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2014/11/19

ドキュメンタリー映画「TOKYO アイヌ」

 昨日は明大前まで出かけた。アデレードから帰ってきて初めての外出。1.5時間の時差にすっかり馴染んでしまい、朝早く目が覚める。その分、夕方から夜にかけて、早く眠くなる。

 でも、出かけた。だって、畏友、中村和恵さんがコーディネーターをする映画会だもの。もっと早く宣伝すればよかったけれど、行って、観て、ゲストである宇梶良子さんのお話を聴いて、やっぱりこれは書いておきたい、と思った。おそらくまだまだどこかでこの映画が上映される機会はありそうだから。ドキュメンタリー映画「Tokyo アイヌ」。淡々と語られることば、流れる映像。
 こういう映画がいまの大学や大学院の授業で上映されて、ゲストにアイヌのヒトがやってきて話をしてくれて、会場からは活発な質問や意見が出て、という展開はまだまだたくさん必要なことだと思う。

 わたしが生まれ育った1950年代から60年代にかけての北海道は、いま思うと「アイヌを滅びたことにしてしまう風潮」がきわめて根強い時期だった。そのことがどれほど disgraceful な/恥ずべきことか、身にしみて理解したのは18歳のとき東京に出てからだった。それから長い時間が経ってしまった。

 あらためて言うまでもないことだけれど、「アイヌ問題」などという表現はまるでアイヌのヒトに問題があるような印象をあたえてしまって不適切きわまりない。問題があるのはむしろ「和人/シャモ」である日本人のほうなのだということを肝に銘じたい。ワジンと呼ばれる側の人間こそが問題行動をしてきたことを深く認識しければいけないのだ。

次第に変わってきたとはいえ、まだまだ根本的な認識は変わらなければならないだろう。それを昨日の映画会でもあらためて確認したのはとても良かった。そして気づいたことは、ゲストである宇梶良子さんのことば、「あなたのすぐ隣にアイヌはいます」だった。
 首都圏には大勢アイヌの人たちが暮らしている。その理由は、わたしが片田舎から大都市東京に出てきた理由とそれほど大きな違いはないのかもしれない。

 それにしても右上の刺繍がすばらしい。映像でしか見ていないけれど、実物はこの上にものすごい目をした迫力の梟がいるのだ。映画にも出てくる。昨日のゲスト、宇梶良子さんのお母様、宇梶静江さんの作品だという。

2013/08/17

クッツェーに「あなたが描く母親が面白い」とわたしはいった

初対面でいうことだっただろうか? いまになってみればちょっと疑問に思うけれど、そのときはクッツェーの作品を読んで自分が考えたこと、感じたことをストレートに伝えることしか頭になかった。これが最初で最後かもしれない、この作家と会うのは、と思ったこともあった。とにかく伝えたかったのだ。

 あなたの作品に出てくる母親像が面白い。

 ジョン・クッツェーにそう伝えたのは2006年9月末、彼が初めて来日したおり、早稲田のホテルで会ったときだ。そのときまでに訳していた『マイケル・K』にしても『少年時代』にしても、母親の存在は圧倒的だ。それを聞いたクッツェーは「ええっ?」というような表情をした。無理もない。

『マイケル・K』では物語の最初のほうで、自分は母親の世話をするために生まれてきた、とマイケルに言わせるが、その母親アンナは農場のある地へ戻ろうとする旅の途上で死んでしまう。第二章では医師に、マイケルと母親の関係をいみじくも、ある意味、適確に分析することばを吐かせる。
 この母親像の描き方は何だ? と作品を最初に訳していたときに思ったのは紛れもない事実だ。『少年時代』も『青年時代』まだ発表されていないころのことである。
 しかし、三作目として訳した『鉄の時代』は母親そのものが話の中心になっている作品。これもまた否応なく心に引っかかった。『In the Heart of the Country/その国の奥で』を訳さないかと勧められたとき、『鉄の時代』ならやる、といってお断りしたのは正解だった。その後、わたしが訳すクッツェー作品には必ずといっていいほど、ある種、強烈な存在感をもつ母親像がちらりちらりとあらわれる。このこだわり方はなんだったのだろう?
 
 今年3月に彼が三度目の来日をしたとき、何人かの人たちとディナーをともにした。ベジタリアンのディナーではあったが、なかなか濃厚な味のディナーだった。その席で、どういういきさつだったか、わたしがクリスチャンとして北海道で生まれ育ったとことを口にすると、隣に座ったジョンがくいっと顔をあげ、がぜん興味を示し、矢継ぎ早に質問が飛んできた──なぜか? あなたが生まれたのは北海道なのか? なぜ両親はクリスチャンになったのか? 
 詳細はわたしにもわからない。しかし、その事実はこの日本で、いや、北海道という先住民アイヌびとの土地へどかどかと入り込んでいった者たちにとって、どういう意味をもったか、その後、彼らの子供たちの自己形成にどのような影響をあたえたか、これはずっと考えてきたことで、これからも考えていかざるをえないことなのだ。

 それは、あらたな課題が目の前にくっきりと立ちあがった瞬間でもあった。
 

2013/06/09

60のゆりかご



アイヌの人たちの子守唄。たただた、耳をじっと傾けていたい。この、いま、というときのために。


アイヌ語のカタカナ字幕のつぎに、日本語の字幕の入ったバージョンを。

2013/06/01

アイヌ模様のT-シャツ

 駆け足で行って帰った札幌ですが、帰りがけに地下鉄の乗り換え駅「大通り」の近くにある Yuiq というお店にちょっと寄ってみました。ToyToy屋さんのT-シャツがおいてあると聞いていたからです。

 ありました、ありました。手に取ってみて、これはいいと思って買おうとしたら、サイズがなかった。
 そこで、ToyToy屋さんのネットショップに注文して買ったのがこれ! 

「アフンルパル」でおなじみの小川基さんがデザインした、アイヌ模様のT-シャツです。
 
 上の写真、迫力満点の模様が描かれているのが背中、下の写真が前面です。タグの部分にも細かな模様が描かれています。

 色はネイビー。

 今年の夏は、このT-シャツを着て出かけようっと。



 

2011/03/01

水牛のように── 詩を書いて

水牛のように」という月刊の Webマガジン(といっていいのだろうな)に詩を連載しはじめて約2年になる。1、2度休んだことがあるけれど、ほぼ毎月書いてきた。

 それらの詩はこのブログの右側「café」にリンクさせてあるので、いつでも読むことができる。

 たいていの詩に、ある山の名前が出てくる。「ピンネシリ」、アイヌ語で「男の山」という意味だそうだ。でも、どういうわけか、そのことを知ったのはつい最近で、いや、どこかで何度か聞いたことがあったかもしれないが、記憶されず、深く認識されないままきてしまった。なぜだろう? いくつか思い当たることはあるのだけれど、どれも決定的な理由とはいいがたい。
 
 幼いころ、北海道の地名はおおかたがアイヌ語起源であることは、母から聞いて知っていた。そのときは「ふ〜ん」と思うだけで、それが意味するところまでは考えることができなかった。考えないまま北海道を出てきてしまった。
 考えなければいけないと気づいたのは、それからずいぶん時間が経ってから、幼いころは「滅んだ」と教えられたアイヌの人たちは「滅んでなんかいないのだ」と知ったときだ。勝手に「滅んだ」と決めつけたのはシャモ(和人)であって、滅ぼそうとしてきたのもシャモだと知ったときだ。村の小学校では開拓史の苦労話ばかり教えられた。そういう時代だったのだろうか。いやそれだけではない。

 80年代になって早稲田大学で「アイヌ語」を学ぶ講座があることを知ったけれど、そのときは、ちいさな3人の子どもたちの世話に明け暮れ、始まったばかりの「アンニョンハシムニカ」をきくことで精一杯だった。しかし、それも長くは続かなかった。ハングル文字が出てきた時点で、ほぼギブアップ状態になってしまったからだ。

 ひょんなことから、南アフリカの作家の小説を訳すことになり、南アフリカ文学、南部アフリカ事情に深入りすることになったときだっただろうか、幻視の地平線はるか遠くに、青い山なみがぽっかりと浮かんできたのは──。
 それでもすぐに日本の北へ向かうことはなく、ひたすら南アフリカの文学に──とりわけ、J・M・クッツェーという、ヨーロッパからの植民者の末裔としてケープタウンに生まれた作家の作品群に──さらにはアフリカから出てくる文学に惹きつけられ、こだわりつづけてきた。

 距離感がほしかったのだろう。私自身が植民者の末裔であるとあらためて知ったとき、そのことを考えるための歴史的な時間軸に裏打ちされた「遠くから見る堅固な足場」が必要だったのだろう。

 自分が生まれた土地を曇りなく、しかも、余計な感情を交えずに、冷静に見る視点ができるまでに30年近くかかったことになる。まさに「水牛のように」である。やれやれ。
 そしていま、ようやく「ピンネシリ」と向き合えるようになった。そう思う。

(左の写真はネットから拝借しました。あしからず)

2010/10/10

『半分のぼった黄色い太陽』が21の言語に翻訳された

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェのヒット作『Half of a Yellow Sun』は2006年に発表されてから、すでに多くの翻訳が出ている。(詳しくはリエージュ大学のダリア・トゥンカ氏のサイトを参照。)このたび日本語版が加わって21の言語ということになった。

「21カ国語」と書きたいところだけれど、一言語一国家ではないので「◯◯カ国語」とは書かない。 
 日本では「母国語」という表現が長いあいだ、なんの疑問もなく使われてきた。一国家一民族というフィクションが当然のように語られてきた時期とそれは重なる。それが「意図的な幻想」以外のなにものでもないことは、いまさらアイヌの人たち、沖縄の人たち、朝鮮半島出身の在日の人たちのことを持ち出すまでもなく、自明の事実だ。
 ところが、ある年齢以上の人たちにとって、これがかならずしも「自明」ではないところが厄介だ。もっと厄介なのは、現代日本語のなかに「何カ国語」という表現がしっかり根をおろしていることである。だからつい人口に膾炙したその表現に頼りそうになる。おっと、いけない、違う、違う、と意識しなければ、耳障りのよい表現をそのまま使ってしまいそうになる。実際、この表現はまだまだ目にする。とりわけジャーナリズムの世界では厚い壁のように立ちはだかるのを感じる。

 アフリカ大陸出身のたいていの作家にとって「母国語」という表現はあてはまらない。たとえばアディーチェの場合は250以上の民族が住む国ナイジェリア出身で、民族はイボである。「マザー・タング/母語はイボ語ですか?」と質問されると、彼女は「家族や親しい人たちとはイボ語で話すけれど、教育はすべて英語で受けたので、英語で考え、英語で書きます」と答える。

 大学町で育ち、幼いときから英語の本に馴染んで育った彼女は二言語(家の外ではヨルバ語やハウサ語を含む多言語)空間に生きてきた人だ。それでも本音の感情を伝え合うときはイボ語になる。実際、今回の来日時もそんなやりとりを何度か耳にした。この辺はとても微妙。

 以前、南アフリカ出身の人たちと接したときも、それと似たような体験をした。南アでは小学校の低学年までそれぞれの民族言語で学び、途中から英語になる。アディーチェよりは自民族言語で「書く」習慣が多少はあると考えていいのだろう。ズールー語やコーサ語での出版もある。
 アディーチェは、イボ語で書くことは考えられないと語った。『半分のぼった黄色い太陽』では、執拗に「英語で」とか「ピジン英語で」とか「イボ語で」とト書きが入っていて、言語への強いこだわりが書き込まれている。それが語り手の置かれた位置を明らかにもする。
 大学講師のオデニボが「アフリカで白人のミッションが成功した理由は?」と英国人リチャードに唐突な質問をし、「英語で僕は考えている」と述べる場面があった。英帝国による「精神の植民地化」手段としての徹底した英語教育の結果を、憤怒をもって大学人が語る場面だ。

 アディーチェが多くの対談やインタビューを精力的にこなす場面に同席しながら、作中のその場面を何度か思い出した。そして「旧植民地出身の作家にとっての言語」問題の複雑さについて考えていた。

*カヴァー写真は上から、オランダ語版、ヴェトナム語版、イタリア語版、ボスニア語版。
 ちなみに21言語とは、オランダ語、ドイツ語、スウェーデン語、ノルウェー語、デンマーク語、スペイン語、セルビア語、ボスニア語、ギリシア語、スロヴェニア語、イタリア語、フランス語、ポルトガル(ブラジル)語、チェコ語、ヘブライ語、ポルトガル(本国)語、フィンランド語、ヴェトナム語、ポーランド語、シンハラ語、日本語。

2008/12/17

アフンルパル通信

北海道という北の少し大きな島のなかの、いちばん大きな都市サトポロの郊外に「トヨヒラ」という土地がある。
 そこに住む若い出版人が「アフンルパル通信」という、とても不思議なかたちの小冊子を刊行している。すでに6号まで出ている。
「アフンルパル」というのはアイヌ語で、意味は・・・さあ、調べてみてほしい。ちょっと怖い話だよ。

 北海道は旧植民地だった。まちがいなく「植民地」だった。私はアイヌ語で「トップ」と呼ばれていた土地で生まれ、そこで育った。入植者の末裔、とまではいかないけれど、祖父母の代が入植者だった人間である。このことときちんと向き合うために、ずいぶん長い時間と準備が必要だった。長い、長い、机上の旅が必要だった。アフリカまで行ったのだから。

 さて、その日本国内の旧植民地、つまり私の「故郷」でもある北海道との抜き差しならない confrontation がもうすぐ始まろうとしている。そんな気がする。この「アフルンパル通信」はその契機になるだろう。
 第6号に掲載されている、管啓次郎さんの詩「AGENDARS 13」がまたいい。