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2017/11/02

テンプレートの枠内で思考するとは

今日の東京郊外は夕焼けがとてもきれいだった。今年は寒暖の差が大きく、樹々の紅葉がじつに美しい。散歩から帰るまもなく、近くのふとん屋さんに頼んで作ってもらったふかふかの純綿の敷布団が届いた。「もう65年もこの商売をやっているけど、このワタはいいワタで……」とにこやかに語る職人気質の白髪の店主が、みずから運んできてくれたふとんだ。長いあいだこつこつと続けてきた仕事に誇りをもっている人の笑顔もまたじつに美しい。

 クッツェーとオースターの往復書簡集の日本語訳『ヒア・アンド・ナウ』(岩波書店刊)が出版されたのは2014年の秋だった。そのなかで、ジョンがポールにあてて書いた2009年5月27日付の手紙のなかに、こんな箇所があった。


──これほど英語にどっぷり浸かった環境で暮らすことが僕におよぼす影響はひどく特異なものになってきた。つまりそれは僕自身と、僕がおおまかにアングロ的「世界観(ヴェルトアンシャウウング)」と呼ぶものとのあいだに懐疑的距離を作り出し、その世界観に組み込まれたテンプレートの枠内で人がどう思考し、どう感じ、どのように他の人たちと関係を結ぶかといった点で、その距離は広がるばかりだ。(p82-83)


 この「テンプレートの枠内」という表現が、それ以来ずっと頭のなかで、ちりちりと音を立てつづけている。訳者は日本語が第一言語で、10歳から学んできた英語も、学生時代にやったフランス語も、「それで」暮らしたことのない言語だ。生まれてこのかた、ほぼ全面的に「日本語のテンプレートの枠内で」思考してきた。日本語でものを考え、感じ、理解したことを記録し、あれはどうだったかと自問し、自分以外の人たちと日常的に挨拶やことばをかわし、相手のことばを理解し、記憶してきた。
 でも、ずっとなにか違和感を感じて、狭い日本語の枠内から外へ出たい、と考えてきたのも事実だ。つまり、日本語以外の「テンプレート」のなかで思考してみたいと感じてきたと言い換えることができるかもしれない。クッツェーの上のことばを読んでそう思った。
 クッツェーが「英語のテンプレートの枠」をなんとか超えようとする姿勢には、とても共感する。しかもクッツェーはそれを「英語で」やろうとするのだ。この一見矛盾する「立ち位置」に、わたしのような「日本語で」日本語に抵抗しようとする者が共感する余地があるのかもしれない。

2015/05/17

『マイケル・K』、紀伊国屋書店新宿南店のイベント無事に終了!

紀伊国屋書店新宿南店でのクッツェー『マイケル・K』岩波文庫化の記念トークが、無事に終了しました。わざわざ足を運んでくださった大勢の方々に深謝します!

 さわやかな5月の空にさらさらっと雲が薄く流れて、今日はとてもよいお天気でした。イベントは広い売場の一角に椅子をならべ、ごらんのような幕の前で話をするというもの。本を買いにきたお客さんも「あれ、なんだろ、このイベント?」といった感じで立ち止まって、話に耳をかたむけてくれるといった趣向です。

 都甲幸治さんの絶妙なリー ドで、気持ちよく話をさせてもらいました。クッツェー作品を縦横に行ったり来たりしながら、作品と作品のあいだをテーマでつないだり、ひょんと飛んだり、とても自由に話ができました。ケープタウンやアデレードへ行ったときの話、クッツェーさんのお宅を訪ねたときの裏話まで、たっぷり話すことができました。

 開場からの質問も突っ込んだものが多く、みなさん、すごく深く読み込んでいるなあ、とちょっと感動的でした。なかには『青年時代』のある内容をカンネメイヤーの伝記とくらべて、どうも辻褄が合わないが、事実はどうなのかか・・・という、もう、ほとんど脱帽するような質問まであって、感心しきりです。

 そして、イベントが終っても外はまだまだ明るい、この季節ならではの心地よさ。木のデッキのあるテラスで風に吹かれながら、ノンアルコールの飲み物とクレープで打ち上げ。さ、帰ろうか、といっても、まだ外はほんのり明るい、マチネーっていいですねえ。。。

 お世話になった紀伊国屋書店新宿南店のスタッフのみなさん、どうもありがとうございました。

2015/01/08

「アフリカン・アメリカン」と「アメリカン・アフリカン」

 2015年を迎えて初めてのブログ書き込みです。2014年をふりかえってみると:

  5月:詩集『記憶のゆきを踏んで』(水牛、インスクリプト刊)
  6月:クッツェー『サマータイム、青年時代、少年時代』(インスクリプト刊)
  9月:クッツェー&オースターの往復書簡集『ヒア・アンド・ナウ』(岩波書店刊)

 詩集と訳書2冊を出すという、ここ数年のうちで最も多産な年となりました。
 さらに11月にはオーストラリアのアデレードで開催されたJ・M・クッツェーをめぐる「トラヴァース:世界のなかのJ・M・クッツェー/Traverses: J.M.Coetzee in the World」というシンポ+フェスタに招待されるというラッキーな出来事もあり、いつもなら机に向かって坦々とキーを打つ暮らしが、一転して、あちこち動きまわるというペースになりました。そのため自分でも気づかないうちにエネルギーが切れてきて、暮れからはしばらくPCから距離を置く必要が生じました。ブログも休みがちとなりましたが、今日から復帰です。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 この間、いくつか新しい進展もあり、それが間もなく形になります。それらが出版されて書店にならぶころ、このブログでもお知らせしていきますが、まずはこのところ遠ざかっていた音楽の話題で始めましょう。

 暮れから聴いているニーナ・シモン。60年代のアルバムを少しまとめて聴きなおしました。

Nina Simone sings the Blues (1967年録音)
'Nuff Said!/Nina Simone (1968年録音)
Black Gold/Nina Simone(1969年録音)

 どれもライブ録音で、当時のアメリカ合州国でニーナ・シモンというミュージシャンがどれほど絶大な人気を誇っていたか、それが手に取るように分かります。
 60年代公民権運動、ヴェトナム反戦運動にからんだ集会やコンサートにもひっぱりだこだったという、この黒いディーヴァは、白人や男たちに決して媚びない姿勢が圧倒的に支持されたようです。

 とりわけBLACK GOLDというアルバムの最後の曲「To Be Young, Gifted and Black/若く、才能にあふれた黒人で」は心にしみます。ロレイン・ハンズベリーが書いていた戯曲と同タイトルの曲です。
 ハンズベリーは1930年生れの戯曲家で、黒人女性としてまれにみる才能を発揮しながら、若くして(なんと、34歳という年齢で)ガンで逝った人。1933年生れのニーナ・シモンにとってはまさに同時代、同年代のアーチストであり、実際親しい友人だったといいます。あの60年代をともに生きた人だったのですね。
 
 そんなニーナ・シモンも、晩年はパリに移り住み、そこで2003年に没しています。パリの「アフリカン・アメリカン」だったニーナ・シモン。今年翻訳に取り組むチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『アメリカーナ』は、逆に、アメリカに渡ったアフリカ人女性イフェメルが中心となる物語ですが、ここに「アメリカン・アフリカン」という表現が出てきます。

「アフリカン・アメリカン」と
「アメリカン・アフリカン」

 地球上を何百年のあいだに移動した人びとの歴史が、そして、それぞれの歴史的な立ち位置、その意味合いを考えてしまう作品です。

2014/11/16

家に帰ったら、書評『往復書簡集』by 都甲幸治氏が届いていた

初夏のアデレードから、気温が2度の成田に、今朝6時に到着しました。さすがにくたびれました/笑。でも家に帰り着くと、オースターとクッツェーの往復書簡集の書評が掲載された週刊読書人(11月14日付)が届いていた。しっかり読み込んでくれた都甲幸治さんの書評でした。正直、とても嬉しいです。

 それにしてもシドニー空港は聞きしに勝る迷宮ぶり。アデレード空港は広々として、のんびりした、良い意味で田舎の空港でした。ところが、1時間半ほどで着いたシドニーは、掲示板がまったくもって親切ではなく、トランジット客は乗り継ぎのため次にどこへ行けばいいのか、ちんぷんかんぷん。ここだ! というから並んでみたらそこはチェックインカウンターだったり(すでにアデレードでチェックインはすませている!)、バスに乗れ、というから乗ったら延々と暗い空港の敷地内を走るバスはどこへ行き着くのかだんだん不安になってくるし、着いた建物ではエスカレーターが動かない。しかたなく荷物を持ち上げて階段を登った。いやホントにくたびれた。

 搭乗ゲートがまたよく分からなくて、こういうとき、どういうわけかわたしには必ず反対方向へ歩き出してしまう癖があって、今回もふたたび/涙。万歩計をつけていけばよかった、いったいどれくらい歩いたんだろう。そうやってうろうろしながら、ついに搭乗ゲートにたどりついたら、娘さんを訪ねた帰りにアデレードからおなじ便に乗っていた、わたしとほぼ同年代の日本人女性と出会った。彼女は空港の外へ出てしまい、もう入れない、と言われて泣きたくなったとおっしゃっていた。どうしても日本に帰りたいのですが、とスタッフに言うと、親切にあれこれ教えてくれて、ここまでなんとか辿り着いた、と。迷宮=シドニー空港。
 写真は到着した日のアデレード空港。シドニーでは写真を撮る余裕がまったくなかった/涙。
 

2014/11/13

往復書簡集『ヒア・アンド・ナウ』書評 by 小野正嗣さん

小野正嗣さんによる、クッツェーとオースターの往復書簡集『ヒア・アンド・ナウ』の書評です。共同通信の配信で、沖縄タイムス、北日本新聞・南日本新聞・中國新聞・山梨新聞・岩手新聞・愛媛新聞・熊本日日新聞・東興日報などに掲載されたようです。

小野さん、どうもありがとう。隅々まで深く読み込んで本の魅力を伝えてくれる、とても嬉しい評です。いまアデレードにいますので、この書評についてクッツェーさんにも伝えたいと思います。Muchas gracias! 

2014/09/27

オースターとクッツェーの朗読をたっぷりと!

 ポール・オースターとJ・M・クッツェーの往復書簡集『ヒア・アンド・ナウ 往復書簡2008-2011』(岩波書店)が発売になりました。
 これで一連のクッツェーをめぐる仕事は一段落、といきたいところですが、11月のビッグイベントが待っています。アデレードで開催される Traverses: J.M.Coetzee in the World。さっそくこの訳書にも参加していただかなくちゃ。

 この本から著者2人が朗読している動画があります。クッツェーとオースターが、まるでパッチワークキルトのように、あちこちの部分をうまく繋ぎ合わせて読んでいきます。2014年4月、アルゼンチンのブエノスアイレスでのステージで、動画は三部構成になっています。どうぞお楽しみください。

その1


その2


その3


2014/09/25

Disgrace におけるクッツェーと「英語」その2

さて、その引用箇所である。原文は:

──He [David] would not mind hearing Petrus's story one day.  But preferably not reduced to English.  More and more he is convinced that English is an unfit medium for the truth of South Africa.  Stretches of English code whole sentences long have thickened, lost their articulations, their articulateness, their articulatedness.  Like a dinosaur expiring and settling in the mud, the language has stiffened. Pressed into the mould of English, Petrus's story would come out arthritic, bygone.(Disgrace, p117)

「感情」を表現する語を焼き払うよう推敲しているというクッツェーの文体に即して、できるだけ淡々と訳してみる。

──彼[デイヴィッド]はペトルスの物語をいつか聞いてもいいと思う。だが、できれば無理に英語にせずに。英語は南アフリカの真実を伝える媒体として不適切との確信は強まる一方だ。文のすみずみまで英語文法を適応させようとするあまり、文全体が濁って粘つき、明晰さを失い、明確に述べることも、述べられることもない。絶滅寸前の恐竜が泥土に足をとられたように、この言語は身を強ばらせている。ペトルスの物語も英語という鋳型に押し込められるや、関節炎を患い、古色蒼然たるものとなってしまうだろう。

 ここを初めて読んだときに思い出したのは、90年代初めに南アを訪れたある人のことばだった──タウンシップで黒人たちと話していて思ったの、英語で話をするんだけれど、そのときは真面目に、外向きの顔で、きちんと話そうとするのが分かる。でも内輪でズールーやコーサといった言語でくだけた会話をするとき、彼らの表情が変わるのよ。顔つきが、まるでNHK教育チャンネルから民放チャンネルに切り替わったみたいに、ぱっと変わるの。すごくリラックスした感じになる。

 このTVチャンネルの比喩は面白い。公式の表向きの言語と、本音が語れる親密な言語の違いをあらわす絶妙の表現である。大きくなってから学習して獲得した言語は、その人の個人史や環境によって重さ、位置づけなどはさまざまだ。旧植民地の先住系、元奴隷などの系譜の人たちが、仕事を得るうえで学ばざるをえない言語が宗主国の言語である。非インテリの人間にとって、それはどういうことか? 読者は想像する必要がある。
 南アフリカ、と一般化することの危険性をあえて承知で言うなら、ここでクッツェーが述べている「南アの英語」を媒介に、ルーリーのようなインテリ男が農民ペトルスとコミュニケーションしようとすると、英語(ペトルスにとっては仕事のための言語、解放前までは支配者から命令される言語)という分厚い皮膜を通した、歯がゆいものにならざるをえない。むしろ「ペトルスの物語」を聞くなら、その母語によって語られる、もっと本音が出た繊細なものとして聞きたい。細やかな感情を表現でき、本音の底まですくいとることが可能な言語で語られる物語を、と主人公は言っているのだ。たぶんコーサ語を母語とするペトルスの物語が「英語」に押し込められるなら、やりとりは細やかな感情の伝わりにくい、不完全なものにならざるをえない、と。

 作品内で登場人物に語らせながらも、ここにはクッツェーという作家の「本音」に近いものがちらりと見えはしないか。うわべを取り繕うことを忌避し、本来の対話が成り立つ条件にこの作家はこだわる。インタビューではそれはありえない、と。そこには、ことばで構築した信念によって生きてきた人間の不器用さも露出している。沈黙を読み取ることで真実を伝えたい、心を通わせたい、とするこの作家の根源的な願望が書き込まれてもいる。(上の引用箇所直前にある、ペトルスといると at home だという表現は、この白人インテリ男の善意/勝手な思い込みを描いているとも取れなくもないが、それはまた別の機会に。)
 上の引用は、したがって、南アという土地で歴史的条件を背負って個別の生を生きる人間たちを描きながら、クッツェー作品にとって普遍的な要素が深々と埋め込まれている、大いに注目すべき箇所なのだ。

「言語」と繊細な「表現」をめぐるクッツェーのこういった感覚、思想、立ち位置は近々刊行されるポール・オースターとの往復書簡集『ヒア・アンド・ナウ』(岩波書店)で詳しく語られることになる。現在74歳のクッツェーが、68歳から71歳までのあいだにポール・オースターに宛てて書いたこの書簡集では、手紙という形式によって、いよいよ本音に近い、率直な語りが展開される。自伝的三部作の『サマータイム』(インスクリプト)を書いていた時期とも重なり、まるでこの作品の種明かしのような話も出てくる。読者はこの作家の一皮も、二皮も向けた姿を垣間見る瞬間に立ち会うことになるはずだ。
 映画「Disgrace」でルーリーを演じるマルコヴィッチは「きみが言っていたようにミスキャスト」とオースターが明言していることも付け加えておきたい。

2014/09/07

秋の気配、ふたたび日々の翻訳へ


ぶりかえした暑さも昨夜の雨でどこかへ。本格的に、秋の気配が近づいてきた。虫の音も冷たい空気のなかで澄んだ音色を響かせている。
 
 力を出し切ったクッツェー三部作、オースターとの往復書簡集、イベントなども終わり、本格的にチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『アメリカーナ』に取り組まなければならないときがやってきた。すでにかなりの量は訳してあるのだけれど、ここへきてぐんぐん進む。毎日進む。

夕方近くなって散歩に出た。散歩に出るとパソコン画面をにらんでいる時間から解放されて、頭のなかで自由にことばが動きはじめる。黄色く色づいた桜の葉、つげの茂みに落ちた黄色い大きな葉を見て思うのは、しかし、やっぱりクッツェーの新作についての閃きだったりするところが悩ましい。

 春先に枯れ枝を根元から刈り取っても、またしっかり生えてくる萩。今年も赤紫のグラデーションの美しい小花をたくさんつけて、風にゆられている。

 西アフリカの大都市で育った女性が、アメリカに渡って体験するさまざまな大波、小波。移民労働の世界。肌の色の違い、髪の毛の縮れぐあい。それが決定的な要素となることの意味。物語はナイジェリアという土地を超えて、アメリカの境界も飛び越えて、いまやわたしたちの住む社会にもとどけられる。
そこには「アフリカ文学」という従来の枠には収まり切らない、若い書き手の作品があるのだ。そのこととアフリカの現実を切り離して考えていいということでは決してないのだけれど、それも、これも、また、現在のこの地球に住み暮らしている人間たちの、深くて複雑な内実なのだというしかないのだろう。心して訳していきたい。このとびきりの面白さを、早く読者と分かち合いたい。

2014/08/15

『ヒア・アンド・ナウ』── 今日もゲラ読み!

 長年、エアコンを使っていない。机上の温度計は30度を越している。外は蝉しぐれ。

 窓に面した机の上でB4サイズの再校ゲラのページが、書き込みをするたびに腕の下で湿っていく。窓からの風があるのが救いだ。

 こんな夏をいくつも越してきた。この夏を越せば、ポール・オースターと J・M・クッツェーの往復書簡集『ヒア・アンド・ナウ』(岩波書店刊予定)ができあがるはずだ。ユダヤ系移民の系譜のポール・オースターとオランダ系移民の系譜のジョン・クッツェーの、パレスチナ/イスラエル問題への発言も、2011年までのものとはいえ、しっかり含まれている。世界情勢へのこの2人のスタンスの違いも、ちらりちらりと垣間見える。
 しかし、なんといっても面白いのは作家としての「書くこと」への態度の違いだ。というか、手紙をやりとりしていて明らかになっていく、それぞれの作家としての特徴だ。そこがだんとつに面白い。
 夏の仕込みと秋の収穫。9月26日が発売予定だ。あときっかり6週間の道のり。

 わたしが生まれる4年と5カ月前に終った戦争の、69回目の敗戦記念日に。

2014/07/18

世界横断クッツェー祭に参加

 11月中旬にアデレード大学で開催される「世界横断クッツェー祭」に参加するため、昨日、旅立っていきました。早々と。

 旅に出たのは書籍、つまり、拙訳『サマータイム、青年時代、少年時代』です。クッツェー祭の展示物のひとつになります。9月には、オースターの往復書簡集『ヒア・アンド・ナウ』も追いかけることになるでしょうか。
 
 
 

しっかりやっておいで、と子供を送り出す母の気持ち・・・はあ。


☆  ☆  ☆

PS: それにしても、昨日、イスラエルがガザに地上軍を侵攻させて、、、、「ハアレツ」に発表されたアミラ・ハスの記事を探すのだけれど、購読手続きをしないと新しい記事がまったく読めない。3日ほど経たないとオープンにならないのだ。それでも見出しだけなら昨日まで読めたのに、今日はまったくダメ。ハスの記事を検索する人が世界中からアクセスしているのだろうか。

2014/07/08

ジョンとポールの往復書簡集『ヒア・アンド・ナウ』のゲラが届く

さて、今日からまたゲラ読みの日々だ。

 クッツェーとオースターの往復書簡集の初校ゲラがどさりと届いた。どさり、といっても三部作にくらべると、六分の一ほどの量だから、ぱさり、くらいかもしれない。

 それでもゲラはゲラだ。一行一行、目を凝らして読む。ことばをあれこれ調整しながら、文章を作っていく作業は、楽しいけれど肩も凝る。凝りをほぐすために、夕方からはワインタイムとあいなる。
 この湿気の多い季節は、以前ならビールが最髙に美味しい時期だったのだけれど、冷たい飲み物を多量に飲むことが御法度となってからは、もっぱら軽く冷やした白ワインだ。
 
 先日、ジョンとポールがアルゼンチンで行った朗読を三部に分けて見ることのできるサイトを見つけたので、それを聴きながら、見ながら、ゲラを読むのはなかなか楽しい。といっても、彼らは、本にした手紙をそのまま読んでいるのではなくて、あちこち削って、繋いで、うまく朗読テキストを作り上げているので、ゲラとは一致しない。
 それでも、二人が交わすことばのリズム、口調、気持ちの片鱗のようなものはびんびん伝わってくるので、翻訳をしあげるにはとても参考になる。

2014/06/18

スポーツとは負けることを学ぶ場である

 ブラジルで行われているワールドカップ。スポーツとは、それぞれの国家がチームを作ってたたかう催しとは、考えてみれば、「負ける」ことを学ぶ場ではないのか。

 いま最後の訳稿を見ている『Here & Now』──ポール・オースターとJ・M・クッツェーの往復書簡集──に出てくることばだ。そう言っているのはジョンのほうなのだけれど、けだし名言だと思う。

 スポーツ大好き人間のジョンとポール。サッカーやクリケット、野球やテニス、テレビの前にどっかと座って、読みかけの本をほっぽり出して見入る2人の文豪たち。しかし、ただのスポーツ好きにとどまらないところが作家の作家たるゆえんだろうか。ジョンはポールに対してこう書く。

「つまりスポーツは良いことだと僕たちは考えている。しかし、なぜだ? だって、男のスポーツはもちろん人をより良い人間にすることはないし──スポーツでは抜きん出ていても人間としては、たいしたことがない例は掃いて捨てるほどある。だがひょっとしたら、ここには僕たちが見て見ぬふりをしている重要な問題があるのかもしれない」


「スポーツには勝者がいて敗者がいる。あえて言うこともないのは(あまりに明らかだから?)勝者の数をはるかに上まわる敗者がいるということだ」

「プロのテニスについて考えよう。トーナメントには32人の選手が参加する。彼らの半数が第1ラウンドで負け、甘美な勝利を一度も味わうことなく家に帰る。残った16人のうち8人はたった一度の勝利と追放を味わって家に帰る。人間的見地から言うなら、トーナメントでひときわ目立つ経験は敗北という経験だろう」

 そしてジョンはこう結論づける。

「スポーツが教えてくれるのは勝つことについてよりも負けることについてで、理由は簡単、われわれのじつに多くが勝たないからだ。なによりそれが教えてくれるのは、負けたっていいんだ、ということである。負けることはこの世で最悪のことではない、なぜならスポーツは、戦争と違って、敗者が勝者によって喉を掻き切られることはないのだから」

 なるほど! 

2014/04/29

ポールとジョンの朗読 in ブエノスアイレス

4月末にチリからアルゼンチンへ行き、ブックフェアで朗読をした2人、ポール・オースターとジョン・クッツェー。ネット上で読める記事はたいがいスペイン語ですので──当然ながら──よく分からない/涙。

ここではせめて、2人の写真をアップします。スペイン語が得意な方は、ぜひ記事を読んで、面白いことが書いてあったらどこかにアップしてください。

クッツェーのめずらしいインタビュー記事とか。チリの軍政下での検閲制度のもとで文学者たちがどう書いたかとか。








San Martin Univ. で2人が名誉博士号を授与されたとのこと。クッツェーはこのとき Diary of a Bad Year から朗読しました。詳しい記事はこちらへ

2014/04/26

ゲラのあいまに蕗を煮る/クッツェーは南アメリカを旅

今日はゲラとゲラのあいまの束の間の休日。昨日、クッツェー三部作の詳細な年譜をメールで送って、ようやくこれで、三作分の本文、かなり長い解説、詳しい年譜、著訳書リスト、写真キャプション、著訳者略歴などなど、本に必要な原稿がすべてそろった。

ジョン・クッツェーご本人はいまポール・オースターと南アメリカにいるらしい。先日はチリのサンチアゴにあらわれ、数日後はアルゼンチンのブエノスアイレスに姿を見せるという。6月にはふたたびノリッジ文学祭にも参加予定だというから、今年もまた、世界中を飛びまわっているようだ。

 そのクッツェーの自伝的三部作、ここまでたどりつくのに随分時間がかかった。でも嬉しいことに、大勢の方々の助力、協力をえることができたし、幸運なタイミングというのもあったかもしれない。でも、タイミングといえば、この企画が始まった直後にこの群島を襲った災害、災厄もあった。そして、いまや全世界を見舞いつつある不運も。
 
 でも今日は、朝から晴れて、ひさびさのまるごとの休日。どう使おうか、わくわくした。まず若い光があふれる午前に蕗を採ってきた。さっと湯がいて皮を取り、薄いだし汁で煮物にした。いまの蕗は皮を剥くと、なんだか頼りないほど細くなるけれど、あくも少なく美味しい。春まっさかりの味覚だ。

 午後はやっぱり風が起きた。ひゅうひゅう唸る4月の風は特有の黒っぽい埃を運んでくる。この風、吹きながら憂いもまた運びさってくれるといいのだけれど。

 この季節、新タマネギや春キャベツが美味しいときでもあって、キャベツ狂いでキャベツばかり食べている人もいるらしい。わが家でもスライスした新タマネギを軽く天日干しにして瓶に入れ蜂蜜酢を注いで漬け込み、それを湯がいた春キャベツでいただくのが流行っている。家人がどこかでレシピを入手して始めたものだけれど、これが予想外にいけるのだ。パンでいただく朝ご飯にも、ワインといっしょに夕ご飯の少し前にも。健康にもいいとか。

 結局、どんなときでも、食べ物と料理法は文句なく興味、関心がそそられるものであるらしい。でも、それはとりあえず、戦争とか災害とか緊急時から遠いところで営まれる暮らしにおいて、という条件つきだけれどね。

****
PS: 南アメリカはアルゼンチンにいるらしいそのクッツェーの「小さいころロビンソン・クルーソーって実在の人物だと思っていた」というぶっちゃけたインタビューがここで読めます。ただしスペイン語! 

2013/11/23

ジョンとポールの往復書簡、翻訳まっさいちゅう

どんどん進みます。ジョンとポールの往復書簡集「Here and Now」。

 昨日と今日、訳したところで、すごく面白いところがありました。1947年にアメリカで生まれていまもそこに住むポール・オースターと、1940年に南アフリカで生まれてここ10年ほどはオーストラリアに住むジョン・クッツェーがやりとりする手紙のなかで、話題はイスラエル/パレスチナ問題から発展し、旧南アのアパルトヘイト体制のことに及びます。

ポールがイスラエルと旧アパルトヘイト体制下の南アフリカを比較して、少なくとも南アフリカはイスラエルのように周辺諸国から威嚇されることはなかった、と述べると、ジョンは、いや、80年代にアンゴラとの戦争で南アは負けたんだ、キューバの友軍がソ連製の優れたジェット戦闘機で数の上でも性能の上でも南ア軍を圧倒したと、ポールの認識をただす場面があります。

 それに対してポールは、あ、ごめん、ばかだった、と反省しながらも、ふたたび「アパルトヘイトは基本的に国内問題だったよね」と述べるところがあるのですが、これに対してジョンは次の手紙の「追伸」でこんなふうに返します。


追伸/南アフリカの歴史についてこれ以上、無用に議論を広げたいとは思わないが、もしも冷戦がなかったら、南アフリカの混乱全体がもっと早期に解決していたかもしれない。何十年ものあいだ、南アフリカの政治制度は、鉱物資源に富んだサハラ砂漠以南のアフリカへロシアが侵攻するのを防ぐための要塞代わりを務めていたのであって、合州国政府は代々そのシナリオに乗っかってきたんだ。ANC(アフリカ民族会議)が南アフリカ共産党と網の目のように絡まったことは助けにならなかった。
 南アフリカの旧制度は、合州国が冷戦時代に戦略上の目的で資金援助した独裁制や寡頭政治からなる世界規模のラッツネストの一つにすぎなかった。ソ連が崩壊し、ベルリンの壁が倒れたおなじ年に、F・W・デクラークがANCを合法化したのは偶然の一致ではなかったんだ。


 ここに読み取れるのは、外交関係について圧倒的な支配力をおよぼすアメリカという大国内に生まれ、いまもそこに住み暮らす人間の世界認識と、世界全体のなかでは周辺に位置づけられる国に生まれた人間の、グローバル経済をめぐる紛れもない認識の差です。
 いまやこの国も、このラッツネストの一つであることがあらわになってきたことを考えると、これは大変に興味深いですね。

付記:写真はカタルーニャ語版。スペイン語版ももちろん出ています。スペイン語を母語とする話者は世界に4億2000万ですが、カタルーニャ語は約300万人。なのにあっという間に訳されるクッツェーというのもすごい。ちなみにフランス語の母語人数は7200万、日本語は1億3000万で倍近いというのもあらためて驚きます。
 日本人の頭のなかでは、総人口にしろ言語の話者人口にしろ、ヨーロッパ偏向的書き換えが起きているのでは? と思う瞬間がありますが、それにしても、カタルーニャ語がんばっていますね。ざっと40倍の話者のいる日本語なんですから、がんばらなくっちゃ。

2013/11/08

フランス語訳『Here and Now』── Ici & maintenant

早い! もう届いたのだ。なにが?

Here and Now』のフランス語訳、タイトルはそのまま直訳の『Ici & maintenant』。形が面白い、縦長の変形。遊んでいるなあ。ちょっと贅沢! 
 手に持って開くと、とってもいい感じにページが開く。大きめだけれど、これなら電車のなかでも読める。コートのポケットにすいっと入りそうだ。もちろんバッグにも縦に、折り畳んだ新聞みたいに射し込める。
 最初からペーパーバックというのも洒落ている。出版社がいつもの Seuil ではなく、Actes Sud という出版社なのだ。表紙にまでこんな断り書きが出ていて、笑える。

 traduit de l'anglais [États-Unie et Afrique du Sud]
   par Céline Curiol et Catherine Lauga du Plessis

こんな断り書き、というのは、クッツェーもオースターもこの本のなかで、自分のフランス語訳には扉にいつもこういう断り書きが出る、と、ちょっと不満そうに、ちょっと面白がって触れているからで、出版社はそれをわざわざカバーにまで印刷してしまったわけだ。

 もちろんこの場合、「合州国」英語はオースターの英語を、「南アフリカ」英語はクッツェーの英語のことをさしている。面白いのは、僕の英語がいつから「南アフリカ英語」になったのか、だれか教えてもらいたい、というようなことをクッツェーが述べる場面が、この本のなかに出てきたりするところ。

 クッツェーのパートを訳しているカトリーヌさんは、70年代にケープタウンに住んでいたことのある、ジョンの何十年来の友人で、私も以前から彼女のフランス語訳は参照してきた。今回もまた、いろいろお世話になりそうだ。

2013/11/06

詩が人生の手引書だったころ

今日、ジョンの手紙を訳していて行き当たった、興味深い箇所を紹介する。

 これは、世界中で60年代、70年代を若者として生きた人間なら、誰もが思いあたることだろう。ここで述べられていることの舞台は、おもに合州国とヨーロッパではあるけれど、日本だって無縁ではない。


 ジョン・クッツェーがいうように、むしろ、東ヨーロッパとおなじような「真剣さ」あるいは「切迫性」があったかもしれない。いや、どうだろう? たんに軸のない、表層の「ずらし」や「書き換え」「変形」「リパッケージ」ばかりやってきたのか、日本人は? 翻訳も? それが、いまの文化状況を作ったのか? 考えてみたいところだ。


以下引用(Here and Now, p97-98):


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 先日の手紙で君は大戦後のアメリカの詩人たち、つまり1945年以後に頭角をあらわした詩人たちの名前を列挙していたが、確かにあれは抜群のリストだ。今日、彼らに匹敵する者がいるだろうか?


 せっかちに返事を書かないよう僕は用心したほうがいいかもしれない──老人は若者の美点が見えないことで悪名高いから。しかし、今日の読者のなかで現代詩人が言っていることから人生の手がかりをつかもうとする者はほとんどいないと言っていい。ところがなんと1960年代は、さらに、1970年代のある時期まで、多くの若者たちが──じつに、多くの最良の若者たちが──詩を、生きるための真の手引きだと考えていた。僕がここで言っているのは、合州国の若者たちのことだが、ヨーロッパでもそれはおなじだったし──もっとはっきり言うと、東ヨーロッパではそれがとりわけ顕著だった。今日いったい誰に、ブロツキイ、ヘルベルト、エンツェンスベルガー、あるいは(より胡散臭い手法ながら)アレン・ギンズバーグがもっていた若いソウルを形づくる力があるだろうか?


 何かが起きたんだ、1970年代末か1980年代初頭に、僕にはそう思える、その結果、芸術はわれわれの内面生活における指導的役割を放棄した。あのころといまのあいだに何が起きたか、政治的、経済的、あるいは世界史的な特性をもった何か、それを分析判断することに留意する覚悟はできてはいるが、それでも僕は、作家と芸術家が、その指導的役割に向けられた異議申し立てへの抵抗におおむね失敗し、その失敗のために今日われわれはより貧しくなったんだと思っている。


2013/11/04

ジョンとポールの往復書簡 ── 翻訳作業再開!

ひと月ほど翻訳仕事から遠ざかっていました。

 クッツェーの自伝的三部作 Scenes from Provincial Life の訳稿を送って以来、すっかり脱力していましたが、見渡せばもう秋。木の葉も美しく色づいて。さあ、今日から作業再開です!

 今日訳していて面白かったのは、通りの名前と文学的連想について(詳細は書きませんが、本になったとき興をそぐので.....)、そして、ベケットがなぜ英語を放棄したか、とか。connotation と denotation。おお、言語学で遠い昔に馴染んだことばたちだ! 60年代に流行った構造主義言語学、クッツェーはこの当時の言語学の申し子であることを公言しています。
 日本でも70年代初頭のフランス語学やフランス文学の周辺には必ずあった「言語学の講座」。わたしも齧りました。なつかしい!

2013/07/09

猛暑への反撃 ── 床そうじと白ワイン

数日前にいきなり襲ってきた猛暑、あまりの暑さに最初は音をあげた頭と身体も、次第に反撃を準備して、まずは窓ふきでクリアな視界、つぎは床そうじで裸足の足裏がぺたぺたと気持ちいい(祖母の教え)、すると俄然、仕事にも弾みがついて、暑さのために約半分に減っていた仕事量が今日はぐんと進んだ。クッツェーとオースターの往復書簡集。

 こんな展開はまだ暑さが序の口、のうちだけだけれど。さあ、そろそろ冷たいワインの時間だ。今日は地元のトマトと茄子でラタトゥーユも作ったし…。最近はグラスにもっぱら冷酒用の、ほんのりピンクのカットグラスを使っている。先日、94歳になった母とおそろい。

 左のサンダーバードを描いた陶製のコースターは、1995年にカナダはバンクーバー沖の島に住む友人を訪ねたときに買ったもので、とても気に入っている。

2013/07/06

彼らの行間 ── クッツェー&オースター往復書簡集

オーストラリアの新聞「シドニー・モーニング・ヘラルド」に少し前に『Here and Now』の書評が載っていた。オースターとクッツェーの往復書簡集については、もちろん、これまでにも英語圏の新聞や雑誌には数えきれないほどの書評が掲載された。でも、5月に載ったこの評には愉快なイラストがついていたので、そのイラストをちょっと拝借しておこう。


 評者はDelia Falconerという人。タイトルは、Between thier Lines、彼らの行間! パソコンで手紙を書いて印刷してからファクスで送る1940年生まれのジョン・クッツェー、かたや手動のタイプライターで手紙を書いて郵送する1947年生まれのポール・オースター。孤高の二人のあいだに、伝書鳩が飛んでいる!

2014.9.30: 付記/イラストは by Andrew Dyson です。もとのページはここ。
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2013.12.10付記:よくよく調べると、ポールはファクスではなく、なんと郵便で手紙を出していました! Sorry!