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2025/06/05

翻訳ハイキング

                               くぼたのぞみ

だれも行ったことのない場所まで行けるだろうか
ことばの骨灰で

そんなことが可能だろうか

記憶の底で揺れる音たち

母の叱咤 教師の脅し 悔しまぎれの捨てぜりふ

積みあげられた書物や辞書にあらがう

身をよじる青い芽が

すぱっと切られて宙を飛ぶ

時間にじっとりと疲れた意味が

長いほうき星の尾を引いて

霧雨のなかに浮かび

優しげな衣をまとって

きみをゆすり

身体の芯に刺さる声となって咽喉からこぼれ 

ぼやけた桜色の汁したたらせる

すべて/どこかで/だれかが/使っている/から

つなぎ/合わせれば/おぼろに/意図は/伝わり 

塵埃の布となって生者を包む

翻訳の烈火で焼かれた骨灰を

袋に入れて

だれも行ったことのない場所まで行けるだろうか

父語母語の外で暮らしたことのない者は

疑う 

強く疑う

ぬめる灰土で滑らないように

踏みしめる爪先に力がこもり

探り

だれも行ったことのない場所へ行きたいと思う

だれも行ったことがない

そこからだれも帰らない



***

「現代詩手帖」2017年5月号に掲載された詩です。


備忘のためにここにポストしておきます。あれから8年か、と感慨深い。見渡せば、
クッツェーはもとより翻訳界はあっちもこっちも「翻訳」と「言語」と「母語、父語」のオンパレードになっている。

2022/04/08

ひまわりの種を──「文藝春秋」5月号


写真はイメージです💦
  ひまわりの種を

「黒糖とひまわり」の続きです。
「ひまわりの詩」の第二弾が、雑誌「文藝春秋」5月号に載りました。p89 です。


ページのまんなかを四角く区切った、小さな箱のようなスペースに、ぎゅっと詰まったことばたち。

2022/04/01

黒糖とひまわり──水牛のように

写真はイメージです💦
「水牛」に、とても 久しぶりに詩を書きました。
エイプリル・フールではありません! 

リンク先を訪ねてみてくださいね、ぜひ!

   黒糖とひまわり

2017/04/26

「翻訳ハイキング」:現代詩手帖に詩を一篇!

鶯色の表紙に汽船が浮かぶ。今月の現代詩手帖で「旅する現代詩」という特集をやっている。わたしも「翻訳ハイキング」という詩を書いた。ハイキングもまたちいさな旅だからね、というこじつけ。

 ずらりとならんだ名前が「翻訳」にかかわってきた人たちなのが、この特集の「旅」の意味をあらわしている。
 ジェフリー・アングルスさんと柴田元幸さんの対談も面白そうだし、アンソロジーが「エクアドル現代詩」で訳者には千里靴を履いて、いつもいつも飛行機に乗っている管啓次郎さんの名前があり、エッセイには山崎佳代子さんや吉田恭子さんの名前もある。旅ばかりしている人たちだ。

 そして作品として7人の名前が。隣に中村和恵さんの名前があるのが、嬉しい。和恵さんもまた旅の人だ。みんな、ぱらぱらしてみてね!

2017/03/13

ワイルドフラワーが春風に揺れる

そうだ、お知らせするのを忘れていた。
今月はひさしぶりに「水牛」に詩を書いたのだった。

ワイルドフラワーが春風に揺れる

2016/06/17

ゲスト:ぱくきょんみ × 清岡智比古

イベントまで1カ月を切りました。7月16日(土)の夕方、豪華ゲストでお送りします。

「黒い女たちの影とともにたどる旅──ボードレールからクッツェーまで」
   くぼたのぞみ著『鏡のなかのボードレール』(共和国)刊行記念

日時:7月16日(土)午後6時半〜8時半  
場所:下北沢 B&B
出演:くぼたのぞみ × 清岡智比古 × ぱくきょんみ

                 
<B&Bサイトからの転載です>
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 最近もコミックのタイトルに使われ、いまなお読み継がれているシャルル・ボードレールの詩集『悪の華』。詩人の生涯の恋人ジャンヌ・デュヴァルは黒人と白人の混血で、カリブ海の出身といわれています。『悪の華』に収められた「ジャンヌ・デュヴァル詩篇」から彼女の痕跡や詩人との関係をたどり、時空を超えたスパンから《世界文学》として新たに『悪の華』を読み直そうとしたのが、くぼたのぞみさんの初の散文集『鏡のなかのボードレール』です。
 その筆先は、これまで日本で受容されてきた数々の『悪の華』の翻訳・紹介をひもとき、さらに J. M. クッツェーの『恥辱』へと視界を開いていきます。そして、ジャンヌを主人公にしたアンジェラ・カーターの傑作短篇「ブラック・ヴィーナス」を訳し直し、大西洋を縦に、横に渡った複数の「ジャンヌ群像」を浮上させます。

 今回のイベントでは、ゲストとして、くぼたのぞみさんと80年代から同人仲間だった詩人のぱくきょんみさん、学生時代シュルレアリスト詩人デスノスを研究したフランス文学者・詩人の清岡智比古さんのお二人をお招きします。フランスや韓国、日本における歴史的に見た文化の混交と多様性から、ボードレールが日本の現代詩にあたえた影響まで、肩の力を思い切り抜いて大胆に、楽しく語っていただきましょう。

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くぼた のぞみ
1950年生まれ。翻訳家、詩人。藤本和子編集の北米黒人女性作家選に刺激されて翻訳を志す。おもな著書に、『記憶のゆきを踏んで』(2014)、おもな訳書に、J・M・クッツェー『マイケル・K』(2015)、同『サマータイム、青年時代、少年時代』(2014)、マリーズ・コンデ『心は泣いたり笑ったり』(2002)、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『アメリカーナ』(近刊)など多数。

ぱく きょんみ
1956年生まれ。詩人。和光大学ほかで講師。主な著書に、詩集『何処何様如何草紙』(2013)『すうぷ』(2008)、エッセイ集『いつも鳥が飛んでいる』(2004)、絵本『れろれろくん』(2004)、訳書に、ガートルード・スタイン『地球はまあるい』(2006)、共著に、『ろうそくの炎がささやく言葉』(2011)、『女たちの在日』(2016)など多数。

清岡智比古
1958年生まれ。詩人、明治大学教員。NHKフランス語講座の講師もつとめた。都市と詩の交差領域から出発し、最近は映画や移民問題へと関心を広げている。おもな著書に、『パリ移民映画』(2015)、詩集『きみのスライダーがすべり落ちる その先へ』(2014)、『エキゾチック・パリ案内』(2012)、『東京詩』(2009)など多数。

2016/06/01

『鏡のなかのボードレール』、見本がとどいた!


ボードレールからクッツェーまで、
黒い女たちの影とともにたどった旅の記録のよう。

なんだかとっても贅沢な美本にしていただきました。
Muchas gracias!

2016/05/20

「ピンネシリから岬の街へ」がユング・ジャーナルに載りました

 ジョン・クッツェーの『青年時代』に出てくるエピソードと、ケープタウンを訪ねたとき思った故郷の山ピンネシリのこととが、なぜか突然つながって、一篇の詩になりました。それがウェブマガジン「水牛のように」に掲載されて、やがて詩集記憶のゆきを踏んで』(インスクリプト、2014刊)に収められました。

「ピンネシリから岬の街へ」

この詩が詩人の田中庸介さんのお目にとまり、「ユング・ジャーナル」に掲載されました。2016年冬号です。日本語のオリジナル・バージョンと英訳バージョンが左右見開きページにならんでいます。訳者は田中さんと、日本文学の研究者であり翻訳家であるジェフリー・アングルスさん。お二人に深く感謝します。
 ネット上のユング・ジャーナルはこちら! 全4ページの最初のページをここで見ることができます。

2018.6.13付記──いま見るとここで英訳の詩が読めるようになっていました。

2016/04/20

クッツェーが選んだ「詩のアンソロジー」がやってきた!

「アリアドネの糸」という意味をもつアルゼンチンの出版社から出た分厚いアンソロジー:『51 Poetas Antología Íntima』──J・M・クッツェーが選んだ51人の詩人たち。古典から、比較的新しい時代の詩まで。無名の伝承詩もある。オーストラリアのアーネムランドの先住民に伝わるらしい歌「Moon-Bone Cycle/月の骨サイクル」(正直、どう訳したらいいのかよくわからないが、これを歌いながら「土地」のメンテナンスをするのだろうか)もある。

 左ページにオリジナルの言語、右ページにスペイン語訳がついている。下段の註もスペイン語。猫に小判とはこのことだけれど、ぱらぱらとめくっていくのは楽しい。スペイン語訳で出た12冊の「個人ライブラリー」の最終巻だ。前書き、註もクッツェーが書いたものがスペイン語に訳されている。贅沢な作りで、分厚い。600ページもある。シャルル・ボードレールは「Spleen 1-4」が選ばれている。もっぱら都会生活の憂鬱を謳う詩だ。アルチュール・ランボーは「酔いどれ船」か。ふむふむ。

10日ほど前、ゲラ読みの合間をぬって都心まで行ってきたのだ。しかし、あの日はちょっとくたびれて帰りの電車で貧血になってしまったけれど、なんとか家にたどりついた。でも、しっかり受け取ってきたのだ。はるばる運んでくれたKさん、Muchas gracias!

2016/04/01

緋寒桜のひよどり

ピーヨピーヨと緋寒桜でひよどりが啼いて、3月が過ぎていきました。ピーヨピーヨと啼きながら、ひよどりは桜の花芽も、わたしの気鬱もつんつんとついばんでくれたようです。「水牛のように」に詩を書きました。


緋寒桜のひよどり


ここ東京郊外の丘の上でひよどりの声を聞きながら思うのは、遠い北の土地で起きたいくつもの出来事。そして揺れる緋寒桜を見ながら想像するのは、浅い歴史のなかで生起した家族の物語。

数年前に撮ったユキヤナギ
 それにしてもここ数ヶ月、胃痛やらなにやら木の芽どきに特有の体調不良に悩まされてきたけれど、4月の声を聞いたとたんにすっきりして、みんなどこかへ行ってしまったような気がする。
 気がするだけかもしれないよ──と身体の奥から微かなさささやき声が聞こえてくる。そうか、ひょっとしたら騙されているのかな? だって今日はエイプリールフールだもの。

 窓の外の緋寒桜の花も盛りを過ぎて、黄色い葉芽がちらほら出てきた。遠くに見えるユキヤナギの純白の花は、いまが盛りと、流れるような花枝を伸ばしている。春がやってきた。

2016/01/01

頌春──「水牛のように」に詩を書きました。



 今年はどんな年になるのやら。おだやかな、風のない一日がすぎていく。猫が陽だまりで仰向けになり、背中を、温まったコンクリの地面にこすりつけながら、ごろんごろんと寝返りを打っていた。至福の時間。いいなあ、猫。お~い、ネコッ!
 大きな出来事の荒波に翻弄されながらも、ゆっくりと、細かなものも見落とさずに、日々の時間を生きていきたいと思う。

 今年もどうぞよろしくお願いします。

2015/10/30

『戯れ言の自由』── 平田俊子さんの新しい詩集

 今日、半透明の紙に包まれて、一冊の詩集が届いた。瀟洒な装丁の、平田俊子さんの『戯れ言の自由』(思潮社)という詩集だ。

 平田さんの詩のことばは、いま、こうして読んでみると、とても心が休まる。なぜだろう。読み手が頭をフル回転させたり、気持ちの持ち出しをしなくても、ことばが穏やかに、いっしょに歩いてくれる、そんなリズムがあるからだろうか。短い詩行が数ページ続いて終わる。ほどよい飛翔感を残して着地するひとつひとつの詩が、日々、目にする、すさんだ日本語の荒れ地のなかに、まっさらな飛び地のように、すなおに広がっている、そんな気がするからだろうか。一篇、書き出してみる。


  〈美しいホッチキスの針〉

   きょう届いた数枚の書類は
   ツユクサの花の色をした
   美しい針で綴じられていた
   灰色の地味な針しか知らない私に
   その色は新鮮だった
   曇天のように重たいこころを
   艶やかな針の色が
   少し明るくしてくれた

   ホッチキスの役目は紙を綴じること
   針の色にこだわる必要はないのに
   美しい色に染めた人がいて
   その針を選んだ人がいて
   そのうちの一本が
   旅をし 私のもとに届いた
   ツユクサを通して
   知らない人たちと
   手をつないだような気分だ

   人のこころを慰めるのは
   花ばかりではない
   油断すると指を傷つける
   小さく危険なものにさえ
   人は心を遊ばせる
   夕焼けの空 朝焼けの空
   空が青以外の色に染まったときも
   人は満たされ 立ち尽くす


 詩集の最初に置かれた詩だ。最後まで読んでこの詩に戻ってきたけれど、じつは、平田さんの詩の後ろには、ぴりりと辛い真実も潜んでいて、歳月の厳しい雨風、それを通り越した暴風雨にも耐えて、生き延びてきたような確かさもあるのだ。でも、風通しがじつにいい。観念語の多用でいつまでも現実に届かない、読む側の焦燥感をかきまわす、ことばの無駄がない。

半透明の紙に包まれて届いた
 最後から二つ目に置かれた「揺れるな」は懐かしい(とためらいながらも言ってしまおう)。2011年3月11日の大震災のあと、渋谷で開かれた「第一回 ことばのポトラック」で朗読された詩だ。わたしも参加させていただいたとき、何年ぶりかで平田さんと会ったのだった。そのとき平田さんが開口一番おっしゃったことばが、ずいぶん昔の記憶を呼び起こした。平田さんとは一度、あるトークの会でご一緒したことがあったのだ。そのときのことを、平田さんも、わたしの顔を見て思い出したらしい。
 シスネロスの『マンゴー通り、ときどきさよなら』から朗読したときのことだったから、1997年とか1998年ころだろうか。場所はたしか駒込だった。平田さんは駒込が出てくるご自分の詩を読まれたのだった。
 こんなふうに、わずかな点と点を結ぶような出会い方ではあるのだけれど、平田さんの詩を読むと心が休まるのは、多分、同時代を生きてきた人のことばがここにあると確認できるからかもしれない。それが嬉しい。しかも、それは時代を超える戯れ言たちでもあるのだ

2015/07/29

真夏の夜に──パウル・クレーと夏日記(2)

昨夜は真夏の夜に、下北沢のB&Bで開かれた「山崎佳代子×季村敏夫×ぱくきょんみ──詩はひとつの言葉に聴こえる」を聴いてきた。ルーマニアのちいさな村で開かれた詩祭に参加した3人の日本語詩人たち、その目が見たもの、耳が聴いたもの。それぞれの話が三人三様で、それでいて響き合っていて、とても深くて濃い話だった。

 真夏の夜を堪能したひとときだった。司会の書肆山田の鈴木一民さんの話もまた味わい深かった。今日のクレーはこれ!



あまりに暑くて、なかなか寝つけなかった一昨日の夜。曇りの空に気温はかすかに低いけれど、それでも暑い。(こんな暑い8月に、5年後、マジでオリンピックなんかやるのか? マラソンだとか、短距離レースだとか。湿気の多い亜熱帯モンスーン気候のこの8月に。正気の沙汰とは思えない。下手したら参加者や観戦者から死人が出そうだな。)

そんな暑さに、昨日はブルーを基調にした、水中世界ののような、すずしげなクレーでした。


2015/04/25

5月1日、ハベバ・バデルーンの詩の朗読会

 昨日はハベバ・バデルーンの公開レクチャーを聴いてきました。じつに内容の濃い、充実した時間でした。教室に入り切らないほど大勢の人がやってきて、隣の教室からたくさん椅子を運び込んでのレクチャーでした。すごい熱気で、いやもう時のたつのをすっかり忘れました。
 予習はしていったものの、そうか、そういうことだったのか、と膝をうつこともあって、J・M・クッツェーやベッシー・ヘッド、マジシ・クネーネやゾーイ・ウィカムまで訳した者としても、もっとも見えなかったいわゆる「ケープ・マレー」と呼ばれる人たちの複雑な歴史的パースペクティヴや、「カラード」とか「カフィール」とか、日本語の辞書には載っていない複雑なことばの背景が、とてもクリアになったのは大きな収穫でした。

 南アフリカにおける、いや、南部アフリカにおける、というべきでしょうか、17世紀以降のあの地域の政治経済が「奴隷制」によって支えられてきたことは、意図的に歴史認識の後ろにおいやられ、忘れ去られてきた。そのプロセスを、バデルーンはさまざまな研究や例証をあげながら解きほぐしていきます。アパルトヘイトからの解放後、そこが最も複雑で忘却の波におしやられがちなところ。この「奴隷制」というのが、結局は、近代の植民地経営には欠かせない人間支配のシステムであったことをあらためて認識しました。

 そして、このシステムは現在も「格差」と言い換えられ、あらたな姿に変身しながら「不平等システム」となって、グローバル経済のあちこちで大きな力をもっているのではないか、ということも考える必要があるようです。歴史的健忘症は、そこから利を得る者たちの「意図的な政策」であることを深く認識したいものです。そこに絡んでくる大きな問題、それがジェンダーなのだということも。
 だから「忘れないこと」「記録すること」「伝えること」がどれだけ重要か、たかだか20年前まで続いたアパルトヘイトの記憶すら若い世代には、なかなか伝わっていない時代です。

 この国もまた、「70年」という長い眠りから覚めなければならない時期に至っています。「人種」はクリエイトされたもの、白人が創造した「ファンタジー」だった。そう喝破するバデルーンの言は爽快! そう、「名誉白人」だって「ファンタジー」だったのです。いまだにそれを「名誉」だとして内面化するところが、偏狭的ナショナリズムと表裏一体となって機能することを考えなければ、とも思いました。

 さて、詩人であるハベバ・バデルーンの詩の朗読会があります。南アフリカで生れて育った彼女のプロフィールを彷彿とする詩が、たっぷり聴けることになるはずです。そうそう、彼女は大学時代ジョン・クッツェーの学生だったとか。あの激動の1990年代初頭のことですね。

 5月1日(金)18:30 - 19:30
   一橋大学 佐野書院 サンルーム
   使用言語は英語です。

(ひょっとすると、わたしも飛び込みで詩の朗読することになるかもしれません!)

2014/12/12

アンキー・クロッホ/Antjie Krog について


J・M・クッツェーの未邦訳の著作『厄年日記/Diary of a Bad Year』(2007)から、南アフリカの詩人・ジャーナリスであるアンキー・クロッホ(1952年生)について書かれた文章を訳出します。

〈アンキー・クロッホ/Antjie Krog について〉

放送波にのって昨日、アンキー・クロッホが自分で英訳した詩を読むのを聞いた。ぼくの間違いでなければ、彼女がオーストラリアの聴衆の前に姿を見せたのはこれが初めて。テーマは大きい──彼女が生きる南アフリカでの歴史的経験だ。詩人としての才能は挑戦を受けて立つことで伸び、決して萎縮することはなかった。強烈な、女性的知性に裏づけられた断固たる誠実さ、そこに描かれる、胸が引き裂かれるような経験。彼女が目撃した恐るべき残虐性に対する答え、引き起こされた苦悩と絶望への答え──子供たちに、人類の未来に、永遠に再生する命に向きあって。

 オーストラリアには、これに比肩する熾烈さで書く者はいない。アンキー・クロッホという奇才は、ぼくにはとてもロシア的に思える。南アフリカでは、ロシアのように人生は悲惨だが、なんと勇敢な精神がすっくと立ちあがり応答することか! 
                   (『厄年日記』より、2007、p199)

************************

 クロッホはアフリカーンス語で書く詩人です。アパルトヘイト政権下で行われた国家権力による残虐な暗殺、拘禁、拷問といった非人道的行為について、真実を語ることで罪を問わないという前提で「真実和解委員会」が開かれましたが、クロッホはこの委員会について詳細な報告書を書いています。それはCountry of My Skull という分厚い本になりました。邦訳もそのままの『カントリー・オブ・マイ・スカル』、現代企画室から出版されています。

2014/11/29

数日前に「現代詩年鑑 2015」が届いていたのだ

朝から曇りのお天気で、すっきりしない。体調もすっきりしない。ついに、アデレード・ハイが切れてきた。

 だいじょうぶかなあ、と家族からさんざん心配されながら、11月初旬、ひとりでオーストラリアのアデレードまで行って、帰ってきて、へたると予想されていたのに、逆にハイな状態で突っ走ってきて2週間。
 ついに昨日あたりから、切れてきたのだ、アデレード・ハイが。笑うしかないな、これは。今日は外出は不可だ。行けずに残念な催しがあるのだけれど。


 アデレードのホテルで「現代詩手帖」編集部のFさんから嬉しい連絡を受けたことは前にも書いた。その「現代詩年鑑2015」が数日前に届いていたのだ。「──JMCへ」という献辞のついた「ピンネシリから岬の街へ」が入っている。嬉しいことはさらに重なり、「今年度の収穫」に須永紀子さんが『記憶のゆきを踏んで』をあげてくださった。

 須永さんの新しい詩集『森の明るみ』はすてきな詩集だ。粒ぞろいのことばたちが、手で触れそうなほどの確かさでならんでいる。アデレードから無事に帰還して、じっくりと読んだ。カバーの絵もまたいい。

2014/10/14

この詩を読んでわたしは泣いた

小さなKに ──2012年3月11日


あとどれくらい 地上(ここ)にいておまえを
小さなおまえを抱いていられるのか
あと何度 朝陽のなか なかば眠たげなおまえのオハヨウを
新鮮な炎のように
聞くことができるのか
あと何度 おまえの靴が窮屈になるたび
手をつなぎ
一緒に買いに行くことができるのか
おまえが五十歳になるとき
わたしは地上にはいない いや それどころか
おまえが二十歳になる日さえ あまりに遠い
おまえはその日 生まれたての
あの血まみれの赤ん坊とは 似ていないだろうけれど

おまえが死ぬ日
それがもし 老いのもたらす結果であるなら
わたしは喜ぶだろう
おまえの命が 残らず燃え尽きたことを
そしてそれがもし
不慮の事故や災害がもたらしたものであったとしても
やはりわたしは
いつかは
喜ばねばならないだろう
おまえが地上を駆け抜けたことを

そしてわたしはいとおしむだろう
おまえの瞳に映るはずだったすべてを
おまえが呼吸するはずだったすべてを

手をつないで歩いたときの
小さな小さな手の柔らかさを
消えない炎として
いつまでもいとおしむように
                
    清岡智比古『きみのスライダーがすべり落ちるその先へ』(左右社刊)より

*************************
詩集をいただいた。清岡智比古さんの『きみのスライダーがすべり落ちるその先へ』(左右社刊)だ。
 全編、スライダー、ストレート、カーブ、などなど野球の投球と思しきことばが編み込まれている。引用した詩は、ことばの変化球で勝負する詩人の、しかし、直球に近い詩と読める。最初、この詩を彼のブログで読んだときから、ボールはたしかにこちらの胸に届いていた。打ち返せないからストレートに胸にあたって、ちょっと痛かった。311から一年後のことだ。

 今回は詩集のなかで、ふたたびこの詩と出会って、そのページだけぱっくり口をあけて吸い込まれるような感覚を覚えた。ことばのボールが、ばしばしと飛んできた。胸にあたるまえに、素手でそれを受けとめたとき、ことばは確かな重みをもって胸に響いた。痛くはない。痛くはないが、涙を誘うのだ。胸の奥で。読み手のなかの遠い記憶をゆさぶり、くっきりと形を描きながら。
 後ろから駆けてきて、その子がするりと小さな手をこの手のなかに滑り込ませたときのことを。両手をつないで歩いた夕暮れのあのときのことを。見上げる澄んだ瞳。いずれ時がたてば・・・いずれ地上から失せて・・・でも胸のなかにあふれる思い。なにかに向かって跪きたくなるような感謝の気持ち──gratitude.

 清岡さんのことばのボールが弧を描いて蒼穹を渡っていく。時間軸を縦横に行き来することばたちが、あるときは春風、あるときは薫風、またあるときは微風となって、読む者の頬をさわやかに撫でていく。ときに秋風となって局所的に強く吹くことはあっても、決して、昨夜のような烈風にはならない。(台風19号の余韻のなかで。)

2014/10/05

秋になるとムスタキが聴きたくなって

Ballade Pour Cinq Instruments par Georges Moustaki
(六つの楽器のためのバラッド/ジョルジュ・ムスタキ)



Pour faire pleurer Margot
Pour faire danser grand-mère
Pour faire chanter les mots
De ma chanson douce amère
Laisse glisser ton archet
Le long de la chanterelle
Donne-moi le la caché
Dans l'âme du violoncelle

Oh la flûte emmène-moi
Sur les rivages de Grèce
Là-bas elle était en bois
Et son chant plein d'allégresse
Oh la flûte pardonne-moi
Si je deviens nostalgique
Si je divague parfois
En écoutant ta musique

Posée contre ton épaule
Ton amie la contrebasse
Joue discrètement son rôle
Discrètement efficace
Je ne sais qui soutient l'autre
De l'homme et de l'instrument
Unis comme deux apôtres
Ou peut-être deux amants

Et sur les rythmes du coeur
Les tambourins les crotales
Font revivre les couleurs
De mon Afrique natale
Réveille-moi aux accents
Des pays que je visite
De ma vie qui va dansant
De ma vie qui va trop vite

Et je voudrais rendre aussi
Un hommage à ma guitare
Mon inséparable outil
Qui partage mon histoire
Qui m'aide à trouver les mots
De la chanson douce amère
Qui a fait pleurer Margot
Qui a célébré grand-père

ちょっと音が割れるのが残念ですが・・・

2014/09/14

今日は ハンス(Hans Faverey) の誕生日!


ふと思い立って、こちらに再掲載します。今日はスリナム(旧オランダ領ギアナ)生まれのオランダの詩人の誕生日。
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 菊の花たちが
 挿してある花瓶はテーブルのうえにあり、
 窓辺にある、が、それらは

 窓辺にあるテーブル
 のうえの花瓶
 の菊の花たち
 ではない。

 ひどくきみを悩ませ
 きみの髪を乱す風、それ

 はきみの髪をかき乱す風で、
 髪が乱れているときは
 そのためにもう悩まされ
 たくない、ときみが思う風だ。

 氷のように透明で明晰な詩を書いた詩人、ハンス・ファファレーイ(1933〜90)は1977年、第三詩集『菊の花たち、漕ぎ手たち』で掛け値なしの評価をえた。右の詩はその詩集に収められた同名の詩の冒頭である。オランダ領ギニア(現スリナム)の首都パラマリボで生まれたファファレーイは、五歳のときに母や兄とアムステルダムに移り、以来この地で暮らした。生地スリナムを去ったのはまだ幼いころで、その経験が作品内に反映されることはない。カリブ海出身について直接ふれることもきわめてまれだ。

 この詩人の情熱はもっぱらヨーロッパ文化から受けた遺産に向けられる。詩篇の多くは自宅のあるアムステルダムを背景にしているようだが、特定できるものは少ない。彼の詩にはローカル色の徹底した欠如がある。
 作品から詩人の日常を知ることもできない。だが彼自身が述べているように、自伝的なものは断片化され、集積されて詩の内部に忍び込み、豊かな連想をかき立てる。実際、ファファレーイの詩にみられるこの知的で地理的なコスモポリタニズムこそが、詩人の生地カリブ海の、クレオール文化のエコーを聞き取る場なのかもしれない。なぜなら、彼の描く風景は、切り離されながら彷徨う、移り住む者の眼差しを通したものだから。

 ファファレーイが旅に出るのはもっぱら学生のころから訪れたクロアチアだ。ここで後に妻となる比較文学者、レラ・ゼチュコヴィッチと知り合い、以来、夏ごとに訪れる地中海の風景が、時を超えたエーゲ海風景へと溶け込み、ホメロスやサッポーへのオマージュとして詩篇に織り込まれることになる。

 折りに触れて幾度もきみを愛さなければ、
 ぼくにはきみがまったく未知のものだから
 ぼくという存在の核とほとんど

 おなじくらい未知であり、それは
 ぼくの名前の記憶が、きれい
 さっぱりと消えたあとも

 永くつづく羽ばたきだ。ときどき、
 ふとわれに返ると、ぼくたちの家が
 さわさわと音をたてだし、大声で
 きみの名を呼びたい思いにかられるとき、

 ぼくは、この頭のなかにいるきみを
 ふたたび見つける、……

 これは88年の詩集『忘却にあらがい』所収の「甦った、ペルセポネ」の冒頭だが、ここにみられる「剥離する意識」はくりかえし彼の作品にあらわれる主題だ。自分はいったいだれなのか、どこにいるのか、このまま存在しつづけることが可能なのか。そんな不安を、意識の層を何枚も剥がしながら書き留めようとする姿勢がこの詩人にはある。
 事物の絶え間ない動きによって、いずれだれもが飲み込まれていく沈黙と忘却。それに抗うこともまたこの詩人のテーマとなる。「時を止める」ために用いる方法は「ゼノンの矢のパラドックス」のイメージだ。時間を小さく区切れば区切るほど、空中を飛ぶ矢の飛距離は短くなり、区切りを無限に小さくすれば時間は静止するという逆説。

 時を止めるいまひとつの方法として浮上するのは記憶だ。だが実際の出来事とその記憶はむろんおなじものではない。81年の詩集『光降る』の次の詩は、ハンスとレラがクロアチアの叔母の庭を訪問したときのものだ。

 記憶が、みずからの意思で
 したいことをするように、ぼくたちは
 いま一度かぶりつく、ほぼ同時に
 そろって、トウモロコシの畝
  
 のあいだで、彼女は彼女の
 杏に、ぼくはぼくの杏に

 これは記憶そのものが無情にも変化することを、痛烈に喚起する詩行である。
 動きによる腐朽を食い止める方法としてさらに、ファファレーイは哲学を取り込む。無我の境地へいたるための瞑想によって、おのれを世界から遠ざけるのだ。その思想の背景にはソクラテス以前、とりわけヘラクレイトスの影響が色濃くみられる。火を万物の流転の核とする苛烈な思想だ。たとえば先の「菊の花たち、漕ぎ手たち」の次の詩行。

 あらゆるものに内在する
 虚空は、現実に
 あり、かくも激しく動いて、
 やがて最後のことばの
 響きに混交する、

 (それはいま、唇を通過する
 ことを拒み)、まず唇を愛

 撫し、躊躇うことなく唇を
 抉る。……

 この詩篇の最終部がまた印象的で、ファファレーイの手になるとオランダでさえ、水路や畑がひどく不分明になっていく。

 徐々に──近づいて
 くる、八人の漕ぎ手
 たちは、しだいに内陸へ入り

 みずからの神話のなかに入り、
 漕ぐたびに、故郷から
 さらに離れ、力のかぎり漕ぎすすみ、
 水が消えるまで広がり、
 そして彼らは風景全体をへり

 まで充たす。八人は──
 さらに内陸へ漕ぎすすみ、
 風景は、もはや水が
 ないため、膨れあがる
 風景に。風景を、
 さらに漕ぎすすみ

 内陸へ、陸に
 漕ぎ手たちの姿なく、漕ぎ
 争われた陸となる。

 私がファファレーイを知ったのは J・M・クッツェー訳によるオランダ詩のアンソロジー『漕ぎ手たちのいる風景』のなかだった。出身地こそ南アフリカと違うけれど、クッツェーもまたオランダ系植民者の末裔である。彼はファファレーイを「その世代でもっとも純粋な詩的知性の持ち主であり、その詩は宝石のように美しく、本を閉じたあとも永く、エコーのように心に響く」と絶賛する。
 硬質な語と語のあいだに響く沈黙、そこに滲み出るもの──そんな魅力が、国境や言語を越え、時間さえも超えて、読む者の心を震わせるのだろう。

*英訳版の使用を快諾してくれたF・R・ジョーンズ氏、紹介の労を取ってくれたJ・M・クッツェー氏に深謝します。

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「現代詩手帖 2009年1月号」に書いた文章に少し加筆しました。
写真は、フランシス・ジョーンズ編訳のアンソロジー『忘却にあらがい/Against the Forgetting』(A New Directions Book,2004)。

2014/08/02

明日の夜は、下北沢に雪が降る?

天気予報です──明日は真夏の夜に、下北沢で雪が降るかもしれません。


いえいえ、雪はすで積もっていて、それを踏みしめる夕べです。

靴の先でつんつん突きながら、北に生まれた者がふたり、

ことばの雪を舞いあげます。

妖怪も出ます。

ひょっとして、それって、雪女? 

  くぼたのぞみ × 中村和恵


明日です! みなさん、ぜひ!

B&Bで、午後7時から。