2011/12/30

トンネルを抜けるとカルーだった──ケープタウン日記、番外編(5)

「トンネルを抜けると、雪国じゃなくて、カルーですね」

 そんな冗談をいいながらガイドの F さんが運転する車で、制限時速130キロの国道一号線をおよそ100キロのスピードで走ったのは、内陸の町ヴスターをめざした日だ。「ユグノートンネル」というその長い、長いトンネルを通過すると、風景が一変した。

 まっすぐ走る道路の両側は、赤っぽい土のうえにしがみつくようにして生える低木、ブッシュがはてしなくつづく。灌木がならぶ平地に一列にならんでいるのは防風林だ。背の高い緑の木々はもともと南アフリカにはなかったもので、すべて、植民者がヨーロッパやほかの大陸からもってきて植え付けたものだという。ユーカリ、オーク、ポプラ、ジャカランダといった高木が農場の周辺に植林されている。貯水池も見える。

 『マイケル・K』ではステレンボッシュで母親をなくした主人公がプリンス・アルバートへ向かう道中、球技場のそばの空き家で一夜をあかし、翌日どしゃぶりの雨のなかで畑からじかに生の人参を食べる場面があった。球技場と道路を隔てるようにしてユーカリが一列植わっていたことを思い出した。
 
土埃の町だと『少年時代』でジョン少年が呼んだヴスター。駅前の広場につづく通りには写真のようにユーカリの並木道があったけれど、春先の強い陽射しに人気もなく、どこか打ち捨てられた感じの、荒涼とした風景が広がっていた。

 ケープタウンのウォーターフロント近くだったろうか、鉄道がはじめて敷かれたことをしめす場所があった。そばに防火林が植わっていた。乾燥したケープでは、列車の車輪とレールの軋轢による火花で頻繁に火事が起きた。それで植民者たちは防火林を植えて、火花が飛び散っても緑の葉にあたって、鎮火するようにしたのだという。

 下の写真はケープタウンへの帰路、トンネルではなく山越えをしたときの峠の休憩地、デュ・トイ渓谷からのながめ。ここでふたたび風景は一変して、海にむかって緑の平地や葡萄園がつづくようになった。
 
 1988年にクッツェー作品を初めて読んで以来の、念願のケープタウン旅行は、2011年をふりかえったとき、数少ない、実りの多い「良い」出来事だった──了。

付記:今日のつづきの来年は少しでも「良い」年になるように、祈るだけでなく、動きたい──大晦日に。

2011/12/27

遅れてやってくるもの

今年はなんという活躍ぶりだったろう! 
その人、管啓次郎さんらが編集する『ろうそくの炎がささやく言葉』を、読んでいる。

いまごろ?
と思われるのは重々承知で書く。
いつも遅れてやってくるのだ。それは。ことばがこちらに染み入ってくるようになるまで、ある変化を待っていた、のかも、しれない。本そのものは、永く、永く読み継がれていく、そういう書物だ。


忘れえない2011年の最後に、セザリアの歌を聴きながら。


2011/12/22

追悼、セザリア、もう一曲──Mar Azul

この曲を聴いていると、本当に、目の前に紺碧の海が広がるよう!

追悼、セザリア・エヴォラ──カエターノと

カエターノ・ヴェローゾといっしょに歌う、レグレッソ=帰還。セザリアが歌う、わたしのいちばん好きな曲。

2011/12/21

追悼、セザリア・エヴォラ

カーボベルデ出身のセザリア・エヴォラが12月17日に死んだ。1941年生まれ、70歳。



「私たちの音楽はとっても多くのものからできているの。ブルースやジャズみたいだっていう人もいれば、ブラジリアンやアフリカン音楽みたいだっていうひともいる。でも誰もよくは知らないの。それが古い音楽かどうかってことさえわからないのよ」──セザリア・エヴォラ

2011/12/19

終わらない2011年、忘れない2011年

 忘年会たけなわ、でしょうか。

 この時期、巷の喧噪から離れてはや数年ですが、今年は特別。
 2011年は、あらゆる意味で、終わらない年です。終わり得ない年です。これからも、ずっと、ずっと続く年です。
 憂さは晴らしましょう。お酒を飲んで、わいわいしゃべって、血流よくして元気になる。これは必要なことです。
 
 でも、忘れない。それが最良の報復。
 
 だって、なにも終わっていないんだもの。なにも収束なんかしていないんだもの。どんどん拡散して、どんどん一気に打つ手がなくなって、どんどん、なかったことにしたい人たちが大手をふって歩きそうなんだもの。そのあと、いったい誰が血を流して苦しむの?

 東電は解体!

 それしかありません。理由はこちらを読めばよくわかります→メルトダウンを防げなかった本当の理由

 すこしだけ引用します。

「分野ごとに閉鎖的な村をつくって情報を統制し、規制を固定化して上下関係のネットワークを築きあげる。その上下関係のネットワークが人々を窒息させる。イノベーションを求め、村を越境して分野を越えた水平関係のネットワークをつくろうとする者は、もう村に戻れない。それが日本の病だ。」

 村生まれのわたしとしては、もう村に戻れない、というところが本当にガツンときます。
 でも、戻らないで、砂嵐のなかに立っていると、やっぱりひとりで立っている人と出会うことがある。これが奇跡、これが喜び、これが宝。連帯はそこからはじまる。ひとりで立たないと見つからないものってあるんだ。「絆」なんていって愛しすぎないこと、それが大切なときだってあるんだよ。

(写真は「喜望峰」の絶壁下)

2011/12/15

リンガ・フランカ──ケープタウン日記、番外編(4)

ケープ植民地への奴隷の輸入は17、18世紀はアジアからが多かった。インド南部、スリランカ、インドネシア、マレーからが多く、タイ、フィリピン、日本から売られてくる者もいた。とくに技術をもった職人/クラフトマンが好まれた。スレイブ・ロッジに展示されていた地図は、西アフリカからも人が入っていたことを示していた。

 さて、今回は言語の話をしよう。

 輸入奴隷がふえた1770年ころには植民地内で生まれる奴隷も多くなった。奴隷男性と先住コイ人の女性、奴隷女性と植民者やオランダ東インド会社雇用者(これらの組み合わせに注目!)のあいだに生まれた者たちである。彼らはどんな言語を使っていたか。

 第一言語/母語のちがう人たちが第二言語で意思疎通をする場合、それをリンガ・フランカという。1800年ころまで、インド洋のリンガ・フランカはポルトガル語だった。ケープ植民地で使われるリンガ・フランカも最初はポルトガル語。奴隷貿易をするポルトガル船に乗せられ、船上で、あるいは中継地マダガスカルで、奴隷はポルトガル語を仕込まれたのだろう。命令はポルトガル語が使われたということだ。
 だが19世紀初めになると、これがケープ・ダッチと呼ばれるオランダ語になり、それがアフリカーンス語になっていく。(スレイブ・ロッジの掲示内容をメモしてきたのだけれど、これで間違いないかな?)

 この過程を考えると、おぼろげながらアフリカーンス語の成り立ちがわかる。「キッチン・ランゲージ」、つまり読み書きできない人たちが台所や農場の労働現場で意思疎通のために使い、代々受け継がれていった言語、それがカラードが使うアフリカーンス語だ。だからこの言語は、最初はもっぱら話しことばとして簡素化された形で後世代へと伝わった。
 一方、オランダ系入植者たちが使うアフリカーンス語はそれとはかなり異なることが指摘されている。でも当然、身近にいる人間どうしが使う、基本的に同一の言語は混じり合い、影響し合い、白人のアフリカーンス語も簡素化されていったのだろう。たとえば動詞の変化がなくなるとか。

 ボーア戦争以後、イギリスに経済的にも政治的にも覇権を奪われてきたアフリカーナーたちが政権を獲得したのが1948年。この言語に権威をもたせたいと考えたこのアパルトヘイト政権が1974年に政令を出した。そしてバンツー教育(黒人の教育)はすべて、英語ではなく、アフリカーンス語で行うとした。その2年後に起きたのが、かの有名な「ソウェト蜂起」だ。
 ソウェトの高校生たちが「自発的に蜂起した」と伝えられたが、『デイヴィッドの物語』の主人公は、それはナイーヴな受け取り方で、非合法で地下活動を行っていた解放組織による外部からの周到な指令によって起きた、と明言する。う〜ん、あるいは、そうなのかも・・・。


 スレイブ・ロッジ内の展示では、もうひとつ、おもしろい発見があった。南アフリカには、セッテンバー、ジャヌアリー、など月を示す語を姓とする人が大勢いるが、これはもともと奴隷の買い手が、奴隷を買いつけた日付をそのまま名前としてつけたことからくる、と説明されていたのだ。それで思い出すのはトニ・モリスンの『ソロモンの歌』。(そうそう、『デイヴィッドの物語』にもモリスンの『ビラブド』からの引用があったっけ。)植民者は、モーゼ、シーザーといった、自分の子どもには絶対につけない名前をペットや奴隷につけた、とも書かれていた。ふ〜ん。そういうものか。そういうものだろな。名づけの暴力。


『デイヴィドの物語』に出てくるグリクワ民族の祖、アダム・コック一世は、18世紀に一族をひきつれてナマクワランドへトレックした人だが、もとは奴隷だった。自由をみずから買い取り、東インド会社からなんと「バスタード(私生児)」という「称号」をあたえられた。この経歴を見ると、複雑な思いになる。コックはグリクワとしての「カピタン/首長」の称号も植民地政府からもらっている。
 キリスト教、約束の地、トレック、など彼らにはオランダ系白人の宗教、思想、文化との共通項が多い。グリクワを率いて何度もトレックした大首長、アンドリュー・ルフレー(1867〜1941)は、金とダイヤモンドの利権を強奪して勢力をのばしていくイギリス植民地政府と対等の関係を築こうと奮闘しながら、裏切られ、投獄され、アパルトヘイトを打ち立てた国民党からもさんざんなあつかいを受ける。だが、最後は「分離発展」をみずからのぞみ、アフリカーナーの思想を支持するようになっていった。先住民、カラード、といっても、この辺がなかなか複雑である。

 1948年生まれのゾーイ・ウィカムが書いた『デイヴィッドの物語』は、このグリクワの歴史に、解放組織ANCに個人としてリクルートされた「カラードの男女」が絡む、まことにスリリングな、ポストモダン的小説仕立ての、壮大な歴史物語である。

 こうして見ると「カラード」とひとくくりにされてきた人たちは、じつに多様な文化的、言語的背景をもっていることがわかる。クッツェーの『鉄の時代』に出てくる浮浪者ファーカイルも、『マイケル・K』の主人公も、きっとこの「カラード」なんですね。『恥辱』に出てくる女学生メラニーとかパートで娼婦をやる主婦のソラヤもそう。ソラヤはマレー系とわかる名前だし、映画もそれらしき女優が演じていた。

 ケープタウンって土地は、とっても複雑で、とっても面白い! 

(付記:そうそう、ジョン・クッツェーがなぜ、クツィアやクツィエではなく、クッツェーなのかということも、今回の旅でよくわかった。)

2011/12/13

スレイヴ・ロッジ──ケープタウン日記、番外編(3)

年の瀬に、奴隷制の話かよ〜、と思われる方は、もっと「楽しい」ところへいらしてください。今日の話題は、でも、日本人も奴隷だった、ということなんだけどね。

 さて、ケープタウン滞在中に、ひとりで街歩きしたとき行ったのが、宿から歩いて三分ほどのところにあった「スレイブ・ロッジ」。ここは必ず行こう、と出発前から決めていた。なぜならいま訳しているウィカムの『デイヴィッドの物語』の内容と切り離せない場所だからだ。
 この建物はかつて船で連れられてきた奴隷を入れておいた場所。売ったり買ったりした場所はもっと海沿いの、ケープタウン港の埠頭のそばにある広場だった。建物自体の歴史はこちらへ。

 さて、南アフリカの奴隷制については、あまり伝わってこない。なぜか。複雑なのだ、これが。あまり触れたくないと思っている人たちも多かったし、いまも多いのかもしれない。アパルトヘイト時代「カラード」という範疇に分類されていたのは、大ざっぱにいうと、白人、バンツー系黒人(ネイティヴ)以外の、じつにさまざまな人たちだった。
 まず先住民コイサン女性とヨーロッパ入植者男性の子どもたちの、そのまた子どもたち。ここにさらに加わるのが、当時のオランダが植民地としていたインドネシアやマレー半島、さらには南インドやスリランカから買いあげられ、連れられてきた人たちだ。彼らはマダガスカル経由で農園の労働力としてケープ植民地に大量に移入され、混血が進む(詳細は次回に)。

 ケープタウンの観光局が誇る地元料理、ボボティやフリカデルといったケープマレー料理は彼らが持ち込み、発達させた料理だ。内陸部とちがって牛肉料理やバーベキューばかりではない。ムスリムも多い。地区によっては毎朝、モスクから鐘の音が聞こえるという。ちなみにケープタウンの人口はこの元「カラード」が圧倒的に多い。彼らの第一言語はアフリカーンス語。(写真は、滞在中に美味しいボボティ/bobotie──カレー風味の挽肉等に卵をトッピングしライスを添えた料理──を食べた「カッスル」内のレストラン。)

 日本からもポルトガル人によって連れられてきた奴隷がいた。名前が明らかに日本人、という記録があるという。ポルトガルが海を制覇していた時代、つまり日本に「鉄砲」など持ってやってきたころのことだが、日本からも奴隷として人が売られていたということだ。「カラード」というカテゴリーにはインド人も最初ふくまれていたが、ガンジーなどの地位向上運動で特別に分離した。つまり、日本人は過去の南ア的分類からすればカラードなのだ、どう考えても。

 次に勢力をのばしたオランダが17世紀半ばにこの地に植民地としての足場を築き、五角形の砦、カッスル・オブ・グッド・ホープを建設した。ここの展示には、オランダ東インド会社の頭文字「VOC」が焼き付けられた、特注の伊万里焼きの青い大皿が何枚も飾ってあった。景徳鎮の焼き物もガラスケースにいれられていた。いま読んでいるタイモン・スクリーチの『阿蘭陀が通る』時代(この本がまためっちゃ面白い!)、船はケープタウン経由で長崎の出島にやってきていたのだ。

 商売をする相手として長いつきあいがあるから、アパルトヘイト時代、本当は「カラード」なんだが、商談するときにいちいち別扱いは面倒だから、特別待遇として「名誉白人」にしてやる、といわれたのが日本人=名誉白人のことの起こり。それに尻尾を振って飛びついた日本経済界の御仁たちは、なんという恥辱! 記憶に新しい、つい1994年まで続いた話である。

2011/12/05

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの新作短編

ケープタウン旅行で忙しくしているあいだに、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェが「ガーディアン」に新作短編を発表していました。わっ!

 Miracle

 読んでみると、ラゴスを舞台にしたストーリーで、どうも次の長編小説の一部のようです。

 もうすぐ出る日本語のオリジナル版第二短編集『明日は遠すぎて』(遅くなってすみません、河出書房新社から来春、出版予定です!)にも、この短編とつながっていると思える短編がひとつ含まれています。

 ひょっとすると、つぎにアディーチェが発表する小説は連作短編かもしれません。う〜ん、楽しみですねえ。

2011/12/02

きみのいない岬の街で

「水牛のように 12月号」に詩を書きました。

 きみのいない岬の街で

 出てくるのは、初夏のケープタウン、内陸の町ヴスター。
 そして帰還した東京の今日は、本格的な冬到来の気配。寒い!

2011/11/29

「アフンルパル通信」12号

初夏のケープタウンから初冬の東京にもどると、「アフンルパル通信」12号がとどいていました。札幌という地で出版されている、志の高いリトルマガジンです。
 年2回の発行となり、ちょっと厚めで、中身も濃い。お薦めです。

 今号の執筆者は以下の通り。

 ホンマタカシ 管啓次郎 くぼたのぞみ 長屋のり子 前野久美子 関口涼子 小川基 かわなかのぶひろ 宇波彰 田中庸介 佐藤雄一 山田航 中島岳志

 上質紙に写真が何枚もあり、全30ページ、この内容で500円はとてもお買い得です。お求めは、書肆吉成へ。

2011/11/27

ドバイ空港──ケープタウン日記、番外編(1)

11月25日午後5時すぎ(日本時間)に成田に着いた。帰りのフライトは、ケープタウンからドバイまでは比較的座席の広い機種で快適に過ごしたが、ドバイから成田まではまたまた狭い座席。ドバイの乗り換え時間の1.5時間は、薄暗いシャトルバスに乗っているか(この時間がじつに長く感じられた)、手荷物を引いて延々と迷路のような空港内を移動するだけで終わった。

 ドバイ空港はとにかく広い。300くらいゲート数があって(もっとかな?)、目的のゲートまで標識にしたがってひたすら歩き、ひたすらエスカレーターを昇ったり降りたりしなければならないのだ。「充実したお買い物ができますよ」なんて旅行会社の人はいっていたけれど、とてもそんな時間も余裕もないし、ブランド品がならぶ、きらきらしい免税店にはほとんど興味がわかないから、それはいいんだけれど──それにしても、この空港、聞きしに勝る「きらきら」であったなあ! アラブ首長国連邦のドバイ空港には、ぴかぴかモールのクリスマスツリーまで飾ってあった。ああ、パーガン・クリスマス、である。

 ようやく乗り継ぎ便のゲートにたどりついたら即刻、ボーディング。時刻は南アフリカ時間でもうすぐ真夜中、ドバイ時間で午前1時半。眠いけれど眠れない、という時間をやりすごし、機内食を一回パスして、耳栓をして仮眠。この長時間飛行がなければ、もう一度いきたいケープタウンなのだが・・・。

 さて、備忘録がわりに書いてきたケープタウン日記、限られた時間内に「記録」を目的として書いたため、書き残した細部がたくさん、たくさんある。忘れないうちにそれを少しずつ、思い出しながら、これから書いていきたいと思う。

 写真は、時間的余裕のあった行きのフライトで撮影したドバイ空港。

2011/11/24

タウンシップとカッスル──ケープタウン日記(8)

今日(付記:南アフリカ時間で11月23日/水曜日)のケープタウンは、もっともケープタウンらしいお天気だとガイドさんがいうように、空がまっくらになって雨が吹きつけ、ごうごうと風が吹いている、と思う間もなく、太陽が顔を出してがんがん照りつける。これが何度も、何度もくりかえされる天気だった。

ランガの案内所
昨日(11月22日/火曜日)はランガ、カエリチャ、ググレツといったタウンシップをまわった。アパルトヘイト時代につくられた黒人専用居住区だが、隔離、分離して住まわせるという政策自体は破棄されたものの、いったん出来上がったコミュニティは失業率の高さや、なかなか予定通り進まない政府の住宅政策のため、そのまま残る、というより逆に広がっているようだ。

広い、広い、カエリチャ
それぞれタウンシップごとに特徴があって、古いランガは壁画が美しいインフォメーションやしゃれたクラフトセンターがあったり、ググレツは歴史展示に力を入れていたりとじつに興味深かった。街からもっとも遠いカエリチャはすごく広い。黄色い砂地が果てしなくつづく。自分はいまケープフラッツのどまんなかにいるのだという感じがひしひし。
 『マイケル・K』の第二章で、逃亡するマイケルを追いかけて、砂に足をとられながら医師が走る場面があったけれど、あれがケープフラッツだ。

 テーブルマウンテンにもロープウェイでのぼった。ほぼ垂直の断崖絶壁が目の前に迫ってきて、ぶつかる! と思わず目をつぶりたくなるようなすごさだ。頂上の風の強さは半端ではなかった。気温も麓の駅より6度ほど低い。またしてもダッシーが一匹、もくもくと草を食べていた。
 このダッシーという動物、じつは「象」の仲間だというのだから驚く。見かけはアナグマとか、げっ歯類のような感じなのに。コイの人々の神話ではカマキリは神さまでこのダッシーが奥さん、なのだそうだ。ふしぎな、ふしぎな世界観。標識で仕入れたまめ知識である。


カッスルの入口
今日はケープタウン滞在最後の日。五角形の要塞、カッスルへ行ってきた。東インド会社の砦としてつくられて、現在も西ケープ州の陸軍本部がおかれている場所だ。正面入り口に立ったとき、『youth』で青年ジョンが「何曜日の何時にカッスルの前に出頭せよ、持ち物は洗面具のみ」と書かれた召集令状がくるのではないかと不安に駆られる場面を思い出した。<了>

2011/11/22

喜望峰へ──ケープタウン日記(7)

今日は(付記:南アフリカ時間で、11月21日/月曜日)喜望峰へ向かった。道々、たくさんの動物たちの姿をみかけた。

 まず、どこにでもいるというred-winged starling。そして走る車の前に出てくるバブーン、道の横を歩いていく家族連れのダチョウ(黒いのが雄)。

 さらに半島の先端部に向かって進むにつれて、こんな動物も。
 縞模様の太い角のあるレイヨウ類ボンテボックは一頭だけ、凛々しく立っていた。
 ダッシーと呼ばれるハイラックス(イワダヌキ)は、これまた一匹だけ、岬のてっぺんへ徒歩でのぼる階段のすぐそばで、むしゃむしゃと腹ごしらえに余念がなく、近くを大勢の人が通っていくのに、そんなことはまったく気にする気配もなかった。

*****
付記(12月7日、ダッシーは分類からいくと、なんと、象の仲間であると後に判明。動物は見かけによらない!)

2011/11/21

プラムステッドとコンスタンシア──ケープタウン日記(6)

今朝のケープタウンの空は半分はれで、半分くもり。テーブルマウンテンは分厚い雲のおおわれて見えない。でも、風の街ケープタウンではあっというまに天気が変わる。雨と晴れと曇りが、風に追い立てられるように、交互に、めまぐるしく入れ替わる。ちょっとした雨に傘をさす人はいない。

 昨日(11月20日/日曜日)は、少年ジョンがヴスターからケープタウンに引っ越して住んだ通りや、汽車に乗ってカレッジに通ったプラムステッド駅などを訪ねた。
 大学に入って、親友ポールと夜通し歩いて、ポールの実家のある海辺の街へ行った話が『Youth』の最初あたりに出てくるが、そのセント・ジェームズへも足をのばした。フォールス湾を見下ろすようにして、バルコニーつきのきれいな家が建ちならんでいた。

『Summertime』に出てくるトカイ通りも車で走ってみた。たしかに幅の広い大きな通りで、高速道路からおりた警察のヴァンがポルスモア刑務所まで通ったところ、いまも通るところだ。

 これでクッツェー作品に出てくる場所で見たいところはほぼまわったので、ちょうど帰り道だったこともあって、コンスタンシアのワイナリーを見学! 5種類ほどテイスティングをしてみた。

 セントヘレナに流されたナポレオンが買い占めて、毎日のように飲んだといわれる極上のワインをつくっているところである。このワイン、以前このブログでも紹介したボードレールの『悪の華』におさめられた詩編「されど満たされぬまま/ SED NON SATIATA」に「コンスタンスの葡萄酒より、阿片より、ニュイの葡萄酒より/愛がパヴァーヌを舞う、おまえの口の妙薬が好きだ」と詠われたもので、19世紀からすでにヨーロッパでは名高いワインだったことがわかる。

 写真は上から、プラムステッド駅、ポルスモア刑務所の標識、フロート・コンスタンシアのブドウ畑。

2011/11/20

カルーへ/ケープタウン日記(5)

今日のケープタウンは曇り。昨夜ふった雨で路上がぬれている。分厚い雲がかかってテーブルマウンテンは見えない。

 昨日(付記:南アフリカ時間で11月19日/土曜日)は強い初夏の日差しのなか、内陸の町ヴスターを目指した。少年ジョンが8歳から12歳まで暮らした町だ。彼が住んだという住所掲示も、ユーカリの並木もあった。掲示はすべてアフリカーンス語。

 それからさらに内陸へ。カルーの入り口を国道一号線でまっしぐらに進み、Touwsrivier へ。タウスリヴィエル、と読むのだろうか。そこからUターン。

 あたりは灌木、低木のブッシュが点在する赤土のフェルト。車を降りて写真を撮っていると羊が近くまでよってきた。

 金網のフェンスのまるい穴にカメラのレンズを差し込んで撮ったので映らなかったけれど、どこまでも、どこまでもフェンスは続いていた。マイケル・Kが、キャンプからかり出されてする農場労働で、針金のあつかいがうまい、とほめられたことを思い出した。

2011/11/19

UCTへ──ケープタウン日記(4)

11月18日午後6時10分、テーブルのうえの温度計は26.2度を示している。この時刻になっても初夏の陽差しはまだまだ強く、じかにあたると痛いくらい。金曜日の午後とあって街は週末気分だ。

 今日はケープタウン大学へ行ってきた。街の中心部からすこし離れた山の中腹に位置するこの古い大学は、さまざまな歴史的な建造物が多く、初夏の緑のなかに樹木の香りがただよう。

 突然おとずれたにもかかわらず、図書館の受付の人も、管理係の人もとても親切に応対してくれた。クッツェーさんの三部作をこれから訳すために、彼が学生として、あるいは教授として長い間すごした場所をちょっとだけ見てあるきたい、と訪問の目的を伝えると、わざわざ案内係として学部の教官を呼んでくれたのだ。

 細身のアレックスさんというその方は学生時代クッツェーさんの授業をとったことがあるという人で、『Youth』の第一章に出てくる図書館のエピソードについて話すと、わざわざいまはもう使われていない図書館の迷路のような古い部屋や地下部分を案内してくれた。
 そして英文学部の建物へ移動し、クッツェーさんが授業をしたという教室を見せてもらった。こじんまりとした階段教室だった。英文学部が入っているのはアイビーのからまる落ち着いた建物で、いちばんうえの写真は横から見たところ。まんなかの写真は建物の入り口に立てられた案内。

『デイヴィッドの物語』の最後のほうに出てくるローズ・メモリアルのカフェでランチ。「白人中産階級のモフィーな自然食レストラン」として知られる場所である。たしかに、食事をしているのはたいてい白人で(黒人女性もひとりいたかな? でも連れは白人だった)働いているのは黒人orカラードという典型的な構図だ。

 ちょうど学年末試験が終わったところで、キャンパス内は学生の姿がぱらり、ぱらり。斜面にひょろりとのびた松の木々のあいだからテーブルマウンテンが透かし見えた。

2011/11/17

クッツェー作品の舞台へ ── ケープタウン日記(3)

スクーンデル通り
昨日はケープタウンに到着して三度目の朝を迎え、さすがに長旅の疲れが出てきたので、ケープタウン大学へ行く予定をちょっと変更してフレデフーク界隈をまわった。

 ここは、スクーンデル通り、ミル通り、ブレダ通り、クローフ通り、デ・ヴァール公園といった地名がならぶ地区、『鉄の時代』の舞台となった場所だ。70歳の元ラテン語教師、エリザベス・カレンが住んでいたのはこのあたりだ。
 家政婦フローレンスの息子ベキと、その友人のジョンが自転車を相乗りして急な坂道を降りていく通りがスクーンデル通り。警察のヴァンが故意にドアを開けたため、自転車が転倒してジョンが怪我をして額からどくどくと血を流し、カレンがその傷を必死で押さえる場面があった。
 あるいは、警官たちが突入してきてジョンを撃ち殺したのち、カレンがふらふらと路上へ歩き出し、やがてフリーデ通り(平和通り)をファーカイルに抱えられて家へ帰る場面。

 通りの名前を示す標識を見るたびにいろんなシーンを思い出す。頭のなかでシャッフルされていた土地をあらわす記号が、こぎれいな屋敷、灰色のアスファルトの通り、高架下の薄暗い場所、オークの木立といった具体的なモノとなって、いま目の前にある、という奇妙な体験だった。

デ・ヴァール公園
さらに『マイケル・K』に何度も出てきた「デ・ヴァール公園」へとまわった。庭師マイケルが熊手で落ち葉を集める場所だ。時間がなかったので公園のなかには入らなかったけれど、春の緑のなかを乳母車を押して散歩する若い母親たちの姿が見えた。
 きらきらと強い光のなかに咲き残るジャカランダや、古い屋敷の庭先に咲きこぼれるブーゲンビリアの赤紫色が、本当にきれい。
 
 それから「フォルクスホスピタール/国民病院」のあった場所へ。これは『少年時代』に出てきた病院で、少年ジョンが当時住んでいたヴスターから汽車に乗り、ケープタウンまで出て、さらに母親や弟とケープタウン駅からバスに乗って病気のアニーおばさんを訪ねる。1950年代の話で、「国民病院」はすでになく、ここは民間のメディクリニックになっていた。

2011/11/16

Clarke's Bookshop ── ケープタウン日記(2)

昨日のケープタウンは晴れ、日差しが強く、めずらしく風のない一日だった。

 街へ出た。ぶらぶら歩いてロングストリートの Clarke's Bookshop を訪ねた。南アフリカ国内で出版された本を買ってきた書店だ。1990年代初めはファクスで注文していた。A4に印刷した手紙を一通出すと250円ほどかかった。すると、しばらくしてからしっかり梱包された包みが届く。本が傷まないように、とても丁寧に梱包してくれるのだ。

 店主のヘンリエッタ・ダックスさんが不在なのはわかっていた。ケープタウンを訪ねます、とわたしがメールすると、残念ながらその期間は海外へ出かける予定があると返事がきた。よりによって、なんという不運なめぐりあわせ。

 でも、スタッフのイザベルさんとメグさんが歓迎してくれて、店内を自由に見てまわり、写真も撮らせていただいた。ヘンリエッタさん宛に、メッセージと持参した拙訳のちくま文庫『マイケル・K』を託した。


今朝のケープタウンは昨日とは打って変わって風が強い。聞いてはいたが、これがまた半端ではない。宿は高いビルの9階にあるので、窓を開けるとびゅうびゅうとすごい音がする。テーブルマウンテンの頂上には白い雲が面白いほどの速さで流れていく。(下の写真は、真っ平らなテーブルマウンテンのうえを流れるように走る雲、「テーブルクロス」と呼ばれるそうだ。)

2011/11/15

朝のケープタウン──ケープタウン日記(1)

長いあいだ行ってみたいと思っていたケープタウンに来ています。

 ここしばらく、ケープタウン旅日記のようなものを書いていきます。朝の8時、通りはすでに車の音が激しくなってきました。街の中心に建った建物のなかにいます。
 長時間の飛行に耐えて(いやはや、本当に長かった!)ようやく到着したケープタウン空港、すでに機内から眼下に見えるカルーの風景に心が躍りましたが、到着から一夜明けて今朝、空の青さと、宿の窓から見えるテーブルマウンテンの奇怪な姿にあらためて息をのみます。

 これからクッツェーの生まれ育った街、そして、62歳まで暮らした街を少し見てまわります。この街はまたウィカムが書いた最初の短編小説集「You Can't Get Lost in Cape Town」の(付記:さらに現在、翻訳中の『デイヴィッドの物語』の半分ちかくの)舞台になった街でもあります。とにかく光が、空がきれいな春のケープタウンです。

2011/11/01

メランコリア一匹

きっかり秋になりました。
 2カ月ぶりに「水牛のように」に詩を書きました。
 ホントに水牛のようにゆっくりペースで、書いたり、書かなかったりの「無理してでも無理をしない」書き手に寛容な編集長、八巻美恵さん、いつもどうもありがとう! 

2011/10/28

ジャイプールで45分、朗読するクッツェーの映像

以前もお知らせしましたが、1月下旬にインドのジャイプールで行われた文学祭で、J. M. クッツェーが「The Old Woman and the Cat」という短編を読む映像があります。

 ちょっと音質がわるくて聞きづらいところがありますが、赤、ピンク、金色といった極彩色の背景のなかで、インドの神様の彫刻がほどこされた椅子に座るクッツェー、というのもなかなか面白い光景です。

 クッツェーの右手に腰をおろして、作家を紹介し、「Youth」からマダム・ボヴァリーが出てくる章を少し朗読するのはイギリスの作家/歴史家、パトリック・フレンチ。
 クッツェーが朗読する作品は、ローマカトリックの信仰を背景に、動物に魂はあるのか、という問題をスペインの廃村に住む老女性作家と、それを訪ねる息子との会話という形式で浮上させるものです。
 45分ノンストップで朗読するクッツェーの声を、芝生の上で聞き入るジャイプールの聴衆、これもなかなか興味深い。お楽しみください。

2011/10/23

1969年復刊「ユリイカ」創刊号

住まいを上野から日野へ移したとき、多量の書籍や雑誌を預けることにした。3人のちいさな子どもたちを連れての引っ越し先には、限られたスペースしかなかったからだ。
 書籍はその後も増えつづけ、成人した子どもたちから「この家は本棚以外の家具がほとんどないんだよね」とあきれられた。彼/彼女たちにとっては、自分の育った家に対する認識を新たにしたともいうべきことばである。

 最初の引っ越しから20年後にまた引っ越した。おびただしいダンボール箱の中身がまたしても、ほとんど書籍だった。とはいえ、かつて預けた書籍を放っておくわけにはいかない時期がやってきていた。先日、整理に出かけた。
 思い切って手放すことにした雑誌類のなかに、1969年7月に復刊された「ユリイカ」創刊号があった。表紙といっしょに、安東次男が書いた「復刊によせて」と清水康雄の「編集後記」をここにアップしておく。

 復刊された創刊号が出た1969年7月は造反教官と呼ばれた安東次男にとってはまさに「乱世」、わたしにとっては「19の夏」で、それでも、編集後記にあるように「人間の死を喰べる神」が寝そべっている文学の深淵は、いまもどこかに横たわっているような気がしている。

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復刊によせて  安東次男

『ユリイカ』といっても、あれはいつからいつまで続いた雑誌だったか、と私でさえすぐには思いうかばない。ずいぶん昔のことのような気もするし、つい昨日のような記憶もある。社主であった伊達得夫の貌もそうだ。昭和三十一年十月号創刊、同三十六年二月号まで、よたよたと、頁数もふえたりへったりではあったが、ともかくも続いた。続いたというよりは、伊達は四苦八苦して懸命に出しつづけた。終刊になったのは、このペシミスチックな情熱家が、三十六年の一月十六日に急逝したからだ。まだ四十一歳だった。内気で気の弱い性格の反面、気むづかしいまでに理想家肌だった伊達は、ある意味で慎重でぐずだったが、いったん計画をきめると傍で見ていてあきれるほど強引にそれをやってのけた。惚れこむと、けっしてあきらめなかった。相手をこわさないように細かな気をつかいながら、根気づよく待つすべも心得ていた。名編集者だったし、名伯楽だった。金さえあればすぐれたパトロンにもなれた男だった。那珂太郎、吉岡実、清岡卓行、山本太郎、吉本隆明、飯島耕一、中村稔、大岡信、等々、その年齢層もかれの同世代から一世代後までにわたって掘りだしてきて、詩人というものを一応世間的にも通用するものとして押し出したのは、かれの惚れこみようと、目の確かさだった、といっても言い過ぎではあるまい。いまや現代詩の地図は目まぐるしく塗り替えられて、これらの詩人たちをも、ともすれば旧人の側に追いやりかねない勢いだが、伊達の仕残した仕事の意味は、そういう新旧世代の交替の中に埋没しさるものでもあるまい。このたび清水康雄君から、伊達夫人の快よい同意を得て第二次『ユリイカ』を創刊したいときかされたとき、私は乱世に一人の知己を得て心の温たまる思いがした。同君がかねがね、敬愛する故人の衣鉢をつぎたい意志を持っていたことを私は知っていたし、識見、経験、人と為りいずれの点から見ても、最もふさわしい人、と私には思われるからである。私もささやかな協力をしながら、この火を守り育ててゆきたいと願う。

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編集後記
 かつてのユリイカには、文学の自由と冒険があふれていた。詩の雑誌であったが、詩だけの雑誌ではなかった。
「日本の文芸雑誌は、文学の雑誌ではなく、小説の雑誌だ」とだれかが書いていたことを覚えているが、たしかに、詩や批評を主流とする欧米の文学雑誌にくらべれば、そのような感もないではない。
 ユリイカは、詩と批評を中心に、しかし、領域や形式にとらわれず、あくまで自由に、文学の自由と深淵をめざす雑誌でありたい。
 文学の深淵には、人間の死を喰べる神が寝そべっている。
 復刊第一号の編集をおえて目に浮かぶのは、やはり、亡くなった伊達得夫の姿である。伊達さんは飄々としていた。おそらく、いまも飄々としているのだろう。
 ユリイカの復刊は私の夢であった。(清水康雄)

2011/10/22

雨とともに心にしみる歌、声

昨夜から、いい雨がふる。今朝もやまない。心にしみる雨がふる、ふる、ふる。

 3.11以降、音楽が、歌が聴けなかった。聴く気持ちになれないから、遠ざけてきた。
 がんばっている間は、やわらかなもの、やさしいもの、心なごむものを遠目にしながら、手を伸ばしたいと思いながら、なんとなく、無意識に、距離を置いてきた。自分にそういうものを許してはいけな、まだ、いけない、と思っていた、どうもそうらしい。

 なにかに対して身構える、なにかに対して抗う、その姿勢を貫くために、心の筋肉に力をこめて、まいにち、まいにち。でも。一月ほど前から心がふさぐ。渇いてきた。気持ちが上へ向いて行かない。努力が足りない、と自分を叱咤する。友人も、知人も、東奔西走でがんばってるじゃないか。もっと「困っている人」はたくさんいるじゃないか。そう自分に言い聞かせてきた。でも、それも限界。

 今朝、ある人のfacebook への書き込みを見て、あふれるような感情におそわれる。

 セザリア・エヴォラの「Mar Azul」をかける。セザリアの原点ともいえる(と勝手にわたしが思っている)アルバム。カーヴォ・ベルデの青い、青い海と空。
 昨夜、小樽旅行から帰ってきた娘たちが見せてくれた写真、そこに映っていた風景が思い出される。閑散とした埠頭にウミネコが一羽、あとはただ、なにも遮ることのない海と空の透き通った青さ、目が痛いほどの青。涙があふれそうになる。
 泣いてもいいのだ、と歌はひそかに囁いてくれる。泣いてもいいのだ、甦るために。ふたたび力を取りもどすために。

2011/10/18

チママンダ・アディーチェがサンタフェで

さる9月28日に、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェがニューメキシコ州のサンタフェにあらわれました。2009年に出た短編集『なにかが首のまわりに』から「震え/Shivering」を朗読、そのあとケニアの作家ビンヤワンガ・ワイナイナとトークという豪華なステージ、その一部始終をここで見ることができます。(Lannan Foundation の Podcast から動画をゲットしてください!)

 今日のブログにアップした写真とは全然ちがう、ぐっとくつろいだ表情の2人が早口でやりあうステージは、爆笑、また爆笑です!
 「震え」や第一長編『パープル・ハイビスカス』に登場する人物たちをめぐって、なんとも珍妙なやりとりが展開されます。ワイナイナって、こんなに面白いしゃべり方をするんだ! もうびっくりです。

 この「震え」という短編、もうすぐ出る日本独自のオリジナル短編集第二弾にも入る予定ですが(いま再校ゲラを見ています!)、『なにかが首のまわりに』のなかでは唯一の書き下ろし作品です。アメリカで不法滞在をつづけるナイジェリア人男性(じつはゲイ)と、上昇志向のやたら強いジコチューな恋人にふられたばかりのナイジェリア人女子院生の友情とそれぞれの信仰、という、ややもすると深刻になりがちなテーマがコミカルなタッチで描かれた短編ですが、これが出色。

 早く短編集をお届けできるようがんばります! 本のタイトルは『明日は遠すぎて』になる予定。お楽しみに!

2011/10/10

マイケル・K は詩人だった!

10月10日、つまり今日発表された複数の情報によると、155箱にのぼるクッツェーの手書き原稿、手紙、エッセイ、スピーチ原稿、ノート類などが150万ドルで、オースティンのテキサス大学にあるハリー・ランサム・センターに買い取られ、保管されることになった。

 このセンターのコレクションにはすでに、サミュエル・ベケット、T.S.エリオット、ヘミングウェイ、バーナード・ショー、アイザック・シンガー、スタインベック、W.B.イェーツ、ドリス・レッシングといった、そうそうたるノーベル文学賞受賞者のペーパー類がアーカイブになっている。

 クッツェーのペーパーのなかには、9種類にのぼる『マイケル・KLife and Times of Michael K』の草稿があり、そのうちのひとつでは、なんと、マイケルは才能豊かな詩人だったそうだ。別のバージョンでは教育を受けた発送係だったり。
 アンナという女性も最終バージョンでは母親だが、草稿によっては母親だったり、妻だったり、祖母だったりと役割が変わっていて、マイケルとアンナが息子と母親の関係に落ち着いたのは第6稿だったという。

 現在71歳のクッツェー自身は、ほぼ半世紀にもさかのぼるテキサス大学との縁から(クッツェーはこの大学でサミュエル・ベケットの研究で博士号を取得)、自分のペーパー類がランサム・センターにホームを見つけて満足している、と語っているとか。

 ふう〜む。これから J・M・クッツェーを研究する人は、オースティンのハリー・ランサム・センターへどうぞ、ということのようだ。

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上の写真は2010年にテキサス大学オースティン校を訪ねたクッツェー:マーシャ・ミラー撮影