初夏のケープタウンから初冬の東京にもどると、「アフンルパル通信」12号がとどいていました。札幌という地で出版されている、志の高いリトルマガジンです。年2回の発行となり、ちょっと厚めで、中身も濃い。お薦めです。
今号の執筆者は以下の通り。
ホンマタカシ 管啓次郎 くぼたのぞみ 長屋のり子 前野久美子 関口涼子 小川基 かわなかのぶひろ 宇波彰 田中庸介 佐藤雄一 山田航 中島岳志
上質紙に写真が何枚もあり、全30ページ、この内容で500円はとてもお買い得です。お求めは、書肆吉成へ。
初夏のケープタウンから初冬の東京にもどると、「アフンルパル通信」12号がとどいていました。札幌という地で出版されている、志の高いリトルマガジンです。
11月25日午後5時すぎ(日本時間)に成田に着いた。帰りのフライトは、ケープタウンからドバイまでは比較的座席の広い機種で快適に過ごしたが、ドバイから成田まではまたまた狭い座席。ドバイの乗り換え時間の1.5時間は、薄暗いシャトルバスに乗っているか(この時間がじつに長く感じられた)、手荷物を引いて延々と迷路のような空港内を移動するだけで終わった。
ようやく乗り継ぎ便のゲートにたどりついたら即刻、ボーディング。時刻は南アフリカ時間でもうすぐ真夜中、ドバイ時間で午前1時半。眠いけれど眠れない、という時間をやりすごし、機内食を一回パスして、耳栓をして仮眠。この長時間飛行がなければ、もう一度いきたいケープタウンなのだが・・・。![]() |
| ランガの案内所 |
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| 広い、広い、カエリチャ |
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| カッスルの入口 |




まず、どこにでもいるというred-winged starling。そして走る車の前に出てくるバブーン、道の横を歩いていく家族連れのダチョウ(黒いのが雄)。
昨日(11月20日/日曜日)は、少年ジョンがヴスターからケープタウンに引っ越して住んだ通りや、汽車に乗ってカレッジに通ったプラムステッド駅などを訪ねた。
『Summertime』に出てくるトカイ通りも車で走ってみた。たしかに幅の広い大きな通りで、高速道路からおりた警察のヴァンがポルスモア刑務所まで通ったところ、いまも通るところだ。
セントヘレナに流されたナポレオンが買い占めて、毎日のように飲んだといわれる極上のワインをつくっているところである。このワイン、以前このブログでも紹介したボードレールの『悪の華』におさめられた詩編「されど満たされぬまま/ SED NON SATIATA」に「コンスタンスの葡萄酒より、阿片より、ニュイの葡萄酒より/愛がパヴァーヌを舞う、おまえの口の妙薬が好きだ」と詠われたもので、19世紀からすでにヨーロッパでは名高いワインだったことがわかる。
昨日(付記:南アフリカ時間で11月19日/土曜日)は強い初夏の日差しのなか、内陸の町ヴスターを目指した。少年ジョンが8歳から12歳まで暮らした町だ。彼が住んだという住所掲示も、ユーカリの並木もあった。掲示はすべてアフリカーンス語。
それからさらに内陸へ。カルーの入り口を国道一号線でまっしぐらに進み、Touwsrivier へ。タウスリヴィエル、と読むのだろうか。そこからUターン。
あたりは灌木、低木のブッシュが点在する赤土のフェルト。車を降りて写真を撮っていると羊が近くまでよってきた。
細身のアレックスさんというその方は学生時代クッツェーさんの授業をとったことがあるという人で、『Youth』の第一章に出てくる図書館のエピソードについて話すと、わざわざいまはもう使われていない図書館の迷路のような古い部屋や地下部分を案内してくれた。
『デイヴィッドの物語』の最後のほうに出てくるローズ・メモリアルのカフェでランチ。「白人中産階級のモフィーな自然食レストラン」として知られる場所である。たしかに、食事をしているのはたいてい白人で(黒人女性もひとりいたかな? でも連れは白人だった)働いているのは黒人orカラードという典型的な構図だ。![]() |
| スクーンデル通り |
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| デ・ヴァール公園 |
それから「フォルクスホスピタール/国民病院」のあった場所へ。これは『少年時代』に出てきた病院で、少年ジョンが当時住んでいたヴスターから汽車に乗り、ケープタウンまで出て、さらに母親や弟とケープタウン駅からバスに乗って病気のアニーおばさんを訪ねる。1950年代の話で、「国民病院」はすでになく、ここは民間のメディクリニックになっていた。
昨日のケープタウンは晴れ、日差しが強く、めずらしく風のない一日だった。