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2019/08/23

渇いた土地:ナマクワランド

ひさしぶりの更新になりました。

 うんざりするほど長かった梅雨に、いきなり猛暑が襲ってきて、疲労困憊の東京住人としては、そろそろ秋の訪れと、乾いた風を感じたいところですが、いっこうにその気配はなく、しとしと降る雨のなかで、終わりゆく夏を惜しんで蝉たちが鳴いています。
 気温は少し下がりましたが、今日も湿度は高く、そんなとき世界のあちこちに散らばった友人、知人たちがアップする写真にどれほど慰められるか。すずしい山の写真をみてほっと息をつきます。湿気の多い空気のあいまをぬいながら渇いた土地のことを思います。そんな「異界の」写真を2枚アップ!

Dried up Springbok area, 2019
8月末、南部アフリカのナマクワランドは冬から解放されて春が訪れる季節。その写真を2枚。撮影者は8年前のケープタウン旅行でお世話になった Fukushima Koshin さん。

 いつもなら一面に花が咲き乱れるころなのに、1枚めの写真にはまったく花がなく、石ころまじりの地面は乾ききっているとのこと。
 2枚めの写真にようやくナマクワの花、ナマクワランド・デイジーが……。これもほんの数週間の出来事のようです。
 以前、ここでナマクワランドのことに触れたのは、ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』を訳していたころ、ずいぶん昔です。2011年11月のケープタウン旅行でも、ナマクワランドまでは行くことはできませんでした。ケープタウンからはちょっと遠い。

Skilpad Nature Reserve,  Kamiesberg, 2019
その後、クッツェーのデビュー作『ダスクランズ』を訳しているとき、この作品の第二部がナマクワランドを舞台としていたことを思い出して、ああ、行っておくべきだったと思っても、あとの祭り! 
 2枚めの写真のまんなか奥に立っているのが、掘抜き井戸の翼です。オランダの風車を思わせる作りで、アフリカーナと自らを呼ぶようになったオランダ系の農民たちが、乾いた土地に井戸を掘り、水を調達したんですね。
 Kamiesberg カミスベルグは、忘れられない地名です。『ダスクランズ』に出てきたこの地名は、ヤコブス・クッツェーが象狩りの旅に出てまもなく、逃亡したディコップを従者クラーヴェルといっしょに追い詰める場所だった。

 南アフリカは、もう一度行ってみたい土地です。

2017/03/27

デイヴィッド・アトウェル教授との2日間

3月24日と25日、東京大学の駒場キャンパスで、JMクッツェー研究の第一人者、デイヴィッド・アトウェルさんを迎えて読書会と講演会があった。主催は田尻芳樹教授研究室。

 一日目はクッツェーの最新作:The Schooldays of Jesus を読む会で、細やかな分析と自伝的な事実との絡み、他作品との響き合いなど、クッツェー読みならではの視点から参加者全員が深くコミットする意見、質問、指摘などを出し合って、濃密な時間があっというまに過ぎていった。

 二日目は講演会で、まずアトウェルさんの"The Comedy of Seriousness in J.M. Coetzee"というレクチャーがあり、さらに三人の研究者のとても興味深い発表があった。アトウェルさんの講演は、真摯さのなかにアイロニカルな笑いがちりばめられたクッツェー作品を、いくつかのキーワードを交えながら縦横に分析するもので、metalepsis という語が印象に残った。ほかにもtradgecomedy, immortality of writer, contingency, non-position, otherness, unsettlement of planters といった語がメモに残っているが、時間がすぎると細かな記憶がどんどん遠ざかっていく。

 余韻としてくっきりと残っているのは、むしろ、アトウェルさんの深い響きのいい声、人柄、話し方、語調といったことで、それは出席者全員によって共有された gift なんだろうと思う。作家や作品への共通の関心をもつ人たちが実際に会って、率直にことばを交わし、ハグして触れ合うことの大切さ。限られた人生の時間で、それは、いろんな情報を交換する以上に大切なことかもしれない、そんな気がする。

会が終わったあとの食事会、飲み会で出た話がまた、とてつもなくおもしろかった。80年代、90年代の南アフリカの細かな事情や、日本でそのころ反アパルトヘイト運動があった話や、先日他界したミリアム・トラーディのこと。ANCの資金調達係として初来日したズールー詩人マジシ・クネーネが80年代に亡命先のカリフォルニアからクッツェーに、クッツェー作品を賛辞する長い手紙を書いていたというのは初めて聞いた話だった。ほかにも現在の南アフリカの学生の動き、政治状況、出版事情など、じつにいろんな裏話が聴けた。

 二日目の最後の発表がゾーイ・ウィカムの作品についてだったためか、「『デイヴィッドの物語』を日本語に訳したきっかけは?」という問いが訳者へまわってきた。そのとき即座に「JMクッツェーの作品の歴史的な背景を日本語読者に知って欲しかったから」と答える自分がいた。それで、あらためて、そうだったのだと自分でも再認識したのだった。クッツェー作品をより深く(勘違いせずに)理解するためのコンテクスト(まあ、もちろん、それだけではないんだけれど)としての南アフリカ文学。カウンターとしての作品──あっちにもこっちにも、デイヴィッドがいるんだもんなあ。マニアックな話ですが……。
 
***************
付記:2017.3.29──デイヴィッド・アトウェルさんはクッツェー作品のなかで、なんといっても『マイケル・K』がいちばん好きだ、といっていたのを付記しておきます。彼の著書の副題"face to face with time"は、マイケルがスヴァルトベルグ山脈の洞穴のようなところにこもって、考えたことばだった。しみじみと、嬉しい。

2017/03/15

デイヴィッド・アトウェル教授の講演会

来週末、24日と25日に東大駒場でこんな催しがあります。予約不要、無料、だれでも参加できるようです。ただし、使用言語は英語で、通訳はなしです。

J・M・クッツェー研究の第一人者であるアトウェル氏を囲んで、2日にわたるシンポジウムが開かれます。まず読書会、それから講演、さらにクッツェー作品や南アフリカ、とりわけゾーイ・ウィカムをめぐる発表があります。
 
 デイヴィッド・アトウェル氏といえば、なんといっても2015年に出た J.M.COETZEE AND THE LIFE OF WRITING ですが、いま『ダスクランズ』の訳者あとがきを書くために再度読み直しています。読み直すたびに新たな発見があって驚きます。



 来週末はアトウェル氏に会って、じかにいろんなことを質問できると思うと、いまからわくわくします!

2016/04/29

トスカーナで <クッツェーの女たちを読む>

 9月末にイタリアのプラトで、クッツェー関連のシンポジウムが開かれます。


 クッツェー作品に登場する女性たちについて、さまざまに論じる3日間。なんとも刺激的なシンポではありませんか。どんな話が飛び出すのやら。

 2009年以降、この作家については、シドニー、武漢、リーズ、アデレードと数えるだけで4回もの国際会議が開かれ、すでにバイオグラフィーが2冊、作品については専門書が10冊、300を超える論文が発表されているそうです。ところが<クッツェーの女たち>については、ごくごく少数のものしかないといいます。今回のシンポジウムは、なぜか避けられてきたこのテーマを軸にして論じられる予定。果敢な、しかし、クッツェーを論じるためには、必要不可欠な取り組みですね。

 キーノートパーソンに、デイヴィッド・アトウェル、デレク・アトリッジ、エレケ・ブーマー、キャロル・クラークソンといったお馴染みの方々の名前が見えます。クッツェーさんご自身も、作品から朗読するのでしょうか、参加者としてまっさきに名前があがっています。

 具体的なテーマはこんな感じです。

  ・女性の声による腹話術
  ・愛、セックス、欲望
  ・母と娘
  ・女性作家
  ・女性たちの沈黙とストーリーテリング
  ・女性の助言者と世話人
  ・女性に対する暴力
  ・若さと加齢
  ・女性と人種
  ・美
  ・クッツェーとゴーディマ
  ・女性と権力
  ・女性作家の作品についてクッツェーは
  ・クッツェー作品のフェミニストとクイアの読み

 そそられるテーマばかりですねえ。主催はオーストラリアのモナシュ大学、代表者にスー・コソーSue Kossewさんの名がありますが、クッツェー研究者として、あるいは南アフリカの文学研究者として1990年ころからあちこちでお名前を見かけてきた方です。
 2014年のアデレードでもお会いしました。アデレード大学の、孔子の像が見守る中庭で開かれたオープニングパーティのとき、ワイングラス片手に話をした記憶があります。クッツェーという作家が日本でどのように紹介され、どんなふうに読まれているかとか、コソーさんが深く論じていたゾーイ・ウィカムの最重要作品『デイヴィッドの物語』についてなど。

「クッツェーと女性たち」というテーマ、おもしろくないわけがないですよね。クッツェーさんと初めて会ったとき「あなたの作品の母親をめぐるテーマにとても興味がある」とのっけから言ってしまったことを、ふと思い出します。わたしが訳した『マイケル・K』『少年時代』『鉄の時代』にはすべて強烈な「母親」の存在がありますから。
 じつは、もうすぐ出る拙著『鏡のなかのボードレール』で、ささやかながらクッツェーのある作品に出てくる一人の女性ついて、「クッツェーのたくらみ、他者という眼差し」という文章を書きました。5月末か6月には書店にならびます!

 9月末にトスカーナは天国みたいな場所に変貌する、とイタリア通の方に聞いたことがありますが、このシンポ、ぜひのぞきにいってみたいと思うけれど、ちょっと遠いなあ……というのが時差と長時間フライトにからきし弱い身の涙まじりの(笑)感想です。


2015/09/25

南の文学 ── クッツェー、ふたたびアルゼンチンへ

 4月につづいて、J・M・クッツェーがアルゼンチン、ブエノスアイレスのサンマルティン大学で、9月14日から25日まで開かれた第2回「南の文学」セミナーのチェアをつとめた。今年のセミナーのゲストは、ゾーイ・ウィカムとアイヴァン・ヴラディスラヴィッチ、いずれも南アフリカ出身の作家だ(ウィカムはスコットランドに住むが、ヴラディスラヴィッチはヨハネス在住)。以下は、サンマルティン大学のホームページに掲載された記事を、ざっと訳したもの。


左からヴラディスラヴィッチ、ウィカム、ルタ、クッツェー
 学長のカルロス・ルタは、「南の文学」とはアフリカ、オーストラリア、そしてラテンアメリカを照らし合わせながら相互交流をする場だと述べた。クッツェーによってなされたこの提言の核心には、南という世界がもつ経験のために、大学として必然的なコミットメントがある。アカデミズムの世界がその視界から除外し、押さえ込んできた部分を可視化させる、そういう真実を明らかにするものがあるのだ。そのために文学は有効な役割をはたすだろう。……中略……「南の文学」のチェアはもちろん、既成の境界を広げたいという要望についてさらに深く考え、断固とした決意をもっている、と述べた。

 それに対してクッツェーは「前回、ゲイル・ジョーンズとニコラス・ジョーズという2人の作家をオーストラリアから伴ってこの大学を訪れ、オーストラリアの文学について講義をしたが、たいへん心踊るものであり、新しい学生や作家、テクストと出会う喜びがあった。今回はサンマルティン大学の方々に南アフリカの主要な作家を2人紹介できて嬉しい。彼らには6つのコースを担当してもらう。今回のプログラムでは、南アフリカ文学の歴史と、「南」という概念について扱うが、この「南」が理論的に含み持つ意味合いには大いなる可能性がある」と述べた。
 北と南、という軸を立てることについて、チェアであるクッツェーは、それが新しい次元を切り開くことになるのではないかと提案。「北と南というパラダイムは、南アフリカや南全域を貫いているが、この軸で考えると、南のなかでもっとも小さな大陸であるオーストラリアは北に属している。南北の軸で国々を分けるのは、地理的にほとんど注目されず、多くは経済的な意味合いにある。オーストラリアはこのパラダイムでアルゼンチンと合致しないだけでなく、20世紀初めには世界でもっとも裕福な国のひとつとなり、今日ふたたび中心的位置を獲得する可能性をもっている。北と南という図式は、奇妙なシンメトリーを活性化しつつ、ひとつの均衡のようなものを作りあげている。しかし、北は政治権力とグローバル・コミュニケーション・ネットワークの中心であり、南はそれ以外ということだ。このパラダイムは北のアカデミズムの概念であり、南の知識人は警戒して考えなければならない。南は、北が押し付けてくる受け身の役割を引き受けてはならない。文学においては、北によって決められたスタンダードとパターンを追いかける結果になっている。北と南は、中立的な分析タームではなく、分離の歴史を背負わされている。今回のチャレンジは、南の新しい文学を立ち上げることなのだ」と述べた。

 ゾーイ・ウィカムはサンマルティン大学への招待にお礼を述べたあと「南の文学に多大な貢献をしてきたアイヴァン・ヴラディスラヴィッチやJ・M・クッツェーとともにこうして参加できるのはとても光栄だ」と述べた。

 最後にアイヴァン・ヴラディスラヴィッチが「こんなに歓迎されたこと、大勢の人たちと自分の熱意を共有できたのはとても嬉しい。ブエノスアイレスに来ることができるとは思わなかった。講座をとおして、もっとも興味深く、重要な南アフリカの作品を学ぶことになるだろうが、それと同時に、アルゼンチンの作品についても学びたいと思う」と述べた。


「南の文学」講座は、ラテンアメリカ文学とラテンアメリカ研究の共同研究活動として開催される。
 第1回は、オーストラリアからゲイル・ジョーンズとニコラス・ジョーズの2人が参加したが、今回は「グローバル・サウス」と「リーディング・ムンディ」および「サンマルティン大学編集局」(今回の南ア作家2人の作家の話をアンソロジーにした『Perspectives:South African Tales』の特別出版に注目!)も参加。
 南アフリカの文学をテーマとする今回のコースは、8回のミーティングと6回の授業、そして2回の公開講座から構成される。

 ノーベル賞作家 J・M・クッツェーによって指導される「南の文学」は、アフリカ、オーストラリア、ラテンアメリカや他の南部地域出身の作家、文芸批評家、文学研究者、教師の交流、意見交換の場である。
 クッツェーがめざす方向性は、文学が隔たった知られざる世界を結びつけることにある。つまり、この活動は、経験や出自を問わず、だれにでも開かれた構成を促すことにあり、近似しているであろう活動を、南というイメージをもつ世界に相互に出会う経験をもたらす。その意味で、サンマルティン大学は、南と南の文化交流的空間のプログラムを創設する指導的な大学となっている。

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2015.9.28付記:上の記事の原文はスペイン語です。Googleで英訳したものの、あくまでおよその訳ですのでご了承ください。

2015/09/01

ついに、J・M・クッツェー賞ができた!──いや短編コンクールでした

チリに、J・M・クッツェーの名前を冠した文学賞ができたらしい。受賞者は3人の予定で、9月11日に第一回の授賞式。

記事はスペイン語なので大意からの報告です。

 賞金はそれぞれ100ペソ、70ペソ、50ペソで、スポンサーはロ・バルナチェア地方(commune)とアングロ・アメリカン。
 そのあと彼はアルゼンチンのブエノスアイレスへ行って、南アフリカ出身のゾーイ・ウィカム、南ア在住のアイヴァン・ヴラディスラヴィッチとともにサンマルティン大学で、第二回目の文学講座を開講です。「南の文学」の形成をめざして。

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追記:スペイン語の専門家Yさんからのコメント:

「賞金は10万、7万、5万ペソです」と教えてもらいました。今朝になって調べてみると、アルゼンチンペソは1ペソ=約13円と知って、計算すると、上記の額はあんまり少ないんで驚き(笑)。すみません、訂正します。
 また、これはチリのカトリック大学建築学部が催す「都市と言葉」という催し(集中講義?)で、彼は講演をし、それに合わせて短編コンクールを開催、ということで、永続的な文学賞ではないみたいです。

 やっぱり、Google翻訳だけでは情報の確かさは危険がいっぱい! Yさん、Muchas gracias!

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再追記:今後、J・M・クッツェーの活動を追いかけるには、スペイン語、ドイツ語、オランダ語などの記事がちゃんと読める人のヘルプが絶対に必要になってきた。ヨーロッパの旧植民地だった南半球の英語圏以外のところへ彼は活動を広げている。人間以外、つまり動物の世界へはすでにぐんと広げているし。

2015/08/17

カルーのキター・ブルース

今日も進んだ。ちょっと涼しくなった分、ぐんぐん進む。
あい間に、ケープタウン大学の冬期講座のために、クッツェーが南西アフリカやナマクワランドで19世紀末から20世紀初頭にかけて起きた虐殺事件をめぐるテクストを朗読しているのを聴いた。8月2日に放送されたもの。

ここで聴けます! 全体で45分くらい。クッツェーの話はもっと短い。

 講義の中身はナミビアにおけるドイツによる征服への抵抗:ヘンドリック・ヴィットボーイの手紙/Resistance to German conquest in Namibia:  the letters of Hendrik Witbooi by JM Coetzee」。ドイツによるヘレロ・ナマ民族の大虐殺の歴史的事実をヘンドリック・ヴィットボーイの手紙を詳細に見ていくことで、解明していく。
 ナマクワランドの音楽、ナマクワランドの歴史。クッツェーの最初の作品『ダスクランド(ズ)』との関連性が高い、と解説者もいっている。やっぱり最初に戻っていくのだ。作品と作家の輪廻、回帰。おもしろい。

その頭のところで音楽が流れる。デイヴィッド・クラマールの「カルー・キター・ブルース」、流すのはクッツェー自身のリクエストだとか。面白い楽器が出てくる。ラムキという、バラライカのような、金属の四角い三味線のような、弦楽器。ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』に出てきた楽器だ。弓で弾いたり、爪弾いたり。

こちらでステージが! ↓

https://youtu.be/scYa_fzreEY?si=GQY7GcvIklRd_bTC

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2015/04/25

5月1日、ハベバ・バデルーンの詩の朗読会

 昨日はハベバ・バデルーンの公開レクチャーを聴いてきました。じつに内容の濃い、充実した時間でした。教室に入り切らないほど大勢の人がやってきて、隣の教室からたくさん椅子を運び込んでのレクチャーでした。すごい熱気で、いやもう時のたつのをすっかり忘れました。
 予習はしていったものの、そうか、そういうことだったのか、と膝をうつこともあって、J・M・クッツェーやベッシー・ヘッド、マジシ・クネーネやゾーイ・ウィカムまで訳した者としても、もっとも見えなかったいわゆる「ケープ・マレー」と呼ばれる人たちの複雑な歴史的パースペクティヴや、「カラード」とか「カフィール」とか、日本語の辞書には載っていない複雑なことばの背景が、とてもクリアになったのは大きな収穫でした。

 南アフリカにおける、いや、南部アフリカにおける、というべきでしょうか、17世紀以降のあの地域の政治経済が「奴隷制」によって支えられてきたことは、意図的に歴史認識の後ろにおいやられ、忘れ去られてきた。そのプロセスを、バデルーンはさまざまな研究や例証をあげながら解きほぐしていきます。アパルトヘイトからの解放後、そこが最も複雑で忘却の波におしやられがちなところ。この「奴隷制」というのが、結局は、近代の植民地経営には欠かせない人間支配のシステムであったことをあらためて認識しました。

 そして、このシステムは現在も「格差」と言い換えられ、あらたな姿に変身しながら「不平等システム」となって、グローバル経済のあちこちで大きな力をもっているのではないか、ということも考える必要があるようです。歴史的健忘症は、そこから利を得る者たちの「意図的な政策」であることを深く認識したいものです。そこに絡んでくる大きな問題、それがジェンダーなのだということも。
 だから「忘れないこと」「記録すること」「伝えること」がどれだけ重要か、たかだか20年前まで続いたアパルトヘイトの記憶すら若い世代には、なかなか伝わっていない時代です。

 この国もまた、「70年」という長い眠りから覚めなければならない時期に至っています。「人種」はクリエイトされたもの、白人が創造した「ファンタジー」だった。そう喝破するバデルーンの言は爽快! そう、「名誉白人」だって「ファンタジー」だったのです。いまだにそれを「名誉」だとして内面化するところが、偏狭的ナショナリズムと表裏一体となって機能することを考えなければ、とも思いました。

 さて、詩人であるハベバ・バデルーンの詩の朗読会があります。南アフリカで生れて育った彼女のプロフィールを彷彿とする詩が、たっぷり聴けることになるはずです。そうそう、彼女は大学時代ジョン・クッツェーの学生だったとか。あの激動の1990年代初頭のことですね。

 5月1日(金)18:30 - 19:30
   一橋大学 佐野書院 サンルーム
   使用言語は英語です。

(ひょっとすると、わたしも飛び込みで詩の朗読することになるかもしれません!)

2015/03/31

ケープタウン大学のセシル・ローズ像を撤去

遠くカイロを見るローズ
ケープタウン大学でセシル・ローズの像の撤去を決定!というニュースが流れた。この像の撤去を求めて、像に汚物がかけられて布で覆われた写真が(右下)がネットにも流れたのはつい先日のことだった。

 さて、そもそもケープタウン大学はこのセシル・ローズの別荘の敷地に創られたという歴史があるのだ。
 右手をあごの下にあてて遠くエジプトのカイロを眺めやり、ケープタウンからカイロまで鉄道を引くことを夢想する像がキャンパス内に残されていた。今回撤去することになったのはこの像である。ケープタウン大学構内のはずれには太いギリシア様式の円柱を使った神殿様式のメモリアルもある──そこのカフェで数年前にわたしがランチを食べてきたのはゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』にこのカフェが出てきたからだった。

 ほかにも、ケープタウン市内中心部にあるカンパニーガーデンにローズの立像があって、訪れた観光客がその前で写真を撮ったりしていたし、ローズの名前や像はいたるところに残っているのだ。植民地時代の名付けの暴力によってつけられた呼称を変える、という流れはここのところ随分出てきている。通りの名前、飛行場の名前、大学の名もまた。しかし、ちょっと待てという議論もある。

 撤去についてさまざまな意見を述べて議論する学生たちの全学集会のようすも動画でアップされていた。この動画の1時間16分あたりから始まる白人と思しき男子学生の発言に、おっと耳をそばだてる内容があった。それをちらりと紹介する。


 彼は、ケープタウン大学が、南アフリカ経済がいかに搾取システムによって支えられてきたかを触れずに経済学を教えている、と指摘してもいる。ローズはその搾取システムを形成した張本人だが、その歴史的事実を学ばずに学生は卒業してしまうと。またこの学生の発言には、J.M.Coetzee が卒業に必要な必須単位としてアフリカの言語履修を入れるよう主張していた、というのが含まれているようだ(なにせ聞き取りにくい英語なので、かの地で学んだ知人に確認してもらったのだが。。。Mさん、muchas gracias!)
 それを聞いてふと思ったのは、北海道大学でアイヌ語履修を将来的に卒業必須科目にするってのはどうだろう、ということだった。
 いやあ、熱気にあふれる集会だ。言いたいことをずばずば言う若者の姿がいい。

カンパニーガーデンのローズ像の碑銘
 しかし、像を撤去する方向へ若者のエネルギーが向くだけで、現在、この国が抱えている大きな諸問題が見えなくなるのは問題だという議論もある。世界経済の動向と絡んで、ケープタウン大学の再編が問題になる現在、解放後約20年を経て、この国の、アパルトヘイトをじかに知らない若者たちが、自分たちは学ぶべきことをちゃんと学んでいないと主張している姿を見ると、これら若者たちがこれからどう動くか、とても気になるところだ。
 そしてもちろん、この南アジアの土地に吹き荒れるファッショの波を押し返す力に若いエネルギーがどれだけそそがれるか、そのために古いエネルギーがその養分になることに身を徹することができるか。。。ダナ。
****************
付記:文字と写真をうまくレイアウトしようとしているうちに、大事な一節がどこかへ行ってしまった。つまり:

セシル・ジョン・ローズというのは「アフリカのナポレオン」と異名をとった植民地経営者であり、現在のデビアス社を創設した人物。南部アフリカ一帯の植民地経営に腕をふるった。彼の名前がつけられて「ローデシア」と呼ばれた地域は、現在、1975年に独立したザンビア(北ローデシア)と、1965年に白人差別主義者スミスが一方的に独立宣言した独裁政権下で解放闘争(チムレンガ)をくりひろげて1980年にようやく独立したジンバブエ(南ローデシア)に分かれる。ジンバブエはわたしが初めてアフリカ大陸の土を踏んだ土地で、来年が独立10周年というころだった。南部アフリカの希望の星といわれていた。

撤去される像
今回撤去対象となっている像は、そのセシル・ローズの像だ。この人物が南部アフリカでやったことは、歴史的、経済的、政治的にきわめて大きな足跡+傷痕を残している。そのレガシーの上に南アフリカは現在の国を運営していることは、批判的にしっかり学ぶ必要があるだろう。ヨーロッパとアフリカの関係を見て行くうえで、避けて通れない人物だし、どのように評価するかはおそらく、その人の立ち位置によって大きく分かれるところだろう。像を撤去すれば済む話しでもないけれど、目の前に日々あって、それが批判の対象とされない授業であるなら、それこそが問題だろう。日本の近代史にもこういう例はたくさんありそうだ。

2014/05/27

クッツェー三部作、作業終了! あとは本になるのを待つだけ。

すべて終った。ついに、クッツェーの自伝的三部作の翻訳作業が訳者の手を離れた。

 あとは装丁家にきれいな衣装を着せてもらい、編集者の細やかな配慮に見守られて「本」というかたちになって、書店という舞台にのぼるのを待つだけだ。当初の出版予定より少し遅くなるかもしれないけれど、みなさん待っていてくださいね!

 ここにいたるまでには、なんとも険しい山あり、深い谷あり、急流ありで、難所をいくつも通らねばならなかった。長い道のりだった。

 思い返すと、このトリロジーとの旅は1997年の北半球の秋、第一部『少年時代』が出版されたときに始まった。かれこれ17年も前のことだ。数ページ読んだだけで「あなたの仕事だよ!」と言われているような気がした。
 幸い『マイケル・K』を世に出してくれた編集者O氏の力で1999年、『少年時代』の拙訳は読者に届けられた。しかし、続編が難航した。第二部の『青年時代』が原稿で送られてきたのが2001年5月、いま読んでも、内容の苛烈なまでの面白さは文句なしなのだが。

『青年時代』を翻訳することは『少年時代』を訳した者の仕事/duty だと思う、そんなことをクッツェー氏とお茶を飲みながら話して、原著にサインをもらった。2007年12月に彼が再来日したときのことだ。そのサインページを撮影してフレームに入れ、仕事部屋の棚に置いた。それ以来、『青年時代』の翻訳は実現すべき課題となり、毎日「さあ、ちゃんと仕事をしなさい」と棚の上から激励されることになったのだ。
 2003年に作家がノーベル文学賞を受賞し、2006年、2007年と来日が続いたことは大きかった。『鉄の時代』が、河出書房新社の池澤夏樹個人編集による世界文学全集に入ったことも力強い追い風になった。Merci!

 2009年、みぞれ降る2月に、クッツェーの次の作品『サマータイム』が、なんと、自伝的三部作の最後の部分にあたることを知ったときの驚き。クッツェー氏に連絡すると、「まだ草稿の段階で完成していないが、数週間のうちに仕上げられるといいのだか」というメールが返ってきた。あれはゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』と悪戦苦闘していたころだったろうか。

 それから数えて5年、1巻になった2011年から数えても3年、終ってみると、こうして年数ばかり数えてしまい、苦笑する。3冊分の翻訳期間として3年もらって、ついに完成だ。書棚の上から見下ろしていた写真も、もうすぐ、本ができてきたらお役御免かな。6年あまり激励の視線を注いでくれた写真たちの埃を、今日はきれいに払って記念撮影だ(いちばん上の写真)。本当に長い道のりだった。

 本ができあがるまでの時間は、いっときの脱力感に不思議なわくわく感とかすかな不安が混じり込む、いわく言いがたい時間だ。昨夜の雨でちょっと湿り気のある空気を、深々と吸い込む。書架にある写真の周辺にも、心地よい風が吹き抜けていく。
 

2014/05/18

さわやかな五月の午後に


 昨日は風かおる五月の空を見ながら、南アフリカ大使公邸で開かれた催しに行った。

日本での反アパルトヘイト運動を記憶、記録するための催しといっていいだろうか。いまひとつ貴重な経験だったのは、日本と南アフリカのグラスルーツ的な繋がりをつくる努力をしてきた若い人たちの声が聞けたことだ。

 会場にはアパルトヘイト白人政権下の南アフリカ時代から縁の深い外務省や、経済界の面々もいたようだが、もちろん面識がないからわたしにはわからない。わかるのは、かつて日本で反パルトヘイト運動をやった広い意味での仲間たちだ。それについては昨年暮れに一度書いた

 さわやかな五月の風に吹かれて、これで訪れるのが三度目になる、南ア大使公邸の庭でいただく白ワインのおいしかったこと! ズールー民族の出身だという大柄なペコ大使の笑顔がなかなかすてきだった。

 その場でもらったペーパーのなかに「日本で出版された反アパルトヘイト関連書籍」のリストがあって、そこに、ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』が入っていることにいまごろ気がついた。なんと!

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時事通信でもう記事になりました


PS: 肝腎なことを書き忘れました。この催しは、南アフリカ民主化20周年と、日本と南アの人々の連帯と協力の50周年を記念したものでした。ほら、民主化というのは1994年のアパルトヘイトからの解放のことで、撤廃は1991年ではないのですよ。くれぐれも、お間違えのないように!

2013/09/14

ゾーイ・ウィカム:イェール大学での授賞式のようす

第一回ウィンダム&キャンベル賞授賞式のようすです。フィクション、ノンフィクション、ドラマの3部門でそれぞれ3人、計9人の受賞者の授賞式がこの9月10日にイェール大学で行われました。
 ドラマ、ノンフィクション、そして最後にフィクション部門の受賞者が賞を受け取ります。 『デイヴィッドの物語』の作者、ステージに向かっていちばん左に座っている真っ赤なドレスのゾーイ・ウィカムは(残念ながら照明が暗くて座っている姿がよく見えませんが)最後、27分30秒あたりで登場します。




2013/03/05

ゾーイ・ウィカムがウィンダム・キャンベル賞を受賞!

デイヴィッドの物語』の著者、ゾーイ・ウィカムが、イェール大学が主催する第一回ウィンダム・キャンベル賞の小説部門を受賞しました! 賞金がすごい。なんと、$150,000です。

 たったいま、アデレードのドロシー・ドライヴァーさんからメールで情報が送られてきました。

 Congratulations!  Zoë!  おめでとう、ゾーイ!





2013/02/22

雑誌「ラティーナ」3月号に書評『デイヴィッドの物語』

音楽情報誌「ラティーナ」に『デイヴィッドの物語』の書評が掲載されました。 
 作品を何度も読み込んで、他の参照テクストとの関係や、クッツェーの『恥辱』との関連まで深く言及した評です。訳者が気づかなかったことまで指摘していただいて・・・。Muchas gracias!

評者は寺本衛さん。

 この雑誌は名前からも分かるように、ラテン音楽を中心に、ラテン系というかラテンアメリカの文化などをあつかう雑誌だから、Muchas gracias! とスペイン語を使っても不自然ではないですね。

2013/02/19

北海道新聞に書評『デイヴィッドの物語』


2月17日付け北海道新聞の書評欄に、ゾーイ・ウィカム著『デイヴィッドの物語』の書評が掲載されました。

「小説で語る南ア解放史」というタイトル。

 評者は楠瀬佳子さん。
 ふたたびの Muchas gracias!

2013/02/10

朝日新聞に『デイヴィッドの物語』の書評が載りました!

今朝の朝日新聞に、ゾーイ・ウィカム著『デイヴィッドの物語』(大月書店刊)の書評が掲載されました。「闇の底から浮かび重なる声」とタイトルがつきました。しっかり読み込んだ評です。嬉しい!

 評者は、小野正嗣さん!

 Muchas gracias!

(となぜか、いつもスペイン語になる/笑。)


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2013.2.12付記:ネットで読めるようになりました。こちらです

2012/12/02

真夜中に走り出す指

  暦も気候も、まさに師走。雪でも降りそうな東京、南多摩の夕暮れです。

「水牛のように」に詩を書きました。「真夜中に走り出す指」。

 編集長の八巻美恵さんが「水牛だより 12月号」で、ウィカムの『デイヴィッドの物語』を紹介してくれました。美恵さん、どうもありがとう!

2012/11/30

グリクワとル・フレーの写真 ──『デイヴィッドの物語』裏話(2)

今回は一枚の写真である(前回はこちら)。グリクワの大首長、アンドリュー・アブラハム・ストッケンストロム・ル・フレーが率いたトレックで、コックスタッドヘたどり着いた人たち、1898年。拙訳『デイヴィッドの物語』89ページに事細かに描写される写真だ。

『デイヴィッドの物語』を翻訳するとき、なにが難しかったかといって、グリクワという民族がどういう人たちなのかを調べることほど難しいことはなかった。いったい、どのような歴史をもち、なにを信奉し、どこで暮らしているのか。だれがグリクワであり、だれがグリクワではないのか。

 ドロシー・ドライヴァーの「あとがき」を読めばおおよそのことは理解できるが、やはり、ひどくおぼろげだ。ちょっとした疑問に答えをえるために検索してもヒットする情報はそう多くはない。まとまったかたちで日本語で読める資料としては、文化人類学者である海野るみさんの書いた論文しかない。だから前にも書いたが、「歴史を歌う」グリクワの人びとがどのような人たちか、彼らの考え方の根幹となる部分を理解するため、海野るみさんの論文には本当に助けられた。深謝!!

「訳者あとがき」にも書いたけれど、グリクワという人たちは、アパルトヘイト時代の「人種区分」では「カラード」に入れられた。アパルトヘイトが撤廃されて、この「カラード」という区分が取り外されたとき、個々の人たち、あるいは個々のグループはアイデンティティを問われることになった。デイヴィッドが自分探しの旅に出た背景にはそんなプロセスがあったのだ。

 そもそも南アフリカにもっとも早くから住んでいた「コイ」や「サン」といった褐色の肌をした先住の人たちは、征服者としてまずやってきたヨーロッパ人男性との混血がいやおうなく進み、これに労働力/奴隷として導入されたアジア系の人たち等が加わって、さらに混血が進んだ。

 ゾーイ・ウィカムはその辺をめぐる、絡まり合った、一筋縄ではいかない複雑なもつれを解き明かすべく書きつづけてきた作家ともいえる。南アフリカにおけるアイデンティティにからむ複雑な諸問題が解体され、白日のもとにさらされるとき、そこには当然ながら歴史的事実をどのように理解するか、どのように解釈するかが絡んでくる。そこが、J・M・クッツェーの名前へのこだわりともリンクするのだ。
 彼もまた自分はオランダ系アフリカーナーの末裔であるとは単純にはいえない、いいたくない、さらには英語圏文学のなかに吸収されることにも No! という姿勢を取る(その好例が、ここ数年前から彼の作品はまずオランダ語で出版され、そののち英語のオリジナル版が出ることになっている事実に端的にあらわれている)、といった絡まり合った歴史/事情/心情/思想、を背景に抱えた作家である。その視野にはこの世界全体の動きが含み込まれてくる。「世界文学の作家」とわたしが呼ぶのは、そういう意味だ。
 
 上の写真の中央に左を向いて、すっくと立つアンドリュー・ル・フレー/Andrew Le Fleur も、もとはといえば、アンドリス・ル・フレー/Andries Le Fleur とオランダ語とフランス語が混じったような名だったが、あるとき英語風にアンドリューと名前を変えている。当時それがある種の流行りだった。その流行りには政治的な要因がからんでいる。(詳細はぜひ作品を読んでください!)
 しかし、当然「おれはイギリス風なんかごめんだ、いやだ」という人だっている。グリクワの人たちのなかにも、がんこにアフリカーンス読みを主張する人もいたはずだ。訳書内でも、デイヴィッド/David の父は、おなじスペルでもアフリカーンス語風に「ダヴィット/David」と訳した。

 今回もまた、たかが名前、されど名前、の厄介さが、たっぷりと登場した。

2012/11/22

グラスゴーの謎の絵──『デイヴィッドの物語』裏話(1)

企画から4年、ようやく出版された『デイヴィッドの物語』には、一枚の絵をめぐるミステリアスな話が出てくる。

 褐色の肌に誤ってぽとりと落ちたような碧眼のデイヴィッド。表向きは学校教師だが、じつは非合法の解放組織ANCの闘士である。あるときミッションを託されてスコットランドのグラスゴーへ行き、訪れた歴史博物館ピープルズパレスで一枚の絵を見る。18〜19世紀のグラスゴーの経済的繁栄を示す展示のなかに、西インド諸島のプランテーションから煙草や砂糖を船で運んで大金持ちになった男の一族を描いた絵画があった。暗色の画布に目を凝らすうちに、左上になにかを感じて目をやると、召使いの服を着た黒人男がこちらをじっと見据えているではないか。だが、男の顔はやがて眼差しといっしょに、ゆらゆら揺れて水に解けるように消えていく。1980年代のことだった。
 
 それから随分ときがたち、いまは1991年。アパルトヘイトからの解放も間近だ。思い立って自分のルーツ探しに訪れた町コックスタッドのホテルで、デイヴィッドは奇妙な体験をする。ウェイターの眼差しにどこか見覚えがある、だが、どこで見たのか思い出せない。なにか不穏な記憶と結びつく視線で、心が落ち着かない。やがてそれは、この絵のなかで見た奴隷の眼差しだったことに気づいて‥‥。
 
左の絵、本にはないけれど、ここで種を明かしてしまおう。
 1767年にアーチボルド・マクラフリンという画家によって描かれた、当時グラスゴーで指折りの「煙草王」、ジョン・グラスフォード(1715〜83年)一家の絵だ。見ての通り、奴隷男の顔はない。しかし銘板に「左手に黒人奴隷が描かれていたが、その後、塗りつぶされた」とあった。デイヴィッドはまず絵を見て、その次に銘板を読んだのだが‥‥。この絵はいまも実際にグラスゴーのピープルズパレスに架かっているという。

 ドロシー・ドライヴァーの「あとがき」によれば、トバイアス・スモーレットの小説『ハンフリー・クリンカー』(1771年)には、グラスフォードという男が外洋航海中の25隻の船舶を所有し、その貿易額は年に50万スターリング以上にのぼったとある。彼はグラスゴーの大貿易商、銀行家であり、「ヨーロッパでもっとも偉大な商人のひとり」だった。
 この一族の新たな富はとりわけ、グラスゴーの煙草王たちが着用した赤いマントを思わせる赤い衣類とドレープとして表象され、さらに、この絵には奴隷の姿が描かれていた。奴隷は当時の挿絵図版にとって、大儲けできる植民地との結びつきを示すお決まりのシニフィアンだったのだ。しかし、ユマニストたちの擡頭によって、奴隷制廃止論が高まるや、この絵に手が加えられて、奴隷の顔が塗りつぶされた。

 銘板のコメントを見ないうちに、なぜデイヴィッドにその奴隷の顔が見えたのか? 幻視のように。やがてその記憶が、解放組織内の、忘れてしまいたいある記憶へと結びついていく。いまだに全容が解明されていない、アンゴラ北部にあったANCの拘禁キャンプでの記憶である。小説はそのとき、南アフリカにおける奴隷制の歴史と、ひとりの個人の記憶をめぐる謎解きの様相を帯びて緊迫する。

 絵画から塗りつぶされた奴隷の顔が浮かびあがる。これはなにを意味するのか? 

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