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2020/03/27

フラットシューズのチママンダ

コロナウィルスのブレイクアウトが心配されている東京で、週末をどうすごすか? 食べ物、飲み物を確保して自宅で、自室ですごす。これまで読みたかったのに読めなかった本をかたっぱしから読破する。観たいと思っていた映画や動画を観る、というのもひとつの方法だと思います。料理というのもいいなあ。すぐに結果が出て、滋養豊か。

 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェのこれまでの動画のなかでも、特におすすめの一本をあげておきます。「エコノミスト」のSacha Nautaがインタビュアーになって、マンチェスターで行われたイベント、白熱したやりとりが展開されます。とくにterfについて突っ込まれたアディーチェの、明快な応答が聞けます。(昨秋このブログでアップしたものですが、再掲!)

 注意して見ると、いつもピンヒールに奇抜なドレスに凝ったヘアスタイルで決めるアディーチェが、このときはシンプルな白い服に紺色のフラットシューズ。髪もゴージャスながら自然のアフロです。

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マンチェスターで10月5日に行われたチママンダ・ンゴズィ・アディーチェのトークの実況中継。OPEN FUTURE FESTIVAL.


以下に大雑把な内容を。(あくまで粗い聞き取りですので引用はお控えください。)

 まずアイデンティティについて質問された彼女:アイデンティティというのは外部からの要求によって変わる、たとえば、最近もUSAの空港でプレミアの列にならんでいたら、あなたはあっちだと指差されたのはエコノミーのほうだった。これは肌の色で判断したからで、ナイジェリアではありえない。ナイジェリアでは、エスニシティか、ジェンダーによって分けられる。だからアイデンティティというのは外部からの問いによって、いくつにも変わりうるのだ、と述べている。だから自分としてはそれをたったひとつに狭めることはできない。

ストーリーテリングについて、作家として、と問われると:もっといろんな声がでてくることが必要だと強く思う。文学作品を読むということは、可能性として、自分の体ではない体から発せられる声を聞くことだと思う。書くというのは、自分の体ではない体から発せられる声を書くことでもある。どんな声であれ、わたしを呼んでいるならその声を物語に響かせていきたいと。

 これまでアフリカ、アジア、ラテンアメリカの物語は長いあいだ、そこの出身の人たちによって語られてこなかった。だから、ロンドンの書店に行っても、本がコロニアルなテイストでならんでいることが多い。もちろんそれは大事よ、だってイングランドはナイジェリアを植民地化してきたんだし、歴史としては……中略……でも、数日前の香港を見てもわかるように、世界中の土地は過去にずっと取り憑かれつづけている。

 それから、『アメリカーナ』について、かなり突っ込んだ質問がきて、アディーチェも非常にクリアに答えている。もう少しニュアンスをつけて、と編集者からいわれたが、それは、もう少し正直さ=あからさまにいうことを控えて、ということだった。

 なんでも比較的率直に語る英語社会で、「もう少しニュアンスを」といわれたとしたら、このニュアンスだらけで空気を読めとかいわれる日本語社会では、どうなるんだ😅?なんて思いながら最後まで見ましたが、最後のほうでオーディアンスから質問が出て、それに真っ向から答えるチママンダ、そして白熱の議論が展開されるようにもっていく司会のジャーナリストもなかなか。

 あとは動画をじかに見てください。

 もしも日本にチママンダを呼ぶなら、同時通訳があいだにはさまるとしても、これくらいの丁々発止のやりとりができるステージになるといいなあ、と思います。
 

2020/01/18

ニューズウィークにも掲載されました

今日は朝から雪がちらちら。そしてだんだん本格的に降ってきて、風もでてきて雪の華が舞っています。窓ガラスを透して見る雪の華は美しいけれど、やっぱり寒い!

「物語はイズムを超える」翻訳家・くぼたのぞみと読み解くアフリカ文学の旗手・アディーチェ

Torus に載ったインタビューがニューズウィークにも掲載されました。タイトルが少し変わっています。「アフリカ文学の旗手」とあるので、「旗手」という語を調べてみました。手元の辞書にはこうあります。

 旗手:  団体しるししての旗を持つ役目の人。
      ②ある運動の先頭に立って活躍する人。

 ふむふむ。グループの先頭に「代表」として立ち、そのグループのサインのような旗を持つ人のことなんですね。たとえばオリンピックの開会式のときに各国の選手団の先頭に国旗を持って歩く人みたいな。
 だとしたら…………アディーチェ自身は、そう呼ばれることをどう思うだろうなあ、という素朴な疑問がちらりと脳裏をよぎり、「アフリカ文学」というくくりについても再度、考えました。

 こんなふうにタイトルはTorusのときから少し変わり、写真も1枚、入れ替わっていますが、インタビューの内容に変化はありません。最後のほうにクッツェーも出てきて、クッツェーとアディーチェが訳者にとって「補完しあう」関係であることもしっかり書かれています。より多くの人に読んでもらえると、嬉しい!


2019/11/30

河出文庫『アメリカーナ』上下巻──みほんがとどいた!

ピンポーン! 🎉🎉🎉🎉🎉 ‼️

宅配便の人が押すボタンといっしょにとどきました。
河出文庫に変身したチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの
『アメリカーナ』上下巻! 12月6日の発売です。



午前中にとどくはずが、なかなかこない。待っていたのです。夜になってようやくやってきました。ほっとして、今日はもうその安堵と嬉しさだけで十分!
帯のことばが、なんだかまぶしい。そして怪しい。



2019/09/16

トニ・モリスン『他者の起源』より

今年8月5日に88歳で他界したアフリカン・アメリカンの作家、トニ・モリスンが2016年にハーヴァード大学で6回にわたって行った講義の記録、『The Origin of Others/他者の起源』(2017)を読んでいる。

 キーワードは「Other/他者」、「Stranger/よそ者」、「Foreigner/異邦人」、「Outsider/アウトサイダー」といったいくつかの語で示されているが、なかでも「アフリカ」や「ブラック」「ニガー」という語が抽象的な意味合いで文学作品にあらわれるとき、それは作者のどのような心理を照らし出しているかを分析するモリスンの舌鋒は鋭く、たいへん興味深い。興味深いだけではなく、『白さと想像力』(1992)からしばらくご無沙汰していたせいか、ここまで明確に言語化されるようになったかと、感慨深いものがある。

 昨日42歳になったナイジェリア出身の作家、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ(お誕生日おめでとう、チママンダ!)は『アメリカーナ』のなかで主人公イフェメルに、自分はアメリカに渡って「人種」を発見したといわせたが、そんな若手の作品を訳したあとで、モリスンの分析を読むと、モリスンが描いてきた作品の風景がまったく異なったものとして立ち上がってくるのだ。

 とりわけ『The Origin of Others/他者の起源』の最終章に、次のような文章が出てきたときは、書き写さずにいられなかった。記録として、ここに引用しておく。


 With one or two exceptions, literary Africa was an inexhaustible playground for tourists and foreigners. In the works of Joseph Conrad, Isak Dinesen, Saul Bellow, and Ernest Hemingway, whether imbued with or struggling against conventional Western views of a benighted Africa, their protagonists found the world’s second largest continent to be as empty ...... The Origin of Others by Toni Morrison (2017)

 ひとつふたつの例外はあっても、文学作品に出てくるアフリカは、旅人やよそ者にとって無尽蔵の活動の場だった。ジョゼフ・コンラッド、イサク・ディネセン、ソウル・ベロウ、アーネスト・ヘミングウェイの作品のなかで、未開のアフリカという型通りの西欧的視点に染まっていようが、それに抗い奮闘していようが、主人公たちは世界第二の巨大な大陸をからっぽと見なした......
                                          『他者の起源』、トニ・モリスン(2017)

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 読みながら、かれこれ11年も前にJMクッツェーの『鉄の時代』を訳していたとき、メモを取ったことを思い出した。アフリカ大陸に対する文学者たちの「からっぽ」という認識は、クッツェーが南アフリカの白人文学について書いたエッセイホワイト・ライティング/White Writingで、明確に論じられていたことでもあったのだ。1988年にイェール大学出版局から出た本だ。

 クッツェーは、1652年にアフリカ大陸南端の喜望峰にヨーロッパ人がはじめて植民地をつくってから、ヨーロッパ系植民者がどのような視点から文学を紡ぎだしてきたか、それを詩や、農場を舞台にした小説を具体的に論じながら解明した。そして、植民者たちがどのような人間的退廃をたどっていったかを明らかにしたのだ。

2017/12/23

今年をふりかえる

2017年も残りわずか。備忘のために今年の仕事をふりかえっておこう。

 1月 昨年から引き続き、JMクッツェー『ダスクランズ』の翻訳、こつこつ。
 2月 『ダスクランズ』訳了。はあ〜〜〜!脱力。 アディーチェ『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』の初校。
 We=男も女も、にした理由。まだまだ、まだっ💢!
 ミア・コウト『フランジパニの露台』第1章「死んだ男の夢」(すばる)のゲラ。「白い肉体、黒い魂」のミア・コウト恐るべし。

 3月 『ダスクランズ』の解説「JMクッツェーと終わりなき自問」を書く。
   寝ても覚めても『ダスクランズ』──助けて〜!
   アディーチェ『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』の再校ゲラ。
   デイヴィッド・アトウェル来日、駒場で2日間、読書会、レクチャーと討論。
   (渋谷近くの居酒屋で、いやあ南アの80〜90年代は大変な時代だったねえ!
    現在のANCは……と嘆き合う。)
 4月 『ダスクランズ』の解説に手を入れる。キリがないほど何度も。
   「早稲田文学女性号」のためにアディーチェ「イジェアウェレ」を訳す。
   『ダスクランズ』の解説、完成。JMクッツェーのこれまでの仕事を俯瞰。
 5月 「たそ、かれ、ボードレール」を「すばる」に書く。
   70年代初頭の記憶が迫ってくる。
   ジャン・ミシェル・ラバテの講演(クッツェー作品の精神分析的研究)。
   「イジェアウェレ」訳了。子育てはやってみなけりゃわからないヨ!
 6月 『ダスクランズ』の初校ゲラ。これもまた手強い。
 7月 メアリー・ワトソン「ユングフラウ」(すばる)訳す。高密度の短編。
   『ダスクランズ』再校ゲラ。すっきりしてきた。
   Slow Philosophy of J.M.Coetzee の著者、ヤン・ヴィレムの講演。
   (「クッツェーと翻訳」について、滅法面白かった)。
 8月 「ユングフラウ」解説書く。メアリー・ワトソンはケープタウン大学卒。
   大学院でクッツェーも参加したブリンクの授業を受けた人。
   『ダスクランズ』最後の読み。すごい迫力でやりとり。完成!
 9月  アミラ・ハス来日。存在感に圧倒される。
   『パレスチナから報告します』復刊したい。
   『ダスクランズ』刊行! 
10月 資料と書籍類の整理。LPの断捨離。読書。大事な本が消えた😭。
11月 新たに翻訳開始。仕事してるのがいちばん落ち着く。
12月 80年代のシンプルなクリスマス・リースをサツキの茂みに絡みついてた
   蔓と実でカスタマイズ。

なんか他にもあったなあ。日経の書評(ガエル・ファイユ『ちいさな国で』)とか、ENGLISH JOURNALのコラム(アディーチェのスピーチをめぐり)とか、5月には『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』刊行記念の、B&B(星野智幸さん、お世話になりました!)や神田でのイベント(朝日のディアガールズのみなさんと!)とか、あれやこれや!
 去年はアディーチェ『アメリカーナ』の分厚いゲラと格闘しながら『鏡のなかのボードレール』も刊行したけど、今年は複数のことが同時進行して、次から次へとスケジュール表みながら動いた。来年はもう少しのんびり行きたいなあ。でも、しょっぱなから獰猛な「犬」に吠えられそうだ💦💦!

 そうだった、来年の干支は「犬」だよ。ひやあ〜。

2017/03/09

『アメリカーナ』と「アメリカかぶれ」


チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『アメリカーナ』の日本語訳が出てから、いろんな人がいろんな感想を書いてくれている。とても嬉しい。ちらほら読んでいると面白いことがわかってきた。
 まず、この本はアメリカ社会の複雑な内部情報として読まれることが多いようだ。イフェメルという、米社会の外部からきた人の鋭い目線で、なかなか見えないところまで光をあてているのだから、それはそうだろう。半分はアメリカ合州国を舞台にした作品なので「アメリカ文学」として読む。それはありだ、もちろん。

「アメリカーナ」というタイトルからして「おお、アメリカか」となるのもわかる。この名前のブランドやバンド(いや音楽のジャンルか?)もあるらしい、というのもつい最近知った。
 まあ、アディーチェの本のなかで使われるときは、ナイジェリアの少年少女たちが、アメリカへ行ってアメリカ文化を身につけてきた同級生を「アメリカかぶれ」と揶揄することばなんだけれど。「あいつはアメリカ〜ナ〜だな」とか。

パートナーのイヴァラさんと
作品にはロンドンとその近郊を舞台とした移民のドラマも、細部にわたって描き込まれている。ナイジェリアのラゴスやスッカを舞台にした少年少女や家族の物語、あるいは政変、騒乱に人々が巻き込まれるシーン、主人公イフェメルが帰国して雑誌の編集をするところなど、ナイジェリア社会の描写も、もちろんたくさんある。細部のモノ、コト、ナイジェリア英語の独特のいいまわしなど、登場人物どうしのやりとりで、ナイジェリア人ってこんな感じで生きてるってことが浮かび上がるような場面も多い。

 だから、この小説は大雑把には、西アフリカ、西ヨーロッパ、北アメリカの三点を結ぶ大西洋を横断、縦断する物語なのだといえる。それはちょうど、何百年か前に奴隷を運ぶ船が行き来した航路そのままたどりなおす旅でもあるのだ。(まあ、カリブ海を中継したことは消えるけれど……。)
 
 そういう大きな枠ではなくて、細部を読み取る楽しみに焦点をあててみると、アメリカをめぐる感想が多いということは、日本語読者にとって「アメリカ」がいかに大きな存在であるかということで、そのことをあらためて実感した。先の大戦で負けた相手国の文化摂取の肥大化───戦後の70余年ってそういうことだったのかと。

 でもこれをきっかけに、「アフリカ諸国」とアメリカの絡み合った関係に目が行けばいいなあ、とわたしなどは思う。アフリカにそれほど関心がなかった人たちも、この本を読んで、アディーチェのほかの本も読みたいと思ってページを開く、となれば、これほど嬉しいことはない。
 いわゆる「アフリカらしい」ステレオタイプな「アフリカ文学」(使っちゃった、「アフリカ文学」という表現!)ではなくて。アフリカ出身のほかの、個々の作家にも興味がわく、という流れになると、もっと嬉しい。

 先日、ガーディアンにアディーチェのインタビューをもとにした面白い記事が載った。この作家の近況を伝えるとても内容の濃い記事だった。彼女の写真もたくさん載っているし、娘のこと、フェミニズムのこと、ナイジェリア社会のことなどを率直に語っているところがとても面白かった。おすすめです。(写真はその記事から拝借しました。)

男も女もみんなフェミニストでなきゃ』(河出書房新社 4月刊)

 もうすぐ刊行ですよ〜。

 

2017/01/29

読売新聞書評『アメリカーナ』by 長島有里枝

今朝の読売新聞書評欄に、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『アメリカーナ』の書評が載りました。タイトルは「自分に正直であること」、評者はなんと写真家の長島有里枝さんです。

───厚さ4センチ、本文がに段組みの本書は、アフリカ、欧州、北米を股にかけた壮大なラブストーリーであると同時に、「女性」に可能な選択肢の指南書のようでもある。

 そう始まる評は、この作品をイフェメルとオビンゼの純愛小説としてまっすぐに読み解きながら、でも、「ロマンチックな恋愛小説であるだけでなく、「黒人」であること、移民であること、女性であることについての鋭い考察が、余すところなくちりばめられている。……フェミニストとしても知られる著者は、どこであれ結婚や教会、不倫相手に依存して生きる女性がいて、そうでない女性もいることを淡々と描く」と。そして最後に「自尊心を捨てずに生きることは可能かつ最善の選択だと思わずにいられない物語は、多くの女性を励ますはずだ」と結ばれます。

 とてもストレートに、共感をこめて読んでくださったことが伝わってくる、嬉しい評でした。Muchas gracias!

*****
2017.2.6付記:ネット上で読めるようになりました。

2017/01/05

2017年はアディーチェがブレイクしそうな予感が


お正月早々、今年はアディーチェでブレイクしそうな予感を強く感じる出来事が......

 まず、1月7日(土曜日)のTBS「王様のブランチ」で西加奈子さんが、アディーチェのヒット作『半分のぼった黄色い太陽』を取り上げてくれました。
 羽田圭介さん、西加奈子さん、村田沙耶香さん、朝井リョウさんの4名が2017年に一押しの作家を紹介する“作家サミット”という企画で、村田沙耶香さんがJMクッツェーの『イエスの幼子時代』を、西加奈子さんがアディーチェの『半分のぼった黄色い太陽』を一押し。なんと、アディーチェとクッツェーの本が仲良くならぶという奇跡が起きました。
 アディーチェとおなじ年の生まれの西さんには、昨年10月に出た『アメリカーナ』の帯もいただきました。おまけに雑誌「SPUR」にはアディーチェへの中身の濃いインタビュー記事が載ったばかり...本当に、Muchas gracias! 

 そして翌8日(日曜日)の朝日新聞と日経新聞に『アメリカーナ』の書評が載りました。朝日新聞には作家の円城塔氏の「移住が身近な時代の差別と日常」というタイトルの評が、日経新聞にはこれまた作家の松家仁之氏の「情報豊か アフリカの若者の恋」という評が掲載されるという、ダブルの書評掲載となりました。
 それぞれが異なる視点、異なる切り口で、この本の重層的で今日的なテーマに光をあてながら、作品の特徴やその入口を指し示してくれています。

また、文芸誌「すばる」2月号にも倉本さおり氏の「時を編み込む豊かな言葉」というタイトルの『アメリカーナ』評が載っています。作品や作家の視点にぐんと寄り添って、物語の魅力と核心をじわりと伝える嬉しい評です。

 作品は出たばかりのときは蕾のような存在で、読者に読まれてはじめて花開くもの。これからアディーチェ作品がより多くの読者に出会うことを祈って!

2016/12/31

アディーチェに明けてアディーチェに暮れる

2016年を振り返ってみると。

 いちばん大きな出来事はやっぱりチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『アメリカーナ』(河出書房新社)が出たことだった。
 1月末に1500枚をこえる訳をあげてから、10月下旬に本のかたちになるまで、いやあ、いろいろあったなあ。とにかく長いテクストを訳しおえるために昨年から走りに走って、ようやくしあげた途端、ばったり。ちょっとバテてお休みモードの春がすぎ、初夏になってゲラ読みが始まって、編集者の交代があって秋になり、ついに本になった。

 そうこうするうちに、パリではクリスチャン・ディオールの Tシャツの胸にWe Should All Be Feminists というアディーチェのTedTalk 2012 のタイトルがあらわれて、日本でもついに、これが本になることが決まって……来年春には……またまた走る!

 『アメリカーナ』はとてもお洒落な衣装を着せてもらいました。イラストも装丁もとてもすてき。インタビューが雑誌に掲載されたり。恵まれました。
2016.10 プラハで

 しかし。6月に「くぼたのぞみ」として、詩集以外で、初めての単著『鏡のなかのボードレール』(共和国)が出たことを忘れてはいませんか、と自分を叱る声が聞こえる。そうでした!これは大きな出来事でした。書評もたくさん出ました。嬉しい!「ボードレールからクッツェーまで、黒い女たちの影とともにたどった旅」として、下北沢のB&Bでイベントもやったのでした。ぱくきょんみさん、清岡智比古さん、どうもありがとう。

 お名前はいちいちあげませんが、お世話になった編集者のみなさん、装丁家の方々、そして書評を書いてくださった方々、ありがとうございました。Muchas gracias! 来年もまた何冊か、アディーチェとクッツェーで本が船出する予定です。ご期待ください。
 
 日本社会はどんどん生きずらくなっていく気配だけれど、世界のありようも危うくなっていく気配だけれど、あちこちで戦争が絶えないし、これまで住んでいたところを有無をいわさず追われて難民が多出するし、天然資源をめぐって強欲な資本が跋扈し、理不尽なことばかり起きているけれど、でもその難民を受け入れようとする人たちがいて、理不尽なことには「ノー」という人がいて、絶望的な状況のなかでも「行動すること」で希望が生み出されていく。ジョナサン・リアのいう「ラディカル・ホープ」が。


「世界は絶えず驚きを放出しつづける。われわれは学びつづけるのだ」──J・M・クッツェー『ヒア・アンド・ナウ』。

みなさん、どうぞよいお年を!

2016/12/26

日経新聞と東京新聞にもアディーチェ『アメリカーナ』が

昨日は、日経新聞では陣野俊文さんが、東京新聞では中村和恵さんが、アディーチェの『アメリカーナ』をそれぞれ「2016 私の3冊」としてあげてくれました。

……とにかく物語る能力に長けている小説家の筆に脱帽と陣野さん。

苛烈な壁に何度も衝突し、越えてゆく圧倒的な長編を、あくまで軽妙に語る作家に敬服と中村さん。


 この本の核心をみごとに言い当ててくれる評に、今度はこちらが脱帽です。Merci beaucoup!

 値段がちょっと高めになりましたが、その分、中身はがっつり、軽妙かつ読み応えのある本になっていますので。年末年始のお休みにまとめて時間がとれるかたは、ぜひ物語の深い森へ迷い込んで、読書の愉楽にひたってください!

(見つけた記事のクリッピングを、勝手ながら、貼り付けさせていただきました──陣野さん、中村さん、お許しあれ!)
  

2016/12/23

西加奈子さんのアディーチェへのインタビューが「SPUR」2017年2月号に

 これは読ませます。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェに作家の西加奈子さんが電話でインタビューをして、書きおこしたすてきな文章です。

 今日発売のシュプール」2017年2月号(集英社)です。

 特集「THE FACES of 2017」に登場する7人のアーチストの一人がチママンダです。トップがグレース・ウェールズ・ボナーというイギリスとジャマイカにルーツをもつファッション・クリエーター。ほかにモデル、デザイナー、女優/ミュージシャン、クリエーターなど才能豊かな若いアーチストがならび、チママンダはその最後を飾っています。

「最初の小枝は細く、しなやかで、緑色をしている。そうした小枝は完全な円になるほど曲がるが、折れはしない」というトニ・モリスン『青い目がほしい』からの引用で始まる西さんの文章からは、アディーチェの作家としての特質やその魅力がたっぷりと伝わってきます。それが見開きページにぎっしり。わくわくしながら読みました。少しだけ引用します。


 ──彼女は、ステレオタイプだった私の「アフリカ」のイメージを鮮やかに覆し(中略)私を未知の世界へ連れて行ってくれた。新しい世界へ。
 でも、彼女のやり方は「正しい価値観」を目の前に突きつける、というような乱暴なものではなかった。もちろんその「声」は圧倒的だったけれど、(中略)ときに静かに、何より美しく私に語りかけてくれた。「あなたの知っている世界だけがすべてじゃないのよ」と。……私が彼女の言葉を追っていて強く感じたのは、しなやかさだ。


 アディーチェの魅力を縦横に語る西加奈子さんの文章は、何度読んでも心にしみます。
 左上にならぶ3冊の既刊書の書影の下には、この秋のクリスチャン・ディオールのショーで、アディーチェの We Should All Be Feminists 「男も女もみんなフェミニストでなきゃ」と描かれた白いT-シャツを着たモデルさんの写真も。おまけに「モデルは細すぎだけど(笑)、マリアの考え方に共感するわ」というチママンダらしいコメントも添えられています。(マリアとはディオール史上初の女性アーティスティック・ディレクターになったマリア・グラツィア・キウリのことです。)
 このWe Should All Be Feminists 「男も女もみんなフェミニストでなきゃ」は来年春に、日本語訳の本としてお届けしますので、ご期待ください!

 アディーチェの長編小説『アメリカーナ』の帯も書いてくれた西加奈子さん... Muchas gracias, Nishi-san!!


2016/12/18

一夜明けると『アメリカーナ』が毎日新聞「2016 この3冊」に

 窓から差し込む陽の光がまぶしい日曜日。
 
昨日は池袋まで行ってきた。立教大学の「共生社会研究センター」が日本の反アパルトヘイト運動を記録するためのアーカイヴを作ってくれて、その記念イベントがあったからだ。

 1989年10月に長いあいだ獄中にあった政治囚が解放されはじめ、翌1990年2月にネルソン・マンデラが釈放されて、血みどろの混乱と権力移譲のかけひきを経て、南アフリカがアパルトヘイトという軛からようやく解放されたのが、1994年だ。
 このプロセスは、ベルリンの壁が1989年11月に崩れて、旧ソ連を中心とする共産圏経済が崩壊していった時期とみごとに一致していた。この歴史的事実は、しっかり記憶にとどめておきたい。

 あらためてここに、アパルトヘイトとは何だったのか、その体制内で生まれ、生きた作家 J・M・クッツェーの定義を再掲しておく。今年5月にパレスティナ文学祭に参加したクッツェーが「最後の日に行なったスピーチ」の一部である。

アパルトヘイトとは、人種あるいは民族に基づく強制隔離システムであり、ある排他的な、自分たちだけで定義した集団によって植民地支配を強化するために導入され、とりわけ、土地とその天然資源の掌握支配を固めるためのものだった。

「排他的な集団」というのはヨーロッパから大陸南端に上陸して土地を奪っていったヨーロッパ白人部族のことをさす。最初はオランダ系、それにイギリス系植民者が加わって少数グループとして白人至上主義を先鋭化させていった。
 1980年代に入って国際連合が「Crime against Humanity=人道に反する罪」と定義づけてから、アパルトヘイトは西側諸国の普遍的価値観である「人権」に反するものとして槍玉にあげられ、やがて、その体制は崩壊していった。だが、そこには大国を軸にした「経済的利害」の天秤の存在があったことはしっかり記憶されていくべきだろう。根幹には常に植民地主義的経済の世界システムが働いていたのだ。共産圏諸国の後ろ盾で独立することの多かったアフリカ諸国が採掘権を握る膨大な資源を有する大陸、そのアフリカ大陸へ西側諸国がアクセスするための入り口、それが南アフリカという国だったという指摘もクッツェーは『ヒア・アンド・ナウ』でしている。

 そしてニホンという国は、尻尾を振るようにして黄色い肌をした有色の「名誉白人」となり、経済的なやりとりのためのみに嬉々として「白人扱い」してもらい、他の有色の人たちと自分は違う、という差別感情を内面化していった。こんな恥ずかしいことはない。そんなねじれた感情が、「見ないことにした現実」(自分たちの顔)がいまも尾を引きずっている。
 

 さて、20年以上前にいっしょに行動した懐かしい顔ぶれが、まるで同窓会だね、と笑い合うおしゃべりの翌日、はらりと新聞を広げると……毎日新聞の「2016 この3冊」に中島京子さんがアディーチェの『アメリカーナ』をあげてくれているではないか。
 あれ、一週間前もこれと似た展開が……という既視感とともに、嬉しさがこみあげてくる。
 
「人種」が特別の意味を持つ大国・アメリカの現在を描いて……人種問題を正論で語るときの欺瞞や鬱屈も描かれ、トランプ次期大統領を生んだ社会の背景が……

『アメリカーナ』という小説は、アメリカという世界の大国で「人種」がどのようなものとして機能しているかを、クリアに、詳細に、描き出していく作品でもあるのだ。それもナイジェリア出身の若い女性の曇りない目を通して。

 戦後、ややもすると「単一民族」などという妄想に目を塞がれ、アメリカ製ホームドラマ、西部劇、ディズニー映画などで目くらましを食らいながら、「白いアメリカ」やその反転像としての「黒人文化」に憧れてきたニホンが、多民族国家であるアメリカ社会内の「本当は見たくない、見たくなかった現実」を根底部分から容赦なく描き出している作品であるかもしれない。そろそろこういう事実ともまっすぐに向き合おうか、「トランプのアメリカ」から目をそらすわけにはいかないのだから。


 そして。今日のグーグルは、なんと、1977年に当時のアパルトヘイト政権の警察が拷問・虐殺した黒人意識運動の主導者スティーヴ・ビコの写真だ。そうか、12月18日はビコの誕生日だった。享年31歳の彼が生きていたら今年70歳。アフリカの若き指導者の多くは、とても若いうちに、暗殺、虐殺された。ビコ、ルムンバ、トマス・サンカラ、カブラル。ルムンバのようにCIAがらみのケースも多いだろう。

 ちなみにナイジェリアは南アフリカのアパルトヘイトに対して、常に反対をとなえてきた国である(これは南部アフリカ諸国もおなじだ)。アディーチェも小学生のとき獄中にあるマンデラの話を聞いて、みんなでお小遣いからカンパをした、とどこかで語っていたっけ。


2016/12/16

「本の雑誌」で2人の評者が『アメリカーナ』を

数日前に発売された「本の雑誌」でアディーチェの『アメリカーナ』が紹介されています。それも、なんと評者が2人もいっしょに、ダブルです!

まずは佐久間文子さんの 「2016年度現代文学ベスト10」で、筆頭に『アメリカーナ』があがっています。記事のタイトルは:

 アディーチェ『アメリカーナ』を記憶に刻む

 佐久間さんは、「トランプ大統領、ありえますよ」という年賀状を今年のお正月にアメリカ政治の専門家からもらった話から書き起こし、この小説内に出てくる2008年の大統領選挙でバラク・オバマが勝利したときのシーンに触れていきます。作品を立体的な文脈のなかに位置づけて見通す視点の、しなやかな評です。最後にスーザン・ソンタグの名があるのが印象的でした。

 江南亜美子さんが今号から担当する「新刊めったくたガイド」でもまた『アメリカーナ』が取りあげられています。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェという作家の来歴やこれまでの作品のことを紹介して、長編三冊目にあたるこの『アメリカーナ』の魅力について細部までリアルに伝える評、そのタイトルがすごい!

 まったき恋愛小説

 そして、ここにもまず最初にスーザン・ソンタグの名前がありました!
 最後の決め文句──「このボリュームにもかかわらず、もっと長く物語世界にとどまりたいと思わせてくれる一冊である」が、長編だけれど、いや長編だからこそ余韻があとを引く、物語の魅力を伝えてくれています。


 「本の雑誌」って、いまどんな本が出ているのか、ざっと見渡すことができるんですよね。それも一級の評者があれこれ書いてくれるので、確かな情報がとっても助かります。

 なんだか数日前からぐんぐん冷え込んできた東京ですが、『アメリカーナ』の面白さが少しずつ読者の方々に届いていくようすが伝わってきて、長期間がんばったかいがあったな〜と、陽だまりの猫のような気分です。ふわ。

 Muchas gracias! 

2016/10/24

発売になりました!──アディーチェ『アメリカーナ』

ママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『アメリカーナ』が、発売になりました。
 ここまでたどりつく道のりの長かったこと。でも、本になって、書店にならびました。

 最近、BBC Radio 4 のサイトに掲載されたアディーチェの横顔をアップ。編み上げたコーンロウがとてもすてきです。



2016/10/12

チママンダ・アディーチェ『アメリカーナ』がついに!

ブログの欄外右上に、早々と写真をアップしてきましたが、ついに、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『アメリカーナ』(河出書房新社刊)が発売されます。

 アディーチェの魅力はなんといっても、ストーリーテラーとしての抜群の才能です。かなり分厚い本ですが、ぐんぐん読ませます。訳しながら、加速されるスピードに机から離れられなくなり、ついにダウン、ということが幾度かありました(笑😆汗)。

 話はプリンストン大学でのフェローを修了したイフェメルが、髪を結いに隣町まででかける場面で始まります。西アフリカ出身の女性たちが経営する場末の小さなヘアサロンにたどりつくまで、そして髪を結う場面でも、タピストリーのような物語の面白さを予感させるエピソードがたっぷりと描き込まれていて、これからどんな物語が展開されるのか、期待がふくらむことでしょう。

 ピリ辛のブログにのせる素材を鋭い視線でさがす主人公イフェメル。彼女の髪はアディーチェとおなじような縮毛、キンキーヘアです。その豊かな髪は母親ゆずり。その思い出から場面は一気に、ナイジェリアで過ごした少女時代へ戻っていきます。そこで出会った運命の人、オビンゼ。でも、大学に進学するころから、二人は、運命のいたずらに翻弄されることになって……。

 西アフリカはナイジェリア、新大陸アメリカ、旧大陸イギリス、大西洋をまんなかにしてかつての歴史を逆戻りするような人の往来をベースに、現代の生活がありありと描かれます。より良き生活をもとめて人々が移動し、不運に見舞われて逆戻りし、あるいは本来の自分にもどるために帰郷する。さまざまな人間模様のなかに、いくつもの恋があり、親子の葛藤があり、移民として生きる苦労があり、政治や経済の出来事に翻弄されながら生きる人たちの姿が立ちあがってきます。

 アメリカですごす学生生活や、そこで出会ったリッチな白人の恋人や、インテリのアフリカンアメリカンのボーイフレンドとの関係などから、外部からは見えにくい、人種をめぐるアメリカ社会の細部が、アフリカ人ならではの微妙な視線によって、奥行きをもって浮上するのがこの本の特徴です。それが評価されたのか、出版された年に全米批評家協会賞を受賞しました。物語を駆動させる力は、なんといっても、熱い「ラブストーリー」です。

「弁解の余地のないオールドファッションなラブストーリーを書きたかった」──アディーチェ自身がガーディアン紙にそう語っていました。コメディタッチのメロドラマ、さわやかなスパークリングワインの味。

 さあ、軽やかに味わいながら、物語の深い森に分け入って、思う存分さまよっていただきましょう! 予約受付中です。
 

2016/07/02

チママンダ・アディーチェがお母さんに!

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェさん、お母さんになっていたのね。
おめでとうございます! 生まれたのは女の子だそうです。ここ数ヶ月、あまりネット上で姿を見かけないなあ、と思っていたら、そういうことだったのね。

 心からのおめでとう!


Dear Chimamanda,

I have just heard  you and Ivara became parents.
Congratulations!  You have a baby girl!  
Am reading the last-proof of Americanah and the book will be published soon in Japan.

with Love, from your Japanese translator:
Nozomi


初めてアディーチェが赤ちゃんのことを明かしたインタビューは、フィナンシャルタイムズ by: で読めます。(うまくリンクできませんが。。。)

インタビュアーはなんと、あのデイヴィッド・ピリング!

2015/12/28

今日は仕事納め

なかなか仕事が終わらないのだ。それでも今日は仕事納めにした。その中間報告。

 9月初旬に訳了してから、もう一度、477ページの原書と訳を一行一行付き合わせる。それから再度、読み直しながらじっくり日本語を練り直し、さらに再々度スピードをつけて通読する。そうやって一章、一章を仕上げていく。それがわたしのやり方で、これがけっこう時間がかかる。どのプロセスもすべて一人でやるし、細かなところまで気を抜かずに緊張感を保ちながら作業をしたいので、一日で最良の時間をあてる。頭が疲れてきたら休み、絶対に手抜きをしない、という贅沢な時間の使い方をしているために、なかなか終わらないのだ。

 それでも、今日はようやく、年内にここまでと予定していた分量をクリアした。スケジュールを何度か立て直しながら、ようやくここまできて、来年初めには完成する予定。

 それで感想──アディーチェさん、腕をあげましたねえ。『半分のぼった黄色い太陽』が出たのが2006年だったから作家が29歳になった年で、この『アメリカーナ』が出版されたときは35歳か。
  心理描写がぐんと深くて、鋭くて、さらに繊細になった。時間の使い方も手が込んできて、訳していて何度もうなってしまった。移民の問題、9.11以降のナイジェリア、アメリカ、イギリスのようす、オバマ大統領誕生のアメリカ社会の興奮などを背景に、恋人たちにつぎつぎと起きる出来事。その細部にちらりちらりと鋭い文学批評や社会批評なども織り込まれる。
 それでいて、アディーチェ自身は「メロドラマ仕立てのラブストーリーにしたかった」と語り、そんな筋の運びにしっかり成功しているのだから、この人の幅の広い、のびやかな底力は圧倒的だ。主人公だけではなく、脇役や、ちょい役も、じつにリアルで奥行きのある性格、風貌が浮かんでくる描き方をしている。アディーチェの「聴き耳」が光るところだ。

 来年半ばには本屋さんにならぶはず。
 がんばります! みなさん待っていてくださいね。

2015/11/06

「早稲田文学 2015冬号」に『アメリカーナ』のことを

 このところ不振とつぶやかれる翻訳文学だが、昨今、息苦しい「国」という枠から思い切り飛び出したいという願いに応えてくれるのが翻訳文学だ。いまの、この世界、を見る視点がぐんと広がる。そんな翻訳文学に力を入れているのが「早稲田文学」だ。今日、最新号、「早稲田文学 2015年秋号」が発売になった。

「なぜ動かずにいられないのか?」──というタイトルが示唆するのは、世界各地で起きている人の移動だ。旅行、移民、難民、その背景、内実、結果などをかいまみる作品群が掲載されている気配。

 植民地への入植がさかんだったころとは逆に、現在の移民は、基本的により良い生活をもとめて、あるいは、切羽詰まった生命の危険を感じて、北側の経済的に豊かで安全な国々に「向かう」ものが多い。難民の場合はその緊迫度がさらに激しいだろう。
 しかし「旅」となると必ずしもその方向をとるとはかぎらない。むかしの文学的な旅行記では、むしろ、未知なる土地への探検や、エキゾチスムに刺激されての旅となるわけだから、圧倒的に「都市→辺境」が多かったはずだ。
 それはまた、書籍の出版や販売が北側に集中してきたこと、読者が「北」に属する人間を中心とし、「南」に属する人間はその視点に倣うものとされてきたことに関連があるかもしない。したがって「南」に属する人間は、「北」の視点を内面化せざるをえなかった。そんな長い歴史があったことは事実だ。さて、日本語社会はこの「北」と「南」のあいだの奈辺に位置付けられるだろうか。日本語使用者の意識は、どこにあるのだろうか?

 今日日、言語や国境を超えようとする、あるいは、はからずも超えてしまう文学は、過去の固定された視点を批判的に再考したり、逆転する可能性を秘めている。そんな期待と希望をつい期待してしまいそうな今回の「早稲田文学」だけれど、取りあげる作品や、評論、コラム、座談会に見られることばたちは、そのどのあたりをどんなふうにあとづけているのだろう? 興味津々。雑誌はさきほど届いた。読むのはこれから。

 わたしも、3つの国、3つの土地を往還する物語『アメリカーナ』について、作品紹介のコラムを書いたので、ぜひ、のぞいてみてほしい。チママンダ・ンゴズィ・ディーチェがみずからの体験をふんだんに取り込みながら書いた長編小説だ。

2015/11/03

余白について──チママンダ・アディーチェとゼイディ・スミスの対話

さあ、秋も深まり、ゆっくりとチママンダ・アディーチェとゼイディ・スミスの対話に耳をかたむけるときがやってきた。少し長いけれど、『アメリカーナ』からの朗読もあるので、楽しんでいただけるだろう。ゼイディ・スミスの長編『美について』も来月、訳書が出るらしい。いやあ、楽しみです〜〜〜。



アディーチェの作品内の脇役をめぐる、ゼイディ・スミスのツッコミが面白い。

2015/09/09

6年前──自公の惨敗、強い予感

 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『アメリカーナ』の第一稿、約1400枚を訳了。ナイジェリアとアメリカとイギリスと、行ったりきたりの若者が2人。すれちがったり、出会い直したり。なんともはらはら、どきどきのラブストーリー。髪のこととか、グリーンカードやら不法移民のこととか、食べ物の違いとか、ナイジェリアのヒップポップとか、細部がめっちゃ面白いのだ。
 そして、ふと思った。

 前回の長編『半分のぼった黄色い太陽』を訳了(とにかく)したのはいつだったか? あれは6年前、2009年の11月だったな、と思って日記(作業日誌)を調べてみた。
 訳了が11月4日とある。その前日に「アディーチェが来日決定」の報。さらにぱらぱらやっていると目に飛び込んできたのは、8月30日の「衆院選」と、翌日の「自民、公明が惨敗。民主が政権党に」の文字列だ。

 あれから6年。この間の、この社会の変動はすさまじい。

 とりわけ、2011年3月11日の大地震と福島原発事故からの激変、そして2012年12月には自民党が多数派に返り咲き、それ以降は狂ったようにこの国は坂をころげおちてきた、ように見えるけれど、それは、戦後70年のあいだ、隠されていた事実がだれの目にも、否応なく明らかになったということだったのだ。それをみんなが認識したのだ。

 翻訳をしていると、さまざまな出来事が起きたときのことを、そのときやっていた仕事と絡めて記憶することが多い。あれは、だれの、どの作品を訳していたときか、あるいはだれが来日したときか、自分がどの作品や作家がらみでどこへ旅したあとか、などなど。

 たとえば、2010年の8月にアディーチェの『半分のぼった黄色い太陽』が出て、9月末に著者が来日した年の暮れに、右腕を骨折したとか、クッツェー三部作を翻訳すると決まったのは、2011年3月の大地震と原発事故の直前か直後だったとか、2012年の暮れに自民が圧勝して、これからどうなるのかと不安いっぱいだった翌年に、クッツェーが3度目の来日をしたとか。

 そして今回は、アディーチェの『アメリカーナ』を訳了したあとに、ほとんど誰もが違憲といい、日本中の6〜7割の人が今国会で決めるのは時期尚早といっている「安保法案」なる戦争法案が、詭弁につぐ詭弁を弄して、参議院で強硬に採決されようとしている。こんなに反対運動が激しく、広く、起きているのに、政府はいっさい耳をかさず、どうみても、クーデタとしかいいようのない無茶苦茶なやり方で法案を通して、自衛隊を米軍の下請けに出そうとしている。だんだん法治国家の体をなさなくなっていく、と多くの人が不安にさいなまれ、憤懣やるかたない思いでいるのが、いまだ。

 8月30日には国会前にゆうに12万をこえる人たちが集まった。わたしも少しだけ参加して、元気をもらってきた。まだまだ国会前でも、全国でも、抗議はつづく。今週も、来週も。民主市議ってなんだ? これだ! 生命を守れ! 子供を守れ! という切羽詰まった叫びは続く。デモクラシーに中身を詰めていく。

 今日は台風が通り過ぎた。これを書きはじめたときは、篠突く雨が降っていたのに、いまでは陽の光がさして、青空が広がり、雲が流れている。6年前とおなじように、「自民・公明が惨敗」と日記に書く日が、ふたたび近い将来あることを、秋の日差しを見ながら強く予感する。