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2018/07/08

この夏は『鏡のなかのアジア』第1章でさらわれました!

谷崎由依著『鏡のなかのアジア』(集英社)
本来なら堂々と、きちんと書評すべき本だと思いながら、そういう「表だった場所」に自分の大切な読後感を晒したくない、という極めて私的な思いを抱かせる、これはわたしにとってとても貴重な本だと最初の短編を読んで、まず思った。切実だ。

 物語の筋はあるようで、ないようで、確かにあるのだけれど、それを理性的に分析して書きしるそうと思うより前に、ここに書かれている日本語の、美しい文体の、リズミックなことばの連なりの、流れの、その心地よさに浸っていたい! ことばの海にざんぶり身をひたして、そのまま流されようが、溺れようがかまわないから! という思いに完全に足をすくわれた。

 物語の舞台となるのはチベット。サンスクリット語と思しき「るび」が(もちろん英語もある)、アルファベットで、漢字やひらかなの単語や熟語にふられるというアクロバット。これ、いいなあ、こんな技があるのか、わたしもやってみたいな、と思わせる心憎いスキルである。そのルビが文体にあたえる華麗なまでの共振というか、視覚による擬似レゾナントというか、連想の奥行きというか。たとえば、

 「筆」に「pen」とルビがふられ、「牛酪」に「butter」、「獣」に「yak」、「僧院」に「gompa」、「空」には「gnam」、「ねずみ」に「tsi tsi」、「城」に「zong」、「湖」に「mtsho」なのだ。

 いきなり、ぼうぼうと岩山に吹く風の、乾いた音が聞こえてくるのだ。もうイヤなことばっかり続く、この湿気で腐敗しきった土地で読む、乾いた風景の作品世界がたまらない。リズミックにくりかえされる「馬の足で二日、風が強ければ五日、ひとの足なら十日かかる場所」といった距離感を示す、凛とした表現の妙。
 ここちよくさらわれてみたい文章がここにある。久しく体験しなかった詩的な散文である。幻想短編集というわかりやすい表現が、どこか平板に感じられるほどに。
 
 といった私的な感情のことをひたすら書き連ねたくなる本なのだから、そんな文体への思いつめた感想ばかり、公の書評では書けないじゃないか。それ以外のことは、たとえば物語の筋やら、登場人物やら、舞台背景のことやら、それぞれ大切なことなんだけれどあまり口にしたくないのだ。陳腐な表現で読者にわざわざ説明してもしかたがないし、説明なんかしてあげない、といいたくなるのだ。これじゃ全然、書評にならないし、作家に失礼だから、ブログに書くことにした。

 おまけに「鏡のなかの……」である。ぐんと近しく感じるタイトル。あと一冊加わると「鏡のなかの……」シリーズができあがりそう! ほら!

 『鏡のなかのアジア』
 『鏡のなかのボードレール』
 『鏡のなかの蝦蟇』とか。
  (そういえば、有名どころでエンデの『鏡のなかの鏡』があったわねえ。)

「気だるくやつれ伏すアジア、灼熱に身を焦がすアフリカ」もあっけなく凌駕して。いや、もう、幻視者(visionnaireとルビ)作家、谷崎由依、おそるべし! 


2017/06/04

ボードレール、だれそれ?


明後日6日発売の雑誌「すばる」7月号がなんと「詩」の特集を組んでます。

 わたしも「ボードレールと70年代」というお題をいただき、あれこれ考えているうちに、学生時代のことをリアルに思い出して書きました。
 当時通った狭い敷地の大学に、「造反教官」と呼ばれた2人のすばらしい教官がいたこと。もちろんカッコイイ先生はほかにもいたのですが、ダントツに強い記憶に残っているのは安東次男と岩崎力のご両人、いずれもフランス文学を教えていた人たちです。安東教授に対する一方的かつ理不尽な教授会からの弾劾辞職勧告決議に、日本フランス語学文学会はすぐさま抗議声明を出したのは快挙でした。当時の世相がどんなものだったか、レジスタンスのありかたなんかも少し。記録として。
 また、阿部良雄責任編集による1973年5月刊の雑誌「ユリイカ、ボードレール特集号」にずらりと並んだ、そうそうたる面々も書き写しました。記録として。

 昨年出した『鏡のなかのボードレール』(共和国)を書くことになったいきさつや、JMクッツェーの個人ライブラリーの最終巻『51 poetas/51人の詩人』に『悪の華』から入った4つの詩篇「スプリーン(憂鬱)」についても。あいからわず、話は「一つ所に滞らない」どころか、じつにあちこちにジャンプします😆。

 タイトルは「たそ、かれ、ボードレール」!
 そう。「黄昏ボードレール」です、というよりむしろ、ぶっちゃけた話、「だれそれ、ボードレール?」って感じでしたね、あのころは。😇!



2017/04/30

岩波文庫「私の三冊」に

岩波文庫創刊90周年記念に「図書」が臨時増刊として出した「私の三冊」。2015年にクッツェー『マイケル・K』を岩波文庫に入れていただいたご縁もあってか、わたしも三冊あげさせていただきました。その三冊は以下のとおりです。

・『ウンベルト・エーコ 小説の森散策』和田忠彦訳
・『道草』夏目漱石著
・『ボオドレール 悪の華』鈴木信太郎訳

ほかにもそうそうたる人たちが!

 中村和恵さんとお父様の中村健之介さんが、見開きページにならんでいるのを見て「すばらしい」と声をあげてしまいましたし。大学の教授陣にまじって、落合恵子さん、北原みのりさん、武藤類子さんがいたり、女優の有馬稲子という名を見て、遠い昔に一気に飛んだり、このめまいを起こすような感覚がとても不思議でした。

 いやあ、岩波文庫。すごいな。

2016/12/11

『鏡のなかのボードレール』が毎日新聞「この3冊」に

和田忠彦教授退官記念シンポジウムで体験した感動的な講義のあとの、賑やかで楽しい一夜があけて、はらりと開いた今朝の新聞には、毎年恒例のその年をふりかえって書評者たちがあげる特集記事「2016 この3冊」が見開きページにずらりとならんでいる。

 そして、おお! なんと拙著『鏡のなかのボードレール』も仲間入りしているではないか。池澤夏樹氏が選ぶ「この3冊」に『鏡のなかのボードレール』が入っていたのだ!

 ♪うれしや〜ありがたや〜年の暮れ〜♪

「ボードレールの恋人だったジャンヌ・デュヴァルが黒人と白人の混血だったところから始まって、肌の色の違いが性的魅力に転化するからくりを論じる。展開は融通無碍で、時代を渡り、言語を越え(著者は……)、大陸を跨ぎ、男女の位置も逆転させる」と。

2016/08/30

図書新聞一面に書評が載りました

  • 「硬派書評」をうた図書新聞(2016年8月27日発売号)にも『鏡のなかのボードレール』(共和国)の書評が載りました。

    評者は詩人の田中庸介さん。この本の書き手と本自体の構造的関係を「メタファー」という語を用いて解明する、とても力のこもった評です。なみなみならぬ意気が伝わってきて感動しました。
     それも一面に掲載、向かって左手です。偶然ながら、右手には奥田愛基さんのプロフィールがあり、西谷修氏の論考が。
     また、なかには管啓次郎さんらの『地形と気象』の書評もあって....読み応えたっぷりです。

     こうしてありがたくも書評が出そろうと、自分がなにを書いたのか、それが誰にどんなふうに受け止められたのか、ということが客観的にわかってきます。書き始めたときや、本を出したばかりのときには、まったく見えなかった視点がおぼろげながら見えてくる。
     ずらりとならぶ書評者はすべて男性。予想はしていましたが、例外なく、でした。

    毎日新聞──池澤夏樹氏
    北海道新聞──野村喜和夫氏
    日経新聞──陣野俊史氏
    週刊読書人──芳川泰久氏
    図書新聞──田中庸介氏
    東京新聞・中日新聞──男性記者?
    「本の雑誌」──都甲幸治氏

     でも、実は、女性読者からの感想もたくさんいただいています。「ボードレールからクッツェーまで、黒い女たちの影とともにたどる旅」というところに鋭く、強く反応してくれる方々が多い。ただし、それは活字にはなりにくい感想やことばで、まさに「境界の文学」のラインのあっちとこっちで、ぱっきりと分かれる、ということのようでもあります。そこにもまた、いろいろ考えていくヒントが埋まっていそうです。とても興味深い結果です。
     読んでくださったみなさん、どうもありがとうございました。

     まだまだ旅は続きます。これからもどうぞよろしく!

2016/08/26

明日発売の「現代詩手帖」に書評が……

明日発売の「現代詩手帖 9月号」が届きました。拙著『鏡のなかのボードレール』の書評(p121)が掲載されています。

 シャルル・ボードレール。この名はこれまでに、どれだけの読み手の胸を高鳴らせてきたのだろう。この極東の島国でもまた、──
 という書き出しの評を書いてくれたのは、トークイベントにも参加してくれた清岡智比古さんです。

──「ジャンヌ・デュヴァル詩群」を読んだときに、ジャンヌがシャルルに向けていた視線について、あなたは思いめぐらせることがあっただろうか?
 と問いかけながら、最後はこんな結びです。

──本書が提示する、詩と、視線と、歴史を巡る考察には、育てられるべき多くの種子が満ちている。画期的な、と形容できる一冊である。 

 Muchas gracias! 
 むっちゃ嬉しい!       ──と頭韻を踏んでみたくなりました/笑。

 ぜひ、手に取って全文を読んでください。
 *思潮社編集部さんに深謝します。

2016/08/20

新刊めったくたガイド「本の雑誌 9月号」

うっとうしい雨と湿気がちょっと遠のいたか、と思ったらまた雨。台風の季節だものなあ、モンスーン気候の土地に生まれてしまった運命か、とため息が出てしまう。しかし。嬉しいこともありました。

『鏡のなかのボードレール』をめぐる究極の書評が出ました。
 都甲幸治さんが「本の雑誌」に連載している「新刊めったくたガイド」、9月号です。
 3冊の新刊書について書かれています。1冊目はわたしも大好きなリディア・デイヴィス、2013年に国際マン・ブッカー賞を受賞した米国の作家です。フランス文学に深く通じていて、プルーストの名訳者でもある。岸本佐知子さんの訳でこのデイヴィスの『分解する』が作品社から出たばかり。これはもう、ホント、泣けます。

 2冊目が拙著『鏡のなかのボードレール』なんですが、2冊つづけて評されていることが、まったくもって偶然とは思えない視点を浮上させています。この2冊を貫くものを評者はしっかり見抜いています。さすが。


「現代の女性は学校教育において男性として考えるように教育される。なにしろ古典の多くは男性作家のものだし、メディアでも依然として男性の視点が力を持っているのだから。しかしいざ大人になると、彼女たちは男性としては扱われない。そして彼女たちは、男の言葉を使いながら自分の心情を書くという課題に向かい合うことになる。デイヴィスはそうした軋みを見事に作品化している」

 そう書いたあとに、拙著を評することばが続き、「……<逆にいまは、ジャンヌ・デュヴァルのような女たちの声を代弁する現代文学を、日本の男性読者が若いうちに精読することの重要性をとても強く感じる>というくぼたの言葉には、日本の文学研究だけでなく、日本社会そのものを変える力がある」と結論づける、耳喜ぶことばがならんでいました。(ほら、チママンダ、聞こえた?)
 そして最後をミラン・クンデラの『小説の技法』(西永良成訳・岩波文庫)でしめるという、なんとも豪勢な盛り付け!「新刊めったくたガイド」という名もめっちゃ面白いよねえ。

「本の雑誌 9月号」、手にとって読んでみてください。ぜひ。

2016/08/17

書評「二つの性を往還できるこの時代にふさわしい視点」

またひとつ、『鏡のなかのボードレール』の書評が出ました。「二つの性を往還できるこの時代にふさわしい視点」というタイトルで、掲載は8月12日発売の「週刊読書人」。評者はフランス文学の専門家、芳川泰久氏です。ボードレールの詩の訳についてまで突っ込んだ内容の評で、「なかでも読んできたことが累加的に焦点を結ぶ九章「J・M・クッツェーのたくらみ、他者という眼差し」は圧巻」ということばに筆者はとても喜んでいます。


 知人のなかに、自著や訳書に対する書評に「ありがとう」というのはおかしい、なぜなら、それは書評というのものが本来もっている「批評性」をそこないかねないから、という意見を持つ人がいます。わたしも、確かにそう! 日本語文化圏には日刊紙ならたった800字ほどの「書評」という名の「紹介記事」を書く文化が主流、あるいは書評紙や週刊誌などの書評欄にしても、3200字あまりの枠しかないのは、残念しごくです。
 たとえば、ニューヨークタイムズの書評は一本がもっと長いし、ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックスの書評にいたっては、その何倍もの量があり、ちょっとした論文のようだもの。
 あるいはフランス語圏のル・モンドの書評もがっちり長いし、突っ込んだ内容の辛口の評が載ったりする。フランスでは高校生のゴンクール賞というのまであって、そこで選ばれる作品の質の高さには定評があります。だから、本を読み、それについて評することは、たんなる読書感想文とはわけが違い、書評欄では当然、作品のよしあしとその理由を細かく論ずるスペースが確保される。

 それでも。それでも。この「本来の批評」の成立しにくい日本語文化圏に生きる者としては、やっぱり評が掲載されると、心のなかでつぶやいてしまうのだよね──Muchas gracias!

2016/08/06

日経新聞夕刊に『鏡のなかのボードレール』の評が載りました

8月4日(木)の日経新聞夕刊に、こんな書評が載りました。
「目利きが選ぶ三冊」として、選者・評者は陣野俊史さん。
なんと五つ星で、おまけに書影がフルカラーです!

「自由で、」……「思考の足跡が描き出されている」という嬉しい評。


(貼り付けちゃいました、陣野さん、すみません、そして、Muchas gracias!)

2016/07/26

毎日新聞書評『鏡のなかのボードレール』by 池澤夏樹

毎日新聞の7月24日付「今週の本棚」に『鏡のなかのボードレール』の書評が掲載されました。評者はなんと、池澤夏樹さん。「言語性差を越える優雅なエセー」と。


初めての自著で、エッセイで、ボードレールの詩の訳もあり、アンジェラ・カーターの短編の訳も付録につけて、と盛りだくさんな本になりました。

クッツェーの生まれ故郷を訪ねた話から、そのクッツェーの『恥辱』に出てくる女性ソラヤやメラニーまで、ひょんひょんと飛ぶわたしの頭のなかの地図に、池澤さんは立体的な見取り図をつけてくれました。なにせ、ケープタウンからパリへ、さらにはカリブ海へ、さらにさらに日本の内地、外地へと、たった200ページほどの本のなかで駆けまわるのですから。

 Muchas gracias!

 毎日新聞のネット版でも読めます

2016/07/20

『恥辱』のメラニーの肌の色は?

先日のB&Bの『鏡のなかのボードレール』をめぐるイベントで、こんな質問が出ました。

──クッツェーの『恥辱』に出てくるメラニーが前後の脈絡から白人ではありえない、とありますが、どうしてですか? 「メラニー」は白人の名前としてごくふつうに使われる名前ですが。

 あのときは実証例をあげて即答できませんでしたが、昨日そのことをあとづける部分を発見しました。メラニーがいわゆる「カラード」だという理解はあちこちで見かける意見で、南アフリカの研究者たちもそう述べていたと記憶していますが、それは次の箇所をどう読むかにかかっています。

 原著『Disgrace』のp164です。主人公デイヴィッド・ルーリーが娘ルーシーの農場からケープタウンへ車で向かう途中、ジョージという町に立ち寄ります。メラニー・アイザックスの家族が住んでいる町です。そこでルーリーはメラニーに対してレイプまがいのセクハラをしたことを家族に詫びるのですが、最初にアイザックス家を訪ねたときは1人の少女しかいませんでした。少女の名前を尋ねると、彼女は「Desiree」と答えます。デジレーと読むのでしょうか(デジリーア、とアフリカーンス語現地音ふうに読むのでしょうか)。そしてこう続きます。

Desiree: now he remembers. Melanie the firstborn, the dark one, then Desiree, the desired one. Surely they tempted the gods by giving her a name like that! 

デジレーか。それで彼は思い出す。メラニーは初めての子で、浅黒い肌の子、その次がデジレー、強く望まれた子。きっと、彼らはそんなふうに彼女を名づけることで、神々の意思にあえて挑んだのだ!)

 つまり、最初の子供であるメラニーは「dark one──浅黒い肌の子」だったが(melaninを暗示か?)、次に生まれた Desiree は強く望まれた子であり、より美人だった(Desiree, the beauty と4ページ先でルーリーは呼ぶ──p168)。

 上記の「dark one──浅黒い肌の子」という部分が効いています。
カラードの人たちは自分たちの中に白人、アジア人、先住民、黒人などの血が混じっていることを熟知していて(歴史的に混じり合ってきた人たちを制度上「カラード」と括ったわけですから)、それがどんなふうに子供に出てくるか、はらはらしながら、より白い子が生まれてほしい、と考えていたことがわかります。より白い肌で生まれてくるなら、膚の色で人口登録された「アパルトヘイト制度」のなかでは、地位も富もより上位のものが約束される。場合によっては「白人」で通すことも可能だ、と。
 アイザックス家の雰囲気を見て、プチブル的上昇志向の強い家族だとルーリーは判断しています。もしもアイザックスが白人の家族であれば、作家は上記のような書き方をすることはなかったでしょう。(夕飯に招かれて出された料理がカレーという駄目押しまでついています!)

 巧みな、暗示に満ちた書き方ですね。事情に通じた南アフリカの人たちにとっては言わずもがなの事実でも、外部にいる読者にはなかなか自信をもって断定できない要素でもあります。

 イベントこぼれ話のひとつでした!



2016/07/14

クッツェーはボードレールをどう評価するか?

B&Bでの『鏡のなかのボードレール』刊行記念イベントが、明後日に迫りました。

 どんな話が飛び出すのか、自分でもちょっと予想がつかない部分があるのですが、もちろん、『鏡のなかのボードレール』の内容をめぐりあれこれ──のほかに思いついたことは、せっかく「ボードレールからクッツェーまで」と銘打ったのですから、では、若いころ詩人になるべくロンドンへ渡ったクッツェーが、ボードレールのことをどう見ているか、先日入手した彼の私的アンソロジー「51 poetas」をちょっと見てみました。

 ありました、ありました。『悪の華』から4篇の詩が選ばれています。コメントもあります。このコメントを訳しました。明後日はそれをご披露しますので、ご期待ください。

2016/07/11

今週末です──ボードレールからクッツェーまで



くぼたのぞみ著『鏡のなかのボードレール』(共和国)刊行記念
  
日時:7月16日(土)午後6時半〜8時半  
場所:下北沢 B&B  ←予約はここをクリック!
出演:くぼたのぞみ × 清岡智比古 × ぱくきょんみ

いよいよです。今週末の土曜日に迫ってきました。

<B&Bサイトからの転載です>
------------------------------------------
 最近もコミックのタイトルに使われ、いまなお読み継がれているシャルル・ボードレールの詩集『悪の華』。詩人の生涯の恋人ジャンヌ・デュヴァルは黒人と白人の混血で、カリブ海の出身といわれています。『悪の華』に収められた「ジャンヌ・デュヴァル詩篇」から彼女の痕跡や詩人との関係をたどり、時空を超えたスパンから《世界文学》として新たに『悪の華』を読み直そうとしたのが、くぼたのぞみさんの初の散文集『鏡のなかのボードレール』です。
 その筆先は、これまで日本で受容されてきた数々の『悪の華』の翻訳・紹介をひもとき、さらに J. M. クッツェーの『恥辱』へと視界を開いていきます。そして、ジャンヌを主人公にしたアンジェラ・カーターの傑作短篇「ブラック・ヴィーナス」を訳し直し、大西洋を縦に、横に渡った複数の「ジャンヌ群像」を浮上させます。

 今回のイベントでは、ゲストとして、くぼたのぞみさんと80年代から同人仲間だった詩人のぱくきょんみさん、学生時代シュルレアリスト詩人デスノスを研究したフランス文学者・詩人の清岡智比古さんのお二人をお招きします。フランスや韓国、日本における歴史的に見た文化の混交と多様性から、ボードレールが日本の現代詩にあたえた影響まで、肩の力を思い切り抜いて大胆に、楽しく語っていただきましょう。

------------
くぼた のぞみ
1950年生まれ。翻訳家、詩人。藤本和子編集の北米黒人女性作家選に刺激されて翻訳を志す。おもな著書に、『記憶のゆきを踏んで』(2014)、おもな訳書に、J・M・クッツェー『マイケル・K』(2015)、同『サマータイム、青年時代、少年時代』(2014)、マリーズ・コンデ『心は泣いたり笑ったり』(2002)、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『アメリカーナ』(近刊)など多数。

ぱく きょんみ
1956年生まれ。詩人。和光大学ほかで講師。主な著書に、詩集『何処何様如何草紙』(2013)『すうぷ』(2008)、エッセイ集『いつも鳥が飛んでいる』(2004)、絵本『れろれろくん』(2004)、訳書に、ガートルード・スタイン『地球はまあるい』(2006)、共著に、『ろうそくの炎がささやく言葉』(2011)、『女たちの在日』(2016)など多数。

清岡智比古
1958年生まれ。詩人、明治大学教員。NHKフランス語講座の講師もつとめた。都市と詩の交差領域から出発し、最近は映画や移民問題へと関心を広げている。おもな著書に、『パリ移民映画』(2015)、詩集『きみのスライダーがすべり落ちる その先へ』(2014)、『エキゾチック・パリ案内』(2012)、『東京詩』(2009)など多数。

2016/06/17

ゲスト:ぱくきょんみ × 清岡智比古

イベントまで1カ月を切りました。7月16日(土)の夕方、豪華ゲストでお送りします。

「黒い女たちの影とともにたどる旅──ボードレールからクッツェーまで」
   くぼたのぞみ著『鏡のなかのボードレール』(共和国)刊行記念

日時:7月16日(土)午後6時半〜8時半  
場所:下北沢 B&B
出演:くぼたのぞみ × 清岡智比古 × ぱくきょんみ

                 
<B&Bサイトからの転載です>
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 最近もコミックのタイトルに使われ、いまなお読み継がれているシャルル・ボードレールの詩集『悪の華』。詩人の生涯の恋人ジャンヌ・デュヴァルは黒人と白人の混血で、カリブ海の出身といわれています。『悪の華』に収められた「ジャンヌ・デュヴァル詩篇」から彼女の痕跡や詩人との関係をたどり、時空を超えたスパンから《世界文学》として新たに『悪の華』を読み直そうとしたのが、くぼたのぞみさんの初の散文集『鏡のなかのボードレール』です。
 その筆先は、これまで日本で受容されてきた数々の『悪の華』の翻訳・紹介をひもとき、さらに J. M. クッツェーの『恥辱』へと視界を開いていきます。そして、ジャンヌを主人公にしたアンジェラ・カーターの傑作短篇「ブラック・ヴィーナス」を訳し直し、大西洋を縦に、横に渡った複数の「ジャンヌ群像」を浮上させます。

 今回のイベントでは、ゲストとして、くぼたのぞみさんと80年代から同人仲間だった詩人のぱくきょんみさん、学生時代シュルレアリスト詩人デスノスを研究したフランス文学者・詩人の清岡智比古さんのお二人をお招きします。フランスや韓国、日本における歴史的に見た文化の混交と多様性から、ボードレールが日本の現代詩にあたえた影響まで、肩の力を思い切り抜いて大胆に、楽しく語っていただきましょう。

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くぼた のぞみ
1950年生まれ。翻訳家、詩人。藤本和子編集の北米黒人女性作家選に刺激されて翻訳を志す。おもな著書に、『記憶のゆきを踏んで』(2014)、おもな訳書に、J・M・クッツェー『マイケル・K』(2015)、同『サマータイム、青年時代、少年時代』(2014)、マリーズ・コンデ『心は泣いたり笑ったり』(2002)、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『アメリカーナ』(近刊)など多数。

ぱく きょんみ
1956年生まれ。詩人。和光大学ほかで講師。主な著書に、詩集『何処何様如何草紙』(2013)『すうぷ』(2008)、エッセイ集『いつも鳥が飛んでいる』(2004)、絵本『れろれろくん』(2004)、訳書に、ガートルード・スタイン『地球はまあるい』(2006)、共著に、『ろうそくの炎がささやく言葉』(2011)、『女たちの在日』(2016)など多数。

清岡智比古
1958年生まれ。詩人、明治大学教員。NHKフランス語講座の講師もつとめた。都市と詩の交差領域から出発し、最近は映画や移民問題へと関心を広げている。おもな著書に、『パリ移民映画』(2015)、詩集『きみのスライダーがすべり落ちる その先へ』(2014)、『エキゾチック・パリ案内』(2012)、『東京詩』(2009)など多数。

2016/06/12

ジャンヌ・デュヴァルの肖像

今朝の毎日新聞に『鏡のなかのボードレール』の広告が載りました。イラストはシャルル・ボードレールが記憶をもとに、愛人ジャンヌ・デュヴァルの姿を描いたデッサンです。こうしてみるとジャンヌの表情ってものすごく人の視線を惹きつけるものがありますねえ。
 ボードレールは自分の自画像も描いているんですが、その目つきもまた異常に鋭い。拙著『鏡のなかのボードレール』では口絵として、ジャンヌとシャルルのポートレートが見開きページに掲載されています。いずれも迫力のあるデッサン。さすが美術評論家でもあった「見る人」ボードレールの面目躍如です。

 偶然ながら、ジャンヌの姿勢が(トルソのみですが)右端の女の子の立ち姿とほとんどいっしょ、というところが.........🌴!


日曜の書評欄の下に、こんなふうに、いくつかの出版社が共同で広告を出すのって斬新! 文字だけよりアピール力が断然アップしていて、とてもいいなあと思います。

2016/06/09

『鏡のなかのボードレール』は今日発売です!

鏡のなかのボードレール』が今日、発売になりました。

 みほんができから、ほぼ1週間、ついに店頭にならびました。お近くの本屋さんにない場合でも、注文すれば数日で届きます。直接、版元の共和国までご連絡くだされば、もっと早くお手元に届くはずです。

 7月16日(土)夕方にイベントも企画中です。ゲストがとっても豪華。詳細はもうすぐお知らせできると思いますので、楽しみにお待ちください。


「境界の文学」というシリーズの第一弾なんだけれど、この「《世界》をゆさぶる新シリーズ」って背文字が、すごいな! Shake! Shake!


2016/06/01

『鏡のなかのボードレール』、見本がとどいた!


ボードレールからクッツェーまで、
黒い女たちの影とともにたどった旅の記録のよう。

なんだかとっても贅沢な美本にしていただきました。
Muchas gracias!

2016/05/12

『鏡のなかのボードレール』とフロート・コンスタンシア

Groot Constatia の入口
 さわやかな5月の夕暮れ。来月刊行予定の、翻訳付きのエッセイ『鏡のなかのボードレール』(共和国刊)の念校に、みっちり赤を入れて返送した。(編集者さん、すみません!)
 いつもなら、ほとんどふらふらになって、電話でピックアップを頼むところ、今日は風もなく、まぶしい光のなかを、散歩がてら、ゲラを入れた大きな封筒を抱えて郵便局まで行った。斜めに差し込む日差しが思いのほか強く、家に帰ってから、脱力してワイン三昧!

右奥がテイスティング・ルーム
 2011年11月に、クッツェーの自伝的三部作のリサーチに訪れたケープタウンで、亡霊のようにボードレールの一篇の詩が脳裏に浮かびあがった。その詩に出てくる「コンスタンシアのワイン」とは、ここのワインだったのかと驚いたワイナリー、それが「Groot Constantia/フロート・コンスタンシア」だった。

ホワイエの壁にかかった絵
拙著『鏡のなかのボードレール』は、『悪の華』からいくつかの詩篇を訳出しながら、話は時空を超えてあっちへ飛び、こっちへ飛び、テーマも19世紀象徴派詩人ボードレールの作品が日本語へ翻訳された歴史や、日本の詩人たちのボードレール詩の受容などを経て、最後はふたたびクッツェー作品に出てくるケープタウンへと戻っていく。

 キーパーソンはボードレールの「ミューズ」だったジャンヌ・デュヴァル、カリブ海生まれといわれる肌の黒い女性だ。
 小ぶりながら、掌にすっぽりおさまる pomegranate みたいな、握りしめると grenade のような本になるといいな!

2015/04/04

4月24日:ハベバ・バデルーンの公開レクチャー

毎日、アディーチェの『アメリカーナ』をこつこつとやっていますが、それとはちょっと別のお知らせです。


 半月ほど前にすでにこのブログでも書いた、ハベバ・バデルーンの公開レクチャーが開かれます。4月24日、一橋大学東キャンパスのマーキュリータワーです。
 あれ、このポスターでは「ガベバ」となっていますね。これはアフリカーンス語の「G」が喉の奥から出す激しい音で、あるときは「ガ」に、またあるときは「ハ」と聞こえて、日本語表記はどうしても決められない音だからでしょう。

 他の例としては、世界初の心臓移植手術で有名はケープタウンの Groote Schuur という病院がありますが、これはジョン・クッツェーさんに会ったとき何度か発音してもらって、喉から出す激しい「フ」と聞こえたので、わたしはもっぱら「フローテ・スキュール」と表記しています。

 1969年生れのバデルーン自身はあるインタビューで、あるときは「ハベバ」で、またあるときは「ガベバ」で、さまざまに姿を変えることができる、とじつにしなやかな、面白いことを言っていたのを記憶しています。

 さて、このセミナー、とても楽しみです。今日は夕食前に、彼女の著作『Regarding Muslims/眼差すムスリム』の『恥辱』について書かれた部分を、予習がてらざっと翻訳してみました。ケープタウンにおける植民地支配時代から面々と続く歴史的な性的搾取の分析です。『恥辱』の最初の章を細かく読み解いていく視点が光ります。先日書いたフレーズをここに再録しておきましょう。

”そう、ムスリムなのだ。そう、『恥辱』の冒頭に出てくるあの「ソラヤ」なのだ。
 これは面白い! 近著『鏡のなかのボードレール』でも触れるが、この有色女性の描写はともすると後半の劇的展開に目を奪われて、読後は印象が薄くなりがちな箇所なのだけれど、じつはクッツェーが極めて明晰かつ含みのあることば遣いで、南アフリカにおける人種をめぐる歴史の深層を暗示している箇所でもあるのだ。
 それは主人公である白人男性デイヴィッド・ルーリーには見えなかった歴史であり、教育や意図的認識によって合理化されてきた、歴史体験やその無知と彼が向き合わざるを得なくっていくドラマへの奇妙な助走をうながしている。この第一章に出てくる女性、それがソラヤだった。
 この本は、そのソラヤの存在を詳細に裏づける瞠目すべき好著である。”

2012/05/27

クッツェー文学のなかのフレンチ・レターズ

鉄の時代』を訳していたときは、この作品に埋め込まれたアリュージョンの多様さに驚くばかりだった。訳書が出てからも、いくつか気づいたことがある。

 たとえばフロイトの『夢判断』のなかの「燃える子ども」。たとえば「J'accuse/非難しているのよ」という、ミセス・カレンが吐露することば──これはエミール・ゾラがドレフェス事件をめぐり新聞に公開した手紙「私は弾劾する」を強く連想させる語なのだと知った。

 そして先日、ピーター・マクドナルドのレクチャーを動画で観ていて、あらためて気づいたのが『恥辱』の最初のページに出てくる、3つのイタリック体の語についてだ。

 In the desert of the week Thursday has become an oasis of luxe et volupté.

 この「luxe et volupté」である。最初に読んだときも(もう13年もむかしになるけれど)なんとなく連想させるものはあったものの、勢いにまかせて読み進み、この3語がシャルル・ボードレール(1821〜67)とつながっていることまでは確認しなかった。

 しかし、マクドナルドが『恥辱』の最初のページ第2行目に出てくる「solved the problem of sex」という5つの語に関連させて「デカルト」の名前を口にしたのを耳にしたとき、はたと膝をうって調べた。この「luxe et volupté」は、『悪の華』のもっとも有名な詩のひとつ「Invitation au Voyage/旅への誘い」に出てくる「luxe, calme et volupté」とつながることばだったのだ。(われながら気づくのが遅い!)

Là, tout n'est qu'ordre et beauté,
Luxe, calme et volupté.

そこは、なにもかもが整然と、美しく、
豪奢で、静謐で、そして悦楽に満ちて。

 この詩は、もう4年ほど前になるけれど、「鏡のなかのボードレール」というタイトルの一連の文章をこのブログ内で書いたときにも訳出した。遠い異国の、オリエントの、褐色の肌をした男や女の住む土地へ旅立つあこがれをうたったこの詩のなかで、ルフランとして3度もくりかえされるこの2行は、まことに強力な余韻を残す。

 この19世紀半ばの、ヨーロッパ白人男性から見た遠い異国へのイメージを、20世紀も終盤のケープタウンで、人種主義のシステムが崩壊した社会に生きる、52歳の白人男性大学教授の悦楽のあり方として、クッツェーは作品内でもちいている。このことの意味。ぎりぎりまで刈り込まれた明晰なことばで、登場人物の性格、状況設定が展開される第1ページ目に出てくる効果。

 あらためて唸ってしまった。