2020/01/25

NELMがAMAZWIに:そしてジョン・クッツェーは80歳に!

北半球が真冬のいま、南半球は真夏だ。
 1940年2月9日、真夏のケープタウンでジョン・クッツェーは生まれた。そして今年2020年に、彼は80歳の誕生日を迎える。

 南アフリカの東ケープ州にグレアムズタウンという都市がある。ローズ大学の所在地だ。そこにAMAZWI (ズールー語でWORDの意味)という文学館ができる。ここは、NELM(National English Literature Museum)という文学館だった。今回あらたに改修されて総合的な施設に生まれ変わるらしい。そのこけら落としとして、クッツェーの誕生日とその翌日にフェスタを行う予定だとか。そこから招待状がきた。

 NELMはとても懐かしい名前だ。1990年にクッツェーの最初のビブリオグラフィーを発行したところで、Kevin Goddard と John Read による編集、序文はなんとあのTeresa Doveyが書いている。ラカンの心理的分析をもとにして、初めてまとまったクッツェー論を書いた人だ。

1990年刊行のNELMの冊子
 1991年に『マイケル・K』の訳書を作家に送ったとき、このビブリオグラフィーについて質問すると(当時は紙の手紙だった!)、ジョン・クッツェーは親切にこの冊子を送る手配をしてくれた。だから、いまもわたしの手元に1冊ある。右の写真がその表紙。
 2003年にノーベル文学賞を受賞したとき、彼の名前をジョン・マイケル・クッツェーだと伝えた「タイムズ紙」や「ニューヨークタイムズ紙」の誤情報に対して、あるいはそんな「北」の大手新聞の情報を鵜呑みにした「世界文学事典」の類まで、それは誤りだと主張するための貴重な資料となった。

 フェスタでクッツェーはいつものように朗読をするらしい。やっぱり新作のThe Death of Jesus からだろうな。

 南アフリカは2011年11月にケープタウンを訪れて以来ずっと、もう一度行ってみたいなあと思いつづけてきた土地だが、この年齢で真冬の東京からいきなり真夏の南アへ行くのは……体力的に……やっぱり。こういうときの自分の体力のなさは本当に歯がゆいけれど、残念ながら涙を飲んだ。

 このイベントのあとクッツェーはスペインに行ってなにやら賞を受けるらしい。クッツェーのスペイン語圏重視はまだまだ続くのだな。それからオランダにも行くのだろうか。70歳の誕生日はアムステルダムでコッセ・パブリッシャーが中心になって3日にわたるイベント「これがクッツェー?」が開催された。
 2009年秋に『サマータイム』が出てブッカー賞ファイナルにノミネートされた直後だったから、クッツェーは『サマータイム』から「マルゴ」の章を朗読したんだった。オランダで読む章がジョンのいとこの「マルゴ」の章であること、本文中に「We white」という表現があることなど、なるほど、とうなずける。クッツェーはまず最初にオランダ語でこれから読む内容についてちょっとコメントしている。オランダ語を話すクッツェー、めずらしい動画だ。再度ここにも埋め込んでおこう。



 そしてアムステルダムのこの2010年2月に開催された3日にわたるイベントでは、2018年の『モラルの話』に入ることになった短編「老女と猫たち」も朗読していたのだけれど、その動画が見当たらないのが残念!
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2020.1.28──The Old Woman and the Cats を朗読する動画は、じつはジャイプールでの朗読があるにはあるのだけれど、音割れがひどくておすすめできないのだった。

2020/01/23

シスネロス『マンゴー通り、ときどきさよなら』がTVに

備忘録のためにここにもシェアしとこ。


サンドラ・シスネロスの『マンゴー通り、ときどきさよなら』が、ついにTV番組になる。ずっと映画化やTV化に難色をしめしつづけてきたシソネロス自身が、総監督をつとめるというニュースです。

2020/01/18

ニューズウィークにも掲載されました

今日は朝から雪がちらちら。そしてだんだん本格的に降ってきて、風もでてきて雪の華が舞っています。窓ガラスを透して見る雪の華は美しいけれど、やっぱり寒い!

「物語はイズムを超える」翻訳家・くぼたのぞみと読み解くアフリカ文学の旗手・アディーチェ

Torus に載ったインタビューがニューズウィークにも掲載されました。タイトルが少し変わっています。「アフリカ文学の旗手」とあるので、「旗手」という語を調べてみました。手元の辞書にはこうあります。

 旗手:  団体しるししての旗を持つ役目の人。
      ②ある運動の先頭に立って活躍する人。

 ふむふむ。グループの先頭に「代表」として立ち、そのグループのサインのような旗を持つ人のことなんですね。たとえばオリンピックの開会式のときに各国の選手団の先頭に国旗を持って歩く人みたいな。
 だとしたら…………アディーチェ自身は、そう呼ばれることをどう思うだろうなあ、という素朴な疑問がちらりと脳裏をよぎり、「アフリカ文学」というくくりについても再度、考えました。

 こんなふうにタイトルはTorusのときから少し変わり、写真も1枚、入れ替わっていますが、インタビューの内容に変化はありません。最後のほうにクッツェーも出てきて、クッツェーとアディーチェが訳者にとって「補完しあう」関係であることもしっかり書かれています。より多くの人に読んでもらえると、嬉しい!


2020/01/02

エンプティネス──なにもない/ほっとする

 この写真はいったいなにを撮ったのか分からない……と装幀家に言われた写真がある。J・M・クッツェーの自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代──辺境からの三つの<自伝>』のカバーになった写真だ。装幀家とは間村俊一さんのことで、その発言を訳者に伝えてくれたのは編集者のMさんだった。

 忘れないうちに書いておこうと思う。

 写真は2011年11月にケープタウンへ出かけたときの1枚。内陸の町ヴスターをめざした日に、国道1号線を車で走っていたとき撮ったものだ。
 道の両側は見わたすかぎりのフェルト(平地というアフリカーンス語)、遠く低い山なみが続いていた。石ころだらけの渇いた赤土に、背の低いブッシュがまばらに生えている。それを見て、ああ、これがマイケル・K が旅した土地かと思った。J・M・クッツェーの『マイケル・K』の主人公は、ケープタウンからプリンスアルバートまで徒歩で行く。途中で母親が死に、軍に捕まって強制労働に駆り出されてからは、検問所のある幹線道路を避けて、ひたすら荒野を歩く。

textpublishing 版『マイケル・K』
なぜ翻訳者がこの写真をクッツェーの三部作カバーに使おうと思ったか、装幀家が首をかしげるのも無理はない。ご覧のとおり、がらんとして、中心になる「被写体」のようなものがないのだ。だから、なにを撮ろうとしたのか分からない、というのはその通り……でも、じつは、その「なにもないこと」が使った理由だったのだ。「がらんとした空漠=エンプティネス」に見えること、そこがポイントだった。ヨーロッパ植民者が「無主の地」と呼んだ理由もそこから透かし見えるかもしれない。
  
だが、先住の人たちにとっては、クッツェーが『White Writing』で書いていたように、見方はまったく異なっただろう。多種多様な植物の利用法、この土地に生息するさまざまな生き物。これはつい最近読んだトニ・モリスンの『他者の起源』でも指摘されていたことだ──「ジョゼフ・コンラッド、イサク・ディネセン、ソウル・ベロウ、アーネスト・ヘミングウェイの作品のなかで、未開のアフリカという型通りの西欧的視点に染まっていようが、それに抗い奮闘していようが、主人公たちは世界第二の巨大な大陸をからっぽと見なした」と。

 奥まりに「そのこと」が透かし見える、そんなカバーにしたかったのだといまは明言できる。二代、三代さかのぼれば、鬱蒼たる「原始林」で「無主の地」とされて「開拓」が進んだ北海道との類比を訳者が見ていたことは否定できない。

 この本を担当してくれた装幀家も編集者も、列島のなかではおだやかな地形といえる近畿地方の生まれで、訳者にとっては異郷に近い「京都」で青春を送った人たち、そのこともいまになってみると興味深い。がらんとして「なにもないこと=エンプティネス」にほっとする北国の田舎育ちの感覚と、それとはまったく異なる細やかな配慮の文化内で育った人たち。

若いころのジョン・クッツェーは、カルーと呼ばれる内陸にある父方の農場フューエルフォンテインを頻繁に訪ねている。早朝に屋敷を抜け出し、フェンスをいくつもくぐり抜けて、お昼ご飯の時間までフェルトを歩きまわっていたと、クッツェーのおじさんにあたる人の証言も残っている。この三部作のなかには、その農場のあるカルーへの作家の愛があふれているのだ。

 そしてできあがった三部作のカバーは、その「なにもない」写真のまんなかに白抜きの横長の箱を入れ込み、そこにタイトルと著訳者をはめ込んだすばらしい装幀になっていた。その「なにもないこと」のみごとな利用作法に脱帽した。

 こうして今年もまた、クッツェーで明ける。

2020/01/01

2020年が始まった

あけましておめでとうございます!


 今年はどんなことが起きるのか、どんな年になるのか、
願わくば、あの人にもこの人にも
ときには笑顔がこぼれる日々であってほしいもの。
心やさしい人たちの、
笑みが消えない社会にしたいもの。

スイートピーの花束はひと足早い誕生日プレゼント😊

わたしの周囲はめずらしく、にぎやかなお正月になりました。
年に1度のファミリー・レユニオン。
ちいさな人が加わって、にぎやかにぎやか。



今年もどうぞよろしくお願いいたします。