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2023/02/28

雪のなかの早春譜──2月も今日で終わり

西日本新聞にエッセイが載りました。2023年2月26日(日曜日)

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⛄️ 雪のなかの早春譜 ⛄️

生まれ育った北国から東京に移り住んで半世紀あまりが過ぎた。一月は一年でいちばん寒い季節で、寒さの底へ降りていく感じがスリリングだ。でも東京は陽の光も多い。気温の変化が安定しているためか仕事が進む。


 二月はそうはいかない。曇り空に風が吹く。紅梅白梅の香りにふっと気持ちが緩んでも、風は強い。そして冷たい。冷たい風に吹かれると、つい口からこぼれる歌がある──「早春譜」だ。 

©︎ Brian Smallshaw

 春は名のみの風の寒さや

 谷のうぐいす歌は思えど

 時にあらずと声も立てず


 初めて耳にしたのはいつだったのだろう。目を閉じると、台所仕事をしながら歌うメゾソプラノの母の声が微かに聞こえる。「早春譜」「庭の千草」「スコットランドの釣鐘草」、朗々と歌う声が雪に埋もれた家のなかに響いていた。


 テレビさえまだない時代、家のなかで耳にした音楽といえば、母の歌と、ラジオから流れる音楽と、父が我流で弾いたバイオリンくらいだったかもしれない。やがて兄といっしょにバイオリンを習いはじめ、バスや汽車を乗り継ぎ遠くまで通った。


 田舎では家と家のあいだがずいぶん離れていたので、大声で歌も歌えたし、バイオリンの練習も遠慮なくできた。そう気づいたのは十八歳で東京に住みはじめてからだ。

 東京という街は家と家の間隔がなんて近いんだろうと最初は緊張した。建物群のあいだを走る狭い通路を「路地」と呼ぶことを知った。それはとても濃密な空間で、凍える手をポケットに突っ込んで足繁く通ったジャズ喫茶も、たいてい路地の一角にあった。


 でも「早春譜」とともに真っ先に目に浮かんでくる光景は、深く積もった雪原なのだ。

 北海道の雪は日本海側の雪にくらべて乾いていると言われる。たしかに、粉雪がひたすら降り積もった。晴れた日は、雪原にスカーンと空が青く、遠く広がる。積雪量の多い地域に住んでいたため、雪かきが大変だった。吹雪くと一階の窓は外が見えなくなる。二月はまだ正真正銘の真冬だった。温暖化で雪の量が減ってきたとはいえ、先日も知人から、雪下ろしをしていて脚立から落ちたという話を聞いたばかり。


 そういえば小学生のころ、春が近づくと学校で告げられる「注意事項」があった──軒下を歩かないこと。太い氷柱が垂れ下がる屋根の庇から、積もり積もった雪が春近い日差しに溶けて、ザザザザーッ、ズシン! と地響きを立てて落ちる。子供はあっけなく下敷きになる。大人だって生き埋めになりかねない。



 北国では雪が半年近く「そこにある」。そんな雪の記憶はだんだん遠くなっていくけれど、冬はいまも雪の恋しい季節だ。空から舞い落ちる雪片の美しさは比類ない。ミトンの手にふわりと受けた雪のひとひらが、そのまま結晶を形づくる不思議に、溶けるのを惜しんで見入った。


 東京にも以前はよく雪が降った。立春のころとか、三月に牡丹雪とか。今年はまだ降らない。降るかな、降るかな、と曇り空を今日も見あげる──と書いた翌日、東京に雪が降った。

 そしてあっけなく溶けた。


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2023/02/11

サイモンズタウンで朗読するクッツェー、クロッホ、アグアルーザ

 2月10日、サイモンズタウンの文学フェアで朗読するJ.M.クッツェーらの情報がtwitter (Book on the Bay :主催者の方ですね) にアップされました。ここでも記録のためにシェアします。

2023.2.10  @サイモンズタウンのSt Francis 教会

読んだのは「短いメモワール」──新作でしょうか──で、子どものころの先生について回想しながら、「自分は非常に静かな子どもだった。不自然なほど静かだった、といまは思う」と語ったとか。

アンキー・クロッホ

 なんとこの文学フェアには、クッツェーやアンキー・クロッホのほかにジョゼ・アグアルーザも参加しています。すでに木下眞穂さんの翻訳『忘却についての一般論』(白水社)で日本にも紹介されているアンゴラ出身の作家です。アンゴラってナミビアの北に位置する南部アフリカの大きな国です。

 作家はその著作『忘却についての一般論/Teoria Geral do Esquecimento』(A General Theory of Oblivion)から朗読。アグアルーザを紹介したデイヴィッド・アトウェルは、彼の作品を「乾いた根に降る雨のよう」だと述べたとか。

アグアルーザ


 イベントの会場となった聖フランシス教会はこんな感じ↓です。2月の暑い日の夕べに、朗読を聞きに教会に集まった人たち、そして、中央やや左に立って白いシャツの背中を見せているのがジョン・クッツェーですね。元気そうで何よりです。

追記:2021.2.15   お知らせしたサイモンズタウンのイベント、ここで詳細なリポートが読めます。サイモンズタウン・ハイスクールのバンドによる音楽付き!(ジョン・クッツェーがめずしく、 Gパンをはいてます!)

2022/03/13

メジロがやってきた

 昨日と今日はポカポカ陽気で、春うららと言いたい気分になる。今日は朝から、ぴいぴいぴいと賑やかなさえずりが聞こえる。窓の向こうをみると、濃い桃色の花がふくらんで、いよいよ咲くかな、咲くかなと思わせる緋寒桜。

「経済効果」だかなんだか知らないけれど、ここ数年やたら枝を伐られる木々たち。それでもやってくる鳥たち。それを待っている人たち。

 今朝はメジロがやってきた。スマホなんか持ってないので、古いデジカメで手ブレを防ぎながらようやく撮ったメジロ。緋寒桜のふくらんだ蕾をしきりについばんでいる。

 メジロはウグイス色で、ウグイスは渋い灰色、というのは実際に鳥を見てあらためて気づいたことだった。もちろん、すべて東京にきてから得た知識だ。蘇芳色なんてのも、22歳か23歳のころ知った「外国語」に近い感覚の、「内地」でしか目にできない色を示すことばだった。

 今朝の朝日新聞「折々のことば」に、『山羊と水葬』が引用されていた。「サイロのある家」から。あれは窓ガラスを拭いているときの話だったな。


2022/02/10

読売新聞 2月10日朝刊にインタビュー記事が掲載されました


 2月10日の読売新聞朝刊にインタビュー「南ア作家 読み解き続け」が掲載されました。基本的にメールによるインタビューをもとにしたものです。

 2月1日に発表された読売文学賞。「研究・翻訳賞」を受賞したわたしは、今日10日の最後の回に登場いたしました。記者の石田汗太さんが熱心に拙著、拙訳を読み込み、『J・M・クッツェーと真実』の内容や詩集『記憶のゆきを踏んで』からの引用を織り混ぜて、コンパクトながら要点をしっかり盛り込んで仕上げてくれました。

 さまざまな事情から直接お会いできませんでしたが、記事は骨太の内容。ちょうど前日9日に誕生日を迎えたジョン・クッツェーのお祝いメールのことばで結ばれていて、嬉しい。ありがとうございました。

2022/01/28

図書新聞に『J・M・クッツェーと真実』『山羊と水葬』の書評が!

 図書新聞2022年2月5日号(書店発売は1月29日)の1面に、『J・M・クッツェーと真実』『山羊と水葬』の書評が掲載されました。

 評者は、『J・M・クッツェーと真実』が吉田恭子さん、『山羊と水葬』が木村友祐さんです。いずれも丁寧に読み込んで、しっかりと書いてくださった文章で、感激です。とても嬉しい。

 Merci beaucoup! 🤗。

2022/01/11

「クロワッサン」で『山羊と水葬』が紹介されました

 1月11日発売の「クロワッサン」の Book というページに『山羊と水葬』(書肆侃侃房)が紹介されています。それは、こんなふうに始まります。

──海外文学、それもちょっと遠い国々の小説に興味がある人なら、この人の名前に見覚えがあるはずだ……主にアフリカの文学をまるで近所の友人の話を聞いているかのように滑らかに、そしていつの間にかその世界に引きこんでしまう筆致で訳す……

クッツェーの自伝的三部作を訳しながらケープタウンやヴスターを訪れたときのエピソードと、北海道で育ったころの思い出を重ねて読み解きながら、この本の魅力を伝えてくれています。Merci! Kさん!

 右下に書籍の大きな写真、左上にはMさんが撮ってくれた著者写真も。手にしているスイートピーの花束は、3日早い誕生日に、Hさんからプレゼントされたものでした。


 そして向かい側のページには、なんと、関口涼子さんが訳したシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『離れがたき二人』(早川書房)の写真と評が! なんという偶然! 16歳のころ、サルトルと来日したボーヴォワールの『第二の性』を夢中で読んだ思い出も『山羊と水葬』には、ちょっぴり出てくるのでした。

2021/10/27

『山羊と水葬』(書肆侃侃房)ができました!

 今月は新著のラッシュ。自著が2冊、翻訳が1冊、合計3冊も出るのだ。出たのだ。こんなことは最初で、おそらく最後。

 そのうちの3冊目、『山羊と水葬』(書肆侃侃房刊)が今日とどいた。


 北海道で育ったころの記憶、東京へ出てきた直後の出来事、失語感覚のなかで詩を書いてジャズを聴き、生き延びて、新しい家族をえて、翻訳をこころざし、アフリカなどまで行ってしまって。何度も思い返し、思い直し、ジグザグに記憶を上書きしながら、長らく暖めてきたメモワールが『山羊と水葬』という本になりました。

 フロントカバーの素敵な絵を描いてくれたのは尾柳佳枝さん。帯文を書いてくれたのは岸本佐知子さん。ありがとうございました。データ処理、編集、校正、印刷、製本、いろんな作業を通して本は出来上がる。出来上がってからもまた広報や営業の方々の手を経て、書店を通して読者のところへ届けられる。たった1冊の本が出来上がるまでに、どれほどの人たちの手を経て、どれほどの努力に支えられているだろう。仕上がってきた本を見るたびに、しみじみありがたいと思う。企画編集の最初から最後まで大変お世話になったTさん、本当にありがとうございました。

山羊と水葬』は10月28日発売です。あ、明日ですね!

 新しい本を手にして、秋はしみじみ更けていく。

 

2021/09/23

メモワール『山羊と水葬』(書肆侃侃房)


暖めてきたメモワールが、ついに本になりました。

 『山羊と水葬』(書肆侃侃房)

書肆侃侃房から10月末の発売です。

帯が、もう、とっても豪華。ざっくざっく、なんです。書いてくださったのは、なんと岸本佐知子さん!

 版元サイトに書影と、帯のコピーなどが一気に出ました。よかったら、ぜひ訪ねてみてください。

『山羊と水葬』(書肆侃侃房) です。

2021/09/01

エッセイ集『J・M・クッツェーと真実』と訳書『少年時代の写真』

 日本語で書かれた単著としては初めて(と思われる)クッツェー論、というか、クッツェーをめぐるエッセイ集が出ます。書籍情報がネット上に載ったので、あらためてアップします。

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 以前、この夏は訳書2冊、自著2冊を抱えて、と書いた。次々とやってきては返送されていくゲラたち。

 1冊目のメモワール『山羊と水葬』のゲラは、2校まで終わって戻したところ。でも、まだまだ加筆訂正が入りそうなので、3校待ち。これは書肆侃侃房から刊行の予定だ。

 他に、訳書が1冊、自著が1冊。

  J・M・クッツェーの『少年時代の写真』

  エッセイ集『J・M・クッツェーと真実』


 2014年に発見されて2017年に一部だけ公開され、2020年に書籍化されたクッツェーの『少年時代の写真』については、これまでに何度か触れてきたけれど、いよいよ日本語訳が出る。

 それといっしょに、クッツェーを翻訳してきたプロセスを振り返って、まとめたエッセイ集も出る。一人の書き手による一冊まるごと「クッツェー論」は多分これが初めてだと思う。この2冊は白水社から10月に同時刊行される。

 エッセイ集『J・M・クッツェーと真実』には、1988年にクッツェー作品と出会ったころから現在までの、クッツェー翻訳をめぐるすべてを書いた。そういうと大袈裟だけれど、ほとんどそんな気分で書きあげた。個々の作品について論じる文章もあるし、南アフリカの厄介な英語、南ア社会内の「人種」をめぐるごく平易な語の奥に隠れた意味合いなどトリビアっぽいもの、ケープタウン旅行やアデレードの作家宅を訪れたときの話、クッツェー来日時のエピソードなどを織り交ぜてまとめた。それでも、ああ、あれも書いてなかった、これも書けばよかった、と今になって思ったりもするのだが。 

 それにしても、なぜかくも長きにわたりクッツェーを訳してきたのか、問いはふつふつと湧いてくる。それをエピローグとして最後に置いた。何度か書きなおしていると、あるとき、指先からことばが溢れるように出てきて、一気に膨らみ、止まらなくなった。それは著者自身の家族の物語だった。

『少年時代』を訳したとき作品内から聞こえてきた声によって、自分自身が幼いころや若いころの記憶と向き合わなきゃ、向き合いたい、そう思ったことに改めて気づいたのだ。ハッとなった。そこで思い切って自分の記憶を切開した。それが圧縮されてエピローグになった。

 最初にあげたメモワール『山羊と水葬』には、言ってみれば、その圧縮部分からぷつぷつと空に向かって膨らんだ吹き出しのように、40あまりの話が連なっている。折々に書いてきたコラム、個々のシーンの素描、日常の記憶の断片などが集められている。だから、これは姉妹編のようなものだ。この『山羊と水葬』もまた、クッツェー本2冊とほぼ同時に刊行されることになるだろう。

 ゲラを手にすると、目にすると、ああ、本当に本になるのだなあとしみじみ思う。この嬉しさは他に比べるものがない。この秋は、文字通り、蔵出しの秋となりそう。

 アディーチェの『パープル・ハイビスカス』もまた、現在、蔵のなかで熟成中です。


*カメラがPCと接続不能になって写真をアップできないため、大好きなクレーの絵を添える。

 


2021/06/25

訳書2冊、自著2冊、合計4冊の本を抱えて夏を越す

 ブログからずいぶん遠ざかっていたけれど、復帰します。


「東京コロナオリンピック 2021」とも言えそうな凄まじいイベントがこの国で進行していますが、感染症の専門家たちが何をいっても正面から問題と向き合おうとせず、適切な対策を講じないまま、シナリオありきの物事の進め方に、誰もが不満、不安、そしていまや生命を脅かされそうな恐怖さえ感じるようになって、本当にどうなるのかと思います。

 でも、そんな時、目の前の細切れ情報にふりまわされずに、淡々と、冷静に、日々の暮らしをまっとうしたいもの。それには、facebook や twitter などの SNS だけでは非常にバランスが悪い。こういうブログで文章を書くことで、考えていることが整理され、気持ちも落ち着く、そうやってブログを書いてきたんじゃなかったかな、と思いなおしました。あるいは好きな本を読むのもまた、その効用が大きいことを思い出しています。

 短いメッセージに「いいね」や「ツイート」などで反応し、「シェア」することで元の情報に依存したまま自分のことばで書くことをどこかではしょっていないだろうか、と思い至ったのです。まあ、ちょっと忙しかったこともあるのですが。

 現在、翻訳書が2冊、自著が2冊、同時進行で動いています。翻訳は以前も書きましたが、J・M・クッツェーの『少年時代の写真』と、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの初作『パープル・ハイビスカス』。自著はもう少ししてから具体的にお披露目しますが、1冊はコアなエッセイ集、もう1冊はどちらかというと柔らかい文章で書いたメモワールです。昨年は「仕込みの年」、今年は「蔵出しの年」となりそうです。

 今年もベランダの植木鉢とプランターに朝顔のタネを蒔きました。早々と発芽して、梅雨空をものともせずにベランダの天井を目指して蔓を伸ばしています。毎朝、目が覚めるとまず朝顔たちのことを思います。昨日立てたポールに蔓は巻きついたかな? どこまで伸びたかな? 最初の花はいつかな? 

 今年もまた朝顔と、そして、4冊の本といっしょに夏を越します。


*写真は昨年の朝顔*


2020/09/29

新しいマシンの設定完了!

9月22日にとどいた新しいMacBook Proの設定に1週間かかった。もともと得意じゃないマシンの扱いはいつになっても慣れない。

 それでも2000年のお正月に始めたPC生活も20年あまりになった。1999年12月暮れに秋葉原まで出かけて、あれこれ指導を受けながら買い込んだ中古のMacは、OSが8.5だった。それでも23万くらいしたのだ。すぐにOS8.6に切り替えて数年使った。当時はまだコントロールパネルから色々設定しなければいけないタイプで、本当に苦労したものだ。

 OS10になったあたりから操作方法が大きく変わってWindowsに近づいた。2台目の中古はこのタイプだった。2005年1月に初めてピカピカの新品を買った。これはずいぶん使った。4台目、5台目と進んで、この間にはケープタウンとアデレードへの旅行用にMacBook Airも2台買って、今回のは8台目だけれど、家人のための初めてのレティナ型を入れると通算9台目になるかな。

 今年は7月の長雨、8月の猛暑、そして9月に入ったら一気に気温が下がって、すっかり秋で、移りゆくあわいを楽しむなどという悠長な気分にはなれない。そのあいだに朝顔は毎日、毎日、たっぷりと花をつけて、まだ咲くの? まだ咲くの? と毎朝ながめやったものだけれど、さすがに今日は最後の一輪。葉っぱもかなり黄ばんで落ちた。

 写真をきれいにアップする方法がまだわからないけれど、現在のPCのデスクトップに使うことにした写真を貼り付けておく。2011年11月にケープタウンへ行ったときに撮った「希望峰」の写真だ。カリフォルニアのサンタカタリナ島のごつい岩肌よりもこっちがいいなと。右手が大西洋、左手がインド洋。絶壁に打ち寄せて砕ける白い波と、南極に向かって遠く霞む水平線の上に、ふわふわと漂う雲が好き。

2019/09/23

札幌北1条教会とヴスターのオランダ改革派教会

3日間の札幌への旅を終えて帰京したら、また台風の余波で、なんという湿気。札幌は気温が20度前後、湿度が50%を切るという快適な季節。ああ、こういう気候のなかでわたしは自己形成したのだと再確認する旅になった。その事実は動かしがたい。東京で感じる気管支の苦しさも否定しがたく目の前にある。

現在の札幌北1条教会
1919年生まれの母が15歳か16歳のときに洗礼を受けたという札幌北1条教会の写真を撮ってきた。洗礼を受けたのは、彼女が北海道大学医学部付属看護学校に入学したころだ。もちろん教会の建物は建て替えられただろうが、とんがった部分を見ながら、植民地に教会を建てる人たちのあこがれは、やっぱり「天」だったんだと思う(いや尖塔をもつ教会は世界中にあるけど……)。

「天にまします我らの神よ、願わくば……」で始まる主の祈りを、何度も聞かされながら、10歳まで通った滝川の教会には十字架はあってもトンガリはなかったような……。そこでふと浮かんできたのは、南アフリカのヴスターで撮った写真だ。

 内陸の町ヴスターのオランダ改革派教会の写真と、札幌北1条教会の写真をならべてみる。光と影の具合が不思議と似ているのだ。空気が乾いているせいか、とにかく空が青い。そして空に向かう建物が白い。ふむ。どちらも、からっとした空気のせいで光がとても美しい。

少年ジョンが8-10歳を過ごしたヴスターの教会
建築様式も違うし、建った時代も違うけれど、「決して人が住んでいなかったわけではない土地」を「無主の地」とみなして、先住の人たちを征服、支配するという、世界の植民地化を下支えした思想のひとつだった「キリスト教」に思いをはせる。

 イギリスからアメリカ経由で北海道へ入っていったプロテスタントのイギリス国教会長老派。やけに先鋭化して純化されたアメリカ開拓精神に「精神一到何事かならざらん」的な武士道がミックスされて、「北の大地」で勢いをつけたキリスト教の会派。

北1条教会の近くで摘んだオンコの実

 Boys, be ambitious. 
 少年たちよ野心的であれ。

(「少年よ、大志を抱け」は当時、近代国家形成をひた走る日本が「開拓」精神との合体を狙った意図的誤訳ですね。そう語ったと言われるクラーク博士は農学ではなく化学が専門で、札幌に滞在したのはわずか1年足らずだったそうだ。その彼の滞在が北海道帝国大学の存在基盤に大きな影響を残した。戦前は理系しかなかったというのも、いかにも、である。)
 
北1条教会の庭には母の好きだったダリアが
プロテスタント思想に染まった母は、というか、むしろ母は浄土真宗の寺が多い開拓村や一攫千金をめざす流れ者が集まる炭鉱の、すさまじい男尊女卑社会で売り買いされるモノに近い存在だった「女」であることを拒否して、「人間として」生き延びるための思想をキリスト教思想の最良の部分から吸収していったのだ。しかし、1930年代後半の日本の医学、医療の現場にいたため、当然ながら、優生学的なものの見方を批判する力はなかったし、宗教においてもまた宗派性から無縁ではなかった。

 カトリックは免罪符なんてのをこしらえて金儲けをした堕落したキリスト教だと教えられたらしく、娘のわたしも母からそう教えられた。イエズス会など権力への野心を積極的に具現化して植民地征服に強烈な力を発揮したカトリックは、しかし、思想的には妙に、とんがってない世俗を抱き込むふところの深さがあったと見ることも可能だ。人間の愚かさをも抱き込むように、ガス抜き手法として「告解」という制度を作ったカトリック……なんて考えられるようになったのはずいぶん後だったけれど。

11月刊のオランダ語版『イエスの死』
ヴスターのオランダ改革派教会の建物は広場に面して屹立する尖塔をいただいていた。少年ジョンの家族は教会には行かない人たちだったとはいえ、J・M・クッツェーはカルヴァン派の支配する政教一致の当時の南アフリカで教育を受けて育った。全人口の13%にすぎない白人が、神から選ばれた者として、有色の「人種」より優れていることを1994年まで是とした社会のなかで、長いあいだ暮らしたのだ。
 だから、作家生活の締めに彼が選んだテーマが「イエス」であることはとても興味深い。ユダヤ・キリスト教文化の選民思想の染み付いた教育環境、生育環境で自己形成したことを自省的に検証しながら作品を書いているのだろう。
 クッツェーにとって宗教、思想、哲学、文学、教育のすべてが、このイエスの三部作に凝縮しているのはまちがいない。その事実は否定しがたく目の前にある。

2019/05/02

ドレスは揺れても、髪が揺れない

「水牛」にひっさしぶりに書きました。タイトルは

 難破船とヴァルタン(星人?)

シルヴィです。深夜に「アイドルを探せ」という曲を聞いたら、急に思い出したのです。なにを? ふふふ、ぜひ、「水牛」をみてね!




2016/01/31

今日はフランツ・シューベルトの誕生日

今日はフランツ・ペーター・シューベルトの誕生日だとMさんに教えてもらって、そうか、と膝をたたいて郵便ポストまで行くと、届いていたCD。

 25日に高橋悠治+波多野睦美のシューベルトの「冬の旅」を聴いて以来、ドイツ語の音に引っ張られつづけている。YOUTUBEに飽き足らず、ついにCDを購入。

『冬の旅』
ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウ:歌
ジェラルド・ムーア:ピアノ

 中学時代に聴いたコンビだ。録音は1972年3月、ベルリン、とあるから、最初に聴いた音源よりはかなりあとのテイクだ。1972年の冬は札幌オリンピックのアルバイトなどをしていたころで、クラシック音楽からかなり離れていた。

 いま後ろで鳴っている。飽きない。計算しつくされたパフォーマンス。ディースカウは1925年5月生まれだから、彼が46歳のときの録音か。

 今日が誕生日だというフランツ・シューベルトは1797年1月31日、モラビアから移住した農夫の息子を父(教師)に、13人兄弟姉妹の12人目に、当時神聖ローマ帝国の首都ヴィーンで生まれている(Wiki情報)。没したのは1828年11月、おなじヴィーンだが、このときはオーストリア帝国の首都になっていた。享年なんと31歳。
 
 むかし音楽室にクラシック音楽の、つまりは、西欧古典音楽の作曲家の肖像がずらりと額に入れられて飾ってあったけれど、シューベルトは右上の写真のような鼻眼鏡のプロフィールだった。中学生にとっては、完全にオジサンだ。

 いまにしてみれば、31歳など青年に近い。当然、このプロフィールは31歳以前のものだ。だからだろうか、あえておじさん臭を抜いた、左の、先日のコンサートに使われていたイケメン風のスケッチにはにやりとなった。まるでどこぞのアニメに出てきそうな顔ではないか(笑)。
 自分の家をもたず、妻を娶ることもなく、天才シューベルトは31歳で病死した。だが、友人にだけは恵まれていたと聞く。
 この「天才」という概念を生み出した「西欧ロマン主義」まっただなかの、暗い時代に、シューベルトは生きた人だった。

******************
後記(2016.2.2):上の若者のプロフィールはどうやらシューベルトではないらしい、ということがここでわかった。詳しくはこちらで。

2015/08/03

パウル・クレーと夏日記(5)

小学生のころ、夏休みに書かされた絵日記というのは、案外めんどうな宿題だった。毎日こつこつと書くというのが、どうも苦手で、数日まとめて書く、あとから思い出して書く、というのがどうしても何箇所か入ってくる。北海道の夏休みは内地とちがって、7月末から8月のなかばまでで、約25日。冬休みもおなじように25日。だから25日分の絵日記にまず日付だけを入れてしまう。それからが厄介だ。

 ほかの宿題はたいがいまとめて2日か3日でやっつけてしまった。それも7月中に。だから残りの時間は絵日記だけつければいい。いわば自由時間たっぷりの日々であるはずだったが、これが忘れてしまう。あの日、なにをしたんだっけ、というのが思い出せなくて困った。困りついでにお話をつくってしまうこともままあったなあ。それがそもそもの始まりだったのだろうか。



 さて今日のクレーは、暗闇である。暗闇のなかに真っ赤な三日月と黄色い満月が両方浮かんでいる。満月のなかになにやら動物が浮かんでいるような……。この色合いは大好きな組み合わせだ。赤い水差し、青い容器のはしっこ、黄色い樹木にオレンジのような実がなって。背景の黒がすてき。この黒が深い。記憶の深さを彷彿とさせる。

2014/11/01

決定的な亀裂──「水牛のように 11月号」

 八巻美恵さんが編集しているウェブマガジン「水牛のように 11月号」に、短い
メモワールをひとつ書きました。

<決定的な亀裂>

 なんだか大仰なタイトルですが、案外、あたっているのかもしれません。笑って読んでいただけたら嬉しいナ。


2014/10/01

つんのめるようなエンプティネス──「水牛のように」10月号

日中は暑いくらいの陽射しで、秋晴れの日がつづいたのは昨日までで、今朝は曇り、そしていまは雨が降っています。10月になりました。
「水牛のように」に今月も文を寄せました。タイトルは:

 つんのめるようなエンプティネス

中身は読んでのお楽しみ!

 10月から福島第一原発1号機の被いが撤去される、というニュースが流れています。つまり東京、神奈川近辺にも細かい粉塵がまた流れてくる可能性が高いということです。マスクを買い置きして、風の強い日はしっかり防御、洗濯物もできれば室内に干すほうが賢明かもしれません。とくに小さな子供の衣服などは・・・。

 それにしても、正確なニュースが流れなくなり、みんな少しずつ疲れてきて、気にするほうが病みそうだ、という気分が広がっているのでしょうか。でも、こんもりとしたキンモクセイの樹木からはずいぶん遠くまで香りが漂ってきます。なぜかそういう、植物や動物たちに励まされる秋。人間だって生き物のはしくれですから、愚かしい生き物に成り果ててはいるけれど、なんとか他の生き物にあたえるダメージを最小限に食い止めながら、ささやかに生き延びる手だてを打ちたいもの。

 香港からも、台湾からも、若い人たちのまっすぐなメッセージが届けられ、それに唱和する中国本土の若者たちの映像も facebook や twitter に流れてきて、励まされることしきりです。
 愚かしくも恥知らずな、この土地の為政者たちの姿に力萎えてばかりもいられません! 受け取られたメッセージには、いつだって、応答しつづけなければならないのですから。

 ひさびさにブログの背景画像や色遣いなどを変えました。背景の写真は、3年前にケープタウンへ旅したときに、内陸部へ向かった道中で撮影したブッシュのなかの羊です。
 なぜか、やり方を忘れてしまって、ブログタイトルの位置が中央にならない。あれ? ん? 誰か教えて!

2014/03/01

へろへろOL時代 ──「水牛のように 3月号」

遠いむかしといっても「むかし」にはいろいろある。

「水牛のように 3月号」に「へろへろOL時代」を書いた。決して長くはない時間だったけれど、わたしの20代にとって重い記憶を残した経験だった。その後、何度も舗道を駆ける夢を見たほどだから。

 記憶の断片をつなぎあわせてひとつの物語ができても、必ずしもその物語が実際に起きた出来事によって成り立っているとはかぎらない。細部には無数の記憶違いや、あいまいな記憶をことばのピンで留めるためにフィクション化による書き替え、書き加えをすることがある。無意識にやっている場合もある。できるかぎり、意識化し、記憶する自分に批判的であろうとする人もいる。自分はどっちなんだろう、とふと思う。だが、自分の記憶に対する疑義と再定着化は、書いていて新鮮だ。

2014/01/03

2013/12/25

記憶のゆきを踏むクリスマス

去年のクリスマスは何を書いたんだっけ? 

 少しもどって見てみると、自分の両親がにわかクリスチャンだったこと(祖父母は熱心な仏教徒だったのに、彼らだけクリスチャンだった)とか、10歳ころまではクリスマスは教会へ行ったこと、雪のなかを父が馬橇に載せて運んできた木でクリスマスツリーをつくったこと、狭い煙突のなかをサンタクロースがどうやって通ってきたのか不思議でならなかったこと、などなど、思い出していたんだ。


 今年は、わたしが親になり、3人の子どもたちといっしょに過ごしたクリスマスのことを、成人した娘たちが思い出して、あのときは・・・と、わたしたち親に語ってくれた。これはまたこれで、とても面白い体験だ。

 大人になったとき、自分の子ども時代のクリスマスの思い出をだれかに語ることは、なかなか幸せなことだと思う。プレゼントをもらうばかりだった子どものころ、あげたりもらったりする若者時代、ひたすら小さな人たちの枕元にプレゼントをこっそり置く親の時代、そういう喧噪を卒業して淡々と記憶を楽しむ時代、と立場が変わることで楽しみ方も変化する。
 
 
記憶というのは、悲しいことも楽しいことも、苦しんだことも喜んだことも、体験そのものが分離不可能なシャッフル状態の断片であり、深い泉であり、深い闇なのだと思う。それを人は何度も、何度も思い出し、知らず知らずこちらも変化し、それと同時に記憶そのものに少し変化を加えながら、磨いていくのだろうか。新雪に一歩一歩、足を踏み込むように。

 今日も、記憶のゆきを踏んでいく。

**写真はネットから拝借しました。Merci!**