Elizabeth Costello : I believe in what does not need to believe in me.──J. M. Coetzee

2018/05/06

第7回 CÁTEDRA COETZEE「南の文学」ラウンドテーブル

撮影:Pablo Carrera Oser
「北は、エキゾチックな味付けをしていない南のストーリーには興味をもたない」

2018年4月24日、サンマルティン大学で学生が見まもるなかで行われた第七回「南の文学」ラウンドテーブルのようすが動画になった。過去3年間に6回にわたる講義そのものは終わったが、これまでの経緯や目的などをまとめるラウンドテーブル!まず「世界を読む」プログラムのディレクター、マリオ・グレコが挨拶。参加者はアルゼンチンから3人の作家・翻訳家だ。作家・翻訳家のマリアナ・ディモポウロス、作家のペドロ・マイラルと、ファビアン・マルティネス・スィカルディ。ビデオメッセージとして出てくるニコラス・ジョーズはアデレードから、アンキー・クロッホはケープタウンからだろう。そして「南の文学」のチェア、JMクッツェーとそのコーディネーター、アナ・カズミ・スタール。
 クッツェーの発言は12分15秒あたりからで、まずスペイン語で感謝を述べ、14分10秒あたりから英語で17分ほどスピーチをする!

















 まず、これまでの6回にわたる南の文学講座の個別のテーマを振り返り、そこに招待した作家、編集者、出版者、ディレクター、シナリオライターの名前をあげていく。その果実としてアルゼンチンではオーストラリアの、オーストラリアではアルゼンチンの作家の作品が翻訳されたり、作家を招聘したりしたことも。

 クッツェーの話ががぜん面白くなるのはそこからだ。

 クッツェーはメッセージのなかで、アフリカの架空の国アシャンテを想定し、そこで起きた事件をめぐって北と南の力関係を指摘する。BBCやCNNといった北のジャーナリズムが派遣する特派員のリポートと現地のジャーナリストが発するテクストの違い、北と南のそれぞれ個別の事情をめぐる言語化の例をあげて、北と南をめぐるパラダイムを可視化しようとするのだ。たとえば現地記者のリポートは現地の細かな情報をふんだんに盛るが、北側の視聴者はそんな詳細には興味はない。文学も似ていて、北が南の物語を決めるとすればそれは南とは無縁の物語となる。翻訳またしかりで、南の文学が北で翻訳されて出版されると、編集者がここで読者を獲得できると感じるものによって、結果は南とは無縁のものとなる南アフリカやオーストラリアの作家の書くものでどこが面白いか、その評価を最終的に定めるのはロンドンとニューヨークなのだと述べる。(付記:しかしアシャンテ国内のメディアが統制されているとき、全体像を知るためには北のメディアにアプローチせざるを得ない状況があるとしたら、、、と視点の転換をうながして考えることをクッツェーは忘れません。)(これらはあくまで筆者のおおまかな、それもごく一部分のまとめですのであしからず。)

 アルゼンチンのスペイン語文学については、英語圏ほど北との緊密なつながりがないと。そこにクッツェーは希望を見つけようとしているのだろうか。これは巷でかしましく論じられる「世界文学」がどういう指向性をもっているか、もっと俯瞰して再考をうながす視点だと思う。これまでの講義は、北のメトロポリスを介さず、南と南が直接触れ合うことで実施された、そのことの意味を考える。南の地域は北側と動物相や植物相が異なるだけでなく、共通するのは植民地化の歴史と文化であり、無人と北がみなした土地であり、、、

 クッツェーは自分が「グローバル・サウス」という言い方をしないことに注目してほしいと述べる。北はそう呼ぶことで南の抽象的なストーリーを作りあげる。すこしだけエキゾチックなテイストを加味した作品をよしとして、北の読者が満足しそうなストーリーを出版する。南の作家は、どうしたら北側に受け入れられるかを考えて、その門をくぐるためにエキゾチシズムを含めて書くようになってしまう。
 そんなふうにロンドンやニューヨークの出版社が指導権を握るあり方をクッツェーは根底的に批判し、自分たちを中心に考えてまったく疑わない北側のヘゲモニーへの抵抗を宣言する。そして、北を介さずに南どうしがやりとりする場を3年にわたってアルゼンチンで設ける試みをしたのだ。
 これは英語をめぐる1月末の「カルタヘナでのスピーチ」と対をなすものだろう。

 北側の覇権に抵抗する具体的行動として、クッツェーは自分の最新作を、英語ではなく、まずスペイン語でSiete cuentos morales として出した。日本語でも5月31日に『モラルの話』(人文書院)として出る。(編集担当者Aさんと訳者が、がんばりました。)

 結果として、そこでまた大きな宿題を抱え込むことになったが。およそ「モラル」と呼べる社会規範を支える言語体系の根幹にひびが入ってしまったかに見えるこの日本語社会で、この日本語の『モラルの話』がどのような意味をもつか、ということだが、それはまた別の機会に。