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2017/04/20

第5回「南の文学」のテーマは映画!

 2015年から毎年2回、ブエノスアイレスのサンマルティン大学で行われている「南の文学」講座。第5回目にあたる今年は、5月3日から7日まで。テーマは「本からスクリーンへ」、つまり「映画」! 文学作品をシナリオに書くことについて学ぶコースがあるとか。

 ゲストはオーストラリアから映画『Disgrace』のシナリオを書いたアナ・マリア・モンティセッリ、『ロミュラス、わが父』(日本での上映名は「ディア・マイ・ファーザー」)の原作者レイモンド・ガイタ、アルゼンチンからはトリスタン・バウアー監督が参加する予定らしい。おもな講師陣がUNSAMのサイトにアップされているのでぜひ!


 そうだ、すっかり忘れていた。クッツェーの第三作『夷狄を待ちながら』がコロンビアの若手監督シーロ・ゲーラによって映画化されるんだった。詳しくはここで。

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追記:加筆しているうちに、消えてしまった箇所があって、あらためて書き直しました(汗)。講師陣については、ある記事を参照して書いたのですが、公式サイトのほうが確かかも。

2010/10/05

ルーシー再発見/映画「Disgrace」と小説『恥辱』 

 翻訳中のゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』はちょっと横に置いて「もうひとりのデイヴィッド」の物語を読んでいる。デイヴィッド・ルーリー、大学教授、52歳、離婚歴2回。そう、知る人ぞ知る、J・M・クッツェーの傑作『Disgrace/恥辱』の主人公である。

 友人たちがやっている映画の会で次回、スティーヴ・ジェイコブズ監督の映画「Disgrace」を観ることになった。そこで原作本をひっぱりだして読んでいる。映画を観てから原作を読み直すと、いいのやらわるいのやら、映画に登場していた俳優たちの顔がすぐに浮かんできて脳裏から離れない。デイヴィッド・ルーリーはかのジョン・マルコヴィッチだ。う〜ん、である。

 でも、いくつも発見がある。これは面白い。あ、脚本を書いたモンティセッリは、ここをこんな風に変えたのか、と原作とのちがいもよく分かる。これもまた面白い。
 再発見はなんといっても娘のルーシーだ。原作では会話部分のほかは、あくまで父であるデイヴィッドの目からみた娘として描かれているが、映画ではデイヴィッドもルーシーも観る者の視線から等距離。そのため、ルーシーに感情移入することが可能になる。つまりルーシーとの距離が縮まるのだ。

 セクハラで大学の職を失ったデイヴィッドがころがり込むルーシーの家は、東ケープにある。コーサやポンドといった先住民族との土地争奪の歴史が滲み込んでいる土地だ。その土地と「恋に落ちた」元ヒッピーの白人女性ルーシーが、3人組の若い黒人の強盗にレイプされる。それでも彼女は土地を離れない。身ごもった子供を産んで、その土地の人間になって生きていこうと苦渋の決意をするところは、作品後半の重要なテーマである。

 映画を観たあと原作を読むと、ルーシーのこのことばに作者はなにを込めた? といった問いも考えやすい。ルーシーもまた作者クッツェーの分身であることを考えるなら当然浮かんでくるはずの問いが、彼女の「かたくなさ」に呆然となって、小説が発表された10年ほど前はなかなか思い浮かばなかった。

 そんなルーシーに光をあてて再読することで、作者クッツェーと南アフリカという土地の関係もあらためて理解できる時期にきたように思えるのだけれど、どうだろうか。作者はこの小説がきっかけとなったある事件のあと南アフリカを離れたが、ワールドカップの開催もあったことだし、南アの歴史事情も、日本人にとってそれほど遠いものではなくなった、そう思いたいものだ。☆

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2013.7.4付記:2000年に起きたANCや人権委員会からの『Disgrace』への批判と、作家クッツェーがオーストラリアに移住したことには直接的な関係はない。クッツェーが1990年代半ばころからアデレードへ移り住むことを考えはじめ、書類などもそろえていたことはカンネメイヤーの「J.M.Ceotzee:A Life in Writing」でも明らかにされている。たまたま、時期的に重なったため、単純な「理由」をもとめる世界中のメディアと視聴者が飛びついただけなのだ。かくいうわたしも報道されたニュースに振りまわされた。深く反省して、ここに訂正したい。

2009/06/22

南アフリカ──1Q94?

昨日、たまたま観たNHKのテレビ番組「海外ネット──W杯準備は万全?」で、アパルトヘイトについて触れた箇所がありました。アパルトヘイトが完全になくなった年を1994年として、画面の右下に大きな太い文字で「1994」と出していたのが強く印象に残りました。

「それぞれの民族の分離発展」を名目としてうたい、権利を奪われた人たちを搾取しつづける制度を合法化し、政策を正当化し、「人間への犯罪」とまでいわれた南アフリカのアパルトヘイトでしたが、当時のデクラーク大統領が国会で法律そのものの廃止を宣言したのが1991年(追記2010.6.13/4つのアパルトヘイト根幹法のうち最後まで残っていた法律を廃止すると宣言、まだ関連法はいくつも残っていた)、それから解放組織への政権委譲のための交渉委員会が設けられ、この間、さまざまな政治勢力の衝突、虐殺、暗殺などの時期を経て、ようやく全人種参加の総選挙が実施されたのが1994年の4月でした。
 
 したがって、南アフリカの人たちは「1994年」を「解放の年」と認識しています。映画「ツォツィ」でも「ホテル・ルワンダ」でも、登場人物たちが「1994年の南ア解放」と言っていました。(字幕にはならなかったかな?)

 ところが、日本ではどういうわけか、1991年をもって「アパルトヘイト撤廃の年」とする人たちが少なからずいたのです。本当になぜでしょうねえ? それでも、昨日の番組を見るかぎり、「1994年」がようやく定着してきたように思えます。

 まあ「撤廃」といっても、現実には、貧富の差が開いた、といわれていますし、南アに何度も足を運んできた人のなかには、現状を見て、「まだアパルトヘイトからの解放はない」と言い切る人さえいますから、この辺のことは実情を細かく見ないかぎり、どっちがどうだ、と言っていても始まらない部分も残りますが、やはり、それはそれ、これはこれ、です。

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<2009.6.28追加情報>
映画「Disgrace」の予告編がここで見ることができます。ご興味のある方はどうぞ。

2009/06/01

映画「Disgrace/恥辱」の評──オーストラリアの書評誌より

映画「Disgrace」の面白い評を見つけました。Brian McFarlane という人が「Australian Book Review」に書いた評です。

 少しだけ抜き書きしてみます。

Coetzee maintains a distance, an observational detachment from David Lurie, making the reader privy to the essential passages of his life in a spare prose almost lapidary in its precision and refusal of commentary and decorative effect.

  ──中略──

it is as if he(Jacobs)has also intended to preserve Coetzee’s curious tone of objectivity in the chronicling of these events; as though only by such an approach could he ensure our thinking about the issues put before us. There is perhaps a Brechtian denial of easy emotional involvement in favour of a tougher engagement with tough matters.

評者マクファーレンは、クッツェーの小説「Disgrace」をSteve Jacobs 監督が映画化した同名の作品と、フィリップ・ロスの小説「The Dying Animal」をIsabel Coixetが監督した映画「Elegy」とを比較しながら論じています。しかし、重点がおかれるのはもっぱら「Disgrace」。

 作家クッツェーは主人公デイヴィッド・ルーリーから距離を置き、あくまで客観的な剥離/分離を維持しながら、読者をエッセンシャルな話の流れに巻き込んで行く、それも「ほとんど宝石細工のように研磨された精確、かつ簡潔な文体で、説明や装飾効果をいっさい拒否して」──と。

 そして、映画化したジェイコブズ監督もまた、そういった「好奇心をそそる客観的トーン」を踏襲しながら作品内で起きる出来事を追っているが、そうすることでのみ、われわれに、確実に、作品内で扱われていることをありありと考えさせることができるといわんばかり──と論じます。ウーン!! この指摘は「Disgrace」というクッツェー作品を考えるうえでも、また、映画化という行為を考えるうえでも、なかなか重要なポイントを含んでいるように思えます。

 クッツェーは2作目の小説「In the Heart of the Country」をもとにした映画「Dust」にいたく不満足だと伝えられています。「Disgrace」の映画化にあたっては、大きな映画会社が企画した脚本にNOを出しつづけ、最終的にOKを出したのは、原作に非常に忠実なヴァージョンだったとか。若いころから映画好きのクッツェーは、いくら売るためだからといって、自分の作品がゆがめられて映画化されることには耐えられなかったのでしょう。

 ともかく、ジョン・マルコヴィッチ主演のこの映画、はやく観たいものです。

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<2009.6.28追加情報>
予告編はこちらへ

2008/10/30

第2回中東国際映画祭、J・M・クッツェー原作の『Disgrace』が最優秀作品賞

2008年10月20日 12:26 発信地:アブダビ/アラブ首長国連邦──AFPによる。

 第2回中東国際映画祭、クッツェー原作の『Disgrace』が最優秀作品賞を受賞した。
 スティーヴ・ジェイコブス(Steve Jacobs)監督が手掛けたこの作品は、ノーベル賞作家J・M・クッツェー(J.M. Coetzee)の同名小説を下敷きにしたもので、主演はジョン・マルコヴィッチ(John Malkovich)。最高賞の「黒真珠賞」として賞金20万ドル(約2000万円)が授与された。
 映画祭には、34か国から長編76本、短編34本が出品された。
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このところ映画「Disgrace」のチェックを怠っていたら、なんと、中東国際映画祭で最優秀作品賞を受賞していました!

2008/09/08

トロント国際映画祭で『Disgrace/恥辱』プレミア上映

現地時間で9月6日夕刻、J.M.クッツェーの原作をもとにした映画『Disgrace/恥辱』が初公開されました。

写真左から、デイヴィッド・ルーリー役のジョン・マルコヴィッチ、脚本のアナ=マリア・モンティセッリ、ルーシー役のジェシカ・ヘインズ、監督のスティーヴ・ジェイコブズ。

詳しくはこちらで、
http://tiff08.ca/filmsandschedules/films/disgrace

写真は、
http://uk.news.yahoo.com/ap/20080907/img/pen-toronto-film-festival-d-60eec7f4b187.html

記事は、
http://www.theaustralian.news.com.au/story/0,25197,24309727-5013404,00.html

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早く観たい!!!!──エスペランサのつぶやき

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追記(2008.9.13):「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」にこの映画の評(Joan Dupont 記者)が載りました。そのなかでクッツェーがこの映画について述べたコメントが引用されています。

「スティーヴ・ジェイコブズは、南アフリカという大きな風景のなかに物語を溶け込ませることに巧く成功している。中心となる俳優たちは力強く、考え抜いた演技をしている」

ますます楽しみになってきました。その記事によれば、すでに配給権は南アフリカをはじめ、ヨーロッパ各国、トルコ、イスラエル、ブラジル、メキシコに売れたと伝えられています。日本の配給会社も早く買ってください!

2008/08/25

映画「Disgrace/恥辱」のシナリオライターが受賞

J.M.クッツェーの小説『Disgrace/恥辱』がジョン・マルコヴィッチの主演で映画化され、来月、トロント映画祭で初めて上映されることになったのは、前にも書きました。
 そのシナリオを書いたアナ=マリア・モンティセッリ(写真)が、オーストラリア作家組合が主催する、小説作品のベスト映画化賞を受賞しました。

 クッツェーがこの小説の映画化権をだれに許可するか、ハリウッドを中心に何度もプランが浮上しては消えましたが、それは作家自身がスクリプトを読んで、許諾を出す権利をもっていたからです。最終的にオーケーが出たのは、もと女優でモデルのアナ=マリア・モンティセッリのものだったというのが面白い。彼女がスクリプトを書くのは2度目だそうです。
 決めてはオリジナル作品をゆがめないこと、テーマはもちろん細やかなニュアンスをスクリーンできちんと再現すること、だったとか。でも、映画は最後の部分を少しだけアレンジしてあり、クッツェー自身もそれを許諾したと伝えられています。さて、どんなふうに変わっているのか、楽しみです。

 監督は夫のスティーヴ・ジェイコブズ。主演はジョン・マルコヴィッチ、ルーシー役はジェシカ・ヘインズ。ペトルス役が、コンゴの悲劇的英雄パトリス・ルムンバを描いた映画『ルムンバ』のエリック・エブアニです。
 映画はトロント映画祭でプレミア上映されたあと、9月にオーストラリアで封切られる予定。

*この項のタイトルをクリックすると、The Sydney Morning Herald の記事へ行けます。

2008/07/09

映画「恥辱」がトロント映画祭へ

 ジョン・マルコヴィッチ主演で南アフリカ、オーストラリアで撮影された映画「Disgrace/恥辱」は、まず、9月にカナダのトロント国際映画祭で、スパイク・リーの新作「Miracle at St. Anna」とともに初公開されることになった。

 詳しくは ↓
 http://www.theaustralian.news.com.au/story/0,25197,23990221-16955,00.html
 http://www.cbc.ca/arts/film/story/2008/07/02/tiff-special.html

 11月にはロシアでの公開が決まっている。南アフリカでの公開は2008年中、となってはいるだけで、日程はまだはっきりしない。

2008/06/27

映画『Disgrace/恥辱』のシナリオライターは語る

 J.M.クッツェーの1999年に発表された小説『Disgrace/恥辱』が映画化された。主演がレイフ・ファインズからジョン・マルコヴィッチに変わって(たしか、ファインズの前にも別の候補が噂されていたような…そう! ジェレミー・アイアンズ! この俳優がデイヴィッド・ルーリーを演じるのを見てみたかったナ)、最終的にはオーストラリアのスティーヴ・ジェイコブズ監督、アナ=マリア・モンティセッリ脚本によって完成。撮影は2007年はじめに、ケープタウンとその近郊シーダーバーグで行われ、ケープタウン大学も撮影場所に使われた。
 脚本を書いたモンティセッリは女優からシナリオライターに転じた人で、クッツェーのこの小説を買ったとき、まさか自分がそのシナリオを書くことになるとは思わなかったそうだ。「でも、すぐに、これはすばらしい映画になると思ったの・・・いろんな思想や複雑なものがぎっしり詰まった本だから・・・さんざんスクリプトを読んだけれど、どれも陳腐で意外性に欠けていた。思想ってものがない、というか、自分を見つめさせるような、困難なことに直面させられて、それを否応なく、深く考えさせる論点が含まれていないの」。
 映画を監督したスティーヴ・ジェイコブズはモンティセッリの夫。「THE AUSTRALIAN/2007年7月18日付」に彼女のインタビューが掲載された時点で、2008年の公開に向けて、映画はポストプロダクションの最中だというから、フィルムはすでに完成したと考えていいのだろう。

 アパルトヘイト撤廃後の南アフリカを舞台にした小説『恥辱』の主人公は、「大学改革」に失望した大学教授だ。教えている女子学生のひとりを誘惑したことをきっかけに、彼の人生は混乱のきわみに陥る。モンティセッリによると、このキャラクターは彼女に、映画のなかで、男の欲望と、権力と、偽善を深くさぐりたいと思わせたという。アフリカで映画を製作したいと思っていた、モロッコ生まれのモンティセッリは、映画『恥辱』でその夢がかなったわけだ。

 英国の映画製作会社のいくつかが、この小説の映画化権についてオプションをもっていたため、その期限が切れるのを待って、彼女はこの物語の映画化を熱望する人たちの列に加わった。もちろんその前に、原作者クッツェーに自分のシナリオライターとしてのデビュー作「ラ・スパグノーラ」(2001)を観てもらい、強い印象をあたえておいた。

「わたしにとって最も重要なことは、この本を歪曲しないこと、素材に誠実であることだった」と彼女は述べている。「シナリオを書くための決め手は、登場人物たちがなぜその行動をとるのか、彼らがどのように考えているのか、そのような状況のもとで生きるのはどういうことか、それをきちんと理解することだった。良いスクリプトを書くのは本当に大変だけれど、でも、こつをしっかり理解すれば難しくはなくなるものよ」とも。

 オーストラリアや南アフリカでは、2008年公開が予定されている。
 日本でも、一般上映されるといいなあ!

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You ought to be in pictures:THE AUSTRALIAN,July 18, 2007」をもとに加筆しました。