朝日新聞には、月に2回発行される「GLOBE」という別刷りがあります。本紙より少し白い紙が使われた全8ページの抜き出しで、面白い特集が載ります。
昨年8月3日号には、この夏他界した歴史家トニー・ジャットが載りました。カメラをじっと見据える、悲しそうな、すばらしく真摯な表情に心うたれて、あの大部な著書『ヨーロッパ戦後史』上下巻(みすず書房)を購ってしまいました。
そのときの写真に写っていた彼の悲哀をおびた眼差しが、すでに自らの発病を知っていた人の視線であったことは、うかつにも、今年8月、彼がALSによって他界したと報じる「Guardian」の記事を読むまで知りませんでした。
その「GLOBE」の11月1日発売号に、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェのインタビューが載ります。上記のジャットの記事とおなじ、「著者の窓辺」コーナーです。
インタビューは9月に来日したときのもので、アディーチェの大きな写真も載ることでしょう。
ご注目ください!!
2010/10/29
2010/10/20
日経新聞10月17日に『半分のぼった黄色い太陽』書評
アディーチェ『半分のぼった黄色い太陽』の書評が、日経新聞に掲載されました。
日経新聞10月17日「世界の秩序と混乱、立体的に」評者:小野正嗣
ネット上には出てこないため、残念ながらリンクできません。(敬称略)
日経新聞10月17日「世界の秩序と混乱、立体的に」評者:小野正嗣
ネット上には出てこないため、残念ながらリンクできません。(敬称略)
2010/10/10
『半分のぼった黄色い太陽』が21の言語に翻訳された
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェのヒット作『Half of a Yellow Sun』は2006年に発表されてから、すでに多くの翻訳が出ている。(詳しくはリエージュ大学のダリア・トゥンカ氏のサイトを参照。)このたび日本語版が加わって21の言語ということになった。
「21カ国語」と書きたいところだけれど、一言語一国家ではないので「◯◯カ国語」とは書かない。
日本では「母国語」という表現が長いあいだ、なんの疑問もなく使われてきた。一国家一民族というフィクションが当然のように語られてきた時期とそれは重なる。それが「意図的な幻想」以外のなにものでもないことは、いまさらアイヌの人たち、沖縄の人たち、朝鮮半島出身の在日の人たちのことを持ち出すまでもなく、自明の事実だ。
ところが、ある年齢以上の人たちにとって、これがかならずしも「自明」ではないところが厄介だ。もっと厄介なのは、現代日本語のなかに「何カ国語」という表現がしっかり根をおろしていることである。だからつい人口に膾炙したその表現に頼りそうになる。おっと、いけない、違う、違う、と意識しなければ、耳障りのよい表現をそのまま使ってしまいそうになる。実際、この表現はまだまだ目にする。とりわけジャーナリズムの世界では厚い壁のように立ちはだかるのを感じる。
アフリカ大陸出身のたいていの作家にとって「母国語」という表現はあてはまらない。たとえばアディーチェの場合は250以上の民族が住む国ナイジェリア出身で、民族はイボである。「マザー・タング/母語はイボ語ですか?」と質問されると、彼女は「家族や親しい人たちとはイボ語で話すけれど、教育はすべて英語で受けたので、英語で考え、英語で書きます」と答える。
大学町で育ち、幼いときから英語の本に馴染んで育った彼女は二言語(家の外ではヨルバ語やハウサ語を含む多言語)空間に生きてきた人だ。それでも本音の感情を伝え合うときはイボ語になる。実際、今回の来日時もそんなやりとりを何度か耳にした。この辺はとても微妙。
以前、南アフリカ出身の人たちと接したときも、それと似たような体験をした。南アでは小学校の低学年までそれぞれの民族言語で学び、途中から英語になる。アディーチェよりは自民族言語で「書く」習慣が多少はあると考えていいのだろう。ズールー語やコーサ語での出版もある。
アディーチェは、イボ語で書くことは考えられないと語った。『半分のぼった黄色い太陽』では、執拗に「英語で」とか「ピジン英語で」とか「イボ語で」とト書きが入っていて、言語への強いこだわりが書き込まれている。それが語り手の置かれた位置を明らかにもする。
大学講師のオデニボが「アフリカで白人のミッションが成功した理由は?」と英国人リチャードに唐突な質問をし、「英語で僕は考えている」と述べる場面があった。英帝国による「精神の植民地化」手段としての徹底した英語教育の結果を、憤怒をもって大学人が語る場面だ。
アディーチェが多くの対談やインタビューを精力的にこなす場面に同席しながら、作中のその場面を何度か思い出した。そして「旧植民地出身の作家にとっての言語」問題の複雑さについて考えていた。
*カヴァー写真は上から、オランダ語版、ヴェトナム語版、イタリア語版、ボスニア語版。
ちなみに21言語とは、オランダ語、ドイツ語、スウェーデン語、ノルウェー語、デンマーク語、スペイン語、セルビア語、ボスニア語、ギリシア語、スロヴェニア語、イタリア語、フランス語、ポルトガル(ブラジル)語、チェコ語、ヘブライ語、ポルトガル(本国)語、フィンランド語、ヴェトナム語、ポーランド語、シンハラ語、日本語。
「21カ国語」と書きたいところだけれど、一言語一国家ではないので「◯◯カ国語」とは書かない。
日本では「母国語」という表現が長いあいだ、なんの疑問もなく使われてきた。一国家一民族というフィクションが当然のように語られてきた時期とそれは重なる。それが「意図的な幻想」以外のなにものでもないことは、いまさらアイヌの人たち、沖縄の人たち、朝鮮半島出身の在日の人たちのことを持ち出すまでもなく、自明の事実だ。
ところが、ある年齢以上の人たちにとって、これがかならずしも「自明」ではないところが厄介だ。もっと厄介なのは、現代日本語のなかに「何カ国語」という表現がしっかり根をおろしていることである。だからつい人口に膾炙したその表現に頼りそうになる。おっと、いけない、違う、違う、と意識しなければ、耳障りのよい表現をそのまま使ってしまいそうになる。実際、この表現はまだまだ目にする。とりわけジャーナリズムの世界では厚い壁のように立ちはだかるのを感じる。
アフリカ大陸出身のたいていの作家にとって「母国語」という表現はあてはまらない。たとえばアディーチェの場合は250以上の民族が住む国ナイジェリア出身で、民族はイボである。「マザー・タング/母語はイボ語ですか?」と質問されると、彼女は「家族や親しい人たちとはイボ語で話すけれど、教育はすべて英語で受けたので、英語で考え、英語で書きます」と答える。
大学町で育ち、幼いときから英語の本に馴染んで育った彼女は二言語(家の外ではヨルバ語やハウサ語を含む多言語)空間に生きてきた人だ。それでも本音の感情を伝え合うときはイボ語になる。実際、今回の来日時もそんなやりとりを何度か耳にした。この辺はとても微妙。
以前、南アフリカ出身の人たちと接したときも、それと似たような体験をした。南アでは小学校の低学年までそれぞれの民族言語で学び、途中から英語になる。アディーチェよりは自民族言語で「書く」習慣が多少はあると考えていいのだろう。ズールー語やコーサ語での出版もある。
アディーチェは、イボ語で書くことは考えられないと語った。『半分のぼった黄色い太陽』では、執拗に「英語で」とか「ピジン英語で」とか「イボ語で」とト書きが入っていて、言語への強いこだわりが書き込まれている。それが語り手の置かれた位置を明らかにもする。
大学講師のオデニボが「アフリカで白人のミッションが成功した理由は?」と英国人リチャードに唐突な質問をし、「英語で僕は考えている」と述べる場面があった。英帝国による「精神の植民地化」手段としての徹底した英語教育の結果を、憤怒をもって大学人が語る場面だ。
アディーチェが多くの対談やインタビューを精力的にこなす場面に同席しながら、作中のその場面を何度か思い出した。そして「旧植民地出身の作家にとっての言語」問題の複雑さについて考えていた。
*カヴァー写真は上から、オランダ語版、ヴェトナム語版、イタリア語版、ボスニア語版。
ちなみに21言語とは、オランダ語、ドイツ語、スウェーデン語、ノルウェー語、デンマーク語、スペイン語、セルビア語、ボスニア語、ギリシア語、スロヴェニア語、イタリア語、フランス語、ポルトガル(ブラジル)語、チェコ語、ヘブライ語、ポルトガル(本国)語、フィンランド語、ヴェトナム語、ポーランド語、シンハラ語、日本語。
2010/10/05
ルーシー再発見/映画「Disgrace」と小説『恥辱』
翻訳中のゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』はちょっと横に置いて「もうひとりのデイヴィッド」の物語を読んでいる。デイヴィッド・ルーリー、大学教授、52歳、離婚歴2回。そう、知る人ぞ知る、J・M・クッツェーの傑作『Disgrace/恥辱』の主人公である。
友人たちがやっている映画の会で次回、スティーヴ・ジェイコブズ監督の映画「Disgrace」を観ることになった。そこで原作本をひっぱりだして読んでいる。映画を観てから原作を読み直すと、いいのやらわるいのやら、映画に登場していた俳優たちの顔がすぐに浮かんできて脳裏から離れない。デイヴィッド・ルーリーはかのジョン・マルコヴィッチだ。う〜ん、である。
でも、いくつも発見がある。これは面白い。あ、脚本を書いたモンティセッリは、ここをこんな風に変えたのか、と原作とのちがいもよく分かる。これもまた面白い。
再発見はなんといっても娘のルーシーだ。原作では会話部分のほかは、あくまで父であるデイヴィッドの目からみた娘として描かれているが、映画ではデイヴィッドもルーシーも観る者の視線から等距離。そのため、ルーシーに感情移入することが可能になる。つまりルーシーとの距離が縮まるのだ。
セクハラで大学の職を失ったデイヴィッドがころがり込むルーシーの家は、東ケープにある。コーサやポンドといった先住民族との土地争奪の歴史が滲み込んでいる土地だ。その土地と「恋に落ちた」元ヒッピーの白人女性ルーシーが、3人組の若い黒人の強盗にレイプされる。それでも彼女は土地を離れない。身ごもった子供を産んで、その土地の人間になって生きていこうと苦渋の決意をするところは、作品後半の重要なテーマである。
映画を観たあと原作を読むと、ルーシーのこのことばに作者はなにを込めた? といった問いも考えやすい。ルーシーもまた作者クッツェーの分身であることを考えるなら当然浮かんでくるはずの問いが、彼女の「かたくなさ」に呆然となって、小説が発表された10年ほど前はなかなか思い浮かばなかった。
そんなルーシーに光をあてて再読することで、作者クッツェーと南アフリカという土地の関係もあらためて理解できる時期にきたように思えるのだけれど、どうだろうか。作者はこの小説がきっかけとなったある事件のあと南アフリカを離れたが、ワールドカップの開催もあったことだし、南アの歴史事情も、日本人にとってそれほど遠いものではなくなった、そう思いたいものだ。☆
**************
2013.7.4付記:2000年に起きたANCや人権委員会からの『Disgrace』への批判と、作家クッツェーがオーストラリアに移住したことには直接的な関係はない。クッツェーが1990年代半ばころからアデレードへ移り住むことを考えはじめ、書類などもそろえていたことはカンネメイヤーの「J.M.Ceotzee:A Life in Writing」でも明らかにされている。たまたま、時期的に重なったため、単純な「理由」をもとめる世界中のメディアと視聴者が飛びついただけなのだ。かくいうわたしも報道されたニュースに振りまわされた。深く反省して、ここに訂正したい。
友人たちがやっている映画の会で次回、スティーヴ・ジェイコブズ監督の映画「Disgrace」を観ることになった。そこで原作本をひっぱりだして読んでいる。映画を観てから原作を読み直すと、いいのやらわるいのやら、映画に登場していた俳優たちの顔がすぐに浮かんできて脳裏から離れない。デイヴィッド・ルーリーはかのジョン・マルコヴィッチだ。う〜ん、である。
でも、いくつも発見がある。これは面白い。あ、脚本を書いたモンティセッリは、ここをこんな風に変えたのか、と原作とのちがいもよく分かる。これもまた面白い。
再発見はなんといっても娘のルーシーだ。原作では会話部分のほかは、あくまで父であるデイヴィッドの目からみた娘として描かれているが、映画ではデイヴィッドもルーシーも観る者の視線から等距離。そのため、ルーシーに感情移入することが可能になる。つまりルーシーとの距離が縮まるのだ。
セクハラで大学の職を失ったデイヴィッドがころがり込むルーシーの家は、東ケープにある。コーサやポンドといった先住民族との土地争奪の歴史が滲み込んでいる土地だ。その土地と「恋に落ちた」元ヒッピーの白人女性ルーシーが、3人組の若い黒人の強盗にレイプされる。それでも彼女は土地を離れない。身ごもった子供を産んで、その土地の人間になって生きていこうと苦渋の決意をするところは、作品後半の重要なテーマである。
映画を観たあと原作を読むと、ルーシーのこのことばに作者はなにを込めた? といった問いも考えやすい。ルーシーもまた作者クッツェーの分身であることを考えるなら当然浮かんでくるはずの問いが、彼女の「かたくなさ」に呆然となって、小説が発表された10年ほど前はなかなか思い浮かばなかった。
そんなルーシーに光をあてて再読することで、作者クッツェーと南アフリカという土地の関係もあらためて理解できる時期にきたように思えるのだけれど、どうだろうか。作者はこの小説がきっかけとなったある事件のあと南アフリカを離れたが、ワールドカップの開催もあったことだし、南アの歴史事情も、日本人にとってそれほど遠いものではなくなった、そう思いたいものだ。☆
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2013.7.4付記:2000年に起きたANCや人権委員会からの『Disgrace』への批判と、作家クッツェーがオーストラリアに移住したことには直接的な関係はない。クッツェーが1990年代半ばころからアデレードへ移り住むことを考えはじめ、書類などもそろえていたことはカンネメイヤーの「J.M.Ceotzee:A Life in Writing」でも明らかにされている。たまたま、時期的に重なったため、単純な「理由」をもとめる世界中のメディアと視聴者が飛びついただけなのだ。かくいうわたしも報道されたニュースに振りまわされた。深く反省して、ここに訂正したい。
2010/10/02
ひさしぶりに「水牛」に詩を/アディーチェさん帰国
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェさんが帰国して、さまざまなお土産と宿題を残しながら「チママンダ旋風」もひと息。10月を迎えました。
日本での「アフリカ表象」の問題点と課題は、これから私たちが真摯に取り組まなければならない重要項目です。アディーチェさんの来日と彼女が残していったことばによって、それはさらに明らかになるはずです。対談やインタビューの成果に期待したいと思います。
「水牛のように」に復帰しました。右の「Café」トップラインにリンクしましたが、まだしばらくは『半分のぼった黄色い太陽』の余韻が消えないようです。
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明日、10月3日の朝日新聞書評欄に、『半分のぼった黄色い太陽』の書評が掲載されます。
日本での「アフリカ表象」の問題点と課題は、これから私たちが真摯に取り組まなければならない重要項目です。アディーチェさんの来日と彼女が残していったことばによって、それはさらに明らかになるはずです。対談やインタビューの成果に期待したいと思います。
「水牛のように」に復帰しました。右の「Café」トップラインにリンクしましたが、まだしばらくは『半分のぼった黄色い太陽』の余韻が消えないようです。
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明日、10月3日の朝日新聞書評欄に、『半分のぼった黄色い太陽』の書評が掲載されます。
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