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2023/02/28

雪のなかの早春譜──2月も今日で終わり

西日本新聞にエッセイが載りました。2023年2月26日(日曜日)

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⛄️ 雪のなかの早春譜 ⛄️

生まれ育った北国から東京に移り住んで半世紀あまりが過ぎた。一月は一年でいちばん寒い季節で、寒さの底へ降りていく感じがスリリングだ。でも東京は陽の光も多い。気温の変化が安定しているためか仕事が進む。


 二月はそうはいかない。曇り空に風が吹く。紅梅白梅の香りにふっと気持ちが緩んでも、風は強い。そして冷たい。冷たい風に吹かれると、つい口からこぼれる歌がある──「早春譜」だ。 

©︎ Brian Smallshaw

 春は名のみの風の寒さや

 谷のうぐいす歌は思えど

 時にあらずと声も立てず


 初めて耳にしたのはいつだったのだろう。目を閉じると、台所仕事をしながら歌うメゾソプラノの母の声が微かに聞こえる。「早春譜」「庭の千草」「スコットランドの釣鐘草」、朗々と歌う声が雪に埋もれた家のなかに響いていた。


 テレビさえまだない時代、家のなかで耳にした音楽といえば、母の歌と、ラジオから流れる音楽と、父が我流で弾いたバイオリンくらいだったかもしれない。やがて兄といっしょにバイオリンを習いはじめ、バスや汽車を乗り継ぎ遠くまで通った。


 田舎では家と家のあいだがずいぶん離れていたので、大声で歌も歌えたし、バイオリンの練習も遠慮なくできた。そう気づいたのは十八歳で東京に住みはじめてからだ。

 東京という街は家と家の間隔がなんて近いんだろうと最初は緊張した。建物群のあいだを走る狭い通路を「路地」と呼ぶことを知った。それはとても濃密な空間で、凍える手をポケットに突っ込んで足繁く通ったジャズ喫茶も、たいてい路地の一角にあった。


 でも「早春譜」とともに真っ先に目に浮かんでくる光景は、深く積もった雪原なのだ。

 北海道の雪は日本海側の雪にくらべて乾いていると言われる。たしかに、粉雪がひたすら降り積もった。晴れた日は、雪原にスカーンと空が青く、遠く広がる。積雪量の多い地域に住んでいたため、雪かきが大変だった。吹雪くと一階の窓は外が見えなくなる。二月はまだ正真正銘の真冬だった。温暖化で雪の量が減ってきたとはいえ、先日も知人から、雪下ろしをしていて脚立から落ちたという話を聞いたばかり。


 そういえば小学生のころ、春が近づくと学校で告げられる「注意事項」があった──軒下を歩かないこと。太い氷柱が垂れ下がる屋根の庇から、積もり積もった雪が春近い日差しに溶けて、ザザザザーッ、ズシン! と地響きを立てて落ちる。子供はあっけなく下敷きになる。大人だって生き埋めになりかねない。



 北国では雪が半年近く「そこにある」。そんな雪の記憶はだんだん遠くなっていくけれど、冬はいまも雪の恋しい季節だ。空から舞い落ちる雪片の美しさは比類ない。ミトンの手にふわりと受けた雪のひとひらが、そのまま結晶を形づくる不思議に、溶けるのを惜しんで見入った。


 東京にも以前はよく雪が降った。立春のころとか、三月に牡丹雪とか。今年はまだ降らない。降るかな、降るかな、と曇り空を今日も見あげる──と書いた翌日、東京に雪が降った。

 そしてあっけなく溶けた。


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2021/12/26

大竹昭子さんが『山羊と水葬』の書評を西日本新聞に!

風土の記憶、自分への目覚め

 西日本新聞2021年12月25日朝刊に、あの大竹昭子さんが『山羊と水葬』(書肆侃侃房)の書評を書いてくれました。同世代で、あの時代を(「あの」がやたら多くてすみません!)東京で経験した人ならではの視点から、深い記憶の水の底へ、鋭いビームを投じるように読み解いて伝えてくれた大竹さん、ありがとうございました。

 たとえば、「大学時代はジャズに夢中になり、東京中のジャズ喫茶を(当時は女独りで入れるような雰囲気ではなかったにもかかわらず!)独りで巡って……」というところなどは、あのころの社会標準としての空気を知らない人には、なかなか想像できないことかもしれません。この部分の読み解きはとても嬉しい。

 わたしの生まれた「家」は、当時の村の基準でいうと、農業を主業としている「農家」とはいえないかもしれないけれど(父は勤め人をしながら、母は子育てをしながら、小さな田畑を作っていた)、田舎と都会の距離などについて、現在から投じる光の当て方はきわめて的確です。

 2021年のクリスマスに、なにより嬉しいプレゼントをいただきました。

 Merci beaucoup!


2019/12/23

東京新聞「土曜訪問」に

東京新聞(中日新聞)の夕刊(2019.12.21)に記事を書いていただきました。facebook でも twitter でもシェアしたけれど、備忘録のためにここにも貼り付けておきます。

「土曜訪問」──最も深い読者になる


クッツェーの翻訳者として話を聞かせてください──という依頼で、あれこれ話しました。わたしが翻訳に向かった動機や、初めての訳書『マイケル・K』など、これまで訳したものについて。
 とても熱心に質問して、中身の濃い記事にまとめてくださった記者のMさん、どうもありがとうございました。

2016/03/04

「ブラウン・ベイビー」 by ニーナ・シモン

今日の音楽。ニーナ・シモンの「ブラウン・ベイビー」。1962年に発売されたアルバム「アット・ザ・ヴィレッジ・ゲイト」のB面の最初に入っている曲だ。B面なんてことば、みんな知ってるだろうか? LP時代。この曲との衝撃的な出会いについてはずいぶん以前だけれど、ここに書いた
 ニーナがこの曲を歌ってから54年。アメリカという国の黒人をめぐる野蛮な暴力はいま.........

Brown Baby をまた聴く春の曇り空。

2015/06/18

西江雅之さん、どうもありがとうございました!

西江雅之さんが逝った。享年77歳。

 西江さんの名著、『花のある遠景』を読んだのは80年代末のことだった。ケニアの場末に住み着いて売春婦のおねえさん、おばさんたちとの暮らしの光景をすばらしい文章で描いていく本だった。目を見張った。わたしのアフリカ入門の重要な部分は西江さんの考え方からもらったような気がする。ちっとも活かせていないけれど。感謝、 深謝! 心からご冥福をお祈りします。なんか、本当にさびしい。


 以前このブログにも書いた西江さんのお話のことを再掲します。2009.4.27とあるから、もう6年も前のことだったのか!

*****************************
ジャズはアフリカ起源の音楽だ、なんてのは違う。ぼくは何年か前に数人の学者とその議論をして論破した──と語るのは、言語学と文化人類学を専門とするマチョ・イネこと西江雅之さんだ。

  昨夜は三鷹の「文鳥舎」で「世界中に散るフランスという国」なるトークショーを楽しんだ。西江さんの話しっぷりは、本当に面白い。噺家のようなのだ。「フ ランス語が話されている世界の地域」のことではなくて「フランスという国そのものが、ヨーロッパ本国と、マルチニック、グアドループ、レユニオン、フラン ス・ギアナといった海外県と、カナダの大西洋側にあるサンピエール・エ・ミクロン、インド洋のマヨットといった特別自治体と、さらには、ニューカレドニ ア、フランス・ポリネシア、ワリス・フトゥナ、南極の一部といったフランス領をすべて含めた、世界中に散在する国、として成り立っている」というお話だっ た。

 頭のなかでかたまっている「フランス」というステロタイプのイメージがゆさゆさ揺れて、そこかしこに風通しのよい穴があき、崩れる。そして新たなイメージで「フランスという国家」をながめやる目が養われる。西江さんの話はいつも聴き終わったあとが爽快で、気持ちよい。

  最初のジャズの話は懇親会で聴いたもの。前日、ツトム・ヤマシタとのコラボレーションのため京都へ行っていたそうだから、その流れから出てきたものかもし れない。それを聴いて、ありありと思い出したことがある。それは1970年前後の日本の、いわゆる「ジャズ・シーン」をめぐる熱い語りにみられた、ある傾 向のことだ。

 当時、情報は、なんでもかんでも米国発のものが勢いをもっていた。というより、いま以上に、憧れを もって肯定的に語られていたというべきか。ヒッピー、フォーク、ロック(ときどきブリティッシュ)、文学だって、やれケルアックだ、ギンズバーグだ、サリ ンジャーだ、と圧倒的に「アメリカもの」で、さまざまなものが入り込む余地があまりなかった。見えていなかった。つまみ食いのようにして少しは読んだけれ ど、米国発の文学で興味を引かれるものは、ブローティガンが紹介されるまで、ほとんどなかった。でも、音楽は別、ジャズは別だった。

  あの当時のジャズ聴きたちは「ジャズ=黒人/アフリカ人の音楽」という固定観念から離れられなかったように思う。だから、ヨーロッパのジャズは二級扱いさ れ、極端な人は、白人プレーヤーのジャズは「白人だからダメ」とまでいう始末。いったい、どんな耳をしていたのやら。いや、どんな頭をというべきか──私 も含めて。
 ジャズを演奏する人たちのなかにもまた「黒人のように」演奏すること、より「黒い」音楽を演奏すること、さらには「黒人のよう になること」にまで(そんなこと不可能なのは分かりきっているのに)究極の目標を細めていく人もあらわれ、それを肯定する左派めいた論客もまた、人気を博 していたように思う。それは「黒っぽいフィーリング」があるかないか、というふうに論じられた。
 なんか変だと思いながらもきっぱり反論で きなくて、嘘くさいその手のライナーノーツや解説なるものを読まなくなったのは、そのせいだったのかもしれない、といまになると理由をつけることもできる ──だって、じゃあ、なんで日本人がジャズをやるの、なんでロックをやるの、ということになるでしょ? 60年代後半って、そういう時代でもあったのだ。

  音楽も、文学も、人種と不可分に結びつくものなんかない。結局、それは「文化」なのだから。文化は「創り出すもの」で、アフリカン・アメリカンと呼ばれる 人たちは、白人文化が命じる器のなかで、アフリカ起源のものをベースに、手近にある、さまざまな道具、アイディアを混入させながら、独自のものを創り出し ていった。彼らの創造性はそこにある。それは黒人でなければできないものではない。ただ、間違いなく彼らがやったことなのだ。そこのところを同一視する と、すごく間違う。その流れでいくと、日本人でなければ日本(語)文学は書けないという考えに(そう信じている人はある年齢層以上に、いまだって間違いな く、いる)反駁できない。

 日本人のすばらしいジャズメンはたくさんいるし、黒人でなければジャズができないなん て、いまじゃ誰も思わない。白人たちはジャズまで奪っていった、という黒人サイドの発言も聞いたことがあるけれど、それは見方を変えるなら、彼ら/彼女た ちの「文化」が白人文化を凌駕したということにもなる。文化も、伝統も、きわめて創造的な、つまりは、恣意的なものなのだ。西江さんの話を聴くとすっきり するのは、その辺と大いに関係がある。自分を縛ってきたしがらみや不安から、解き放たれたような気持ちになるのだ。☆

2013/08/13

ひさびさにニーナ・シモン: Angel of the Morning



ポール・オースターがフランス語でインタビューを受け、フランス語をしゃべっているのを facebook にアップしている人がいたので、聞いてみるとその途中に音楽がかかった。

 ニーナ・シモンの Angel of the Morning.  なかなかいい曲なのでここに貼付けよう。
 ついでに歌詞も:

"Angel Of The Morning"

There'll be no strings to bind you hands
Not if my love can bind your heart
And there's no need to take a stand
For it was I who chose to start
I see no reason to take me home
I'm old enough to face the dawn

Just call me angel of the morning (angel)
Just touch my cheek before you leave me (baby)
Just call me angel of the morning (angel)
Then slowly turn away from me

Maby the suns light will be dim
But it wont matter anyhow
If mornings echo says we've sinned
Well it would what i would give now
And if we're victims of the night 
I won't be blinded by the light

Just call me angel of the morning (angel)
Just touch my cheek before you leave me (baby)
Just call me angel of the morning (angel)
Then slowly turn away, I wont beg you to stay with me, me

Through the tears, of the days, of the years
Baby, Baby, baby

Just call me angel of the morning (angel)
Just touch my cheek before you leave me (baby)
Just call me angel of the morning (angel)
Just touch my cheek before you leave me (baby)

[Repeat to fade]

2012/10/13

砂に消えた涙 by 弘田三枝子

今日、訳していた文章のなかに corazón de melón ということばが出てきたので、あれ、どこかで聞いたことがあるなあ、と思って調べてみると、むかしむかし流行った曲の名前じゃないか、そう、日本では森山加代子がヒットさせた曲だ。「コラソン・デ・メロン・デ・メロン・メロン、メロン、メロン・メロン」で始まる、あの曲だ。
 YOUTUBE でいろいろ見ていると、つぎつぎに懐かしい曲が出てきて、芋づる式。ついに、この曲に行き当たった。

「砂に消えた涙」

 ミーナの曲だというのは知っていたけれど、なんといっても最初に聞いたのは弘田三枝子の歌でだったし、60年代の初めに出てきたシンガーで、弘田三枝子を超えるリズム感をもっていた人をわたしは知らない。

(付記:2013.11.8──リンクしておいたYOUTUBEがなくなったので、こちらで

 文句なく、これは懐かしい。いま聴いても古くない。その後、東京で大晦日に新宿厚生年金会館で開かれた恒例のジャズフェスティヴァルに、「人形の家」でレコード大賞を獲ったばかりの弘田三枝子がやってきて歌ったのを、いちばん前の列に座って、間近に見て、聴いたことがあったけれど、さすが、と思ったな。

 当時、いっぱしのジャズ通たちは、こんなのは歌謡曲にすぎない、と馬鹿にしていたけれど、わたしはこの人の歌の力はすごいと当時も思ったし、すごかったといまも思う。

*******************
付記:それにしても、歌詞はしょうもないね/笑。とりわけ当時の売れっ子作詞家の手になる「人形の家」の歌詞のひどさは耳を覆う。60年代、60年代って懐かしがってるけれど、リブやフェミが生まれた土壌を考えるための参考テクストにはなりますかね。

2009/08/24

ジョルジュ・ムスタキ──Nadjejda

 もう35年も前のことだ。1974年2月にほんのしばらく、小雨が降ってはちょっと陽の差すパリにいたことがある。
 ジャズ狂いだった私はジャズスポットを探してパリの街を歩きまわったが、思ったような成果はななかった。(短期滞在で、それもたったひとりで、東洋から行った女の子にそう簡単に街の奥がわかるわけがない!)サン・ミッシェル大通りを行きつ戻りつしながら、ふらりと立ち寄ったレコード店で2枚のLPを買った。
 黒っぽいハイネックのセーターを着て髭を生やした店員さんに、あなたのお薦めのアルバムはどれ? と訊くと、彼が即座に示したのがこのLPだったのだ。

 ジョルジュ・ムスタキの「DECLARATION」。1973年に出た、ムスタキがまだ39歳のときのアルバムだ。
 ムスタキの名前は知っていた──1973年に日本でも出たバルバラのLPで「La Ligne Droite」をデュエットしていた人だったし、来日もしていたから。
 
 パリで買い求めたそのアルバムには、A面の3曲目に「Nadjejda」という曲が入っている。

  Nadjejda, Nadjejda
  En russe ça veut dire espérance
  Nadjejda, Nadjejda
  En amour c'est peut-être absence
  Combien de temps encore, sans voir ton corps
  Combien d'étés, combien d'hivers
  Combien de saisons en enfer

  ナジエージダ、ナジエージダ
  ロシア語では希望という意味
  ナジエージダ、ナジエージダ
  愛では、たぶんそれは、不在
  あとどれくらい、お前の姿を見ないまま
  いくつの夏と、いくつの冬、
  地獄の季節はつづくのか


 そう、Nadjejda とは「espérance」のことなのだ。

 帰国してすぐに研修が始まった。4月から勤めることになっていた会社の、3泊4日の新入社員向け研修会だ。
 しかし、である。早春のその研修会に、私は直前にみつけて買ったセーターを着ていった。オレンジと赤と少しの緑を基調とした、このアルバムのジャケットデザインそっくりの色調のセーターだった。
 朝から晩までびっしり見知らぬ人たちといっしょに受ける研修は、とにかく疲れた。
 当時はまだウォークマンもない。好きな音楽がいっさい聴けない環境で、独りが好きな人間にとっての、ひそかな抵抗感とみずからへの励ましが、ムスタキの「宣言」仕様のセーターだったのだ。

 いま考えると、笑える。 
 

2009/07/12

わたしのジャズ修行(5)──アート・ペッパー/チェット・ベイカー

1969年ころに聴いて良い、面白い、すごい、と思ったジャズは、結果として、まず黒い肌のアメリカ人が演奏する音楽が多かった。そういう音楽として最初に認識したからなのかもしれない。おおいに偏見が入っていたことは、いまとなっては明らかだが、この偏見は一考にあたいするかもしれない、とも思うのだ。なぜなら、音楽そのものに埋め込まれた「切れ」が違うから。その「切れ」の違いを識別できる耳を育てよう、自分の感覚として獲得しよう、とあの当時はっきりと意志したのを覚えている。以来、ジャズ批評のたぐいはいっさい読まなかった。

その結果なのかどうか、とにかく、ああ、いいなあ、と思うのはニューヨークなど東海岸のアーティストのものが多かった。西海岸から発信される音楽、とりわけハリウッド近くから出てくる音楽は、好みではなかった。なぜだろう? 

最近、とある新聞記事(2016.2後記:辺見庸のコラム)のなかで触れられていた「チェット・ベイカー」とはどんなミュージシャンか、と家人に問われて、説明できなかったので(知人の推薦するアルバムを)1枚だけ買ってみた。「Chet Baker sings」だ。1950年代半ばの、ロスとハリウッドの録音、ベイカーはまだ20代後半の若さだ。このトランペッター、確かに、あまくて柔らかい素晴らしい音を出すのだけれど、私がアルバムを一枚ももっていない理由も、これを聴いてよく分かった。あますぎるのだ。(思い出すことば──甘さと権力!──笑)
 全曲歌が入っている。
 こんなふうに歌うのは3曲くらいで十分、あとは楽器だけでいいのに、と家人とも意見が一致した。自己憐憫、いや自己惑溺寸前の、過剰な退廃的雰囲気が濃厚で、それを臆面もなく前面にだしてくるところが、まことに鬱陶しい。

しかし、この時代の西海岸のジャズで、私が唯一例外的にもっているアルバムがある。「The Rreturn of Art Pepper」。このサックス奏者、音色はあまいが、切れはかなりよい。LPで聴いていたものを80年代にCDで買い直した。
 いずれにしても、麻薬、アルコール、セックス、退廃の極みのような米国の男中心の文化が咲かせた花である。

 あの時代、ジャズ音楽で身を立てることは、黒人男には立身出世になるけれど、白人男にとってはメインストリームから完全にはずれていく「落伍者」のイメージだったのだろう。おなじ音楽をやっても、まったく社会的意味合いが違ったことになる。ビリー・ホリディが歌う「Body and Soul」や「My Man」は臓腑にしみるすごさがあった。その理由を、いま、改めて考える。私たちの手元には、すでにトニ・モリスンの作品群があるのだ。

(ちなみに、50年代末から60年代初めに録音されたものを聴きたいという方には、スイング感あふれる、レッド・ガーランドをお薦めします!)

 やがて生演奏をやるジャズスポットへ通うようになってからは、もっぱら日本人の演奏する生の演奏を聴いた。彼らの出したアルバムは、買ったとしても部屋で聴くことはまれで、現場で聴くジャズと、部屋で聴くジャズは、わたしの場合、はっきり分かれていたように思う。 

2009/04/27

三鷹「文鳥舎」で、マチョイネ=西江雅之さんの話をきく

ジャズはアフリカ起源の音楽だ、なんてのは違う。ぼくは何年か前に数人の学者とその議論をして論破した──と語るのは、言語学と文化人類学を専門とするマチョ・イネこと西江雅之さんだ。

 昨夜は三鷹の「文鳥舎」で「世界中に散るフランスという国」なるトークショーを楽しんだ。西江さんの話しっぷりは、本当に面白い。噺家のようなのだ。「フランス語が話されている世界の地域」のことではなくて「フランスという国そのものが、ヨーロッパ本国と、マルチニック、グアドループ、レユニオン、フランス・ギアナといった海外県と、カナダの大西洋側にあるサンピエール・エ・ミクロン、インド洋のマヨットといった特別自治体と、さらには、ニューカレドニア、フランス・ポリネシア、ワリス・フトゥナ、南極の一部といったフランス領をすべて含めた、世界中に散在する国、として成り立っている」というお話だった。

 頭のなかでかたまっている「フランス」というステロタイプのイメージがゆさゆさ揺れて、そこかしこに風通しのよい穴があき、崩れる。そして新たなイメージで「フランスという国家」をながめやる目が養われる。西江さんの話はいつも聴き終わったあとが爽快で、気持ちよい。

 最初のジャズの話は懇親会で聴いたもの。前日、ツトム・ヤマシタとのコラボレーションのため京都へ行っていたそうだから、その流れから出てきたものかもしれない。それを聴いて、ありありと思い出したことがある。それは1970年前後の日本の、いわゆる「ジャズ・シーン」をめぐる熱い語りにみられた、ある傾向のことだ。

 当時、情報は、なんでもかんでも米国発のものが勢いをもっていた。というより、いま以上に、憧れをもって肯定的に語られていたというべきか。ヒッピー、フォーク、ロック(ときどきブリティッシュ)、文学だって、やれケルアックだ、ギンズバーグだ、サリンジャーだ、と圧倒的に「アメリカもの」で、さまざまなものが入り込む余地があまりなかった。見えていなかった。つまみ食いのようにして少しは読んだけれど、米国発の文学で興味を引かれるものは、ブローティガンが紹介されるまで、ほとんどなかった。でも、音楽は別、ジャズは別だった。

 あの当時のジャズ聴きたちは「ジャズ=黒人/アフリカ人の音楽」という固定観念から離れられなかったように思う。だから、ヨーロッパのジャズは二級扱いされ、極端な人は、白人プレーヤーのジャズは「白人だからダメ」とまでいう始末。いったい、どんな耳をしていたのやら。いや、どんな頭をというべきか──私も含めて。
 ジャズを演奏する人たちのなかにもまた「黒人のように」演奏すること、より「黒い」音楽を演奏すること、さらには「黒人のようになること」にまで(そんなこと不可能なのは分かりきっているのに)究極の目標を細めていく人もあらわれ、それを肯定する左派めいた論客もまた、人気を博していたように思う。それは「黒っぽいフィーリング」があるかないか、というふうに論じられた。
 なんか変だと思いながらもきっぱり反論できなくて、嘘くさいその手のライナーノーツや解説なるものを読まなくなったのは、そのせいだったのかもしれない、といまになると理由をつけることもできる──だって、じゃあ、なんで日本人がジャズをやるの、なんでロックをやるの、ということになるでしょ? 60年代後半って、そういう時代でもあったのだ。

 音楽も、文学も、人種と不可分に結びつくものなんかない。結局、それは「文化」なのだから。文化は「創り出すもの」で、アフリカン・アメリカンと呼ばれる人たちは、白人文化が命じる器のなかで、アフリカ起源のものをベースに、手近にある、さまざまな道具、アイディアを混入させながら、独自のものを創り出していった。彼らの創造性はそこにある。それは黒人でなければできないものではない。ただ、間違いなく彼らがやったことなのだ。そこのところを同一視すると、すごく間違う。その流れでいくと、日本人でなければ日本(語)文学は書けないという考えに(そう信じている人はある年齢層以上に、いまだって間違いなく、いる)反駁できない。

 日本人のすばらしいジャズメンはたくさんいるし、黒人でなければジャズができないなんて、いまじゃ誰も思わない。白人たちはジャズまで奪っていった、という黒人サイドの発言も聞いたことがあるけれど、それは見方を変えるなら、彼ら/彼女たちの「文化」が白人文化を凌駕したということにもなる。文化も、伝統も、きわめて創造的な、つまりは、恣意的なものなのだ。西江さんの話を聴くとすっきりするのは、その辺と大いに関係がある。自分を縛ってきたしがらみや不安から、解き放たれたような気持ちになるのだ。

2008/07/03

わたしのジャズ修業(4)──向き合うこと

はっきりと覚えているのは、ジャズは苦手だ、と考えた瞬間が、確かにあったことだ。たぶん16歳のときだ。北の旧植民地から、ひたすら憧れるメトロポリスの音楽は、クラシックとポップスだった。
 80年代に入ってから「みんなビートルズを聴いていた」なんて、コピーが街のあちこちに貼られたことがあったけれど、あれは嘘だ。「みんな」が聴いていたわけではない。とりわけ地方の中学、高校では「ビートルズを聴く生徒は不良だ」と教師や親がかたく信じて疑わなかった時代、それが60年代なかばの日本だった。

 わたしは中学生のとき、音楽室でEP盤(4曲入りのドーナツ盤)をかけて仲間と盛りあがり、職員会議にかけられたことがある。初来日したビートルズの武道館コンサートがテレビで放映される日など、高校の進路指導教官がわざわざ、あんなものは観るな、と授業中に念を押したりした。いまなら即「うぜーっ!」である。(ハニフ・クレイシの作品を思い出すよねえ。写真のアルバムは初めて自分のお小遣いで買ったLP。)
 だから、騙されちゃいけない。あのコピーは、歴史的事実があとから書き変えられた典型的な例といっていい。

 憧れのメトロポリスにやってきて1年、自分の好みががらりと変わっていくのがわかった。それまでの価値観のようなものを、ひたすら壊したい衝動にかられたのだろう。音楽も例外ではなかった、というより、音楽こそがそのもっとも重要な対象になっていたのかもしれない。音楽は耳という器官を通して、身体の奥底に入っていって、深くなにかを刻むからだ。
 大学でそれまで属していたオーケストラ──指揮者という独裁者が統治する全体主義の極致!!──を辞めて、トリオ、クアルテット、クインテットといった、数人が対等に演奏する形式に惹かれていった。全体の一部になることではなく、単独の存在として他の存在と向き合う形式だ。

 そう、「向き合うこと」だったのだ。それも、即興で。異なる存在と向き合うこと。楽器や声を通してやり取りすること。チャットすること。といっても、楽器を単独で弾くほどの腕はなかったから、残念ながら、もっぱら聴く方にまわざらるをえなかったのだけれど。
 そして、夜のライヴスポット通いがはじまる。
 

わたしのジャズ修業(3)──ニーナ・シモン

恐かった。こちらをにらんでいる、そう思った。「あなたがたに、わたしの歌が本当にわかるの?」と詰問されているようでもあった。

 大手町のサンケイ・ホールのステージにその人は立っていた。アップの髪に、腕と胸の出る白いロングドレスを着て、ピアノのキーを、太い腕で、力を込めて、叩くようにして弾いた。そして、喉から絞り出すような声で歌った。

 ニーナ・シモン。

「ニューポート・ジャズフェスティヴァル・イン・ジャパン」に出稼ぎにきたのだ。愛想なんか微塵もない。ほかのミュージシャンがお義理で見せる笑顔を、この人は一度も見せなかった。60年代の米国で黒人を中心にして盛り上がった公民権運動、その運動の渦中にいて、ディーヴァだった人だ。

 全然わかっていないのかもしれない、とそのときわたしは本気で考えた。そもそも「わかる」って、いったい何だ? ジャズはいい、ジャズじゃなければ、なんてはしゃいでいるけれど、上っ面をなでてるだけじゃないのか、と痛感したのもこの瞬間だった。まさに、頭から冷水。思えばそのとき、大きな宿題をもらったのかもしれない。黒い塊のような、理解不能のものを抱え込むことになったのだから。
 ニーナ・シモンを自分の部屋で聴くことは、ほとんどなかった。厳しすぎるのだ。疲れて帰ってきて、人は、また叱られるような歌を聴きたいとは思わない。アン・バートンやサラ・ヴォーンなんかのほうが、ずっと気持ちがやわらかくなって、肩の凝りもとれる。

 でも、ひっかかりはずっと続いていた。80年代初め、子育ての真っ最中に、トニ・モリスンの『青い目が欲しい』やアリス・ウォーカーの『メリディアン』を読んだとき、ここにあるのは、ニーナ・シモンの歌声とおなじ水源から流れてきた声だ。ことばになった声だ、つながった! と思った。意識の下で脈々と流れてきた水脈が、あるとき、ふいに、もうひとつの水脈と合流する瞬間だった。わが人生の最初の混乱期から、すでに、10年以上のときが流れていた。
 

2008/07/02

わたしのジャズ修業(2)──ブラウン・ベイビー

ブラウン・ベイビー、ブラウン・ベイビー、
おまえが大きくなっていくときは、
たっぷりと入ったカップから飲んでほしいもんだね、
すっくと、まっすぐに立って、胸をはって、
はっきりと、まわりに聞こえる声でしゃべるんだよ。
ブラウン・ベイビー、ブラウン・ベイビー、
年月がたっていくだろ、そのときは、
頭をしっかり、高くあげるんだよ、
正しいことがちゃんと通る規則のなかで、生きられるようになるといいね、
おまえには、自由へつづく道を歩いてほしい、
ちっちゃな、茶色の赤ちゃん、
だからお眠り、ぐっすりとお眠り、
このわたしの腕のなかで、安全に、お眠り、
おまえのお父ちゃん、お母ちゃんがおまえを守ってくれるまで、
おまえに降りかかる危害から守ってくれるまで。
ブラウン・ベイビー、あたしが一度ももったことのないものを、
おまえが手にするようになるなら、あたしは嬉しいよ、
人という人の心から、憎しみという憎しみが全部消えて、
いい子のおまえが、もっとましな世のなかで生きることになるんならね。
ブラウン・ベイビー、ブラウン・ベイビー、ブラウン・ベイビー。
             (作詞作曲/オスカー・ブラウン・Jr.)
             ************
 
それがいつだったか、はっきりと覚えてはいない。しかし、どこでこの曲を耳にしたか、それはよく覚えている。青森だ。店の名は忘れた。
 何度目かの夏休みの帰省のときだ。当時、東京から北海道へ帰省するには、上野から夜行列車に乗り、夜明け近くに青森駅について、早朝の青函連絡船に乗り継ぐのが一般的だった。空路はまだまだ高嶺の花の時代。
 青函連絡船の出発時刻までに少し時間があったのか、あるいは、東京へ帰る往路に立ち寄ったのかもしれない。とにかく、そのジャズスポットまでの地図を片手に、青森の街を歩いたことがある。

 地下の細長い店だった。入った途端、ウーン、なかなか良い音が響いているな、と思った。奥のほうに「山水」のスピーカーが2つ、少し内側に顔を向けてならんでいた。中音域の伸びがすばらしいのでボーカル向きといわれた、前面が透かし彫りになった美しいスピーカーである。
 珈琲をたのみ、店内を見まわしていると、パリパリ、と針が盤面をこする音がして、いきなり、その声が聴こえてきた。下腹部に響く、すごい声。ニーナ・シモンの「ブラウン・ベイビー」だった。

 目をあげると、遠くカウンター近くにそのLPのジャケットが飾ってあった。「いまかけているアルバムです」という意味だ。Nina Simone at the Village Gate. そこまではよく覚えている。でも、それが赤と黒のルーレット盤のジャケットだったのかどうか、よく覚えていない。いま手許にあるのは、テイチクが英国版のシリーズを出したLP「ニーナ・シモン・コレクション第6集」で、白地に、歌うニーナの横顔が描かれたものだ。ルーレット盤は、CDとして、随分あとから買った。

 でも、最初のときに受けた衝撃の感覚だけは、何十年たったいまでも、曲を聴くたびにもどってくる。あれから歩いてきた自分の道も、ぼんやりと見えてくる。(つづく)

***** オリジナル歌詞 *****
Brown Baby ──by Oscar Brown Jr.

Brown baby, brown baby. 
As you grow old
I want you to drink from the plenty cup,
I want you to stand up tall and proud,
And I want you to speak up clear and loud,
Brown baby, brown baby, brown baby,
As years go by,
I want you to go with your head up high,
I want you to live by the justice code,
And I want you to walk down freedom's road,
You little brown baby,
So lie away, lie away sleeping,
Lie away safe in my arms,
Till your daddy and your mamma protect you
And keep you safe from harm.
Brown baby, it makes me glad
You're gonna have things that I never had,
When out of all men's hearts all hate is hurled.
Sweety, you're gonna live in a better world,
Brown baby, brown baby, brown baby.

わたしのジャズ修業(1)──樽

 ジャズを聴きはじめたのは1969年の秋ごろだったように思う。4月に入学した大学が、あれよ、あれよ、というまに全学ストライキに入り、授業がまったく行われなくなってから、ほぼ1年がすぎていた。この1年間は、いま振り返ってみても、わが人生における最大の混乱期のひとつであったと思う。
 北の田舎に帰っても、やることがなく、「現場」から引き離されているというもどかしさに、すぐに東京に舞い戻った記憶がある。授業がないので、この期間はすべて独学。なにを学んだかというと、授業ではやらないことのすべてだ。それが現在にいたるまでの人生の基礎、わたしの原型を形づくった、といっても過言ではない。そこで出会ったもののひとつ、それがジャズだった。

 「スイング・ジャーナル」という分厚い雑誌に載っているジャズスポットの名前と電話番号、住所などを、茶色いリングノート(いや、スパイラルノートかな)の裏表紙にびっしりと書き出し、まず山手線と中央線の駅近辺から、手当たり次第にのぞいていった。独りで行動した。あのころ、映画も、ジャズも、本屋も、よほど気のあう仲間でなければ、いっしょに行くということはなかった。なんでも、たいていは独りでやった。そこで自分がまず、なにを聴き、なにを感じたか、それをことばにすることに全力をあげたかった。他人の感想に耳をかたむける余裕がなかったのだろう。

 新宿のピットイン(表の店と裏のライブスポット)、DIGとDUG、アカシア(なぜかロールキャベツが名物)、渋谷のスウィング、デュエット、ついでにホーローびきのカップで珈琲が出てきたブラック・ホークも、お茶の水のNARU、四谷のイーグル、神保町の響とコンボ、新橋の裏通りのビル6Fにあるジャンク、吉祥寺のファンキー(ここはフロアによってかける音楽がちがって、4Fがヴォーカルだったと思う)、ロックが多いビバップ、あちこちのぞいてみたあと、肩の凝らないスポットを見つけた。立教通りの「樽」という店だ。

 池袋から外側へ歩いて30分ほどのところに住んでいたので、大学までの道すがら、ちょっと立ち寄ることができた。そんな利点もあったけれど、毎日のように通ったのは、その店にはとても素敵なウェイトレスのお姉さんがいたからだ。もの静かで、成熟した大人の雰囲気を醸し出しながら、わたしがいつも独りで入っていくとニコッと笑って、つっぱった感じの女学生に決して反感を抱いていないことを伝えてくれた。(当時は、ジャズ喫茶へ独りで入っていく女学生というのは、きわめてまれな存在だったのだ。女性客は、たいていは男性に連れられてやってくるか、面白半分に連れ立って入ってくるケースが多かった。)
 その店はレコードをじかにかけることもあったけれど、カウンターの横に大きなTEACのオープンリールデッキが設置されていて、銀色のリールが2個ゆっくりとまわっていた。音はすばらしかった。珈琲のおかわりが半額、というのもよかった。読みかけの本をテーブルに出して、2時間ほどねばるのが常だった。(つづく)
 

2008/01/12

「バラッズ & バートン」

 あれは1990年ころ、のことだったか。新宿タカノの斜め向かいの、大きな通りに面したカフェ・ラ・ミルで、友人と話をしているとき突然、店内に流れているBGMの歌声が耳に飛び込んできた。その瞬間、恥ずかしさが全身を包んだ。なぜ、恥ずかしさ、だったのだろう、といまも思う。説明しがたいあの感覚は、いったいなんだったのか。
 歌声の主はアン・バートン。むかし聴き慣れたアルバムの、むかし聴き慣れたあの曲。しかし、カフェ・ラ・ミルで聴いた歌声の、歌詞として聴こえてくることばには、わたしの記憶と微妙にぶれるものがあって、どうやら恥ずかしさの震源は、そのぶれから立ちのぼる違和感のようだった。

 ことば。歌詞。歌声。

 アン・バートンが歌う歌詞は、よく耳を澄ますと、英語を第一言語として育った人のものとはちがう。そのことにわたしはカフェ・ラ・ミルで初めて気づいた。もちろん彼女がオランダ人であることは知っていた。知ってはいたけれど、1970年代初頭に学生をやっていた者の耳には識別できなかった。そのことが恥ずかしかったのだろうか? いや、ちょっと違うな。
 オランダ人の英語。
 彼女の歌い方がたどたどしい、というわけではないのだけれど、そこにある微妙なぶれが、丁寧に歌いあげている分、逆に、微かな居心地のわるさを感じさせたのだ。ゆったりとした、一語一語をかみしめるようにして歌う彼女の歌が、あのころの自分の心に深く沁みたからだ、とか、まるで借りを返していないみたいな気分に襲われたからだ、とか、月並みな説明もいまならできる。荒れ野にひとり立っているような、どうしようもなく暗くて、青くて、日々をやみくもに通過していた時期。京都も大阪も、まったくもって異国だ! 東京だってほとんどそうだ! わたしは「ニホンジン」じゃなかったのか! と憤りながら送る、おぼつかない都会生活の一日、一日に、あの歌声がわたしを繋ぎ留めてくれた、ということも、いまならできる。

バラッズ & バートン」は日本で2枚目に出た珠玉のアルバムだ。でも、ルイス・ファン・ダイク・トリオをバックに歌うのは、これが最後。突き抜けてくる冴えたピアノの音は、残念ながら、このアルバム以降、聴こえてこなかった。

 今回あらためて気づいたのは、現在手に入るアン・バートンのCDはメイド・イン・ジャパンだということ。AmazonのUKサイトへ行っても、USサイトへ行っても、日本語の帯のついた写真が出てくる。つまり、日本人こそが彼女のアルバムの最大の購買層なのだ。
 日本とオランダの長くて深い、しかし、日本人からはほとんど忘れられてしまった関係によって形成されたなにかが、深部でたがいに引き合う心情として、いまも残っているのだろうか。ウーン、これはなかなか興味深い。

では、珠玉のバラードからA面の出だしの曲を。
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A LOVELY WAY TO SPEND AN EVENING

This is a lovely way to spend an evening
I can't think of anything
I'd rather do
This is a lovely way to spend an evening
I can't think of anyone
As handsome as you
A casual stroll through a garden
A kiss by a lazy lagoon
Catching the breath of moonlight
Humming our favorite tune
This is a lovely way
To spend an evening
I want to save
All my nights
And spend them with you
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2008/01/04

「ブルー・バートン」

 初めてステレオシステムを買ったのは1971年2月だった。学生時代に住んだ最初のアパート、四畳半という真四角のちいさな空間の、ただひとつの壁を背にしてならべられたコンポ。近くのお茶屋さんでもらってきた小ぶりの茶箱に──LPジャケットがぴったりおさまる大きさだった──クリーム色のペイントを重ね塗りし、それにSONYのレシーバー(プリメインアンプとチューナーが合体したもの)を置き、そのうえにベルトドライヴ方式のLPプレーヤーを積んで、両側に置いたシンダーブロックのうえにクライスラーのスピーカーをのせた。
 そのコンポで初めて聴いたLPが、この「ブルー・バートン」(録音:1967年7月、LPの日本発売:SONP 50220/1970年5月)だった。
 コンポを買ったばかりのころは、用があって外出してもすぐに、いそいそと帰宅して、ストーブを点ける間ももどかしく、この盤に針を落とした。
 冴えわたるタッチのルイス・ファン・ダイクのピアノをバックにして、ゆったりと深い響きが立ちあがる。3回目の東京の冬だった。コートを脱いで、お湯をわかすころにはA面は終わり、ディスクを裏返してまた針を落とす。熱い珈琲カップを手に腰をおろすと、針はすでにB面の4曲目「IN THE WEE SMALL HOURS OF THE MORNING」の溝を走っていた。
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IN THE WEE SMALL HOURS OF THE MORNING

When the sun is high
In the afternoon sky
You can always find something to do
But from dusk till dawn
As the clock ticks on
Something happens to you

In the wee small hours of the morning
While the whole wide world is fast asleep
You lie awake and think about the boy
And never ever think of counting sheep
When your lonely heart has learned its lesson
You'd be his if only he would call
In the wee small hours of the morning
That's the time you miss him most of all

When your lonely heart has learned its lesson
You'd be his if only he would call
In the wee small hours of the morning
That's the time you miss him most of all
That's the time you miss him most of all

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 アン・バートン/Ann Burton(1933〜89)はオランダ生まれのジャズシンガー。レコード盤がガリガリになるまで聴いたこのアルバムに、再度針を落としたのはほんの数年前、どっしりと重い MICRO のLPプレーヤーが、友人Oからまわってきたときだ。数百枚のLPが押し入れの天袋の奥深くしまい込まれてから、長い時間がたっていた。
 そのころ読みはじめたクッツェーの訳詩集「漕ぎ手たちのいる風景─オランダからの詩/Landscape with Rowers」のなかで、とりわけ気に入った詩人ハンス・ファファレーイ/Hans Feverey(1933〜1990)の生年が、アン・バートンと同年。偶然とはいえ、不思議な気がした。没年もわずか1年の差。まさに同時代、いや同世代のオランダ人だ。