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2023/06/11

「海外文学の森へ 56」『過去を売る男』:ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ著、木下眞穂訳『過去を売る男』

東京新聞(6月6日夕刊)のコラム「海外文学の森 56」でジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ著、木下眞穂訳『過去を売る男』(白水社)を紹介しました。

 このリレーコラム、最初は「書評より、もっと柔らかく、身近なことも含めてエッセイふうに」という依頼だったように記憶しています。「柔らかく」がうまくいってるかどうかは別として、今回は、むかしのこともちょっと書いたり。

タイトルは、担当の記者の方が付けてくれたものです。

***アンゴラの風に乗って***

「トッケー、トッケー」と鳴くヤモリが壁を這う家に泊まったことがある。小さな娘たちとタイへ旅した遠い昔だ。『過去を売る男』を読んで、アンゴラのヤモリは笑うのか! と溜め息をつく。アンゴラのヤモリの声も聞いてみたかった。そんな叶わぬ旅への憧憬をかき立てる作品だ。

 主人公フェリックス・ヴェントゥーラはアルビノの黒人、資料を集めて過去を創作し、それを売ることを生業にしている。ポルトガル移民で古書店主の祖父、その息子が養父、という彼の系譜自体が謎めいている。おまけに家に住み着いたヤモリ語りに遠い記憶が入り込む。このヤモリ、かつては人間だったらしい


 舞台となるアンゴラはアフリカ南西部の大きな国だ。西は大西洋に面し、北はコンゴ民主共和国、南はナミビアに隣接し、かつてはポルトガルの植民地で奴隷の輸出国だった。独立は一九七五年だが二〇〇二年まで内戦が続いた。


 六〇年生まれのアグアルーザは、ポルトガル語にいくつかバンツー系言語が混じる環境で育ったのだろう。作品内には渇いた風が運ぶいくつもの微かな声音が響き、鮮やかな色調が揺れる。


 南部アフリカにはトカゲ、ヤモリといった動物が登場する神話、民話が多い。ズールー民族の詩人マジシ・クネーネが記録した民族創世神話ではカメレオンが神の使者だし、モザンビークの作家ミア・コウトにはハラカブマ(センザンコウ)が男の内部に棲みつく物語がある。


 本書は三十二の短章が深い奥ゆきをもって連なる。過去を買いにきた男、美貌の写真家、浮浪者といった登場人物を天井から眺めるヤモリ。エピグラフのボルヘスが道づれとなり先へ先へと飽きずに読ませる。夢のなかで真実と嘘が一瞬のうちに入れ代わり、過去と現在の境が揺らぐ。


 フェリックスがヤモリと語り合うときは、書き留めたくなることばが多い。雲は「夢の出口に見えない?」とか「幸福とは、たいていの場合、無責任だ」とか。


 土地に染みついた裏切りの記憶がカラフルな房糸となって、一気にほつれて謎が解ける。その向こうに「アンゴラの海」が見えるだろうか?


                      くぼたのぞみ(翻訳家、詩人)


PDFでアップできないので、そっくりペーストします。

2023/03/10

読書記録──三浦英之著『太陽の子』

三浦英之著『太陽の子、日本がアフリカに置き去りにした秘密』(集英社、2022)を一気読みした。

 1960年代からコンゴ民主共和国で大規模な鉱山開発をした日本企業があった。鉱物資源企業「日本鉱業」だ。それはちょうど石炭が斜陽になっていった時期と重なる。資源を持たない国は必然的に、必要に応じてこの地球上で鉱山資源が埋まっている場所を試掘し、採掘し、精錬し、輸送し、と大規模展開をすることになる。
 そして、その企業活動のために、コンゴに約500名の日本人が住んでいた時期がある。1970年代から80年代にかけてだ。銅を採掘するための拠点として、事業所はもちろん、企業活動をする人たちのために住宅、宿舎、学校、病院などが建設された。

 何年もの労働と生活の場としてのコンゴで、コンゴ人女性と「結婚」して子供を作った日本人男性たちがいた。問題は女性たちが10代の少女だったことだ。日本人男性は20-40代。企業が撤退することになったとき、妻と子供たちは置き去りにされた。それはどういうことだったのか。その時代のコンゴと日本の社会状況、世界経済の波、さまざまな要因を考え合せながら、朝日新聞のアフリカ特派員、三浦英之は6年という歳月をかけて深く、長く取材を重ねていく。

「お父さんに会いたい、お父さんを探してください。僕は、私は、日本人なんです」

2006年版ペーパーバック
 そう語る「残された子どもたち」のインタビューが「フランス24」に流れ、さらにBBCの記事にもなったことは、わたしも鮮明に記憶している。日本人の病院でコンゴ人女性が産んだ赤ん坊が殺されたという噂がたった。それがニュースになった。これは、その報道内容がどこまで事実で、どこまでが「裏付けなしの一方的な報道」かを検証した報告書である。労を惜しまずに多くの人に直接インタビューをして書かれた報告書は、読みはじめたら止まらなくなり、最後まで一気に読んだ。
 コンゴの、できるだけ多くの人たちに直接インタビューをして話を聞いていく。日本に帰国した時は鉱山会社の人、コンゴで働いていた男性たちを探し出して話を聞く。そんな三浦記者を支えていたのは、長年コンゴに住み暮らしてきた70代の2人(いや在コンゴ日本大使館の人もいたから3人)の日本人カトリック教徒だったことが印象的だ。

 コンゴで鉱山開発が行われた60-70年代というのは、九州や北海道の炭鉱が相次いで閉山に追い込まれた時期でもあって、失職した炭鉱労働者がコンゴへ「出稼ぎ」に行ったことは想像に難くない。また著者が「あとがき」で「アフリカで鉱山開発に携わった少なくない数の労働者たちが帰国後、新しい、「純国産エネルギー」を支えるため、各地の原子力発電所へ送られている」と書いていることも忘れがたい。


 一時期「ザイール」という名になり、いまはまた「コンゴ」に戻ったこの国は、アフリカで最も広い面積を持っている国だ。かつては生ゴムの最大の輸出国でもあった。コンゴ河が海に流れこむ地域はフランス、ベルギー、イギリスなどの帝国による争奪戦になった。やがてウェールズ生まれの「ジャーナリストで探検家」スタンリーとベルギー国王レオポルド2世の結託で、長期にわたり「国王の私有地」となり、自動車のタイヤの爆発的なニーズによってゴム生産で巨大な富を生み出すようになる。そして第二次世界大戦後は、南東部カタンガ州がとりわけ鉱山資源が豊かなゆえに、ヨーロッパ諸国をはじめ世界中から熱い視線を浴びつつける。PCなどの蓄電池に欠かせないレアメタル、タンタルを含むコルタンの産出では他の追随を許さないからだ。アフリカのこの地域を長期にわたり「紛争地」にしておくことで利を得ている人たちがいるのだ。

 アフリカ諸国が次々と独立する1960年に、ベルギー領コンゴもまた独立。初代大統領にパトリス・ルムンバが選出された。だが、カタンガ州の鉱物資源の利権をめぐる権力闘争ゆえに暗殺された。『ルムンバの叫び』という映画にもなった。つい最近もこの暗殺にCIAとベルギー政府が絡んでいたことが明らかになったばかりだ。

 コンゴ事情を知るために三浦記者が参考資料としてあげている、藤永茂著『『闇の奥』の奥』(三交社、2006)は、出版されたときすぐに読んだ。だが、残念でならないのは、この本を書く動機になったというアダム・ホックシールドAdam Hochschildの名著『レオポルド王の亡霊/ King Leopold's Ghost, A Story of Greed, Terror and Heroism in Colonial Africa』(2006アップデート版)が日本語に翻訳されていないことだ。当時、企画会議にかけた出版社もあったと伝え聞くが、出版にいたらなかったのは日本の読者にとっても残念極まりない。

 なぜなら『レオポルド王の亡霊』という本は、現在のコンゴがなぜあのような国でありつづけるのか、レアメタルをめぐる紛争と筆舌に尽くし難い女性への性暴力の根幹を知るための必読書といえるからだ。ノーベル平和賞を受賞したムクウェゲ医師のところで止まらずに、いまからでも遅くないので、ぜひ、どこかの出版社がこの『レオポルド王の亡霊』を出さないものだろうか。

  調べてみると、原著はペーパーバックの表紙が何種類も出てくる。何度も版をあらためて、長期にわたって読み継がれているようだ。最近ではバーバラ・キングソルヴァーの序文がついた版もあるし、電子版もあるので、試し読みができる。コンゴについての基本的な史実を知りたい人には、いや、世界経済の根幹をなす「資源」について知りたい人に、超おすすめです。

***

2023.3.11──昨夜、このブログを書きながら写真をうまくアップできずにいるうちに、消えてしまった部分があったことを、ある人から教えていただいた。それは図らずも今日で12年目を迎える「3.11」の原発事故と深く関係する部分でもあった。それを補ったことを付記しておく。


2021/12/03

イベント:12月18日午後4時から──アフリカン文学をめぐって

2021年のノーベル文学賞はザンジバル出身の英語で書く作家、アブドゥルラザク・グルナが受賞しました。名前の通りグルナはアラブ系です。

他にもアフリカ出身の作家、アフリカ系の作家が今年の名だたる文学賞を総なめにした感がありました。そんな年の最後を飾るイベントにふさわしく、「アフリカン文学をめぐって」というイベントが開催されます。 わたしは第一部で30分ほど話をしますが、録音による参加です。


YOUTUBEの無料ライブイベントですので、どなたでも見ることができます。ポスターとリンク先をここに貼っておきます。

詳しいイベント情報はこちらから → アフリカン文学をめぐって

配信アドレス:https://youtu.be/zegrJRdsa1w

2020/12/11

訳者あとがきってノイズ?──『ブルースだってただの唄』復刊を祝って


 この本(傍点)はあとがきを書くために翻訳した──と冗談まじりに口にしたのは、忘年会には少し早い、楽しい酒席でのことだった。するとテーブルの端から「訳者あとがき」について原稿依頼が飛んできた。締め切りまで間があったので、それは頭の引き出しにしまい込まれた。ところが、冬だというのになにやら薄暗がりでつぶつぶが芽を出して、光を放ちはじめた。あれはひょっとしたら、口から出まかせではなくて本当だったんじゃないか、本当にあとがきを書くために翻訳したんじゃないのか、とつぶつぶが問いつづけるのだ。

「この本」とは昨秋、新訳したJ・M・クッツェーの初作『ダスクランズ』(人文書院刊)のことだ。そういえば翻訳作業のスケジュールでは、あとがきを書く時間を二カ月と最初から見積もっていたんだ。約四十枚と編集担当者にも伝えてあったじゃないか──増えたけど。仕上がった訳をそばに寝かせて、あとがきを書いた。取り憑かれたように、二十四時間そればかり。あそこはやっぱりこうかもしれない、ふと浮かんだことばを書きつけるため、真夜中にがばっと起きあがってキーボードに向かう、そんな日がつづいて「J・M・クッツェーと終わりなき自問」がぼんやりと形になっていった。


 二〇一七年三月下旬にクッツェー研究の第一人者デイヴィッド・アトウェル氏が来日して事実関係をあれこれ確認できて、あとがきはとてもすっきりしてきた。だが、それにも増して自分でもはっきりさせたかったのは、一度日本語になった作品をあらたに訳し直す理由である。この作家は一九七四年に『ダスクランズ』を出してから現在までどんな作品を書き継いできたか、その作品群を一望にするとなにが見えてくるか、それは書いてみなければ分からなかった。クッツェーという作家を日本に紹介することになった拙訳『マイケル・K』の出版からでさえ、ほぼ三十年が過ぎている。作家を見る視点を日本の読者、世界の読者がどのように変化させてきたかも探りたかった。寝ても覚めてもとはこのことか、と思いながら遅い春の日々を送った。さて。


 翻訳はね、コンテキストが生命よ!──と藤本和子さんはいった。八〇年代初めにわたしが翻訳をやろうと思ったときのことだ。きっかけは、これまでにも何度か書いてきたが、「女たちの同時代 北米黒人女性作家選 全七巻」との出会いだった。その編集翻訳をやってのけたのが藤本さんと、朝日新聞社図書編集室の故・渾大防三恵さんだ。一九三九年生まれの藤本さんは、この仕事を三十代後半から四十代にかけてやったことになる(驚嘆!)が、そのとき『塩を食う女たち』という黒人女性の聞き書き集も出している(岩波現代文庫に入ったのは本当に嬉しい)。


 選集には「女たちの同時代」とあるように、同時代を生きる黒い女たちの圧倒的な声があった。その力強さと存在感に打ちのめされて、貪るように読んだ。知らないうちに自分は「衰弱」していたのではないかと気づいたのだ。気づけばあとは回復をめざすのみで、そのパワーをもっぱらアフリカン・アメリカンの女性たちの作品群からもらったのだ。

 怒涛の六〇年代末から七〇年代初めにかけてたまたま学生時代を送り、四苦八苦しながら子育てのトンネルに入り、出口に光が見えたのはこの選集と『塩を食う女たち』を読んだときで、あれはわたしにとって生き延びるための文学だった、といまも思う。だから翻訳紹介をするときは呪文を唱えるように、コンテキスト、コンテキストとつぶやいてしまう。藤本さんからは、ただの紹介屋にはならないで、とも言われた記憶がある。わたしがそう受け止めただけかもしれない。ところが。


「あとがきはノイズだ」と言う人がいると聞いた。唖然とした。

 アフリカから出てくる文学や、アフリカにオリジンをもつ作家を紹介するとき、その背景を解説するだけでかなりの分量になる。たとえ詳細に書いても、受け手の網の目が粗いときは思うように伝わらない。そんなもどかしさを体験してきた者に「あとがきはノイズ」とはびっくりするような主張だった。そこからは、あとがきなどなしに読者は作品とじかに接する方がいいと言う「正論」が響いてくる。作品の真価は作品のみで理解されるべきだと言い切れる強さがにじみ出てくる。だが、その強さはどこからくるのだろう。

 目を凝らし、耳をそばだてて観察すると、おぼろげに見えてくるものがある。「あとがきノイズ論」を支えているのは、かりにそこにあっても、目に見えるものだけが存在して見えないものは無、と断言できるマジョリティゆえの強さではないのか。ラルフ・エリソンの小説『見えない人間』を思い出す。人間以下のものとして無視されてきた存在が書くことで可視化され、書かれることで存在を主張しはじめる、そのことをこのタイトルは示している。


 敗戦後、日本に入ってくる情報は圧倒的にアメリカから、となった。それを世界の情報をめぐる「非対称性」と言ってみる。わかったようで実感の伴わない表現だ。でもほら、バドワイザーに訳註はいらないけど、チブクビールはどう? ワシントンといえばすぐに当たりがつくけど、アブジャと言っても「?」となるでしょ。かく言う筆者もメルカトール図法の歪みから頭を解放するため、就職したての娘に地球儀を買ってもらったのは何歳の誕生日だったか。それを見て、おお、イスラム世界のなんと広いことか、とため息をついたのだった。そして世界を、地球上の人間の営みの全体像を、地球儀に乗って爪先立ちするつもりで想像してみるのだ。眼球の表面にごしごしと、懐疑というブラシをかけて。


 アフリカ大陸南端で生まれた作家の作品を三十年前に翻訳しはじめたわたしは、「アフリカに文学あるの?」という問いに出くわすたびに絶句してきた。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェのTEDトーク「シングル・ストーリーの危険性」が世界を駆けめぐったころから、さすがにそんな、あからさまに差別的な質問を面と向かって言う人は少なくなったけれど。アフリカ大陸は、面積だけでも日本が約八十個すっぽり入る広さで、国の数はゆうに五十を超えるのだ。どれほど多種多様な人たちが多種多様な文化をいとなんできたか、いるか。「暗黒大陸」として学んだ者(わたし)が蒙を啓かれることに遅すぎはしないのだと、今日も地球儀を引き寄せる。


 なにをわたしは言いたいのだろう? 文学作品を日本語に訳して出版するプロセスで、あとがきがノイズだと言えることが、どれほど特権的かということだ。もちろん場合にもよるが、そこにはいちいち説明しなくても、読者がすでに作品の背景や文化をある程度知っている、あるいは知らなくていい、という前提が暗黙の了解としてある。それがいかに特権的なことか。イギリスの文化、フランスの文化、と言い換えてもこれはある程度あてはまるだろう。日本とアメリカとヨーロッパだけが「世界」の中心ではないのだと陳腐なことをまた言わなければならないのだろうか。でも「欧米」とひとくくりにする乱暴な物言いが「あとがきノイズ論」では生き生きとよみがえるのだ。


 一歩踏み込んで、もう少し奥行きをもって見てみると、そのアメリカでさえ、たとえば黒人文学と呼ばれるものは、ある程度の歴史的、社会的背景を浮上させる解説がなければ伝わりにくいことがわかるだろう。その事実と早い時期から向き合ったのが先述した「北米黒人女性作家選」だった。全七巻の各巻に、丁寧な解説と日本で書くことを仕事とする女性たちの「応答」の文章が添えられていた。ントザキ・シャンゲの『死ぬことを考えた黒い女たちのために』の巻末には、先日他界した石牟礼道子さんがエッセイを寄せている。つまり、読者の社会内部の「見えない存在」を照らし出す網が、国境や言語を越えるつながりとして準備されていたのだ。


 そこには、六〇年代南部アメリカの公民権運動、都市部の貧困対策として子供たちに給食を提供することから始まったブラックパンサーの運動、それらをくぐり抜けて滋味豊かな果実として生み出された黒人女性作家たちの作品と、その全体像を伝えたいと腐心する編者たちの熱意があった。通信手段は郵便、電話、テレックス等に限られ、インターネットはおろかファクスさえない時代だ。作品を日本語に移し替えて読者に手渡すときの立体化、コンテキストの可視化への努力がそこからはひしひしと伝わってくる。アフリカン・アメリカンのアート作品を全巻にあしらった美しい平野甲賀氏の装丁によるこの選集は、出版文化賞にあたいするきわめて先駆的な仕事だった。当時のアカデミズムには逆立ちしてもなし得ない性質の仕業だったのではないか。しかし、時代はバブル期へ向かい、その後の流れはアメリカ発のミニマリズムへと舵を切り、他者と関わらないことを強く決意する端正な文体の小説が読まれる時代へと向かった。


 いま、顔を黒塗りするミンストレルショーに差別のニュアンスがあることが指摘される時代を迎えて、ようやく奴隷制をめぐる歴史は過去のものではないと認識されるようになったのだろうか。だとすれば、これまで翻訳文化が「主に」追いかけてきたアメリカは「白い」アメリカだったと知るべきだろう。それが認識の地図を激しくゆがめてきたことも。


「訳者あとがき」はノイズなどではない。とはいえ、どれほど調べて書いても、それに代価が支払われるわけではなく、やればやるほどボランティア性が高くなる作業だ。それでも、訳者あとがきは、そばにあるのに見えなかった世界を示す広角レンズになる。広い視野から世界を見渡すパースペクティヴ装置にもなる。「コンテキストがすべて」とは、そのことを言っているのだろう。それは日本語文学に風通しのよさを吹き込む「同時代性」をも指差している。

 それで『ダスクランズ』の新訳とあとがきはどうなったかといえば、視界は良好、クッツェーの現在地を伝える最新作『モラルの話』を、なんと英語のオリジナルより先に出すため翻訳中(二〇一八年五月刊行)、とお伝えしておく。


(岩波書店「図書」2018年5月号掲載)

2019/09/16

トニ・モリスン『他者の起源』より

今年8月5日に88歳で他界したアフリカン・アメリカンの作家、トニ・モリスンが2016年にハーヴァード大学で6回にわたって行った講義の記録、『The Origin of Others/他者の起源』(2017)を読んでいる。

 キーワードは「Other/他者」、「Stranger/よそ者」、「Foreigner/異邦人」、「Outsider/アウトサイダー」といったいくつかの語で示されているが、なかでも「アフリカ」や「ブラック」「ニガー」という語が抽象的な意味合いで文学作品にあらわれるとき、それは作者のどのような心理を照らし出しているかを分析するモリスンの舌鋒は鋭く、たいへん興味深い。興味深いだけではなく、『白さと想像力』(1992)からしばらくご無沙汰していたせいか、ここまで明確に言語化されるようになったかと、感慨深いものがある。

 昨日42歳になったナイジェリア出身の作家、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ(お誕生日おめでとう、チママンダ!)は『アメリカーナ』のなかで主人公イフェメルに、自分はアメリカに渡って「人種」を発見したといわせたが、そんな若手の作品を訳したあとで、モリスンの分析を読むと、モリスンが描いてきた作品の風景がまったく異なったものとして立ち上がってくるのだ。

 とりわけ『The Origin of Others/他者の起源』の最終章に、次のような文章が出てきたときは、書き写さずにいられなかった。記録として、ここに引用しておく。


 With one or two exceptions, literary Africa was an inexhaustible playground for tourists and foreigners. In the works of Joseph Conrad, Isak Dinesen, Saul Bellow, and Ernest Hemingway, whether imbued with or struggling against conventional Western views of a benighted Africa, their protagonists found the world’s second largest continent to be as empty ...... The Origin of Others by Toni Morrison (2017)

 ひとつふたつの例外はあっても、文学作品に出てくるアフリカは、旅人やよそ者にとって無尽蔵の活動の場だった。ジョゼフ・コンラッド、イサク・ディネセン、ソウル・ベロウ、アーネスト・ヘミングウェイの作品のなかで、未開のアフリカという型通りの西欧的視点に染まっていようが、それに抗い奮闘していようが、主人公たちは世界第二の巨大な大陸をからっぽと見なした......
                                          『他者の起源』、トニ・モリスン(2017)

****
 読みながら、かれこれ11年も前にJMクッツェーの『鉄の時代』を訳していたとき、メモを取ったことを思い出した。アフリカ大陸に対する文学者たちの「からっぽ」という認識は、クッツェーが南アフリカの白人文学について書いたエッセイホワイト・ライティング/White Writingで、明確に論じられていたことでもあったのだ。1988年にイェール大学出版局から出た本だ。

 クッツェーは、1652年にアフリカ大陸南端の喜望峰にヨーロッパ人がはじめて植民地をつくってから、ヨーロッパ系植民者がどのような視点から文学を紡ぎだしてきたか、それを詩や、農場を舞台にした小説を具体的に論じながら解明した。そして、植民者たちがどのような人間的退廃をたどっていったかを明らかにしたのだ。

2019/05/23

アフリカのことをどう書くか

48歳で逝ったビンヤヴァンガ・ワイナイナを追悼して、Granta に掲載された有名なエッセイを期間限定で載せることにします。(無断転載はご遠慮ください。)
Granta 92, 2005

 アフリカのことをどう書くか 
  ──How To Write About Africa──
            ビンニャヴァンガ・ワイナイナ
                  くぼたのぞみ訳

 タイトルにはかならず「アフリカ」「闇」「サファリ」といった語を使うこと。サブタイトルに入れる語としては「ザンジバル」「マサイ」「ズールー」「ザンベジ」「コンゴ」「ナイル」「大きな」「空」「シャドウ」「ドラム」「太陽」、それに「過ぎ去りし」なんてのもいい。それから「ゲリラ」「時間を超越した」「原始の」「部族的」というのも役に立つ。注意して、「People」ときたら黒人以外のアフリカ人のことで、「The People」ときたらアフリカ黒人の意味だからね。
 きみの本の表紙には、社会にうまく順応したアフリカ人の写真なんかぜったいに使わないこと。本のなかでも、そのアフリカ人がノーベル賞でも受賞しないかぎり、使ってはいけない。AK-47とか、突き出たあばら骨とか、裸の胸、そういうのを使うこと。アフリカ人を含めなければならないときは、マサイとか、ズールーとか、ドゴンの民族衣装を忘れずに着せること。
 テキスト内では、アフリカをひとつの国のようにあつかうこと。暑くて、埃っぽくて、丈の高い草のはえた波打つ大地と、動物の大群と、背が高く、飢えてガリガリの人たちのいる国だ。あるいは暑くて湿気があって、霊長類を食べるうんと背の低い人たちがいるとか。精確に描写しようなんて泥沼にはまることはない。アフリカは大きい。五十四の国があって、九億の人間はみんな飢えたり、死んだり、戦争したり、国外移住なんてことに忙しすぎて、きみの本を読むひまなんかないんだから。この大陸は砂漠や、ジャングルや、高地や、サヴァンナや、ほかにも、なんだかんだといろいろあるけど、きみの読者はそんなこといちいち気にしないから、きみの書くものはロマンチックで、刺激的で、不特定なものにしておくこと。

──中略── 

Granta 92 の目次
 登場人物のなかにかならず「飢えたアフリカ女」を登場させて、半裸で難民キャンプをうろつかせ、西欧諸国の善行を待ち望んでいるようにしなければいけない。彼女の子どもたちはまぶたに蠅がたかっていて、膨らんだ腹をしていて、母親は胸がしぼんで乳が出ない。彼女はすっかり無力感に打ちのめされているように見えなければいけない。彼女には過去もなく、それまで生きてきた歴史もない。そんなわき道へ入ると、ドラマチックな瞬間が台無しになるからね。嘆き悲しむのがいい。対話のなかでは自分のことはいっさい話題にさせないようにして、話すとしても、ひたすら(ことばにならない)苦しみに限定すること。それから忘れずに、心温かい、母親のような女性を入れること、磊落に笑ってきみが満足しているかどうか気づかってくれる女性だ。彼女のことはただ「ママ」と呼んでおくこと。彼女の子どもたちはみんな非行少年だ。これらの登場人物たちに、きみのヒーローのまわりをぶんぶん飛びまわらせて、ヒーローの見栄えをよくしなければいけない。きみのヒーローには、非行少年たちにものを教えたり水浴びをさせたり、食い物をあたえさせてもいい、彼は赤ん坊をたくさん運搬して「死」を見てしまったとかね。きみのヒーローは(ルポルタージュなら)きみだし、あるいは(フィクションなら)美しい、悲劇的な、国際的に名の知れたセレブ/貴族で、いまは動物保護に心を砕いているような人物にする。

──以下略──

解説
ブックレット
 このエッセイを書いたビンニャヴァンガ・ワイナイナ(Binyavanga Wainaina)は、二〇〇二年に「故郷を発見しながら Discovering Home」で第三回ケイン賞を受賞した作家だ(このときチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの短編「アメリカにいる、きみ」が次点だった)。その賞金でワイナイナはナイロビでクワニ・トラストを立ち上げ、雑誌「クワニ Kwani?」を刊行して若手作家を育てた。「クワニ?」とはスワヒリ語のスラングで「だから?」という意味。文学作品のみならず写真なども多用して若々しい文芸+αを発信した。

 今回紹介する皮肉たっぷりの超辛口エッセイは二〇〇五年に雑誌「Granta 92」にまず掲載され、その後クワニ・トラストによってブックレットとして出版されたものである。額面通り受け取る人がいると困る。ワイナイナの意図はまったく逆で、これは反語的なエッセイなので要注意。アフリカをひとまとめ的視点から「ルポルタージュ」として描く欧米のマスコミへの長年の憤怒が彼にこれを書かせたらしい。つまり、ワイナイナもまたアディーチェ同様、ステロタイプのアフリカのイメージを長いあいだヨーロッパ人など外部世界が押しつけてくることに憤懣やるかたない思いを抱き、それをはっきり口にするようになった作家の一人なのだ。
 面白いのはこのエッセイがネット版「グランタ」のなかでアクセス数がだんとつに多いことで、確かにコメント数が半端ではない。これ以後、誰かが(例外なく白人だとか)アフリカについて書こうとするとき彼の同意や意見を求めるようになったと、またしても辛口ユーモアたっぷりに彼が書いているのは苦笑を誘う。
 だが、最近の論評を見ていると、この一方的なものの見方は、若い書き手によって乗り越えられつつあるようだ。たとえば先ごろ来日したばかりの、サラエボから米国に渡り、そのまま英語で書くようになった作家アレクサンダル・ヘモンがリシャルト・カプシチンスキの『黒檀』を「心得違いの旅」(ヴィレッジ・ヴォイス)と評したり、ケープタウン大学のヘッドリー・トワイドルがポール・セローの新作書評で「ポール、いったいそこでなにをしてるの?」(ニュー・ステイツマン)と突っ込みを入れたりしている。
 アフリカをアフリカ人が内部から書く作品もふえ、外部から書くにしても書き方が変わってきた。これにはナディン・ゴーディマ、ウォレ・ショインカ、J・M・クッツェーといったノーベル賞受賞作家らがパトロンになって開始されたケイン賞の果たした役割は大きい。

ワイナイナのメモワール
 どうやら、西欧人受けするリリカルな文章で「アフリカの心」とか「真のアフリカ」といった「アフリカひとまとめ的視点」から書いたルポルタージュを読むだけで「アフリカを理解」する時代は終ったようだ。
 ワイナイナはその後、二〇一一年にメモワール『いつか僕はこの場所について書く One Day I Will Write About This Place』を発表。独特なビートのきいた文体で、少年期、青年期の思い出を鮮やかに描き出して、大先輩の作家グギ・ワ・ジオンゴから「彼はことばのシンガーであり画家だ」と絶賛された。また彼は、じつはこの作品から削除した章があるのだといって、この一月、四十三歳の誕生日にみずからゲイであることを公表した。ナイジェリアやウガンダで反同性愛法が成立したことに対する勇気ある行動は、世界中のメディアの注目を集めた。ケニアから発信される彼の鋭い批判精神はこれからのアフリカ文学を牽引する大きな力になっていくだろう。

            『How To Write About Africa』(Kwani Trust, 2008)より
             訳および解説は「神奈川大学評論 77号」(2014春号)に掲載
                                      
            

2019/05/01

「ミセス 6月号」に4冊紹介しました

 雑誌「ミセス 6月号」が「こんなとき、こんな本」という特集を組んでいます。「私が勧める、とっておきの本」です。わたしも「複数のアフリカを知りたくなったら」と題して、アフリカ関連の4冊の本を推薦しました。写真の右上です。



 日本が80個すっぽり入ってしまう大きな大陸、それをたったひとつの呼び名で語る時代は終わりました。「アフリカ」と呼んでエキゾチックなベールをかける時代も終わりです。広大な土地にそれぞれの歴史をもった、さまざまな人が住んでいる土地に共通するのは、ヨーロッパ諸国による暴力的な植民地化の歴史です。複数の言語と多様な文化の絡まる、広大な大陸と奥深い世界へ誘う4冊です。

1)トレバー・ノア『生まれたことが犯罪!?』斎藤慎子訳(英治出版)
2)ノヴァイオレット・ブラワヨ『あたらしい名前』谷崎由依訳(早川書房)
3)ヴェロニク・タジョ『アヤンダ』村田はるせ訳(風濤社)
4)田中真知『たまたまザイール またコンゴ』(偕成社)

 アパルトヘイト時代の南アフリカで生まれ渡米して一躍有名キャスターになったトレバー・ノアの自伝『生まれたことが犯罪!?』、ジンバブウェのノヴァイオレット・ブラワヨの、子供の目から描かれた衝撃的な小説『あたらしい名前』、コートジヴォワールからはヴェロニク・タジョのパワフルな絵本『アヤンダ』、そして舟でコンゴ河を下る日本人男性、田中真知さんの冒険話です。

 ほかにも、面白いテーマがずらりならんでいます。「庭に出たくなる本」(梨木香歩)、「今すぐ鮨屋に走りたくなる本」(小泉武夫)、「新しい言語を学ぶ人に勧めたい本」(ヤマザキマリ)、「人を信じられなくなった時に読みたい本」(堀江敏幸)、それぞれ面白いツッコミで本を選んでいるそうそうたる方々、に混ぜてもらって光栄です。

 そして真下に「知識ゼロの人でも絶対面白いアメリカ文学」(都甲幸治)というのがあって、衝撃的! 

2018/09/07

日経プロムナード第10回「ルサカ、闇の記憶」

9月に入って最初の回は「ルサカ」です。ザンビアの首都の名前。
 ずいぶん前になりますが、初めてアフリカ大陸の地を踏んだときの忘れられない思い出について書きました。

   ルサカ、闇の記憶

 連想は、なんと、大むかしの北海道に飛んで。

2017/11/19

ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子著『大航海時代の日本人奴隷』

遅ればせながら『大航海時代の日本人奴隷』(ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子著 中公叢書)を読んだ。

 16世紀半ばから17世紀半ばまでの日本がスペイン・ポルトガル人と交易をするなかで、どんなことが起きていたのか。
 キリスト教を受け入れながら、あるいは反発しながら南蛮貿易にたずさわるなかで、戦国時代の「乱取り」と呼ばれる捕虜の習慣によって、あるいは年季奉公的な扱いや、親に売られた子供などが人身売買されて、日本人が太平洋を越え、メキシコやヨーロッパへ、あるいはインドネシア、インドを経由してアフリカ大陸まで渡ったプロセスが、豊富な歴史資料によって裏付けられ、浮かび上がる。それがこの本の大きな特徴だ。

 奴隷貿易といえば人は、ポルトガルやアラブの商人によってアフリカ大陸、とりわけ西アフリカからカリブ海を経由して南北のアメリカ大陸へ運ばれた黒人奴隷を思い浮かべることが多い。しかし、じつは、多くのアジア人が奴隷として売買されていたことは、南アフリカのケープタウンにある「スレイブ・ロッジ」を訪れたときから、筆者にもはっきり意識されてきた。この本は、そのもやもやした歴史的背景をクリアに開いて見せてくれるのだ。スレイブ・ロッジに残された記録として、奴隷の名前に日本人と思われる名があった理由が、その経緯が、この本を読むと納得できる。アジア、とりわけマカオ、マニラ、インドのゴアなどからポルトガル領アフリカ(現在のモザンビーク)や南アのインド洋に面したナタール(現ダーバン)を経由して、カフィール(アフリカ人奴隷)やインド系、他のアジア系の人たちといっしょに、日本人奴隷が南アフリカに入っていったことがわかるのだ。

 本文がわずか200ページにも満たない薄い本だが、そこに描き出される「世界史」の概要は、これまで日本国内で採用されてきた教科書では、少なくともわたしの世代では、まったく教えられなかった「世界史」の盲点を開いてみせてくれる。その意味でも、新たな「大航海時代」ともいえるグローバル化の時代に、「世界の歴史」として国境や言語を超えて共有できる、歴史家たちの貴重な仕事といえるだろう。本書は著者ルシオ・デ・ソウザの元本を岡美穂子がダイジェスト版として書いたものらしく、元本の翻訳もすでに完了しているという。出版されるのが楽しみだ。

2016/08/19

ふたたび:16年前のJMクッツェーのロング・インタビュー



わたしはクッツェーという作家について考える時、何度もこのインタビューにもどる。南アフリカという土地と、彼のオリジンであるヨーロッパ文化と、クッツェーとの関係を知るための原点に近い。「美しさと慰め On Beuty and Consolation」

以下はこのビデオに含まれているクッツェーの発言( J.C.Kannemeyer からの引用:ちなみにカンネメイヤーの伝記には、このTVは2002年となっているが、オランダで初めて放映されたのは2000年)。


The peculiar cruelty and horror of apartheid was the very un-African aspect of it, a very rigid and ordered and in a sense European derived system imposed on a country and society to which it was really petrifying. And its horror was all the more because it seemed an absurd rerun in Africa of what the Nazis had done in Europe. It seemed a farcical repetition of a history of what then ought to have been obsolete. So you look here at a continent which is prolific of life and where life is cheap and always was cheap, but not in that way, not in a manner of systemized cruelty and extinction. So that has been the peculiar hideousness of the past half-century. In a country and on a continent which is not perhaps beautiful on the human scale, but [...] beautiful in a wild and grand and impressive manner. It is the contrast between the particular ugly, banal, systematic, cruel horror in an environment which is so huge and so lavishly beautiful. (Kannemeyer, p211)

2015/09/30

ちょっと残念な映画「セバスチャン・サルガド ── 地球へのラブレター」

8月1日に封切られたヴィム・ヴェンダースの映画「セバスチャン・サルガド ── 地球へのラブレター」をやっと今日、品川までいって観てきた。

「パリ・テキサス」で4星、「ブエナ・ヴィスタ」で5星だったヴェンダース監督への評価が、残念ながらこの映画で3星に転落した。アフリカに興味をもちはじめたころに出た写真集「An Uncertain Grace」以来、「Workers」をへて「Exodus」までセバスチャン・サルガドという稀有なフォトグラファーの写真に魅入られてきた者として、この映画はちょっと残念だった。

 美しい白黒の映像や、サルガドが自分の人生を語ることばは面白かった。この映画の共同監督である上の息子との絡みも面白かった。ブラジルの大きな農園で7人姉妹と育ったこと(大勢の姉妹のなかの一人息子として彼は1944年に生まれている)、とにかく落ち着かない子だったという父親の語り、自給自足の農園生活を15歳まで送ったために貨幣を使ったことがなく、学生として街で暮らしはじめたとき店で食べ物を注文することができず餓えた話、経済を学んでいたとき出会った女性といっしょにあの60年代にパリへ逃げた話、そこで建築を学ぶ彼女と結婚したのち世界銀行で仕事をしたが、カメラに魅せられて、フォトグラファーの道をたどったことなど、とても興味深かった。ほぼ同時代人としてこの地上に生きてきた人間としての共感も感じられた。
 仕事はすべてプロデューサー、マネージャーの役割をこなす妻との合作だったときちんと語られていたこともよかった。ほかにも、息子が2人いて下の息子がダウン症だったことなど、ディテールに興味はつきなかった。映画のなかで使われたほとんどの写真は、すでに見ていたものだったけれど、あらためてそのすごさを確認もした。

 しかし、ひとつだけ、とても気になったことがあった。90年代後半の写真のところだ。ルワンダの虐殺、その後のコンゴとの国境につくられた難民キャンプの悲惨さ、さらにコンゴの森に忽然と消えた25万人のツチ系のルワンダ人が半年後に4万という数になってキンサシャにあらわれた話など、その映像は聞きしにまさるすさまじさだ。そのときの心境をサルガドは、自分は「魂を病んだ、救済などこの世にあるのか」と語ったことも衝撃的だった。しかし問題はその直後だ。ヴェンダースが「Heart of Darkness/闇の奥」という表現をべったりと使ったのだ。それが棘のようにこちらに突き刺さり、一気に興が冷めてしまった。コンラッドの同名の小説が出たのは1902年。それから100年以上も後のいま、その表現を無批判に使うヴェンダースという監督の価値観を疑わざるをえなかった。なんという上から目線、ヨーロッパ中心目線。ヴェンダースはともかく、ブラジル生まれのサルガドがそれを許すのか?

 ちょうど、『たまたまザイール、またコンゴ』(田中真知著、偕成社)を読んでいる最中だったこともある。これは日本人である著者が1991年と2012年にコンゴ河を下る冒険譚なのだけれど、この本を読んでいるとまったく別の風景が浮かんでくる。コンゴに生きる人たちの顔が見えてくるのだ。被写体としてのみ存在するわけではなくて、日々、住み暮らす人間としての顔が見える。もちろん平時の顔なのだけれど。

 一方、サルガドは紛争のさなかに飛び込んで行って、極限状態の人間を写真に撮る。だから衝撃度、緊迫感が、一枚一枚の写真のなかにすさまじいまでに宿る。その違いは決定的だ。しかし……。

『たまたまザイール、またコンゴ』では、コンゴがなぜかくも自立不能の国なのか、鉱山資源をめぐる紛争に世界各国の利権がからむ構造もきちんと見える展開がある。さらにティム・ブッチャーという作家の本『Blood River』に出てくる逸話が、コンゴの悲惨さを脚色するための嘘だったということも露見するのだ。
 
 今日観た映画では、サルガドは偉大なフォトグラファーであることが淡々と描かれる。彼の素顔に迫ろうとする意図も理解できる。その精神の旅路もまた面白い。しかし……。それらの写真を撮るまでに至った、当然そこにあったであろう現地の人間たちとのやりとりや関係が、まったく見えない。あるいは「Workers/労働者」を撮るなら、なぜ、自分の農園の労働者の話はでてこないのか。これは映画の限界なのか。その部分は落として構わないと判断されたのだろうか。そこが理解できない。そして残念だ。この不満は彼の自伝を読むことで満たされるのだろうか。
 読んでみよう、彼の自伝。

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付記:アフリカで病んだ精神を大地が癒してくれたというサルガドは、次に、大地と生き物の創生へと関心を移していく。荒廃したサルガド農園に植林をして青々とした森を取り戻す。そのプロセスはすばらしい。しかし、その農園がもともとだれの土地だったか、と自問するところはこの映画にはない。自伝にはあるのだろうか?

2015/06/18

西江雅之さん、どうもありがとうございました!

西江雅之さんが逝った。享年77歳。

 西江さんの名著、『花のある遠景』を読んだのは80年代末のことだった。ケニアの場末に住み着いて売春婦のおねえさん、おばさんたちとの暮らしの光景をすばらしい文章で描いていく本だった。目を見張った。わたしのアフリカ入門の重要な部分は西江さんの考え方からもらったような気がする。ちっとも活かせていないけれど。感謝、 深謝! 心からご冥福をお祈りします。なんか、本当にさびしい。


 以前このブログにも書いた西江さんのお話のことを再掲します。2009.4.27とあるから、もう6年も前のことだったのか!

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ジャズはアフリカ起源の音楽だ、なんてのは違う。ぼくは何年か前に数人の学者とその議論をして論破した──と語るのは、言語学と文化人類学を専門とするマチョ・イネこと西江雅之さんだ。

  昨夜は三鷹の「文鳥舎」で「世界中に散るフランスという国」なるトークショーを楽しんだ。西江さんの話しっぷりは、本当に面白い。噺家のようなのだ。「フ ランス語が話されている世界の地域」のことではなくて「フランスという国そのものが、ヨーロッパ本国と、マルチニック、グアドループ、レユニオン、フラン ス・ギアナといった海外県と、カナダの大西洋側にあるサンピエール・エ・ミクロン、インド洋のマヨットといった特別自治体と、さらには、ニューカレドニ ア、フランス・ポリネシア、ワリス・フトゥナ、南極の一部といったフランス領をすべて含めた、世界中に散在する国、として成り立っている」というお話だっ た。

 頭のなかでかたまっている「フランス」というステロタイプのイメージがゆさゆさ揺れて、そこかしこに風通しのよい穴があき、崩れる。そして新たなイメージで「フランスという国家」をながめやる目が養われる。西江さんの話はいつも聴き終わったあとが爽快で、気持ちよい。

  最初のジャズの話は懇親会で聴いたもの。前日、ツトム・ヤマシタとのコラボレーションのため京都へ行っていたそうだから、その流れから出てきたものかもし れない。それを聴いて、ありありと思い出したことがある。それは1970年前後の日本の、いわゆる「ジャズ・シーン」をめぐる熱い語りにみられた、ある傾 向のことだ。

 当時、情報は、なんでもかんでも米国発のものが勢いをもっていた。というより、いま以上に、憧れを もって肯定的に語られていたというべきか。ヒッピー、フォーク、ロック(ときどきブリティッシュ)、文学だって、やれケルアックだ、ギンズバーグだ、サリ ンジャーだ、と圧倒的に「アメリカもの」で、さまざまなものが入り込む余地があまりなかった。見えていなかった。つまみ食いのようにして少しは読んだけれ ど、米国発の文学で興味を引かれるものは、ブローティガンが紹介されるまで、ほとんどなかった。でも、音楽は別、ジャズは別だった。

  あの当時のジャズ聴きたちは「ジャズ=黒人/アフリカ人の音楽」という固定観念から離れられなかったように思う。だから、ヨーロッパのジャズは二級扱いさ れ、極端な人は、白人プレーヤーのジャズは「白人だからダメ」とまでいう始末。いったい、どんな耳をしていたのやら。いや、どんな頭をというべきか──私 も含めて。
 ジャズを演奏する人たちのなかにもまた「黒人のように」演奏すること、より「黒い」音楽を演奏すること、さらには「黒人のよう になること」にまで(そんなこと不可能なのは分かりきっているのに)究極の目標を細めていく人もあらわれ、それを肯定する左派めいた論客もまた、人気を博 していたように思う。それは「黒っぽいフィーリング」があるかないか、というふうに論じられた。
 なんか変だと思いながらもきっぱり反論で きなくて、嘘くさいその手のライナーノーツや解説なるものを読まなくなったのは、そのせいだったのかもしれない、といまになると理由をつけることもできる ──だって、じゃあ、なんで日本人がジャズをやるの、なんでロックをやるの、ということになるでしょ? 60年代後半って、そういう時代でもあったのだ。

  音楽も、文学も、人種と不可分に結びつくものなんかない。結局、それは「文化」なのだから。文化は「創り出すもの」で、アフリカン・アメリカンと呼ばれる 人たちは、白人文化が命じる器のなかで、アフリカ起源のものをベースに、手近にある、さまざまな道具、アイディアを混入させながら、独自のものを創り出し ていった。彼らの創造性はそこにある。それは黒人でなければできないものではない。ただ、間違いなく彼らがやったことなのだ。そこのところを同一視する と、すごく間違う。その流れでいくと、日本人でなければ日本(語)文学は書けないという考えに(そう信じている人はある年齢層以上に、いまだって間違いな く、いる)反駁できない。

 日本人のすばらしいジャズメンはたくさんいるし、黒人でなければジャズができないなん て、いまじゃ誰も思わない。白人たちはジャズまで奪っていった、という黒人サイドの発言も聞いたことがあるけれど、それは見方を変えるなら、彼ら/彼女た ちの「文化」が白人文化を凌駕したということにもなる。文化も、伝統も、きわめて創造的な、つまりは、恣意的なものなのだ。西江さんの話を聴くとすっきり するのは、その辺と大いに関係がある。自分を縛ってきたしがらみや不安から、解き放たれたような気持ちになるのだ。☆

2015/03/31

ケープタウン大学のセシル・ローズ像を撤去

遠くカイロを見るローズ
ケープタウン大学でセシル・ローズの像の撤去を決定!というニュースが流れた。この像の撤去を求めて、像に汚物がかけられて布で覆われた写真が(右下)がネットにも流れたのはつい先日のことだった。

 さて、そもそもケープタウン大学はこのセシル・ローズの別荘の敷地に創られたという歴史があるのだ。
 右手をあごの下にあてて遠くエジプトのカイロを眺めやり、ケープタウンからカイロまで鉄道を引くことを夢想する像がキャンパス内に残されていた。今回撤去することになったのはこの像である。ケープタウン大学構内のはずれには太いギリシア様式の円柱を使った神殿様式のメモリアルもある──そこのカフェで数年前にわたしがランチを食べてきたのはゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』にこのカフェが出てきたからだった。

 ほかにも、ケープタウン市内中心部にあるカンパニーガーデンにローズの立像があって、訪れた観光客がその前で写真を撮ったりしていたし、ローズの名前や像はいたるところに残っているのだ。植民地時代の名付けの暴力によってつけられた呼称を変える、という流れはここのところ随分出てきている。通りの名前、飛行場の名前、大学の名もまた。しかし、ちょっと待てという議論もある。

 撤去についてさまざまな意見を述べて議論する学生たちの全学集会のようすも動画でアップされていた。この動画の1時間16分あたりから始まる白人と思しき男子学生の発言に、おっと耳をそばだてる内容があった。それをちらりと紹介する。


 彼は、ケープタウン大学が、南アフリカ経済がいかに搾取システムによって支えられてきたかを触れずに経済学を教えている、と指摘してもいる。ローズはその搾取システムを形成した張本人だが、その歴史的事実を学ばずに学生は卒業してしまうと。またこの学生の発言には、J.M.Coetzee が卒業に必要な必須単位としてアフリカの言語履修を入れるよう主張していた、というのが含まれているようだ(なにせ聞き取りにくい英語なので、かの地で学んだ知人に確認してもらったのだが。。。Mさん、muchas gracias!)
 それを聞いてふと思ったのは、北海道大学でアイヌ語履修を将来的に卒業必須科目にするってのはどうだろう、ということだった。
 いやあ、熱気にあふれる集会だ。言いたいことをずばずば言う若者の姿がいい。

カンパニーガーデンのローズ像の碑銘
 しかし、像を撤去する方向へ若者のエネルギーが向くだけで、現在、この国が抱えている大きな諸問題が見えなくなるのは問題だという議論もある。世界経済の動向と絡んで、ケープタウン大学の再編が問題になる現在、解放後約20年を経て、この国の、アパルトヘイトをじかに知らない若者たちが、自分たちは学ぶべきことをちゃんと学んでいないと主張している姿を見ると、これら若者たちがこれからどう動くか、とても気になるところだ。
 そしてもちろん、この南アジアの土地に吹き荒れるファッショの波を押し返す力に若いエネルギーがどれだけそそがれるか、そのために古いエネルギーがその養分になることに身を徹することができるか。。。ダナ。
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付記:文字と写真をうまくレイアウトしようとしているうちに、大事な一節がどこかへ行ってしまった。つまり:

セシル・ジョン・ローズというのは「アフリカのナポレオン」と異名をとった植民地経営者であり、現在のデビアス社を創設した人物。南部アフリカ一帯の植民地経営に腕をふるった。彼の名前がつけられて「ローデシア」と呼ばれた地域は、現在、1975年に独立したザンビア(北ローデシア)と、1965年に白人差別主義者スミスが一方的に独立宣言した独裁政権下で解放闘争(チムレンガ)をくりひろげて1980年にようやく独立したジンバブエ(南ローデシア)に分かれる。ジンバブエはわたしが初めてアフリカ大陸の土を踏んだ土地で、来年が独立10周年というころだった。南部アフリカの希望の星といわれていた。

撤去される像
今回撤去対象となっている像は、そのセシル・ローズの像だ。この人物が南部アフリカでやったことは、歴史的、経済的、政治的にきわめて大きな足跡+傷痕を残している。そのレガシーの上に南アフリカは現在の国を運営していることは、批判的にしっかり学ぶ必要があるだろう。ヨーロッパとアフリカの関係を見て行くうえで、避けて通れない人物だし、どのように評価するかはおそらく、その人の立ち位置によって大きく分かれるところだろう。像を撤去すれば済む話しでもないけれど、目の前に日々あって、それが批判の対象とされない授業であるなら、それこそが問題だろう。日本の近代史にもこういう例はたくさんありそうだ。

2014/11/04

A LUTA CONTINUA!──ひさびさにミリアム・マケバ

あちこち見ていたら、こんな動画に行き当たった。いま聞いてみると、懐かしい。



A LUTA CONTINUA!  (ポルトガル語で「闘いは続く!」)

 長いあいだアパルトヘイト時代の故国南アフリカへの帰還がかなわなかったミリアム・マケバ。その若々しい歌声を聴いていると、モザンビーク、サモラ・マシェル、フレリモ、マプトといった名前が出てくる。ポルトガル支配からの解放闘争を戦っていた土地、人、組織の名だ。
 シンプルな歌だけれど、ナミビア、南アフリカ、ジンバブエ、ザンビア、アンゴラ、ボツワナといった南部アフリカの土地の名前も出てくる。いまはみんな独立国になったそれぞれの土地で、A LUTA CONTINUA! 闘いは続く! とママ・アフリカが歌ったのは、たぶん、1975年前後だったろうか。なんだか励まされるな。
 
 いま調べてみると、この標語 A LUTA CONTINUA! はジョナサン・デミ監督の映画「羊たちの沈黙」や「フィラデルフィア」で最後のクレジットにも使われていたという。そうだったのか!

2014/04/09

ワイナイナの「アフリカをどう書くか」が「神奈川大学評論 77」に

今朝、とどきました。「神奈川大学評論 77」です。ビンニャヴァンガ・ワイナイナの「アフリカをどう書くか/How to Write About Africa」の拙訳が載っています。この文章についてはすでにここに書きましたので、よかったら!

 最初は、昨年暮れに出た「神奈川大学評論 76」の「アフリカ特集」に載るはずだったのですが、版権の問題をクリアするために予想以上に時間がかかり、今号掲載になりました。

 ワイナイナは1月に、ナイジェリアやウガンダの反ゲイ法に抗議の声をあげるため、みずからゲイであることを宣言してメディアの注目をあびたばかりでした。ワイナイナのカミングアウトについてはこちらに

この号は「ラテンアメリカ特集」で、南映子さんのニカノール・パラの訳詩が載り、柳原孝敦さんの論考が載り、と知った名前がならんでいるのが嬉しい。
 
 アフリカ人の名前の読みは本当に難しい。Binyavanga をいろいろ悩んだ末に、とりあえず、ビンニャヴァンガと表記することにしました。昨年、開かれた Kwani! トラスト創立10周年イベントの動画を見るかぎり、アディーチェなど参加者がそう発音しているように聞こえるからです。

2014/03/02

暗い日曜日はクープランで

春めいたと思ったら、また寒のもどり。いつものことだけれど。Sombre dimanche. 暗い日曜日。

 オーディオ装置が壊れたのでついに新調した。15年ぶりだ。これまで使っていたものとおなじDENONのもので、今回はレシーバーとスピーカーというシンプルな組み合わせ。20代に初めて買ったコンポとおなじだ。

 ところが、いざ音楽を聴いてみると、こっちの耳が軟弱になっているのか、どうも音が硬い。友人によると、心地よい音になるまで30時間くらいかかるそうだ。がんがん好きな音楽をかけて、装置自体をならす必要があるらしい。ふ〜ん、そうなのか。これまでそんなことを意識したことはなかったなあ、やっぱり聞き手の変化かなあ、などと思いながらいろいろかけてみる。

 最初はバッハの無伴奏チェロ組曲。軽いのりのマイスキーだ。それからグールドでバッハのパルティータをかけてみた。さらにフランス組曲。悪くはないが、最後のほうになると、耳がちょっと疲れてくる。

 そこで、ふと思い出してかけたのが、このクープラン。1991年の録音で、購入当時から何度もくりかえし聴いてきたCDである。これがいける! オーボエの音がじつに美しい。くっきりと立ちあがってくる。ファゴットの低音部も心地よく、何度もくりかえしかけることになった。

 外は小雨。気温もぐんぐん下がっていくが、室内はふんわり暖かく、しかし輪郭はシャープなオーボエの音色が響く。これで「暗い日曜日」は乗り切ろう。

 アレクサンドル・ヘモンの『愛と障害』を読む。これがめっぽう面白いのだ。明日のイベントも楽しみ。
 ヘモンといえば、そのむかし雑誌「ヴィレッジ・ヴォイス」に、カプシチンスキイの『黒檀』に対するピリ辛の評「Misguided Tour」を書いていたっけ。
 そういうことだったのか!

2014/01/14

大辻都著『渡りの文学』/マリーズ・コンデの魅力

マリーズ・コンデの本格的研究書『渡りの文学』(法政大学出版)が出た。

 研究書といっても、非常に明解かつ読みやすい文章で書かれているので、誰もがアクセスできる。そこがなんといっても嬉しい。この本の著者、大辻都さんの話を聞く会が昨日、下北沢のB&Bで開かれた。

 大辻さんは長年、マリーズ・コンデを研究してきた人だ。この作家は、カリブ海は小アンティーユ諸島に浮かぶ蝶々のような形をしたグアドループという島に1937年に生まれている。大辻さんはその島々にも何度も足を運び、著者コンデの生まれ育った場所も訪れている。昨日は島の写真のスライドショーから始まって、管啓次郎さんのテンポのいい司会で、マリーズ・コンデという作家とその作品の魅力が縦横に語られる会になった。

 まずマリーズ・コンデとはどんな作家か、という大辻さんの話があり、それからゲストの小野正嗣さんがコンデの作品を歯に衣着せず分析し(小野さんは小説家であるだけでなく、このマリーズ・コンデで博士論文を書いている研究者なのだ!)、さらに作家の性格や生きざまに大胆に突っ込みを入れた。小野さんのぶっちゃけた話しっぷりと大辻さんとの絶妙なやりとりが、じつに面白かった。

 管さんの訳書『生命の樹』からの朗読をはさんで、話はカリブ海出身の文学者たちとコンデという作家の位置関係や、1950年代末に、当時アメリカスの黒人たち誰もがあこがれた故郷「アフリカ」へ、実際に行ってしまったコンデってすごいという話になって、そこで「あこがれのアフリカ」のイメージは粉々に打ち砕かれ、アフリカ社会内で彼女が女として体験したであろう、さまざまな困難辛苦へと聴衆の想像力をぐいぐい誘った。

 とりわけコンデの最初の作品『ヘレマコノン』が書かれるまでの、マリーズ・コンデという作家が誕生していくプロセスの興味深さ。この作品をまず彼女に書かせた一筋縄では行かない「体験」と彼女の思想のせめぎあい、そこに作家コンデの核となるものが埋まっている。それはいまでは、誰もが一致する意見だと思う。だが、この作品、読解は一筋縄ではいかない。読み手の「アフリカ理解」がぎりぎりと問われてくるのだ。

 コンデがたんにカリブ海文学の作家におさまりきらないところを理解するには、彼女がギニア人と結婚してコートディヴォワール、ギニア、ガーナ、セネガルと移り住むことによって経験した「アフリカ」をどう位置づけるかが鍵になる。だが、まだまだ日本の読者は、わたしも含めて「遠い点景」としての「アフリカ」しかイメージできないところにいる。
 その部分がやわらかく耕されていくなら、つまり登場人物がひとりひとりの個性をもった人間としてイメージでき、その背景まで含めて作品全体が浮かぶようになれば、マリーズ・コンデの作品と彼女がたどった行路とその奇跡が具体的に見える視野が開けるかもしれない。
 1976年の出版当時はほとんど無視されたというこの作品、たしかに、そう簡単にわかってたまるか、といった表情をしている。1976年というのは、それほど作家の「書く現場」と読者の「机上」の距離が大きく隔絶していた時代だったのだと思う。


 しかし、それ以後のコンデの作品行為は『渡りの文学』というこの本のタイトルがいみじくも示す通りだ。カリブ海/グアドループ、ヨーロッパ/フランス、アフリカ/ギニアやセネガルなど西アフリカ諸国、そしてアメリカ合州国、を往還したマリーズ・コンデという作家の人生の奇跡は、18、19世紀の大西洋をめぐる三角貿易の地理的移動とかさなり、そのまま、人間の移動、文化的移植の経路ともかさなって、現代にいたっているのだ。その作品世界は掘り起こされるのを待っている宝物のような気がする。
 
イギリス文学、フランス文学、アメリカ文学といった枠をすべて取っ払って考えざるをえない人間の営みを、地理的にも歴史的にも、彼女の作品ははっきりと示している。だから、コンデを読むということは、その奇跡のうえに読者が自分を置いてみる試みとならざるをえないのだ。

 ようやく、時代がマリーズ・コンデの作品に追いついた、ということなのだろう。

 ついでに、昨年、コンデについて毎日新聞書いたコラムをここにリンクしておこう!


2013/11/30

Kwani? Trust の創立10周年記念イベントの写真

ケニアのナイロビで、この27日から開かれていた、Kwani? Trust の創立10周年記念イベントの写真をいくつかアップします。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェももちろんいます。

 ビニャヴァンガ・ワイナイナさんと連絡は取れたけれど、とにかく彼はこのイベントで超多忙。








2013/11/28

複数のアフリカ(後)──ワイナイナのエッセイ

 予定より少し遅れていますが、もうすぐ出ます。「神奈川大学評論 76号 ──アフリカの光と影」

「複数のアフリカ、あるいはアフリカ ”出身 " の作家たち」と幾重にも括弧のつくタイトルで、3人の作家を紹介しました。このブログでも、ノヴァイオレット・ブラワヨ と J・M・クッツェー について書きましたが、今日は残りの一人、ピリ辛エッセイを書いているケニア出身のビニャヴァンガ・ワイナイナについて。
 
(最近までBinyavanga をビンヤヴァンガと表記してきたのですが、小野正嗣さんがある書評のなかで「ビニャヴァンガ」と書いているのを見て、ああ、そうか、ビニャヴァンガだわ、これ、と気がつきました。どうもわたしには変な癖があって、Anya などもついつい「アンヤ」と読んでしまい、Binyavanga もつい最近まで「ビンヤヴァンガ」と読んでいました。訂正します。sorry!)

 さて、今回訳出したのは2005年に、雑誌Grantaの特集号「アフリカからの眺め/The View From Africa」に掲載された 「アフリカのことをどう書くか/How to Write About Africa」という辛口エッセイです。このエッセイで彼が物議をかもしてから早いもので8年にもなりますか。その後、このエッセイは彼自身が立ち上げた出版社 Kwani Trust から出た文庫サイズの薄い本に入りました。右がそのカバー写真です。いかにも皮肉な、挑発的とも思えるイラストです。
 このエッセイ、あらためて読むと、いまだに耳が痛いところがあります。8年前に書かれていますが、古びないどころか、まだまだ鋭さは失われていない。それが良いことか悪いことか、問題は読む側にあるんだよなあ、とはたと考えさせられてしまうのですが、内容としては、ちょうどチママンダ・ンゴズィ・アディーチェのTEDトーク「シングルストーリーの危険性」と対になる、と考えるとその理由が想像できるかもしれません。
 ぜひ、じかに雑誌を手に取って、彼の文章を読んでみてください。これまでさんざん語られてきた靄のかかったアフリカへの視界が、からりと晴れてばっちり見えるようになるかもしれません。

 ワイナイナさんの著書『いつか僕はこの場所について書く/One Day I Will Write About This Place』については、2年ほど前にここに書きました。アディーチェさんの大の仲良し、というか同志というか、よくあちこちにいっしょに出没します。左の写真は2011年にサンタフェで2人がトークをしたときのもので、それについてはここです! トークも聴けるようリンクを貼ってありますので、よかったら。このトークを聞くかぎり、ホントに面白そうな人です。ウィットとユーモアが抜群です。

 今回、メールでやりとりするチャンスがあったのですが、その文面がまたなんともポップな感じでした。彼の著書を思わせる、ビートのきいたことば遣いが伝わってきて。この人のことばは、文体は、まったくもってユニークです! 彼の『いつか僕はこの場所について書く』も、まるでラップのような感じでことばが続き、そのリズムにのせられて読んでいくと、ふっと心打つ憤懣と悲哀が秘められていたり、せつない心情が込められていたり。だれか、ぜひ日本語にチャレンジしてください!!

 27日から、ナイロビではクワニ・トラスト創立10周年のイベントが始まったばかりです。もちろん、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェも参加しています!
 

2013/11/17

ひさびさのヒット ── YOUNG BONES by Malia

待っていたアルバム、とうに到着していて、毎日のように聞いている、いや、聴いている。

Young Bones by Malia。マラウィ生まれのこのシンガーについては先日書いたので、詳しいことはそちらへ

 ひさびさのヒット、もちろん、わたし個人にとって。絶妙な度合いのハスキーヴォイス。気怠さ。スタンダードなジャズナンバーが、肩が凝らずに聞けるアルバムになっている。

 60年代のニーナ・シモンなどは室内向けではなかったけれど、これは、完全に室内オーディオルーム向けだ。仕事のあいまに、ちょっとファイルを閉じて、こうしてブログを書きながら聞くのに絶好の音楽でもある。それでいて、薄っぺらさや頽廃感は、ない。シンプルで深い。かなり知的でもあるが、カーメン・マックレエのような固さはない。飽きない。

 80年代初めころからか、いや70年代の終わりからか、ジャズという音楽はすでに山を越えて、「おしゃれな音楽」へ向かってひた走るようになった。往年のホットなプレイヤーも、もっぱら余裕の「楽しめる音楽」を奏でるようになって.....それはそれで成り行き、というか、ひとつの歴史的流れなんだけれど。。。。

「ワールドミュージック」ということばが出てきたのは20年くらい昔だったか。ここ数年前から「世界文学」ということばも、あちこちで語られるようになった。簡単に比較はできないけれど──文学と音楽は構成要素がまるで違うのだから──しかし、結局は、「商業的に」という縛りからどれだけ自由になれるか、というところで勝負する姿勢は、人間の活動としては共通する部分はあると思う・・・なんてことを、ぼんやり考えながら、力を抜いて全身でひたる音楽。くり返し。