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2022/04/23

南アで In the Heart of the Country が出版された年は?『生まれつき翻訳』

 ようやく時間ができたので、レベッカ・L・ウォルコウィッツ著『生まれつき翻訳』(監訳・佐藤元状、吉田恭子/訳・田尻芳樹、秦邦生、松籟社, 2021)を読みはじめる。監訳者の方々は「クッツェーファンクラブ」の面々なので、読むのを楽しみにしていたのだ。

 まずは序章「世界文学の今をめぐって」をざっくり読んでいくと、クッツェーという作家名がかなり出てくる。そこはゆっくり読む。するとチカチカと点滅する文字群に出くわした。p24の3つ目の段落はこう始まる

「ニューヨークやロンドンなど出版業界の中心から外れた場所にいる英語作家も、翻訳を余儀なくされることがある。ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴが最初の一連の長編をキクユ語で出版することにしたのはよく知られているが、自らの翻訳で英語でも出版してきた。チヌア・アチェベの『崩れゆく絆』にはイボの言葉がそこここに使われているが、一九六二年、ロンドンのハイネマンの叢書で出版されたときには用語集が必要だったし、クッツェーの『石の女』は一九七七年に南アフリカで初版が出たが、英国版では一部がアフリカーンス語から英語に翻訳されている」(下線引用者)


 アフリカ系/発の作家たちと言語との関係をざっと見渡す部分だが、下線を引いた箇所で「?」となった。クッツェーの第二作目に当たるこの本はまず、イギリスとアメリカで出たはずだ。念のため原文も当たってみたが、原文通りの訳になっているから、これは著者レベッカ・L・ウォルコウィッツの勘違いなんだろう。まず下線部前半。


1)クッツェーの『石の女』は一九七七年に南アフリカで初版が出たが

  In the Heart of the Country(わたしはいくつかの理由で原タイトル通りに『その国の奥で』とする) の「初版は」たしかに1977年に出ているが、南アフリカのRavan社からではなくイギリスのSecker社からだ。同年にアメリカのHarper社からもタイトルが一語異なる形で出ている(理由は後述する)。南アフリカで英語とアフリカーンス語の混じった「バイリンガル版」として出たのは翌年の1978年2月*だ。出版にいたる事情は非常に複雑。この出版年の微妙なずれについては、2014年の拙者訳『サマータイム、青年時代、少年時代』(インスクリプト)の年譜にも、昨年の『J・M・クッツェーと真実』(白水社)の年譜にも載せた。だからここはちょっと残念。


 クッツェーがこの作品を書き上げたときは2つのバージョンがあった、とカンネメイヤーの『伝記』(伝記 p288~)やデレク・アトリッジの著書(Attridge p22)は伝えている。デイヴィッド・アトウェルの作品論(p65~)にも詳しい。(参考図書はブログ下に)

Ravan 1978

 2つのバージョンのうち1つはすべて英語のバージョン。もう1つは会話部分がアフリカーンス語のバージョンだ。ロンドンのエージェント宛てのクッツェーの手紙によると、会話部分にフォークナーが南部訛りの英語を用いたように、自分も英語でローカルな感じを出したいとやってみたがうまくいかなかった、とある。会話は英訳前のアフリカーンス語バージョンがしっくりくるとクッツェーは述べる。


 テクストが海外版と南ア版で異なるこの作品の出版が、南アフリカで一年遅れた理由は、1970年半ばに南アフリカの検閲制度が大きく変化し、作家や編集者が検閲委員会の動きを注視せざるをえなくなったことと関連があるようだ。さらに、旧植民地をも市場にしたいイギリスの出版社と南アフリカの極小出版社との、販売権をめぐる複雑な事情が絡んでいる。


 これはまだ初作『ダスクランズ』が南アフリカでしか出版されていなかったころで、クッツェーは二作目はイギリスやアメリカで出版したいと強く希望していた。そこでレイバンの編集者とイギリスのエージェントと同時に交渉していたらしい。その結果、まず英語のみのバージョンがイギリスとアメリカで出版され、会話部分がアフリカーンス語のバイリンガル版が翌年、南アフリカで出版ということになった。


Harper Collins 1977
 米国版は内容は英国版と同じだが、タイトルがFrom the Heart of the Country になった。これは、Harper の編集者から、In the Heart of the Heart of the Country という書籍がすでにあって図書館に所蔵するときコンピュータ上混乱するので、Here in the Heart of the Country にしてはどうかと提案されたクッツェーが、それでは長すぎるし、自分がつけたタイトルはテキスト全体を貫くあるリズムを示しているのだ、としてFrom the Heart of the Country を提案し、決まった。(下線筆者)

 クッツェーが2つのテクストを準備した理由は、農場を舞台にした会話場面の多いこの作品の本質と関わってくる。南アフリカの農場で用いられる言語は、『少年時代』を読むとわかるが、圧倒的にアフリカーンス語だ。会話はアフリカーンス語であるほうが、クッツェーを含む南アの読者にとって自然なのだ。次に下線の後半部分。


2)英国版では一部がアフリカーンス語から英語に翻訳されている。
Secker&Warburg 1977
 先行する「初版が」が事実と異なるので、理解しにくいのだけれど、ウォルコウィッツは「南アフリカの初版」をアフリカーンス語含みのバイリンガル版と考えたのだろう。

 何語から何語への翻訳かは、アトウェルの草稿研究が明らかにしている。会話部分は最初アフリカーンス語で書かれていたが、作家が改稿の見直しをするとき、草稿の反対ページにアフリカーンス語会話の英訳を書きこむようになったのだ。「自分の作品は英語という言語にルーツをもっていない」と明言するにいたった作家の心情が、非常によく出ているのがこの農場を舞台にした『その国の奥で』だった。


 というわけで、どうやらこの作品の出版年をめぐるウォルコウィッツの誤記に、「クッツェーファンクラブ」の面々は残念ながら気がつかなかったらしい。些細な誤記ではあるが、1970年代南アフリカの出版事情は、J・M・クッツェーという作家の誕生にとって重要なポイントなのだが。

 なんでこんな文章を書いているのか、と自問してみる。どうやらそこには、日本のクッツェー研究者に南アフリカのことをもう少し突っ込んで探って欲しいと思っている自分がいることに気づく。アフリカなんか、と思わずに。クッツェーが生まれて育って、20代の10年間をのぞいて62歳まで暮らした土地なんだから。


 ウォルコウィッツのこの本は、トピカルなテーマを追いかける文芸ジャーナリスト顔負けの奇抜な見立てと文章力で読ませてしまうところが、すごい。でもその足場として透かし見える軸は、「世界文学」としての英語圏文学をマッピングして描こうとする「北の英語文学理論」の欲望にあるのではないか。バッサバッサと斬新なテーマで切っていく勢いには、辺境で生み出される個々の作品の、いってみれば英語以外の「その他の言語」で書かれる作品の出版事情なんかにいちいちこだわらなくてもいい、という姿勢が見え隠れする。いや、ぜんぜん隠れてないか(笑)。村上春樹とJ・M・クッツェーを「翻訳」というキーワードでおなじ土俵に並べてしまうのだから。この2人にとって作家として生きる言語環境と、「翻訳」の切実性や必然性の依って立つところは、まるで異なるだろうに。


 また born translated をわたしは「翻訳されて生まれてきた」と訳すことにしているが、それは「生まれつき翻訳」は「分類」「仕分け」には便利だが、作品が立ちあがる動きを切り捨てるニュアンスがあるためだ。おそらくそれは作品翻訳者の姿勢と、数多くの作品を「研究」する者の姿勢の違いからくると思われる。もう一つ、あえていうなら「生まれつき」に続く語にマイナスイメージ(差別語)を呼ぶ気配が消えないからだ。そのような表現を長く、耳から浴びつづけた世代だからかもしれないけれど。


 翻訳はさぞや大変だっただろうなあと推察する。膨大な作品数と原註、そのファクトチェックの結果と思しき訳註で、クッツェーの書評集と小説の冊数をめぐる警告が入っていたりして、苦労の跡がしのばれます……ご苦労様でした。👏👏👏👏


 ちなみに、2022.4.18現在のWikipedia(英語版)In the Heart of the Countryは、出版年、バージョンともに、きちんと事実を伝えています。💖


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追記:2022.4.24──

1)参考図書をあげておきます。(『J・M・クッツェーと真実』にも入れました。)

Derek Attridge: J. M. Coetzee and the Ethics of Reading, University of Chicago Press, Chicago, London 2004.

Peter D. McDonald: The Literature Police, Oxford University Press, 2009.
J. C. Kannemeyer: J. M. Coetzee, A Life in Writing, Scribe, 2012.
David Attwell: J. M. Coetzee and the Life of Writing, Viking, 2015.

Marc Farrant, Kai Easton and Hermann Wittenberg: J. M. Coetzee and the Archive: Fiction, Theory, and Autobiography, Bloomsbury, 2021.

Robert Pippin: Metaphysical Exile on J. M. Coetzee’s Jesus Fictions, Oxford University Press, 2021.


2)『その国の奥で』のことは『J・M・クッツェーと真実』第三章「発禁をまぬがれた小説」で、部分訳も引用しながら、詳述しました。

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さらに追記:2022.11.12──

*「6月」と書きましたが、正しくは「2月」でしたので、訂正しました。

2019/10/11

デレク・アトリッジ教授が再来日します

2012年5月に初来日して、J・C・カンネメイヤーが書いたJ・M・クッツェーの伝記と作家自身の自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代』の最終巻『サマータイム』とを比較しながら、すばらしいお話を聞かせてくれたデレク・アトリッジ教授がまた来日します。

 来日中の講演と読書会のお知らせをここに!



 講演会は「翻訳、世界文学、マイナー言語の問題」について。まるでここ数年、英語版より先にスペイン語版で自作を出してきたJ・M・クッツェーの問題意識を解き明かしてくれるようなテーマ設定ですよね。
 読書会は11月12日にメルボルンの出版社から出たばかりの英語版The Death of Jesus を読むそうですよ〜〜。面白そう! わくわく。

 

2018/10/24

J・M・クッツェーの母方の曽祖父はポーランド系

このところ「英語」という言語が世界を覆う勢いについて極めて批判的な態度を表明しつづけているクッツェーだが、今朝いちばんに飛び込んできたニュースもまた、クッツェーのそんな姿勢が強く感じられる内容だ(10月23日付)。


シレジア大学で名誉博士号を授与されるJM・クッツェー。壇上にはデイヴィッド・アトウェルとデレク・アトリッジの姿も見える。これから3人でアウシュビッツへ向かうのだろう。クッツェーのスピーチは49:40ころから8分ほど。

 ポーランド、カトヴィツェにあるシレジア大学で名誉博士号を授与されたことを伝えるこの記事(原文はポーランド語、読んだのはGoogle英訳)によると、クッツェーの母方の曽祖父バルタザール・ドゥ・ビールはそれまでドイツ人だと思われていたが、生まれたのはチャルヌィラスCzarnylas(「黒い森」の意)という村で両親はポーランド人、村の学校ではポーランド語で授業が行われていたことが突き止められたそうだ。

 突き止めたのはシレジア大学の研究者ズビグニエフ・ビアワス教授Zbigniew Białas。バルタザール・ドゥ・ビールの第一言語はポーランド語であると。(動画のなかでは、ズビグニエフ・ビアワスが2004年6月13日(日曜日!)にクッツェーから突然メールがきて、彼の曽祖父が「Balcer Dubylバルツァル・ドゥビル」という名でポーランドで生まれていたが、詳細を調べてほしいと依頼されたそうだ。)(追記:その結果についてのエピソードを今回、披露しているが、その事実はデイヴィッド・アトウェルの評伝にあったし、そこにはクッツェーがポーランドにあるドゥビルの親戚の墓を訪ねる写真も添えられていた。)

 カトリックのポーランド人として生まれたバルタザール(バルツァル)(1844~1923)は、10歳のころの宗教的な体験によってプロテスタントになることに決め、ドイツ人になって宣教師協会の宣教師として1868年に南アフリカへ送られ、南部アフリカで布教した。結婚した相手がモラビア出身の女性アンナ・ルイザ・ブレヒャー。その娘が、父親が宣教で渡米中にイリノイ州で生まれたルイザ(1873~1928)、つまり母方の祖母だ。このルイザが子供たち全員を英語で育てたために、ジョンの母ヴェラもまた英語で自分の子供を育てることになった。

左がズビグニエフ・ビアワス
 ポーランド生まれのバルタザール・ドゥ・ビールの姿は、『少年時代』ではちょっと狂人じみた宣教師の姿として描かれていて、少年ジョンの大叔母アニーが父親の書いた本をドイツ語からアフリカーンス語へ翻訳して印刷製本して売り歩く姿が出てくる。ドイツ語から、つまり、宣教師バルタザールは、当時、自分の第一言語のポーランド語ではなく布教活動のために獲得した言語、ドイツ語で書いたわけだ。それを南アフリカでアフリカーンス語に翻訳することに一生を費やしたのが「アニーおばさん」、ジョンにとっては大叔母さんだった。
(こうして新事実がわかることで、『少年時代』もまた、結果として、フィクション性の強い作品であることが明らかになっていく……。)
 動画はシレジア大学のサイトにもアップされている。

2017/08/31

オクスフォード大学でも「クッツェーと旅する」シンポが

今年もまた9月から、クッツェーをめぐる催し物が目白押し。

 すでに8月28日にはチリのサンティアゴで、これで3回目になる「クッツェー短篇賞」の授与式が行われるという記事があった。サンティアゴ近辺の学生を対象に、今年のテーマは「都市」。金、銀、銅、そして佳作3作が選ばれて、それぞれ講評が行われたらしい。昨年と一昨年の授与式では、これまでクッツェーが受賞した2つの賞(子供時代にもらった賞)について述べたが、今年はスウェーデン国王から授与された賞について語るとか。ノーベル賞のことだが、今回はスペイン語のスピーチが準備されていたそうだ。

それが終わったら、ブエノスアイレスの第6回「南の文学」だ。12日、13日にサンマルティン大学で開かれる今回は、シンポジウム形式で「ラテンアメリカ文学におけるJMクッツェーの影響」がテーマ。
 ケープタウン大学の元同僚で優れたクッツェー論『カウンターヴォイス/Countervoices』という著書をもつキャロル・クラークソン(2014年にアデレードで会いました!──いまはアムステルダム大学で教えている)がスペシャルゲストだ。詳しいプログラムはここ


 さらに9月末からは(9/29-30,10/1)オクスフォード大学で「クッツェーと旅する、他のアート、他の言語:Travelling with Coetzee, Other Arts, Other Languages」という魅力的なテーマの、ジャンルを拡大した大がかりなシンポがある。エレケ・ボーマーとミシェル・ケリーがオーガナイザーとして名を連ねているが、このプログラムを見て、ああ、クッツェー研究も若手が主体になっていくんだなあ、と感慨深い。
 2014年にアデレードで発表した人たちの名前もあるし、クッツェーの小説を演劇化したニコラス・レンスや、クッツェーの初期作品のシナリオを書籍化したハーマン・ウィッテンバーグの名もならんでいる。彼のセレクションでクッツェー自身の写真もならぶらしい。少年ジョンが聖ジョゼフ・カレッジの生徒だったころ、自宅に暗室をつくって写真に凝った時代のものだ。さらに『文芸警察』でアパルトヘイト時代の検閲制度を詳述した(現在オクスフォード大で教えている)ピーター・マクドナルドの名も見える。

 瞠目すべきは、この「クッツェーと旅する」シンポの最後に翻訳者が数名ならんでいることだ。セルビア語、オランダ語、イタリア語の訳者の名前があって、最後に、オランダのコッセ出版社代表であるエヴァ・コッセの名がある。エヴァ・コッセはクッツェーが70歳になったときに、アムステルダムで大々的なイベントを開催した人で、カンネメイヤーの分厚い伝記やアトウェルの本の編集・出版権を担当したツワモノである。(わたしも原稿段階の伝記をPDFで読ませていただいてお世話になりました。Merci beaucoup, Eva!)
 フランス語の訳者でクッツェーの古くからの友人であるカトリーヌ・ローガ・ドゥ・プレシの名がないのがちょっと寂しいが、いずれにしてもヨーロッパ言語間の翻訳をめぐってあれこれ論じられるのだろう。英語とヨーロッパ言語少し、という枠内の話だが、それでも興味深い。

 再度書いておこう。この催しのプログラムの詳細はここで見ることができる(Downloadで)。わたしの目を引いたのは、現在ウェスタン・ケープ大学で教えるウィッテンバーグが『マイケル・K』を論じるタイトル:「Against World Literature/世界文学に抗して」、そして、2014年にまだ赤ん坊だった男の子を連れてパートナーといっしょにアデレードにやってきたウェスタン・シドニー大学のリンダ・ングが「Coetzee's Figures of the non-national/クッツェーのノン・ナショナルな(「非国民・非国籍・非民族の」とでも訳そうか?)人物たち」という発表をすること。
 10月は先述したロンドン大学での催しも待っている。いずれも、最後にクッツェーがリーデイングをする、祝祭めいた催しだ。10月1日、聖ルカ礼拝堂で行われるクッツェーの朗読だけを聞くこともできるそうだ。

 ジョン・クッツェーさん、またまたロング・ジャーニーに出たんだな。こうして旅するあいだも、彼はどこにいようと、毎朝きっちりPCに向かって創作を続けていくのだろう。


2016/06/07

クッツェーの創作プロセスを探るアトウェル


デイヴィッド・アトウェルがその著書『J.M.Coetzee and the Life of Writing──face to face with Time』についてインタビューに応えている中身が、とても面白いので、その続きを。

──この本のサブタイトルに、face to face with Time とありますが、どういうことですか?
DA:このフレーズは『マイケル・K』のある草稿から採ったものです。マイケルはスヴァルトベルク山脈に逃げ込んで、ここまでくればもう追っ手は自分を探し出せないと思ったとき、「これでついに俺は時間と差し向かいだ」と考える。クッツェーが人間の存在と向き合う方法としてフィクションをどのように使っているかを論じるために、僕はこのイメージを使いました。

──あなたの書いた本は、伝記とどう違うのですか?
DA:伝記作家は作家を包装して棚に飾ります。作家の作品を小さくまとめて個人生活にしてしまうことも多い。クッツェー自身、一度、伝記作家というのは作家が書いていないとき何をしているかについて書くんだと指摘していたことがありました。僕はちょっと違うことをしようと思った。生活ではなく、作品から始めることで、つまり、どのように作家の人生が変形されて作品内に具体化されていったかを見ていった。

──クッツェー作品を通して、彼のどんな内面が、どのように把握できるのでしょう?
DA:クッツェーの一般的イメージは、厳格で、よそよそしく、感情を顔に出さない、それに、つまらないやつには手厳しいというものです。彼の書いたもの(原稿類や出版された小説)からわかるのは、彼が傷つきやすくて、間違いもやるし、不安症だということです。とはいえ、クッツェーほど自分に厳しい人はいない。自分自身への要求は信じがたいほど厳しく、自己統制と、自分の仕事へのコミットは半端ではありません。

──アトウェルさんはこの本を、どうのような読者を想定して書いたのですか?
クッツェーとアトウェル 2014
DA:クッツェーの小説を読んだ人なら誰でも、もっと知りたいと思う人は誰でも読めます。批評家は、これは役に立つ内容だと思うでしょうが、僕はあくまで一般読者に向けて書きました。いちばん得るところが多いのは、たぶん、作家たちではないかと思っています。どんなふうに作品が書かれたのか、彼らはとても知りたいでしょうから。

──作家が書くプロセスについて書いたわけですね、アトウェルさん自身、そこからご自分の書き方について何を学びましたか?
DA:自伝を書きたいという欲求は、あながち悪い出発点ではないということです。クッツェーはほとんどいつも個人的なことから書き始めています。そのあと徹底的に文章の練り上げをやります──何度でも書き直す──書き直しの回数たるやすごい。

──クッツェーとその小説に対する考え方がどう変わりましたか?
DA:学生時代に彼の最初の小説『ダスクランズ』を読んでから40年ものあいだ、僕はクッツェーのフィクションの賞賛者でした。(ついでにいうと『ダスクランズ』は植民地主義がテーマ、というか、脱植民地主義を舞台化したものだといったほうがいいでしょう。読破にはちょっと胆力が必要ですが、扱われている暴力は現在に通じるものです。)長年のつきあいで、僕は、クッツェーがたどった旅の、なにがしかを理解できたように思います。彼の作品のファンとして出発し、いまではさらに、彼が作品を生み出すにいたった創造性とそのプロセスを理解できるようになりました

2016/06/06

クッツェーの「ベケットに欠けているのは鯨だ」の意味

 J・M・クッツェー研究ではこの人の右に出る人はいないといわれるデイヴィッド・アトウェルの著書『JM Coetzee and the Life of Writing ──face to face with Time』がアラン・ペイトン賞の最終候補になっている。そのアトウェルのインタビューが Books Live に載った。気になったところを少しだけ訳してみる。

──この本を書いた動機は?
DA:エヴァ・コッセ(クッツェーのオランダの版元)から8年前に、短い伝記を書いてみないか、といわれたんです。クッツェーの自伝的作品の第3部にあたる『サマータイム』が出るのにあわせてね。その仕事に僕が向いているかどうか、ちょっと自信がなかった。最終的にはジョン・カンネメイヤーがじつに浩瀚な伝記を書いたわけですが、エヴァと僕はその後も連絡を取り合った。クッツェーの原稿類がテキサス大学で読めるようになったとき、僕は自分が書くべき本のことがわかった──それはクッツェーの創作過程の研究だったんです。

──クッツェーが南アフリカにいないことは、彼の作品に影響しているでしょうか?
DA:ええ、影響していると思います。南アフリカはわれわれを倫理的な面で非常に苦悩させますし、想像性もです。クッツェーはその不快感を利用して、読み手を引き込む、美しい小説を創造することができた。彼は奇妙にも一度、『白鯨』のハーマン・メルヴィルと『ゴドーを待ちながら』で名高いサミュエル・ベケットを比較しました。クッツェーは、ベケットに欠けているのは鯨だ、といったんです。その意味するところは、自分は精神的にはベケットに近いけれど、クッツェーは、とにかく自分には鯨がいるというのです。鯨とは危機の状態にあること、あるいは、歴史を爪の下に直に感じている、ということなんです。オーストラリアでの彼は、自分自身ともっと和解していて、そんな危機感はなくなりました。

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付記:「ベケットに欠けているのは鯨だ」とクッツェーがいったのは、ほかでもない、2006年9月末に彼が初来日したときの講演でのことだった。この講演は『ベケットを見る八つの方法』(水声社)に田尻芳樹さんの訳で入っている。
「鯨」が危機の状態のことだ、というのは2006年ではなく、2016年のいま、幸か不幸か、もっと現実味をもって理解できるようになったかもしれない。原発メルトダウン後にあらわになった、われわれの住み暮らす土地の危機として。

2015/05/17

『マイケル・K』、紀伊国屋書店新宿南店のイベント無事に終了!

紀伊国屋書店新宿南店でのクッツェー『マイケル・K』岩波文庫化の記念トークが、無事に終了しました。わざわざ足を運んでくださった大勢の方々に深謝します!

 さわやかな5月の空にさらさらっと雲が薄く流れて、今日はとてもよいお天気でした。イベントは広い売場の一角に椅子をならべ、ごらんのような幕の前で話をするというもの。本を買いにきたお客さんも「あれ、なんだろ、このイベント?」といった感じで立ち止まって、話に耳をかたむけてくれるといった趣向です。

 都甲幸治さんの絶妙なリー ドで、気持ちよく話をさせてもらいました。クッツェー作品を縦横に行ったり来たりしながら、作品と作品のあいだをテーマでつないだり、ひょんと飛んだり、とても自由に話ができました。ケープタウンやアデレードへ行ったときの話、クッツェーさんのお宅を訪ねたときの裏話まで、たっぷり話すことができました。

 開場からの質問も突っ込んだものが多く、みなさん、すごく深く読み込んでいるなあ、とちょっと感動的でした。なかには『青年時代』のある内容をカンネメイヤーの伝記とくらべて、どうも辻褄が合わないが、事実はどうなのかか・・・という、もう、ほとんど脱帽するような質問まであって、感心しきりです。

 そして、イベントが終っても外はまだまだ明るい、この季節ならではの心地よさ。木のデッキのあるテラスで風に吹かれながら、ノンアルコールの飲み物とクレープで打ち上げ。さ、帰ろうか、といっても、まだ外はほんのり明るい、マチネーっていいですねえ。。。

 お世話になった紀伊国屋書店新宿南店のスタッフのみなさん、どうもありがとうございました。

2014/05/19

ニンゲンは行儀よくしなければ、地上では動物たちの客なんだから/クッツェー

facebook を毎日のようにのぞいていて、ほとんどアディクトめいたようすになってきたことに、われながら驚く。そのせいか、ブログを書く回数が減ってきたような気がする。これはまずい。

facebook はすぐに誰かの反応があるので面白い反面、そこに書き込んだことがどんどん下の方に落ちていき、またたくまに視界から消える。自分のタイムラインにシェアしても、数カ月もたつと取り出すのさえ面倒になる。情報の断片を、これは前に読んだことと関連していると思って、以前の情報を検索しようとしてもうまく辿り着けない。つまり、情報は「その場限り」のはかない生命となりやすいのだ。

 時間をかけてじっくりやる仕事や作業にはまったくもって向いていない。ただの「反応」の山であって「応答」にはなりにくい。情報発信には役立ち、相互作用も組み込まれているから「広場」的な役割もはたしているが、それが発信者のほとんど独りよがりともいえる書き込みや、つぶやきが中心になってしまうとつまらない。

 池の水面に落とされた小石の波紋。その波紋をゆっくり読み取る作業はあまり重要視されない。これは「文学」とは対極の流れ方かもしれない、facebook に流されないために、いま一度、ブログに戻ろうと思う。


先日はこんな書き込みを facebook にした。再度ここにペーストしておく。

When a journalist ・・・asked why he should want to help animals, he gave sharp, humorous reply:  "They were here on earth before we were.  We are their guest.  I'd like to persuade human beings to behave like good guests." ──J.M. Coetzee: A life in Writing by J. C. Kannemeyer p591

あるジャーナリストがクッツェーに、なぜ動物を助けたいと思うのか、と訊ねると、彼はきっぱりと、ユーモラスにこう答えた。「動物たちは地球上にわれわれが来る前からいた。われわれは動物の客なんだ。わたしは人間に行儀の良い客として振る舞えと説得したい」──J. C. カンネメイヤーの『伝記』より

けだし名言である。

さて、クッツェー自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代──辺境からの三つの自伝』(インスクリプト近刊)の作業も、98%が終った。あと一息だ。

2014/03/28

クッツェー自伝的三部作の初校ゲラを戻した

クッツェー自伝的三部作の初校ゲラ、さっき戻した。ふう。表紙や扉に使う写真もほぼ決まった。2011年11月に南アフリカへ旅したときに撮影した写真から、雲のかかったテーブルマウンテン、ヴスター駅前のユーカリの並木道、内陸部へ国道一号線を走ったときに撮った風景、ケープタウン大学でクッツェーが長年働いた建物、などなど。(ここにあげた2枚は含まれません。)

 カンネメイヤーの『伝記』から転載する写真もある。少年ジョンが犬といっしょに写っているショットとか、青年ジョンがケープタウンの街を闊歩する写真とか。この三部作は、『少年時代』『青年時代』『サマータイム』という個々の作品を形づくる、クッツェーの硬質なことばだけではなく、詳しい年譜や作品リスト、それに写真が豊富についた、豪華なつくりになりそう。

 5月下旬にインスクリプトから、詩集『記憶のゆきを踏んで』と同時刊行予定です。どうぞお楽しみに!

2014/02/22

「サマータイム」のユージン・マレーとヒヒ、そしてびっくり、第三作目の舞台は最初ケープタウンだった

日々、カンネメイヤーの書いたJ・M・クッツェーの伝記を再読して、クッツェーの自伝的三部作の「訳者あとがき」のためのメモや、作家の詳しい年譜を書いている。発見がたくさんあるけれど、ここに書いてしまうと、本が出たときの楽しみを削ぐことになるので、じっとがまん! でもひとつだけ。
 
今日はクッツェーが1977年に書いた「The Burden of Consciousness in Africa/アフリカにおける自覚という重荷」というエッセイを読んだ。南アフリカが輩出したアフリカーナの天才詩人にしてナチュラリスト(ここが臭いのだが)といわれるユージン・マレーの後半生を映画化した「The Guest」(1976)という作品の評だ。ユージン・マレーを演じるのが劇作家/俳優のアソル・フガード、監督がRoss Devenish/ロス・デヴェニッシュ。南アフリカ白人の自覚のありようにも、映画の作り方にも、なかなか手厳しい評だった。

 ユージン・マレーは薬物中毒で、トランスヴァールの農園にひきこもり、そこでこの中毒から脱しようと試みた時期がある。いったん中毒はおさまったかに見えるが、結局また逆戻りして、最後は銃で自殺することになるのだが、この時期、詩人は自然のなかに身を置いて、ヒヒを観察していた。そう、ヒヒ。
 
 なぜこれを読んだかというと、『サマータイム』の「マルゴ」の章に、ヒヒを観察するユージン・マレーの話が登場するからだ。ジョンが愛してやまないカルーの風景のなかで、従妹のマルゴにそのことを、ぼつりぼつりと語る場面だ。作中の時代も1970年代の半ばを想定している。


 1977年というのはまた、クッツェーが第二作 In the Heart of the Country が出版のプロセスに入ったので、次の作品を書き出した年でもある。実際に読者が目にする第三作は『夷狄を待ちながら』だ。しかし、クッツェーがそのとき書き始めたのはケープタウンを舞台にした暗い恋愛小説で、作風もエミール・ゾラばりのリアリズム。主人公はギリシア系南アフリカ人のマノス・ミリス、コンスタンティノープルの陥落について本を書いている人物だった、というから驚く。時期は革命戦争後で、ロベン島はもはやマンデラら政治囚が補囚されているところではなく、白人難民が国連の船に乗って国外脱出する場所になっていた。

 ところが、ある事件が起きた。そしてクッツェーはそのプランを断念する。ある事件とは、その年、つまり1977年に、黒人意識運動の中心人物、スティーブ・ビコが逮捕され、拷問死した事件だった、とデイヴィッド・アトウェルは書いている。そしてクッツェーが、場所も時代も不特定の架空の舞台を設定して書き始めたのが『夷狄を待ちながら』だったと。南アフリカの検閲制度がこの時期、作家にどのような作用をおよぼしたか。。。

 アトウェルはオースティンのランサム・センターでクッツェーの草稿を調べあげている南ア出身の学者で、『ダブリング・ザ・ポイント』というエッセイ集でインタビューアーをつとめた人だ。上のユージン・マレーの映画をめぐるエッセイもこの本に入っている。
 
 件のエッセイでクッツェーは、「天才」とはヨーロッパのロマン主義が創りあげたものだ、と書く。そして、このロマン主義思想の視点からポストアパルトヘイト社会を描いたのが『恥辱』なのだ、とアトウェルは語る。なるほど、バイロンだものな。ヨーロッパ中心のロマン主義の視点からは、現代の南アフリカという土地で生きようとする娘ルーシーの苦渋の選択の意味は理解できるわけがないのだ。あの作品はそのことを書いているのか。
 さらに、バイロンはクッツェーがテキサス時代に読みふけった詩人らしい、というのも数日前に読んだカンネメイヤーの伝記に出てきた。というふうに、あちこちみんな繋がっていくのだった。ふ〜ん。

2013/02/28

Passages ── 1997年の J. M. クッツェー

 SABC(南アフリカ放送)が1997年に制作した番組「JOHN M. COETZEE: PASSAGES」をようやく入手して観た(AさんとTさんに感謝!)。1997年は、J.M.クッツェーの Boyhood が出た年で、この番組はその直後に制作されたものと思われる。

 何人かのアカデミックや詩人などがクッツェー作品との出会いやその意味を語るあいまに、クッツェー自身が第一作『Dusklands』から『In the Heart of the Country』『Waiting for the Barbarians』『Life and Times of Michael K』『Foe』『Age of Iron』『Master of Petersburg』までを朗読し、風景、岩肌、水の流れなど、さまざまなイメージが映し出される。クッツェー作品の1997年という時点での評価としては、デイヴィッド・アトウェルの語るクリアなことばが、わたしの耳にはもっとも的確なものに聞こえる。作家自身の声は最近のちょっとかすれたものとはかなり違って、やわらかく、妙に耳新しい。

「6歳から8歳まで通ったローズバンク小学校はいい小学校だった、学校生活でいちばん楽しかった時期だ」とか、内陸の町ヴスターへ引っ越す前に住んでいた大きな家とその前に生えているオークの巨木に手を触れながら「子供が木登りするには最適な木だ」といったコメントが『少年時代』を改訳している者には、とても面白い。

 険しい山肌のアップ、暗い夕暮れか暁に国道を走る車窓から撮影したシーンなど、もともと暗いのか、画質が悪いから暗いのか、判断し切れないところはあるものの、あのころの多くの読者が、クッツェー作品のなかに読み取っていたものはこういう感じか・・・と想像力をかきたてられる。


 最後のほうに出てくるUCT裏のシーンがいい。セシル・ローズ・メモリアルの前で「ローズは書斎の窓から北のカイロの方角をながめていた」と語り、自分が生まれた産院、通った学校、この樹木の後ろの大学、と指差しながら、ケープタウンという町の、デヴィルズ・ピークの斜面にある大学で学生として学び、教師として教えてきた・・・と目を細めて遠くを見る。このクッツェーの姿がひどく印象的だ。
(左の写真はその記念碑近くに建てられた、physical energy という塑像だ。まったくおなじものがロンドンのケンジントン公園にもある、と『デイヴィッドの物語』にも出てくる。)

驚いたのは最後。家族写真が続々と出てきた。昨年、刊行されたKannemeyer の伝記に入った幼いころの写真や、若いころの写真・・・。OH! これを『少年時代』を訳していた1998〜9年ころに見ることができていたらなあ、と思わず唸ってしまった。

2013/01/30

クッツェーの『サマータイム』訳了、『少年時代』へ

 昨日ようやく『サマータイム』の訳了にこぎつけた。

 今日からは『少年時代』の改訳作業だ。13年も前に訳したものを読み直すのは不思議な体験だ。ただし利点もある。2011年11月にケープタウンと、内陸の町ヴスターを訪ねたことが大きい。

 初訳時には Google による検索手段なかったから、なかなか理解するのが難しかった細かな地理が、いまは難なくわかる。読んでいると、訪れたヴスターの町がありありと、細部まで思い出される。自転車に乗って町を走っている少年の姿まで、目に浮かんでくるようだ。

もちろん、当時といまとは随分ようすが違うことは知っている。少年の住んでいた「ポプラ通り12番」という番地はあったけれど、作家にその写真を送ると、当時はまったく緑がなかった、という返事が返ってきた。そのことは作品内にも書かれている。

 わたしが訪れた季節は初夏で、ちょうど薄紫色のジャカランダの花が咲いていた。道も当然のことながら舗装されていた。でも駅近くのユーカリの並木道は、たしかに、人気がなくて荒涼とした感じがしたし、路上には土埃が吹きだまり厚い層を成していた。

 あと一月ほどで、作家が来日するまでに、さて、作業がどれだけ進むか。

 上の写真のように、いまも「ポプラ通り」の標識がある。中段の写真は、ヴスター駅。下の写真は、ポプラ通り12番の家の正面を背にして、反対側の山をながめた風景だ。

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付記:2013.1.31  なんといっても13年前とちがうところは、実際にケープタウンやヴスターへ行ったことだけではなく、Kannemeyer の伝記「J. M. Coetzee: A Life in Writing」が出て、それを読了したあとに見直していることだろうか。
 このカンネメイヤーの伝記には、クッツェー自身が「事実を書くこと」という条件のもとにカンネメイヤーがほとんどすべてのペーパー類にアクセスしているだけあって、驚くような事実関係が、豊富に、詳細に、書き込まれている。だから、どこまでが事実であり、どこまでがフィクションか、それが今回見直しをしていると手に取るようにわかる。作家が書いている机のそばに座って、彼の頭の中をのぞいているような感じがするときさえあるのだ。これはなんともスリリング!

2013/01/25

クッツェーとオールダマストン



これは貴重な映像だ!

 いま翻訳中のクッツェーの自伝的トリロジー第二部『青年時代』には、彼が1961年暮れにケープタウンから船に乗り、翌年の初頭にロンドンの土を踏み、友人のアパートに身を寄せながら職探しをした話が出てくる。
 まず新聞の募集欄を頼りにいくつか面接を受け、最終的にはIBMで働くことになった。それから数年後に、このオールダマストンでコンピュータを用いた当時最先端をいく核兵器戦略のプログラミングをするのだ。しかし、ケンブリッジやオクスフォード出のエリートたちとはまったく異なる処遇を受ける。いわば属国である南アフリカ出身の彼と、インド出身の人物だけが、24時間監視がつき、トイレのブースまで見張られたのだ。
 
 1960年代、アパルトヘイトが高揚期に入る南アフリカから出国し(それが可能なのは当然、ある恵まれた条件の人だけだったが)、彼は「数学」の学士号を使って、とにもかくにも食いつなぐための職を得ながら、片方で修士論文の準備をしていた。『青年時代』には出てこないが、じつは1963年に彼はケープタウンにもどっている。そこで修論をしあげ(このとき最初の結婚をした)、ふたたび渡英してから就いたのがオールダマストンの仕事だった。あとから考えると「wrong」の側の仕事をした、と彼は『青年時代』で書いている。
 
 ポール・オースターとの『書簡集』では、この東西冷戦がなかったらアパルトヘイト体制はもっと早く終焉を迎えていたはずだ、とも書いている。1959年にこんなに大きなマーチが行われていたことを、彼は知っていただろうか? 

 そして1965年に、彼は文学研究の道へもどるべく、テキサス大学へ向かう。多くの大学に手紙を書き、片手ほどの返事をもらったなかで、テキサス大学がもっとも寛容な条件で彼を博士課程(講師の義務あり)に入学させてくれたからだ。だから、彼のペーパー類がすべてテキサス大学のランサム・センターへ移ったことは、いってみれば自然な成り行き。つまりこの大学に彼は恩義を感じているのだ。
 また、このセンターほど物理的条件に恵まれ、かつ、優秀な運営スタッフがそろっている場所もないのだろう。南アフリカ国内の施設では、残念ながら、とてもたちうちできそうもない。

もうすぐ73歳になるクッツェーさん。わたしも早く新しい訳書を出さなければ! 日々、ひたすら奮闘中です。頭が「クッツェー漬け」になっていく!

2013/01/12

「翻訳という怪物」── いくつか考えたこと

昨年の11月19日、六本木のミッドタウンタワー7Fにあるスルガ銀行の d-labo というスペースで、すっごく刺激的なイベント「翻訳という怪物」が行われた。
 柴田元幸、ジェフリー・アングルス、管啓次郎という面々が、翻訳について熱く語る2時間だった。エミリー・ディキンソンの短い詩を、三人が個別に訳してきたのを比べていろいろ論じる趣向もあって、面白かったなあ〜〜〜 それを契機に考えたことがいくつかある。

まずひとつめ。管啓次郎さんがなにげなく発した、ヨーロッパ言語ではごく日常的なことばが、そのまま哲学や思想のことばであるのに対して、日本では近代において西欧の書物が日本語に翻訳される過程で、大和言葉とは歴然と区別される(それ以前の輸入言語である)漢語をベースにして創作された用語に訳されてきた、という指摘。こうしてわたしが書いたことばは、管さんの実際の発言をかなり主観的に聞き取り、書き換えたものであり、必ずしも管さんのことばそのものではないけれど、まあ、発言の趣旨はそんな感じだったと思う。この指摘は、ずう〜〜っと以前から気になってきたことでもあり、現在の日本の政治の場面で語られることばのぼろぼろ感、社会の「なかったことにする、見なかったことにする」どん底状態を考えるときに、大きなヒントになると思ったのだ。

 書物のなかのみの観念用語と、日常用語が歴然と分かれている、別に日本語だけに限ったことではないかもしれないが、よくもわるくも、それが現代の日本語なのだ。よい点はなかなか思いつかないが、悪い点ならいくつも思いつく。思想が現実に組み込まれえないため、困難な状況に立ち至ったとき役に立たない。「組み込まれえない」というところに、観念用語と生活用語の分離がたちはだかる、と考えることはできないか。

 また、ことばの意味そのものではなく、その裏の政治力学を読み取ろうとする「芸」の日常化、つまり「空気を読むこと」が「大人になること」だったり。これは「議論すること」の根底を危うくもしている。議論は、ことばに対する信頼がなければありえない。つまり字義上の意味そのものが、そのまま伝わることを前提としなければ議論にはならない。
 そして、現実に対して力をもたない観念用語の占有化──「生活」ときっぱり分離しているゆえの・・・。たてまえと本音。噓と頽廃。倫理観の欠如。大ざっぱすぎるのは重々承知で、まあ、そんなことを考えてしまった。

 八百屋のおばさんにも分かることばで書いてよ、とかつてわたしはある東京の大学教授に、半分冗談で、半分本気で言っていたことがあった。でも、その人は軽く「八百屋のおばさんは読まないよ」とのたもうたのだった。ふ〜ん。まあ、そうだけど。
 
 もうひとつは、ジェフリーさんが述べた「翻訳家=ストーカー説」。これには、はたと膝をたたいた。翻訳は面白いからやる、そこに快楽があるからやる、深く調べるのは対象を愛しているからで(完全な片思いだ!)、テクストの裏をどこまでも知りたいと思うところがストーカーみたいだ、と。ちょっと笑える、ちょっと切ない。でも言い得ているわ、ジェフリーさん。

 そして柴田さんの、好きなテクストしか訳さない、そのテクストの奥から声が聞こえてくるようなテクストしか訳さない、訳さないほうがいい、という正論。まあ、駆け出しのときはそうとばかりは言っていられないけれど(と具体例をジェフリーさんや管さんは出してはいたが)、こと文学作品についていえば、これはもう、まったくもってその通りだと思う。クッツェーの翻訳論にもあるように。

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しばらく前に書いたものだけれど、中島さおりさんのブログでこの催しについて書かれているのを発見! 遅ればせながらわたしもアップしました。
 

2012/12/22

J・M・クッツェー、3度目の来日

来年のことを言うと・・・と笑ってください、鬼といっしょに。

 さて、来年の3月1日、2日、3日に開催される「東京国際文芸フェスティヴァル」に参加するため、J・M・クッツェーがふたたび来日します。ジュノ・ディアスも、ジョナサン・サフラン・フォアも来るようです。
 
 クッツェーさんは2006年9月が初来日で、翌2007年12月が再来日でしたから、5年ぶり3度目の来日です。インタビューも対談もめったにしない方なので、おそらく、自作の朗読になるのでしょう。詳細はわかりません。わかりしだい、このブログでも情報を共有したいと思います。

 写真はそのジョン・クッツェーさんがヘルメット姿で自転車をこいでいるところですが、彼は知る人ぞ知る自転車狂です。
『少年時代』にも8歳の誕生日にもらったお小遣いでスミス製の自転車を買った話が出てきました。1980年代に彼はスポーツとリクリエーションをかねて、ふたたび自転車への熱に取り憑かれます。

 この写真のキャプションには、ケープタウンで毎年開催される「アーガス・サイクル・ツアー」に15回も出場したとあり、1991年には彼のベストタイム、3時間14分で完走したとか。1994年にもおなじタイムを出したとキャプションは語ります。(あら、1991年と1994年というと・・・南アフリカの祝祭気分の年ですね)

 じつは今日、オーストラリアの「Monthly」というネット上の書評欄にこの写真が掲載されているのを発見したのですが、これは J・C・カンネメイヤーの伝記『J.M.Coetzee: A Life in Writing』に挟み込まれている何枚かのショットの一枚で「Family Album」と銘打たれています。さて、どこから流出したのか、伝記掲載のショットとは微妙に縁取りが違っているようですが・・・。
 とにもかくにも、こんな写真がたっぷり入ったカンネメイヤーの伝記です。クッツェーふぁんにはたまらない面白さ。どこか出版するといってくれる勇敢な出版社はないものでしょうか・・・。

2012/11/29

クッツェーの伝記がオランダで出版されて


 南アフリカのアフリカーンス語で書く伝記作家、J. C. カンネメイヤー著『J.M.Coetzee: A Life in Writing』がオランダ語に翻訳されて、英国などより一足はやく出版され、あちこちに評が載ったようです。う〜ん、読んでみたいです。

 それにしても、この右下の写真、すごく笑えます。ロンドンで仕込んだ都会のセンスをケープタウンでも・・・という、23歳のクッツェー。黒い背広にコート、左手には革鞄、右手にはなんと、こうもり傘を持っています。完全英国紳士風。provincial life=属州/国出身者のきばり、というか、いまはきっと、それをにやりと笑う72歳のクッツェーがいるのでしょう。
 だって風の強いケープタウンでは、多少の雨が降っても傘をさす人はほとんどいない、と去年訪ねたときにガイドのFさんがいっていたくらいですから。

 北海道の片田舎から東京に出たばかりの60年代後半の自分を、まざまざと思い出し、にやりとなります/笑。

2012/10/31

J・M・クッツェーの伝記が届いた!

短い札幌の旅からもどると、ケープタウンの Clarke's Bookshop から本が届いていた。J・C・カンネメイヤーが書いた J・M・クッツェーの伝記、JM Coetzee:A Life in Writingである。

 パッキンの入った袋があまりに分厚いためか、日本の税関でいったん開封された痕跡があった。補修テープのうえにそのことを示す日本語が書かれていたのだ。南アフリカから書籍を取り寄せるようになって20数年になるが、こんなことは初めてだ。なにが疑われたのだろう。まあアットランダムにピックするのかもしれないが、とにかく、これから航空便で投函する(+R400)、という知らせがあってから10日後には届いた。この速さはありがたい。

 この書籍、本当に分厚い。ページ数は本文だけで616ページ、註や索引をすべて含めると710ページもある。さらに四部に分かれてカラーおよび白黒の写真が8ページづつはさみこまれている。縦246×横160×厚60cmという大部な書籍、まさに枕本だ。

 Johnathan Ball Publishers という出版社から出たばかりのこの本は、ご覧のように、フロントカバーにクッツェーの若いころのにこやかなプロフィール写真があり、バックカバーにはおなじみデイヴィッド・アットウェル、デレク・アトリッジ、さらにラーズ・イングルの讃辞がならんでいる。これまでプライベートライフに関する質問は受け付けない、書いた作品自体に語らせることが最重要であり作品に関する言及は避け、そのためインタビューは受けない、と明言してきた作家が、アフリカーンス文学研究で名高いカンネメイヤーに自分のプライベートな書類へのアクセスを許可し、2週間にわたりアデレードでインタビューを受けて、率直に、あるときは熱心に応答し、さらにメールでの追加質問にも丁寧に答えている。その結果、事実を書くこと、を条件にまとめられた中身の濃い伝記が仕上がった。しかし、カンネメイヤーはこの伝記を書き上げた直後、昨年のクリスマスにこの世を去った。絶句してしまいそうな出来事だ。

 写真がまたクッツェーファンにはあっと驚くようなものが多い。ヨーロッパからやってきた曾祖父バルタザール・ドゥ・ビールと妻の写真からはじまって、ビッグマンになった祖父ゲリット・マクスウェル・クッツェーとその妻、そして父母の写真、ジョンの幼いころの写真、両親や弟といっしょの写真、ボーイスカウトのユニフォームを着て犬と撮った写真、フューエルフォンテインの屋敷の写真、高校時代のクリケットチムーの写真、コウモリ傘に革鞄を手にケープタウンを闊歩する20代初めの写真、フィリッパ・ジャバーと結婚したころケンブリッジで撮影した写真、フィリッパのプロフィール、さらにクッツェー自身が10代から暗室をもつほどの写真マニアであったことを物語る彼自身が撮影した親戚一家の写真、そして作家として名をなすようになってからのおなじみの写真がならんでいる。若くして他界した息子の顔写真は胸をうつ。ヘルメットをかぶり短パンで自転車をこぐクッツェー自身の写真や、娘とフランスを自転車で長距離走破したときの写真など、彼の自転車への情熱を伝えるもの、1990年代初めに自然公園で家族や作家の友人たちとお手製の料理を広げてピクニックをしている写真など、見ていると興味はつきない。
 なかに手書き原稿の写真が一枚ある。最初の小説 Dusklands の草稿だ。几帳面な細字が大学ノートにぎっしりならび、赤字で添削してある。また、Slow Man はなんと半年という短期間に25回も書き直して仕上げた作品だという。すごい集中、すごい密度である。(付記:2013.5.9──書き直し回数が「5回」と誤記されていたので訂正しました。正しくは25回です。作家はこの作品を2004年7月13日に書き始めて12月に最終テクストを完成、とあります。p595)

 自伝的三部作は Boyhood Youth の部分はおおまかにいって事実に基づいた記述といえるが(といっても細部を見ると、微妙に入れ替えてあったり、省略してあったりするので要注意なのだけれど)、ご存知 Summertime はがらりと様相を変えた、誰が見てもフィクションとわかる書き方である。作家がすでに死んでいるのだから!
 机上にこの大部な本を置きながら、どこまでが事実で、どこまでが創作かを、あらためて行間に透かし見ながら自伝的三部作を翻訳することになった。これまでにない発見、また発見の日々がつづきそうだ。わくわく、どきどき、未経験の作業がつづく。こんなスリリングな体験は初めてである。ちなみに3枚目の写真はオーストラリアのペンギンから出版されるバージョンだ。

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2012.11.12付記:もうじきオランダ語版も書店にならぶようです。そのオランダ語版のカバー写真と、左に山のように積まれているのは原稿とゲラのようですね。

2012/09/10

J・M・クッツェーの伝記 ── A Life in Writing


 9月10日になった。そろそろJ・C・カンネメイヤーが書いた J・M・クッツェーの伝記が発売になるころだが、まだ音沙汰はない。

 ネット情報では、表紙も出てくるし、発売日も明記されているけれど、変更になる可能性もあるだろうな。なにしろ、作者自身は大部な原稿を書きあげて出版社に手渡した昨年の暮れに急逝したというのだから、編集作業の難しさは容易に想像がつく。

カンネメイヤーのファスートネームはこれまたジョン、クッツェーと同名で、生まれは1939年で一年ちがい、というめぐり合わせだ。でも、カンネメイヤーの第一言語はアフリカーンス語で、この伝記もアフリカーンス語で書かれている。9月に出ることになっているのはその英訳版である。翻訳は南アフリカの作家 Michiel Heyns。

 アフリカーンス語バージョンも当然出ることだろう。オランダ語バージョンというのも Amazon を探すとすでにヒットする。オーストラリアは10月にペンギンから出るようで、そのサイトにはこうある。


JM Coetzee: a life in writing is a major work that corrects many of the misconceptions about Coetzee, and that illuminates the genesis and implications of his novels. This magisterial biography will be an indispensable source for everybody concerned with Coetzee's life and work.


ヨーク大学のウィカムをめぐるシンポジウムも数日中にはじまる。10月にはニューヨーク州オールバニでポール・オースターとの対話も予定されている。クッツェーさん、相変わらず忙しそう。

2012/05/30

デレク・アトリッジ氏のセミナー

昨日は駒場で開かれたセミナーに参加した。いま来日中のデレク・アトリッジ氏がクッツェーの Summertime を、虚構性と事実のはざまを縦横にいききしながら論じる内容だ。
 わたしがいま訳しているのがその Summertime なのだから、これを聞き逃すわけにはいかない。アトリッジ氏は『J.M.Coetzee and the Ethics of Reading/J.M.クッツェーと読みの倫理学』(Chicago Univ. Press, 2004)というすぐれたJ.M.クッツェー論の著者でもある。

 Summertime はクッツェーの自伝的三部作の最後にあたるが、じつは、それとは別にジョン・カンネメイヤー/J.C. Kannemeyer というアフリカーンス文学を専門とし、アフリカーンス語で書く伝記作家が「J.M.Coetzee: A Life in Writing」というクッツェーの伝記を書き進めていた。さらにその著者がマニュスクリプトをオランダのコッセ・パブリッシャーに渡した直後、昨年のクリスマスに突然、死んでしまったというのだから驚くではないか。マニュスクリプトはいま編集の真っ最中。

 アトリッジ氏はそのマニュスクリプトを読んでいて、それに出てくる「事実」とくらべながら Summertime に光をあて、作家のもちいる技法や、この作品の特徴などを語ってくれた。参加した方々からも面白い質問や意見が出て、とても参考になった。お招きくださった田尻芳樹さん、どうもありがとうございました。

 そのあと十数人で渋谷の居酒屋に流れてビールを飲みながら歓談。1980年代の南アフリカの話や、60年代にクネーネが来日したこと、インカタとANCとの確執、日本にも反アパルトヘイト運動があったこと(これを知ってアトリッジ氏はちょっと驚いていた!)、1989年のハラレ会議への参加、同年南アフリカから女性を招いて行ったキャンペーン、もちろんジョン・クッツェーを取り巻くさまざまな逸話もたっぷり、と、とりとめなく話は跳びながらも、じつに中身の濃い時間がすぎた。

 ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』を訳したところだ、といったら、彼は目を輝かせ、「ええっ! あのチャレンジングな本を訳したの?」と、とても嬉しそうな表情になったのが印象的だった。そうそう、クッツェーの次作についての情報もあったっけ。これが、なんともすごいタイトルだった。

 セミナー参加者は若い人が多く(といってもわたしの目から見れば、アトリッジ氏以外すべて若い人なのだけれど/笑)、クッツェーへの関心がここ十数年のあいだにぐんと広まっていることに改めて、嬉しい驚きを感じた。う〜ん、心して仕事しなきゃ! がんばろっ!

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付記:6月6日。そうだ、書き忘れました! クッツェーの小説のなかでアトリッジ氏がいちばん好きなのは『鉄の時代』だそうです。