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2022/09/01

J・M・クッツェーの短編集『スペインの家──三つの物語』が暮れに出ます!→11月になりました。


すっかりご無沙汰してしまったブログですが、facebook  twitter を見る時間が増えて、気がつくと元気が削がれている。情報は早いし貴重な意見もあるのだけれど、パッチワークのような細切れの情報ばかりだと、変に心がすさんできます。というわけで、バランスを取るために、古巣に戻ってきました。


 訳書としては初訳となる『スペインの家──三つの物語』は、原タイトルが Three Stories、オーストラリアのText Publishing から2014年に出版された、おしゃれで、小さな本です。

 この年、アデレードで11月に開かれたシンポジウム、「トラヴァース、世界のなかの J・M・クッツェー/Traverses: J.M.Coetzee in the World」の2日目に、先行発売されたのをわたしもゲット。そのときのことはここに書きました

 あのシンポジウムからすでに8年、あっという間のようにも感じられますが、その8年のあいだにどれほどたくさんの出来事があったか、とりわけこの土地で(日本で!)起きたことについては、思い出すだけでほとんど目眩がしそうです。

 さて、『スペインの家──三つの物語』には、タイトルの通り三つの物語が入っています。日本語訳のタイトルになった「スペインの家」、そして「ニートフェルローレン」と「彼とその従者」ですが、それぞれにクッツェーらしく、淡々と、それでいてペーソスに溢れ、ノーベル文学賞受賞記念講演「彼とその従者」にいたっては、ロビンソン・クルーソーの話を背後に置いて、と思っていたら、どこへ連れて行かれるのか?という展開で、十二分にひねりの利いた物語になっています。

 白水社から12月に刊行予定です。どんな装丁になるのか、とても楽しみ!

2020/11/08

明朝、アデレードから、J・M・クッツェーの朗読がライブで聴ける!

アデレード大学で、J・M・クッツェーが80歳の誕生日を迎えたお祝いに、ライブで朗読を放映するようです。11月9日午前10時半(現地時間)から、南半球はいま夏時間なので、時差が1.5時間ある日本時間では、午前9時スタートになります。

YOUTUBEにすでに予告が載っています。


The University of Adelaide is proud to host a formal event in Elder Hall with music performances, tributes and readings to honour and celebrate John M Coetzee in his 80th year, followed by book signing in Elder Hall Foyer.

とあります。予約もできるみたい。ぜひ!

****

2020.11.9afternoon──めずらしく目覚まし時計をかけて寝て、今朝はしっかり起きて聞きました。いろんな人が出てきた。クッツェーについて、クッツェー作品について、あれこれ述べていて、傑作だったのはジョンのお友達らしいピーター・ゴールズワーシーというオーストラリアの作家の話。『サマータイム』に倣って、作家の死後世界で作家とやりとりするというSFみたいな小噺を読んで、80歳の誕生祝いとしてはなかなか渋い笑いをとってました。

 他にも、アボリジニにオリジンを持つ女性が彼女の言語でサラサラっとメッセージを述べたこと。姓が「ナカマラ」と聞こえる部分を含んでいたことなど。

 Videoによる参加で、パースに住む南アフリカ出身のシソンケ・ムシマンがText Publishing版のWaiting for the Barbarians に書いた自分の文章から読んでいたこと。これが滅法、面白かった。Barbarian の娘に対する読みが「南アフリカ」をベースにしているのだ。当然だよなあ、と。この作品が発表された1980年にまだ彼女は7歳だった。それ以後のクッツェー作品への彼女自身の理解の変遷がざっと述べられていて、これもまた面白かった。

 場所はアデレード大学のエルダー・ホール。2014年11月にシンポジウムが開かれたとき、ここでクッツェーは『鉄の時代』の冒頭を朗読を朗読したのだった。


2017/11/03

アデレード大学エルダーホールの夕べ

備忘録として3年前の催しの動画を。アデレードで開催された Traverses: J.M.Coetzee in the World の初日:2014.11.11 の夕べ全体をYOUTUBE で見ることができる。クッツェーが朗読したのは、なんと、Age of Iron の冒頭だった。

2016/06/07

クッツェーの創作プロセスを探るアトウェル


デイヴィッド・アトウェルがその著書『J.M.Coetzee and the Life of Writing──face to face with Time』についてインタビューに応えている中身が、とても面白いので、その続きを。

──この本のサブタイトルに、face to face with Time とありますが、どういうことですか?
DA:このフレーズは『マイケル・K』のある草稿から採ったものです。マイケルはスヴァルトベルク山脈に逃げ込んで、ここまでくればもう追っ手は自分を探し出せないと思ったとき、「これでついに俺は時間と差し向かいだ」と考える。クッツェーが人間の存在と向き合う方法としてフィクションをどのように使っているかを論じるために、僕はこのイメージを使いました。

──あなたの書いた本は、伝記とどう違うのですか?
DA:伝記作家は作家を包装して棚に飾ります。作家の作品を小さくまとめて個人生活にしてしまうことも多い。クッツェー自身、一度、伝記作家というのは作家が書いていないとき何をしているかについて書くんだと指摘していたことがありました。僕はちょっと違うことをしようと思った。生活ではなく、作品から始めることで、つまり、どのように作家の人生が変形されて作品内に具体化されていったかを見ていった。

──クッツェー作品を通して、彼のどんな内面が、どのように把握できるのでしょう?
DA:クッツェーの一般的イメージは、厳格で、よそよそしく、感情を顔に出さない、それに、つまらないやつには手厳しいというものです。彼の書いたもの(原稿類や出版された小説)からわかるのは、彼が傷つきやすくて、間違いもやるし、不安症だということです。とはいえ、クッツェーほど自分に厳しい人はいない。自分自身への要求は信じがたいほど厳しく、自己統制と、自分の仕事へのコミットは半端ではありません。

──アトウェルさんはこの本を、どうのような読者を想定して書いたのですか?
クッツェーとアトウェル 2014
DA:クッツェーの小説を読んだ人なら誰でも、もっと知りたいと思う人は誰でも読めます。批評家は、これは役に立つ内容だと思うでしょうが、僕はあくまで一般読者に向けて書きました。いちばん得るところが多いのは、たぶん、作家たちではないかと思っています。どんなふうに作品が書かれたのか、彼らはとても知りたいでしょうから。

──作家が書くプロセスについて書いたわけですね、アトウェルさん自身、そこからご自分の書き方について何を学びましたか?
DA:自伝を書きたいという欲求は、あながち悪い出発点ではないということです。クッツェーはほとんどいつも個人的なことから書き始めています。そのあと徹底的に文章の練り上げをやります──何度でも書き直す──書き直しの回数たるやすごい。

──クッツェーとその小説に対する考え方がどう変わりましたか?
DA:学生時代に彼の最初の小説『ダスクランズ』を読んでから40年ものあいだ、僕はクッツェーのフィクションの賞賛者でした。(ついでにいうと『ダスクランズ』は植民地主義がテーマ、というか、脱植民地主義を舞台化したものだといったほうがいいでしょう。読破にはちょっと胆力が必要ですが、扱われている暴力は現在に通じるものです。)長年のつきあいで、僕は、クッツェーがたどった旅の、なにがしかを理解できたように思います。彼の作品のファンとして出発し、いまではさらに、彼が作品を生み出すにいたった創造性とそのプロセスを理解できるようになりました

2016/04/29

トスカーナで <クッツェーの女たちを読む>

 9月末にイタリアのプラトで、クッツェー関連のシンポジウムが開かれます。


 クッツェー作品に登場する女性たちについて、さまざまに論じる3日間。なんとも刺激的なシンポではありませんか。どんな話が飛び出すのやら。

 2009年以降、この作家については、シドニー、武漢、リーズ、アデレードと数えるだけで4回もの国際会議が開かれ、すでにバイオグラフィーが2冊、作品については専門書が10冊、300を超える論文が発表されているそうです。ところが<クッツェーの女たち>については、ごくごく少数のものしかないといいます。今回のシンポジウムは、なぜか避けられてきたこのテーマを軸にして論じられる予定。果敢な、しかし、クッツェーを論じるためには、必要不可欠な取り組みですね。

 キーノートパーソンに、デイヴィッド・アトウェル、デレク・アトリッジ、エレケ・ブーマー、キャロル・クラークソンといったお馴染みの方々の名前が見えます。クッツェーさんご自身も、作品から朗読するのでしょうか、参加者としてまっさきに名前があがっています。

 具体的なテーマはこんな感じです。

  ・女性の声による腹話術
  ・愛、セックス、欲望
  ・母と娘
  ・女性作家
  ・女性たちの沈黙とストーリーテリング
  ・女性の助言者と世話人
  ・女性に対する暴力
  ・若さと加齢
  ・女性と人種
  ・美
  ・クッツェーとゴーディマ
  ・女性と権力
  ・女性作家の作品についてクッツェーは
  ・クッツェー作品のフェミニストとクイアの読み

 そそられるテーマばかりですねえ。主催はオーストラリアのモナシュ大学、代表者にスー・コソーSue Kossewさんの名がありますが、クッツェー研究者として、あるいは南アフリカの文学研究者として1990年ころからあちこちでお名前を見かけてきた方です。
 2014年のアデレードでもお会いしました。アデレード大学の、孔子の像が見守る中庭で開かれたオープニングパーティのとき、ワイングラス片手に話をした記憶があります。クッツェーという作家が日本でどのように紹介され、どんなふうに読まれているかとか、コソーさんが深く論じていたゾーイ・ウィカムの最重要作品『デイヴィッドの物語』についてなど。

「クッツェーと女性たち」というテーマ、おもしろくないわけがないですよね。クッツェーさんと初めて会ったとき「あなたの作品の母親をめぐるテーマにとても興味がある」とのっけから言ってしまったことを、ふと思い出します。わたしが訳した『マイケル・K』『少年時代』『鉄の時代』にはすべて強烈な「母親」の存在がありますから。
 じつは、もうすぐ出る拙著『鏡のなかのボードレール』で、ささやかながらクッツェーのある作品に出てくる一人の女性ついて、「クッツェーのたくらみ、他者という眼差し」という文章を書きました。5月末か6月には書店にならびます!

 9月末にトスカーナは天国みたいな場所に変貌する、とイタリア通の方に聞いたことがありますが、このシンポ、ぜひのぞきにいってみたいと思うけれど、ちょっと遠いなあ……というのが時差と長時間フライトにからきし弱い身の涙まじりの(笑)感想です。


2016/01/29

アデライーデとアデレード

 シューベルトの「冬の旅」を聴いた刺激で、YOUTUBEでドイツリードをあれこれ聴いてしまった。懐かしい歌声がどんどん出てきた。
 なにを隠そう、わたしは中学生のとき、ごく短期間ではあったけれど、ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウ中毒にかかっていたことがあったのだ。「魔王」も、もちろんフィッシャー・ディースカウの歌、ジェラルド・ムーアのピアノで聴いた。そして思い出した。当時、母が買ってくれたオムニバスのLPには、シューベルトの曲だけでなく、ベートーヴェンのこの曲も入っていたのだ。

「アデライーデ/Adelaide」女性の名前と記憶していた。ところがその固有名詞、よく見ると、かの作家が住んでいる南オーストラリアの都市の名前ではないか。こちらは英語風に、アデレード、と読むけれどアルファベットは:Adelaideだ。へえっ!



Adelaide  
by Dietrich Fischer-Dieskau



 
    
Einsam wandelt dein Freund im Frühlingsgarten,
Mild vom lieblichen Zauberlicht umflossen,
Das durch wankende Blütenzweige zittert,
Adelaide!

In der spiegelnden Flut,im Schnee der Alpen,
In des sinkenden Tages Goldgewölken,
Im Gefilde der Sterne strahlt dein Bildnis,
Adelaide!

Abendlüfte im zarten Laube flüstern,
Silberglöckchen des Mais im Grase säuseln,
Wellen rauschen und Nachtigallen flöten:
Adelaide!

Einst,o Wunder! entblüht auf meinem Grabe
Eine Blume der Asche meines Herzens;
Deutlich schimmert auf jedem Purpurblättchen:
Adelaide!

2015/05/15

再掲します:明後日、『マイケル・K』について語りつくします!

 イベントのお知らせです。J・M・クッツェーが初めてブッカー賞を受賞したヒット作『マイケル・K』が岩波文庫に入りました。それを機に、この『マイケル・K』という物語について、都甲幸治さんと語り尽くしたいと思います。 場所は紀伊国屋書店新宿南店です。

 日時:5月17日(日)午後2時から(開場は1時半)
 場所:新宿紀伊国屋書店南店 6F イベントコーナー
 入場無料ですが、要予約。ご予約はこちら。

『マイケル・K』が単行本として筑摩書房から出たのは1989年、クッツェー作品の本邦初訳でした。わたしの実質的な翻訳人生はにここから始まったように思えます。
 1989年にはいろんなことがありました。昭和が終って平成になり、4月に消費税が導入され、6月に北京で天安門事件が起きて、11月にはベルリンの壁が崩壊して冷戦が終り、年末にバブルがはじけた。

『マイケル・K』はその後、2006年に全面改訳されてちくま文庫になり、さらに加筆補足されて今回、岩波文庫に入りました。決定版です。こうして初訳から4半世紀を経て、また新たな読者と出会えることになり、マイケルくんはさぞや喜んでいることでしょう。

  この作品が世に出てから、作者も翻訳者も当然ながら歳を取りました。『マイケル・K』を書いていたクッツェーはまだ40代初めでした。翻訳者も最初に訳し たときは30代後半でした。でも、作中人物は、これまた当然ながら、まったく歳をとりません。31歳のままです。南アフリカでも、世界中でも、若い読者を 中心に読み継がれ、クッツェー作品のなかで、マイケルほど愛されている主人公は、ひょっとしたら他にいないかもしれません。
移 動を制限されながら、制度的な暴力も慈善も、不器用に、執拗にかいくぐり、痩せ衰えながらも、どこまでも土を耕して生きようとする31歳の若者、それがマ イケル・Kです。これはある意味、このうえなく不可能な物語ですが、種を蒔き、水を遣り、山羊に食べられないように見張り、といったふうに、大地から生ま れる恵みを糧に生きようとするマイケル・Kの物語が、どうしていま、こんなに人の心をとらえるのか、そんなことを話せたらいいなと思います。
 
 都甲さんには昨年8月末にも、クッツェーの自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代──辺境からの三つの<自伝>』(インスクリプト)の発売を記念したイベントで、司会をしていただきました。そのときはまだ発売されていなかったポール・オースターとの往復書簡集『ヒア・アンド・ナウ』(岩波書店)のことも、今回は話に出るかもしれません。
 また、昨年11月にアデレードで開かれたシンポジウム「世界のなかのJ・M・クッツェー」 のことや、アデレードのクッツェーさんのお宅を訪問したエピソードなども飛び出すかもしれません。お楽しみに!

「土のように優しくなりさえすればいい──内戦の南アフリカ、マイケルは手押し車に病気の母を乗せて、騒乱のケープタウンから内陸の農場をめざす。 ひそかに大地を耕し、カボチャを育てて隠れ住み、収容されたキャンプからも逃亡。国家の運命に本論されながら、どこまでも自由に生きようとする個人のすがたを描く、ノーベル賞作家の代表傑作」

*もちろん当日になってふらり、でも、だいじょうぶです、たぶん。
 その気になったら迷わずおいでください。


2015/04/29

5月17日(日)『マイケル・K』について語りつくします!

 イベントのお知らせです。J・M・クッツェーが初めてブッカー賞を受賞したヒット作『マイケル・K』が岩波文庫に入りました。それを機に、この『マイケル・K』という物語について、都甲幸治さんと語り尽くしたいと思います。 場所は紀伊国屋書店新宿南店です。

 日時:5月17日(日)午後2時から(開場は1時半)
 場所:新宿紀伊国屋書店南店 6F イベントコーナー
 入場無料ですが、要予約。ご予約はこちら。

『マイケル・K』が単行本として筑摩書房から出たのは1989年、クッツェー作品の本邦初訳でした。わたしの実質的な翻訳人生はにここから始まったように思えます。
 1989年にはいろんなことがありました。昭和が終って平成になり、4月に消費税が導入され、6月に北京で天安門事件が起きて、11月にはベルリンの壁が崩壊して冷戦が終り、年末にバブルがはじけた。

『マイケル・K』はその後、2006年に全面改訳されてちくま文庫になり、さらに加筆補足されて今回、岩波文庫に入りました。決定版です。こうして初訳から4半世紀を経て、また新たな読者と出会えることになり、マイケルくんはさぞや喜んでいることでしょう。

 この作品が世に出てから、作者も翻訳者も当然ながら歳を取りました。『マイケル・K』を書いていたクッツェーはまだ40代初めでした。翻訳者も最初に訳したときは30代後半でした。でも、作中人物は、これまた当然ながら、まったく歳をとりません。31歳のままです。南アフリカでも、世界中でも、若い読者を中心に読み継がれ、クッツェー作品のなかで、マイケルほど愛されている主人公は、ひょっとしたら他にいないかもしれません。
移動を制限されながら、制度的な暴力も慈善も、不器用に、執拗にかいくぐり、痩せ衰えながらも、どこまでも土を耕して生きようとする31歳の若者、それがマイケル・Kです。これはある意味、このうえなく不可能な物語ですが、種を蒔き、水を遣り、山羊に食べられないように見張り、といったふうに、大地から生まれる恵みを糧に生きようとするマイケル・Kの物語が、どうしていま、こんなに人の心をとらえるのか、そんなことを話せたらいいなと思います。
 
 都甲さんには昨年8月末にも、クッツェーの自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代──辺境からの三つの<自伝>』(インスクリプト)の発売を記念したイベントで、司会をしていただきました。そのときはまだ発売されていなかったポール・オースターとの往復書簡集『ヒア・アンド・ナウ』(岩波書店)のことも、今回は話に出るかもしれません。
 また、昨年11月にアデレードで開かれたシンポジウム「世界のなかのJ・M・クッツェー」 のことや、アデレードのクッツェーさんのお宅を訪問したエピソードなども飛び出すかもしれません。お楽しみに!

「土のように優しくなりさえすればいい──内戦の南アフリカ、マイケルは手押し車に病気の母を乗せて、騒乱のケープタウンから内陸の農場をめざす。 ひそかに大地を耕し、カボチャを育てて隠れ住み、収容されたキャンプからも逃亡。国家の運命に本論されながら、どこまでも自由に生きようとする個人のすがたを描く、ノーベル賞作家の代表傑作」

*もちろん当日になってふらり、でも、だいじょうぶです、たぶん。
 その気になったら迷わずおいでください。


2015/03/06

Barbarians が映画化されなかった理由

 クッツェーは Waiting for the Barbarians の映画シナリオを書いている。この作品の映画化権を売って、教える仕事から身を引き、創作に専念したいと強く思ったらしい。1995年のことだ。

 でも、それは実現しなかった。結局、映画化したいという側の、マカロニウェスタンさながらの翻案企画は作家の了承を得られず、クッツェーが準備したシナリオは使われることなくお蔵入りとなった。他のシナリオを使うことも彼は許可しなかった。In the Heart of the Country の轍を踏みたくなかったのだろう。この小説がマリオン・ヘンセル監督によって映画化され、「Dust」となったときの苦い経験があったのだ。
 しかし1995年に、まとまったお金を手にするビッグチャンスを目前にして、彼があえてそれを退けた理由は、日本語への一翻訳者としてやはり考えておきたいと思う。その態度はとりもなおさず、彼がみずからの作品が読者にどのように受け取られることを望んでいるかを示してもいるからだ。

 自分の書いた作品が、それを書いた目的、意図などから大きくずれることを彼は嫌った。初めて訳されたドイツ語訳のWaiting for the Barbarians が、作家の意図とは大きくずれて、別の翻訳者の手によって改訳されることになったいきさつは、ここですでに書いたが、翻訳に対してもまたこの作家は同じ態度であることは間違いない。

 Waiting for the BarbariansIn the Heart of the Country、この二つの小説を舞台化するためのシナリオが昨年出版された。編集したのはウェスタンケープ大学のハーマン・ウィッテンバーグ。写真は昨年11月にアデレードで会ったときのもの(真ん中がウィッテンバーグ、向かって左はデイヴィッド・アトウェル、右はいわずもがなの作家自身だ/残念ながらレンズの設定を間違えてちょっとピンぼけ!)。

2015/02/04

『鉄の時代』から朗読するクッツェー

 11月11日から3日間にわたってオーストラリアはアデレードで開かれた、Traverses: J. M. Coetzee in the World の初日、J・M・クッツェーがエルダー・ホールで朗読をした映像がYOUTUBE にありました。



 最初に彼を紹介するのは、朗読の前にピアノ演奏をしたアンナ・ゴールズワーシーさん。クッツェーさんはまず、今回のコロキアムを企画、実行した人たちへの謝辞を述べ、それから朗読を始めます。「20年以上も前に書いた小説ですが」といって読みはじめたのは、なんと『鉄の時代』でした。彼がなにを読むかは、主催者をはじめ、誰にも知らされていなかったので、びっくりしたのなんのって! 彼が読んだ部分の拙訳を少しだけ以下に。

****
 ガレージのわきに細い通路があるのを、おぼえているかしら、あなたがときどき友だちと遊んでいたところ。いまでは使われることもなく、さびれ、荒れ果て、吹きだまった枯れ葉がうずたかく積もり、朽ちている。
 昨日、この通路のいちばん奥に、段ボール箱とビニールシートでできた家があるのを見つけたの。なかで男が、通りから来たとわかる男が、身をまるめていた──背が高く、痩せこけていて、風雨にさらされた皮膚に、長い虫歯の犬歯、ぶかぶかの灰色のスーツを着て、縁のほつれた帽子をかぶっていた。その帽子をかぶったまま、縁を耳の下に折り込むようにして寝ていた。浮浪者よ。ミル通りの駐車場をうろつく浮浪者のひとり、買い物客に金をねだり、立体交差の高架の下で酒をあおり、ゴミ入れをあさって食べる浮浪者。雨の多い八月はホームレスにとって最悪の月、そんなホームレスのひとり。両脚をマリオネットのように外に突き出し、箱のなかで、あんぐりを口をあけて眠っている。まとわりつく、芳香とはおよそいいがたい臭気──尿、あまったるいワイン、黴臭い服、ほかの臭いも。不潔。
 立ったまましばらく彼をじっと見おろしていた。じっと見ながら臭いを嗅いでいた。訪問客、よりによってこんな日に、わたしのところに舞い込んできた客。
 サイフレット医師から知らされた日だった。知らせは良いものではなかったけれど、それは、わたしのもの、わたしのための、わたしだけのもので、拒むわけにはいかなかった。両腕で抱きあげ、この胸にたたんで、家にもち帰るものだった。首を横にふったり、涙を流したりせずに。「先生、どうもありがとうございました。率直にお話くださって」とわたしはいった。すると医師は・・・

          ・・・中略・・・

 男はぎょっとなることをした。まっすぐに、初めてわたしを直視して、ぺっと唾を吐いたのだ。ねっとりと、黄色い、珈琲の茶色い筋を含んだ唾の塊を、わたしの足もとのコンクリートの上に。それからマグをわたしに突き返し、ぶらりと歩み去った。
 ものそれ自体だ、そう考えると身震いが起きた。わたしたちのあいだに登場した、ものそれ自体。唾はわたしに、ではなく、わたしの目の前に吐かれた。わたしがそれを見て、調べて、それについて考えることができるように。彼のことば、彼なりのことば、その口から吐き出され、彼を離れた瞬間は温もりのあったことば。紛れもない、ひとつのことば、言語以前の言語に属するもの。最初は眼差し、それから唾を吐くこと。どんな眼差しかって? 敬意のかけらもない眼差しよ。ひとりの男からの、男の母親ほどの老齢の女に向けられた眼差し。ほら──おまえの珈琲だ、持っていけ。

*****
さらに偶然は重なるもので、この夜、わたしがホテルに帰ってパソコンを開けると、東京からメールが入っていたのです。それは世界文学全集第一期に入ったこの作品の邦訳『鉄の時代』(河出書房新社刊、2008年)が増刷されることになったというニュースでした。嬉しい偶然の一致でした!

2014/11/29

数日前に「現代詩年鑑 2015」が届いていたのだ

朝から曇りのお天気で、すっきりしない。体調もすっきりしない。ついに、アデレード・ハイが切れてきた。

 だいじょうぶかなあ、と家族からさんざん心配されながら、11月初旬、ひとりでオーストラリアのアデレードまで行って、帰ってきて、へたると予想されていたのに、逆にハイな状態で突っ走ってきて2週間。
 ついに昨日あたりから、切れてきたのだ、アデレード・ハイが。笑うしかないな、これは。今日は外出は不可だ。行けずに残念な催しがあるのだけれど。


 アデレードのホテルで「現代詩手帖」編集部のFさんから嬉しい連絡を受けたことは前にも書いた。その「現代詩年鑑2015」が数日前に届いていたのだ。「──JMCへ」という献辞のついた「ピンネシリから岬の街へ」が入っている。嬉しいことはさらに重なり、「今年度の収穫」に須永紀子さんが『記憶のゆきを踏んで』をあげてくださった。

 須永さんの新しい詩集『森の明るみ』はすてきな詩集だ。粒ぞろいのことばたちが、手で触れそうなほどの確かさでならんでいる。アデレードから無事に帰還して、じっくりと読んだ。カバーの絵もまたいい。

2014/11/23

Barbarians の訳は「夷狄」でいいのか?

 11月11日から3日間、アデレードで開催された「Traverses: J.M.Coetzee in the World」というイベントのハイライトは、やはりアデレード大学構内にある旧い建物エルダー・ホールで行われた作家自身の朗読だった。建物のなかに入ると、ステージの奥にはパイプオルガンがあって、そこが教会であることが分かる。エルダーというのだから「長老派」だろう。この催しだけが公開だったため、早くから大勢の人たちが詰めかけていた。

 アデレード大学の副学長の挨拶につづいて、シカゴ大学の哲学教授、ジョナサン・リアの「Waiting for the Barbarians/夷狄を待ちながら」をめぐる基調講演があった。これが興味深い内容だったので、わたしの耳が拾った部分を中心に少し書いておきたい。

ジョナサン・リアはクッツェーがノーベル賞受賞の知らせを受けたときいっしょにいた彼の長年の友人で、そのときのエピソードにも今回ちらりと触れれて、場内をなごませていた。
 ノーベル財団がクッツェーに連絡を取ろうとしたが、本人はそのときシカゴ大学で教えていたので、ケープタウンにはいなかった。財団側から連絡を受けたシカゴ大学の誰かが、リア教授の電話番号を教えてしまったので、それからが大変。彼の電話がひっきりなしに鳴りつづけた。知らせの前夜、リア教授夫妻はジョンとドロシーと4人でディナーを共にしたところだった・・・といった、すでにそこにいる大方の人たちが知っているエピソードではあったけれど、直接ご本人から聞くと、そうだったなあ、と感慨深かった。(2枚目の写真:クッツェーとジョナサン・リア)

 さて、重要なのはそんなことではなく、リア教授の『Waiting for the Barbarians』の読みに対する問題提起なのだ。この作品は一般に、架空の土地を舞台にした時代も不特定の小説、として読まれることが多いが、それは違う、とリアは言うのだ。注意深く読んでみると(Read carefully! はクッツェー本人がくりかえし発言していることば!)、作品冒頭にはちゃんと年代が書き込まれている、決め手は第三局からやってきたジョル大佐がかけていた眼鏡である、と言うのだ。では、この作品の書き出しを見てみよう。

 "I have never seen anything like it: two little discs of glass suspended in front of his eyes in loops of wire. Is he blind? I could understand it if he wanted to hide blind eyes.  But he is not blind. The discs are dark, they look opaque from the outside, but he can see through them.  He tells me they are a new invention."

「そんなものは見たことがなかった。彼の両眼のすぐ前で、二つの小さなガラスのディスクが、環にした針金のなかで浮いている。彼は盲目か? 見えない目を隠したいというなら分かる。だが彼は盲目ではない。ディスクは黒っぽく、はたから見れば不透明だが、彼はそれを透してものが見える。新発明なんだそうだ」

 ここで言われているのはもちろんサングラスのことだが、その語は使われていない。行政官はジョル大佐から「新発明」との説明を受ける、と書かれているところに注目すべきだとリアは語った。サングラスの発明は20世紀に入ってからの出来事だ。だからこの物語にはしっかり時代が書き込まれているのだと。(追記:われわれの二代、三代前の祖先の時代と読めるではないかと。)もうひとつ、この作品は dreamlike と言われることがあるが、dream ではなくあくまでdreamlike なのだ。一見「夢のように」場所や時間が特定しにくいことが重要なのだ。なぜか?
 (と、ここからは私見だが)この作品が発表された1980年はまだ南アフリカには厳しい検閲制度があり、検閲官がちくいちテクストを読み、発禁にするかどうかを決めた。その厳しさは『In the Heart of the Country/その国の奥で』が通常なら1人の検閲官が審査するところ、3人もの検閲官によって詳細に査定された事実からも明らかだ。(それについてはここに書いた。)当然ながら、次に発表された「Barbarians」は作家自身も検閲を念頭において書いている。だが、架空の、無時間の作品と見せかけながら作者は最初のページに時代をくっきりと刻み込んでいる、そこに注目すべきだ、というのが今回のリアの指摘だったと理解できる。

 リア教授の講演を聴きながら(もちろん全部理解できたわけではないが)、ある疑問がふつふつとわいてきた。Barbarians を「夷狄」と訳したのは、はたして適切な訳語選択だったのか、という疑問だ。「夷狄」とは19世紀までの中国で、漢民族を中心とした中央勢力から見た外部民族への蔑称とされる語だ。したがって「夷狄」と銘打たれた小説を読む者は、否応なく19世紀以前の時代へと導かれ、物語の舞台として東アジアのある地域を想定して読むことになる。
 リアの指摘に沿って考えるなら、それでいいのか? という疑問を抱かざるをえない。古典の翻案ではないのだ。同時代作家の新作の翻訳の場合、これは妥当なことか? リアの指摘からすれば、Barbarians は文字通り「蛮族」と訳すべきだったのかもしれない。しかし邦訳の出た1991年、あるいはノーベル賞受賞後に文庫化された2003年、日本語読者は「夷狄」という聞き慣れないことばに耳をそばだて、関心を持った、という事実もまた否定できない。だからこれは、ひどく悩ましい問題提起とならざるをえない。
 しかし、さらに考えてみる。現在はクッツェー作品が詳細に論じられ、3度の来日もあって、彼の名は一般にも知られるようになった。同時代をともに生きる作家の意図をあたうるかぎり伝えることこそが訳者、編者に求められる姿勢だとするなら、「夷狄」は訳語としてこのままでいいのか、という問いはやはり残る。悩ましい。

****************
2014.12.21追記:YOUTUBEにアップされたリア教授の講演を再度聴いたあと、上記の内容に少し加筆した。記憶だけで書き、少し誤解も混じっていたので訂正した。リア教授は、この作品が発表された当時のニューヨークタイムズの書評を批判しながら、この物語をアパルトヘイト下の南アフリカの出来事としてのみ読むのではなく(つまり遠い国の自分たちとは関係のない物語として読むのではなく)、読者が自分の住んでいる土地の近過去の歴史として読むことも可能な物語なのだと述べている。
 彼の住むアメリカ合州国という土地で考えるなら、当然「蛮族=ネイティヴ・アメリカン」という置き換えになるだろうか。では、日本では? 蛮族=蝦夷、いやいや、現在はむしろ海の向こうの外敵としての・・・?
 そのように読者の心理に深く働きかける「可能性」を秘めた作品である、とリア教授は論じている。であるとすれば、やはり、「夷狄」よりもう少し抽象的な語が選ばれるほうがいいのかもしれない。やっぱりこれは悩ましい。

2014/11/20

ピンネシリから岬の街へ──JMCへ

 アデレードに着いたとたんに目に入った樹木、それはジャカランダだった。もう花の盛りはすぎてはいたが、若葉の季節にまだ美しい色合いを見せていた。左の建物はアデレード大学構内にあるエルダー・ホール。内部は教会で、イベント初日の夜にJ・M・クッツェーの朗読会が開かれたところだ。

 アデレードに向かって出発する前の一週間は、なぜかシーンと静かだったメールボックスが、10時間あまりのフライトのあとホテルに着いてPCをセットアップした途端に、新着メールがいくつも届いていて驚いた。そのなかに詩集『記憶のゆきを踏んで』の一編「ピンネシリから岬の街へ」を今年の「現代詩手帖年鑑」に入れたいというメールがあった。
 詩のタイトルの裾に「──JMCへ」と入っている通り、これは1960年代にケープタウンからロンドンへ渡った青年ジョン・マクスウェル・クッツェーに捧げる詩なのだ。詩集を2日後にクッツェー自身に手渡す予定だったのだから、まさに good timing! 

 もちろん作家は日本語が読めるわけではないけれど、でも彼は若いころ中国語を学んでいるため、漢字はある程度読めるのだ。
 翌日は、初夏のアデレードの青紫のジャカランダの花びらをながめながら街を歩いた。オーストラリアはアジアに近い。アデレード大学構内にあるのは、教会ばかりではない。こんな孔子像も立っていたのだ。

2014/11/16

家に帰ったら、書評『往復書簡集』by 都甲幸治氏が届いていた

初夏のアデレードから、気温が2度の成田に、今朝6時に到着しました。さすがにくたびれました/笑。でも家に帰り着くと、オースターとクッツェーの往復書簡集の書評が掲載された週刊読書人(11月14日付)が届いていた。しっかり読み込んでくれた都甲幸治さんの書評でした。正直、とても嬉しいです。

 それにしてもシドニー空港は聞きしに勝る迷宮ぶり。アデレード空港は広々として、のんびりした、良い意味で田舎の空港でした。ところが、1時間半ほどで着いたシドニーは、掲示板がまったくもって親切ではなく、トランジット客は乗り継ぎのため次にどこへ行けばいいのか、ちんぷんかんぷん。ここだ! というから並んでみたらそこはチェックインカウンターだったり(すでにアデレードでチェックインはすませている!)、バスに乗れ、というから乗ったら延々と暗い空港の敷地内を走るバスはどこへ行き着くのかだんだん不安になってくるし、着いた建物ではエスカレーターが動かない。しかたなく荷物を持ち上げて階段を登った。いやホントにくたびれた。

 搭乗ゲートがまたよく分からなくて、こういうとき、どういうわけかわたしには必ず反対方向へ歩き出してしまう癖があって、今回もふたたび/涙。万歩計をつけていけばよかった、いったいどれくらい歩いたんだろう。そうやってうろうろしながら、ついに搭乗ゲートにたどりついたら、娘さんを訪ねた帰りにアデレードからおなじ便に乗っていた、わたしとほぼ同年代の日本人女性と出会った。彼女は空港の外へ出てしまい、もう入れない、と言われて泣きたくなったとおっしゃっていた。どうしても日本に帰りたいのですが、とスタッフに言うと、親切にあれこれ教えてくれて、ここまでなんとか辿り着いた、と。迷宮=シドニー空港。
 写真は到着した日のアデレード空港。シドニーでは写真を撮る余裕がまったくなかった/涙。
 

2014/11/09

アデレードで出会う南アフリカ産のブレスレット


今日は陽射しの強い通りを行ったり来たりしてくたびれた。

 くたびれついでにふらりと入ったお店で、おや、これは良い、と思って手に取ったモノは、なんと、made in South Africa だった。
 最初は、アメリカ大陸の先住民の人たちの模様かと思ったのだけれど、よく見るとコーサのビーズ細工の模様かもしれない、と思い至る。


 グアテマラやフィリピン、ヴェトナムなどのクラフトも扱っている、そのこじゃれたお店は、ノーステラス大通りから一本南に入る路地に面していた。知る人ぞ知る、その名もおなじみ Oxfam です。説明熱心なおばちゃんが切り盛りしているお店だ。もちろんアボリジニのクラフトを写真に撮った、美しいカレンダーも買いました。


 空腹を抱えて、もうどこでもいいや、テキトーに腹ごしらえしよう、と思って入った店で、これまたテキトーに説明きいて注文したら出てきたのがこれ! いや、びっくりしたのなんのって。だって小型の肉切りナイフがパンの上から、ブッ刺してあるんだもの。肉の国、オーストラリアだ。ひえ〜〜っ!
 半分に切って食べ、残りはテイクアウェイいたしました。ここじゃ、テイクアウトじゃなくって、テイクアウェイって言うんだね。

2014/11/08

アデレードに到着

アデレードに着きました!

 昨日は30度、今日は20度といった激しい温度差です。空港からホテルまでのタクシーから見た樹木は、どんよりと曇った空の下で埃っぽい空気に包まれて、すっかり萎れていたけれど、さっきぱらついた雨のせいで、緑が鮮やかさを取り戻したみたい。

 さて、ちょっと街へ出て・・・と。土曜日なので歩行者天国みたいなのをやっていて、家族連れがいっぱい。大道芸もいっぱい。この街の建物は黄土色か茶色の煉瓦づくりが多い。なんだか こんがり焼けたビスケットやクッキーを思わせる。


 ちょうどジャカランダが咲いている。花の盛りはやや過ぎて、はなびらが地面にたくさん落ちている。アデレードのジャカランダは、しかし、 南アフリカのジャカランダよりブルーが強いようだ。


 昨夜は機内。ほとんど寝てないので、今夜は爆睡かな。

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真夜中の付記:眠くなったので8時過ぎに、小学生なみに早々と寝たのはいいが、ぐっすり眠って目が覚めたら、「朝!」ではなくて「真夜中!」だった。土曜の夜。ホテルは結婚式パーティのあとらしく人びとの喧噪が廊下に響く。窓からは異容なほど「堂々たる」といった感じのアデレード駅が見える。人影は少ないが、車の往来は絶えない。