1999年に北海道新聞に書いた書評に加筆しました。あれから8年あまりの時がたち、さて、なにが変わり、なにが変わらなかったか、とあたりを見まわして、今年の最後の書き込みにしたいと思います。
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アフリカ文学を読むための絶好の案内書がついに出た! といっても少しも大げさではないと思える本が、ようやく登場した。福島富士男著『アフリカ文学読みはじめ』(スリーエーネットワーク、1999年)である。
ヨーロッパの東洋世界に対するものの見方や考え方を、オリエンタリズムとしてとらえ、綿々と受け継がれてきたその思考様式や価値観を、鋭く分析し、厳しく批判したのはエドワード・サイードだが、この構図のなかの「東洋」を「アフリカ」に、「ヨーロッパ」を「アメリカ合州国」に置き換えて論じたのが、1993年に黒人女性として初めてノーベル文学賞を受賞した作家、トニ・モリスンである。その著書『白さと想像力/Playing in the Dark』(邦訳は朝日選書、1994年)のなかでモリスンは「アフリカニズム」という語を用いて、言語のすみずみにまで浸透しているアフリカと黒人、また黒さそのものにまつわる白人上位の思考と知覚の様式をあらわにしてみせた。
本書『アフリカ文学読みはじめ』は、このような脈絡からみても、あるいは前知識などいっさいなしにアフリカ文学を読もうとする人にとっても、たぶん、目からウロコが何枚も落ちる本だと思う。「エキゾチシズムの色眼鏡」なしにテキストを読むための、格好のガイドブックになっているからだ。
南アフリカの2人のノーベル賞作家、ナディン・ゴーディマ、J・M・クッツェー、あるいは、ズールーの民族詩人、マジシ・クネーネ、野間賞を受賞したジンバブウェのチェンジェライ・ホーヴェなど、日本でも知られた作家、詩人はもちろん、あまり馴染みののない作家のものも含めて、英語圏アフリカから発信されてきた多くの作品を引用しながら、口承文芸から植民地時代の文学を経て現在にいたる、南部アフリカの文学世界の特徴や、背景を、平易な語り口で展開している。
読みすすむうちに、西欧の知識経由で、知らず知らず私たちのなかに養われてきた「遠いアフリカ」に対する固定観念、アフリカニズムともいえる薄い皮膜が、ゆっくりと、何枚もはがれていく。思わぬ発見や、覚醒がいくつもあるはずだ。この本の最大の特徴はなんといっても、アフリカに生きる人たちを、あくまで、等身大に見る窓が大きく開かれていることだろう。
そんな窓から、興味をそそられる風景を見つけたなら、さっそく具体的な作品世界に入っていくのをおすすめしたい。長編、短篇、お話など、さまざまな形式の作品を含む11冊のアフリカ文学叢書が、滋味ゆたかなことばたちを準備して待っている。また、本書の各章末には原書リストと、ここ十数年ほどのあいだに出版されたアフリカ文学の邦訳リストも網羅されていて、とても重宝!
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付記:このサイトへ行くと、南アフリカ文学邦訳書リストがアップされています。南部アフリカではありませんが、ぜひ、参照してください。
2007/12/29
2007/12/28
2007/12/25
週刊ブックレビューで『アメリカにいる、きみ』が…
来年のことをいうと鬼が・・・という諺も、なんだか遠いむかしの話のような気がしますね。
うれしいお知らせです。新春のTVに、アディーチェの本が「出演」することになりました。NHK衛星第2TVの、1月13日午前8時放映の週刊ブックレビューで『アメリカにいる、きみ』が取りあげられます。評者は、1977年生まれのアディーチェとおなじ世代の若い作家!
ぜひとも若い読者にとどいてほしいと思ってセレクトし、訳した作品なので、これはとても嬉しいニュースです。
************** 来年は、長編『Half of a Yellow Sun/半分のぼった黄色い太陽』も訳すことになりました。アディーチェが、父母や祖父母が体験したビアフラ戦争について書き、2007年にオレンジ賞を受賞した作品です。
気を引き締めて、新しい年を迎えたいと思います!
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うれしいお知らせです。新春のTVに、アディーチェの本が「出演」することになりました。NHK衛星第2TVの、1月13日午前8時放映の週刊ブックレビューで『アメリカにいる、きみ』が取りあげられます。評者は、1977年生まれのアディーチェとおなじ世代の若い作家!
ぜひとも若い読者にとどいてほしいと思ってセレクトし、訳した作品なので、これはとても嬉しいニュースです。
************** 来年は、長編『Half of a Yellow Sun/半分のぼった黄色い太陽』も訳すことになりました。アディーチェが、父母や祖父母が体験したビアフラ戦争について書き、2007年にオレンジ賞を受賞した作品です。
気を引き締めて、新しい年を迎えたいと思います!
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2007/12/18
アディーチェ書評「物語から描くアフリカ」
アディーチェの『アメリカにいる、きみ』がふたつの新聞で書評されました。
まず、中村和恵さんが12月16日付けの北海道新聞の書評で、だれもが身構える「アフリカ」とか「ナイジェリア」という語に、だいじょうぶ、ふつうの人の暮らしの細部についてのエピソードから描き出される本だから、と書いてくださいました。そうなんです! ふたたびの、Muchas gracias!!
また、12月9日の朝日新聞の書評には「肌理(きめ)こまやかで伸びやかな語り口にこそ瞠目すべし」としめくくる、望月旬氏の評が載りました。これもまた、的を射た嬉しいことばです!!
昨日、東大駒場で開かれたJ・M・クッツェーさんの自作朗読会は120名ほどの観客で、とてもよい雰囲気の会でした。2週間あまりの滞在の最後を飾る朗読会に、この作家としてはめずらしく、最後に5人ほどの質問を受けて、それに丁寧に答えていました。
今回の来日はパートナーのドロシー・ドライヴァーさんもいっしょ。初めてお目にかかるドライヴァーさんは、南部アフリカの文学、とりわけ女性作家の作品研究を専門とするアカデミックです。興味深いお話がいろいろ聞けて、収穫の多い会になりました。
まず、中村和恵さんが12月16日付けの北海道新聞の書評で、だれもが身構える「アフリカ」とか「ナイジェリア」という語に、だいじょうぶ、ふつうの人の暮らしの細部についてのエピソードから描き出される本だから、と書いてくださいました。そうなんです! ふたたびの、Muchas gracias!!
また、12月9日の朝日新聞の書評には「肌理(きめ)こまやかで伸びやかな語り口にこそ瞠目すべし」としめくくる、望月旬氏の評が載りました。これもまた、的を射た嬉しいことばです!!
昨日、東大駒場で開かれたJ・M・クッツェーさんの自作朗読会は120名ほどの観客で、とてもよい雰囲気の会でした。2週間あまりの滞在の最後を飾る朗読会に、この作家としてはめずらしく、最後に5人ほどの質問を受けて、それに丁寧に答えていました。
今回の来日はパートナーのドロシー・ドライヴァーさんもいっしょ。初めてお目にかかるドライヴァーさんは、南部アフリカの文学、とりわけ女性作家の作品研究を専門とするアカデミックです。興味深いお話がいろいろ聞けて、収穫の多い会になりました。
2007/12/16
明日、朗読会があるJ・M・クッツェー氏のノーベル賞受賞時の記事
2003年10月に時事通信のために書いた拙文を「南アフリカのワインを飲む会」からここへ移動します。移動にあたって、事実関係をより正確にするため2箇所、加筆しました。
あくまで2003年の時点で書いたものです。その後のことは2006年8月に出た拙訳『マイケル・K』のあとがきや、このサイトの「クッツェーの微笑、あるいは…」に詳述しましたので、参照してください。
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「2003年のノーベル文学賞はJ.M.クッツェーが受賞」
J・M・クッツェーが、ついにノーベル文学賞を受賞した。
毎秋、最終リストに彼の名が残るようになって何年になるのだろう。最初に耳にしたのは『マイケル・K』を訳していたときだから15年も前のことだ。以後『夷狄を待ちながら』など8作品が邦訳されている。
南アフリカの作家、ジョン・マクスウェル・クッツェーは1940年2月9日、オランダ系植民者(アフリカーナー)の父ザカライアスと、アフリカーナーとドイツ系植民者の娘である母ヴェラとのあいだに、ケープタウンで生まれている。クッツェーという名は典型的なアフリカーナーの姓だが、家庭では英語が使われたため、この作家の第一言語はアフリカーンス語ではなく、英語になった。
人種によって苛烈に区分けされた社会でアウトサイダーとして育ったことが、作家としての自己形成に深く影響していることは間違いない。アパルトヘイト(人種隔離)体制が強化された1940〜50年代の南アで、複雑な疎外感を感じながら成長したころのことは拙訳『少年時代』にも詳しい。
ケープタウン大学で数学と文学を学んだ後、ロンドンでコンピュータプログラマーとして働きながら修士論文を書き(この時代のことは『青春時代』未邦訳…に詳しい)、さらに米国のテキサス大へ留学し言語学で博士論文を仕上げた。ニューヨーク滞在時にベトナム反戦集会に出たため、ビザが発給されなくなり、やむなく帰国。ケープタウン大学の教職を得て、74年に実験的作風の『ダスクランズ』を出版したのを皮切りに、発表する作品が次々と名だたる賞を受賞。1999年にはブッカー賞史上初の、2度目の受賞者となって、マスコミの話題をさらった(受賞作は83年の『マイケル・K』と99年の『恥辱』)。最新作の『エリザベス・コステロ』を含めて、これまでに小説やメモワールを11冊、エッセイ集を4冊発表、アンドレ・ブリンクとの共編著やアフリカーンス語からの翻訳などもある。
クッツェーは、91年におなじくノーベル文学賞を受賞した南アの作家ナディン・ゴーディマと、作風や政治的スタンスなどをよく比較される。ゴーディマの作品が南アを舞台にしたリアリズムに貫かれているのに対し、クッツェーは一作ごとに南アと架空の舞台を行き来しながら書き方を変えてきた作家だ。
だが、寓話的な手法を駆使した検閲制度下でもアパルトヘイト撤廃後も、無駄をそぎ落とした文体、痛々しいほどの内省といった特徴は変わっていない。西欧的カノンを引用し解体し、パロディ化しながら西欧植民地主義の源を根底から批判しようとする、知的で倫理的なその作風は、読者の意識の薄皮を何枚も剥がし、微妙にずらし、後戻りできないところへと導いていく。一度読んだら病みつきになる作家である。
たまたま南アフリカという土地に白人として生を受けたことに、あくまで個人として向きあおうとする作家クッツェーの受賞は、狭い集団意識に逃げ込もうとする人間への痛烈な批判でもあり、また、西欧中心主義的な世界文学の受容から抜け出せない北のアカデミズムへの、南半球からの強力なパンチとも受け取れる。
大のマスコミ嫌いで、ブッカー賞受賞式を2度とも欠席するという徹底ぶりだ。今回の受賞も、定例講義のためにシカゴ大学に滞在していたクッツェー自身はまったく知らず、スウェーデン・アカデミーが本人と連絡を取るのにずいぶん手間取ったと報じられた。
人柄は誠実そのもの、拙訳書を送るたびに、几帳面にすぐ返事をくれた。『少年時代』の翻訳時、作品内の時間的矛盾について質問すると「嗚呼(アラース)、間違いました」とじつに率直なことばが返ってきたことを思い出す。
あくまで2003年の時点で書いたものです。その後のことは2006年8月に出た拙訳『マイケル・K』のあとがきや、このサイトの「クッツェーの微笑、あるいは…」に詳述しましたので、参照してください。
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「2003年のノーベル文学賞はJ.M.クッツェーが受賞」
J・M・クッツェーが、ついにノーベル文学賞を受賞した。
毎秋、最終リストに彼の名が残るようになって何年になるのだろう。最初に耳にしたのは『マイケル・K』を訳していたときだから15年も前のことだ。以後『夷狄を待ちながら』など8作品が邦訳されている。
南アフリカの作家、ジョン・マクスウェル・クッツェーは1940年2月9日、オランダ系植民者(アフリカーナー)の父ザカライアスと、アフリカーナーとドイツ系植民者の娘である母ヴェラとのあいだに、ケープタウンで生まれている。クッツェーという名は典型的なアフリカーナーの姓だが、家庭では英語が使われたため、この作家の第一言語はアフリカーンス語ではなく、英語になった。
人種によって苛烈に区分けされた社会でアウトサイダーとして育ったことが、作家としての自己形成に深く影響していることは間違いない。アパルトヘイト(人種隔離)体制が強化された1940〜50年代の南アで、複雑な疎外感を感じながら成長したころのことは拙訳『少年時代』にも詳しい。
ケープタウン大学で数学と文学を学んだ後、ロンドンでコンピュータプログラマーとして働きながら修士論文を書き(この時代のことは『青春時代』未邦訳…に詳しい)、さらに米国のテキサス大へ留学し言語学で博士論文を仕上げた。ニューヨーク滞在時にベトナム反戦集会に出たため、ビザが発給されなくなり、やむなく帰国。ケープタウン大学の教職を得て、74年に実験的作風の『ダスクランズ』を出版したのを皮切りに、発表する作品が次々と名だたる賞を受賞。1999年にはブッカー賞史上初の、2度目の受賞者となって、マスコミの話題をさらった(受賞作は83年の『マイケル・K』と99年の『恥辱』)。最新作の『エリザベス・コステロ』を含めて、これまでに小説やメモワールを11冊、エッセイ集を4冊発表、アンドレ・ブリンクとの共編著やアフリカーンス語からの翻訳などもある。
クッツェーは、91年におなじくノーベル文学賞を受賞した南アの作家ナディン・ゴーディマと、作風や政治的スタンスなどをよく比較される。ゴーディマの作品が南アを舞台にしたリアリズムに貫かれているのに対し、クッツェーは一作ごとに南アと架空の舞台を行き来しながら書き方を変えてきた作家だ。
だが、寓話的な手法を駆使した検閲制度下でもアパルトヘイト撤廃後も、無駄をそぎ落とした文体、痛々しいほどの内省といった特徴は変わっていない。西欧的カノンを引用し解体し、パロディ化しながら西欧植民地主義の源を根底から批判しようとする、知的で倫理的なその作風は、読者の意識の薄皮を何枚も剥がし、微妙にずらし、後戻りできないところへと導いていく。一度読んだら病みつきになる作家である。
たまたま南アフリカという土地に白人として生を受けたことに、あくまで個人として向きあおうとする作家クッツェーの受賞は、狭い集団意識に逃げ込もうとする人間への痛烈な批判でもあり、また、西欧中心主義的な世界文学の受容から抜け出せない北のアカデミズムへの、南半球からの強力なパンチとも受け取れる。
大のマスコミ嫌いで、ブッカー賞受賞式を2度とも欠席するという徹底ぶりだ。今回の受賞も、定例講義のためにシカゴ大学に滞在していたクッツェー自身はまったく知らず、スウェーデン・アカデミーが本人と連絡を取るのにずいぶん手間取ったと報じられた。
人柄は誠実そのもの、拙訳書を送るたびに、几帳面にすぐ返事をくれた。『少年時代』の翻訳時、作品内の時間的矛盾について質問すると「嗚呼(アラース)、間違いました」とじつに率直なことばが返ってきたことを思い出す。
2007/12/14
2007/12/13
2007/12/12
2007/12/09
2007/12/08
週末に読む『アメリカにいる、きみ』
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