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2015/03/23

岩波文庫『マイケル・K』のゲラ読み完了

三度目の正直、とはこのことかと思いながら、J・M・クッツェー作『マイケル・K』(岩波文庫)のゲラを読んだ。初訳が出たのは1989年10月だったから、かれこれ26年以上も前だ。二重の意味で初訳書だった。クッツェーの作品が日本語になるのも、わたしが訳者となる本が書店にならぶのも初めてだったからだ。インターネットなどない時代で、南アフリカの事情や固有名詞を調べるのには本当に苦労した。

 二度目はちくま文庫に入ったときで、2006年だった。いろいろ気づいたことがあったので全面的に改訳した。そして三度目の今回は、作品を読んでいてまったく異なる風景が目の前に立ちあらわれて驚いた。理由はいくつも思い当たる。
 
 まず、クッツェーの作品をすでに6作も訳してきたので、初訳時と違って、この作家のことがかなり深く理解できていること。ことば遣いの特徴、文章のリズム、作家の好きな表現や癖、疑問符の多用、くり返される自問など、いろいろある。なんといっても大きな違いは、この10年のあいだに作家自身と何度も会って話をし、人柄などがじかに分かったこと、数年前に南アフリカを旅して作品の舞台となった風景を実際に見てきたことだ。

『マイケル・K』はいわばロードノベルだ。マイケルはケープタウンから内陸部のプリンスアルバートまで徒歩で旅する。その道程は地図通りに進んでいく。いまなら、グーグルマップでたどることもできるし、ストリートビューを使えば、田舎町の大通りをゆっくり車で走る気分さえ味わえる。

 作品が書かれたのは1980年代初頭、30年以上も前のことだ。だから、もちろん違いもある。アパルトヘイトは1994年に完全撤廃され、新体制に変わった。これは決定的だ。ヴスターへ向かう国道1号線も変わった。マイケルがプリンスアルバートをめざしたころは、まだユグノートンネルは着工されたばかり。当然、マイケルは山を登り、峠を越える道をたどる。それでもケープ半島や内陸のカルーの風景そのものは、基本的に変わっていない。気候だってそれほど違わない。出てくる地区、道路、街、山脈、川といった固有名も地図を探せば見つかる。

 今回、あらためて発見したのはスヴァルトベルグ山脈の近くの風景が、まさしく赤い岩石質の土だということだった。放棄された農場にやっと辿り着いて畑を耕し始めたが、かつての持主の孫が脱走兵としてあらわれて彼を下僕にしようとした。そこでマイケルは農場をいったん離れてこの山のなかにこもる。洞穴ぐらしをして、岩肌に咲いた花を両手に何杯も食べて胃が痛くなったりもする。それがこの赤土の山だ。

俺が欲しいのは緑と茶色ではなくて黄色と赤の大地だ。湿った土ではなくて乾いた土、暗色ではなく明色の土、柔らかい土ではなくて固い土だ。かりに人間に二種類あるとしたら、俺は違う種類の人間になろうとしている。手首を突き出してじっと見ながら、傷を負っても血は噴き出さずに滲み出すだけかもしれない、そう思った」(岩波文庫版、p106)

 1989年に初訳が出たとき、この本を「マジック・リアリズム」と評した人がいたが、これほど実際とかけなはれた読み方もないだろう。南アフリカという土地について、日本語読者が地理、歴史といった基本的な知識をもたない時期だったせいだろうか。背景や流れがよく分からないものに、このレッテルを貼って分類するのが流行りだったのか。
 
 それで思い出すのは、「マジック・リアリズム」という語について、ハイチ出身の作家エドウィージ・ダンティカが鋭い批判を述べていたことだ。ガルシア・マルケスの作品内で起きる出来事について、あれはカリブ海社会の「日常だ」と彼女は言ったのだ。このことは「リアリズム」という語について、誰の目から見て「リアル」なのかを考えるとき、とても示唆的だ。

思えば80年代後半という時代は、南アフリカだけでなく、世界を見る目が恐ろしいほど偏っていたのではなかったか。南アでは、1994年に悪名高いアパルトヘイトから解放され、2010年にはサッカーのワールドカップも開催された。日本語読者との距離感は明らかに変わった。でも、無意識に眠る西欧中心主義、名誉白人は名誉であるという意識は、はたして変わっただろうか? むしろ「グローバリズム」だとか「英語中心主義」の文脈のなかで、暗黙のうちに強化されてはいないだろうか?
 作品の背景にある暴力的な格差社会(不平等社会と呼びたい)も、ある意味、南アフリカ固有のものではなくなって、世界中どこでも、じつに身近なものになってしまった。

 今回の決定版のために訳文は再度見直しをし、訳者あとがきもここ10年間にえた新情報を盛り込んで、クッツェーという作家の全体像がこの作品を通しても透かし見えるようにした。この「決定版への訳者あとがき」には昨年のアデレードの作家宅訪問の成果も入れたのでお薦めしたい。

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写真は上から「国道1号線からの風景」(道の両側に必ずこんな金網のフェンスが張ってある。)。2枚目が「タウスリヴァーの駅舎」でマイケルが鉄道の土砂崩れに労働力として駆り出され、汽車でたどり着いた場所だ。3枚目が「スヴァルトベルグ山脈の道」、赤い山肌を見せてそそり立つ絶壁。4枚目がSecker&Warburg から1983年に出た原作の英国版ハードカヴァー。

2012/11/04

ダンティカについて── 毎日新聞「新世紀 世界文学ナビ」

毎日新聞「新世紀世界文学ナビ」にハイチ出身のフロリダ在住作家、エドウィージ・ダンティカについて書きました。よかったらぜひ。明日11月5日の朝刊コラムです。

「作家本人から」のコーナーには、彼女の最新エッセー集「Create Dangerously/危険を冒しながら創作する」からの抜粋訳が掲載されます。ハイチの独裁政権下で育ったダンティカならではの慧眼が感じられます。独裁はなにも、ハイチに限らないけれど・・・いまも。

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2012.11.18付記:毎日新聞のコラム内に数字の誤りがあります。ハイチ地震が起きたのは2011年ではなく、2010年でした。わたしの元原稿からの誤りがスルーして残ってしまいました。お詫びして訂正いたします。


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2014.2.10付記:ダンティカについて、ここで読めるようにしました。

2012/03/03

アニヴァーサリー・ブルースは歌えない

今月の「水牛のように」に詩を書きました。

 アニヴァーサリー・ブルースは歌えない

もうすぐ「3.11」から一年になります。でも、でも・・・

2012/01/14

アニヴァーサリー・ブルース/エドウィージ・ダンティカ

何周年記念日というのは傷つける。身体を残忍なほど無感覚にする。気持ちをしたたか殴りつける。大災害から何周年というのはとりわけ。わたしたちは死者のことを思い出すから、1人や2人ではない、何百、何千という人たちの、正確にいうと30万人の死を思い出すから。自分の痛みがやっと静まったと思ったちょうどそのとき、またよみがえってきて、日々のうずきから、いつの日か消えることを願っているそのうずきから、世界が終わると思えたあの瞬間に経験した苦しみへ、ずきんずきんと広がっていくから。
 
2年前、ハイチでは大地がぱっくりと口を開けて、建物は崩れ落ち、人びとが死んだ。軍隊が降り立ち、軍の展開は戦闘地区さながらだった。NGO組織もまた群れをなしてやってきて、総勢およそ1万から1.6万にまでふくらんで、ハイチは人口一人当たり、世界でもっとも多くのNGOを受け入れる国となった。世界中の権力者から、大小の規模にかかわらず、送られると約束された資金は、99億ドルにものぼったけれど、実際に手渡されたのはその半分にも満たない。

2年前、・・・

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「プログレッシヴ」に掲載されたエドウィージ・ダンティカの「Aniversary Blues」の出だしです。ハイチを大地震が襲ったのはちょうど2年前のことでした。それから1年あまりたった昨年の3月11日、日本にもカタストロフはやってきた。
 ダンティカのこの文章は、「ブルース」とタイトルがついているだけあって、原文はとっても音楽的、というか、ことばがたたみかけるようなリズムをもっていて、心に、ずんずん響きます。全文はこちらへ。

文末に、Edwidge Danticat is a fiction writer, essayist, and memoirist. In 2011, she edited “Haiti Noir” and “Best American Essays.” This is an excerpt from Edwidge Danticat's essay in the February 2012 issue
とありますので、本を入手すれば、完全バージョンを読むことができます。

2011/01/11

一年と一日のあとハイチでは──エドウィージ・ダンティカ

2010年1月12日、大地震がハイチを襲ってから明日でちょうど一年になる。
 世界中のニュースカメラがいっときカリブ海のエスパニョーラ島に集まり、世界中の人々の目が、その西側のちいさな国に集まった。あれから一年、復興は遅々として進まないという情報が入ってきたり、大統領選に有名ミュージシャンが立候補したというニュースが流れたり。

 ハイチ出身の在米作家、エドウィージ・ダンティカが「ニューヨーカー」に寄せた記事を紹介する。ハイチでは一年と一日、死んだ人の魂が水のなかに留まっているという。頭部分を少しだけ訳出する。興味のある方はぜひニューヨーカーのサイトへ行って、読んでみてほしい。なめらかな口調ながら深く心に響く文章が読める。また、YOUTUBE には地震直後にマイアミ・ヘラルドのTVに出て語るダンティカの映像もある。
 日本ではおりしも、ダンティカの長編小説『The Farming of Bones, 1998』の翻訳『骨狩りのとき』(佐川愛子訳、作品社刊)が出たばかり。2009年には「天才奨励金」と呼ばれるマッカーサー・フェローシップを受け、いまでは押しも押されぬ作家となったエドウィージ・ダンティカ、二児の母でもあるというところがまことに頼もしい。

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一年と一日           エドウィージ・ダンティカ
「ニューヨーカー」2011年1月17日号

 ハイチのヴードゥーの伝統には、死んだばかりの人の魂が川や小川にすべりこんで、水の下で一年と一日、留まっていると信じられている。その後、魂は祈りや歌といった儀式によって誘い出されて水の外へ出てきて、スピリットが生まれ変わるのだ。こうして甦ったスピリットが樹木に住みつき、耳を澄ますと、風のなかにその密やかなささやきが聞こえる。スピリットはまた、山岳地帯に浮かんでいたり、ちいさな洞穴や、横穴のあたりでうろついていることもあって、その名前を呼ぶと聞き慣れた声でこだまとなって返ってくる。一年と一日の記念祭は、それを信じてまつる家族の家では、必ず行わなければならない栄誉あるお勤めだ。ある意味それは私たちハイチ人を、どこに住んでいようとも、何世代もの自分の祖先につなぐ超自然的な連続性といったものを確かなものにするからだ。

 ハイチに数多くあるもののひとつ、この死という中断によって、二十万人の魂が昨年の一月十二日の地震のためにアンバ・ドロ(水の下)へ行ってしまった。しかし彼らの肉体は他所にあった。多くは家、学校、仕事場、教会、ビューティーパーラーの瓦礫の下に埋もれていた。多くはブルドーザーのパワーショベルによって共同墓地に放り込まれたまま。がらくたを集めて燃やす焚き火のように燃やされたものも多い。生者に感染症がうつるのを恐れて・・・。
「ハイチでは、人は決して死なないんだよ」子どものころ祖母たちが言っていたことばだ。わたしは変だなと思った。ハイチではいつでも人が死んでいたから。・・・

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 ハイチの地震からの復興を支援したい、という方がいらっしゃったら、大きな組織よりも、現地に直接かかわりながら活動している、ちいさな組織を支援することをおすすめします。
ハイチ友の会」「ハイチの会セスラ

2010/02/01

Brother, I'm Dying ── エドウィージ・ダンティカ著

2007年に出たエドウィージ・ダンティカの本です。いま書評を書いています。

 ダンティカはハイチで生まれ、12歳のときにニューヨークへ渡った人です。家族間ではハイチ・クレオールを話し、小学校からフランス語で学び、ニューヨークに渡ってから英語で学んだ人。移民した米国で、学校と暮らしのなかで獲得した、彼女にとっては三つ目の言語で書く作家です。

 ハイチで生きる人びと、ハイチから出て生きる人びと、の内実を知るには格好の書です。

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2月24日追記:アップされました。あるいは、こちらへ

2010/01/26

ハイチ支援

最近の新聞から、注目したい記事のクリッピングを載せます。

「これまでは、ハイチのNGOに海外から援助資金が落ちても、つながりの深い政治家たちに渡るだけだった。その政治家は、権力を維持することにカネを使い、社会基盤の整備には回さなかった」。ブレーズさんは政府が機能してこなかった理由を説明する。国際社会は今後、ハイチで誰と手を組むのか精査してほしいと注文する。」

ブレーズさんとは、ハイチの医学部に通う学生、心理学者といった面々で構成されたボランティア集団のメンバーだそうです。

詳しくは↓

http://www.asahi.com/international/update/0125/TKY201001250001.html 

この記事には:

「いまは海外から支援物資が次々と届くようになった。しかし、その担い手は国連や大規模NGO。ハイチ人の組織は影が薄い。SAJのメンバーは「ありがたいが、援助活動から疎外されている気がする」と口をそろえる。
 医薬品の提供を求め、病院を訪ねようとしたところ、警備の米軍に阻まれた。身分証を示しても許可してもらえなかったという」
とありました。
 
世界中の心ある人たちからの支援が、だれの手に渡り、どのように使われるか、寄付をする人は、集める人がどのようなルートを持っているか確かめ、自分の出す支援がどのように使われるか最後まで見守ることが大事かもしれません。

古くからハイチ支援の活動をしている団体が日本にも3つあります。

ハイチ友の会」「ハイチの会セスラ」「ハイチの会

注記/写真は「被災者に水を提供するボランティア(右)=ポルトープランス」記者、田中光氏撮影。

2010/01/19

嗚呼、ハイチ!!

1月12日(日本時間では13日)に起きた、ハイチの大地震は、その後、確認された死者の数も増えつづけ、救援がなかなか進まないというニュースが、たびたび流れています。

最貧国、最貧国、とメディアはくり返し流します。たしかにハイチは貧しいかもしれない。でも、それは1804年に黒人国家として世界で初めて独立した、そのつけ(フランス人が奴隷を所有できなくなった賠償金)を宗主国フランスに長いあいだ(100年間だそうです!)、払いつづけてきた結果でもあることは忘れられがちです。

 近年にいたっては、6年前に独立200周年を祝った直後、ブッシュ政権のアメリカが、旧宗主国フランスと手を組んで仕掛けた(といっていい)クーデタによって、ハイチ国民によって民主的選挙で選ばれたアリスティド大統領が、中央アフリカへ拉致されるように連れ去られたことの詳細は、あまり知られていないかもしれません。(アリスティド大統領は、先の賠償金をフランスに返還要求しようとした。)

 2007年の情報ですが、大手メディアには流れなかった情報があります。2004年のクーデターの詳細と、その後の現地情勢を調査したランダル・ロビンソンが、そのときの詳細をレポートしています。これはいまから見ても、一読、一見にあたいします。

 また自分の訳した本を、この機に乗じて宣伝するのも、ちょっと気がひけるのですが、ハイチ出身の作家、エドウィージ・ダンティカが書いた『アフター・ザ・ダンス』は、この国のおおまかな歴史や文化といった背景を知るには、とても役に立つ本です。

地震から1週間がたとうとしています。日本にいて、パソコンに向かっているだけの私には、ほかになにか役立つこともできそうもないので、はやり、非力ながらささやかな情報発信だけはしたいと思い、紹介させていただきます。

2008/05/09

エドウィージ・ダンティカとエムリン・ミシェル

 エムリン・ミシェルのこのアルバム「Cordes & Ame」で、びんびん心に響くハイチクレオールの歌を聞いたのは、エドウィージ・ダンティカの『アフター・ザ・ダンス』を訳していたころだから、もう5年も前になる。ほかにもブックマン・エクスペリアンスやブッカン・ギネ、ラムといったミュージシャンのアルバムを手当たり次第に聴きながら、アフリカン・アメリカン文化の核ともいえるカーニヴァルに思いをはせた。

 エドウィージは2002年1月の初来日のときや、翌2003年8月に結婚1周年記念旅行をかねて、連れ合いのフェドさんといっしょに再来日したときは、まだ、初々しさの残る若い女性といった感じだったけれど、いまでは3歳の娘の母親だ。最近の写真をみると、なかなかの貫禄ぶりを思わせる表情に変わってきて、頼もしいかぎり。

 2003年夏には、来年がハイチ独立200年のお祝いだといっていたのに、年が明けるとすぐに、またしてもクーデター。アリスティド大統領は国を出て、国内はほとんど無政府状態に近くなった。
 エドウィージがニューヨークの父母のもとへ行った12歳まで、彼女を育ててくれた牧師のジョゼフおじさんも、なんとしてもハイチでがんばると主張しつづけたけれど、ついに米国へ渡った。ところが、81歳の彼の健康状態はすこぶるわるく、移民局の心ない対応であっけなく死んでしまった。翌2005年にエドウィージとフェドに娘のミラが誕生して、それを待っていたかのように、エドウィージの実父もまた肺の病気で他界する。  
 この間のことをづづった自伝的な作品「Brother, I'm Dying」をいま読んでいる。昨年、本が出たときすぐに買ってはあったのだけれど、ほかの仕事にかまけて、1章を読んだだけで「積読」の棚に差し込まれていたのだ。

 1789年のフランス革命からわずか5年後に、世界で初めて建国された黒人共和国ハイチはいま、皮肉なことに、世界の最貧国となってしまった。コロンビアから米国へ流れる麻薬の中継地として、軍や警察がその利権に絡み、利益は一部特権階級の懐へ。紛争地でみるおなじみの構図。背後に見え隠れするのはまたしても、例の超大国の二重外交。
 来日したときにエドウィージが、最近の日本のことを聞いて、眉曇らせながらいったことばを思い出す。「ハイチは貧しいけれど、人びとは毎日の暮らしを精一杯生きている。自殺する人はいない」

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追記:最近のインタビューで、彼女は「自分の娘の孫の世代のことを考えたら、オバマを支持する」と語っていた。自分が乗っている小型車、Toyota Echo に「Obama Yes」というステッカーを貼って・・・。