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2020/05/12

『鉄の時代』のファーカイルは白人か、黒人か?

J・M・クッツェーの『鉄の時代』に出てくる浮浪者ファーカイルは白人か、黒人か?
河出文庫 2020.5.7発売
これはなかなか解けない問いのようだ。2008年に初訳が出たとき、ある研究者は白人と断定して自作内で論を立てた。ある読者は黒人とみなして感想を書いた。しかし。

主人公ミセス・カレンの家の敷地に無断で入り込み、ガレージのわきの通路にダンボールとビニールシートで家らしきものを勝手に作って、そこに身をまるめていたのがファーカイルだ。作品の最初に、まず書かれているのがファーカイルの風貌で、細かな描写がある。

「背が高く、痩せこけて、風雨にさらされた皮膚に、長い虫歯の犬歯、ぶかぶかの灰色のスーツを着て、縁のほつれた帽子をかぶっていた」

 これだけでは「黒人か白人か」はわからない。ところが数ページ後に非常に重要な語がはさみこまれる。

「馬面の、風雨にさらされた顔、酒で目のまわりがむくんでいる。奇妙な緑色の目──不健康な」

 この「緑色の目」というのが決め手となるか、ならないか。白人だ、と思ったひとはここで判断したらしい。しかし、ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』の主人公はカラード(混血)だが紺碧のような緑色の目をした男だった。ということは?
 だが、決め手は、じつは、もっと後ろにある。ミセス・カレンの家で働いているメイド、フローレンスには子供が3人いて、長男ベキがいつのまにかタウンシップから逃げてきて、カレンの屋敷に住み着いている。住み着いて、といっても庭に離れのように立てられた狭い召使い部屋に、ということなのだが、このベキがあとからやってきた友人ジョンと2人で、酒浸りのファーカイルに殴りかかり、ファーカイルが手に持っていたブランデーの瓶の中身を地面に捨てるシーンがある。ここが決定的なのだ。なぜか?

ペンギン版 2018.9.25発売 
白人の屋敷内で黒人少年(ベキというのはバンツー系/黒人の名)が、いくら浮浪者でも白人に殴りかかることは、まず考えにくい。87年のケープタウンでの出来事なのだ。まだアパルトヘイトの法律は歴然と存在する。そして、酒ばかり飲んでいて闘わない旧世代へ若い世代が憤怒を募らせてきた歴史的事実があったことを思い出したい。南アフリカの解放闘争の歴史を少しひもとけば、それはわかる。とりわけブランデーがカラードの労働者たちに給料の代わりに支給された事実は『デイヴィッドの物語』にも出てきた。だから、若者が「のらくら者」と思われるファーカイルに殴りかかるシーンは、世代間の対立をあらわにする場面でもあるのだ。 
 そこまで読み解けば、ファーカイルは白人ではありえないことがわかるだろう。たとえ緑色の目をしていても。

 また、「黒人」だという見方は、非白人をすべて「ブラック」と呼んで団結した人たちの用語からすればあたっているが、フローレンスやベキのような「黒人」は当時南アフリカの法律では「ネイティヴ」と呼ばれた。だから「ブラック」というのはあくまで「非白人」という大雑把なカテゴリーなのだ。そこにはカラードもインド系もアジア系も入った。闘争の最終段階では「we black」と明言した反体制の白人闘志もいたくらいだ。そしてケープタウンはこのいわゆる「カラード」が「ネイティヴ」より多い街だったのだ。

 ということを考えると、ファーカイルはやっぱりカラードか、と思いいたる。おそらく、そうだろう。カラードといっても、肌の色とか文化的な背景とか、じつにさまざまなんだけど。
 そして作家は「ジョン・クッツェーはあたうるかぎりこの語を使うのを避けた」と『サマータイム』のなかで元恋人・同僚のソフィーに言わせていたことも思い出したい。


(2014年11月にアデレードで開かれたTraverses: J.M.Coetzee in the World の初日の朗読でクッツェーはこの『鉄の時代』の冒頭を朗読した。)

***
付記:そもそもVercueil・ファーカイルという名前は、いわゆるバンツー系(コーサとかズールー)の黒人の名前ではない。この作品中に出てくるThabane・タバーネとか、『恥辱』のセクハラ委員会の委員長Mathabane・マタバーネはともにバンツー系の名前だが、Vercueil・ファーカイルは明らかにフランス語かオランダ語起源の名前をアフリカーンス語読みしたもの。「V」は「ヴ」ではなく「フ」に近い音なのだ。これは2006年の初来日時に、作家本人に何度も発音してもらって確認した。

2014/05/27

クッツェー三部作、作業終了! あとは本になるのを待つだけ。

すべて終った。ついに、クッツェーの自伝的三部作の翻訳作業が訳者の手を離れた。

 あとは装丁家にきれいな衣装を着せてもらい、編集者の細やかな配慮に見守られて「本」というかたちになって、書店という舞台にのぼるのを待つだけだ。当初の出版予定より少し遅くなるかもしれないけれど、みなさん待っていてくださいね!

 ここにいたるまでには、なんとも険しい山あり、深い谷あり、急流ありで、難所をいくつも通らねばならなかった。長い道のりだった。

 思い返すと、このトリロジーとの旅は1997年の北半球の秋、第一部『少年時代』が出版されたときに始まった。かれこれ17年も前のことだ。数ページ読んだだけで「あなたの仕事だよ!」と言われているような気がした。
 幸い『マイケル・K』を世に出してくれた編集者O氏の力で1999年、『少年時代』の拙訳は読者に届けられた。しかし、続編が難航した。第二部の『青年時代』が原稿で送られてきたのが2001年5月、いま読んでも、内容の苛烈なまでの面白さは文句なしなのだが。

『青年時代』を翻訳することは『少年時代』を訳した者の仕事/duty だと思う、そんなことをクッツェー氏とお茶を飲みながら話して、原著にサインをもらった。2007年12月に彼が再来日したときのことだ。そのサインページを撮影してフレームに入れ、仕事部屋の棚に置いた。それ以来、『青年時代』の翻訳は実現すべき課題となり、毎日「さあ、ちゃんと仕事をしなさい」と棚の上から激励されることになったのだ。
 2003年に作家がノーベル文学賞を受賞し、2006年、2007年と来日が続いたことは大きかった。『鉄の時代』が、河出書房新社の池澤夏樹個人編集による世界文学全集に入ったことも力強い追い風になった。Merci!

 2009年、みぞれ降る2月に、クッツェーの次の作品『サマータイム』が、なんと、自伝的三部作の最後の部分にあたることを知ったときの驚き。クッツェー氏に連絡すると、「まだ草稿の段階で完成していないが、数週間のうちに仕上げられるといいのだか」というメールが返ってきた。あれはゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』と悪戦苦闘していたころだったろうか。

 それから数えて5年、1巻になった2011年から数えても3年、終ってみると、こうして年数ばかり数えてしまい、苦笑する。3冊分の翻訳期間として3年もらって、ついに完成だ。書棚の上から見下ろしていた写真も、もうすぐ、本ができてきたらお役御免かな。6年あまり激励の視線を注いでくれた写真たちの埃を、今日はきれいに払って記念撮影だ(いちばん上の写真)。本当に長い道のりだった。

 本ができあがるまでの時間は、いっときの脱力感に不思議なわくわく感とかすかな不安が混じり込む、いわく言いがたい時間だ。昨夜の雨でちょっと湿り気のある空気を、深々と吸い込む。書架にある写真の周辺にも、心地よい風が吹き抜けていく。
 

2014/05/18

さわやかな五月の午後に


 昨日は風かおる五月の空を見ながら、南アフリカ大使公邸で開かれた催しに行った。

日本での反アパルトヘイト運動を記憶、記録するための催しといっていいだろうか。いまひとつ貴重な経験だったのは、日本と南アフリカのグラスルーツ的な繋がりをつくる努力をしてきた若い人たちの声が聞けたことだ。

 会場にはアパルトヘイト白人政権下の南アフリカ時代から縁の深い外務省や、経済界の面々もいたようだが、もちろん面識がないからわたしにはわからない。わかるのは、かつて日本で反パルトヘイト運動をやった広い意味での仲間たちだ。それについては昨年暮れに一度書いた

 さわやかな五月の風に吹かれて、これで訪れるのが三度目になる、南ア大使公邸の庭でいただく白ワインのおいしかったこと! ズールー民族の出身だという大柄なペコ大使の笑顔がなかなかすてきだった。

 その場でもらったペーパーのなかに「日本で出版された反アパルトヘイト関連書籍」のリストがあって、そこに、ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』が入っていることにいまごろ気がついた。なんと!

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時事通信でもう記事になりました


PS: 肝腎なことを書き忘れました。この催しは、南アフリカ民主化20周年と、日本と南アの人々の連帯と協力の50周年を記念したものでした。ほら、民主化というのは1994年のアパルトヘイトからの解放のことで、撤廃は1991年ではないのですよ。くれぐれも、お間違えのないように!

2013/03/05

ゾーイ・ウィカムがウィンダム・キャンベル賞を受賞!

デイヴィッドの物語』の著者、ゾーイ・ウィカムが、イェール大学が主催する第一回ウィンダム・キャンベル賞の小説部門を受賞しました! 賞金がすごい。なんと、$150,000です。

 たったいま、アデレードのドロシー・ドライヴァーさんからメールで情報が送られてきました。

 Congratulations!  Zoë!  おめでとう、ゾーイ!





2013/02/19

北海道新聞に書評『デイヴィッドの物語』


2月17日付け北海道新聞の書評欄に、ゾーイ・ウィカム著『デイヴィッドの物語』の書評が掲載されました。

「小説で語る南ア解放史」というタイトル。

 評者は楠瀬佳子さん。
 ふたたびの Muchas gracias!

2013/02/10

朝日新聞に『デイヴィッドの物語』の書評が載りました!

今朝の朝日新聞に、ゾーイ・ウィカム著『デイヴィッドの物語』(大月書店刊)の書評が掲載されました。「闇の底から浮かび重なる声」とタイトルがつきました。しっかり読み込んだ評です。嬉しい!

 評者は、小野正嗣さん!

 Muchas gracias!

(となぜか、いつもスペイン語になる/笑。)


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2013.2.12付記:ネットで読めるようになりました。こちらです

2012/12/02

真夜中に走り出す指

  暦も気候も、まさに師走。雪でも降りそうな東京、南多摩の夕暮れです。

「水牛のように」に詩を書きました。「真夜中に走り出す指」。

 編集長の八巻美恵さんが「水牛だより 12月号」で、ウィカムの『デイヴィッドの物語』を紹介してくれました。美恵さん、どうもありがとう!

2012/11/30

グリクワとル・フレーの写真 ──『デイヴィッドの物語』裏話(2)

今回は一枚の写真である(前回はこちら)。グリクワの大首長、アンドリュー・アブラハム・ストッケンストロム・ル・フレーが率いたトレックで、コックスタッドヘたどり着いた人たち、1898年。拙訳『デイヴィッドの物語』89ページに事細かに描写される写真だ。

『デイヴィッドの物語』を翻訳するとき、なにが難しかったかといって、グリクワという民族がどういう人たちなのかを調べることほど難しいことはなかった。いったい、どのような歴史をもち、なにを信奉し、どこで暮らしているのか。だれがグリクワであり、だれがグリクワではないのか。

 ドロシー・ドライヴァーの「あとがき」を読めばおおよそのことは理解できるが、やはり、ひどくおぼろげだ。ちょっとした疑問に答えをえるために検索してもヒットする情報はそう多くはない。まとまったかたちで日本語で読める資料としては、文化人類学者である海野るみさんの書いた論文しかない。だから前にも書いたが、「歴史を歌う」グリクワの人びとがどのような人たちか、彼らの考え方の根幹となる部分を理解するため、海野るみさんの論文には本当に助けられた。深謝!!

「訳者あとがき」にも書いたけれど、グリクワという人たちは、アパルトヘイト時代の「人種区分」では「カラード」に入れられた。アパルトヘイトが撤廃されて、この「カラード」という区分が取り外されたとき、個々の人たち、あるいは個々のグループはアイデンティティを問われることになった。デイヴィッドが自分探しの旅に出た背景にはそんなプロセスがあったのだ。

 そもそも南アフリカにもっとも早くから住んでいた「コイ」や「サン」といった褐色の肌をした先住の人たちは、征服者としてまずやってきたヨーロッパ人男性との混血がいやおうなく進み、これに労働力/奴隷として導入されたアジア系の人たち等が加わって、さらに混血が進んだ。

 ゾーイ・ウィカムはその辺をめぐる、絡まり合った、一筋縄ではいかない複雑なもつれを解き明かすべく書きつづけてきた作家ともいえる。南アフリカにおけるアイデンティティにからむ複雑な諸問題が解体され、白日のもとにさらされるとき、そこには当然ながら歴史的事実をどのように理解するか、どのように解釈するかが絡んでくる。そこが、J・M・クッツェーの名前へのこだわりともリンクするのだ。
 彼もまた自分はオランダ系アフリカーナーの末裔であるとは単純にはいえない、いいたくない、さらには英語圏文学のなかに吸収されることにも No! という姿勢を取る(その好例が、ここ数年前から彼の作品はまずオランダ語で出版され、そののち英語のオリジナル版が出ることになっている事実に端的にあらわれている)、といった絡まり合った歴史/事情/心情/思想、を背景に抱えた作家である。その視野にはこの世界全体の動きが含み込まれてくる。「世界文学の作家」とわたしが呼ぶのは、そういう意味だ。
 
 上の写真の中央に左を向いて、すっくと立つアンドリュー・ル・フレー/Andrew Le Fleur も、もとはといえば、アンドリス・ル・フレー/Andries Le Fleur とオランダ語とフランス語が混じったような名だったが、あるとき英語風にアンドリューと名前を変えている。当時それがある種の流行りだった。その流行りには政治的な要因がからんでいる。(詳細はぜひ作品を読んでください!)
 しかし、当然「おれはイギリス風なんかごめんだ、いやだ」という人だっている。グリクワの人たちのなかにも、がんこにアフリカーンス読みを主張する人もいたはずだ。訳書内でも、デイヴィッド/David の父は、おなじスペルでもアフリカーンス語風に「ダヴィット/David」と訳した。

 今回もまた、たかが名前、されど名前、の厄介さが、たっぷりと登場した。

2012/11/22

グラスゴーの謎の絵──『デイヴィッドの物語』裏話(1)

企画から4年、ようやく出版された『デイヴィッドの物語』には、一枚の絵をめぐるミステリアスな話が出てくる。

 褐色の肌に誤ってぽとりと落ちたような碧眼のデイヴィッド。表向きは学校教師だが、じつは非合法の解放組織ANCの闘士である。あるときミッションを託されてスコットランドのグラスゴーへ行き、訪れた歴史博物館ピープルズパレスで一枚の絵を見る。18〜19世紀のグラスゴーの経済的繁栄を示す展示のなかに、西インド諸島のプランテーションから煙草や砂糖を船で運んで大金持ちになった男の一族を描いた絵画があった。暗色の画布に目を凝らすうちに、左上になにかを感じて目をやると、召使いの服を着た黒人男がこちらをじっと見据えているではないか。だが、男の顔はやがて眼差しといっしょに、ゆらゆら揺れて水に解けるように消えていく。1980年代のことだった。
 
 それから随分ときがたち、いまは1991年。アパルトヘイトからの解放も間近だ。思い立って自分のルーツ探しに訪れた町コックスタッドのホテルで、デイヴィッドは奇妙な体験をする。ウェイターの眼差しにどこか見覚えがある、だが、どこで見たのか思い出せない。なにか不穏な記憶と結びつく視線で、心が落ち着かない。やがてそれは、この絵のなかで見た奴隷の眼差しだったことに気づいて‥‥。
 
左の絵、本にはないけれど、ここで種を明かしてしまおう。
 1767年にアーチボルド・マクラフリンという画家によって描かれた、当時グラスゴーで指折りの「煙草王」、ジョン・グラスフォード(1715〜83年)一家の絵だ。見ての通り、奴隷男の顔はない。しかし銘板に「左手に黒人奴隷が描かれていたが、その後、塗りつぶされた」とあった。デイヴィッドはまず絵を見て、その次に銘板を読んだのだが‥‥。この絵はいまも実際にグラスゴーのピープルズパレスに架かっているという。

 ドロシー・ドライヴァーの「あとがき」によれば、トバイアス・スモーレットの小説『ハンフリー・クリンカー』(1771年)には、グラスフォードという男が外洋航海中の25隻の船舶を所有し、その貿易額は年に50万スターリング以上にのぼったとある。彼はグラスゴーの大貿易商、銀行家であり、「ヨーロッパでもっとも偉大な商人のひとり」だった。
 この一族の新たな富はとりわけ、グラスゴーの煙草王たちが着用した赤いマントを思わせる赤い衣類とドレープとして表象され、さらに、この絵には奴隷の姿が描かれていた。奴隷は当時の挿絵図版にとって、大儲けできる植民地との結びつきを示すお決まりのシニフィアンだったのだ。しかし、ユマニストたちの擡頭によって、奴隷制廃止論が高まるや、この絵に手が加えられて、奴隷の顔が塗りつぶされた。

 銘板のコメントを見ないうちに、なぜデイヴィッドにその奴隷の顔が見えたのか? 幻視のように。やがてその記憶が、解放組織内の、忘れてしまいたいある記憶へと結びついていく。いまだに全容が解明されていない、アンゴラ北部にあったANCの拘禁キャンプでの記憶である。小説はそのとき、南アフリカにおける奴隷制の歴史と、ひとりの個人の記憶をめぐる謎解きの様相を帯びて緊迫する。

 絵画から塗りつぶされた奴隷の顔が浮かびあがる。これはなにを意味するのか? 

 つづきはこちらへ

2012/11/14

ゾーイ・ウィカム『デイヴィッドの物語』── 完成!

今日、『デイヴィッドの物語』のみほんができました。この瞬間がなんといっても嬉しい。感無量!

 著者のゾーイ・ウィカムさんはもちろん、力のこもった「あとがき」を書いたドロシー・ドライヴァーさんはじめ、グリクワ民族の専門家である海野るみさんには大変、大変お世話になった。また、大詰めの作業ではアフリカのさまざまな民族をめぐって、なにかと注文の多い訳者の希望を入れてくださった装丁家の桂川潤さん、アフリカの布についていつも、さすがプロと思わせるすばらしい速さで調査をしてくれる「梅田洋品店」の梅田昌恵さん、ほかにも、支援してくださった何人もの方々に心からお礼をもうしあげたい。そして、

 解放闘争の内幕をゴシック/ミステリータッチで描く、圧倒的なナラティヴ・ヒストリー

というキャッチコピーを、要求の多い訳者の意見を入れて、苦心してひねり出してくれた編集の西浩孝さん、本当にご苦労様でした。

 思えば、2007年12月に二度目の来日をしたジョン・クッツェー氏とパートナーのドロシー・ドライヴァーさんとの会話から、この翻訳の企画はスタートした。紆余曲折を経て、企画が決まってからすでに4年。その間、ケープタウンまで旅もした。この作品に出てくる地名を地域別にソートして、まことに効率よく案内してくれたケープタウン在住のガイド、福島康真さんのプロ精神には感服した。

 みなさん、ようやく本になりました。南アフリカの解放闘争の裏でどのようなことがあったか。現在、混迷を深める南アフリカの政治、経済状況は、どのようなことに端を発して現在へいたっているか、その答えのひとつがこの作品のなかに、確実に埋め込まれている。それは紛れもない事実だと思う。
 しかし、翻訳を決心した理由はもちろんそれだけではない。クッツェー氏の文学作品としての破格の讃辞。ドロシーさんとのワイン片手の腹蔵ない会話。そして、なによりこの作品自体のもつ優れたパワーと、テクストとしての先駆性と、それを書いたゾーイ・ウィカムという作家の同時代性に、東アジアに住むひとりの人間として深い共感を覚えたことが、一筋縄ではいかないこの本の翻訳にわたしを向かわせたのだと思う。
 クッツェー氏からも「翻訳が終わったのを聞いて嬉しい。この本の翻訳は生易しい作業ではなかったはずです」とメールをいただいたのは大きな慰労だった。

 みなさん、ぜひ手に取って、読んでみてください!

 ちなみに表紙では、本書内にも登場するストレリチアという南部アフリカ原産の花が、なにやら謎めいた不思議な印象をかもし出しています。
 この本からこぼれ落ちるさまざまな逸話を、これから何回かに分けて「裏話」として書いていきますので、乞うご期待!

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2012.11.22付記:みほんが出来てから数えること○日(これが訳者にはとっても待ちどうしい!)Amazon やほかのネットショップでも昨日から24時間以内発送になりました!


2012/08/25

激しい風と波にあらわれるケープタウンの港

早くお届けしたい。ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』。熱暑の東京で、ただいまゲラ読みの真っ最中。連日、30度をこす暑さのなかで、机に向かう。もちろんクーラーなし。

 昨年の日記をみると、8月上旬が暑かった。でも20日すぎは、すとんと気温がさがって、あまり暑さ負けせずに、『デイヴィッド』の翻訳を最終行までたどりつくことができた。あれからもう一年も・・・とわれながら驚く。その間、11月にはケープタウンまで行って、あちこちまわって、ケープマレー料理なんかも食べて、まあ、それがいまこうして読んでいるゲラに中身をあたえているとも言えるわけだけれど。


そのケープタウンはいま真冬だ。涼しげな、というか、激しい風と波にあらわれる港の写真をここにのせて、涼をとることにしよう。

(写真は、Abbey Manor というゲストハウスのサイトから借用しました。)

2012/08/20

ゾーイ・ウィカムとトランスローカル

9月13日と14日にイギリスのヨーク大学で、Zoë Wicomb and Translocal:Scotland and South Africa という面白そうな催しが開かれる。基調講演はドロシー・ドライヴァー(アデレード大学)。主催者に、デレク・アトリッジ、デイヴィッド・アトウェル(いずれもヨーク大学)、カイ・イーストン(SOAS)、メグ・サミュエルスン(ステレンボッシュ大学)の名がならんでいる。朗読会に出る面々が、エレケ・ブーマー、ブライアン・チクワヴァ、J. M. クッツェー、パトリック・フラナリーなどなど。

 あらまあ、5月にアトリッジ氏がいっていたのはこの会のことか、と思いながら、ウィカムの長編『デイヴィッドの物語』のゲラ読みで忙しいわたしは、行きたいなあ、と思うだけで、とてもヨークまで飛んで行く余裕はない。
 先日もウィカムさんとのメールのやりとりで、「なんで来ないの?」といわんばかりの(笑)メールをもらったけれど、まあ、やっぱりイングランドは、ちょっとサッポロへ行ってくるといった距離じゃないわねえ、と遠くからながめやる。

 この会は、いってみればゾーイ・ウィカムをめぐって、南アフリカ/南部アフリカのエクスパトリオット文学者たちが多く集って旧交を温める会のようにも見える。そのタイトルも「スコットランドとトランスローカル」だ。
 この「トランスローカル」というのが面白い。中心となる(なってきた)文化的な大都市、都会からちょっとはずれた、かなりはずれた都市で生きている人たち──ウィカムさんが1994年から住んでいるスコットランドのグラスゴーというのも英国のなかではローカルな場所だし、ドライヴァーさんが住んでいるオーストラリアのアデレードもまちがいなく地方都市だよねえ──のあいだで、はて、どんな話が展開されるのだろう? 

2012/06/14

ワークショップで話をします──獨協大学で

お知らせです。今月26日に獨協大学の「英語学専攻ワークショップ」で話をすることになりました。

「アフリカ」文学とSingle Storyの危険性

日時 | 2012-06-26  15:00 ~ 16:30
場所 | A-504教室
講師 | くぼたのぞみ 氏 (詩人・翻訳家)
対象 | 大学院生、本学学生
主催 | 外国語学研究科英語学専攻

講師紹介:翻訳対象の作品には南アフリカ出身のノーベル文学賞作家、J・M・クッツェーの「鉄の時代」、「マイケル・K」、「少年時代」や、南アフリカ出身でボツワナへ出国した作家ベッシー・ヘッドの短編集、ナイジェリア出身のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの短編集など、アフリカから発信される文学が多い。また、メキシコ系アメリカ人作家サンドラ・シスネロス、ハイチ系アメリカ人作家エドウィージ・ダンティカ、カリブ海のグアドループ出身の作家マリーズ・コンデなど、国境、言語、民族といった境界を越え、往還する作家も手がける。新刊『明日は遠すぎて』(河出書房新社)(2012年3月)


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 翻訳の楽しさ、アフリカから出てくる文学の面白さなど、これまでやってきた仕事を中心に、獨協大学教授の上野直子さんとの対話形式で話をします。

 基本、インプロビゼーションでやりますが、記憶に新しいアディーチェの新作短編集『明日は遠すぎて』はもちろん、訳了したばかりのウィカムの『デイヴィッドの物語』や、翻訳中のクッツェーの自伝的三部作の最終巻「Summertime」などなどについて、さらにはクッツェーの伝記をめぐる裏話も飛び出すかもしれません。

タイトルは招いてくださった上野直子さんがつけてくれました。学外の人も聴講できるそうです。お時間のある方、ぜひ、のぞいてみてください。

獨協大学へのアクセスはこちら
file://localhost/Users/morinozomi/Desktop/獨協大学.webarchive


2012/06/08

アパルトヘイト時代に逆行する南アフリカの情報保護法──さすがのクッツェーも反対を明言!

昨年11月22日火曜日、ケープタウンに滞在していたとき、アパルトヘイト時代へ逆行するような情報保護法が国会を通過したというニュースを聞いた。その日はブラック・チューズデイと呼ばれている。
その日わたしは朝からタウンシップに出かけ、午後はテーブルマウンテンにのぼり、国会前でデモが行われているのを見逃してしまった。曜日を勘違いしていたこともあったけれど・・・ 

南アフリカ国内だけでなく、アフリカ全土に大きな影響をおよぼす可能性のあるその法案には、南アフリカ国民だけでなく、多くの南ア出身者が反対意見を述べつづけていることは以前から伝わっていたが、先日、ガーディアンがナディン・ゴーディマや J・M・クッツェーから取材した発言を掲載したので、ここに訳出する。

ゴーディマ:「この法案が出てきた理由は明らかです──政府は、法律の意図が腐敗を隠蔽しようとすることだという真実を隠そうともしない・・・わたしはアパルトヘイト体制時代に書いて、アパルトヘイト体制とたたかいました。三冊の著書が発禁になりました。いま私たちがやっていることは、新たな装いの下でアパルトヘイト時代の検閲制度にもどることです」

クッツェー:「この法律の意図は見え透いています、とことん調査しようとする厄介なジャーナリストを活動困難にするためであり、さらに一般的には、無能な、腐敗した官僚制度が窮地に陥ることがないよう助けるためです・・・法律の主唱者たちを大胆にしているのは、どうやら2001年以来、西欧世界のいたるところで起きている動きのようです。国家による、さらに疑わしい行動のまわりに防護壁を立て、その壁を破ることは犯罪にしようとする動きです」

アパルトヘイトからの解放運動をたたかった現在の南アフリカ与党 ANC内に、政権取得以前からすでに武器売買をめぐる汚職や腐敗、あるいは人権蹂躙を行っていることは多くの人たちが指摘してきたことだ。まさに「権力は腐敗する」を絵に描いたような構図だ。
秋に訳が出るゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』は、そんな解放運動の内部事情を彷彿とさせる作品でもある。

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付記:クッツェーとゴーディマは長いあいだ、なにかというと比較されてきた2人の南ア出身のノーベル賞作家だった。こうして見ると、あらためてその違いがわかる。ゴーディマがアパルトヘイトと南アフリカという国についてみずからの経験を交えて批判するのに対し、クッツェーは現在、世界中で起きている(政治、経済などの)動きをふまえた、国家の行動として南アフリカ政府の動きを批判している。
このスタンスの違いはそっくりそのまま、作品を書くスタンスの違いにも投影されてきたといえる。

*************
さらに付記:6.11──いちばん上の写真はケープタウンのガヴァメント・アヴェニューにある国会。アパルトヘイト末期を舞台とした『鉄の時代』で、主人公ミセス・カレンが「恥の館」と呼んで、火の点いた車ごと突入しようと考えた建物だ。

2012/05/30

デレク・アトリッジ氏のセミナー

昨日は駒場で開かれたセミナーに参加した。いま来日中のデレク・アトリッジ氏がクッツェーの Summertime を、虚構性と事実のはざまを縦横にいききしながら論じる内容だ。
 わたしがいま訳しているのがその Summertime なのだから、これを聞き逃すわけにはいかない。アトリッジ氏は『J.M.Coetzee and the Ethics of Reading/J.M.クッツェーと読みの倫理学』(Chicago Univ. Press, 2004)というすぐれたJ.M.クッツェー論の著者でもある。

 Summertime はクッツェーの自伝的三部作の最後にあたるが、じつは、それとは別にジョン・カンネメイヤー/J.C. Kannemeyer というアフリカーンス文学を専門とし、アフリカーンス語で書く伝記作家が「J.M.Coetzee: A Life in Writing」というクッツェーの伝記を書き進めていた。さらにその著者がマニュスクリプトをオランダのコッセ・パブリッシャーに渡した直後、昨年のクリスマスに突然、死んでしまったというのだから驚くではないか。マニュスクリプトはいま編集の真っ最中。

 アトリッジ氏はそのマニュスクリプトを読んでいて、それに出てくる「事実」とくらべながら Summertime に光をあて、作家のもちいる技法や、この作品の特徴などを語ってくれた。参加した方々からも面白い質問や意見が出て、とても参考になった。お招きくださった田尻芳樹さん、どうもありがとうございました。

 そのあと十数人で渋谷の居酒屋に流れてビールを飲みながら歓談。1980年代の南アフリカの話や、60年代にクネーネが来日したこと、インカタとANCとの確執、日本にも反アパルトヘイト運動があったこと(これを知ってアトリッジ氏はちょっと驚いていた!)、1989年のハラレ会議への参加、同年南アフリカから女性を招いて行ったキャンペーン、もちろんジョン・クッツェーを取り巻くさまざまな逸話もたっぷり、と、とりとめなく話は跳びながらも、じつに中身の濃い時間がすぎた。

 ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』を訳したところだ、といったら、彼は目を輝かせ、「ええっ! あのチャレンジングな本を訳したの?」と、とても嬉しそうな表情になったのが印象的だった。そうそう、クッツェーの次作についての情報もあったっけ。これが、なんともすごいタイトルだった。

 セミナー参加者は若い人が多く(といってもわたしの目から見れば、アトリッジ氏以外すべて若い人なのだけれど/笑)、クッツェーへの関心がここ十数年のあいだにぐんと広まっていることに改めて、嬉しい驚きを感じた。う〜ん、心して仕事しなきゃ! がんばろっ!

***********
付記:6月6日。そうだ、書き忘れました! クッツェーの小説のなかでアトリッジ氏がいちばん好きなのは『鉄の時代』だそうです。

2012/04/07

「OUT OF AFRICA」は土産物店だった!

ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』を訳していると、こんな文章が出てきた。

白人家庭で受けているのは、ワンポイントにもってこいの解放のイコン、白黒まだらのホロホロチョウがついたナプキンらしい。
 サリーの頭のなかにふと浮かぶことばだ。アパルトヘイトからの解放も間近に迫る1991年、場所はケープタウン郊外に広がる砂地ケープフラッツ、その有色人種専用居住区に住むデイヴィッドと妻のサリー、そして2人のちいさな子どもたちが夕食のテーブルについている場面。

 わたしがケープタウン旅行のお土産に買ったのはナプキンではなく、美しい藍色のホロホロチョウのついた鍋つかみだ(写真上)。帰国してあらためて件の箇所を読んだとき、まじまじと、このホロホロチョウの「まだら模様」に見入ってしまった。たしかに「白」と「黒」の細かな、細かなまだらである。これが「解放のイコン」か、とウィカムのぴりりとした皮肉に、にやりとなった。

 そして、そのお土産を買った店の名前が、なんと、 OUT OF AFRICA だったのだ。これはもう、笑えるというか、なんというか。海外からの旅行客相手にレストランや土産物店などがならぶウォーターフロントで「OUT OF AFRICA」という店名を見たとき、そうか「アフリカから」なのだな、わたしも一観光客としてこの店「から」お土産を買って帰るわけだ、と奇妙に納得したことを覚えている。そのとき品物を入れてもらった紙のバッグ(写真右)がまた、サファリの、いかにもなイメージで、すごい!

 そう、OUT OF AFRICA は、いわずとしれたイサク・ディネセンの小説『アフリカの日々』(1937)の英語名である。80年代にハリウッド映画にもなった。日本では「愛と哀しみの果て」というタイトルで公開されたと思う。メリル・ストリープとロバート・レッドフォードが主演した、ケニアの農場を舞台にした映画だ。

 ケープタウン市内に立派な店を構え、ケープタウン空港にも支店を出す土産物店「OUT OF AFRICA」。もちろんディネセンが作品を書いたときは、こんなことになるとは夢、思わなかったにちがいない。映画化に後押しされてだろうか、この作品の名前がいま、外部から見たアフリカの「観光」のイメージにぴったり重ねて使われているのだ。

 そういえば、アディーチェも、新作短編集『明日は遠すぎて』に収めた「ジャンピング・モンキー・ヒル」で、ディネセンについてピリ辛の意見を登場人物たちにいわせたりしている。時の流れというべきか、「世界」を見る視点の当然の変化というべきか。

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追記:調べてみると、OUT OF AFRICA という名前、ほかにもたくさん使われていました! マレーシアのレストランの名前、USAのアフリカングッズを売る店、などなど・・・・・・。

2012/03/27

フランツ・ファノンからのエピグラフ

『デイヴィッドの物語』のあとがき、見直し完了! もう一息だ。
 この小説のいちばん最初に出てくるエピグラフ:


 わたしの最後の祈り、
 おお、わたしの身体よ、いつまでもわたしを問いつづける者にしていてくれ!

                ── フランツ・ファノン『黒い皮膚、白い仮面』


 超有名なテクストだが、ほかにも山のように「相互参照テクスト」が出てくる。ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』とか、トニ・モリスンの『ビラヴド』とか。それぞれ響き合って、小説に深みをあたえている。

 ドロシー・ドライヴァーの「あとがき」が(というより作品解説に近いなこれは)そのテクスト内テクストを丁寧に、丁寧にひもといてくれるので、南アフリカの文学史がとてもよくわかるし、アパルトヘイトからの解放闘争のなかで女性がどんな位置に置かれていたか、よ〜くよ〜くわかる、というより深い、深い問いの場を提供してくれるというべきかな。

 女性をめぐる隠されてきた事実、これ、日本のことでもあるよなあ、と思う反面、クッツェーが『鉄の時代』でも書いていたように、ニュアンスやあいまいさを許さない南アフリカという土地柄についても考えさせられる。クッツェーの『恥辱』のなかの、日本の読者にとってもっとも理解しずらいルーシーという登場人物の行動も、この作品を読むとその背景が理解できる。その意味で、『デイヴィッドの物語』はやっぱり『恥辱』と響き合うテクストなのだ。響き合うのは名前だけじゃない。
 
 あのコントラストのはっきりしたケープタウンの、真っ青な空を思い出しながら、やっぱり人間の心のありようは、その土地の風土に左右されるのかなあ、と思ったり。

 今日の東京は晴れて、風が吹いて、やけに花粉が多かった!

2012/03/22

『デイヴィッドの物語』──ドロシー・ドライヴァーのあとがき

いやあ、最後の山場です。ゾーイ・ウィカム著『デイヴィッドの物語』の本文訳はすでに完成。いま、それについているドロシー・ドライヴァーさんの「あとがき」の訳を仕上げています。今月中には終わらせるつもりなので、ほぼ缶詰状態。

 ひえ〜っではありますが、これがまたすごい! 原稿用紙にして約120枚。まことに熱のこもったあとがきです。「2000年、ケープタウン大学にて」とあるところをみると、彼女がケープタウンから、パートナーである J・M・クッツェー氏とオーストラリアはアデレードへ移住する 1.5年ほど前に書かれたものでしょうか。

 あのころ、です。そう、クッツェーの『Disgrace/恥辱』が、南ア政権党のANCから公的に批判された2000年5月と、時期的に重なる、そこのところが決定的!

 当時の南アフリカの文学界で激しく議論されたことが彷彿とする展開で、読み応え抜群です。ポストコロニアル文学理論としても、フェミニズム文学理論としても、南アフリカの文学作品を読む人たちにとっては欠かせないものになるでしょう。
 いや、南アフリカ、という限定は吹き飛ぶかもしれない。同時代的な作品というのは、その作品が生み出された歴史的な場と切り離せないものであることを、いや、むしろその場において新たに読み直しを求められるべきであることを、彼女は熱を込めて論じます。

 いやあ、すごい──と「いやあ」が何度も出てきてしまいました/笑。秋には本になります。お楽しみに!

2012/02/05

Sathima Bea Benjamin ──サティマ・ビー・ベンジャミン

友人の Oさんから教えてもらった、南アフリカ出身のヴォーカリスト、Sathima Bea Benjamin/サティマ・ビー・ベンジャミン。

 ジョバーグ生まれでケープタウン育ち、いまはニューヨークを中心に活躍している、とオフィシャルサイトにあった。この女性、かのダラー・ブランド/アブドゥラ・イブラヒムのパートナーだそうで、歌を聴いてみると、とってもなつかしい感じがする。

 アルバムの SongSpirit をみると、ジャズのスタンダードナンバーがずらり。もちろん「アフリカ」を歌った曲もある。Amazon com のサイトで視聴し、彼女のオフィシャルサイトでも2曲視聴して、購入を決定した。

 そうか、ダラー・ブランド(1933年生まれ)が名前をイスラム名にした理由を、ケープタウンに行ってきてから、『デイヴィッドの物語』を翻訳してから、あらためて考えてみなくちゃなと思う。ケープタウンにはムスリムがけっこう多かった。アザーンが朝、聞こえてくる場所もあるとか。ヴェールを頭にまいた女性も見かけたし・・・。アパルトヘイトはたんなる「白/黒」の分離なんかじゃなかったんだよね。

 ダラー・ブランドの名前を初めて耳にした70年代は、もっぱら米国のジャズミュージシャンの行動をもとに考えていたんだ、わたしは、と反省した。彼は、まさに、南アフリカの複雑な人種関係のなかで生まれ、生きてきた人だったのだ、とあらためて思った。

 ちなみに、Sathima は「サティマ」と表記するのが原音に近いだろう。南アフリカの人名では、「th」は日本語の「タチトゥテト」をあてるのが一般的。たとえば、Mathabane は「マタバーネ」、Themba は「テンバ」といったふうに。

 アルバムが届くのが待ち遠しい!

2011/12/15

リンガ・フランカ──ケープタウン日記、番外編(4)

ケープ植民地への奴隷の輸入は17、18世紀はアジアからが多かった。インド南部、スリランカ、インドネシア、マレーからが多く、タイ、フィリピン、日本から売られてくる者もいた。とくに技術をもった職人/クラフトマンが好まれた。スレイブ・ロッジに展示されていた地図は、西アフリカからも人が入っていたことを示していた。

 さて、今回は言語の話をしよう。

 輸入奴隷がふえた1770年ころには植民地内で生まれる奴隷も多くなった。奴隷男性と先住コイ人の女性、奴隷女性と植民者やオランダ東インド会社雇用者(これらの組み合わせに注目!)のあいだに生まれた者たちである。彼らはどんな言語を使っていたか。

 第一言語/母語のちがう人たちが第二言語で意思疎通をする場合、それをリンガ・フランカという。1800年ころまで、インド洋のリンガ・フランカはポルトガル語だった。ケープ植民地で使われるリンガ・フランカも最初はポルトガル語。奴隷貿易をするポルトガル船に乗せられ、船上で、あるいは中継地マダガスカルで、奴隷はポルトガル語を仕込まれたのだろう。命令はポルトガル語が使われたということだ。
 だが19世紀初めになると、これがケープ・ダッチと呼ばれるオランダ語になり、それがアフリカーンス語になっていく。(スレイブ・ロッジの掲示内容をメモしてきたのだけれど、これで間違いないかな?)

 この過程を考えると、おぼろげながらアフリカーンス語の成り立ちがわかる。「キッチン・ランゲージ」、つまり読み書きできない人たちが台所や農場の労働現場で意思疎通のために使い、代々受け継がれていった言語、それがカラードが使うアフリカーンス語だ。だからこの言語は、最初はもっぱら話しことばとして簡素化された形で後世代へと伝わった。
 一方、オランダ系入植者たちが使うアフリカーンス語はそれとはかなり異なることが指摘されている。でも当然、身近にいる人間どうしが使う、基本的に同一の言語は混じり合い、影響し合い、白人のアフリカーンス語も簡素化されていったのだろう。たとえば動詞の変化がなくなるとか。

 ボーア戦争以後、イギリスに経済的にも政治的にも覇権を奪われてきたアフリカーナーたちが政権を獲得したのが1948年。この言語に権威をもたせたいと考えたこのアパルトヘイト政権が1974年に政令を出した。そしてバンツー教育(黒人の教育)はすべて、英語ではなく、アフリカーンス語で行うとした。その2年後に起きたのが、かの有名な「ソウェト蜂起」だ。
 ソウェトの高校生たちが「自発的に蜂起した」と伝えられたが、『デイヴィッドの物語』の主人公は、それはナイーヴな受け取り方で、非合法で地下活動を行っていた解放組織による外部からの周到な指令によって起きた、と明言する。う〜ん、あるいは、そうなのかも・・・。


 スレイブ・ロッジ内の展示では、もうひとつ、おもしろい発見があった。南アフリカには、セッテンバー、ジャヌアリー、など月を示す語を姓とする人が大勢いるが、これはもともと奴隷の買い手が、奴隷を買いつけた日付をそのまま名前としてつけたことからくる、と説明されていたのだ。それで思い出すのはトニ・モリスンの『ソロモンの歌』。(そうそう、『デイヴィッドの物語』にもモリスンの『ビラブド』からの引用があったっけ。)植民者は、モーゼ、シーザーといった、自分の子どもには絶対につけない名前をペットや奴隷につけた、とも書かれていた。ふ〜ん。そういうものか。そういうものだろな。名づけの暴力。


『デイヴィドの物語』に出てくるグリクワ民族の祖、アダム・コック一世は、18世紀に一族をひきつれてナマクワランドへトレックした人だが、もとは奴隷だった。自由をみずから買い取り、東インド会社からなんと「バスタード(私生児)」という「称号」をあたえられた。この経歴を見ると、複雑な思いになる。コックはグリクワとしての「カピタン/首長」の称号も植民地政府からもらっている。
 キリスト教、約束の地、トレック、など彼らにはオランダ系白人の宗教、思想、文化との共通項が多い。グリクワを率いて何度もトレックした大首長、アンドリュー・ルフレー(1867〜1941)は、金とダイヤモンドの利権を強奪して勢力をのばしていくイギリス植民地政府と対等の関係を築こうと奮闘しながら、裏切られ、投獄され、アパルトヘイトを打ち立てた国民党からもさんざんなあつかいを受ける。だが、最後は「分離発展」をみずからのぞみ、アフリカーナーの思想を支持するようになっていった。先住民、カラード、といっても、この辺がなかなか複雑である。

 1948年生まれのゾーイ・ウィカムが書いた『デイヴィッドの物語』は、このグリクワの歴史に、解放組織ANCに個人としてリクルートされた「カラードの男女」が絡む、まことにスリリングな、ポストモダン的小説仕立ての、壮大な歴史物語である。

 こうして見ると「カラード」とひとくくりにされてきた人たちは、じつに多様な文化的、言語的背景をもっていることがわかる。クッツェーの『鉄の時代』に出てくる浮浪者ファーカイルも、『マイケル・K』の主人公も、きっとこの「カラード」なんですね。『恥辱』に出てくる女学生メラニーとかパートで娼婦をやる主婦のソラヤもそう。ソラヤはマレー系とわかる名前だし、映画もそれらしき女優が演じていた。

 ケープタウンって土地は、とっても複雑で、とっても面白い! 

(付記:そうそう、ジョン・クッツェーがなぜ、クツィアやクツィエではなく、クッツェーなのかということも、今回の旅でよくわかった。)