Happy Birthday, John Coetzee!
今年は秋ごろから、軽装で読みやすいクッツェー作品が書店にならびますよ〜
自伝的三部作『少年時代』『青年時代』『サマータイム』を、順次ペーパーバック📚にするべく絶賛みなおし中🖋️ 白水社🐓Uブックスです!
ご期待ください!
esperanza's room by Nozomi Kubota
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ネット上にあふれる「気分はどれもこれもダウナー情報」に、自室にこもっていると精神衛生上よくないと思って、仕事に区切りをつけて出かけた。神保町へ。すずらん通りへ。
まず文房具の老舗ミヤタで、入り口付近に並べてあった猫の絵の「こびんせん」を買う。それから通りを少し行ったティールームTAKANOで、ミルクティー用のセイロンティーの大袋を買う。シナモン入りのミルクティーでこの冬は越せそう! そしていよいよお目当ての文房堂へ。
あれ、見慣れたファサードがない、、、と思ったら足場とシートですっぽり包まれて隠れていた。壁のお化粧直しなのね。櫓をくぐって店内へ。まっすぐエレベーターで3階の文房堂ギャラリーカフェへ向かう。
コレット・ドゥブレ淡彩画展
翔びたつ女たち
一枚一枚は画集で見るよりもちろん大きく(当たり前!)発色が鮮やかで細やかで(当然!)美しい。それでも不思議なことに、思った以上の差異は感じない。画集の制作プロセスで印刷にどれほど心を砕いたかに思いを馳せる。
考えてみると、これは有名な西洋絵画の作品のなかから翔びたつ女たちを描いている(女たちを翔びたたせている)わけで、作品中の人物の存在感(激しい動き)が見るものにまっすぐビシッと刺さる。たとえばデューラーの「メランコリア」とか⎯でも、日本の文化って(とすみません、ここは一括りにするけど)淡いと間のたゆたいが好きだし、描かれたものの奥を読み取るのが好きだから、抽象的なもののほうが受け入れやすいのかもしれない。だって「翔びたつ女」がこっちへ向かって一直線に飛んでくるのはオッソロシイ🤭、まあそういう女たちには画集のなかにいてもらって。。。壁にはもう少し穏やかなものを。。。と考える人の方が多そうだ。おなじ動きでも横を向いているのは大丈夫なのかも😀。この理由づけは確かにわかる。
お茶をいただいて、撮影OKとあったので、パチパチ何枚か写真を撮って、エレベーターで1Fへ戻る。そこで古いカメラの凸凹のついたバースデイカードと、「水仙月の4日」というタイトルのマスキングテープを買う。
今年もよろしくお願いします。
いったい何が待っているのやら、あたりを見まわしても、希望がもてそうなことが、残念ながら少ない。でも、まがりなりにも、ことばを吐く人間が、「絶望」なんて、恥ずかしくて口にはできない。
諦めずに日々を迎えることに希望があるとしたら、みずから光を発していくしかないのだろうと、ハン・ガンのスピーチを思い出しながら考える。遠くにあるもうひとつの光を見つけて、そこへたどり着くための細い糸をのばしつづけること。
フランスでなくても、北海道の積雪地帯からやってきたわたしの記憶では、お正月はいつも雪が降っていた。おさないころは、お雑煮を食べたあとはやることもなくて、外へ出て降りしきる雪のなかにぼうっと立っていたりした。降る雪は見ていて飽きない。
中学生になると、1月2日はスキーの板をかついで、隣町のスキー場へ行ったものだ。スキー場といっても名ばかりの、林のなかに開けたただの斜面。もちろんリフトなんかない。汗びっしょりになって横向きに斜面を上り、あっという間に滑り降りる。
スキーはたったひとりで行うスポーツだ。隣にいたと思った人が、数分後には、いや、数秒後には、はるか彼方だ。みんなでワイワイという感覚はない。そこが好きだった。群れない。つるまない。村社会でアウトサイダーとして生きた家族のメンバーにはぴったりだった。ちょっと練習すれば、どこへでも自由に行ける。高いところからは遠くが見渡せる。この俯瞰する感覚はたまらなく好きだった。女の子にスキーなんかさせて無駄だ!と言わんばかりの周囲の目にも負けずに、雪国生まれならスキーくらいできなくちゃ!と母は中学生のわたしに板を買ってくれた。成長盛りの子供に大きめの服を買いつづけた母が選んだスキーがまた、ひどく長くて苦労したけれど💦
学生のころだったか。ひと滑りしたあとバスに乗って帰路についた。夕暮れ近く、つんとくる冷気のなかを走るバス。窓ガラスの向こうに、山際を紅に染めて沈む夕陽。バスを降りるとチラチラとまた雪が降ってきて、ストックを握る赤い毛糸の手袋にふわりと落ちる、雪のひとひら、ひとひら。目を凝らすと結晶がいくつか見えた。バス停のぼんやりした明かりのなかでも。雪の記憶。おぼろげな記憶のトンネルを抜けて、いまでもくっきりと結像する雪の記憶。
そして2026年1月1日に東京の郊外で、全身に光を浴びて咲くパンジーの花たち。
冬は大切な時間をはこんでくる。
窓を開けると鼻につんとくる冷気、遠く林の向こうに沈む夕日。
ハン・ガンの『光と糸』を読みはじめた。これは読むタイミングを選ばなきゃいけない本だと、手にしたときから思っていた。だから、しばらく机の上に積まれていた。書物の置かれた場所が、時おり光って見えた。でも漆黒のカバーに包まれてじっと待っていてくれる、それはわかっていた。だからこそ読む側の心身の状態をていねいに準備したのだ。
ようやくページを開く。これは冬の冷気、いや、寒気の訪れとともに読む本だという直感は、あたっていた。
最初の「光と糸」を読んで⎯ノーベル文学賞受賞記念講演⎯8歳のハン・ガンが書いた文字の写真を見て、喉のあたりに込み上げてくるものに声をなくす。他にも心に染み入る文章がいくつもあって、ある種の至福感に打ちのめされる、響いてくる。
「人間性の日溜まりと血溜まりと。その二つが常に隣り合っていて、どちらかへ行こうとしたらもう一つも絶対に通らなくてはいけない。ハン・ガンの小説にはそんな特徴がある」と、あとがきで訳者は書いている。
ノーベル文学賞を50代で受賞したハン・ガン。年齢ではなくて、2024年の世界がこの人を必要としたんだ、という訳者のことばに納得する。
読みすすむにつれて、斎藤真理子の日本語で、この本を読める幸運をしみじみ思う。
過去が現在を助けることはできるか?
死者が生者を救うことはできるのか?
2025年の必読書、おすすめです。主観のみの読書感想文、コバヒデみたいだな😅、でもいいのだ。
***
2025.12.30追記
ハン・ガンの作品を読むときのキーワードは「問い」だ。
今日はクリスマス!
幼いころは両親や兄といっしょに教会へ行ったクリスマス。
人前で話をするのが苦手なのは、このときの体験のせいだ!
もうクリスマスに教会に行く習慣はないけれど、書籍みほんが2冊いっぺんに届いて、これはクリスマスプレゼントだな思うことにした🎄🎁🎄🎁🎄🎁
一冊めは、久野量一・千葉敏之・真島一郎編『生を見つめる翻訳⎯世界の深部をひらいた150年』。東京外国語大学出版会から刊行された33のエッセイ/論考と4つのインタビューが入っている鈍器本。分厚い、重たい、内容がすごい!わたしのエッセイ「J・M・クッツェー翻訳の長い旅」は、原稿を一年以上前に渡してあったので、新刊のクッツェー本の情報が入ってない。ちょっと残念。ゲラは忘れたころに断続的にパラ、パラっと送られてきて、そのたびにハラ、ハラっとお返しした。大きく手を入れることなく編集校閲の指摘部分だけ直した。
目次では、沼野恭子さんと宇野和美さんにはさまれて、しごく幸せそうな、ひらかなの名前が並んでいる。
****後半には『イジェアウェレへ フェミニスト宣言、15の提案』も入っていて、アディーチェの考えがエッセンシャルな言葉で簡潔にまとめられている。
今回あとがきにも書いたけれど「前半は、フェミニズムってそういうことかと理解するための基礎入門編。後半は、家事や育児ケアなど具体的な場面を想定した応用実践編」という組み合わせになっている。
こんな混迷と停滞の時代だからこそ、そもそもフェミニズムってなんだったっけ?と初心に戻ってみるのも悪くないはず。16歳くらいから読めるフェミニズムの本です。
これも記録のために書いておく。
| 写真1 |
4月18-19日にまずウェスタンケープ大学で開かれたコンフェランスの記録が、雑誌 English in Africa Volume 52, Issue1-2 にアップされている。発表された論文のなかでは、キャロル・クラークスンとハーマン・ウィッテンバーグのRe-readingDusklands、デイヴィッド・アトウェルのDusklands and the Postcolonial Turn あたりがおもしろそうだ。
クラークスンとアトウェルはオランダやイギリスの大学で教えていたが、現在はケープタウンに戻っている。この常連たちにつづいて、若手研究者の論文がならぶ。概略はそれぞれのリンク先で読めるが、本文は購読手続きが必要だ。
| 写真2 |
だが出版元のレイバン社はそれを採用せずに、田園風景をぼんやり遠くから描いた絵を使った。1974年の南アフリカの読者層を考えると、あるいは、検閲制度を考えると、どういうことだったのか、あらためて考えざるをえない。というよりも、植民地主義をどう考えるか、クッツェーという作家の仕事を、50年という時間の経過から考えると何が見えてくるか、ということなんだろう。
1974年、アパルトヘイト政策が開始されて26年、クッツェーは34歳。
1994年、アパルトヘイト撤廃、作家54歳。
2024年、『ダスクランズ』発表から50年、作家84歳。
アデレードで開催されたコンフェランスは、もっぱら文学理論上のテーマなどでクッツェー作品を分析し論じる会だったようだ。アデレード在住のクッツェーは出席者たちに、3年後に『その国の奥で』50周年なんてのはもうやらないでほしい、と釘を刺したとか。ふ〜ん、やっぱり。62歳でオーストラリアへ移住したクッツェーが、自分はそれほど南アフリカから遠ざかったわけではない、と言ったのをまた思い出してしまうな。
先日はベルギー、オランダ、スペイン、ポルトガルなどを訪ねた長旅の最後に、南アフリカを再訪して、ステレンボッシュ大学で11月3-7日に開催された Nobel in Africaで
11月1日、世田谷文学館で「マッチョなアフリカに「愛はくる」か?」という、我ながらどこから湧いてきたんだろ? と思うようなタイトルで話をした。記録のため書いておきたい。
5回の連続講座で共通のテーマが「愛」。ええっ? そういうのめっちゃ苦手なんだなあ、と一瞬思ったけれど、他の4人の講師陣を眺めやると、ほぼ男性で、私とほぼ同世代で、となると「愛」は舌に美味なる大きなテーマに違いない。苦い愛も含めて全体には愛への讃歌に満ちた作品が登場するんだろうと想像がついた。(ちがっていたら、ごめんなさい!)アフリカンの文学をどう関連させればいいの? 困ったな、と思っているうちに、藪から棒に浮かんだのが「マッチョなアフリカに「愛はくる」か? こないよな〜〜」という脳内会話だ。後ろの部分はもちろん省いて、それでいくことにした。
最初はこれまで訳してきたアフリカンの文学全般について、思いつくままにあれこれ話をするつもりだった。ところが、夏にJMクッツェーの自伝的三部作『少年時代』を再読しはじめて、頭はすっかりケープタウンとヴスターに行ってしまった。2011年のケープタウン旅行の写真などひっぱり出して眺めているうちに、たった1.5時間にまとめるなら、これだけでめいっぱい。そこで朗読は『少年時代』の第一章と、クッツェーの愛してやまないカルーの農場フューエルフォンテインがベースとなった短編「ニートフェルローレン」(『スペインの家』所収)からとした。当然、話はヴスター時代の少年ジョンと農場生活のことにしぼられてくる。『少年時代』第一章は、田舎町のヴスターへ引っ越して、狭い家に閉じ込められたくない、と思った母親が、中古の自転車を手に入れてなんとか乗りこなす話。ところが「女は自転車になんか乗らないもんだ」という周囲の意見に加勢して、少年は父親といっしょに冷やかす側にまわってしまう。ずっと悔いていたのだろうか、フェミニズムからクッツェー自身が学んだ成果なのか、とにかくそれをなんとか贖おうとすることばでこの章は終わる。ちなみに『少年時代』を書いていた作家は40-50代だ。自伝的三部作をまとめて訳出した2014年からすでに11年が過ぎた。2021年には、写真家になりたかったクッツェーが十代に撮影した『少年時代の写真』も日本語版が出版された。そこに岩だらけの平地を背景に、貯水地で水を飲む子羊の写真がある。これがいい。じっといつまでもながめていたくなる写真だ(このブログ最初の写真)。キャプションに「フューエルフォンテイン、クッツェー家の農場、カルーのプリンス・アルバート通り」とある。
そうか、『マイケル・K』の主人公がめざしたプリンス・アルバートは、フューエルフォンテイン農場のある土地のことだったのか! 母親が幼いころ過ごした農場へ連れて帰ってくれ、そこで死にたい、と懇願した。そこでマイケルは手作りの手押し車でプリンスアルバートを目指す。プリンスアルバートとは、クッツェーの愛する農場がモデルだったのだ。
というわけで文学館での話は「母親への愛(憎)と農場への愛」が中心になった。「愛」というと、きっと男女のロマンチックな愛を思い浮かべる人が、とりわけ同世代には多いことだろう。そこをちょっと「外した」のは無意識だったのか、意識的だったのか。おまけに、クッツェー自身が『サマータイム』で、死んでしまったジョン自身に、自分は文学とか音楽とか詩なんてものは「女々しい」とされた「マッチョ文化」が優勢な社会で育ったんだ、と言わせている。だから。 マッチョなアフリカに「愛はくる」か?⎯という問いに率直に答えるなら、どうかな、来ないな、マッチョなまんまじゃ無理だろな、日本だって同じだけどな、と思いながら話をしたのだった。「アフリカで癒されたい」と「マッチョ」をポジティヴな意味にとった人には期待外れだったかもしれないけど😅。とにかく無事に終わってよかった2025年の秋のイベントでした。お世話になった世田谷文学館のスタッフのみなさん、わざわざ足を運んでくださった大勢の方々、どうもありがとうございました。
ふらりと散歩に出ると目に飛び込んでくる、赤、紅、橙、黄、浅緑、深緑、濃茶など、あざやかに色づく樹木たち。今年は紅葉がじつに美しい。目から胸に、その奥に、深々と染みる色たち。そして今日、すてきな本がとどいた。
『翔びたつ女たち コレット・ドゥブレ淡彩画集』
フランスの画家コレット・ドゥブレ Colette Debléは1944年1月8日生まれだから、現在81歳。美術にうといわたしは初めて知る名前で、こうして画集となった絵も初めて見るのだけれど、なぜか、これ、好き、この透明な色合い、知ってる! と思うのだった。勝手な思い込みであることは重々承知で、そう言いたくなる衝動を抑えきれない。ラヴィLavis(淡彩画)というジャンルだそうだ。
最近は屋外で本の写真を撮ることもなくなっていたのに、これは冬の夕暮れ間近かのベランダで、パチリ、パチリ、パチッ!と素人写真を撮った。中身も1枚だけ。作品は右ページに、元になった絵が左ページにあって、これも絶妙。デューラーの「メランコリア」もあったり。ちなみに右の写真の見開きページの元の絵はフランソワ・ブーシェの「ユピテルとカリスト」。(追記:この本に寄せられた石川美子氏の文「視線は存在を自由にする」の最後に⎯ドゥブレによる「出典」メモには「ディアーナに化けてカリストを誘惑するユピテル」と書かれている⎯とある。ふうむ🤔)
カバーの折り返しに引用されていることばを少し。
美術史のなかの女性の表象をめぐる造形的なこころみ。
枠から出た女性たちを見ること。
この本に使われた原画が神保町のギャラリーで展示される予定だなんて、いまからワクワクしてしまう。どれほど美しい本か、実物にまさるものはないので、ぜひ書店で手に取ってみてほしい。『翔びたつ女たち』11月20日発売です。
昨日でおしまい──だろうか? 9月に入って少し暑さが遠のいた感じもしたけれど、昨日まではまた酷暑と同じ気温。35度とか36度とか。天気予報によれば、これからもまだ日中30度超えの日がちらほらありそうだから、ほんとに終わるのは月末か──去年はどうだったかな? と記録を引っ張り出してみると、9月23日まで熱帯夜が続いていた!とあるので、今年は数日だけ早く涼しくなったわけだ。
去り行く夏、はなかなか去らなかったなあ、という実感で迎える9月中旬。
| 歩いてみたい波打ち際 |
グアダルーペ・ネッテルの短編集『赤い魚の夫婦』宇野和美訳も現代書館から出版されたのだった。もう4年にもなるのか! あれは鮮烈な作品だった。それに続く『花びらとその他の不穏の物語』も。
そして昨日は、待望のマーガレット・アトウッド『ダンシング・ガールズ』(白水社)が届いた。言わずと知れた岸本佐知子訳の1989年初訳の新装改訳版だ。この作品が私が読んだ最初のアトウッドで、日常のなかになんとなく不穏な空気が漂っていて、とにかく面白かった。そしてその感覚と記憶があとあとまで尾を引いた。
| 鳥は踊ってる? |
ずいぶん前になるけれど、シャルル・ボードレールとドストエフスキーの生年がおなじ1821年だね、というと、それがどういう関係があるんですか? とほぼ同年代の優秀な編集者から真顔で言われたことがある。その時わたしは絶句状態だったけれど、当時の歴史や文化の交流を視野に入れると、今なら、絶大な関係があるでしょ、と返せるだろう。フランスやロシアの文学史に疎い私にだっておぼろに見えるものがある。文化は一国内ではおさまらない。横のつながりを想像しなくちゃ。(自分を含め近代的な「国民文学」で作品を見てきた後遺症からの解放ね。)
19世紀ロシアの貴族たちがフランス文化に憧れたことは超がつくほど有名で、高校時代に読んだトルストイの『アンナ・カレーニナ』の日本語訳には、登場人物たちの会話にフランス語のカタカナルビがふってあった。これはトルストイが生きた時代、ロシア貴族たちはフランス語で会話をしていたということを示しているわけで、それほどフランス文化への憧れは強かったのだろう。であれば、フランス文学にロシア文学者が憧れないわけはない。ドストだって作家になる前、バルザックの作品をフランス語からロシア語へ翻訳しているそうだし。
同時代作家たちを横のつながりで眼差す視点は、とても大事なんじゃないか、(作家同士の交流が直接はないとしても)とアトウッドとクッツェーの生年を確認して、あらためて思ふのだ。
他にもいただいた御本があるんだった。ありがとうございました。
仕事机に向かうと、左手の窓ごしに、朝顔の葉が作るすだれが見える。風に揺れる葉むれが、疲れた目を休めてくれる。今年は本当によく茂って、光の透かし模様が楽しめた。
| 8月17日の葉むれ |
| 7月27日の花たち |
そして3週間後の今日、外気は午後4時で34度という暑さに、さすがの朝顔たちも開花を終えて、ちらほら、ちらほら、風に揺れる黄ばんだ葉っぱを落としていく。緑色の濃淡に黄色が混じって、葉っぱの透かし模様がきれいだ。
たくさん黒いタネを実らせながら、今年も行く夏を惜しんでいる朝顔。ニンゲンのほうは「惜しんでいる」とはとてもいえない暑さだけれど、植物は正直。精いっぱいタネを作って、来年まで、生命の眠りにつくのだろう。
挿絵に仔山羊と鶏がいるんだよ〜〜泣ける😭!と「その子」は思っています。じつはとってもセンチメンタルだから──💦💦 可愛い仔山羊の挿画を描いてくれた小河奈緒子さん、ありがとうございました。
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世代交代で「海外文学の森へ」からは抜けましたが、このところあちこちで翻訳が出るようになった「アフリカン文学」について、どんどん紹介していくつもりです。どうぞご期待ください。
1週間ほど前の写真とくらべてみてください。あれから大きな葉がぐんぐん広がり、何度も束になってベランダの天井を突き抜けたいとばかりに伸びました。そこで束ごとくるっと旋回させて下へさげたり、横へ向けたり。
←するとこんな感じになりました。
今朝は光とは反対側に向かって、めずらしく花首を思い切り伸ばして一輪だけポツンと咲いてるのがあって、なんだか不思議な感じです。
***
先月のことになりますが、日経新聞(6月27日)に『水脈を聴く男』の書評を書きました。著者はオマーンの作家ザフラーン・アルカースィミー、訳者は山本薫、マイサラ・アフィーフィーのお二人、版元は書肆侃侃房です。
オマーンってここか!と地図を見ながら読みました。
すでにあちこちに書評や、来日した作家のインタビュー記事が掲載されているので、詳しい説明は省略します。
すごく面白い作品で、おすすめです!