2020/06/30

くちなし読書

 桐子細工のグラスに西洋クチナシの花を一輪投げこんで、部屋のすみに置いた。梅雨時の湿気の多い曇天をあおぎながら、胸いっぱいにクチナシのかおりを吸い込む。三半規管が気圧の影響を受けて、水平感覚がちょっと危うい。そのくらくら感は家のなかにいるかぎり、まあ、楽しめる程度のものだ。くらくらとクチナシのかおり。

 少し前にいただいたまま机上に積みあげられている本の山から、美しい装丁の一冊を引き出す。カバーをはずしてあるので、表1と表4に文字がない。背中に小さく『小説版 韓国・フェミニズム・日本』(河出書房新社)とあるだけ。そんな装丁がとてもすてき。短篇をひとつ読む。この本の編集責任者、斎藤真理子さんが訳した「追憶虫」──SFっぽいウィルスの話なのに、ちょっと泣かせる優しさがある。本を読んでいるうちに外は冷たい雨になって。

こんな雨の日の東京の午後に詠む。

  名にし負わばマンゴー通りのエスペランサ海をわたって日本語に住む

 コロナはいっこうにおさまる気配を見せない。騒動が始まって、まだ半年だものな。こうして引きこもり読書生活はまだまだ続くんだろう。手元にある歳時記をみると「くちなし読書」という季語もあるし ← 嘘!


2020/06/25

今回もまた映画の話なのだ──『Waiting for the Barbarians』

シーロ・ゲーラ監督がJ・M・クッツェーの出世作『Waiting for the Barbarians/蛮族(夷狄)を待ちながら』を映画にとる、とっている、とった、という情報はずっと追いかけてきたが、映画の予告編がネット上にアップされていたので、シェア!




昨年のヴェネチア映画祭のプレスコンファランスで、出演した俳優たちと監督がならんで質問に答えているようすも、YOUTUBEにアップされていたので、備忘のためにここにシェアしておこう。



ポスターも。

この作品の映画用シナリオはずいぶん前に(2014年に)UCT出版から本として出ている。80年代に第二作『その国の奥で』がDust として映画化されたとき使われなかったシナリオといっしょに。そのことはここでも書いた。
 
とにかくクッツェーという作家は映像世界に深く影響されながら作品を書いてきたことだけは確かだ。十代に写真家になろうと思ったくらいなのだから。イメージという点では写真と映画を区別する必要はないと、あるインタビューでみずから語っているほど。

2020/06/09

今日の午後は映画「奇跡の丘」を観たのだ

 今日の午後は、ピエロ・パオロ・パゾリーニ監督の映画「奇跡の丘」をじっくりと観た。ジョン・クッツェーが若いころからくりかえし観てきた映画だ。

 7年前にJ・M・クッツェーの『青年時代』の翻訳のためにDVDを買って観たのだけれど、そのときは「ふ〜ん」と思っただけだった。だが、クッツェーが着々と書き進めた「イエスの三部作」の最終巻「イエスの死」を昨年10月に英語版で読んだとき、この映画は絶対もう一度観なければと思った。今日それを果たして、なるほど、これか! と唸ってしまった。

『青年時代』によれば、これは青年ジョンがロンドン時代に政教一致の南アフリカで教育を受けた自分が、それまでに心身ともに染み込んでいるキリスト教文化の土埃を足から振り払ったつもりが、そうではなかった、最後に近いシーンでキリストの両手に釘が打ち付けられる一瞬一瞬に身体がぶるっぶるっと震えて、見終わったときは不覚にも涙が出てきた、という体験として述べられていた。彼が眼鏡を初めて作って観た映画でもあった。

パゾリーニの映画は、聖書のなかでもいちばん物語性の強い「マタイによる福音書」に基づいていて、聖書の有名なエピソードが次々と描かれる。音楽はバッハだ。マタイ受難曲や、耳慣れた曲がいくつも聞こえてくる。また、最初に聞こえてきたのはアフリカンアメリカンのゴスペル歌手、オデッタの「ときには母のない子のように」で、ああ、この映画は1964年製作だったんだとしみじみした。

 今回とりわけ印象に残ったのはイエスの母親役を演じた女優だ。なんと、パゾリーニ自身の母親だという。息子を磔にされる老女の悲しさが、震える全身から伝わってくるのだ。『鉄の時代』の主人公エリザベス・カレンの心象とつい重ねてしまいそうになった。

 パゾリーニの映画についてはこのブログでも何度か書いてきたが、とくに2017年にミラノで行われた映画祭のときにクッツェー自身が映画評を書いているのを再録しておく。元ポストはここ。

「弱き者と抑圧された者に寄り添うマタイ伝を忠実に映像化しようとした、イエスは超人的に描かれる、それはパゾリーニのイエス観にもとづく、神話を再現しようとしている、当初撮影が予定されていたパレスチナはイスラエルの意図により聖性が取り去られていて、南部イタリアに変更された、そこは先進国のなかの第三世界であり抑圧された土地だった、人々の慎みは聖地がもっていたものと同じである、その慎みと聖性は、現代のパレスチナのように、失われていくものだった、パゾリーニはのちにそれを嘆くようになる、パゾリーニはこの映画に中世の世界観を持ち込む、すなわち光は世界を照らすというものである、ゆえにこの映画の人々は逆光や真上からの光線により、造形的に正面から絵画的に描かれる、イコンのよう映像なのである。」(翻訳は土肥 秀行

「イエスの三部作」との関連はまた別に書こうと思う。