「その2で kaffir」について書いたのが2010年7月だったから、もう4年近く前だ。さて、今回は「sjanbok」という語について。西成彦さんが南アフリカのユダヤ系作家フェルドマンの短編をイディッシュ語から訳しているのを読んで、はたと気づいた。あら。
「sjanbok」という語を初めて見たのがいつだったかは思い出せない。反アパルトヘイト運動に多少なりとも関わりはじめたころだから、1980年代末だろうか。そのころ南アフリカから出てくる情報のほとんどは英語でわたしのところへやってきた。アフリカーンス語も部分的に含まれていたが、それを理解する耳も目も知識もわたしにはなかった。アフリカーンス語の会話や語彙を調べなければと思ったのは88年か89年、『マイケル・K』を訳しているときで、それもマイケルを虐待する警察署長のことばだったり、農場主の名前だったり。
アフリカーンス語については最初から専門家のS氏にいろいろ教えていただいた。後年、『鉄の時代』のときもお世話になった。クッツェー氏から「大変正確です」とおすみつきをいただいたくらいだ。だが、80年代末は、いちいち語源までさかのぼって調べたりすることはなかった。「英語」でなんでも済ませてしまう、あのころの「偏った」姿勢がどこからくるものだったか、あらためて、立ち止まって考えざるをえない。
この、sjanbok は「鞭」という意味だ。サイやカバの皮から作られた、長くて細い鞭だ(スチール製もあるらしい)。アパルトヘイト政策の末端機関=警察がデモ隊を追い散らしたり、懲らしめたりするために使われる、いわば「アパルトヘイトのシンボル的存在」として英語風に「スジャンボク」と周囲の人たちは読んでいた。
周囲の人たち、というのは、反アパ活動に関わっていた人たちという意味だ。辞書を調べれば、そのときだって、そうじゃないということは分かったはずなのに「現地音」で表記しなければいけないと主張する人はいなかった。いたかもしれない、ひょっとすると・・・。だが、その声は大きくはなかった。なんとなく大声を出せない雰囲気があった。どうでもいい、と言われそうだった。それはなぜか。いま思えば、ここには見逃すことのできない、ある種の「傾向」と「沈黙」が読み取れるのだ。それはなにか? クッツェーの自伝的三部作を訳了したいま、そのことが、ある自責の念として思い出される。
この sjanbok は「シャンボク」と発音される。「j」はオランダ語/アフリカーンス語などでは濁音にはならない。たとえば、Jan なら「ヤン」となる。shambok とも sambok とも表記されるこの語の語源はマレー語 tjambok、ペルシア語やウルドゥ語の chabuk らしい。つまり歴史は古い。植民地社会を支えた「奴隷制度」と分ちがたく結びついているのだ。
最初はおそらく野外や農場で使われたのだろう。反抗する奴隷を鞭打ち、死なせたりしても、法律的には罪を問われない時代からあった用具だ。それが反アパルトヘイト運動のなかで、暴力と支配を実行する警察の道具のシンボルとなった。そのように伝わってきた、「英語」で。
アフリカーンス語はいわばアパルトヘイト政策を実施する為政者の言語と考えられた。無視していい、考慮しなくていい、とされなかったか? 1976年のソウェト蜂起が、アフリカーンス語で高校の授業をやろうとした政府に対して「ノー!」をつきつけた高校生の運動だったことも手伝った。「英語=反アパルトヘイト/アフリカーンス語=アパルトヘイト」といった図式的な理解が間違いなくあのころはあったのだ。それはある意味、避けられない「理解+心情」であったかもしれない。
しかし、である。反アパルトヘイトの週刊新聞がアフリカーンス語で出たと知ったのはいつだっただろう。それは南アフリカでは大きな事件だったのではないか。いわゆる「カラード」の人が多い町アウツホールンで反アパルトヘイトの運動が立ち上がったと報じられたのはいつだっただろう。その意味を、もう一度、考える。図式的な理解は外部から見れば分かりやすい。「運動」はある意味つねに分かりやすくなければならない。だが、ここには落とし穴もある。一人ひとりの人間として見ることはなく、いつも考えや志向によって人を分類し、人を集団として見てしまうからだ。その先に待っているのは、シングルストーリー、ステレオタイプ。
人をあくまで個人として見る、個人として人と向き合う、その姿勢を崩さないためには、強靭な、自律的な思想が必要だ。文学はそのためにこそあるのだ。クッツェー作品から徹底して学んできたのはそのことだったのではないか。