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撮影:Pablo Carrera Oser |
2018年4月24日、サンマルティン大学で学生が見まもるなかで行われた第七回「南の文学」ラウンドテーブルのようすが動画になった。過去3年間に6回にわたる講義そのものは終わったが、これまでの経緯や目的などをまとめるラウンドテーブル!まず「世界を読む」プログラムのディレクター、マリオ・グレコが挨拶。参加者はアルゼンチンから3人の作家・翻訳家だ。作家・翻訳家のマリアナ・ディモプロス、作家のペドロ・マイラルと、ファビアン・マルティネス・スィカルディ。ビデオメッセージとして出てくるニコラス・ジョーズはアデレードから、アンキー・クロッホはケープタウンからだろう。そして「南の文学」のチェア、JMクッツェーとそのコーディネーター、アナ・カズミ・スタール。
クッツェーの発言は12分15秒あたりからで、まずスペイン語で感謝を述べ、14分10秒あたりから英語で17分ほどスピーチをする!
まず、これまでの6回にわたる南の文学講座の個別のテーマを振り返り、そこに招待した作家、編集者、出版者、ディレクター、シナリオライターの名前をあげていく。その果実としてアルゼンチンではオーストラリアの、オーストラリアではアルゼンチンの作家の作品が翻訳されたり、作家を招聘したりしたことも。
クッツェーの話ががぜん面白くなるのはそこからだ。
クッツェーはメッセージのなかで、アフリカの架空の国アシャンテを想定し、そこで起きた事件をめぐって北と南の力関係を指摘する。BBCやCNNといった北のジャーナリズムが派遣する特派員のリポートと現地のジャーナリストが発するテクストの違い、北と南のそれぞれ個別の事情をめぐる言語化の例をあげて、北と南をめぐるパラダイムを可視化しようとするのだ。たとえば現地記者のリポートは現地の細かな情報をふんだんに盛るが、北側の視聴者はそんな詳細には興味はない。文学も似ていて、北が南の物語を決めるとすればそれは南とは無縁の物語となる。翻訳またしかりで、南の文学が北で翻訳されて出版されると、編集者がここで読者を獲得できると感じるものによって、結果は南とは無縁のものとなる。南アフリカやオーストラリアの作家の書くものでどこが面白いか、その評価を最終的に定めるのはロンドンとニューヨークなのだと述べる。(付記:しかしアシャンテ国内のメディアが統制されているとき、全体像を知るためには北のメディアにアプローチせざるを得ない状況があるとしたら、、、と視点の転換をうながして考えることをクッツェーは忘れない。)(これらはあくまで筆者のおおまかな、それもごく一部分のまとめですのであしからず。)
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そんなふうにロンドンやニューヨークの出版社が指導権を握るあり方をクッツェーは根底的に批判し、自分たちを中心に考えてまったく疑わない北側のヘゲモニーへの抵抗を宣言する。そして、北を介さずに南どうしがやりとりする場を3年にわたってアルゼンチンで設ける試みをしたのだ。
これは英語をめぐる1月末の「カルタヘナでのスピーチ」と対をなすものだろう。
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結果として、そこでまた大きな宿題を抱え込むことになったが。およそ「モラル」と呼べる社会規範を支える言語体系の根幹にひびが入ってしまったかに見えるこの日本語社会で、この日本語の『モラルの話』がどのような意味をもつか、ということだが、それはまた別の機会に。
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2019.11.8──付記。
先日こんな世界地図を見つけたのでアップしておく。地球を「北と南」に分けるのは地理的な「赤道」ではなく、社会学的な抽象概念による、と指摘するクッツェーの論はこの地図を見るとよく理解できる。赤い部分がいわゆる「グローバルサウス」なのだろう。