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2025/07/13

朝顔すだれと『水脈を聴く男』の書評

今年も朝顔のすだれです。葉っぱの密度がすごい!

1週間ほど前の写真とくらべてみてください。あれから大きな葉がぐんぐん広がり、何度も束になってベランダの天井を突き抜けたいとばかりに伸びました。そこで束ごとくるっと旋回させて下へさげたり、横へ向けたり。

←するとこんな感じになりました。


 光を透かすようにして裏側から撮った写真の、葉が作り出す濃淡がおもしろい。花は外側に向かって少し咲くようになりましたが、今年の朝顔の特徴は、なんといっても、もりもり茂る葉っぱです。風に揺られて、とても涼しげ。

 今朝は光とは反対側に向かって、めずらしく花首を思い切り伸ばして一輪だけポツンと咲いてるのがあって、なんだか不思議な感じです。

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先月のことになりますが、日経新聞(6月27日)に『水脈を聴く男』の書評を書きました。著者はオマーンの作家ザフラーン・アルカースィミー、訳者は山本薫、マイサラ・アフィーフィーのお二人、版元は書肆侃侃房です。

 オマーンってここか!と地図を見ながら読みました。

 すでにあちこちに書評や、来日した作家のインタビュー記事が掲載されているので、詳しい説明は省略します。

 すごく面白い作品で、おすすめです!


2024/10/08

9 月末の札幌は東京なみの気温だった

 1ヶ月以上も間があいてしまったよ〜〜〜。

 とにかく今年の夏は暑かった。本当に暑かった。7月23日から始まって9月20日まで、なんと60日間も熱帯夜が続いたのだ。そのダメージは半端じゃなかった。9月に入ってからの暑さはとりわけ。

 それでも仕事は容赦なく続いて、9月7日の日経新聞にダヴィド・ディオップ『夜、すべての血は黒い』(早川書房)の書評をかき、雑誌「すばる 11月号」掲載のために、アブドゥルラザク・グルナの短編「檻」の翻訳を仕上げた。

 2021年にノーベル文学賞を受賞したグルナの短編は、長編『楽園』(白水社)のスケッチのような作品だ。これから出るグルナ・コレクションについても解説で触れたので、よかったら!

 9月27-29日の3日間、札幌へ行った。ちょうど5年前のおなじ時期に行ったので、そのときの涼しさを思い出して、秋物をスーツケースに詰めていった。ところが、なんと、東京とほとんど変わらない温度だったのだ。完全に予想が外れた。まいった!

 5年前はおなじ時期でも、夜は外へ出るときダウンジャケットを着込んだくらいだったのに、今回はそんな必要はなくて、ダウンジャケットは出番がなく、冷房がききすぎた行きのリムジンバスで役に立っただけ。

 札幌のホテルにチェックインしても、あえて外へ出る気がしない。必要最小限の買い物以外、暑さ負けで、ほとんどホテルのベッドに横になって天井をにらむか、うとうとしていた。それほど東京の酷暑60日間のダメージは大きかった。それは帰京してから気がついたのだけれど。

 東京は9月末だというのに暑さがぶり返し、ここ数日の涼しさ(今日は寒いくらいだけれど)でようやく一息。やっと復調。明日あたりから仕事に戻れそうだ。

 そんなこんなだけれど、時間は情け容赦なく過ぎていく。ノーベル文学賞発表も明後日に迫っている。今年は、順番から行くと、女性作家か女性詩人だろうか。それも、アジアやアフリカ、ラテンアメリカあたりから受賞者が出るんじゃないかと期待しているのだけれど、さあ、どうなるかな?

2024/08/24

海外文学の森へ 87──ダヴィド・ディオップ『夜、すべての血は黒い』


東京新聞火曜日に隔週で連載されるリレーコラム「海外文学の森へ 87」、20日(夕刊)にダヴィド・ディオップ『夜、すべての血は黒い』加藤かおり訳(早川書房) について書きました。

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「知っている、わかっている」「神の真理にかけて」とたたみかける文句がいきなり目に飛び込んでくる。

 歴史を語る叙事詩や、知恵を伝える民話神話など、リズミックな反復に乗せて語り継がれる口承文芸は、アフリカ大陸のそこかしこで発達してきた。この反復は、ダンスと共に戦士を鼓舞して一体感を作り出す歌にも多用される。

 ダヴィド・ディオップは、フランス語の小説に大胆にこのくり返しを挿入する。ひどく主観的な語りが気にならないのはそのせいだろうか。リピートの響きが前面に出るため、奥に流れる話に耳を澄まさざるをえなくなる。懐疑を押し殺す呪文に近いこの催眠効果が曲者だ。

──以下略


2024/05/26

ことばの杭としての記憶──海外文学の森へ 81

 東京新聞「海外文学の森へ 81」に書いた、ハン・ガン『別れを告げない』(斎藤真理子訳、白水社)をアップします。多くの人に読んでもらいたい文章だから。

 原稿を送ってから、数日後にゲラが送られてきて、手を入れるための時間は数日あったけれど、結局、赤字はひとつも入らなかった。そんなことは初めてだった。タイトル「ことばの杭としての記憶」は記者の方が付けてくれたものです。

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"ことばの杭としての記憶"

「尾根から裾野に向かって」植えられた「何千本もの黒い丸木」に雪が降る。すべてを包み込むように、降る。これは#幻視者(ルビ・ヴィジョネール)の文学ではないか、読み終えてそう思った。


 二十年来の友人インソンが作業中に電動鋸で指を切断した。駆けつけた作家キョンハが彼女の家へ向かう。水と餌がなくなると、あっけなく死ぬ鳥の命を救うために。時間はない。バスを待つ身に降りしきる雪は、ふわりと落ちてすぐ溶けるぼたん雪だ。

 膝までの雪を漕ぐ。薄明かり、黒い樹影、手探りで進む物語の森は暗く深い。キョンハ自身の偏頭痛と豆のお粥、インソンの母が悪夢よけに、布団の下に敷いていたという糸鋸、洞窟。


 インソンの母は幼いころ「朝鮮半島の現代史上最大のトラウマ」ともいえる虐殺事件を体験した。1948年済州島四・三事件だ。偶然にも生き残った母の身振りや声、断片的な語り、娘の心に刻まれた重たい記憶の切れ端が、薄墨色の綾布を織っていく。

 インソンとキョンハは海辺に黒い丸木を林立させて、映像作品を制作しようとしていた。一旦中止になったその計画が、この物語になったのだろうか、記憶をことばの杭として打ちこむために。読者の想像力を極限まで引き出さずにおかない小説だ。


 封印されてきた歴史的事実を調べて生前の母の不可解な姿に光をあてる娘、それを幻聴のように聞きとる友人は、物語の双子のよう。次々と浮かぶ幻影を、語りの現在が固定具となって繋いでいく。その夢と救済の物語をしなやかな日本語で読むことは「死から生への究極の愛」を受ける恩寵に満ちた体験だった。

 

 解説に引用された「光がなければ光を作り出してでも進んでいくのが、書くという行為」という作家のことばに深く頷く。日本語使用者が心得るべき歴史を詳細に記す解説も迫力がある。

 出版後ただちに多くの読者に迎えられ、早々にフランス語に翻訳されてメディシス賞(外国小説部門)などを受賞と知って、フランスにも幻視者文学の長い系譜があったことを思い出した。


2024/05/21

幻視者の文学、ハン・ガン『別れを告げない』斎藤真理子訳について

 ハン・ガン『別れを告げない』斎藤真理子訳(白水社)について、東京新聞のコラム「海外文学の森へ 81」に書きました。今日5月21日夕刊に掲載されています。

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 これは「幻視者(ヴィジョネール)の文学」ではないか、というのが筆者の見立てだ。ヴィジョネールの作家・詩人についてはフランス文学に長い歴史がある。ネルヴァルとかミショーとか。もちろんフランスだけではないけれど(ドイツの美術とか)、この作品を読んで脳裏に浮かんできたのは、そのことばだった。60年代のフランス文学全盛時代に学生だった者にとって「ヴィジョネール」はある種、特別な意味を含んだ呼称なのかもしれない。例えば梶井基次郎なんかは「ヴィジョネールの作家」と言えるだろう。

 ハン・ガンの作風は、そんな幻視の世界へ読者の視線や心を引っ張っていく──というのは深い物語の森に入っていって、ここはどこ?と思ったときに気がついたのだけれど。

左がフランス語訳、右が日本語訳

 済州島 4.3 事件。この虐殺事件は日本帝国の植民地化からの解放まもない1948年前後に、東西対立、大国間のかけひき、朝鮮戦争といった政治事情が複雑に絡まりあう状況のなかで起きた。非情なジェノサイドである。その後、軍政権が何代も続いた時代に、解明されることなく、封印されて、記憶の風化が進むかと危ぶまれる時代になった。事件が解明されはじめたのはそれほど昔ではない。

 1970年生まれの作家ハン・ガンは、『別れを告げない』の語りの中心に、この虐殺事件のサバイバー2世である映像作家インソンと、その友人である作家キョンハを置く。物語はふたりの交流と複雑に絡まる記憶を薄墨色のざっくりした布に織り込むように進んでいく。全編に雪が降る。深い雪の世界だ。

 読んでいくうちに、キョンハとインソンが、幻聴や幻視のモノクロ世界で「物語」を構成する縦糸と横糸のような関係、いや、双子のように感じられてくるから不思議だ。

 とにかく読ませる。70年生まれのハン・ガンは、おそらくそれほど遠くない未来、ノーベル文学賞を受賞するんじゃないかと確信させる作品だ。もしそうなったら、アジア人女性として初めての受賞者になるのだろう。

 昨秋から現在形で続く「パレスチナ/イスラエル」のジェノサイドが二重写しになって迫ってくる。


2023/06/11

「海外文学の森へ 56」『過去を売る男』:ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ著、木下眞穂訳『過去を売る男』

東京新聞(6月6日夕刊)のコラム「海外文学の森 56」でジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ著、木下眞穂訳『過去を売る男』(白水社)を紹介しました。

 このリレーコラム、最初は「書評より、もっと柔らかく、身近なことも含めてエッセイふうに」という依頼だったように記憶しています。「柔らかく」がうまくいってるかどうかは別として、今回は、むかしのこともちょっと書いたり。

タイトルは、担当の記者の方が付けてくれたものです。

***アンゴラの風に乗って***

「トッケー、トッケー」と鳴くヤモリが壁を這う家に泊まったことがある。小さな娘たちとタイへ旅した遠い昔だ。『過去を売る男』を読んで、アンゴラのヤモリは笑うのか! と溜め息をつく。アンゴラのヤモリの声も聞いてみたかった。そんな叶わぬ旅への憧憬をかき立てる作品だ。

 主人公フェリックス・ヴェントゥーラはアルビノの黒人、資料を集めて過去を創作し、それを売ることを生業にしている。ポルトガル移民で古書店主の祖父、その息子が養父、という彼の系譜自体が謎めいている。おまけに家に住み着いたヤモリ語りに遠い記憶が入り込む。このヤモリ、かつては人間だったらしい


 舞台となるアンゴラはアフリカ南西部の大きな国だ。西は大西洋に面し、北はコンゴ民主共和国、南はナミビアに隣接し、かつてはポルトガルの植民地で奴隷の輸出国だった。独立は一九七五年だが二〇〇二年まで内戦が続いた。


 六〇年生まれのアグアルーザは、ポルトガル語にいくつかバンツー系言語が混じる環境で育ったのだろう。作品内には渇いた風が運ぶいくつもの微かな声音が響き、鮮やかな色調が揺れる。


 南部アフリカにはトカゲ、ヤモリといった動物が登場する神話、民話が多い。ズールー民族の詩人マジシ・クネーネが記録した民族創世神話ではカメレオンが神の使者だし、モザンビークの作家ミア・コウトにはハラカブマ(センザンコウ)が男の内部に棲みつく物語がある。


 本書は三十二の短章が深い奥ゆきをもって連なる。過去を買いにきた男、美貌の写真家、浮浪者といった登場人物を天井から眺めるヤモリ。エピグラフのボルヘスが道づれとなり先へ先へと飽きずに読ませる。夢のなかで真実と嘘が一瞬のうちに入れ代わり、過去と現在の境が揺らぐ。


 フェリックスがヤモリと語り合うときは、書き留めたくなることばが多い。雲は「夢の出口に見えない?」とか「幸福とは、たいていの場合、無責任だ」とか。


 土地に染みついた裏切りの記憶がカラフルな房糸となって、一気にほつれて謎が解ける。その向こうに「アンゴラの海」が見えるだろうか?


                      くぼたのぞみ(翻訳家、詩人)


PDFでアップできないので、そっくりペーストします。

2022/12/14

「海外文学の森へ」──トニ・モリスン『タール・ベイビー』について

 復刊されたトニ・モリスンの『タール・ベイビー』(藤本和子訳、ハヤカワepi文庫)について書きました。2022.12.13付、東京新聞夕刊の「海外文学の森へ」です。
 このリレーコラムが始まったのが2021年の1月ですから、これでちょうど2年ほど。これがわたしにとって今年最後のコラムです。その全文を以下に。

***

 流れるチョコレートを思わせる表紙の『タール・ベイビー』は、恋の物語である。舞台はカリブ海の小さな島だ。

 登場するのはフロリダ州の黒人だけの小さな町で育ったサン、目にサバンナをたたえた黒人の男と、大富豪の白人の庇護を受けソルボンヌで美術史の修士号を取ったジャディーン、「白い文化によって構築された黒い女」だ。二人はふいに出会い、惹かれ合い、恋に落ちる。でも考え方も感じ方も激しく異なり、相手を理解できずに傷つけ合う。


「タール・ベイビー」とはアメリカ黒人の間に伝えられ広く流布してきた物語の一つで、狐と兎のエピソードに出てくるという。狐は人形に黒いタールを塗って囮にし、兎を捕まえ食べようとする。兎が人形に声をかけて触れた瞬間タールがくっついて離れなくなる。狐は白人、兎は黒人をシンボライズしている。

 サンとジャディーンの違いは、そのままアフリカ系アメリカ人の共同体内部の葛藤を指している。サンはジャディーンをタール・ベイビー的存在から救出して、民族の歴史との連続性を取り戻させたいと思い、ジャディーンはサンを向上させて、アンダークラスと呼ばれる最下階級の世界から救出したいと考える。


 二人が体現するこの差異のなかにモリスンは、作品が書かれた時代にアメリカ黒人全体が突きつけられた問題を示唆的に描きだす。人間以下の存在として売買された彼女ら彼らが「人間として」生き延びるために創造したのが、音楽、ダンス、語りに象徴されるアフリカン・アメリカン文化だった。それが大きな変容の波を受けるとき、サンかジャディーンかとどちらかを選ぶだけではすまないのだと。


 こうした作品のコンテキストを翻訳者の藤本和子はモリスンに直接インタビューして解き明かす。その文章は四半世紀後のいまも輝きを失わず、BLM運動の奥深い歴史的背景へと読者を繋いでいく。


 藤本の聞き書き『塩を食う女たち』『ブルースだってただの唄』が次々と文庫化されて「藤本和子ルネサンス」を迎えている。そこに『タール・ベイビー』が加わった。困難な時代を生き延びる手がかりが、また一冊復刊されたのが嬉しい。 


  くぼたのぞみ(翻訳家)   

                           


🌹🌹🌹🍾🍾🍾

(今夜はアクアパッツァでスパークリングワイン!──無事に暮れを迎えられそうなお祝いです)



2021/12/26

大竹昭子さんが『山羊と水葬』の書評を西日本新聞に!

風土の記憶、自分への目覚め

 西日本新聞2021年12月25日朝刊に、あの大竹昭子さんが『山羊と水葬』(書肆侃侃房)の書評を書いてくれました。同世代で、あの時代を(「あの」がやたら多くてすみません!)東京で経験した人ならではの視点から、深い記憶の水の底へ、鋭いビームを投じるように読み解いて伝えてくれた大竹さん、ありがとうございました。

 たとえば、「大学時代はジャズに夢中になり、東京中のジャズ喫茶を(当時は女独りで入れるような雰囲気ではなかったにもかかわらず!)独りで巡って……」というところなどは、あのころの社会標準としての空気を知らない人には、なかなか想像できないことかもしれません。この部分の読み解きはとても嬉しい。

 わたしの生まれた「家」は、当時の村の基準でいうと、農業を主業としている「農家」とはいえないかもしれないけれど(父は勤め人をしながら、母は子育てをしながら、小さな田畑を作っていた)、田舎と都会の距離などについて、現在から投じる光の当て方はきわめて的確です。

 2021年のクリスマスに、なにより嬉しいプレゼントをいただきました。

 Merci beaucoup!


2021/12/18

中村和恵さんが『J・M・クッツェーと真実』の書評を東京新聞に!

多様性のルーツに肉薄 


2021年も残り少なくなりました。今年は、コロナウィルスが世界に蔓延して2年目、8月には猛暑の東京で、1年遅れのオリンピック、パラリンピックが開催されるという悪夢のような出来事もありました。しかし、過ぎ去ってしまえばすでに遠い、という感じが否めない。

 でも、今年2021年はわたしにとって、なんといっても10月に3冊の著書、訳書を出せたことが大きな出来事でした。『J・M・クッツェーと真実』『少年時代の写真』(ともに白水社)『山羊と水葬』(書肆侃侃房)です。

 そして今日の東京新聞に、今年の最後を飾るかのように、『J・M・クッツェーと真実』の書評が載りました。評者は、中村和恵さんです。「多様性のルーツに肉薄」というタイトルの文章で、外部から見れば「謎めいた」ように見えるクッツェーの姿を立体的に、核心をついた表現で伝えてくれました。

「J・M・クッツェーについて詳細に、同時にわかりやすく書く、という離れ業を本書はやってのける」と始まり、「現在はオーストラリア在住だが、やはり彼は南アの作家なのだ」と指摘する中村さんは、長年オーストラリアの先住民について調べてきた人です。

 最後に、わたしが訳してきたアフリカ大陸出身の作家の名をあげながら、「あの大陸にはまだまだ、語られるべき物語、読まれるべき話がある」と結ぶ。この評者ならではのことばのシャベルで、時間と空間を掘り起こす視点が光ります。

Merci beaucoup!


2021/12/15

東京新聞「海外文学の森へ 21」グアダルーペ・ネッテル『赤い魚の夫婦』

12月14日の東京新聞夕刊「海外文学の森へ 21」に、グアダルーペ・ネッテル『赤い魚の夫婦』(宇野和美訳 現代書館刊)について書きました。

 読んだのは、あの、暑い、オリパラの8月でしたが(もうほとんど忘れかけている夏)、この本を読んだときの新鮮な驚きはいまもありありと蘇ります。



2020/04/08

書評:関口涼子著・訳『カタストロフ前夜』

 「じんぶん堂」に関口涼子著・訳『カタストロフ前夜』(明石書店刊)の書評を書きました。

        声はわたし(たち)にも触れる

フランス語で書かれた3冊を、著者みずからが日本語に訳したという稀有な本です。もとの3冊、書名はこんな感じ。

 『これは偶然ではない/ Ce n'est pas un hasard』
 『声は現れる/ La Voix sombre』
 『亡霊食/ Manger fantôme』

 自作翻訳は、作家によってはややもすると部分的な表現の書き直しが起きやすいものですが、訳者である関口さんはこの本を原テクストにできるだけ忠実に訳したそうです。その意味は、本を読むとよくわかります。
 著者と訳者は同一人物ではあるけれど、書くことと訳すことに鋭く意識的であることは、著者が、そして訳者が、ファクトに対して誠実であろうとすることで、この訳書はそのことが浮き彫りになっています。いろんな意味でとても貴重な本です。おすすめです!

***
 非常事態宣言という名の引きこもり宣言が出て、今日から引きこもらざるをえない人が増えるけど、基本的に家で机に向かって仕事をする身には、ほとんど毎日が引きこもりなので、生活のペースはあまり変わらない。

 でも、医療現場、介護の現場、清掃や保育の現場、食料や必需品を作ったり売ったり詰めたりする現場、運送する現場、そういうところで働いている人たちに生活の基本的部分を負っていることを忘れずにいよう。心から感謝する。

 そして、今回の宣言の結果、仕事がなくなったり収入が途絶えたり、減収になったりする人に、政府は即座に現金を出す。そうしなければ生活が成り立たない人がいる。無条件ですぐに出さなければダメだと思う。そのための税金であり、そのための「政府」じゃないか。


2020/02/02

聖性を鏡に映すダークコメディ:木村友祐『幼な子の聖戦』

 あれよあれよといううちに2月になった。

2020.1.24 集英社刊
今年は、小さな人を迎えてお正月を祝ったあと、すぐに翻訳を数ページやって、暮れからの宿題だった木村友祐著『幼な子の聖戦』の書評にとりかかった。2400字の枠ならかなり書けるし、書かなければならない──と背筋を伸ばした。そして書いた。「すばる 3月号」26日発売(集英社)。

 聖性を鏡に映すダークコメディ

 八戸が舞台の小説である。八戸というのは「耳懐かしい」地名なのだ。学生時代に夏休み、冬休みになると上野から青森まで夜行列車に乗った。青森から函館までは青函連絡船だ。函館からさらに特急を乗り継いで滝川へ。
 その旅で、青森に着く少し前の駅が八戸だったと記憶している。降りたことはないけれど。作中に出てくる青森弁というか八戸弁というか、東北訛りというか、とにかく全部がすべて理解できるわけではないけれど、この本にでてくる会話はルビの振られた「意味」を見なくてもおよそあたりがつくものが多い。なかには、これは聞いたことがある、耳にしたことがある、いやいや、わたし自身が使ったこともある、という語に何度か出くわした。

つまり、わたしが育った北海道中部の農村の訛りは、八戸の訛りと共通する表現が多々あったことに、いまさらながら気づいたのだ。ふむふむ、ふむ。土臭い、というか、泥臭いというか。そこには洗練という名のトリックがない。

 ずどんと心の底まで打つような、その八戸訛りのパワフルなこと。それが作品に「劇薬的な効果」をおよぼしていて、すばらしいのだ。そのことは書評にも書いた。しかし、それ以外のことは、まあここでは触れないでおこう。クッツェーとか、ドストエフスキーとか、宮澤賢治とか、出てきます。詳しい内容は、ぜひ、書評そのもので確認してください。

  聖性を鏡に映すダークコメディ

「すばる 3月号」26日発売(集英社)に掲載です。
 

2017/11/19

ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子著『大航海時代の日本人奴隷』

遅ればせながら『大航海時代の日本人奴隷』(ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子著 中公叢書)を読んだ。

 16世紀半ばから17世紀半ばまでの日本がスペイン・ポルトガル人と交易をするなかで、どんなことが起きていたのか。
 キリスト教を受け入れながら、あるいは反発しながら南蛮貿易にたずさわるなかで、戦国時代の「乱取り」と呼ばれる捕虜の習慣によって、あるいは年季奉公的な扱いや、親に売られた子供などが人身売買されて、日本人が太平洋を越え、メキシコやヨーロッパへ、あるいはインドネシア、インドを経由してアフリカ大陸まで渡ったプロセスが、豊富な歴史資料によって裏付けられ、浮かび上がる。それがこの本の大きな特徴だ。

 奴隷貿易といえば人は、ポルトガルやアラブの商人によってアフリカ大陸、とりわけ西アフリカからカリブ海を経由して南北のアメリカ大陸へ運ばれた黒人奴隷を思い浮かべることが多い。しかし、じつは、多くのアジア人が奴隷として売買されていたことは、南アフリカのケープタウンにある「スレイブ・ロッジ」を訪れたときから、筆者にもはっきり意識されてきた。この本は、そのもやもやした歴史的背景をクリアに開いて見せてくれるのだ。スレイブ・ロッジに残された記録として、奴隷の名前に日本人と思われる名があった理由が、その経緯が、この本を読むと納得できる。アジア、とりわけマカオ、マニラ、インドのゴアなどからポルトガル領アフリカ(現在のモザンビーク)や南アのインド洋に面したナタール(現ダーバン)を経由して、カフィール(アフリカ人奴隷)やインド系、他のアジア系の人たちといっしょに、日本人奴隷が南アフリカに入っていったことがわかるのだ。

 本文がわずか200ページにも満たない薄い本だが、そこに描き出される「世界史」の概要は、これまで日本国内で採用されてきた教科書では、少なくともわたしの世代では、まったく教えられなかった「世界史」の盲点を開いてみせてくれる。その意味でも、新たな「大航海時代」ともいえるグローバル化の時代に、「世界の歴史」として国境や言語を超えて共有できる、歴史家たちの貴重な仕事といえるだろう。本書は著者ルシオ・デ・ソウザの元本を岡美穂子がダイジェスト版として書いたものらしく、元本の翻訳もすでに完了しているという。出版されるのが楽しみだ。

2016/07/29

木村友祐『野良ビトたちの燃え上がる肖像』

「野良ビト」と聞いてドキッとした。ついに! 野良へ出て働く人たちが登場するのか、農の人たちが出てくるのか、と思ったのだ。でもそれは、わたしの勘違いだった。

「野良」とはこの場合、「野良ネコ」というときの野良だ。野良ネコは飼育されていないネコのことだが、野良ビトは定住しないヒト、定住地をもたないヒト、現代における狩猟採集的なノマド生活をする、せざるをえない窮状へ追い込まれた人たちのことだった。

 この語は作品に一度だけ出てくる。都会の河川敷を宿泊地とする、いわゆるホームレスのことをさす蔑称として、裕福だが隔離されて暮らす子供の口から、たどたどしく吐き出されるのだ。弓矢で野良猫を射殺す子供だ。従順に飼い馴らされて、しかし、人間としての感性や心情がおよそ不完全な発達を余儀なくされていく子供の(未来の大人の)影を背負っている。ゲートシティと呼ばれる「安全」と「安心」の幻想によって、壁のなかに自分たちを囲い込んで生きている、1パーセントの富裕層の生まれだ。

 物語は数年先のオリンピックを目前にした多摩川下流の河川敷らしい場所が舞台だ。リアルな暮らしが活写されていて、読ませる。

 終盤になって突如、驚愕の一人称が出てくるところで、J・M・クッツェーの『敵あるいはフォー』を思い出した。行間の裂け目から異物のようなものが噴出してくる。こじんまりと「小説」という形式内に収まりきらない何か、この整然とまとまらないところが、作品のあつかうテーマそのものと拮抗しているようにも思える。

 読み終わってあらためて考えたのは、「野良」という語には、飼い馴らされていない=untamed という意味も含まれていることだ。ヒトが「再野性化」する、という語も連想される。制度となった「ガッコウ」という檻から、自らを解放すること、生き物としての感性を取り戻すこと。

 究極の「野良ビト」を主人公とする『マイケル・K』を3度も訳した者として、「野良に出る」がいま新たな意味を持ち始めているのかもしれない、と納得した。

2016/02/18

キルメン・ウリベの『ムシェ──小さな英雄の物語』

遅ればせながら、キルメン・ウリべの『ムシェ──小さな英雄の物語』(金子奈美訳 白水社刊)を読んでいる。
 これはある種のファクツ・フィクション。すでにあちこちに書評が載って、高い評価をえている作品なので、内容の紹介はそちらにゆずって、ページを開いてまず感じるのは、日本語としての安定したリズムだ。
 前作の『ビルバオ──ニューヨーク──ビルバオ』ですでに、文体の確かさついては指摘されていたけれど、今回は前作に増してことばづかいに磨きがかかったようだ。アトランダムに開いたページを少し書き出してみようか。
 たとえばこんな箇所:

 ロベールは空襲に遭う。気がついたときには、周りのものすべてが崩壊している。足下には地面、頭上には空。目の前の家で、瓦礫のなか、石材や木の板や鉄くずの下から誰かの声がする。帽子、割れた食器、ひびの入った古時計をよけ、……

 あるいはこんな箇所:

 住民のあいだには強い連帯感があった。ムシェ家の下の階には、ある画家が住んでいた。画家はロベールに、万が一警察がやってきたら、窓から中庭に降り、そこから自分のアトリエを通って裏口から逃げなさいと言ってくれた。裏通りの角には小さな食料品店があった。緊急の場合はそこから電話をかけることができた。

 どのページを開いても、淡々と情景や場面を描いていく端正な文章に出会う。抑制の効いたことばの連なりが描き出す悲劇的な物語は、しかし、悲しさや辛さにまつわることばで読者の感情をあおることがない。そこがいい。
 むしろ静かな、衒いのないことばの奥に広がる作者のまなざしが、読者に、透明なガラスの向こうに目をこらすような覚醒感をうながすのだ。ここには、作者の文体が──といってもバスク語はまったく理解できないが──訳者の文体とまれに見る幸福な関係にあるのではないかと、読んでいて、想像をたくましくするものがある。

 翻訳の至福!

2016/02/15

J・M・クッツェー『世界文学論集』──朝日新聞に拡大枠の書評が

クッツェーの『世界文学論集』(田尻芳樹訳 みすず書房刊)について、昨日の朝日新聞に書評が載りました。評者は中村和恵さんです!

 クッツェーを「現英語圏、いや世界で最も重要な作家のひとりである」とし、彼が「特権的中心(巨匠)と周縁(その他)に分断されない、ひと連なりの平原に立つ」と指摘、これはクッツェー文学を読むうえで、もっとも重要なポイントと言いたいけれど、なかなか分かっていてもことばにならない部分でした。そこを中村さんはバシッと明言してくれました。お見事!
 こんなふうに、クッツェーが文学を見わたすすぐれて現代的な視点を明示しながら、「この世界文学の平原に古典は投げ返され、再検証されるのだ」と論じ、さらにこの本で「論じられる主題の多くは、じつはクッツェー自身の小説の主題でもある」と彼のエッセイと作品の関係を中村さんは喝破していきます。

「南アフリカ文学」というレッテルを貼られることを、クッツェーはむかしから嫌いました。いまオーストラリアに住むからといって「オーストラリア文学」というレッテルを貼られることも、おそらく彼は忌避することでしょう。ただし、南アフリカという土地から彼の作品を完全に切り離して読んでほしいといっているわけではないことは言うまでもありません。そういう「単一の解釈とナイーヴな論調をつねに警戒しながら、どこまでも覚醒した自己と世界の認識へと、クッツェーは自分を追い立てていく」という、この書評の最後の文もまた、既存の価値観だけで外側から解釈しようとすると見事にはぐらかされる、彼の入り組んだ立ち位置と響き合っているように思えます。クッツェー文学のもつ緊迫感と拮抗した鋭い視点の結びです。

 J・M・クッツェーという作家の全体像が、この論文集が読まれることによってようやく、この地でもクリアに見えるような気配が.......。翻訳された本の内容を深く読み込み、正確に位置づける書評は、多くの読者にとってなによりの指標です。これでクッツェーという作家がいま、あらためて視座にすえようとしている「世界文学」と「南」の文学との位置関係を、ニホンゴ世界で考えていく下地ができたことになるでしょうか。ニホンゴ文学における「世界文学」への視点もまた、クリアになることを期待したいところですが、どうでしょう。

2016/02/13

青山南編訳『作家はどうやって小説を書くのか、じっくり聞いてみよう』

北海道新聞に書評を書きました。1月31日朝刊掲載です。ここに写真でアップしますが、ネット版はここでも読めるみたいです。

青山南編訳『パリ・レヴュー・インタビュー──作家はどうやって小説を書くのか、じっくり/たっぷり聞いてみよう』(岩波書店刊)です。



2016/02/06

フアン・ガブリエル・バスケスの『物が落ちる音』

思い切り読書にあてられる自由時間に、フアン・ガブリエル・バスケスの『物が落ちる音』(柳原孝敦訳 松籟社)を一気に読んだ。おもしろかった。

 おもしろかった──という表現ではいささか言い足りない面白さだった。
 読了して思うのは、バスケスがどうしても書きたかったのは、麻薬をめぐる暴力にまみれた80~90年代のコロンビアではなかったかということだ。彼の青春時代と重なる時間、すでに過去となったいま、あれはいったいどういうことだったのかと。

たまたまビリヤード場で知り合った男といっしょに路上で銃撃されて腹部を撃たれ、その怪我の後遺症とPTSDのために性的インポテンツになってしまった主人公が、撃ち殺されたその男の過去を探り、1本の録音テープを手かがりに、いったい過去に何があったのか、どういうことなのか、と自分が撃たれた理由を探る旅に出る。そのプロセスが小説になっているのだけれど、そこからコロンビアとアメリカ合州国の60年代以降の関係が、じわりじわりと浮上するのだ。記憶と歴史をめぐる小説を書く上で、これは心憎いまでの巧みな仕掛けである。バスケス、なかなかの曲者だ。

 大学で法学を教える若い主人公ヤンマラは、ビリヤード場で偶然会った元パイロットのリカルド・ラベルデから、録音テープを聴く場所はないかと訊ねられる。19年間の服役を終えたばかりのリカルドは、だが、路上でいきなり銃殺され、その場にいあわせたヤンマラもまた腹部を撃たれて重傷を負う。銃弾は腹を突き抜け、神経と腱を焼き切りながら、脊椎から20センチのところで止まった──ということがわかるのは第2章で、第1章は断片的な記憶を主人公がふと思い出しながら進むため、物語の幕はあがったのに、その幕が何度もはらりと落ちてくるような感覚が拭えない。しかし幕を持ち上げて舞台の奥をみる努力はすぐに報われ、あとは夢中になって読みふけることになるのだ。

 ヤンマラが撃たれたのはパートナーのアウラとのあいだに娘が生まれる直前で、名前もレティシアにしようと決めたところだった。怪我のリハビリからは復帰したものの、銃弾が焼き切った神経のせいか、PTSDのせいか、主人公は性的インポテンツになってしまう。なぜ自分が撃たれたのか、自分が連座した暴力事件がなぜ起きたのか、断片的な記憶をつなぎあわせて脈絡をたどり、それを解き明かすまでは、もう日常生活でさえ先へは進めない。
 リカルドが最後に聴いたテープ、それは彼のグリンガの妻エレーンがフロリダからコロンビアへ向かう途中で墜落した飛行機のブラックボックスだった。そのテープをめぐって、マヤ・フリッツという女性からかかってきた電話で、物語は謎解きの様相を見せながら、核心へとじわじわと近づいていく。

 エレーンの娘だというマヤはヤンマラと1歳しか違わない。1980~90年代のボゴタで育った人だ。一方、アウラは両親がカリブ海諸国やメキシコなどを転々として育ったため、その時代のボコタを知らない。だから主人公がまきこまれた暴力事件の背景や彼の不安、恐怖の背後にある歴史的事件を深いところで共有しえない。この「知らない」という設定がとても重要なのだ。

 物語は時代を遡って1969年へ。合州国の平和部隊の一員としてコロンビアへやってきたエレーンが、ホストファミリーの息子リカルドと恋に落ち、最後には結婚することになっていったことが明かされる。平和部隊で「活躍する」グリンガを喜ばせようと奮闘するリカルドは、かつて英雄に憧れてパイロットになった男。セスナ機でマリファナを運び、大金を稼ぎ出すようになっていく。ヴェトナム戦争の脱走兵と思しき登場人物、フランク・ザッパの曲の歌詞、『星の王子さま』のシーンなどがじつに巧みに編み込まれ、ペーパーバック版『百年の孤独』の表紙では「E」が逆になったまま14刷というエピソードなどがちらりと挿入されたりする。そのたびに、おっ! と声をあげたくなった。

 しかし。

 最後に主人公がボコタに帰りつき、10階の自宅まで上がるエレベーターのボタンを押すときは、はらはらした。その前に車をガレージに入れたヤンマラが混ぜたばかりのコンクリを指で触れてみるシーンがあるのだが、それが限りなく不穏なサインに思われてしかたがなかった。エレベーターがいまにも「落ちそう」な予感に満ち満ちて……。帰った家はもぬけの殻。妻や娘は麻薬がらみの暴力のこととは無縁だ。そのことが、逆に、彼女たちにとっては幸いではないか、彼女たちのその「無垢」を自分は守ってやらなければ、と主人公が吐露するところがなんとも切ない。その一点からみるなら、これは純愛小説だといえなくもない。そして波乱含みの今後を匂わせながら、物語はどこかハッピーエンドの予感をもただよわせて終わる。

クッツェーとバスケス、2014年8月
 ある日突然、モノが次々と落ちて、崩れて、墜落して、ずたずたになっていく。壊れた日常を、主人公が記憶の断片を頼りに、脈絡を取り戻そうとするプロセス、それは歴史のリアリティの再構築にほかならない。それはまぎれもないこの作品の核心にある。
 しかしまた、ここに描き出された「時代」は決して過去ではないのだ。麻薬がらみの暴力沙汰を「テロ」や「戦争」に置き換えてみると、それは世界中の、時代を超えた物語となっていく。だからこれはすぐれて現代的な、開かれたテクストともいえる。
 銃殺されたリカルドや、墜落死したエレーンは、いってみれば、わたしの同世代人だ。1969年とそれに続く時代、ヴェトナム戦争と反戦運動の時代を、コロンビアの次世代作家がアメリカス全体の歴史として再構築してみせる作品は、ラテンアメリカから出てくる作品群にともすると被せられる「マジックリアリズム」という分厚い霧を取り払ってくれる作品でもあった。

 さあ、次は『コスタグアナ秘史』だ! 柳原さん、バスケスを訳してくれてありがとう! 

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付記:2016.2.7──昨夜、ふとんに入ってから頭のなかを『物が落ちる音』の断片がはらはらと落ちて、ふと気づいたことがある。この作品からは、かつてよく見聞きしたラテンアメリカ文学の「マッチョ性」がきれいに消えているのだ。これはいくら強調しても強調しすぎることはないように思う。女性の描き方が秀逸。1969年前後の男と女の関係の描き方も嫌味がない。『わが悲しき娼婦……』といった妄想の靄からみずからを解放した(?)1973年生まれの男性作家の本格的日本上陸を心から歓迎したい。

2015/07/11

新刊めったくたガイドに『マイケル・K』が

都甲幸治さんが、「本の雑誌」8月号の「新刊めったくたガイド」で、クッツェーの『マイケル・K』をまた取りあげてくださった。マイケルも、さぞや嬉しがっていることでしょう。
Muchas gracias!

8月号だから、夏休みに向けた読書ガイドってことかな。
それにしても、この「新刊めったくたガイド」って名前、いいな!

ここにあがっているパク・ミンギュの『亡き王女のためのパヴァーヌ』、読んでみたい。とっても。

2015/07/01

『波』に野中柊さんの本について書きました

新潮社の『波』7月号に、野中柊さんの新著『波止場にて』について書きました。タイトルは直球どまんなか、「 きっぱりと明るく描く昭和の戦争ラブロマンス」。そう、明るい戦争ラブロマンスなんです。

 最近わたしが読むものとはひと味ちがうかも、と思いながらも、うんと若いころはこういうロマンスも大好きで、よく夢中で読んだものだったなあ、とそのころの感覚を懐かしく思い出しながら、ぐんぐんページをめくって、「ああ、面白かった」と声に出しながら本をとじました。

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2015.7.9 付記:この書評、ネット上でも読めるようになりました。こちらです。