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2017/06/04

ボードレール、だれそれ?


明後日6日発売の雑誌「すばる」7月号がなんと「詩」の特集を組んでます。

 わたしも「ボードレールと70年代」というお題をいただき、あれこれ考えているうちに、学生時代のことをリアルに思い出して書きました。
 当時通った狭い敷地の大学に、「造反教官」と呼ばれた2人のすばらしい教官がいたこと。もちろんカッコイイ先生はほかにもいたのですが、ダントツに強い記憶に残っているのは安東次男と岩崎力のご両人、いずれもフランス文学を教えていた人たちです。安東教授に対する一方的かつ理不尽な教授会からの弾劾辞職勧告決議に、日本フランス語学文学会はすぐさま抗議声明を出したのは快挙でした。当時の世相がどんなものだったか、レジスタンスのありかたなんかも少し。記録として。
 また、阿部良雄責任編集による1973年5月刊の雑誌「ユリイカ、ボードレール特集号」にずらりと並んだ、そうそうたる面々も書き写しました。記録として。

 昨年出した『鏡のなかのボードレール』(共和国)を書くことになったいきさつや、JMクッツェーの個人ライブラリーの最終巻『51 poetas/51人の詩人』に『悪の華』から入った4つの詩篇「スプリーン(憂鬱)」についても。あいからわず、話は「一つ所に滞らない」どころか、じつにあちこちにジャンプします😆。

 タイトルは「たそ、かれ、ボードレール」!
 そう。「黄昏ボードレール」です、というよりむしろ、ぶっちゃけた話、「だれそれ、ボードレール?」って感じでしたね、あのころは。😇!



2017/04/09

抒情詩との決別──安東次男のことば

 安東次男氏が逝ってから15年がすぎた。今日4月9日は彼の命日。1950年8月、安東次男は初詩集『六月のみどりの夜わ』を出した。「あとがき」から引用する。


 ぼくは時には政治という風景を、時には文学という風景をじぶんに許されたものとしてしらずしらずそれをゆるめたかたちで書いてきたようにおもう。しかしこれは安易にあまえた態度であり、最後のぎりぎりのところでじぶんの人間的立場をあいまいにするものだということを感じはじめている。
 そういうところからぼくはもういちど歌いなおさねばならぬ。ぼくにはアラゴンのいうような「たたかい」も「人」もうたえてはいない。そのことはぼくに、あらゆる「たたかい」の場に於て──ぼくがそれを黙認してきたかたちになつたかつての日本帝国主義侵略期の戦争をもふくめて──いかに抵抗を持ちつずけることがむつかしいかということをおしえた。このおしえはぼくにとつてもう決定的なものとなるであろう。
 そういうところからぼくは持続する歌をうたっていきたい。感情の高まりの頂点に立つような歌ではない。感情の低まつた谷間谷間がそのままで頂点に立つような歌をだ。

(下線は引用者)


人それを呼んで反歌という

「叙情詩は危ない」時代がある、という危機感をもったのはいつだろう。抒情的なものに感動し、なにかと一体化する至福感に酔って、足元を一気にすくわれていくのは危ないと思ったのはいつだろう。抒情的なものに満たされる自分がいることに気づいたときがあった。日本的抒情(あわれ)が現実を見えなくすることにも、そのとき気づいた。うっとりと溶ける、自他の境界が消える、それはこの土地では、下手をすると、自己憐憫や自己惑溺と表裏一体だ、という覚醒が危機感のように襲ってきたのはいつだろう。


 抒情については、1969年の激動の時間のなかでよく考えた。それはよく覚えている。抒情というのとは少しずれるが、セックスによって全宇宙との一体化をめざすヒッピー思想が嫌いだったのは、それが理由かもしれない。女は当然のように「一体化される客体」としてもとめられた時代だ。それを称揚する歌も流行った。奥村チヨの「恋の奴隷」、広田三枝子の「人形の家」。和製フォークもひどく薄っぺらく思えた。いつか足をすくわれる、日本浪漫派のように、と思った。

 暴力について、人と人がかかわることについて、両方の立場から考えてみることを自分に課したのもそのころだった。人とのかかわりが、結果として、抑圧や暴力となってしまうことがあるのかと、愛も、情も、そういうものを伴わずにはありえないのだろうか、と。


 以来、ぬくもりはいつも渇いた場所で見つけてきたように思う。男も女も、厳しい表情がふいに破れて笑顔になるときほど、その人の優しさが強く感じられるときはない。

 たぶん、抒情詩と別れたのは、あの時代だったのかもしれない。うっとりする、足をすくわれる、それはなにかに盲目になることを意味すると、気づいてしまったからだ。Love is Blindという歌に、だから、泣いた。


 安東次男のことを、晩年は「国内亡命者」のように暮らしていた、といったのは確か 粟津則雄氏だった。

 この国を捨てばやとおもふ更衣   流火

 しかし、いまにして思えば、安東次男のことばは、あの戦争に駆り出された被害者としての自己認識はあっても、加害者としての自己認識は不完全だった大正生まれの、わたしの親の世代に共通するものだったかもしれない。

「自然は じつに浅く埋葬する」と歌った詩人は、日本語の外部へ出ることを最終的に恐れ忌避した。その問題を問題として問いそこねた次世代である「われわれ」は、いま、まだ不完全な自己認識を、自己への批判性を、時代の裂け目に試されているような気がする。


2014/06/29

あわれ怒りは錐をもむ ── 安東次男「六月のみどりの夜は」再録


2008年7月に書き込んだものを、ここに再録します。
************


かこまれているのは
夜々の風であり
夜々の蛙の声である
それを押しかえして
酢のにおいががだよう、
練つたメリケン粉の
匂いがただよう。
ひわれた机のまえに座って、
一冊の字引あれば
その字引をとり、
骨ばつた掌に
丹念に意識をあつめ
一字一劃をじつちよくに書き取る。
今日また
一人の同志が殺された、
蔽うものもない死者には
六月の夜の
みどりの被布をかぶせよう、
踏みつぶされた手は
夜伸びる新樹の芽だ。
その油を吸つた掌のかなしみが、
いま六月の夜にかこまれて
巨大にそこに喰い入つている。
目は頑ななまでに伏目で
撫でつくされ
あかじみて
そこだけとびだしてのこつている
活字の隆起を
丹念にまだ撫でている、
それはふしぎな光景である
しかしそのふしぎな光景は
熱つぽい瞳をもつ
精いつぱいのあらがいの
掌をもつている、
敏感な指のはらから
つたわつてくるのは
やぶれた肉に
烙印された感触、
闇にふとく吸う鼻孔から
ながれこんでくるのは
はね返している酢の匂い、

五躰は
夏の夜にはげしくふるえている、

かこまれているのは
夜々の風であり
夜々の蛙の声である、
それらのなかで
机は干割れ
本や鍋や茶碗がとび散つて
それにまじつて
酢で練つたメリケン粉の
匂いがただよう、
いまはただ闇に
なみだ垂れ、
ひとすじの光る糸を
垂れ、
あわれ怒りは錐をもむ、
やさしさの
水晶の
肩ふるわせる……
そんな六月のみどりの夜は
まだ弱々しい。
        (1949・5・30事件の記念に)

                定本『安東次男著作集第1巻』より



************
「1949・5・30事件」というのは、この日、都議会で公安条例制定反対のデモ隊3千人が警官隊と衝突し、1人が3階から落下して死亡した事件のことだ。それから65年とひと月の時間が過ぎて、この土地に。
2008年のそのとき、この国がいまのような状態になると、いったい誰が想像しただろう。2014年6月末日、「集団的自衛権」という名の戦争への加担を可能にする、現政権の明確な憲法違反行為に抗して。


2012/06/27

世田谷美術館「駒井哲郎展」に行ってきた

先週の雨の日、砧公園にある世田谷美術館に行ってきた。前から行きたいと思っていた版画家、駒井哲郎の展覧会である。

駒井哲郎(1920-1976)という名は、安東次男との共同作品『カランドリエ』『人それを呼んで反歌という』という詩画集に心うつ作品を残した人として、わたしの学生時代の記憶のなかで大きな位置を占めていた。

今回の展覧会はその駒井哲郎のほぼ全生涯にわたる作品が展示されていて圧巻。あの線描と落ち着いた渋い色遣いが大好きだったので、作品をまとまったかたちで見ることができて本当に感無量だ。なつかしい本や、雑誌の表紙なども展示されていて、一枚一枚たどっていくと、何層にも重ねられた記憶の時間のトンネルを抜けていくような不思議な感覚に襲われた。そしてあらためて思ったのは、この時期の日本のアーティストたちというのは、その創作のエネルギーの大半を自意識との格闘に費やしたのではなかったか、ということだ。

これは資生堂名誉会長の福原義春氏のコレクションだ。福原さんとは以前、NHKの「週刊ブックレビュー」でごいっしょさせていただいた。4月29日の「コレクションを語る」というトークはぜひ聴きにいきたかったが、残念ながらかなわなかった。
毎週土曜日には子供から大人まで参加できる版画のワークショップも開かれている。期間は7月1日が最終日。残すところあと4日だ。できれば、もう一度行きたい。

2012/04/10

安東次男と花蘇芳

「花蘇芳(はなずおう)」ということばを知ったのは故安東次男の著作からだったと思う。北海道にはない植物のひとつだ。濃い紫がかった桃色の、ちいさな花を房状につける樹木。桜が終わったころに咲きはじめる。

 昨日、4月9日は故安東次男の命日だった。彼が他界して10年がすぎた。

 安東次男が逝った2002年はひときわ暖かな春で、3月末にはすでに桜は満開。千日谷公会堂でおこなわれたお別れ会で、多恵子夫人は、彼が病院の担架車にのって庭で満開の花を見おさめて逝ったことを語った。そのときの夫人のことばのなかには、こんなことばもあった。それを折に触れて思い出す。

「安東は天上天下唯我独尊の人でした」

 このことばは、時がたつにつれて、聴いたものの耳のなかで次第に重さをましていく。さまざまなシーンが脳裏をよぎる。すでに逝った人たちの姿もちらほら見える。そして彼が残したことばたちのうえに、多恵子夫人のことばが羽衣のようにふわりと落ちる。

 時の風がことばのうえに吹きつけて、文脈を剥ぎ取り、意味だけをあらわにしていく。倒れた樹木が風雨にさらされ、森のかげで、草原の陽の下で、白っぽい繊維だけを残すように。

 その号が流れる火を抱いた草の堂であればなお。

2011/10/23

1969年復刊「ユリイカ」創刊号

住まいを上野から日野へ移したとき、多量の書籍や雑誌を預けることにした。3人のちいさな子どもたちを連れての引っ越し先には、限られたスペースしかなかったからだ。
 書籍はその後も増えつづけ、成人した子どもたちから「この家は本棚以外の家具がほとんどないんだよね」とあきれられた。彼/彼女たちにとっては、自分の育った家に対する認識を新たにしたともいうべきことばである。

 最初の引っ越しから20年後にまた引っ越した。おびただしいダンボール箱の中身がまたしても、ほとんど書籍だった。とはいえ、かつて預けた書籍を放っておくわけにはいかない時期がやってきていた。先日、整理に出かけた。
 思い切って手放すことにした雑誌類のなかに、1969年7月に復刊された「ユリイカ」創刊号があった。表紙といっしょに、安東次男が書いた「復刊によせて」と清水康雄の「編集後記」をここにアップしておく。

 復刊された創刊号が出た1969年7月は造反教官と呼ばれた安東次男にとってはまさに「乱世」、わたしにとっては「19の夏」で、それでも、編集後記にあるように「人間の死を喰べる神」が寝そべっている文学の深淵は、いまもどこかに横たわっているような気がしている。

*************
復刊によせて  安東次男

『ユリイカ』といっても、あれはいつからいつまで続いた雑誌だったか、と私でさえすぐには思いうかばない。ずいぶん昔のことのような気もするし、つい昨日のような記憶もある。社主であった伊達得夫の貌もそうだ。昭和三十一年十月号創刊、同三十六年二月号まで、よたよたと、頁数もふえたりへったりではあったが、ともかくも続いた。続いたというよりは、伊達は四苦八苦して懸命に出しつづけた。終刊になったのは、このペシミスチックな情熱家が、三十六年の一月十六日に急逝したからだ。まだ四十一歳だった。内気で気の弱い性格の反面、気むづかしいまでに理想家肌だった伊達は、ある意味で慎重でぐずだったが、いったん計画をきめると傍で見ていてあきれるほど強引にそれをやってのけた。惚れこむと、けっしてあきらめなかった。相手をこわさないように細かな気をつかいながら、根気づよく待つすべも心得ていた。名編集者だったし、名伯楽だった。金さえあればすぐれたパトロンにもなれた男だった。那珂太郎、吉岡実、清岡卓行、山本太郎、吉本隆明、飯島耕一、中村稔、大岡信、等々、その年齢層もかれの同世代から一世代後までにわたって掘りだしてきて、詩人というものを一応世間的にも通用するものとして押し出したのは、かれの惚れこみようと、目の確かさだった、といっても言い過ぎではあるまい。いまや現代詩の地図は目まぐるしく塗り替えられて、これらの詩人たちをも、ともすれば旧人の側に追いやりかねない勢いだが、伊達の仕残した仕事の意味は、そういう新旧世代の交替の中に埋没しさるものでもあるまい。このたび清水康雄君から、伊達夫人の快よい同意を得て第二次『ユリイカ』を創刊したいときかされたとき、私は乱世に一人の知己を得て心の温たまる思いがした。同君がかねがね、敬愛する故人の衣鉢をつぎたい意志を持っていたことを私は知っていたし、識見、経験、人と為りいずれの点から見ても、最もふさわしい人、と私には思われるからである。私もささやかな協力をしながら、この火を守り育ててゆきたいと願う。

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編集後記
 かつてのユリイカには、文学の自由と冒険があふれていた。詩の雑誌であったが、詩だけの雑誌ではなかった。
「日本の文芸雑誌は、文学の雑誌ではなく、小説の雑誌だ」とだれかが書いていたことを覚えているが、たしかに、詩や批評を主流とする欧米の文学雑誌にくらべれば、そのような感もないではない。
 ユリイカは、詩と批評を中心に、しかし、領域や形式にとらわれず、あくまで自由に、文学の自由と深淵をめざす雑誌でありたい。
 文学の深淵には、人間の死を喰べる神が寝そべっている。
 復刊第一号の編集をおえて目に浮かぶのは、やはり、亡くなった伊達得夫の姿である。伊達さんは飄々としていた。おそらく、いまも飄々としているのだろう。
 ユリイカの復刊は私の夢であった。(清水康雄)

2011/04/16

このくにを捨てばやとおもふ更衣

このところずっと考えてきたことを言い当ててくれた翻訳家がいます。
 それまでほとんど毎日のように更新されていたブログが、3.11以降ぴたりと止まってしまい、どうしたのかと思っていましたが、今日のブログを読んでわかりました。池田香代子さんのブログ

「ふくいちよう、いつまでもくもくするつもりだ」という表現をtwitterで発見した池田さんはこう述べます。

***
「ふくいち」とは、言わずと知れた福島第一原子力発電所のことで、東京電力がつけた略名です。親しみ深さを狙っているのでしょう。それをそのまま受け止めて、「つもり」という語をつなげて、恐ろしい過酷事故を起こした原発をかわいらしく擬人化しています。過酷事故による放射性物質放出も、「もくもくする」とユーモラスに表現しています。

「ふくいちよう、いつまでもくもくするつもりだ」

そう書いた方に、この事態を矮小化する意図はなかったでしょう。そうではなく、「ふくいち」にこうして呼びかけて、哀しみを表現しているのだと思います。これが私たちの、綿々と続いている心性なのではないでしょうか。「私たち」がどのような範囲を示すのか、私にはわかりません。古来、この列島に住まう人びとなのか、アジアなのか、その一部なのか、あるいは地理的境界に意味はなく、権力からの遠さが「私たち」を規定するのか。わからないままに「私たち」と言っています。

怒るのではない。そこにあるのは哀しみ。どんな凶悪な厄災にも、「ふくいちよう」と呼びかけて、呼びかけ可能なものに変換して、引き受ける。引き受けてしまう。逃げない。たたかわない」

***
 これを読んで思いました──日本人ってホントに、どうして怒らないの?(今日ばかりはステロタイプにも「日本人」ということばをわたしも使います!!)これほど生命が軽んじられているというのに。こんな理不尽がおこなわれているというのに。憤怒はふつふつとわいてきます。憂いに沈むこともあるけれど、沈んでばかりもいられないじゃない・・・子どもたちのことを考えると。

 再度いいたい! 地震と津波、これは天災です。でも、原発事故はあきらかに人災です。人災は人が作り出した災厄です。おなじ過誤をくりかえさないために、徹底的にその原因を明らかにして、責任の所在も明らかにして、防御する手だてを講じることができます。だから、

 人災を天災みたいに受け入れないこと!

 無力感におちいらないためにも、本来はメディアは決定権をもつ人たちの行動をチェックしなければならないはずです。決定権をもつ人=権力をもつ人です。ジャーナリズムは権力をチェックする、メディアの存在意義はそこにある。

 ことばに関わる人間の「希望」もそこと深くつながっているはず。

 日本のメジャーなメディアが世界中から批判されているのは、ここではないか。とりわけTVは・・・わずかな例外をのぞいて権力の出先機関になっている。その構造を日本人は受け入れてきた? はるむかしから? そんなのいやだな、わたしは。生きているかぎり。

 多くの人がたたかわない? ずっと、ずっと? 命じられたことはするけれど、ひとりの個人として、おのれの心の底の声を聞いて、なにものかに抗い、たたかうことがない? たたかうという行為がいま一人の「他者」を発見すること、「他者」へはたらきかけること、「他者」との連帯=愛をも可能にすることなのに。諦観は、その愛する行為を始めないことなのに。

 なぜ??


 この国を捨てばやとおもふ更衣   流火

むべなるかな。
 これは太平洋戦争に青年将校として行った人が戦後あるいてきた結果を自問する句です。ひとりの個人が(おそらくはかつて自分を一体化させた)「国」と向き合い、それを問うところまでは進んだ。でもいま「捨てばや」と思ってみても、生きている限り、愚直にこの先も歩いていかなければならないことを多くの人は知っている。ひとりひとり、この土地を、この「日本語という島」を、このときを。だから、もうそんな「あわれ/我=彼」心情のうちに留まってはいられないわね。

*ネットから拝借した写真はわたしの大好きな北国のリンゴの花。

2011/04/09

道化──「人それを呼んで反歌という」より

今日は2002年に逝った安東次男の命日。『安東次男全詩全句集』(思潮社刊、2008)から彼の詩を一篇ここに写す。

*************

道化
 La Grille est un moment terrible pour la sensibilité, la matière. ──Antonin Artaud


色彩の興奮が撒き散らす
花粉たちの中で
不確かに傾く
一本の線
幼年の上の
弛緩を支える
饑餓の心棒
すでにして倦怠と
新鮮さはそこから生まれる
この昼の中の昼を持つ目と
夜の中の夜を持つ目は
心臓の鼓動の一つ一つのように
ぜつたいにまじわらない単音だ
遅日のゆがんだ
植物性の壷をつくる
饑餓をもつ種子たちが
手に手に過去の苞をたずさえて
そいつをこわしに到着する
 内部の到着
 静脈の中のふくれた風景
不透明な壷の内壁へ垂れる
粘稠な黄は
最初の存在となる
痴情は
べたべたに花粉を塗りたくつた
壷に
ぎりぎり巻きつけられる
そのとき壷は 見られることへの
痛みとなって発する

       (四月)「CALENDRIER」(1960年)初出

2010/04/09

『流火草堂遺珠』──安東次男

昨年9月、ふらんす堂から中村稔氏の編集で安東次男の拾遺句詩集、『流火草堂遺珠』が出た。
 帯には「『安東次男全詩全句集』(思潮社)に未収録の俳句と詩の作品を中心に、俳句三九一句、詩七篇を収録・・・この『流火草堂遺珠』には、安東の詩人として出発する以前のすべてがある」とある。

 今日、4月9日は安東氏の命日。2002年の春、いつもより少し早く満開を迎えた桜をたっぷり目にして旅だったと聞いている。

2010/03/01

今月の「水牛のように」

「水牛のように」に詩を書きはじめて、早いもので 1 年になりました。今月の「水牛のように」には、管啓次郎さんも加わって、片岡義男さん、藤井貞和さんと、ずらり詩がならぶにぎやかな紙面です。嬉しい。
 最後が高橋悠治さんの、なんと「芭蕉の切れ」。連句をめぐる面白い文章です。「切れ」というところがみそですね。

「「切れ」はことばの方法論ではなく、芭蕉の生きるプロセス。身分社会からはずれ、故郷なく、定職なく、座という一時的自律空間を主催する旅の人」というところで、はたと膝をうつ。

 わが師、安東次男が生きていてこれを読んだら、なんといっただろうと思ったりして──空想力は楽しみをかもしだす力。
 
 こちらも和して、「梅が香の巻」を入力します!
*************

むめがゝにのつと日の出る山路かな      芭蕉
 処どころに雉子の啼きたつ         野坡
家(や)普請を春のてすきにとり付て     野坡
 上(かみ)のたよりにあがる米の直(ね)  芭蕉
宵の内はらはらとせし月の雲         芭蕉
 薮越はなすあきのさびしき         野坡
御頭へ菊もらはるゝめいわくさ        野坡
 娘を堅う人にあはせぬ           芭蕉
奈良がよひおなじつらなる細基手       野坡
 ことしは雨のふらぬ六月          芭蕉
預けたるみそとりにやる向河岸        野坡
 ひたといひ出すお袋の事          芭蕉
終宵(よもすがら)尼の持病を押へける    野坡
 こんにやくばかりのこる名月        芭蕉
はつ雁に乗懸下地敷て見る          野坡
 露を相手に居合ひとぬき          芭蕉
町衆のつらりと酔て花の陰          野坡
 門で押るゝ壬生の念仏           芭蕉
東風風に糞のいきれを吹まはし        芭蕉
 たゞ居るまゝに肱わづらふ         野坡
江戸の左右むかひの亭主登られて       芭蕉
 こちにもいれどから臼をかす        野坡
方ばうに十夜の内のかねの音         芭蕉
 桐の木高く月さゆる也           野坡
門しめてだまつてねたる面白さ        芭蕉
 ひらふた金で表がへする          野坡
はつ午に女房のおやこ振舞て         芭蕉
 又このはるも済ぬ牢人           野坡
法印の湯治を送る花ざかり          芭蕉
 なは手を下りて青麦の出来         野坡
どの家も東の方に窓をあけ          野坡
 魚に喰あくはまの雑水           芭蕉
千どり啼一夜一夜に寒うなり         野坡
 未進の高のはてぬ算用           芭蕉
隣へも知らせず嫁をつれて来て        野坡
 屏風の陰にみゆるくはし盆         芭蕉

********************
付記:この連句が巻かれたのは元禄7年、於深川芭蕉庵。野坡は呉服・両替商越後屋(三越・三井の前身)江戸店の手代、だそうです。
『安東次男全詩全句集』(2008年 思潮社刊)からの孫引きです。

2009/04/09

故郷のなかの異国にて──『安東次男全詩全句集』より

故郷のなかの異国にて

 おお そうか そうなのか
 きみらなのか
 あのあかしおのふくれたつている
 ひようたんようにくびれたところ
 ときおり茫漠とした光りが
 かすめていたのは
 うさぎの目のような
 よわいうすあかい視線を
 天のいくかくにはなつて
 ゆきどころかえりどころのない
 ニヒルにくわれていたのは
 機雷のしずめてある伝説の鬼が島の入口を
 どこからともなくただよつてきて
 隅田川の川口から白ひげ橋のあたりまで
 何万というむれをなして
 死臭をはなつて
 ぶわぶわとながれこんできた
 きみら
 きみら熱帯魚の魚族たち
 その憂愁にけむつた
 びいどろのような
 うすあかい網膜に
 きみらはなにを灼きつけたのか
 埒もない人間どもの生殖をか
 それの原子爆弾による間引きをか
 そしてまことしやかなそれの理由づけをか
 きみらそのとき
 いきどおる力はなくて
 たつてきたとおい時代の
 暗黒のふるさとのことをかんがえていたのか
 それでぶわぶわと
 青天に死臭をはなつて
 天の一角に
 びいどろのように霞んで
 充血したすが目をなげていたのか

 きみらではなかつたのか
 ニューギニヤの焼けただれた土に
 穂先にまだ緑のいろをとどめている
 一本の雑草を
 はずみのようにつかんでいた
 ひとつの手首を見たのは
 地面のところどころに飴のように凝固した血の膜面に
 あたらしい砂がねばりつき
 つかんだ指のあたりには
 立秋の生きた色を
 のこしていたが

 きみらではなかつたのか
 ブーゲンビル沖の
 昼の二十五ミリの曳光弾が
 びつしり四重に折れかさなつた人肉の背に
 一筋の ももいろの
 火箭のようにつつ立つているのを見たのは
 海へころがり落ちぬためには
 人間の堤防を築いてうちかさなる以外に何ができたか
 せめてまえを下にして寝るのが
 最後の人類への抗議ではなかつたのか
 それを見たのは
 きみらではなかつたか

 それをまたいま
 きみらは
 ぶわぶわとながれこんできて
 死臭をはなつて
 あのびいどろのような憂愁をふくんだすが目で
 天の一角をながめていようというのか
 神のように ながめていようというか!

六月のみどりの夜は 定本──『安東次男全詩全句集』(思潮社、2008刊)

******************
晴れ晴れとした、さわやかな微風のふく今日は、7年前に詩人、安東次男が逝った日。今日もまた、ぱらりと開いた本のページをここに写す。

「ニューギニヤ」の名の見える詩を、ここに写したのは、昨年暮れに西江雅之氏の「パプア・ニューギニアの話」を聞いたこととも重なる。西江氏はそのとき最後に語った。「草は泣いている」と。
 旧日本軍の戦車の残骸、司令本部として使われた洞穴などが、そのまま残っている南の土地に、遺骨を拾いに行く家族はいても、それを書籍にあらわす人はいても、そこに、現地の人たちのことを語ることばは、ない。「草は泣いている」というのは、そのことを指している。そこにいても、見えない人たち。まさに「Invisible Man」、いや「Invisible People」というべきか。

 安東次男のこの詩は、2009年のいま、わたしが初めて読んだ1960年代末とはまったく違った、思いがけない衝撃をもって迫ってくるものがある。
 さて、数年ぶりにお墓参りに行ってこようかな。
 

2009/03/20

感情の高まりの頂点に立つような歌ではなく

1950年8月、安東次男は初詩集『六月のみどりの夜わ』を出した。その「あとがき」を少しだけ、ここに写す。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *

 ぼくは時には政治という風景を、時には文学という風景をじぶんに許されたものとしてしらずしらずそれをゆるめたかたちで書いてきたようにおもう。しかしこれは安易にあまえた態度であり、最後のぎりぎりのところでじぶんの人間的立場をあいまいにするものだということを感じはじめている。
 そういうところからぼくはもういちど歌いなおさねばならぬ。ぼくにはアラゴンのいうような「たたかい」も「人」もうたえてはいない。そのことはぼくに、あらゆる「たたかい」の場に於て──ぼくがそれを黙認してきたかたちになつたかつての日本帝国主義侵略期の戦争をもふくめて──いかに抵抗を持ちつずけることがむつかしいかということをおしえた。このおしえはぼくにとつてもう決定的なものとなるであろう。
 そういうところからぼくは持続する歌をうたっていきたい。感情の高まりの頂点に立つような歌ではない。感情の低まつた谷間谷間がそのままで頂点に立つような歌をだ。

 ──以下略──

**********************
日付は1950年2月10日、安東次男が30歳のときに書いたものだ。
 私がよく思い出すのは「感情の高まりの頂点に立つような歌ではない。感情の低まつた谷間谷間がそのままで頂点に立つような歌をだ」というところ。

 私がクッツェーの『マイケル・K』の第3章は不要ではないかという意見に頷けないのも、『夷狄を待ちながら』の終章についての感想を書いたのも、ごく若いころ読んだこの詩人のことばが、長い時間を経て自分ものになってしまったからかもしれない──つい最近、気づいたことなのだけれど。

 この詩人のことを、晩年は「国内亡命者」のように暮らしていた、といったのは確か A氏だった。

2009/03/19

氷柱──『安東次男全詩全句集』より

氷柱
 プロローグにかえて


冬になつてつやつやと脂のよくのつた毛なみをしその下に
充分ばねのきいた皮膚を持つ獣たちがいるかれらの皮膚が
終つたところから毛が始まるといつたらこれは奇妙なこと
になるにちがいないしかしまさしく目の終つたところから
視線は始まるのだそして視線の終つたところからはなにも
はじまりはしない始まるのはle vierge, le vivace et le bel
aujourd'hui...一種の痛みだけだ受け継がれるところのない
不透明ないたみの連禱だけであるさきにつやつやと脂のよ
くのつた毛なみとわれわれの眼に映つたのもじつはこの痛
みの連禱にほかならないそれをわれわれは不透明さという
ことにたいする若干の嫉妬の気持もあつて透明だといつた
り溶けることにたいする頑固な期待もあつて氷つていると
いつたりするだがそれがどんな反応を期待することなのか
じつは自分でもよくはわかつていない
                      (一月)

 人それを呼んで反歌という──『安東次男全詩全句集』(思潮社、2008刊)

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ステファーヌ・マラルメの有名な詩行を含むこの詩が書かれたのは「人それを呼んで反歌という」が出版された1966年だろうか。年譜を見るとこの年の8月に「詩の翻訳は可能か」と題する「現代詩手帖」での座談会に出席、とあるのがなんだか面白い。

 年譜には1966年から82年まで東京外国語大学の「文学、比較文学」の教授とある。1968年12月末の大衆団交(私は残念ながら北海道に帰省していて、その場に居合わせなかった)以降、マスコミで「造反教官」として名を馳せた。教授会から「弾劾・辞職勧告決議」が出され、翌年3月に朝日ジャーナルに「私こそ弾劾する」を、さらに6月に「再び弾劾する」という文章を発表している。

 その文章が載った小冊子が、なぜかいまも、私の手許にある。

2009/03/18

厨房にて──『安東次男全詩全句集』より

透明な直立した触媒
水のリボンが
自然の奥の
もうひとつの自然の形に
つながつている
はじかれた水が疑つている暗部で
結晶しなかった一日が
無数の
ゼラチンの
星のようにはりついている
存在の白桃まで
ひさしく届かない

 人それを呼んで反歌という──『安東次男全詩全句集』(思潮社刊、2008)

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安東次男という詩人はものの手触りをとても大切にする人だった。骨董との付き合いにおいても、飾るだけのものはいらん、といって水に浸けて味わいを出してみたり、酒を酌んでみたり、食べ物を盛ってみたり、生活のなかで役立てることを試みていた。「骨董」などというものが、ほとんど皆無に近い旧植民地生活のなかで育った者には、いろいろ教えられることが多かった。
 この詩はそんな詩人が厨房に立ち、水と遊んでいる姿を想像させる。遊んでいるといっても、それは即座に、水と向き合い、対峙することになるのだけれど・・・。

2009/03/16

樹 ──『安東次男全詩全句集』より

樹 ── 高原の夏に


ぼくがおまえを見ると
おまえがぼくを境界づける
血を流している 世界のたしかさで、
血はもう光をもつてはいない
血は血のいろに燃えているだけだ。

そんなときおまえは じぶんの足許に、
身ぶるいする影をもつ
だが 影はおまえをもつてはいない!
おまえは
世界で 最初の孤独になる、

そのおまえがもつ
無限に 対象からやつてくる認識、
血のいろに 燃えている 人間。

と、光がぼくにかえされ ぼくは逆流をはじめる
ぼくが おまえと入れ替り、
ぼくが世界で最初の樹になる。

   詩集補遺──『安東次男全詩全句集』(思潮社刊、2008)

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昨日の「球根たち」は安東次男の詩のなかでも、最も有名な詩のひとつだ。代表作をいくつか、と問われるとたいていの人はこの作品をあげる。
 それにくらべると、今日の詩「樹」はあまり知られていない作品だと思う。昨年の夏に出た『全詩全句集』をはらりと開いたら、この詩が出てきた。この詩人の作品行為の原型のようなものを表していて、ともて興味深い。「The Poetics of Reciprocity」ということばを思い出した。

2009/03/15

球根たち──「人それを呼んで反歌という」より

 みみず けら なめくじ

目のないものたちが
したしげに話しかけ
る死んだものたちの
瞳をさがしていると

一年じゅう
の息のにお
いが犇めき
寄ってくる

小鳥たちの屍骸
がわすれられた
球根のようにこ
ろがっている月

葬むられなかつた
空をあるく寝つき
のわるい子供たち

あすは、

 すいみつ。せみ。にゆうどうぐも。
                      (六月)

       『安東次男全詩全句集』(思潮社刊、2008)

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また桜の季節が近づいてきた。この時期になると詩人、安東次男の命日が近いことを思い出す。4月9日。
 彼が逝った年も暖冬だった。桜は例年よりも早く開き、3月下旬に盛りを迎えた。ストレッチャーに乗せられた詩人は、飽くことなく桜花を見ていたという。花のもとに逝った詩人を偲んで、今年もまた、彼の詩を幾篇か、ここに写す。

2009/01/04

鳶の羽の巻──芭蕉七部集より

突然ですが、「芭蕉七部集」より「鳶の羽の巻」をここに写します。私が大学というところで、40年ほど前に日本語を再学習したテキストのひとつです。
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<鳶の羽の巻>


鳶の羽も刷(カヒツクロヒ)ぬはつしぐれ         去来
 一ふき風の木(こ)の葉しづまる            芭蕉
股引(ももひき)の朝からぬるゝ川こえて         凡兆
 たぬきをゝ(お)どす篠張(しのはり)の弓       史邦
まいら戸に蔦這かゝる宵の月               芭蕉
 人にもくれず名物の梨                 去来
かきなぐる墨絵おかしく秋暮て              史邦
 はきごゝろよきめりやすの足袋             凡兆
何事も無言の内はしづかなり               去来
 里見え初(そめ)て午の貝ふく             芭蕉
ほつれたる去年(こぞ)のねござのしたゝるく       凡兆
 芙蓉の花のはらはらとちる               史邦
吸物は先(まず)出来(でか)されしすいぜんじ      芭蕉
 三里あまりの道かゝえける               去来
この春も蘆堂が男居(ゐ)なりにて            史邦
 さし木つきたる月の朧夜                凡兆
苔ながら花に竝(なら)ぶる手水鉢            芭蕉
 ひとり直(なほり)し今朝の腹だち           去来
いちどきに二日の物も喰て置(おき)           凡兆
 雪けにさむき嶋の北風                 史邦
火ともしに暮(くる)れば登る峯の寺           去来
 ほとゝぎす皆鳴仕舞たり                芭蕉
痩骨(やせぼね)のまだ起直る力なき           史邦
 隣をかりて車引こむ                  凡兆
うき人(ひと)を枳穀垣(きこくがき)よりくゞらせん   芭蕉
 いまや別(わかれ)の刀さし出す            去来
せはしげに櫛でかしらをかきちらし            凡兆
 おもひ切(きつ)たる死(しに)ぐるひ見よ       史邦
青天に有明月の朝ぼらけ                 去来
 湖水の秋の比良のはつ霜                芭蕉
柴の戸や蕎麦ぬすまれて歌をよむ             史邦
 ぬのこ着習ふ風の夕ぐれ                凡兆
押合(おしあう)て寝ては又立つかりまくら        芭蕉
 たゝらの雲のまだ赤き空                去来
一構(ひとかまへ)鞦(しりがい)つくる窓のはな     凡兆
 枇杷の古葉(ふるは)に木芽(このめ)もえたつ     史邦

2008/08/26

現代詩手帖 9月号に

「現代詩手帖 9月号 安東次男、その風狂の精神」に書きました。

 初めて安東次男という詩人に出会ったときの記憶や、句集『裏山』に収められた、

 蜩といふ名の裏山をいつも持つ

という句をめぐるエピソードなど、短いけれど気を入れて書きました。

2008/08/23