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2022/11/16

J・M・クッツェー絶頂期の短篇集『スペインの家:三つの物語』発売です

 J・M・クッツェーの絶頂期に書かれた三つの短篇が日本語になりました。『スペインの家:三つの物語』(白水社 Uブックス)です。予定より少し早く11月24日発売で、版元サイトに書影も出ました! この本の原書を入手した経緯はここでお知らせしました。

白水Uブックス, 2022
 収録された「スペインの家」「ニートフェルローレン」「彼とその従者」は、クッツェーの移動期にあたる2000年から2003年に書かれた短篇です。

「スペインの家」が発表されたのは2000年、『恥辱』で2度目のブッカー賞を受賞したばかり。これから移り住む家を、中高年になった男性が結婚する相手に喩えて、あれこれ考える話です。移民先の土地の人たちとの関係はどうなるか、なんてことも描かれています。

 次の「ニートフェルローレン」は62歳まで住んだ南アフリカという土地(農場)は、こんなふうに使われることだって不可能じゃなかったはずだ、と残念に思う気持ちがじわじわとにじみ出てくる作品。そして最後の「彼とその従者」はノーベル文学賞受賞記念講演で、本邦初訳です。

 どれも、飾らない端正な文体で、サラサラと読ませますが、最後の「彼とその従者」はなかなかの曲者です。デフォーの『ロビンソン・クルーソー』をベースにしたポストモダンぶりを楽しんでいると、だんだん「?」となってくる。既知の作品世界の要素をちりばめながら、作家個人の体験へと読者を引きつけていく寓意的な物語なんです。クッツェーはこの短篇を、2003年12月にストックホルムで朗読しました。

 J・M・クッツェーがノーベル文学賞を受賞したのは、南アフリカのケープタウンからオーストラリアのアデレードへ住まいを移した翌年のことです。

 クッツェーという作家がどんな作品を書いてきたか、ケープタウンからアデレードへ移ってどう変化したのか、彼の作品は単なるオートフィクションじゃないのだということも含めて、「訳者あとがき」で謎解きをしました。この作家の曲者ぶりを、ぜひ確かめてください。
 謎解き解説のタイトルにした「大いなる思想と寓意の海へ」は編集者のSさんの発案で、「訳者あとがきに代えて」使わせていただきました。

Penguin 版、2004
 さてさて、Uブックスのカバー(左上の写真)はジョン・クッツェーの渋いプロフィールですが、もうお気づきでしょうか? ここには作家名:J. M. Coetzee に含まれるアルファベットがすべて使われているんです。それも変形を重ねてデフォルメした文字群で描かれています。

 ノーベル文学賞を受賞した翌年にペンギンから出た、おしゃれな、ざらっとしたベージュの布張りの本に使われていたプロフィール(右の写真)です。これは2006年9月に初来日したジョン・クッツェーから何人かの人が、お土産にプレゼントされた本でもありました。

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追記:2022.11.18──Uブックスの帯をとった1冊とつけたままのものを並べて写真に撮ってみた。それをアップして、気がつきました。Penguin版のオリジナル・デザインと微妙に違うのです。襟のところが、、、ふむむむ。

 



2022/09/01

J・M・クッツェーの短編集『スペインの家──三つの物語』が暮れに出ます!→11月になりました。


すっかりご無沙汰してしまったブログですが、facebook  twitter を見る時間が増えて、気がつくと元気が削がれている。情報は早いし貴重な意見もあるのだけれど、パッチワークのような細切れの情報ばかりだと、変に心がすさんできます。というわけで、バランスを取るために、古巣に戻ってきました。


 訳書としては初訳となる『スペインの家──三つの物語』は、原タイトルが Three Stories、オーストラリアのText Publishing から2014年に出版された、おしゃれで、小さな本です。

 この年、アデレードで11月に開かれたシンポジウム、「トラヴァース、世界のなかの J・M・クッツェー/Traverses: J.M.Coetzee in the World」の2日目に、先行発売されたのをわたしもゲット。そのときのことはここに書きました

 あのシンポジウムからすでに8年、あっという間のようにも感じられますが、その8年のあいだにどれほどたくさんの出来事があったか、とりわけこの土地で(日本で!)起きたことについては、思い出すだけでほとんど目眩がしそうです。

 さて、『スペインの家──三つの物語』には、タイトルの通り三つの物語が入っています。日本語訳のタイトルになった「スペインの家」、そして「ニートフェルローレン」と「彼とその従者」ですが、それぞれにクッツェーらしく、淡々と、それでいてペーソスに溢れ、ノーベル文学賞受賞記念講演「彼とその従者」にいたっては、ロビンソン・クルーソーの話を背後に置いて、と思っていたら、どこへ連れて行かれるのか?という展開で、十二分にひねりの利いた物語になっています。

 白水社から12月に刊行予定です。どんな装丁になるのか、とても楽しみ!

2021/10/05

『J・M・クッツェー 少年時代の写真』のカバーも

 白水社のサイトに 訳書『J・M・クッツェー 少年時代の写真』のカバーもアップされました。『J・M・クッツェーと真実』と同時発売です。

 書籍内容の説明もより丁寧なものにバージョンアップ。アマゾンなどネット書店のサイトにもカバー写真が出ました。

 さあ、これで2冊同時発売の準備はほぼすべて整いました。2冊ならべて見ると、感無量です。15歳の少年ジョンが撮影したセルフ・ポートレートと、2014年にアデレードでわたしが撮影してきたクッツェーの写真をもとに、画家に描いてもらったクッツェーのポートレート。2枚の写真のあいだに約60年の時間が横たわっています。

「真実があらわになる瞬間に立ち会うこと、それに興味があったんだと思う。半分は発見されるが、もう半分は創造される瞬間に」 ──J・M・クッツェー

 作家になる前、ジョン・クッツェーが写真家を目指していたことが、J・M・クッツェーという作家の創作方法の原型になっていた。それがこの2冊を同時に出すことで明示できたと思います。

2021/09/01

エッセイ集『J・M・クッツェーと真実』と訳書『少年時代の写真』

 日本語で書かれた単著としては初めて(と思われる)クッツェー論、というか、クッツェーをめぐるエッセイ集が出ます。書籍情報がネット上に載ったので、あらためてアップします。

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 以前、この夏は訳書2冊、自著2冊を抱えて、と書いた。次々とやってきては返送されていくゲラたち。

 1冊目のメモワール『山羊と水葬』のゲラは、2校まで終わって戻したところ。でも、まだまだ加筆訂正が入りそうなので、3校待ち。これは書肆侃侃房から刊行の予定だ。

 他に、訳書が1冊、自著が1冊。

  J・M・クッツェーの『少年時代の写真』

  エッセイ集『J・M・クッツェーと真実』


 2014年に発見されて2017年に一部だけ公開され、2020年に書籍化されたクッツェーの『少年時代の写真』については、これまでに何度か触れてきたけれど、いよいよ日本語訳が出る。

 それといっしょに、クッツェーを翻訳してきたプロセスを振り返って、まとめたエッセイ集も出る。一人の書き手による一冊まるごと「クッツェー論」は多分これが初めてだと思う。この2冊は白水社から10月に同時刊行される。

 エッセイ集『J・M・クッツェーと真実』には、1988年にクッツェー作品と出会ったころから現在までの、クッツェー翻訳をめぐるすべてを書いた。そういうと大袈裟だけれど、ほとんどそんな気分で書きあげた。個々の作品について論じる文章もあるし、南アフリカの厄介な英語、南ア社会内の「人種」をめぐるごく平易な語の奥に隠れた意味合いなどトリビアっぽいもの、ケープタウン旅行やアデレードの作家宅を訪れたときの話、クッツェー来日時のエピソードなどを織り交ぜてまとめた。それでも、ああ、あれも書いてなかった、これも書けばよかった、と今になって思ったりもするのだが。 

 それにしても、なぜかくも長きにわたりクッツェーを訳してきたのか、問いはふつふつと湧いてくる。それをエピローグとして最後に置いた。何度か書きなおしていると、あるとき、指先からことばが溢れるように出てきて、一気に膨らみ、止まらなくなった。それは著者自身の家族の物語だった。

『少年時代』を訳したとき作品内から聞こえてきた声によって、自分自身が幼いころや若いころの記憶と向き合わなきゃ、向き合いたい、そう思ったことに改めて気づいたのだ。ハッとなった。そこで思い切って自分の記憶を切開した。それが圧縮されてエピローグになった。

 最初にあげたメモワール『山羊と水葬』には、言ってみれば、その圧縮部分からぷつぷつと空に向かって膨らんだ吹き出しのように、40あまりの話が連なっている。折々に書いてきたコラム、個々のシーンの素描、日常の記憶の断片などが集められている。だから、これは姉妹編のようなものだ。この『山羊と水葬』もまた、クッツェー本2冊とほぼ同時に刊行されることになるだろう。

 ゲラを手にすると、目にすると、ああ、本当に本になるのだなあとしみじみ思う。この嬉しさは他に比べるものがない。この秋は、文字通り、蔵出しの秋となりそう。

 アディーチェの『パープル・ハイビスカス』もまた、現在、蔵のなかで熟成中です。


*カメラがPCと接続不能になって写真をアップできないため、大好きなクレーの絵を添える。

 


2020/11/08

明朝、アデレードから、J・M・クッツェーの朗読がライブで聴ける!

アデレード大学で、J・M・クッツェーが80歳の誕生日を迎えたお祝いに、ライブで朗読を放映するようです。11月9日午前10時半(現地時間)から、南半球はいま夏時間なので、時差が1.5時間ある日本時間では、午前9時スタートになります。

YOUTUBEにすでに予告が載っています。


The University of Adelaide is proud to host a formal event in Elder Hall with music performances, tributes and readings to honour and celebrate John M Coetzee in his 80th year, followed by book signing in Elder Hall Foyer.

とあります。予約もできるみたい。ぜひ!

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2020.11.9afternoon──めずらしく目覚まし時計をかけて寝て、今朝はしっかり起きて聞きました。いろんな人が出てきた。クッツェーについて、クッツェー作品について、あれこれ述べていて、傑作だったのはジョンのお友達らしいピーター・ゴールズワーシーというオーストラリアの作家の話。『サマータイム』に倣って、作家の死後世界で作家とやりとりするというSFみたいな小噺を読んで、80歳の誕生祝いとしてはなかなか渋い笑いをとってました。

 他にも、アボリジニにオリジンを持つ女性が彼女の言語でサラサラっとメッセージを述べたこと。姓が「ナカマラ」と聞こえる部分を含んでいたことなど。

 Videoによる参加で、パースに住む南アフリカ出身のシソンケ・ムシマンがText Publishing版のWaiting for the Barbarians に書いた自分の文章から読んでいたこと。これが滅法、面白かった。Barbarian の娘に対する読みが「南アフリカ」をベースにしているのだ。当然だよなあ、と。この作品が発表された1980年にまだ彼女は7歳だった。それ以後のクッツェー作品への彼女自身の理解の変遷がざっと述べられていて、これもまた面白かった。

 場所はアデレード大学のエルダー・ホール。2014年11月にシンポジウムが開かれたとき、ここでクッツェーは『鉄の時代』の冒頭を朗読を朗読したのだった。


2018/11/07

世界文学に抗して──『マイケル・K』の読み直し

今日、11月7日3時から、アデレード大学にあるJ・M・クッツェー・センターでとても面白そうなレクチャーが開かれる。

 Against World Literature: Photography and History in Life & Times of Michael K(世界文学に抗して──『マイケル・K』における写真術と歴史)

 講師は、ハーマン・ウィッテンバーグ。ウェスタン・ケープ大学の准教授で、クッツェーが少年時代に撮影した写真やフィルムの編集をまかされた人だ。クッツェー自身の初期作品2昨(In the Heart of the Country, Waiting for the Barbarians)のシナリオを出版した人でもある。 

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 J・M・クッツェーの『マイケル・K』(Life & Times of Michael K)がグローバルな文芸市場に華々しく参入したのは、この作品が1983年にブッカー賞を受賞したときである。南アフリカという国の狭い文脈をはるかに超えて、世界文学という、より広い文化的フィールドでこの本は読まれはじめた。『マイケル・K』を、南アフリカという原点を超えて、ヨーロッパ中心の世界文学という、さらに広いスペースの一部として読むよう後押しをしたのは、もちろん、小説の間テクスト的なオリジンであるクライストの中編小説や、カフカを連想させる一連の偽装である。そういった読み方が主流になったことは、クッツェーが初期のインタビューで「Kという文字はなにもカフカの占有物ではない。それにプラハが宇宙の中心でもない」と指摘していることからみても、クッツェー自身を困惑させたようだ。

この論文は、エミリー・アプターの研究からタイトルを借りながら、『マイケル・K』を再中心化し、さらに、安易に翻訳して世界文学に同化することのできない複雑でローカルな物語として、その作品が根ざしている特定の地域と歴史への認識を失わずに、再読しようとするものである。論文は、写真とノーザン・ケープ州の農場労働者ヤン・ピーリガの物語の影響を考慮することによって、この複雑な事情をたどることになるだろう。
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註:上の文の最後にあるヤン・ピーリガJan Pieriga とは、1980年代にノーザン・ケープ州カミースクローンで起きた殺人事件の殺人犯の名前だという。『マイケル・K』の最初のほうに出てくる「カミースクローンの殺人犯」を記憶している人はどれだけいるだろうか? 母親アンナが働いていた家のある街区が暴徒によって襲われ、暴風雨で荒れた室内をかたづけていたマイケルが発見した古新聞にのっていた写真、そこに写っていた男の射るような眼差し、殺人犯がもっていたとされる武器(棍棒などなど)。その写真を冷蔵庫に貼り付けてマイケルは作業を続けた。

ウィッテンバーグ(中央)Adelaide,2014
 これは実際にノーザン・ケープ州の農場で起きたある事件を下敷きにするものだった。クッツェーはその事件の新聞記事を切り取って参考資料として残していたことは、ランサム・センターに移ったクッツェー文書を精査してデイヴィッド・アトウェルが指摘している。
 カフカやデフォーの作品へ連想を誘う要素をちりばめたこの『マイケル・K』という作品を、もう一度、南アフリカの80年代という個別の歴史と絡めて読み直す試みがなされるというのは、とても、とても興味深い。

 なんでも「世界文学」という大風呂敷のなかに放り込んで、細部が捨象されて読まれていくとしたら、作品そのものが生み出された文脈の必然性が消えていくことになりはしないか? それは作者の望むところだろうか? それは読者のもとめるものと合致するのだろうか?──というのは、わたし自身もクッツェー作品を翻訳しながら、ずっと感じていたことだったからだ。
 とりわけ初期から中期にかけて書かれた南アフリカを舞台にした作品が翻訳されるとき、南アの歴史的事情の細部がブルトーザーでならすように訳されてしまうことに大きな不安を感じてきた。世界文学へ吸収されてしまった視点からは見えない細部こそ、じつは、辺境にある人々にとって、底辺にあって世界の目から見えない(インヴィジブルな)人々にとって、最重要な要素なのではないかと思うからだ。作家は「世界に向けて」その細部をこそ書きたいと思ったのではないかと。

付記:2020/8/24──「北と南のパラダイム」というエッセイを雑誌「すばる」(2019.6)に掲載したが、そこに引用したJ・M・クッツェーの議論にはこの「世界」をめぐる北と南の力学について鋭く論じるクッツェーがいて、この作家の現在地を鮮やかに伝えている。

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2018.11.9──クッツェーが『少年時代』から朗読するようすです。








2017/11/03

アデレード大学エルダーホールの夕べ

備忘録として3年前の催しの動画を。アデレードで開催された Traverses: J.M.Coetzee in the World の初日:2014.11.11 の夕べ全体をYOUTUBE で見ることができる。クッツェーが朗読したのは、なんと、Age of Iron の冒頭だった。

2016/06/07

クッツェーの創作プロセスを探るアトウェル


デイヴィッド・アトウェルがその著書『J.M.Coetzee and the Life of Writing──face to face with Time』についてインタビューに応えている中身が、とても面白いので、その続きを。

──この本のサブタイトルに、face to face with Time とありますが、どういうことですか?
DA:このフレーズは『マイケル・K』のある草稿から採ったものです。マイケルはスヴァルトベルク山脈に逃げ込んで、ここまでくればもう追っ手は自分を探し出せないと思ったとき、「これでついに俺は時間と差し向かいだ」と考える。クッツェーが人間の存在と向き合う方法としてフィクションをどのように使っているかを論じるために、僕はこのイメージを使いました。

──あなたの書いた本は、伝記とどう違うのですか?
DA:伝記作家は作家を包装して棚に飾ります。作家の作品を小さくまとめて個人生活にしてしまうことも多い。クッツェー自身、一度、伝記作家というのは作家が書いていないとき何をしているかについて書くんだと指摘していたことがありました。僕はちょっと違うことをしようと思った。生活ではなく、作品から始めることで、つまり、どのように作家の人生が変形されて作品内に具体化されていったかを見ていった。

──クッツェー作品を通して、彼のどんな内面が、どのように把握できるのでしょう?
DA:クッツェーの一般的イメージは、厳格で、よそよそしく、感情を顔に出さない、それに、つまらないやつには手厳しいというものです。彼の書いたもの(原稿類や出版された小説)からわかるのは、彼が傷つきやすくて、間違いもやるし、不安症だということです。とはいえ、クッツェーほど自分に厳しい人はいない。自分自身への要求は信じがたいほど厳しく、自己統制と、自分の仕事へのコミットは半端ではありません。

──アトウェルさんはこの本を、どうのような読者を想定して書いたのですか?
クッツェーとアトウェル 2014
DA:クッツェーの小説を読んだ人なら誰でも、もっと知りたいと思う人は誰でも読めます。批評家は、これは役に立つ内容だと思うでしょうが、僕はあくまで一般読者に向けて書きました。いちばん得るところが多いのは、たぶん、作家たちではないかと思っています。どんなふうに作品が書かれたのか、彼らはとても知りたいでしょうから。

──作家が書くプロセスについて書いたわけですね、アトウェルさん自身、そこからご自分の書き方について何を学びましたか?
DA:自伝を書きたいという欲求は、あながち悪い出発点ではないということです。クッツェーはほとんどいつも個人的なことから書き始めています。そのあと徹底的に文章の練り上げをやります──何度でも書き直す──書き直しの回数たるやすごい。

──クッツェーとその小説に対する考え方がどう変わりましたか?
DA:学生時代に彼の最初の小説『ダスクランズ』を読んでから40年ものあいだ、僕はクッツェーのフィクションの賞賛者でした。(ついでにいうと『ダスクランズ』は植民地主義がテーマ、というか、脱植民地主義を舞台化したものだといったほうがいいでしょう。読破にはちょっと胆力が必要ですが、扱われている暴力は現在に通じるものです。)長年のつきあいで、僕は、クッツェーがたどった旅の、なにがしかを理解できたように思います。彼の作品のファンとして出発し、いまではさらに、彼が作品を生み出すにいたった創造性とそのプロセスを理解できるようになりました

2016/04/29

トスカーナで <クッツェーの女たちを読む>

 9月末にイタリアのプラトで、クッツェー関連のシンポジウムが開かれます。


 クッツェー作品に登場する女性たちについて、さまざまに論じる3日間。なんとも刺激的なシンポではありませんか。どんな話が飛び出すのやら。

 2009年以降、この作家については、シドニー、武漢、リーズ、アデレードと数えるだけで4回もの国際会議が開かれ、すでにバイオグラフィーが2冊、作品については専門書が10冊、300を超える論文が発表されているそうです。ところが<クッツェーの女たち>については、ごくごく少数のものしかないといいます。今回のシンポジウムは、なぜか避けられてきたこのテーマを軸にして論じられる予定。果敢な、しかし、クッツェーを論じるためには、必要不可欠な取り組みですね。

 キーノートパーソンに、デイヴィッド・アトウェル、デレク・アトリッジ、エレケ・ブーマー、キャロル・クラークソンといったお馴染みの方々の名前が見えます。クッツェーさんご自身も、作品から朗読するのでしょうか、参加者としてまっさきに名前があがっています。

 具体的なテーマはこんな感じです。

  ・女性の声による腹話術
  ・愛、セックス、欲望
  ・母と娘
  ・女性作家
  ・女性たちの沈黙とストーリーテリング
  ・女性の助言者と世話人
  ・女性に対する暴力
  ・若さと加齢
  ・女性と人種
  ・美
  ・クッツェーとゴーディマ
  ・女性と権力
  ・女性作家の作品についてクッツェーは
  ・クッツェー作品のフェミニストとクイアの読み

 そそられるテーマばかりですねえ。主催はオーストラリアのモナシュ大学、代表者にスー・コソーSue Kossewさんの名がありますが、クッツェー研究者として、あるいは南アフリカの文学研究者として1990年ころからあちこちでお名前を見かけてきた方です。
 2014年のアデレードでもお会いしました。アデレード大学の、孔子の像が見守る中庭で開かれたオープニングパーティのとき、ワイングラス片手に話をした記憶があります。クッツェーという作家が日本でどのように紹介され、どんなふうに読まれているかとか、コソーさんが深く論じていたゾーイ・ウィカムの最重要作品『デイヴィッドの物語』についてなど。

「クッツェーと女性たち」というテーマ、おもしろくないわけがないですよね。クッツェーさんと初めて会ったとき「あなたの作品の母親をめぐるテーマにとても興味がある」とのっけから言ってしまったことを、ふと思い出します。わたしが訳した『マイケル・K』『少年時代』『鉄の時代』にはすべて強烈な「母親」の存在がありますから。
 じつは、もうすぐ出る拙著『鏡のなかのボードレール』で、ささやかながらクッツェーのある作品に出てくる一人の女性ついて、「クッツェーのたくらみ、他者という眼差し」という文章を書きました。5月末か6月には書店にならびます!

 9月末にトスカーナは天国みたいな場所に変貌する、とイタリア通の方に聞いたことがありますが、このシンポ、ぜひのぞきにいってみたいと思うけれど、ちょっと遠いなあ……というのが時差と長時間フライトにからきし弱い身の涙まじりの(笑)感想です。


2016/01/29

アデライーデとアデレード

 シューベルトの「冬の旅」を聴いた刺激で、YOUTUBEでドイツリードをあれこれ聴いてしまった。懐かしい歌声がどんどん出てきた。
 なにを隠そう、わたしは中学生のとき、ごく短期間ではあったけれど、ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウ中毒にかかっていたことがあったのだ。「魔王」も、もちろんフィッシャー・ディースカウの歌、ジェラルド・ムーアのピアノで聴いた。そして思い出した。当時、母が買ってくれたオムニバスのLPには、シューベルトの曲だけでなく、ベートーヴェンのこの曲も入っていたのだ。

「アデライーデ/Adelaide」女性の名前と記憶していた。ところがその固有名詞、よく見ると、かの作家が住んでいる南オーストラリアの都市の名前ではないか。こちらは英語風に、アデレード、と読むけれどアルファベットは:Adelaideだ。へえっ!



Adelaide  
by Dietrich Fischer-Dieskau



 
    
Einsam wandelt dein Freund im Frühlingsgarten,
Mild vom lieblichen Zauberlicht umflossen,
Das durch wankende Blütenzweige zittert,
Adelaide!

In der spiegelnden Flut,im Schnee der Alpen,
In des sinkenden Tages Goldgewölken,
Im Gefilde der Sterne strahlt dein Bildnis,
Adelaide!

Abendlüfte im zarten Laube flüstern,
Silberglöckchen des Mais im Grase säuseln,
Wellen rauschen und Nachtigallen flöten:
Adelaide!

Einst,o Wunder! entblüht auf meinem Grabe
Eine Blume der Asche meines Herzens;
Deutlich schimmert auf jedem Purpurblättchen:
Adelaide!

2015/05/15

再掲します:明後日、『マイケル・K』について語りつくします!

 イベントのお知らせです。J・M・クッツェーが初めてブッカー賞を受賞したヒット作『マイケル・K』が岩波文庫に入りました。それを機に、この『マイケル・K』という物語について、都甲幸治さんと語り尽くしたいと思います。 場所は紀伊国屋書店新宿南店です。

 日時:5月17日(日)午後2時から(開場は1時半)
 場所:新宿紀伊国屋書店南店 6F イベントコーナー
 入場無料ですが、要予約。ご予約はこちら。

『マイケル・K』が単行本として筑摩書房から出たのは1989年、クッツェー作品の本邦初訳でした。わたしの実質的な翻訳人生はにここから始まったように思えます。
 1989年にはいろんなことがありました。昭和が終って平成になり、4月に消費税が導入され、6月に北京で天安門事件が起きて、11月にはベルリンの壁が崩壊して冷戦が終り、年末にバブルがはじけた。

『マイケル・K』はその後、2006年に全面改訳されてちくま文庫になり、さらに加筆補足されて今回、岩波文庫に入りました。決定版です。こうして初訳から4半世紀を経て、また新たな読者と出会えることになり、マイケルくんはさぞや喜んでいることでしょう。

  この作品が世に出てから、作者も翻訳者も当然ながら歳を取りました。『マイケル・K』を書いていたクッツェーはまだ40代初めでした。翻訳者も最初に訳し たときは30代後半でした。でも、作中人物は、これまた当然ながら、まったく歳をとりません。31歳のままです。南アフリカでも、世界中でも、若い読者を 中心に読み継がれ、クッツェー作品のなかで、マイケルほど愛されている主人公は、ひょっとしたら他にいないかもしれません。
移 動を制限されながら、制度的な暴力も慈善も、不器用に、執拗にかいくぐり、痩せ衰えながらも、どこまでも土を耕して生きようとする31歳の若者、それがマ イケル・Kです。これはある意味、このうえなく不可能な物語ですが、種を蒔き、水を遣り、山羊に食べられないように見張り、といったふうに、大地から生ま れる恵みを糧に生きようとするマイケル・Kの物語が、どうしていま、こんなに人の心をとらえるのか、そんなことを話せたらいいなと思います。
 
 都甲さんには昨年8月末にも、クッツェーの自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代──辺境からの三つの<自伝>』(インスクリプト)の発売を記念したイベントで、司会をしていただきました。そのときはまだ発売されていなかったポール・オースターとの往復書簡集『ヒア・アンド・ナウ』(岩波書店)のことも、今回は話に出るかもしれません。
 また、昨年11月にアデレードで開かれたシンポジウム「世界のなかのJ・M・クッツェー」 のことや、アデレードのクッツェーさんのお宅を訪問したエピソードなども飛び出すかもしれません。お楽しみに!

「土のように優しくなりさえすればいい──内戦の南アフリカ、マイケルは手押し車に病気の母を乗せて、騒乱のケープタウンから内陸の農場をめざす。 ひそかに大地を耕し、カボチャを育てて隠れ住み、収容されたキャンプからも逃亡。国家の運命に本論されながら、どこまでも自由に生きようとする個人のすがたを描く、ノーベル賞作家の代表傑作」

*もちろん当日になってふらり、でも、だいじょうぶです、たぶん。
 その気になったら迷わずおいでください。


2015/03/06

Barbarians が映画化されなかった理由

 クッツェーは Waiting for the Barbarians の映画シナリオを書いている。この作品の映画化権を売って、教える仕事から身を引き、創作に専念したいと強く思ったらしい。1995年のことだ。

 でも、それは実現しなかった。結局、映画化したいという側の、マカロニウェスタンさながらの翻案企画は作家の了承を得られず、クッツェーが準備したシナリオは使われることなくお蔵入りとなった。他のシナリオを使うことも彼は許可しなかった。In the Heart of the Country の轍を踏みたくなかったのだろう。この小説がマリオン・ヘンセル監督によって映画化され、「Dust」となったときの苦い経験があったのだ。
 しかし1995年に、まとまったお金を手にするビッグチャンスを目前にして、彼があえてそれを退けた理由は、日本語への一翻訳者としてやはり考えておきたいと思う。その態度はとりもなおさず、彼がみずからの作品が読者にどのように受け取られることを望んでいるかを示してもいるからだ。

 自分の書いた作品が、それを書いた目的、意図などから大きくずれることを彼は嫌った。初めて訳されたドイツ語訳のWaiting for the Barbarians が、作家の意図とは大きくずれて、別の翻訳者の手によって改訳されることになったいきさつは、ここですでに書いたが、翻訳に対してもまたこの作家は同じ態度であることは間違いない。

 Waiting for the BarbariansIn the Heart of the Country、この二つの小説を舞台化するためのシナリオが昨年出版された。編集したのはウェスタンケープ大学のハーマン・ウィッテンバーグ。写真は昨年11月にアデレードで会ったときのもの(真ん中がウィッテンバーグ、向かって左はデイヴィッド・アトウェル、右はいわずもがなの作家自身だ/残念ながらレンズの設定を間違えてちょっとピンぼけ!)。

2015/02/09

2015/02/04

『鉄の時代』から朗読するクッツェー

 11月11日から3日間にわたってオーストラリアはアデレードで開かれた、Traverses: J. M. Coetzee in the World の初日、J・M・クッツェーがエルダー・ホールで朗読をした映像がYOUTUBE にありました。



 最初に彼を紹介するのは、朗読の前にピアノ演奏をしたアンナ・ゴールズワーシーさん。クッツェーさんはまず、今回のコロキアムを企画、実行した人たちへの謝辞を述べ、それから朗読を始めます。「20年以上も前に書いた小説ですが」といって読みはじめたのは、なんと『鉄の時代』でした。彼がなにを読むかは、主催者をはじめ、誰にも知らされていなかったので、びっくりしたのなんのって! 彼が読んだ部分の拙訳を少しだけ以下に。

****
 ガレージのわきに細い通路があるのを、おぼえているかしら、あなたがときどき友だちと遊んでいたところ。いまでは使われることもなく、さびれ、荒れ果て、吹きだまった枯れ葉がうずたかく積もり、朽ちている。
 昨日、この通路のいちばん奥に、段ボール箱とビニールシートでできた家があるのを見つけたの。なかで男が、通りから来たとわかる男が、身をまるめていた──背が高く、痩せこけていて、風雨にさらされた皮膚に、長い虫歯の犬歯、ぶかぶかの灰色のスーツを着て、縁のほつれた帽子をかぶっていた。その帽子をかぶったまま、縁を耳の下に折り込むようにして寝ていた。浮浪者よ。ミル通りの駐車場をうろつく浮浪者のひとり、買い物客に金をねだり、立体交差の高架の下で酒をあおり、ゴミ入れをあさって食べる浮浪者。雨の多い八月はホームレスにとって最悪の月、そんなホームレスのひとり。両脚をマリオネットのように外に突き出し、箱のなかで、あんぐりを口をあけて眠っている。まとわりつく、芳香とはおよそいいがたい臭気──尿、あまったるいワイン、黴臭い服、ほかの臭いも。不潔。
 立ったまましばらく彼をじっと見おろしていた。じっと見ながら臭いを嗅いでいた。訪問客、よりによってこんな日に、わたしのところに舞い込んできた客。
 サイフレット医師から知らされた日だった。知らせは良いものではなかったけれど、それは、わたしのもの、わたしのための、わたしだけのもので、拒むわけにはいかなかった。両腕で抱きあげ、この胸にたたんで、家にもち帰るものだった。首を横にふったり、涙を流したりせずに。「先生、どうもありがとうございました。率直にお話くださって」とわたしはいった。すると医師は・・・

          ・・・中略・・・

 男はぎょっとなることをした。まっすぐに、初めてわたしを直視して、ぺっと唾を吐いたのだ。ねっとりと、黄色い、珈琲の茶色い筋を含んだ唾の塊を、わたしの足もとのコンクリートの上に。それからマグをわたしに突き返し、ぶらりと歩み去った。
 ものそれ自体だ、そう考えると身震いが起きた。わたしたちのあいだに登場した、ものそれ自体。唾はわたしに、ではなく、わたしの目の前に吐かれた。わたしがそれを見て、調べて、それについて考えることができるように。彼のことば、彼なりのことば、その口から吐き出され、彼を離れた瞬間は温もりのあったことば。紛れもない、ひとつのことば、言語以前の言語に属するもの。最初は眼差し、それから唾を吐くこと。どんな眼差しかって? 敬意のかけらもない眼差しよ。ひとりの男からの、男の母親ほどの老齢の女に向けられた眼差し。ほら──おまえの珈琲だ、持っていけ。

*****
さらに偶然は重なるもので、この夜、わたしがホテルに帰ってパソコンを開けると、東京からメールが入っていたのです。それは世界文学全集第一期に入ったこの作品の邦訳『鉄の時代』(河出書房新社刊、2008年)が増刷されることになったというニュースでした。嬉しい偶然の一致でした!

2015/01/08

「アフリカン・アメリカン」と「アメリカン・アフリカン」

 2015年を迎えて初めてのブログ書き込みです。2014年をふりかえってみると:

  5月:詩集『記憶のゆきを踏んで』(水牛、インスクリプト刊)
  6月:クッツェー『サマータイム、青年時代、少年時代』(インスクリプト刊)
  9月:クッツェー&オースターの往復書簡集『ヒア・アンド・ナウ』(岩波書店刊)

 詩集と訳書2冊を出すという、ここ数年のうちで最も多産な年となりました。
 さらに11月にはオーストラリアのアデレードで開催されたJ・M・クッツェーをめぐる「トラヴァース:世界のなかのJ・M・クッツェー/Traverses: J.M.Coetzee in the World」というシンポ+フェスタに招待されるというラッキーな出来事もあり、いつもなら机に向かって坦々とキーを打つ暮らしが、一転して、あちこち動きまわるというペースになりました。そのため自分でも気づかないうちにエネルギーが切れてきて、暮れからはしばらくPCから距離を置く必要が生じました。ブログも休みがちとなりましたが、今日から復帰です。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 この間、いくつか新しい進展もあり、それが間もなく形になります。それらが出版されて書店にならぶころ、このブログでもお知らせしていきますが、まずはこのところ遠ざかっていた音楽の話題で始めましょう。

 暮れから聴いているニーナ・シモン。60年代のアルバムを少しまとめて聴きなおしました。

Nina Simone sings the Blues (1967年録音)
'Nuff Said!/Nina Simone (1968年録音)
Black Gold/Nina Simone(1969年録音)

 どれもライブ録音で、当時のアメリカ合州国でニーナ・シモンというミュージシャンがどれほど絶大な人気を誇っていたか、それが手に取るように分かります。
 60年代公民権運動、ヴェトナム反戦運動にからんだ集会やコンサートにもひっぱりだこだったという、この黒いディーヴァは、白人や男たちに決して媚びない姿勢が圧倒的に支持されたようです。

 とりわけBLACK GOLDというアルバムの最後の曲「To Be Young, Gifted and Black/若く、才能にあふれた黒人で」は心にしみます。ロレイン・ハンズベリーが書いていた戯曲と同タイトルの曲です。
 ハンズベリーは1930年生れの戯曲家で、黒人女性としてまれにみる才能を発揮しながら、若くして(なんと、34歳という年齢で)ガンで逝った人。1933年生れのニーナ・シモンにとってはまさに同時代、同年代のアーチストであり、実際親しい友人だったといいます。あの60年代をともに生きた人だったのですね。
 
 そんなニーナ・シモンも、晩年はパリに移り住み、そこで2003年に没しています。パリの「アフリカン・アメリカン」だったニーナ・シモン。今年翻訳に取り組むチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『アメリカーナ』は、逆に、アメリカに渡ったアフリカ人女性イフェメルが中心となる物語ですが、ここに「アメリカン・アフリカン」という表現が出てきます。

「アフリカン・アメリカン」と
「アメリカン・アフリカン」

 地球上を何百年のあいだに移動した人びとの歴史が、そして、それぞれの歴史的な立ち位置、その意味合いを考えてしまう作品です。

2014/11/29

数日前に「現代詩年鑑 2015」が届いていたのだ

朝から曇りのお天気で、すっきりしない。体調もすっきりしない。ついに、アデレード・ハイが切れてきた。

 だいじょうぶかなあ、と家族からさんざん心配されながら、11月初旬、ひとりでオーストラリアのアデレードまで行って、帰ってきて、へたると予想されていたのに、逆にハイな状態で突っ走ってきて2週間。
 ついに昨日あたりから、切れてきたのだ、アデレード・ハイが。笑うしかないな、これは。今日は外出は不可だ。行けずに残念な催しがあるのだけれど。


 アデレードのホテルで「現代詩手帖」編集部のFさんから嬉しい連絡を受けたことは前にも書いた。その「現代詩年鑑2015」が数日前に届いていたのだ。「──JMCへ」という献辞のついた「ピンネシリから岬の街へ」が入っている。嬉しいことはさらに重なり、「今年度の収穫」に須永紀子さんが『記憶のゆきを踏んで』をあげてくださった。

 須永さんの新しい詩集『森の明るみ』はすてきな詩集だ。粒ぞろいのことばたちが、手で触れそうなほどの確かさでならんでいる。アデレードから無事に帰還して、じっくりと読んだ。カバーの絵もまたいい。

2014/11/23

Barbarians の訳は「夷狄」でいいのか?

 11月11日から3日間、アデレードで開催された「Traverses: J.M.Coetzee in the World」というイベントのハイライトは、やはりアデレード大学構内にある旧い建物エルダー・ホールで行われた作家自身の朗読だった。建物のなかに入ると、ステージの奥にはパイプオルガンがあって、そこが教会であることが分かる。エルダーというのだから「長老派」だろう。この催しだけが公開だったため、早くから大勢の人たちが詰めかけていた。

 アデレード大学の副学長の挨拶につづいて、シカゴ大学の哲学教授、ジョナサン・リアの「Waiting for the Barbarians/夷狄を待ちながら」をめぐる基調講演があった。これが興味深い内容だったので、わたしの耳が拾った部分を中心に少し書いておきたい。

ジョナサン・リアはクッツェーがノーベル賞受賞の知らせを受けたときいっしょにいた彼の長年の友人で、そのときのエピソードにも今回ちらりと触れれて、場内をなごませていた。
 ノーベル財団がクッツェーに連絡を取ろうとしたが、本人はそのときシカゴ大学で教えていたので、ケープタウンにはいなかった。財団側から連絡を受けたシカゴ大学の誰かが、リア教授の電話番号を教えてしまったので、それからが大変。彼の電話がひっきりなしに鳴りつづけた。知らせの前夜、リア教授夫妻はジョンとドロシーと4人でディナーを共にしたところだった・・・といった、すでにそこにいる大方の人たちが知っているエピソードではあったけれど、直接ご本人から聞くと、そうだったなあ、と感慨深かった。(2枚目の写真:クッツェーとジョナサン・リア)

 さて、重要なのはそんなことではなく、リア教授の『Waiting for the Barbarians』の読みに対する問題提起なのだ。この作品は一般に、架空の土地を舞台にした時代も不特定の小説、として読まれることが多いが、それは違う、とリアは言うのだ。注意深く読んでみると(Read carefully! はクッツェー本人がくりかえし発言していることば!)、作品冒頭にはちゃんと年代が書き込まれている、決め手は第三局からやってきたジョル大佐がかけていた眼鏡である、と言うのだ。では、この作品の書き出しを見てみよう。

 "I have never seen anything like it: two little discs of glass suspended in front of his eyes in loops of wire. Is he blind? I could understand it if he wanted to hide blind eyes.  But he is not blind. The discs are dark, they look opaque from the outside, but he can see through them.  He tells me they are a new invention."

「そんなものは見たことがなかった。彼の両眼のすぐ前で、二つの小さなガラスのディスクが、環にした針金のなかで浮いている。彼は盲目か? 見えない目を隠したいというなら分かる。だが彼は盲目ではない。ディスクは黒っぽく、はたから見れば不透明だが、彼はそれを透してものが見える。新発明なんだそうだ」

 ここで言われているのはもちろんサングラスのことだが、その語は使われていない。行政官はジョル大佐から「新発明」との説明を受ける、と書かれているところに注目すべきだとリアは語った。サングラスの発明は20世紀に入ってからの出来事だ。だからこの物語にはしっかり時代が書き込まれているのだと。(追記:われわれの二代、三代前の祖先の時代と読めるではないかと。)もうひとつ、この作品は dreamlike と言われることがあるが、dream ではなくあくまでdreamlike なのだ。一見「夢のように」場所や時間が特定しにくいことが重要なのだ。なぜか?
 (と、ここからは私見だが)この作品が発表された1980年はまだ南アフリカには厳しい検閲制度があり、検閲官がちくいちテクストを読み、発禁にするかどうかを決めた。その厳しさは『In the Heart of the Country/その国の奥で』が通常なら1人の検閲官が審査するところ、3人もの検閲官によって詳細に査定された事実からも明らかだ。(それについてはここに書いた。)当然ながら、次に発表された「Barbarians」は作家自身も検閲を念頭において書いている。だが、架空の、無時間の作品と見せかけながら作者は最初のページに時代をくっきりと刻み込んでいる、そこに注目すべきだ、というのが今回のリアの指摘だったと理解できる。

 リア教授の講演を聴きながら(もちろん全部理解できたわけではないが)、ある疑問がふつふつとわいてきた。Barbarians を「夷狄」と訳したのは、はたして適切な訳語選択だったのか、という疑問だ。「夷狄」とは19世紀までの中国で、漢民族を中心とした中央勢力から見た外部民族への蔑称とされる語だ。したがって「夷狄」と銘打たれた小説を読む者は、否応なく19世紀以前の時代へと導かれ、物語の舞台として東アジアのある地域を想定して読むことになる。
 リアの指摘に沿って考えるなら、それでいいのか? という疑問を抱かざるをえない。古典の翻案ではないのだ。同時代作家の新作の翻訳の場合、これは妥当なことか? リアの指摘からすれば、Barbarians は文字通り「蛮族」と訳すべきだったのかもしれない。しかし邦訳の出た1991年、あるいはノーベル賞受賞後に文庫化された2003年、日本語読者は「夷狄」という聞き慣れないことばに耳をそばだて、関心を持った、という事実もまた否定できない。だからこれは、ひどく悩ましい問題提起とならざるをえない。
 しかし、さらに考えてみる。現在はクッツェー作品が詳細に論じられ、3度の来日もあって、彼の名は一般にも知られるようになった。同時代をともに生きる作家の意図をあたうるかぎり伝えることこそが訳者、編者に求められる姿勢だとするなら、「夷狄」は訳語としてこのままでいいのか、という問いはやはり残る。悩ましい。

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2014.12.21追記:YOUTUBEにアップされたリア教授の講演を再度聴いたあと、上記の内容に少し加筆した。記憶だけで書き、少し誤解も混じっていたので訂正した。リア教授は、この作品が発表された当時のニューヨークタイムズの書評を批判しながら、この物語をアパルトヘイト下の南アフリカの出来事としてのみ読むのではなく(つまり遠い国の自分たちとは関係のない物語として読むのではなく)、読者が自分の住んでいる土地の近過去の歴史として読むことも可能な物語なのだと述べている。
 彼の住むアメリカ合州国という土地で考えるなら、当然「蛮族=ネイティヴ・アメリカン」という置き換えになるだろうか。では、日本では? 蛮族=蝦夷、いやいや、現在はむしろ海の向こうの外敵としての・・・?
 そのように読者の心理に深く働きかける「可能性」を秘めた作品である、とリア教授は論じている。であるとすれば、やはり、「夷狄」よりもう少し抽象的な語が選ばれるほうがいいのかもしれない。やっぱりこれは悩ましい。

2014/11/20

ピンネシリから岬の街へ──JMCへ

 アデレードに着いたとたんに目に入った樹木、それはジャカランダだった。もう花の盛りはすぎてはいたが、若葉の季節にまだ美しい色合いを見せていた。左の建物はアデレード大学構内にあるエルダー・ホール。内部は教会で、イベント初日の夜にJ・M・クッツェーの朗読会が開かれたところだ。

 アデレードに向かって出発する前の一週間は、なぜかシーンと静かだったメールボックスが、10時間あまりのフライトのあとホテルに着いてPCをセットアップした途端に、新着メールがいくつも届いていて驚いた。そのなかに詩集『記憶のゆきを踏んで』の一編「ピンネシリから岬の街へ」を今年の「現代詩手帖年鑑」に入れたいというメールがあった。
 詩のタイトルの裾に「──JMCへ」と入っている通り、これは1960年代にケープタウンからロンドンへ渡った青年ジョン・マクスウェル・クッツェーに捧げる詩なのだ。詩集を2日後にクッツェー自身に手渡す予定だったのだから、まさに good timing! 

 もちろん作家は日本語が読めるわけではないけれど、でも彼は若いころ中国語を学んでいるため、漢字はある程度読めるのだ。
 翌日は、初夏のアデレードの青紫のジャカランダの花びらをながめながら街を歩いた。オーストラリアはアジアに近い。アデレード大学構内にあるのは、教会ばかりではない。こんな孔子像も立っていたのだ。

2014/11/16

家に帰ったら、書評『往復書簡集』by 都甲幸治氏が届いていた

初夏のアデレードから、気温が2度の成田に、今朝6時に到着しました。さすがにくたびれました/笑。でも家に帰り着くと、オースターとクッツェーの往復書簡集の書評が掲載された週刊読書人(11月14日付)が届いていた。しっかり読み込んでくれた都甲幸治さんの書評でした。正直、とても嬉しいです。

 それにしてもシドニー空港は聞きしに勝る迷宮ぶり。アデレード空港は広々として、のんびりした、良い意味で田舎の空港でした。ところが、1時間半ほどで着いたシドニーは、掲示板がまったくもって親切ではなく、トランジット客は乗り継ぎのため次にどこへ行けばいいのか、ちんぷんかんぷん。ここだ! というから並んでみたらそこはチェックインカウンターだったり(すでにアデレードでチェックインはすませている!)、バスに乗れ、というから乗ったら延々と暗い空港の敷地内を走るバスはどこへ行き着くのかだんだん不安になってくるし、着いた建物ではエスカレーターが動かない。しかたなく荷物を持ち上げて階段を登った。いやホントにくたびれた。

 搭乗ゲートがまたよく分からなくて、こういうとき、どういうわけかわたしには必ず反対方向へ歩き出してしまう癖があって、今回もふたたび/涙。万歩計をつけていけばよかった、いったいどれくらい歩いたんだろう。そうやってうろうろしながら、ついに搭乗ゲートにたどりついたら、娘さんを訪ねた帰りにアデレードからおなじ便に乗っていた、わたしとほぼ同年代の日本人女性と出会った。彼女は空港の外へ出てしまい、もう入れない、と言われて泣きたくなったとおっしゃっていた。どうしても日本に帰りたいのですが、とスタッフに言うと、親切にあれこれ教えてくれて、ここまでなんとか辿り着いた、と。迷宮=シドニー空港。
 写真は到着した日のアデレード空港。シドニーでは写真を撮る余裕がまったくなかった/涙。