2012/05/30

デレク・アトリッジ氏のセミナー

昨日は駒場で開かれたセミナーに参加した。いま来日中のデレク・アトリッジ氏がクッツェーの Summertime を、虚構性と事実のはざまを縦横にいききしながら論じる内容だ。
 わたしがいま訳しているのがその Summertime なのだから、これを聞き逃すわけにはいかない。アトリッジ氏は『J.M.Coetzee and the Ethics of Reading/J.M.クッツェーと読みの倫理学』(Chicago Univ. Press, 2004)というすぐれたJ.M.クッツェー論の著者でもある。

 Summertime はクッツェーの自伝的三部作の最後にあたるが、じつは、それとは別にジョン・カンネメイヤー/J.C. Kannemeyer というアフリカーンス文学を専門とし、アフリカーンス語で書く伝記作家が「J.M.Coetzee: A Life in Writing」というクッツェーの伝記を書き進めていた。さらにその著者がマニュスクリプトをオランダのコッセ・パブリッシャーに渡した直後、昨年のクリスマスに突然、死んでしまったというのだから驚くではないか。マニュスクリプトはいま編集の真っ最中。

 アトリッジ氏はそのマニュスクリプトを読んでいて、それに出てくる「事実」とくらべながら Summertime に光をあて、作家のもちいる技法や、この作品の特徴などを語ってくれた。参加した方々からも面白い質問や意見が出て、とても参考になった。お招きくださった田尻芳樹さん、どうもありがとうございました。

 そのあと十数人で渋谷の居酒屋に流れてビールを飲みながら歓談。1980年代の南アフリカの話や、60年代にクネーネが来日したこと、インカタとANCとの確執、日本にも反アパルトヘイト運動があったこと(これを知ってアトリッジ氏はちょっと驚いていた!)、1989年のハラレ会議への参加、同年南アフリカから女性を招いて行ったキャンペーン、もちろんジョン・クッツェーを取り巻くさまざまな逸話もたっぷり、と、とりとめなく話は跳びながらも、じつに中身の濃い時間がすぎた。

 ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』を訳したところだ、といったら、彼は目を輝かせ、「ええっ! あのチャレンジングな本を訳したの?」と、とても嬉しそうな表情になったのが印象的だった。そうそう、クッツェーの次作についての情報もあったっけ。これが、なんともすごいタイトルだった。

 セミナー参加者は若い人が多く(といってもわたしの目から見れば、アトリッジ氏以外すべて若い人なのだけれど/笑)、クッツェーへの関心がここ十数年のあいだにぐんと広まっていることに改めて、嬉しい驚きを感じた。う〜ん、心して仕事しなきゃ! がんばろっ!

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付記:6月6日。そうだ、書き忘れました! クッツェーの小説のなかでアトリッジ氏がいちばん好きなのは『鉄の時代』だそうです。

2012/05/27

クッツェー文学のなかのフレンチ・レターズ

鉄の時代』を訳していたときは、この作品に埋め込まれたアリュージョンの多様さに驚くばかりだった。訳書が出てからも、いくつか気づいたことがある。

 たとえばフロイトの『夢判断』のなかの「燃える子ども」。たとえば「J'accuse/非難しているのよ」という、ミセス・カレンが吐露することば──これはエミール・ゾラがドレフェス事件をめぐり新聞に公開した手紙「私は弾劾する」を強く連想させる語なのだと知った。

 そして先日、ピーター・マクドナルドのレクチャーを動画で観ていて、あらためて気づいたのが『恥辱』の最初のページに出てくる、3つのイタリック体の語についてだ。

 In the desert of the week Thursday has become an oasis of luxe et volupté.

 この「luxe et volupté」である。最初に読んだときも(もう13年もむかしになるけれど)なんとなく連想させるものはあったものの、勢いにまかせて読み進み、この3語がシャルル・ボードレール(1821〜67)とつながっていることまでは確認しなかった。

 しかし、マクドナルドが『恥辱』の最初のページ第2行目に出てくる「solved the problem of sex」という5つの語に関連させて「デカルト」の名前を口にしたのを耳にしたとき、はたと膝をうって調べた。この「luxe et volupté」は、『悪の華』のもっとも有名な詩のひとつ「Invitation au Voyage/旅への誘い」に出てくる「luxe, calme et volupté」とつながることばだったのだ。(われながら気づくのが遅い!)

Là, tout n'est qu'ordre et beauté,
Luxe, calme et volupté.

そこは、なにもかもが整然と、美しく、
豪奢で、静謐で、そして悦楽に満ちて。

 この詩は、もう4年ほど前になるけれど、「鏡のなかのボードレール」というタイトルの一連の文章をこのブログ内で書いたときにも訳出した。遠い異国の、オリエントの、褐色の肌をした男や女の住む土地へ旅立つあこがれをうたったこの詩のなかで、ルフランとして3度もくりかえされるこの2行は、まことに強力な余韻を残す。

 この19世紀半ばの、ヨーロッパ白人男性から見た遠い異国へのイメージを、20世紀も終盤のケープタウンで、人種主義のシステムが崩壊した社会に生きる、52歳の白人男性大学教授の悦楽のあり方として、クッツェーは作品内でもちいている。このことの意味。ぎりぎりまで刈り込まれた明晰なことばで、登場人物の性格、状況設定が展開される第1ページ目に出てくる効果。

 あらためて唸ってしまった。

2012/05/20

途轍もなく引き込まれる物語──『明日は遠すぎて』

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの新作短編集『明日は遠すぎて』の書評が、今朝の産經新聞に掲載されました。

「やはり、アディーチェの作品は、アフリカを描いているから面白いのではない。作家のたまたまよく見知った世界を舞台にした、途轍(とてつ)もなく引き込まれる物語なのだ」と書いてくださったのは、翻訳家の三辺律子さん。Muchas gracias!

 フランス語を学んでいる人なら知らない人はいない「フラ語」カリスマ教師、清岡智比古さんはさわやかな緑の<林間地>で「それぞれに工夫された、しかも現実感覚に裏打ちされた設定で、決して抽象に堕ちず、絡まり合う現実の綾を丁寧に、指先で触れるように辿ってゆきます」と書いてくださいました。Merci beaucoup!

 若手イラストレーター原瑠美さんの「ピーナツバターブックス」というサイトには、素敵なイラスト入りの評が載っています。これまた嬉しい驚きです! 謝謝!

 長く待たれた『半分のぼった黄色い太陽』の映画もこの春ようやくクランクインして、来年には完成予定。ウグウ少年や、オデニボに思いを寄せるヨルバ人の大学教師アデバヨのキャスティング発表もあって、う〜ん、これもなかなか期待できそうですよ〜

2012/05/18

We Need New Names──ノヴァイオレット・ブラワヨの初小説

2011年のケイン賞受賞者、ジンバブエ出身のノヴァイオレット・ブラワヨ/NoViolet Bulawayo の初めての小説「We Need New Names」の出版権をChatto が獲得、というニュースが流れた。
 
 ケイン賞を受賞した短編「Hitting Budapest/ブダペストやっつけに」はパラダイスという地区に住む6人の子どもたちが、旋風のように通りを駆け抜け、グアヴァの実がなっていて、別の国みたいで、あたしたちみたいじゃない人が住んでいる「ブダペスト」をめざす話だった。バスタード、チポ、ゴッドノウズ、シボ、スティナ、それに、あたし。名前からわかるように、半端じゃなく過酷な生活をおくっている、この子どもたちのやりとりがまたすさまじい。まだ幼いのに妊娠している女の子までいる。旋風というのはその文体にもあらわれていた。すごくさらさらと読ませながら、こぼれおちた子どもたちをありありと描き出す文体なのだ。

 そのノヴァイオレット・ブラワヨの小説が来年でるらしい。『あたしたち、新しい名前が要るの』「パラダイス」(なんと皮肉な!)に住む子どもたちの野心をぴったりあらわしているようなタイトルだが、さあ、どんな物語だろう、楽しみだ。

 ブラワヨとはジンバブエの都市の名で、イヴォンヌ・ヴェラが住んでいたところだ。このペンネームには(前にも書いたかな?)大先輩の作家へのオマージュが込められているのだろうか。

 そうだ、あのジュノ・ディアスが 'I knew this writer was going to blow up. Her honesty, her voice, her formidable command of her craft—all were apparent from the first page.' といった作家だということも忘れずに書いておこう。

 アフリカ大陸からどんどん若い書き手が出てくる。

2012/05/16

クッツェーが「エルサレム国際作家フェスティヴァル」をボイコット

イスラエルの新聞ハアレツの記事によれば、J. M. クッツェーがエルサレム国際作家フェスティヴァルに招かれたが断ったと伝えられる。その記事からの引用:

Uri Dromi, the manger of Mishkenot Sha'ananim that hosts the festival said that "there is an increasing feeling of cultural siege and despite our success in attracting major writers, some of them, particularly from Britain, have come under huge pressure not to participate." He said that he had tried to invite South African writer and Nobel Prize laureate J. M. Coetzee "but he told me that he would come when the peace process goes forward."


「和平プロセスが前進すれば行く」とクッツェーは語ったとのこと。これはあくまで「エルサレム国際作家フェスティヴァル」をホストする組織のマネージャー、ユリ・ドロミ Uri Dromi のことばとして、ハアレツの記者アンシェル・プフェファー Anshel Pfeffer が伝えるものだが、十分注目にあたいするだろう。

 これを知ったきっかけはMONDOWEISSというサイト。

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付記:2012.5.24 「ボイコット」ということばはこの場合は適切だったろうか、と考えている。というのは、クッツェーはたんに個人として招待を断っただけで、ボイコットを呼びかけたりはしていないからだ。このことは注記しておきたい。

2012/05/07

東京のカラス万歳!──サンドラ・シスネロス

東京のカラス万歳!    サンドラ・シスネロス/くぼたのぞみ訳


ずっと元気でいてね ギャングのカラス
用賀のカラス 代々木のカラス
新宿のカラス 渋谷のカラス
赤坂のカラス 仲御徒町のカラス
辰巳のカラス 高田馬場のカラス
千駄木のカラス 曙橋のカラス

ずっと元気でいろよ ギャングのカラス
ひとりでも ぐるになっても
ゴミ袋から
花嫁のヴェール剥がして
がんがん要求する
なんだってありだからね



Long Live the Crows of Tokyo by Sandra Cisneros


Long live the gangster crows
of Yoga and Yoyogi
of Shinjuki and Shibuya
of Akasaka and Naka-okachimachi
Tatsumi and Takadanobaba
Sendagi and Akebonobashi

Long live the gangster crows
solo and in collusion
lifting the bridal veils
from trash bags
and demanding
anything goes




4.23.12 Tokyo
4.19.12 San Antonio, Texas

© 2012 by Sandra Cisneros. All rights reserved. By permission of Susan Bergholz Literary Services, New York City and Lamy, NM and The English Agency (Japan).
translation © 2012 by Nozomi Kubota, all rights reserved.

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2012年4月13日、東京は表参道の居酒屋「もくち」で来日したサンドラ・シスネロスさんと会った。
 ずっと彼女の著作権を扱っているイングリッシュ・エージェンシーの澤潤蔵さんがもうけてくださった会席にかけつけてくれたのは、1992年このチカーナ詩人/作家をいちはやく日本に紹介した詩人の管啓次郎さん、拙訳『マンゴー通り、ときどきさよなら』を気に入ってくれた若い作家の温又柔さん。なんと彼女の小説『来福の家』のエピローグには『マンゴー通り』のある章からの引用が・・・。それぞれが長いあいだ温めてきた思いがはじけるような、とてもホットな、心に残る夕べだった。みなさん、どうもありがとう!
 金曜の夜とあって、隣席からは爆竹がはぜるような笑い。傘をなくしたわたしは渋谷駅までの帰り道をサンドラと相合い傘、小雨ふる大通りを腕を組んで歩いた、忘れがたい夜。
 そして数日後、帰国したサンドラから一編の詩が送られてきた。それがこの詩。管啓次郎さんとの競訳とあいなりました。「水牛のように」に書いた詩「マンゴー通りからきた詩人」とも響き合っています。Please enjoy!

2012/05/04

カエターノ・ヴェローゾふたたび

ひさびさに音楽の話をしよう。

「Caetano Veloso and David Byrne」を聴いている。2004年にカーネギーホールで行われたコンサートのライヴ盤だ。

 これがすごくいい。今日の雨だれのように、ちょっと疲れた心身の奥まで染み入る音の数々、メロディー、リズム、音色。なんといっても、ヴェルヴェットのようなカエターノの声がいい。知らせてくれたUさん、送ってくれたOさん、ありがとう!

 4月29日に開かれた「詩は何を語るのか?」の充実した時間とおなじように、このCDがあらためて教えてくれるのは、文学や詩そして音楽は、アプローチの仕方はちがうけれど、ひとが生きていくうえで不可欠ななにかをあたえてくれることだ。
 ほとんど涙が出てくるほどのそれは、だれがなんと言おうと、生きていることの証しのように、この身の感覚がむさぼり飲みほす歓びなのだ。これさえあれば、生きていける、そう思えるような何か・・・。

付記:でも、やっぱりデイヴィッド・バーンの歌はちょっとなあ、であったため、カエターノのソロ、カエターノとD・バーンのデュエットを Favorite Disc として別に焼いて聴くことにした。選ばれた曲は全17曲のなかからの11曲。

2012/05/01

マンゴー通りからきた詩人

4月13日金曜日の表参道。サンドラ・シスネロスと会った。

 サンドラ・シスネロスの『マンゴー通り、ときどきさよなら』と『サンアントニオの青い月』を、晶文社という出版社からの依頼で翻訳して出したのは1996年だった。あれから16年。

 今月の水牛に「マンゴー通りからきた詩人」という詩を書いた。サンドラが日本にやってきたことを詩に書くなんて、まったく思ってもみなかったことだ。なんという時間の不思議。

 サンドラは日本がとても気に入ったようで、また来たいといっている。満開の桜を楽しんだ今回の日本滞在記がこちらで読めます。