ラベル ワイナイナ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ワイナイナ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019/05/23

アフリカのことをどう書くか

48歳で逝ったビンヤヴァンガ・ワイナイナを追悼して、Granta に掲載された有名なエッセイを期間限定で載せることにします。(無断転載はご遠慮ください。)
Granta 92, 2005

 アフリカのことをどう書くか 
  ──How To Write About Africa──
            ビンニャヴァンガ・ワイナイナ
                  くぼたのぞみ訳

 タイトルにはかならず「アフリカ」「闇」「サファリ」といった語を使うこと。サブタイトルに入れる語としては「ザンジバル」「マサイ」「ズールー」「ザンベジ」「コンゴ」「ナイル」「大きな」「空」「シャドウ」「ドラム」「太陽」、それに「過ぎ去りし」なんてのもいい。それから「ゲリラ」「時間を超越した」「原始の」「部族的」というのも役に立つ。注意して、「People」ときたら黒人以外のアフリカ人のことで、「The People」ときたらアフリカ黒人の意味だからね。
 きみの本の表紙には、社会にうまく順応したアフリカ人の写真なんかぜったいに使わないこと。本のなかでも、そのアフリカ人がノーベル賞でも受賞しないかぎり、使ってはいけない。AK-47とか、突き出たあばら骨とか、裸の胸、そういうのを使うこと。アフリカ人を含めなければならないときは、マサイとか、ズールーとか、ドゴンの民族衣装を忘れずに着せること。
 テキスト内では、アフリカをひとつの国のようにあつかうこと。暑くて、埃っぽくて、丈の高い草のはえた波打つ大地と、動物の大群と、背が高く、飢えてガリガリの人たちのいる国だ。あるいは暑くて湿気があって、霊長類を食べるうんと背の低い人たちがいるとか。精確に描写しようなんて泥沼にはまることはない。アフリカは大きい。五十四の国があって、九億の人間はみんな飢えたり、死んだり、戦争したり、国外移住なんてことに忙しすぎて、きみの本を読むひまなんかないんだから。この大陸は砂漠や、ジャングルや、高地や、サヴァンナや、ほかにも、なんだかんだといろいろあるけど、きみの読者はそんなこといちいち気にしないから、きみの書くものはロマンチックで、刺激的で、不特定なものにしておくこと。

──中略── 

Granta 92 の目次
 登場人物のなかにかならず「飢えたアフリカ女」を登場させて、半裸で難民キャンプをうろつかせ、西欧諸国の善行を待ち望んでいるようにしなければいけない。彼女の子どもたちはまぶたに蠅がたかっていて、膨らんだ腹をしていて、母親は胸がしぼんで乳が出ない。彼女はすっかり無力感に打ちのめされているように見えなければいけない。彼女には過去もなく、それまで生きてきた歴史もない。そんなわき道へ入ると、ドラマチックな瞬間が台無しになるからね。嘆き悲しむのがいい。対話のなかでは自分のことはいっさい話題にさせないようにして、話すとしても、ひたすら(ことばにならない)苦しみに限定すること。それから忘れずに、心温かい、母親のような女性を入れること、磊落に笑ってきみが満足しているかどうか気づかってくれる女性だ。彼女のことはただ「ママ」と呼んでおくこと。彼女の子どもたちはみんな非行少年だ。これらの登場人物たちに、きみのヒーローのまわりをぶんぶん飛びまわらせて、ヒーローの見栄えをよくしなければいけない。きみのヒーローには、非行少年たちにものを教えたり水浴びをさせたり、食い物をあたえさせてもいい、彼は赤ん坊をたくさん運搬して「死」を見てしまったとかね。きみのヒーローは(ルポルタージュなら)きみだし、あるいは(フィクションなら)美しい、悲劇的な、国際的に名の知れたセレブ/貴族で、いまは動物保護に心を砕いているような人物にする。

──以下略──

解説
ブックレット
 このエッセイを書いたビンニャヴァンガ・ワイナイナ(Binyavanga Wainaina)は、二〇〇二年に「故郷を発見しながら Discovering Home」で第三回ケイン賞を受賞した作家だ(このときチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの短編「アメリカにいる、きみ」が次点だった)。その賞金でワイナイナはナイロビでクワニ・トラストを立ち上げ、雑誌「クワニ Kwani?」を刊行して若手作家を育てた。「クワニ?」とはスワヒリ語のスラングで「だから?」という意味。文学作品のみならず写真なども多用して若々しい文芸+αを発信した。

 今回紹介する皮肉たっぷりの超辛口エッセイは二〇〇五年に雑誌「Granta 92」にまず掲載され、その後クワニ・トラストによってブックレットとして出版されたものである。額面通り受け取る人がいると困る。ワイナイナの意図はまったく逆で、これは反語的なエッセイなので要注意。アフリカをひとまとめ的視点から「ルポルタージュ」として描く欧米のマスコミへの長年の憤怒が彼にこれを書かせたらしい。つまり、ワイナイナもまたアディーチェ同様、ステロタイプのアフリカのイメージを長いあいだヨーロッパ人など外部世界が押しつけてくることに憤懣やるかたない思いを抱き、それをはっきり口にするようになった作家の一人なのだ。
 面白いのはこのエッセイがネット版「グランタ」のなかでアクセス数がだんとつに多いことで、確かにコメント数が半端ではない。これ以後、誰かが(例外なく白人だとか)アフリカについて書こうとするとき彼の同意や意見を求めるようになったと、またしても辛口ユーモアたっぷりに彼が書いているのは苦笑を誘う。
 だが、最近の論評を見ていると、この一方的なものの見方は、若い書き手によって乗り越えられつつあるようだ。たとえば先ごろ来日したばかりの、サラエボから米国に渡り、そのまま英語で書くようになった作家アレクサンダル・ヘモンがリシャルト・カプシチンスキの『黒檀』を「心得違いの旅」(ヴィレッジ・ヴォイス)と評したり、ケープタウン大学のヘッドリー・トワイドルがポール・セローの新作書評で「ポール、いったいそこでなにをしてるの?」(ニュー・ステイツマン)と突っ込みを入れたりしている。
 アフリカをアフリカ人が内部から書く作品もふえ、外部から書くにしても書き方が変わってきた。これにはナディン・ゴーディマ、ウォレ・ショインカ、J・M・クッツェーといったノーベル賞受賞作家らがパトロンになって開始されたケイン賞の果たした役割は大きい。

ワイナイナのメモワール
 どうやら、西欧人受けするリリカルな文章で「アフリカの心」とか「真のアフリカ」といった「アフリカひとまとめ的視点」から書いたルポルタージュを読むだけで「アフリカを理解」する時代は終ったようだ。
 ワイナイナはその後、二〇一一年にメモワール『いつか僕はこの場所について書く One Day I Will Write About This Place』を発表。独特なビートのきいた文体で、少年期、青年期の思い出を鮮やかに描き出して、大先輩の作家グギ・ワ・ジオンゴから「彼はことばのシンガーであり画家だ」と絶賛された。また彼は、じつはこの作品から削除した章があるのだといって、この一月、四十三歳の誕生日にみずからゲイであることを公表した。ナイジェリアやウガンダで反同性愛法が成立したことに対する勇気ある行動は、世界中のメディアの注目を集めた。ケニアから発信される彼の鋭い批判精神はこれからのアフリカ文学を牽引する大きな力になっていくだろう。

            『How To Write About Africa』(Kwani Trust, 2008)より
             訳および解説は「神奈川大学評論 77号」(2014春号)に掲載
                                      
            

2019/05/22

ビンニャヴァンガ・ワイナイナ逝く

火曜日夜というから、まだ昨日のことだ。ケニア出身の作家、ビンニャヴァンガ・ワイナイナが逝った。享年48歳。R.I.P.

2009.ラゴス
一昨年、南アフリカのソウェトへ移って、昨年12月に結婚式をあげたというニュースが流れたばかりだった。2014年にゲイであることを公表して、ゲイを法的に認めていない自国や、違法とするナイジェリアにも足を運んで活躍していたのに。アフリカでゲイであることをカミングアウトするのは、本当に命懸けの行動なのだ。

2011.サンタフェ
2002年にケイン賞を受賞したとき、次点だったチママンダ・ンゴズィ・アディーチェと友人になって、以来、アディーチェがラゴスで開くワークショップにゲスト作家として何度も参加していた。2009年にデイヴ・エガーズやジャッキー・ケイとならぶ写真では、みんなまだ若い。

 2011年に合州国のサンタフェでアディーチェとワイナイナが対談したときの動画もある。これが傑作だった。

ナイロビ、2013
また、2013年11月にケニアのナイロビで開かれた文学フェスにアディーチェが参加する写真も。

 そして、2015年にはPENワールドヴォイスでは、ディレクターをつとめたアディーチェがワイナイナとハグする写真など、このブログでも何度も登場した作家だった。

2015.PENワールドヴォイス
彼のピリ辛のエッセイ、HOW TO WRITE ABOUT AFRICA は雑誌GRANTAに掲載されて、ダントツのアクセス数を数えた文章だった。2013年の秋に、それを日本語に訳して雑誌に掲載しようと、ワイナイナと直接メールでやりとりしたのは、ちょうどナイロビでKWANI TRUST のフェスの真っ最中だった。忙しいのに、時間を見つけてアップテンポなメールをくれたことを思い出す。結局、エージェント経由でなんとか話がまとまったのはかなり時間がたってからで、くだんのエッセイの日本語訳は「神奈川大学評論 77号」(2014春号)に掲載された。

 心からの追悼の意を込めて、写真を何枚かアップしておく。

2015/05/11

昨日で終った PENワールド・ヴォイス・フェスティヴァル

5月4日から10日までニューヨークでPEN World Voices Festivalが開かれていた。キュレーターがなんとあのチママンダ・ンゴズィ・アディーチェで、フォーカスされたのは「アフリカ」だ。

 参加した作家には、テジュ・コール、エドウィージ・ダンティカ、リチャード・フラナガン、アミナタ・フォルナ、ヤハヤ・ハサン、アラン・マバンクー、マイケル・オンダーチェ、ビンニャヴァンガ・ワイナイナ、ングギ・ワジオンゴ、などなどそうそうたる名前が連なっていた。

「シャルリ・エブド」に賞を与えるとしたPENの決定に異を唱えて、テジュ・コールやマイケル・オンダーチェなどが最後の晩餐を欠席するとか、マバンクーは逆に積極的に賛成の意見を述べてメディアの目をひいたり。ムスリムであるハベバ・バデルーンも少し遅れて異を唱える人たちに加わったことがニュースとして流れた。これはどんな立場にその人が立っているかで大きく意見の分かれるところだろうが、どうも、日本ではイスラム系に連なる人たちの内部からあがってくる声が(外部からながめる評論家の声ではなくて)、圧倒的に足りないと感じているのはわたしだけだろうか。
 
最終日の昨日、締めのスピーチをするアディーチェの映像が流れた。このところ父上の身にふりかかった災難が twitter などに載って、どうなるか、とはらはらしたが、解決したというニュースもすぐに流れたのでほっとしたところだ。しかしながら、おしゃれなアディーチェがアフロヘアそのままでステージに立っているところに、いかにも、駆けつけた、 という感じが出ているかな。
 同志ワイナイナと抱き合うアディーチェの姿も。参加した人たちによって、これから詳細が伝えられることを期待したい。

********
くぼた のぞみさんの写真アディーチェとえいば、「男も女もフェミニストじゃなきゃね/We should all be feminists」を訳しました。

「神奈川大学評論 創刊80号記念号」

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの特別寄稿で、もともとTEDExTalkのピーチを本にしたものです。スピーチはYOUTUBEでも見られます。日本語訳の入手は神奈川大学広報課へ。ぜひ!

2014/09/11

ラゴスで今年もファラフィナ・ワークショップ


ケニア出身の作家、ビンニャヴァンガ・ワイナイナがナイジェリアでインタビューを受けています。

1月にカミングアウトをして世界中のメディアのトップ記事をにぎわしたワイナイナでしたが、今回で9回目になるというナイジェリア訪問は(ファラフィナ・ワークショップ参加のためかな)かなり突っ込んだ話をしています。お薦めです。アフリカの文化事情に興味のある方には、とりわけ。興味のない方にも「アフリカ文学」というなんとも大雑把な旧いラベルで、あの大陸出身の作家たちが書くものを分別したがる読者にも/笑。

 ヨーロッパを中心に「西欧およびアメリカの外国文学」を追いかけてきた、日本に住み暮らす「われわれ」読者にとって、「アフリカ文学」はそれとちょうど対をなす概念だったのかもしれない、といまさらながら気づきます。旧来の「アフリカ文学」というくくりかたそのものが、それぞれの地域の差異をローラーで押しつぶすような、乱暴なものの見方だったのではないかということです。

 それは、インド出身の作家も、中国出身の作家も(じつに多様な)、もちろん日本出身の作家も、ぜんぶ「アジア文学」と呼んでしまい、それでOK! ということに等しいかもしれません。(言語の問題がまた複雑・・・。)
 そういう色眼鏡を通した「アフリカ文学観」そのものに、アディーチェもワイナイナも異議を唱えているように思えます。

 たとえば、アディーチェの作品には「アメリカ」がふんだんに出てくるし、それも金持ちばかり出てくるから、あれは「真正の」アフリカ文学とはいえない、という無茶な意見がいまだにこの土地にも見られますが、おおっと、金持ちばかり出て来たら「アフリカ文学」じゃない、という意見の裏には、「貧困、饑餓、紛争・・・」を描くものこそがアフリカ文学、という恐るべき固定観念がしみついています。
 アディーチェのような作家にしてみれば、いつまで外側から、他者から「真のアフリカはこれ」なんて教えられなければならないのかっ! と怒り出しそうな意見ですね。

 それって、あえていってみれば「ハラキリもゲイシャも出て来ないムラカミの作品は真正の日本文学じゃない」といっているようなものです。まったくの時代錯誤といわざるをえません! 
 
 とにかく、今年もまたナイジェリア国内のビール会社の資金援助を受けて、ラゴスで10回目の Farafina Creative Writing Workshop はにぎやかに開催されたようです(メセナがあの国ではしっかり育っているんだなあ、と思いますね)。「自分(たち)の物語を書く」という若い作家たちが確実に育っている!

 アディーチェはナイジェリアの社会で女性のおかれている位置をなんとかしたい、そのために人の意識を変えたい、それには・・・と考え抜かれた方法論でさまざまな活動をしています。それもあくまで作家として。そのアディーチェの物語が、アフリカ人向けに書かれてないなんていうのは、ちょっとちがうかも! ですね。もちろん、自分の好みに合わないと思う人だってアフリカにはいるだろうし、もちろん日本にもいるでしょう。たんにそういうことでしょう。

2014/04/09

ワイナイナの「アフリカをどう書くか」が「神奈川大学評論 77」に

今朝、とどきました。「神奈川大学評論 77」です。ビンニャヴァンガ・ワイナイナの「アフリカをどう書くか/How to Write About Africa」の拙訳が載っています。この文章についてはすでにここに書きましたので、よかったら!

 最初は、昨年暮れに出た「神奈川大学評論 76」の「アフリカ特集」に載るはずだったのですが、版権の問題をクリアするために予想以上に時間がかかり、今号掲載になりました。

 ワイナイナは1月に、ナイジェリアやウガンダの反ゲイ法に抗議の声をあげるため、みずからゲイであることを宣言してメディアの注目をあびたばかりでした。ワイナイナのカミングアウトについてはこちらに

この号は「ラテンアメリカ特集」で、南映子さんのニカノール・パラの訳詩が載り、柳原孝敦さんの論考が載り、と知った名前がならんでいるのが嬉しい。
 
 アフリカ人の名前の読みは本当に難しい。Binyavanga をいろいろ悩んだ末に、とりあえず、ビンニャヴァンガと表記することにしました。昨年、開かれた Kwani! トラスト創立10周年イベントの動画を見るかぎり、アディーチェなど参加者がそう発音しているように聞こえるからです。

2014/01/23

カミングアウトしたビニャヴァンガ・ワイナイナ

このところアフリカ大陸で勢いを増している、アンチ・ゲイの風潮に抗して、ケニア出身で、2002年のケイン賞受賞作家、ビニャヴァンガ・ワイナイナがこんな動画をアップしています。



 これは全6本のうちの1本です。

 さきごろナイジェリアで反ゲイ法に大統領が署名したり(14年の懲役!!!)、ウガンダで大統領が世界的な抗議のため一時ひっこめた法律を、国会議員たちが昨年12月にまた議会を通過させたり(死刑!!!!!  ヨウェリ・ムセゲニ大統領がふたたび拒否権を発揮したが.....)、このところアフリカ大陸全体に、目に見えたかたちの広がりをみせる「ホモフォビア」。これは子供たちの想像力をはばたかせるためには植民地主義とおなじくらい有害だ、とワイナイナが YOU TUBE にアップした動画で示唆している、と述べるのはこのサイト


 それに先立ち、英国の「ガーディアン」に記事が載りました。そこでワイナイナは、僕はパンアフリカにストだ、しょっちゅう訪問しているナイジェリアには、これまで通り行くつもりだけれど、それが「冒険」になってしまった、と述べています。彼はバード・カレッジのチヌア・アチェベセンターのディレクターで、昨年からケニアに戻りナイロビに住んでいるようです。この記事からは彼が自著『One Day I Will Write About This Place』には入れなかった、母親の臨終のベッドで彼が吐露する「short story」に飛べるようになっています。この話は心打たれます。

 ナイジェリア出身のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェは、「ホモセクシュアルはヨーロッパ白人がアフリカに持ち込んだものだ、と主張する人がいるけれど、それは違う、アフリカにもずっと前からあったものだ、大事なのは愛だ」ときっぱり。

 ワイナイナについては、「神奈川大学評論」の3月刊行号に「アフリカのことをどう書くか/How to Write About Africa」という、彼の辛口エッセイが載ります。

2013/12/13

「神奈川大学評論」にクッツェーとブラワヨの短編を訳しました!

「神奈川大学評論 76号」が出ました。「特集 アフリカの光と影」です。今朝届いた雑誌を見ると、書き手がなかなかすごい。

 わたしはJ・M・クッツェーの「ニートフェルローレン」と、ブッカー賞最終候補になって話題を呼んだノヴァイオレット・ブラワヨの「ブダペストやっつけに」(ブッカー賞候補作の第一章にあたります)を訳しました。
 その前書きとして「複数のアフリカ、あるいはアフリカ「出身」の作家たち」というエッセイも書きましたので、ぜひ!

 目次を見ると、おお! 瞠目すべき、おなじみの名前がずらりです。マンデラ解放時に一大イベントを開いた旧称「マンデラハウス」のオーナー、勝俣誠さんの名がまず目に飛び込んできました。
 ほかにも、カテブ・ヤシンの詩を鵜戸くんが訳している! 1988年からANC東京事務所の専従を務め、南アフリカに長期滞在して活躍していた津山直子さんもエッセイを書いている! アフリカ文学研究者である福島富士男さんがソマリア出身の作家、ヌルディン・ファラの作品について論じている! アフリカと人類学の関係についてはケニア社会に詳しい子馬徹さんが書き、アフロブラジル文化につとに詳しい旦敬介さんが、大西洋間で19世紀に頻繁に往来のあった奴隷海岸(ナイジェリアやベナンなど)とブラジルはバイーアのやりとりについて、具体的な資料をあげながら詳述している(写真もあり)。ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』の書評が中村和恵さんというのも嬉しい。

 ビニャヴァンガ・ワイナイナのエッセイ「アフリカのことをどう書くか」は、残念ながら次号掲載になりました。(版権の問題をクリアするためにあれこれやっているうちに、時間切れになってしまったのです。)雑誌「Granta」に掲載されて議論を呼んだあの刺激的な文章を紹介するのが、もう少し先になってしまったのは悔しいですが、来年3月には晴れて読んでいただけると思いますので、、、ご期待ください/涙。


 

 雑誌の入手方法は、こちらです

***
ちなみに、ワイナイナの辛口エッセイ「How to Write About Africa」を英語でいいから早く読みたいという方はGrantaのこのページへ

2013/11/30

Kwani? Trust の創立10周年記念イベントの写真

ケニアのナイロビで、この27日から開かれていた、Kwani? Trust の創立10周年記念イベントの写真をいくつかアップします。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェももちろんいます。

 ビニャヴァンガ・ワイナイナさんと連絡は取れたけれど、とにかく彼はこのイベントで超多忙。








2013/11/28

複数のアフリカ(後)──ワイナイナのエッセイ

 予定より少し遅れていますが、もうすぐ出ます。「神奈川大学評論 76号 ──アフリカの光と影」

「複数のアフリカ、あるいはアフリカ ”出身 " の作家たち」と幾重にも括弧のつくタイトルで、3人の作家を紹介しました。このブログでも、ノヴァイオレット・ブラワヨ と J・M・クッツェー について書きましたが、今日は残りの一人、ピリ辛エッセイを書いているケニア出身のビニャヴァンガ・ワイナイナについて。
 
(最近までBinyavanga をビンヤヴァンガと表記してきたのですが、小野正嗣さんがある書評のなかで「ビニャヴァンガ」と書いているのを見て、ああ、そうか、ビニャヴァンガだわ、これ、と気がつきました。どうもわたしには変な癖があって、Anya などもついつい「アンヤ」と読んでしまい、Binyavanga もつい最近まで「ビンヤヴァンガ」と読んでいました。訂正します。sorry!)

 さて、今回訳出したのは2005年に、雑誌Grantaの特集号「アフリカからの眺め/The View From Africa」に掲載された 「アフリカのことをどう書くか/How to Write About Africa」という辛口エッセイです。このエッセイで彼が物議をかもしてから早いもので8年にもなりますか。その後、このエッセイは彼自身が立ち上げた出版社 Kwani Trust から出た文庫サイズの薄い本に入りました。右がそのカバー写真です。いかにも皮肉な、挑発的とも思えるイラストです。
 このエッセイ、あらためて読むと、いまだに耳が痛いところがあります。8年前に書かれていますが、古びないどころか、まだまだ鋭さは失われていない。それが良いことか悪いことか、問題は読む側にあるんだよなあ、とはたと考えさせられてしまうのですが、内容としては、ちょうどチママンダ・ンゴズィ・アディーチェのTEDトーク「シングルストーリーの危険性」と対になる、と考えるとその理由が想像できるかもしれません。
 ぜひ、じかに雑誌を手に取って、彼の文章を読んでみてください。これまでさんざん語られてきた靄のかかったアフリカへの視界が、からりと晴れてばっちり見えるようになるかもしれません。

 ワイナイナさんの著書『いつか僕はこの場所について書く/One Day I Will Write About This Place』については、2年ほど前にここに書きました。アディーチェさんの大の仲良し、というか同志というか、よくあちこちにいっしょに出没します。左の写真は2011年にサンタフェで2人がトークをしたときのもので、それについてはここです! トークも聴けるようリンクを貼ってありますので、よかったら。このトークを聞くかぎり、ホントに面白そうな人です。ウィットとユーモアが抜群です。

 今回、メールでやりとりするチャンスがあったのですが、その文面がまたなんともポップな感じでした。彼の著書を思わせる、ビートのきいたことば遣いが伝わってきて。この人のことばは、文体は、まったくもってユニークです! 彼の『いつか僕はこの場所について書く』も、まるでラップのような感じでことばが続き、そのリズムにのせられて読んでいくと、ふっと心打つ憤懣と悲哀が秘められていたり、せつない心情が込められていたり。だれか、ぜひ日本語にチャレンジしてください!!

 27日から、ナイロビではクワニ・トラスト創立10周年のイベントが始まったばかりです。もちろん、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェも参加しています!
 

2013/10/20

複数のアフリカ(前)──クッツェーの『ニートフェルローレン』

立命館大学の生存学研究センターで行われた、「目の前のアフリカ 第4回──アフリカ文学の彩り/White, Black and Others」、無事に終わりほっとしています。

 質疑応答の時間につぎつぎと出た質問の中身がすばらしく濃くて、京都という土地の知的探求の独特の深さを実感しました。まことに得がたい、充実した時間でした。招待してくださった西成彦さん、お世話になったセンターの方々、聞きにきてくださった方々(遠くから駆けつけてくださった方もいて感激!)、本当にありがとうございました。

 その場でもお知らせしましたが、雑誌「神奈川大学評論 76号──特集:アフリカの光と影(11月末発売予定)に「複数のアフリカ、あるいはアフリカ"出身"の作家たち」という文章を書き、つぎの三つの短編とエッセイを紹介します。

 1)J・M・クッツェーの短編「ニートフェルローレン/Nietverloren」
 2)ビニャヴァンガ・ワイナイナのエッセイ「アフリカのことをどう書くか/How to Write About Africa」
 3)ノヴァイオレット・ブラワヨの短編「ブダペストやっつけに/Hitting Budapest」

 以下に、その予告編を少し。


*********
 じつは、J・M・クッツェーという作家は「ニートフェルローレン/Nietverloren」という短編を書いている。アフリカーンス語で「Not Lost/失われない」という意味だ。南アフリカの地図を調べると、実際にモッセル湾のそばに、ニートフェルローレンという名の古いワイナリーが出てくるが、作品内ではカルーのどまんなかに、古くからある農場の名として使われている。

 アメリカからやってきた古い友人カップルといっしょに車で、ケープタウンからジョハネスバーグへ向かう旅の途中、リッチモンドから国道1号線を15キロほど入ったところにあるとされるその農場を、ガソリンスタンドにあったちらしを見て、ランチがてらに訪ねてみる。すると農場で採れた食材を使った料理が出てくる。往事の台所や、羊毛刈りを手作業でやった時代の道具等が、お金を払えばそっくり見学できるという。そう、そこは観光客向けのテーマパーク農場だったのだ。

 この短編『ニートフェルローレン』をクッツェーは、2006年9月の初来日直前にトリノで朗読した。当時ネット上はイタリア語の翻訳バージョンしか発見できなかったが、少なくともそれ以前に書かれた作品であることは確かだ。(Nietverloren って何? とわたしは思いつづけていた。)
 今回、調べてみて発見したのだけれど、2010年6月にツールーズの「南アフリカ作家フェス」で、クッツェー自身が英語で、コメディーフランセーズの女優が仏語で、この作品を交互に朗読している写真もあった(上)。
 
 物語は、ジョンがまだ幼い子供だったころの思い出から始まる。父親がまだ従軍していたころとあるので、1944年前後だろうか。父方の農場へ母親と弟と3人で身を寄せたとき、広大な農場をあちこち歩きまわって発見した、不思議な土地があった。

「円形の剝き出しの平らな地面で、直径が歩いて十歩ほど、円周に石でしるしがつけられ、内部は草一本生えていない土地」、あれはいったいなんだろう、フェアリーリングだろうか、母親にきくと、そうだろうと母親はいう。しかしこんな暑熱の南アフリカに妖精がいるのか?

 ずっと後になって、それがなんの跡だったか、一枚の写真を見ているとき、みるみる謎が解けていく。その円形の土地は、じつは、小麦の脱穀がまだ人の手や馬力を使ってやっていた時代の脱穀所だったのだ。その脱穀という農作業をクッツェーは細かく、細かく描いていく。失われた自給自足農業の手作業プロセスとして。bladder を竿につけた農具、とあるのは、具体的には牛や羊の嚢、とくに膀胱を干して使ったのだろうか?
 
 そんな話のあと、友人たちとの南アフリカ横断(縦断?)の旅の途中に立ち寄ったニートフェルローレンをめぐり、南アフリカの農業事情や、解放後の南アフリカに対するクッツェーの思いが展開される。それがこの短編の、いってみれば筋立てだ。そこには、この地球上の暮らしの変化、歴史などに対する彼の考えが、短いながらしっかりと書き込まれている。

***つづく***

2011/10/18

チママンダ・アディーチェがサンタフェで

さる9月28日に、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェがニューメキシコ州のサンタフェにあらわれました。2009年に出た短編集『なにかが首のまわりに』から「震え/Shivering」を朗読、そのあとケニアの作家ビンヤワンガ・ワイナイナとトークという豪華なステージ、その一部始終をここで見ることができます。(Lannan Foundation の Podcast から動画をゲットしてください!)

 今日のブログにアップした写真とは全然ちがう、ぐっとくつろいだ表情の2人が早口でやりあうステージは、爆笑、また爆笑です!
 「震え」や第一長編『パープル・ハイビスカス』に登場する人物たちをめぐって、なんとも珍妙なやりとりが展開されます。ワイナイナって、こんなに面白いしゃべり方をするんだ! もうびっくりです。

 この「震え」という短編、もうすぐ出る日本独自のオリジナル短編集第二弾にも入る予定ですが(いま再校ゲラを見ています!)、『なにかが首のまわりに』のなかでは唯一の書き下ろし作品です。アメリカで不法滞在をつづけるナイジェリア人男性(じつはゲイ)と、上昇志向のやたら強いジコチューな恋人にふられたばかりのナイジェリア人女子院生の友情とそれぞれの信仰、という、ややもすると深刻になりがちなテーマがコミカルなタッチで描かれた短編ですが、これが出色。

 早く短編集をお届けできるようがんばります! 本のタイトルは『明日は遠すぎて』になる予定。お楽しみに!

2011/08/13

読書、切り抜き帳──Memeza/Shout

One Day I Will Write About This Place』のなかでワイナイナは、1998年にケープタウンに住んでいたころの、あるシーンをこんなふうに記す。

 So, I am sitting in this taxi, floating. The two white women are saying, "Oh, oh. It's so so beautiful, this new Brenda Fassie song." Not a word in English in this first real corssover song in a new South Africa.
  It's the way the song begins ── a church organ, playing on a scratchy old record, a childhood memory of a sound, for the briefest moment, then come her first few words, slurred like she is drunk and far away, the path ── delivered in a soft, childlike candor, and for the next few sounds, we are left alone with her voice, pleading to us softly, vul'indlela, let me in. (p175)

2011/08/12

Memeza──ブレンダ・ファッシー

ひさしぶりに音楽の話。この夏はこれ!

 ビニャヴァンガ・ワイナイナの『One Day I Will Write About This Place』を読んでいると、いろんな名前が出てくる。とりわけ、1990年代前半を南アフリカですごしたワイナイナにとって深く刻印されているのか、当時の激動期にメディアをにぎわした名前がふらっ、ふらっと日常的な感覚であらわれる。そこがとても面白い。たとえば:

「自己憐憫の音楽が聞こえる。ケニー・ロジャーズとドリー・パートン」とか「安宿の部屋にもどってリアリズムと刺すような散文を読みたい。たぶん、クッツェー? それで俺はふたたびプロテスタントになるだろうな。ナイポール。狭量だが、すがすがしいなにか」 

 ネルソン・マンデラ、クリス・ハニなど政治家の名前にまじって、あるときブレンダ・ファッシーの名も出てきた。南アフリカの一時代を駆け抜けたシンガーだ。

 1964年にケープフタウンのタウンシップ、ランガに生まれて小さいときから観光客相手に歌を歌ってお金を稼いでいたブレンダ。16歳でジョバーグへ出てからスターダムをのぼりつめて、アルコール、薬、同性愛、結婚の破綻と、あらゆるスキャンダルと名声のしぶきを一身にあびたブレンダ。そのブレンダの結婚相手の兄だか弟だかが目の前にあらわれる場面をワイナイナはメモワールとして書ける「場」にいたのだな。

 ブレンダ・ファッシーをいま一度「密林サイト」やグーグルで調べてみる。当時、わたしはブレンダの音楽にはあまり興味がわかなかった。音楽も映画も絵画も文学も、あまりに政治的な文脈をひっかけて語ったり、ステロタイプなイメージを売りにするメディアに、じつは、ちょっとうんざりしていたのだと思う。そしていま、ワイナイナの本のなかで出くわすブレンダの歌に思わず、オッと声をあげる。

 買いました、CD。これです。「Memeza」じつに良い。時間がたってもまったく古くならない。1999年盤です。

ちなみに、ビニャヴァンガ Binyavanga という名前はケニアでは耳慣れない名で、たいていの人が一回で覚えてくれないとか。彼のお母さんはウガンダのナンディ人だったようだ。 
 右の写真は2002年に第3回ケイン賞を受賞したときのワイナイナ。

****
追記:2011.8.13 New York Times にワイナイナの本の書評が載りました。こちらです。

2011/08/10

待望のビニャヴァンガ・ワイナイナの新著

ビニャヴァンガ・ワイナイナ/Binyavanga Wainaina の『One Day I Will Write About This Place」を読んでいる。仕事を放り出して読みたくなるので、ちょっと困る。

 1971年にケニアで生まれたワイナイナ、少年時代の話からはじまり、南アフリカのトランスカイ大学に留学していた90年代の話、帰国して故郷に帰るとちゅうのナイロビの話など、いろいろ。
 memoir とうたってある。そうか、自分の生地(リフト・ヴァレー州のナクル)や故国や、アフリカ大陸や、そこに住み暮らす人たちの姿を「外部の目」からではなく、もっと身近な人の目線から、シンパシーをもって(批判も含めて)、彼ら自身の物語として書かれたものを読みたい、だから自分で書きたい、と思っていたことがひしひしと伝わってくる。

 文体がいい。スワヒリ語やキクユ語や、南アにいるときはその土地のことばや、とにかく、「説明」ぬきでどんどん取り入れるラップのような文章なのだ。細かなところまで全部「わかる」わけではないけれど、彼が書きたかったことの中身はよ〜くわかる。
 見聞きしたこと、体験したこと、それを等身大の目で描く。視線はかぎりなく地面に近い。

 おなじケニアの大作家、グギ・ワ・ジオンゴの賛辞はこうだ。

「ビニャヴァンガ・ワイナイナはシンガーであり、ことばの画家だ。読者に、匂いを、音を、手触りを、光景をありありと伝える。とりわけ、ケニアやアフリカで起きている事柄の表層を生き生きと具体的に捕えながら、その下で繰り広げられる生のドラマとバイブレーションを感じさせるところがすごい。どの行からも、どのパラグラフからも、生活と、笑いと、パトスがはじけてくる」
 
 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェが毎年ラゴスで主催するワークショップに、ワイナイナは第一回から毎回欠かさず、ゲストとして参加している。アディーチェとは友だち、というかほとんどコムラッドに近いかも。第三回ケイン賞をワイナイナが受賞したとき、アディーチェは次点だった。2002年のことである。