズ』に入った第二部「ヤコブス・クッツェーの物語」は、米国滞在中に書きはじめた作品で、やむなく南アフリカへ帰国するころには、ほぼできあがっていた。この部分を訳しながら、作家としてのスタートラインを再確認できたのは大きかった。ここでクッツェーはみずからの「歴史的ルーツ」と「同時代的な現在」を見出そうとしたのだ!

 この作品には、自分が生まれ育った土地を中心にしたスパンの長い歴史を、強烈な「透視」によって貫こうとする強い意志がみなぎっている。それはいまだから見えるもので、『ダスクランズ』が発表された1974年は、かの地にはアパルトヘイトという人種に基づく暴力的搾取制度があり、それがクッツェー作品とどう繋がるか、部外者には見えにくかった。

カンネメイヤーの伝記
米国滞在期にヴェトナム戦争報道や反戦運動を目の当たりにして帰国してから、クッツェーは第一部「ヴェトナム計画」を書いた。1994年、日本語の訳書として4冊目にあたる『ダスクランズ』の初訳が出たころは、この二部構成の不可解な作品で作家がいったい何をしようとしているのか、よくわからないと言われたものだ。 
「歴史の哲学」を軸にして、二つの土地をゆるく、ときに緊密につなぐこの『ダスクランズ』から、ポストアパルトヘイトの状況を非情なまでに明晰な文体で描いた『恥辱』へと、数々の技巧を駆使した作品をクッツェーは書き継いでいった。だが、その底流を支えるものが誰の目にも明らかになったのは、2012年に「クッツェー・ペーパー」が公開され、JCカンネメイヤーの伝記や、デイヴィッド・アトウェルの本が出たあとだった。

自伝的三部作
とはいえ、2009年に出た自伝的三部作の最終巻『サマータイム』には、『ダスクランズ』を書いてデビューする若い作家の姿がリアルに描かれていた。『少年時代』や『青年時代』にくらべてフィクション性が強く、妻も子もいない独身者という設定になっているが、それでも、ここにはデビュー当時の作家の心情が強く滲み出ていた。当時の自分に対する作家自身のコメントが、登場人物の口を借りてはっきりと語られ、長い時間軸の上に自分の仕事をのせて、強烈な光をあてながら分析しているのだ。だから、『サマータイム』を訳したときから、『ダスクランズ』で始まるクッツェー作品全体を見直す作業が、避けて通れない課題になってしまった。

『ダスクランズ』の翻訳中には、これが、ここが、作家 J・M・クッツェーの紛れもない出発点だったのか、と再確認する瞬間が何度かあった。そこには、クッツェーがさまざまな実験を試みながら作品を書いていく萌芽がほぼすべて出そろっていたのだ。たとえば、作品は最初から「翻訳」だった。まさに born translated だ。作者が作中人物をどこか「外側から見ている感覚」が常につきまとっていた。運命に翻弄される人物を描き出す筆致は、じつは、サミュエル・ベケットのような究極のダーク・コメディをもとめていた、などなど。

 作家、J・M・クッツェー誕生とその後の軌跡について知るためには、『ダスクランズ』は必読の書だろう。30歳前後のワカゾーが書いた、聞きしにまさるエグい小説だけれど!! 解説は、この作家の始まりから現在までをざっと見通せるよう、いくつかのキーワードでまとめてみたが、おそらく作家クッツェーの真髄は、こんな「まとめ」をことごとくすり抜けてしまうところにあるのかもしれない。
 最後に残るのはテクストのみだ。

2017/09/05

メアリー・ワトソンを訳しました──「すばる 10月号」

すばる 10月号」が「あの子の文学」という特集を組んでいて、とても充実している。わたしも南アフリカ出身の作家、メアリー・ワトソンの短篇「ユングフラウ」を訳出した。
 2004年に出版された短篇集『Moss・苔』に収められたこの作品で、ワトソンは2006年にケイン賞を受賞した。同年9月に初来日したJ・M・クッツェーと会ったときも、この作品のことが話題になった。あれから10年あまりが過ぎて、ようやく翻訳紹介できた。嬉しい。
 
Mary Watson
「ユングフラウ」の舞台は海岸沿いの居住区、どうやらケープタウン南東に広がるケープフラッツの南端、グラッシー・パークらしい。ワトソンが生まれ育った土地だ。そこに住む少女の目からポスト・アパルトヘイト時代の日々を描く物語は、ワトソンが修士過程で書いたものが原型になっているという。ということは1990年代後半、クッツェーが『恥辱』を書いていた時期とかぎりなく重なる。ということもあって、多くの人に読んでいただきたいが、とりわけ『恥辱』ファンにはおすすめだ。

セックスをめぐる語りの中心が、片方は白人男性、もう片方が十代の(間違いなく非白人の)少女で、ジェンダーも人種も、いわば真逆の視点から、当時のケープタウンの人々の関係をのぞきみることになる。二つの作品は相互に強く響き合う要素をもっているのだ。「歴史の哲学」を最重要テーマとして『ダスクランズ』から出発したクッツェーがたどりついた『恥辱』、そして「ユングフラウ」を読むと、ふたつの物語の背後に広がる世界がじわり、じわりと迫ってくる。

 Mary Watson は1975年生まれ、ケープタウン大学で映画と文学を学び、クリエイティヴライティングの修士過程では故アンドレ・ブリンクの指導を受けた。2003年に出版された、南部アフリカの女性作家たちのアンソロジー『Women Writing Africa──The Southern Region』に協力者としてワトソンの名前がある。この分厚い本を編集した一人は知る人ぞ知るドロシー・ドライヴァー、クッツェーのパートナーだ。ドライヴァーはケープタウン大学の教授でもあったから、ワトソンはドライヴァーの教え子だったかもしれない。さらにワトソン自身がケープタウン大学で講師として映画論を教えていたという。めぐり、めぐる、人と時間。

「すばる 10月号」には、ほかにも岸本佐知子さん、柴田元幸さん、斉藤真理子さん、古市真由美さんが、それぞれとても興味深い作品を紹介している。ピンクの濃淡、青と紫の色に縁取られた特集号だ。

2017/08/16

渇いた耳にしみるセザリアの声

思っていたよりずっと渇いていたらしい。耳という感覚が。このアルバムを、本当にひさしぶりに聴いて、ほとんど泣きそうになっている自分を発見したのだ。

 CESARIA EVORA の SÃO VICENTE DI LONGE

このブログで初めてセザリア・エヴォラのことを書いたのは、2010年5月9日だ。まだセザリアも健在、3.11も起きていない。こんな歌手がいるよ、とカーボベルデの歌姫、セザリア・エヴォラのことを教えてくれたのは、長年のつきあいの編集者O氏だった。わたしにとって初めて聴いたセザリア・エヴォラ、それがこのアルバムで、たぶん2002年か2003年だった。
 とりわけ最後から二番目の曲、CREPUSCULAR SOLIDÃO が好きで、何度も何度も聴いた。あ、またしても「薄明」だ。クレプスキュル、クレプスクラル。ダスク。


 ここ1年、JMクッツェーの『ダスクランズ』の新訳にかかりきってきた。途中チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』も出したけれど、原著が出版されてまもなく神奈川大学評論に訳してあったので、今回は見直しをして解説を書いただけ。

 長さからいっても、内容の濃さ、重さ、迫力からいっても、圧倒的にクッツェーの『ダスクランズ』の新訳が仕事の中心を占めてきた1年あまり。その作業からほぼ解放されて迎えた旧盆のお休み。セザリアの歌声を聴いて、つくづく思うのだ。感覚の表面が渇ききっていたと。いま耳から、砂漠に雨が降るように、といいたくなるような、そんな気分で、セザリアの歌声がしみる、しみる。

2017/08/07

J. M. クッツェー『ダスクランズ』

 嵐の夜に、表紙がアップされました。カヴァーも帯も、燃え尽きるような深い赤です。そして強い黒いタイトルと、帯には白く踊ることばたち。

     J. M. クッツェー『ダスクランズ』


 ・暴力の甘美と地獄を描く、驚愕のデビュー作

ふと考える──この赤はなんだろう? 平原に沈む太陽が空を焦がす色? ナマクワランドの赤土? いや、ひょっとしたら200年を隔てて、「黄昏の土地」で流されてきた……かもしれない。

  J. M. クッツェーが34歳のときに発表した『ダスクランズ』、新訳で人文書院から9月30日に発売です。 

2017/07/15

プチ夏休み:読書の愉楽

まだ梅雨はあけないみたいだけれど、東京はまるで真夏の暑さだ。このところ、5月に種を蒔いた朝顔がほぼ毎日のように花を咲かせている。

 昨日、40枚ほどの短編を訳了! クッツェーの『ダスクランズ』の再校ゲラがとどくまでに、まだ少しあるので、数日プチ夏休みということにした。
 昨日はまず、洗濯を朝から二回に分けて、がらがらと。風があるので、あっという間に乾いた。で、午後からは読書の愉楽にひたった。夢中になって本を読むという時間はひさしぶりだ。時間がかぎられていない「夏休み」ならではだ。読まねば、という義務感もないし、読んだら書評を書かなければという縛りもなく、ひたすらページをめくるという、遠いむかしの「夏休み」の感覚を取り戻す。ときのたつのを忘れて読みふける。

 今年のささやかなプチ夏休みの読書は、これ!
 谷崎由依著『囚われの島』(河出書房新社刊)。
 
 無駄のない端正な日本語と、ことばのリズムに乗せられて読み進む心地よい読書、ひさしぶりだな、この快楽は。たとえばこんな細部が光るのだ。

「蓮花がちいさな花びらの先を赤く燃やして咲くときに、その年の蚕飼いははじまりました」

 高校時代まで住み暮らした北の外地に「蓮花」はなかった。教科書に引用された俳句のなかに出てくる花の名前として記憶された「蓮花」を、内地にきてから目にして「ああ、これが蓮花の花か」と思ったことは覚えていても、それがどこでいつだったか記憶は定かではない。
 蓮花はマメ科の植物だから、根に根粒バクテリアとの共生によって窒素を固定する。だから休閑地や、耕す前の田んぼに蓮花を植えて、それを土地にすき込む、と学んだのは生物の授業でだったか。

 高校時代の夏休みは家の前の植え込みのかげにデッキチェアを広げて、そこに寝転んでよく本を読んだ。あの当時、夢中になって読んだフランス小説に出てくる「ヴァカンス」なるものを真似てみたかったのかもしれない。それはダントツに涼しい北の国で、ささやかな演出をかねた「夏休みの読書」だったのだけれど、いかんせん、気温が27度くらいまでしか上がらなかった60年代半ばのこと、強い風に吹かれて本を読んでいるうちに、手足が冷えて、芯まで冷たくなってしまう。ぶるぶる震えながら、家のなかからシーツを持ち出して全身をおおい、シーツから手だけ出して文庫本を読んだ記憶がある。いま思うと笑える。
 

2017/03/27

デイヴィッド・アトウェル教授との2日間

3月24日と25日、東京大学の駒場キャンパスで、JMクッツェー研究の第一人者、デイヴィッド・アトウェルさんを迎えて読書会と講演会があった。主催は田尻芳樹教授研究室。

 一日目はクッツェーの最新作:The Schooldays of Jesus を読む会で、細やかな分析と自伝的な事実との絡み、他作品との響き合いなど、クッツェー読みならではの視点から参加者全員が深くコミットする意見、質問、指摘などを出し合って、濃密な時間があっというまに過ぎていった。

 二日目は講演会で、まずアトウェルさんの"The Comedy of Seriousness in J.M. Coetzee"というレクチャーがあり、さらに三人の研究者のとても興味深い発表があった。アトウェルさんの講演は、真摯さのなかにアイロニカルな笑いがちりばめられたクッツェー作品を、いくつかのキーワードを交えながら縦横に分析するもので、metalepsis という語が印象に残った。ほかにもtradgecomedy, immortality of writer, contingency, non-position, otherness, unsettlement of planters といった語がメモに残っているが、時間がすぎると細かな記憶がどんどん遠ざかっていく。

 余韻としてくっきりと残っているのは、むしろ、アトウェルさんの深い響きのいい声、人柄、話し方、語調といったことで、それは出席者全員によって共有された gift なんだろうと思う。作家や作品への共通の関心をもつ人たちが実際に会って、率直にことばを交わし、ハグして触れ合うことの大切さ。限られた人生の時間で、それは、いろんな情報を交換する以上に大切なことかもしれない、そんな気がする。

会が終わったあとの食事会、飲み会で出た話がまた、とてつもなくおもしろかった。80年代、90年代の南アフリカの細かな事情や、日本でそのころ反アパルトヘイト運動があった話や、先日他界したミリアム・トラーディのこと。ANCの資金調達係として初来日したズールー詩人マジシ・クネーネが80年代に亡命先のカリフォルニアからクッツェーに、クッツェー作品を賛辞する長い手紙を書いていたというのは初めて聞いた話だった。ほかにも現在の南アフリカの学生の動き、政治状況、出版事情など、じつにいろんな裏話が聴けた。

 二日目の最後の発表がゾーイ・ウィカムの作品についてだったためか、「『デイヴィッドの物語』を日本語に訳したきっかけは?」という問いが訳者へまわってきた。そのとき即座に「JMクッツェーの作品の歴史的な背景を日本語読者に知って欲しかったから」と答える自分がいた。それで、あらためて、そうだったのだと自分でも再認識したのだった。クッツェー作品をより深く(勘違いせずに)理解するためのコンテクスト(まあ、もちろん、それだけではないんだけれど)としての南アフリカ文学。カウンターとしての作品──あっちにもこっちにも、デイヴィッドがいるんだもんなあ。マニアックな話ですが……。
 
***************
付記:2017.3.29──デイヴィッド・アトウェルさんはクッツェー作品のなかで、なんといっても『マイケル・K』がいちばん好きだ、といっていたのを付記しておきます。彼の著書の副題"face to face with time"は、マイケルがスヴァルトベルグ山脈の洞穴のようなところにこもって、考えたことばだった。しみじみと、嬉しい。

2017/03/15

デイヴィッド・アトウェル教授の講演会

来週末、24日と25日に東大駒場でこんな催しがあります。予約不要、無料、だれでも参加できるようです。ただし、使用言語は英語で、通訳はなしです。

J・M・クッツェー研究の第一人者であるアトウェル氏を囲んで、2日にわたるシンポジウムが開かれます。まず読書会、それから講演、さらにクッツェー作品や南アフリカ、とりわけゾーイ・ウィカムをめぐる発表があります。
 
 デイヴィッド・アトウェル氏といえば、なんといっても2015年に出た J.M.COETZEE AND THE LIFE OF WRITING ですが、いま『ダスクランズ』の訳者あとがきを書くために再度読み直しています。読み直すたびに新たな発見があって驚きます。



 来週末はアトウェル氏に会って、じかにいろんなことを質問できると思うと、いまからわくわくします!

2017/02/14

JMクッツェー 『ダスクランズ』訳了!

JMクッツェーのデビュー作『ダスクランズ』を訳了した。ふうっ!

 衝撃のデビュー作とはこのことか、と何度もつぶやきながら訳した。とにかく、30歳になる寸前のジョン・クッツェーが一大決心をして、作家になるべくバッファローの借家の半地下にこもって書きはじめた短編「ヤコブス・クッツェーの物語」と、南アに帰国したころの、32-33歳のクッツェーが、一冊の本としてもうすこし長くするためさらに書き足した短編「ヴェトナム計画」。
 この二つのノベラが、たがいにゆるやかな連結で──とクッツェーさんご自身はおっしゃるが、どうしてどうして、18世紀の南部アフリカを、象狩りと称してどかどかと侵略していく文盲の「野蛮な」ヨーロッパ人の強烈なナラティヴと、ヴェトナム戦争時の米国で、エリート青年が心理戦にかかわり神経をすり減らして発狂していくプロセスは、東アジアの列島に住む者が現在の視点でながめやると、たがいに緊密に連鎖し、強く引きあっていることが、びんびんと伝わってくる作品である。

 ここまで書くか、こんなふうに書くか、すごいやと。デビュー作にはその作家のすべてが出る、という定説がやっぱりこの場合もばっちり当てはまりそうだ。

 キーワードは、エピグラフに使われたフローベールのことばにあるるように「歴史の哲学」。初訳が出た1994年には見えなかったことも、いまは明らかになっている。だから解説はしっかり書く予定だ。