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2022/09/13

J・M・クッツェーの新作 The Pole について

 いま訳している本について少しだけ書きます。

スペイン語版 El Polaco
 J・M・クッツェーの新作です。The Pole、最初このタイトルを見たときは、えっ! 南極とか北極とか、いわゆる極地か? と思いましたが、いやいや、これは「ポーランドの人」という意味でした。

 もちろん英語で書かれたテクストですが、クッツェーの覇権言語としての英語に対する批判的態度は揺るぎなく、今回もまず、スペイン語訳の El Polaco が7月1日に出版されました。ふたたびアルゼンチンのMALBAの出版局「アリアドネの糸」からです。

 これは2018年に出た『モラルの話』とおなじパターンですが、今回の翻訳者はマリアナ・ディモプロス、2018年4月にカテドラ・クッツェーのラウンドテーブルで舞台に上がったり、その後、オーストラリアとアルゼンチンの相互プログラムに参加していた作家、翻訳者です。オーストラリアに滞在する2人のアルゼンチン作家にクッツェーがインタビューした記事があって、そこでは非常に重要なテーマが議論されていたのをこのブログでも紹介しました。

 今回、ディモプロスには翻訳者としてだけでなく、作品が書かれるプロセスにも最初から関わってもらったと、クッツェー自身がスペイン語圏のニュースで述べていました。その理由は? 作品を読んでいただければ、よくわかりますが、登場人物の49歳の女性の考え方や言葉遣いなどについて、ディモプロスの意見をクッツェーが取り入れた、ということのようです。そのため、作品内の会話に違和感がない。

 どんな話かって?

 じつは9月6日に発売された「すばる」に少しだけ書きました。斎藤真理子さんとの往復書簡「曇る眼鏡を拭きながら 9」です。ぜひチラ読みしてください。

 上の写真は、9月に入ってすぐに到着したスペイン語版の書籍です。Amazon fr.から取り寄せました。


 

2020/12/11

訳者あとがきってノイズ?──『ブルースだってただの唄』復刊を祝って


 この本(傍点)はあとがきを書くために翻訳した──と冗談まじりに口にしたのは、忘年会には少し早い、楽しい酒席でのことだった。するとテーブルの端から「訳者あとがき」について原稿依頼が飛んできた。締め切りまで間があったので、それは頭の引き出しにしまい込まれた。ところが、冬だというのになにやら薄暗がりでつぶつぶが芽を出して、光を放ちはじめた。あれはひょっとしたら、口から出まかせではなくて本当だったんじゃないか、本当にあとがきを書くために翻訳したんじゃないのか、とつぶつぶが問いつづけるのだ。

「この本」とは昨秋、新訳したJ・M・クッツェーの初作『ダスクランズ』(人文書院刊)のことだ。そういえば翻訳作業のスケジュールでは、あとがきを書く時間を二カ月と最初から見積もっていたんだ。約四十枚と編集担当者にも伝えてあったじゃないか──増えたけど。仕上がった訳をそばに寝かせて、あとがきを書いた。取り憑かれたように、二十四時間そればかり。あそこはやっぱりこうかもしれない、ふと浮かんだことばを書きつけるため、真夜中にがばっと起きあがってキーボードに向かう、そんな日がつづいて「J・M・クッツェーと終わりなき自問」がぼんやりと形になっていった。


 二〇一七年三月下旬にクッツェー研究の第一人者デイヴィッド・アトウェル氏が来日して事実関係をあれこれ確認できて、あとがきはとてもすっきりしてきた。だが、それにも増して自分でもはっきりさせたかったのは、一度日本語になった作品をあらたに訳し直す理由である。この作家は一九七四年に『ダスクランズ』を出してから現在までどんな作品を書き継いできたか、その作品群を一望にするとなにが見えてくるか、それは書いてみなければ分からなかった。クッツェーという作家を日本に紹介することになった拙訳『マイケル・K』の出版からでさえ、ほぼ三十年が過ぎている。作家を見る視点を日本の読者、世界の読者がどのように変化させてきたかも探りたかった。寝ても覚めてもとはこのことか、と思いながら遅い春の日々を送った。さて。


 翻訳はね、コンテキストが生命よ!──と藤本和子さんはいった。八〇年代初めにわたしが翻訳をやろうと思ったときのことだ。きっかけは、これまでにも何度か書いてきたが、「女たちの同時代 北米黒人女性作家選 全七巻」との出会いだった。その編集翻訳をやってのけたのが藤本さんと、朝日新聞社図書編集室の故・渾大防三恵さんだ。一九三九年生まれの藤本さんは、この仕事を三十代後半から四十代にかけてやったことになる(驚嘆!)が、そのとき『塩を食う女たち』という黒人女性の聞き書き集も出している(岩波現代文庫に入ったのは本当に嬉しい)。


 選集には「女たちの同時代」とあるように、同時代を生きる黒い女たちの圧倒的な声があった。その力強さと存在感に打ちのめされて、貪るように読んだ。知らないうちに自分は「衰弱」していたのではないかと気づいたのだ。気づけばあとは回復をめざすのみで、そのパワーをもっぱらアフリカン・アメリカンの女性たちの作品群からもらったのだ。

 怒涛の六〇年代末から七〇年代初めにかけてたまたま学生時代を送り、四苦八苦しながら子育てのトンネルに入り、出口に光が見えたのはこの選集と『塩を食う女たち』を読んだときで、あれはわたしにとって生き延びるための文学だった、といまも思う。だから翻訳紹介をするときは呪文を唱えるように、コンテキスト、コンテキストとつぶやいてしまう。藤本さんからは、ただの紹介屋にはならないで、とも言われた記憶がある。わたしがそう受け止めただけかもしれない。ところが。


「あとがきはノイズだ」と言う人がいると聞いた。唖然とした。

 アフリカから出てくる文学や、アフリカにオリジンをもつ作家を紹介するとき、その背景を解説するだけでかなりの分量になる。たとえ詳細に書いても、受け手の網の目が粗いときは思うように伝わらない。そんなもどかしさを体験してきた者に「あとがきはノイズ」とはびっくりするような主張だった。そこからは、あとがきなどなしに読者は作品とじかに接する方がいいと言う「正論」が響いてくる。作品の真価は作品のみで理解されるべきだと言い切れる強さがにじみ出てくる。だが、その強さはどこからくるのだろう。

 目を凝らし、耳をそばだてて観察すると、おぼろげに見えてくるものがある。「あとがきノイズ論」を支えているのは、かりにそこにあっても、目に見えるものだけが存在して見えないものは無、と断言できるマジョリティゆえの強さではないのか。ラルフ・エリソンの小説『見えない人間』を思い出す。人間以下のものとして無視されてきた存在が書くことで可視化され、書かれることで存在を主張しはじめる、そのことをこのタイトルは示している。


 敗戦後、日本に入ってくる情報は圧倒的にアメリカから、となった。それを世界の情報をめぐる「非対称性」と言ってみる。わかったようで実感の伴わない表現だ。でもほら、バドワイザーに訳註はいらないけど、チブクビールはどう? ワシントンといえばすぐに当たりがつくけど、アブジャと言っても「?」となるでしょ。かく言う筆者もメルカトール図法の歪みから頭を解放するため、就職したての娘に地球儀を買ってもらったのは何歳の誕生日だったか。それを見て、おお、イスラム世界のなんと広いことか、とため息をついたのだった。そして世界を、地球上の人間の営みの全体像を、地球儀に乗って爪先立ちするつもりで想像してみるのだ。眼球の表面にごしごしと、懐疑というブラシをかけて。


 アフリカ大陸南端で生まれた作家の作品を三十年前に翻訳しはじめたわたしは、「アフリカに文学あるの?」という問いに出くわすたびに絶句してきた。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェのTEDトーク「シングル・ストーリーの危険性」が世界を駆けめぐったころから、さすがにそんな、あからさまに差別的な質問を面と向かって言う人は少なくなったけれど。アフリカ大陸は、面積だけでも日本が約八十個すっぽり入る広さで、国の数はゆうに五十を超えるのだ。どれほど多種多様な人たちが多種多様な文化をいとなんできたか、いるか。「暗黒大陸」として学んだ者(わたし)が蒙を啓かれることに遅すぎはしないのだと、今日も地球儀を引き寄せる。


 なにをわたしは言いたいのだろう? 文学作品を日本語に訳して出版するプロセスで、あとがきがノイズだと言えることが、どれほど特権的かということだ。もちろん場合にもよるが、そこにはいちいち説明しなくても、読者がすでに作品の背景や文化をある程度知っている、あるいは知らなくていい、という前提が暗黙の了解としてある。それがいかに特権的なことか。イギリスの文化、フランスの文化、と言い換えてもこれはある程度あてはまるだろう。日本とアメリカとヨーロッパだけが「世界」の中心ではないのだと陳腐なことをまた言わなければならないのだろうか。でも「欧米」とひとくくりにする乱暴な物言いが「あとがきノイズ論」では生き生きとよみがえるのだ。


 一歩踏み込んで、もう少し奥行きをもって見てみると、そのアメリカでさえ、たとえば黒人文学と呼ばれるものは、ある程度の歴史的、社会的背景を浮上させる解説がなければ伝わりにくいことがわかるだろう。その事実と早い時期から向き合ったのが先述した「北米黒人女性作家選」だった。全七巻の各巻に、丁寧な解説と日本で書くことを仕事とする女性たちの「応答」の文章が添えられていた。ントザキ・シャンゲの『死ぬことを考えた黒い女たちのために』の巻末には、先日他界した石牟礼道子さんがエッセイを寄せている。つまり、読者の社会内部の「見えない存在」を照らし出す網が、国境や言語を越えるつながりとして準備されていたのだ。


 そこには、六〇年代南部アメリカの公民権運動、都市部の貧困対策として子供たちに給食を提供することから始まったブラックパンサーの運動、それらをくぐり抜けて滋味豊かな果実として生み出された黒人女性作家たちの作品と、その全体像を伝えたいと腐心する編者たちの熱意があった。通信手段は郵便、電話、テレックス等に限られ、インターネットはおろかファクスさえない時代だ。作品を日本語に移し替えて読者に手渡すときの立体化、コンテキストの可視化への努力がそこからはひしひしと伝わってくる。アフリカン・アメリカンのアート作品を全巻にあしらった美しい平野甲賀氏の装丁によるこの選集は、出版文化賞にあたいするきわめて先駆的な仕事だった。当時のアカデミズムには逆立ちしてもなし得ない性質の仕業だったのではないか。しかし、時代はバブル期へ向かい、その後の流れはアメリカ発のミニマリズムへと舵を切り、他者と関わらないことを強く決意する端正な文体の小説が読まれる時代へと向かった。


 いま、顔を黒塗りするミンストレルショーに差別のニュアンスがあることが指摘される時代を迎えて、ようやく奴隷制をめぐる歴史は過去のものではないと認識されるようになったのだろうか。だとすれば、これまで翻訳文化が「主に」追いかけてきたアメリカは「白い」アメリカだったと知るべきだろう。それが認識の地図を激しくゆがめてきたことも。


「訳者あとがき」はノイズなどではない。とはいえ、どれほど調べて書いても、それに代価が支払われるわけではなく、やればやるほどボランティア性が高くなる作業だ。それでも、訳者あとがきは、そばにあるのに見えなかった世界を示す広角レンズになる。広い視野から世界を見渡すパースペクティヴ装置にもなる。「コンテキストがすべて」とは、そのことを言っているのだろう。それは日本語文学に風通しのよさを吹き込む「同時代性」をも指差している。

 それで『ダスクランズ』の新訳とあとがきはどうなったかといえば、視界は良好、クッツェーの現在地を伝える最新作『モラルの話』を、なんと英語のオリジナルより先に出すため翻訳中(二〇一八年五月刊行)、とお伝えしておく。


(岩波書店「図書」2018年5月号掲載)

2020/01/25

NELMがAMAZWIに:そしてジョン・クッツェーは80歳に!

北半球が真冬のいま、南半球は真夏だ。
 1940年2月9日、真夏のケープタウンでジョン・クッツェーは生まれた。そして今年2020年に、彼は80歳の誕生日を迎える。

 南アフリカの東ケープ州にグレアムズタウンという都市がある。ローズ大学の所在地だ。そこにAMAZWI (ズールー語でWORDの意味)という文学館ができる。ここは、NELM(National English Literature Museum)という文学館だった。今回あらたに改修されて総合的な施設に生まれ変わるらしい。そのこけら落としとして、クッツェーの誕生日とその翌日にフェスタを行う予定だとか。そこから招待状がきた。

 NELMはとても懐かしい名前だ。1990年にクッツェーの最初のビブリオグラフィーを発行したところで、Kevin Goddard と John Read による編集、序文はなんとあのTeresa Doveyが書いている。ラカンの心理的分析をもとにして、初めてまとまったクッツェー論を書いた人だ。

1990年刊行のNELMの冊子
 1991年に『マイケル・K』の訳書を作家に送ったとき、このビブリオグラフィーについて質問すると(当時は紙の手紙だった!)、ジョン・クッツェーは親切にこの冊子を送る手配をしてくれた。だから、いまもわたしの手元に1冊ある。右の写真がその表紙。
 2003年にノーベル文学賞を受賞したとき、彼の名前をジョン・マイケル・クッツェーだと伝えた「タイムズ紙」や「ニューヨークタイムズ紙」の誤情報に対して、あるいはそんな「北」の大手新聞の情報を鵜呑みにした「世界文学事典」の類まで、それは誤りだと主張するための貴重な資料となった。

 フェスタでクッツェーはいつものように朗読をするらしい。やっぱり新作のThe Death of Jesus からだろうな。

 南アフリカは2011年11月にケープタウンを訪れて以来ずっと、もう一度行ってみたいなあと思いつづけてきた土地だが、この年齢で真冬の東京からいきなり真夏の南アへ行くのは……体力的に……やっぱり。こういうときの自分の体力のなさは本当に歯がゆいけれど、残念ながら涙を飲んだ。

 このイベントのあとクッツェーはスペインに行ってなにやら賞を受けるらしい。クッツェーのスペイン語圏重視はまだまだ続くのだな。それからオランダにも行くのだろうか。70歳の誕生日はアムステルダムでコッセ・パブリッシャーが中心になって3日にわたるイベント「これがクッツェー?」が開催された。
 2009年秋に『サマータイム』が出てブッカー賞ファイナルにノミネートされた直後だったから、クッツェーは『サマータイム』から「マルゴ」の章を朗読したんだった。オランダで読む章がジョンのいとこの「マルゴ」の章であること、本文中に「We white」という表現があることなど、なるほど、とうなずける。クッツェーはまず最初にオランダ語でこれから読む内容についてちょっとコメントしている。オランダ語を話すクッツェー、めずらしい動画だ。再度ここにも埋め込んでおこう。



 そしてアムステルダムのこの2010年2月に開催された3日にわたるイベントでは、2018年の『モラルの話』に入ることになった短編「老女と猫たち」も朗読していたのだけれど、その動画が見当たらないのが残念!
***
2020.1.28──The Old Woman and the Cats を朗読する動画は、じつはジャイプールでの朗読があるにはあるのだけれど、音割れがひどくておすすめできないのだった。

2020/01/18

ニューズウィークにも掲載されました

今日は朝から雪がちらちら。そしてだんだん本格的に降ってきて、風もでてきて雪の華が舞っています。窓ガラスを透して見る雪の華は美しいけれど、やっぱり寒い!

「物語はイズムを超える」翻訳家・くぼたのぞみと読み解くアフリカ文学の旗手・アディーチェ

Torus に載ったインタビューがニューズウィークにも掲載されました。タイトルが少し変わっています。「アフリカ文学の旗手」とあるので、「旗手」という語を調べてみました。手元の辞書にはこうあります。

 旗手:  団体しるししての旗を持つ役目の人。
      ②ある運動の先頭に立って活躍する人。

 ふむふむ。グループの先頭に「代表」として立ち、そのグループのサインのような旗を持つ人のことなんですね。たとえばオリンピックの開会式のときに各国の選手団の先頭に国旗を持って歩く人みたいな。
 だとしたら…………アディーチェ自身は、そう呼ばれることをどう思うだろうなあ、という素朴な疑問がちらりと脳裏をよぎり、「アフリカ文学」というくくりについても再度、考えました。

 こんなふうにタイトルはTorusのときから少し変わり、写真も1枚、入れ替わっていますが、インタビューの内容に変化はありません。最後のほうにクッツェーも出てきて、クッツェーとアディーチェが訳者にとって「補完しあう」関係であることもしっかり書かれています。より多くの人に読んでもらえると、嬉しい!


2019/05/04

『嘘』──イタリア語版『モラルの話』

J・M・クッツェーのMoral Tales 、5月28日にはイタリア語版が出るようです。タイトルが『Bugie』つまり『嘘』です。

 Lies はエリザベス・コステロの息子ジョンが妻のノーマにあてて書いた手紙の章でした。イタリアの出版社エイナウディは、この非常に短い短篇のタイトルを本のタイトルにしたわけです。

 Bugie e altri racconti morali
   ──嘘とその他のモラルの話

 フランス語版が『ガラスの食肉処理場』で、オランダ語版が『猫』で、イタリア語版が『嘘』で、さてさて、ドイツ語版はどうなるのか? 気になる、気になる。

2019/04/28

J・M・クッツェーのオランダ語版『モラルの話』

J・M・クッツェーのMoral Tales (モラルの話)は昨年の5月にスペイン語版と日本語版が出て、夏にフランス語版が出たのだけれど、タイトルはそれぞれちょっと趣向をこらしてあった。
 スペイン語版は Siete cuentos morales『7つのモラルの話』だし、フランス語版はL'abattoir de verre『ガラス張りの食肉処理場』、日本語版『モラルの話』は英語オリジナルのタイトルMoral Tales をそのまま訳したものだ。

 つい最近、6月中旬にオランダ語版が出る、というニュースがアップされた。いつものようにコッセ・パブリッシャーから出るのだけれど、タイトルが De oude vrouw en de katten『老女と猫たち』で、表紙がまたかわいい。黒猫の後ろ姿にトンボが二匹飛んでいるのだ。ぼやけたしっぽの先がまたいい。

 う〜ん、かわいい。猫好きはつい手にとって、つい買ってしまいそうなカバーだ。オランダ語は読めないけれど、この本、手元におきたいな。注文しようかな。かぎりなくミーハー的な....猫好きのツボにはまる作りです。

2019/03/25

『イエスの死・The Death of Jesus』 から読むクッツェー

オーストリアのハイデンライヒシュテインで22-23日の2日にわたって開かれた「霧のなかの文学」で、クッツェーは『イエスの幼子時代』『イエスの学校の日々The Schooldays of Jesus』と続いたイエスの三部作の最後『イエスの死 The Death of Jesus』から女優のコリンナ・キルヒホフといっしょに朗読したと伝えられる。

編集者ハンス・ユルゲン・バルメスと語るJ.M.クッツェー
この文学祭、今年は全面的にクッツェー祭りになったようで、初日はクッツェーの朗読のほかに、1990年代からクッツェー作品や南アフリカの作家をドイツ語に翻訳してきたラインヒルト・ベーンケReinhild Böhnkeが翻訳について語り、2日目は名だたる作家が『サマータイム』『マイケル・K』『その国の奥で』『恥辱』『鉄の時代』といった作品から朗読した。そして最後にドイツ語版の出版社フィッシャーの編集者であるハンス・バルメスHans Balmes とクッツェーが会話をするという流れだったようだ。元記事はこちら

北を介さずに3地域を結ぶ文学構想
バルメスとの会話では、最新作『モラルの話』がなぜ英語ではなくスペイン語で最初に出版されたかと問われて、「自分の本は、どれも英語という言語に根ざしてはいない。自分は特定の言語を志向してはいない。世界の主要言語という位置付けで覇権を握る英語によって、その他の言語が追いやられている現状には、うんざりしている」と答えたという。
 この辺まではすでに拙訳『モラルの話』のあとがきや、昨年のスペインでのイベントでブエノスアイレスの編集者コスタンティーニと交わされた会話の内容とも重なるが、クッツェーは、ふたたび「南の文学」を、ニューヨークやロンドンを経由せずに直接交流することで、それぞれ独自の複雑な歴史や文化背景を有する南の世界が発信する文学として発展させたいと述べたという。この主張については昨年4月末の南の文学ラウンドテーブルの内容を、ある雑誌にまとめたので近いうちに読者に読んでもらえるはずだ。

 会話では、クッツェーはまたグローバリゼーションを激しく非難。人はその消費行動によってのみ消費者として定義付けされるが、自分はそんなことに興味はない(強調筆者)と。1980年に出た『夷狄を待ちながら』について問われると、現代社会を引き合いにだして語り、野蛮とみなされる相手に対する防御自体が野蛮な行為に繋がる、と述べた。これはいわゆる先進諸国がもちだす「対テロ戦争」のことをいっているのかもしれない。
 
 また、歴史的に南アフリカで用いられた「アパルトヘイト」という語をイスラエル/パレスティナの関係にも使うことについて、3年前すでにパレスティナを訪れたとき、両者の状況を歴史的、社会的、経済的な観点からきっちりと定義して、こう語っていた。今回もまた、この語を使うことは建設的な話し合いを不可能にすると述べて、ヨルダン川西岸と東エルサレムでのイスラエルの行動を厳しく批判したと伝えられる。


*今回の文章を書くにあたって、ドイツ語の記事を翻訳してくださった市村貴絵さんに助けていただきました。どうもありがとうございます。Merci beaucoup!

2019/01/31

マドリッドでのJMクッツェー:May 26, 2018

昨年5月26日にマドリッドで行われたイベントで、JMクッツェーがソレダード・コスタンティーニとステージで交わす会話の英語バージョン(スペイン語がかぶっていないもの)を見つけたので、備忘のためここに埋め込んでおきます。このイベントについては、昨年ここで詳しく書きましたので、ぜひ参照してください。

 「イエスのシリーズ」は舞台が「死後世界」と明言しているのはこのスピーチです。



 精神分析は作家として重要かと問われて、クッツェーは作家writerとしてより思想家/思考する人間thinkerにとって、それは重要だと答え、アラベラ・カーツとの共著『The Good Story』について述べています。
 さらに、最後近くになって、拷問や犯罪を犯した人間が引退後に心穏やかに暮らせるか、とか、われわれの父祖が新大陸(オーストラリアやアメリカス)、あるいはアフリカでやったことが現在の基準から照らすと犯罪で(先住民に対する入植者が行った暴力行為、強盗、土地の強奪)それに対して、どう考えるか? われわれの罪悪感をどうするか、とか、結構突っ込んだ内容の話をしています。
 最後に、書くことと祈ることは似ているか? と極めつけの疑問まで出してくる。これはクッツェー読者、クッツェー研究者、クッツェー翻訳者にとっては、もう必見、必聴の動画ではないでしょうか。ぜひ!

****
追記:2019.5.12──動画を再度みて、聴いて、ブログの内容を少し訂正しました。

2018/11/14

ハイデガーとダニ:英語教育12月号

 6月9日にB&Bで行われた「クッツェー祭り」、J・M・クッツェー『モラルの話』発売記念イベントで行われた都甲幸治さんとの対談が、今日発売の「英語教育 12月号」に載りました。

 都甲さんが連載している「境界から響く声たち」の第9回です。タイトルがすごくいけてます。(笑)

  ハイデガーとダニ

 J・M・クッツェー『モラルの話』を読んだ方は、ああ、あれか、とおわかりだと思いますが、そうです、「ガラス張りの食肉処理場」に出てくるあの話です。

 ここに掲載されたのは、当日いろいろしゃべった話のごく一部ですが、よくまとめていただきました。でも、話としては全体の要といえば要だったかもしれません。編集者のKさんに感謝です。ぜひ!
 

2018/11/09

日経プロムナード第19回 電車のなかの七面相

いきなり子どもの話です。そして、いきなりおばあさんの話です(笑)。

J・M・クッツェーの『モラルの話』を訳して、エリザベス・コステロの口調、語調にくふうを凝らしているうちに、コステロばあさん、という表現がひとりで歩きはじめた。

 それと同時に、自分だって、65歳のコステロより年齢は上なんだよなあ、とあらためて思うと、堂々と「おばあさん」と自分を呼んでいいんだと思うようになった。ふん!
 
    電車のなかの七面相

 まったく、変なおばあさんの話です。ニコッと、ニヤッと、笑ってください。子どもといっしょに! いや、いっしょでなくても。ひとりでも!



2018/09/29

『モラルの話』──ル・モンドに載った書評


9月7日付の「ル・モンド」に Obscure clarté de la finitude というタイトルでJ.M.クッツェーの『モラルの話』(L'Abattoir de verre)の書評が載りました。「作家とその分身」を主眼にしてクッツェー作品を論じる、なかなか読ませる内容です。評者はCamille Laurens カミーユ・ロランス。

 ネット上にPDFとしてアップされていました。リンク先でクリアに読めます!


***
付記:フランス語の記事には、今回もそうですが、必ずといっていいほど、南アフリカの作家JMクッツェー、という表現が出てきます。どこにもオーストラリア在住とは書いていません。この辺がスペイン語の記事とちょっと違いますね。
 そうはいっても、80年代から90年代まで、つまり、クッツェーがノーベル賞を受賞するまで、フランス語の訳者の一人はJMのMをマイケルと勘違いしていたようですから、あまり確かなことは言えませんが。「彼ら(註・フランスのジャーナリストたち)はジャン・マリー・クッツェーとまで言ったんです」と初対面のとき、ジョン・クッツェーは語気を強めて言ったことさえありました。急に思い出してしまった。

2018/09/24

文学に何ができるか──毎日新聞『モラルの話』書評

9月23日毎日新聞書評欄にJ・M・クッツェー『モラルの話』の書評が載りました。評者は沼野充義さん。

 比較的短い7つの短篇から構成されたこの『モラルの話』で、クッツェーが読者に向かって次々と投げてくる直球、豪速球、変化球をどれも逃さず、ジャストミートで打ち返すという離れ業のような書評です。「世界文学」を俯瞰する位置にある沼野さんならではのパースペクティブで、この作家と、この作品の、「世界文学」との関連で、その位置と意味を伝えてくれます。
 これまでにも、中井亜佐子さん、谷崎由依さん、都甲幸治さん、中村和恵さん、田村文さん、とさまざまな視点から心打たれる評を書いていただき、本当に訳者冥利に尽きます。今回は「文学に何ができるかという究極の試みにもなっている」という指摘と、最後の「……こういう難題に取り組む作家のおかげで、文学は存在する価値を持ち続けられる」という結びで締め! これには、感激ということばを超えて、涙です!


(沼野さん、勝手ながら写真をアップさせていただきました!)

2018/09/14

日経プロムナード第11回「ひじ坊」

日経プロムナードも11回を迎えました。今日は以前、飼っていた猫の話です。

 ひじ坊

 動物との関わりは、生まれたときから家に山羊や鶏がいた遠い暮らしの記憶につながり、最後はつい、訳し終えたJ・M・クッツェーの『モラルの話』のエピソードになりました。そこに書かれていた動物をめぐる線引きの基準のことですが。。。

2018/09/13

J・M・クッツェーの軌跡をたどる秋

5月末に発売された拙訳、J・M・クッツェー『モラルの話』が重版になりました。出来上がってきた本を見ると、とても感慨深い。

 2冊ならぶと壮観です。昨年新訳の出た1974年のデビュー作『ダスクランズ』から、今年クッツェー自身が英語版より先に他言語で発表した『モラルの話』まで、長い時間と、その間のこの作家の果敢な試みをたどると、現在78歳のクッツェーという作家がなしとげた仕事が見えてきます。

 J・M・クッツェーの軌跡をたどる秋がやってきました。

2018/08/25

フランス語訳もやってきた:クッツェー『モラルの話』

猛暑のなかをやってきた本です。

 L'abattoir de verre

『ガラス張りの食肉処理場』がタイトルのフランス語版。Seuil社から8月16日に発売されました。

 フランス語の本には、「モラルの話」と似たようなタイトルがいろいろあるからでしょうか、いちばん最後の短篇がタイトルに使われています。

 3カ月ほど先に出たスペイン語版、日本語版にはさまれて記念撮影。

 日本語版はハードカバーですが、スペイン語版もフランス語版もソフトカバーです。大きさはまちまち。ページ数は3冊とも 200ページに満たない。クッツェーの集大成ともいえるこの作品、さらさら読ませながら、中身は驚くほど濃くて、深いのが特徴です。

 さあ、次に出るのは何語のバージョンでしょうか?

2018/08/15

京都新聞の書評:クッツェー『モラルの話』

1945年8月15日の敗戦から73年。


共同通信配信、京都新聞に掲載された J・M・クッツェー『モラルの話』の書評全文をここに貼り付けます。
評者は谷崎由依さん。
 
言葉は内側の暴力へ向かって

 この評は、ずいぶん多くの新聞に掲載されました。
「女性が主人公の作品ばかりなのに、むしろ気づくと男性性について考えさせられている」というのは、この作品の特徴をいいあてている重要な指摘です。
 戦後73年にして、この国のありさまを考えるために、ある意味、非常に役に立つかもしれません。

2018/08/11

ダブル書評の日

中村和恵さんの評
J・M・クッツェー『モラルの話』の書評が、日経新聞朝日新聞に掲載されました。評者は日経が中村和恵さん、朝日が都甲幸治さん。

 それぞれ深く読み込んで、噛み砕き、この作品の魅力を丁寧に伝えてくれる評です。

都甲幸治さんの評
2人の評者がこの本を読んで、それを自分の身体をぐぐらせて評することに費やした真剣なエネルギーと、なみなみならぬ心意気がびんびん伝わってくる文章で、ものすごく心に響きます。本読みの達人ならではの評です。

 共同通信配信の両面から補完するような2つの評、図書新聞の専門家ならではの細やかな評、そして今回の力のこもったダブル書評。日本語社会でいまもっとも必要とされていると思える「文学の底力」を見せてくれるこの『モラルの話』は、その魅力をさまざまに伝える書評にめぐまれました。

 本当に嬉しいです。読む人あっての翻訳ですから。短い期間内に、苦労して訳した甲斐がありました。訳者冥利につきます。


   Muchas gracias!
   Merci beaucoup!

2018/08/03

老いゆく中での自由──『モラルの話』の実にしなやかな評が載りました

 J・M・クッツェー『モラルの話』の書評が神戸新聞、琉球新報に掲載されました。評者は共同通信の田村文さん。親と子の関係を中心に据えるしなやかなアプローチで、この本の重要ポイントをきっちりと、過不足なく伝えてくれます。

 情緒や干渉を排した筆致と、透徹した視線で綴られた物語を読みながら、背筋がどんどん伸びていく。哲学的な思考と物語の融合の先に、人間のモラルと生の意味がほの見える。

 という結びがばっちり。「背筋がどんどん伸びていく」というところが、いいなあと。クッツェーという作家のすごさを十二分に理解した人ならではの表現かも。

 あ、それからヘレンとジョンが母エリザベスにいっしょに住もうといって断られるところで、「娘と息子とのエゴがじわじわとにじんでくる」と書く視線の鋭さ。「そして頑迷ゆえに老いを受け入れようとしないようにみえるコステロの抵抗の背後から、深い孤独が浮き上がってくる」と、てらいのない平明なことばで、クッツェーが書きたかった(と思われる)ポイントをじわりと浮上させます。
 
 全文はこちらで読めます。ぜひ!

2018/07/27

日経プロムナード第4回「どこでも朝顔」と、2つ目の書評『モラルの話』

日経プロムナード第4回が載りました。

 どこでも朝顔

ドラえもんの「どこでもドア」みたいですが(笑)。
 いまわたしのいるところから、朝顔の鉢が2つ見えます。昨年朝顔が咲いていた植木鉢に、遅ればせながらたっぷり水をやったら、出るわ、出るわ。なにがって?芽が!です。雨水管から移植した朝顔といっしょに、すくすく育っています。


もうひとつお知らせ

今週末発売の図書新聞に『モラルの話』の書評が出ます。評者は中井亜佐子さん。

クッツェー研究会といえばこの人の顔を見ないのはまれ、という知る人ぞ知るクッツェー研究者です。この作家の作品を長年、読み込んできた人ならではの目で評する『モラルの話』。クッツェーを知らない人にも、作家の現在地や、この作品の背景がざっと理解できる内容で、おすすめです。

 「寓意」について。また冒頭の、クッツェーの「新作はつねに、それ以前の自身の作品の集大成」という指摘は、とりわけ作家が自伝的三部作を発表しはじめた1990年代半ば以降の作品に言えることかもしれません。78歳にして発表されたこの『モラルの話』は間違いなく、クッツェー文学とクッツェー思想の集大成と呼べるものでしょう。

2018/07/24

違和感から見える世界:クッツェー『モラルの話』書評

5月末にオリジナルである英語版に先駆けて出た拙訳、J・M・クッツェーの『モラルの話』(人文書院刊)の本格的な書評が出ました。書き手はなんという偶然!『鏡のなかのアジア』で快進撃をつづける作家、翻訳家の谷崎由依さん。配信は共同通信です。(写真はまだ部分ですが、いずれ全文をアップします!)

心に響いた箇所をいくつか書き出してみると:

最初の短編「犬」について──「主人公の女性が前を通りかかるたびに猛烈な勢いで吠えたてる」その吠え声が、ノイズとして全編を通して響いている、という指摘に、深くうなずく訳者。

 そして、主人公のコステロについて「舌鋒鋭く世のなかを批判するが、もう老いており、かみ合わない会話に困惑する子どもたちは、母親をどうやって世話していくのか考えている」とストーリー展開をざっくりと示しながら、「文学や哲学の考察が、人生のもっとも生々しい問題と結びついていく」と作品の全体像をほぐしていきます。

 瞠目するのは、「女性が主人公の作品ばかりなのに、むしろ気づくと男性性について考えさせられている」というところ、唸りました。鋭い!

 クッツェーが90年代からフェミニスト作家エリザベス・コステロというキャラクターを使って書いてきたものは、さまざまなテーマを議論の俎上にのせながら、この「男性性」を浮上させるための仕掛けにほかならなかったと、いまさらながら思うのです。
 オクスフォード大学の若手研究者ミシェル・ケリーは、「ひとつの男の哲学」へ奉仕する?──Serving'a Male Philosophy'? (註あり)──というタイトルの論を展開していますが、確かにそうかも。これはクッツェーという男の作家がフェミニストの女の作家になってみる試みですから。でも、この試みは画期的な領域をも開いていく。カウンター・エゴとしてのコステロを生み出したクッツェー自身が「コステロを統御できたことはない」と、先日のスペインのセッションでも語っていました。この辺が興味のつきないところです。

 書評にもどると、「自己陶酔は一切ない。読んでいるとつらくもなるのだが、ある一点を超えると頭がさえ渡ってくる」という指摘は、この作品の最大の特質をみごとにいいあてています。そう、一点突破すれば、ものすごい場所に出るのです。
 そして「違和感と違和感とがつながって、この世界を取り巻く事象の何かが見えてくる。驚くほどの明晰さで」という結語によって着地。
 
 この限られた文字数のなかで、なんといっても光るのは、作品の骨太のテーマを精査する眼力と探求の鋭さであり、目眩まし的な「見立ての奇抜さ」という主観枠にあてはめることなく、どこまでも作品自体に即して読みほどき、やわらかいことば遣いで作品の核心部分へ肉薄する力量です。Muchas gracias!!!

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2018.8.3──ちなみにこの"serve a male philosopy"という表現は、クッツェーの著書 Elizabeth Costello(2003) のなかに出てくる表現(原著p14)でもあって、そこで話はまたねじれてさらにややこしくなるのですが。