2017/11/19
2014/04/19
花曇りの午後に
花曇りの夕方ちかく、クッツェー三部作の再校ゲラを読了し、長い解説もほぼ完成したので、ぶらりと散歩に出た。
あちこちで姫林檎が咲いている。山吹も咲き出した。
もちろんチューリップはいまを盛りと咲いてはいるけれど、今日の気温に花びらをしっかり閉じているようすが、コーンに盛りつけたアイスクリームのよう。
遠くから撮っているうちは、こちらを無視していたが、少しだけ近づくと、そそくさと柵の向こうへ姿を消した。
彼ら彼女らのなわばりだ。
見ると、ふたつのベンチのあいだにふわりと空から垂れ下がるようにして、たくさん花をつけたアメリカハナミズキの枝が。ほら、見て見て、こんなに花をつけているよ、とこちらに向かって、まるでおじぎでもしているように咲いていた。
2014/02/08
2014/02/07
2014/01/10
キツツキを見た日
今日、葉をすっかり落としたこぶしの樹の幹を、キツツキがつついていた。最初、枯れ木と枯れ木をぶつけあうようなボツボツという音が聞こえたので、思わずあたりを見まわしたけれど、誰もいない。そして頭上に動くものが・・・
みると体をまっすぐ縦にして、くすんだ灰緑色の幹と同色の鳥らしき姿があった。かなり高いところを長い嘴でつついている。たぶんキツツキだ。キツツキだとわかると、今度は、耳にコツコツと聞こえるから不思議、というか、耳から入る音をどう聞くかは、聴く者の先入観によって決まるのかもしれない。
下から見あげるかたちだったので、頭のてっぺんが赤いかどうかまでは確認できなかった。
でも、いつもなら2月に入ってから見かける鳥。早々とやってきたのか。なんとなく嬉しい。(カメラは持っていなかったので、写真はネット上のものを拝借しました。)
みると体をまっすぐ縦にして、くすんだ灰緑色の幹と同色の鳥らしき姿があった。かなり高いところを長い嘴でつついている。たぶんキツツキだ。キツツキだとわかると、今度は、耳にコツコツと聞こえるから不思議、というか、耳から入る音をどう聞くかは、聴く者の先入観によって決まるのかもしれない。下から見あげるかたちだったので、頭のてっぺんが赤いかどうかまでは確認できなかった。
でも、いつもなら2月に入ってから見かける鳥。早々とやってきたのか。なんとなく嬉しい。(カメラは持っていなかったので、写真はネット上のものを拝借しました。)
2013/03/19
夕暮れに咲くモクレン
初夏なみの暖かさのなか、ひと仕事終えて、暮れはじめた屋外へ散歩に出る。今日はモクレンに会いにいった。
昨年は時期を逸して、嵐のあと雨に打たれた黄ばんだ花しか見ることができなかった。不義理をした。今年はきみの盛りの時期を、ほら、ちゃんと写真におさめたよ。
美しく、白く、まさに咲き誇るということばがぴったりのモクレンの大木。
折しも、福島の第一原発は電源が失われ、原子炉の冷却がストップ、いまだ収拾つかず、というニュースがあちこちから流れてくる。
自然から、Law of Nature の倫理から、はぐれてしまった人間のいまに、どう対処すればいいのか。モクレンが教えてくれるわけもないが、この美しい花を見ていると、なぜか、すさみかける心が満ちてくる。なんという不思議、妙味。美を感じる心はどんなときも必要だというのは真実、とあらためて思う瞬間だ。

2012/12/21
もしもいま、希望を語ることができるとしたら
すっかり忘れていた。昨年、6月に自分でリンクを貼りながら、今朝まで忘れていた。でも、あるきっかけで思い出して、再読したことばたち。
1年半も前だけれど、いま、こうして生きているこの社会のなかで、さらに絶望的な思いに駆られそうになる「いま」、もう一度、読んでみても、ある意味で深くうなずけることばたち。
1年半も前だけれど、いま、こうして生きているこの社会のなかで、さらに絶望的な思いに駆られそうになる「いま」、もう一度、読んでみても、ある意味で深くうなずけることばたち。
もしもいま、希望を語ることができるとしたら、それはこういうことなのだと思う。
*写真はネットから拝借しました。
2012/12/10
はじける dress after dress の中村和恵さん!
平凡社のヴェブマガジンに好評連載中の「dress after dress」、今月の中村和恵ねえさんは、ぱっきりしゃっきり、すんごいはじけてる! 男の子も女の子も必読です。
なんてったって、女性が女性であるための身体の話です。いまの日本社会が、とりわけ男性中心社会が目をそむけてきたこま〜ったことを、あっけらかんと白日の下にさらし、それも、とっても前向きです。きっぱり!
わたしもおおむかし、1980年代にかの「A新聞」に投稿したことのあるテーマでした。そのときも反響がすごかったなあ。あれからはや、30年になりますか。まだ、産婦人科には、あれがあるのよね! もういいかげん、消えてなくなればいいのに!
なんてったって、女性が女性であるための身体の話です。いまの日本社会が、とりわけ男性中心社会が目をそむけてきたこま〜ったことを、あっけらかんと白日の下にさらし、それも、とっても前向きです。きっぱり!
わたしもおおむかし、1980年代にかの「A新聞」に投稿したことのあるテーマでした。そのときも反響がすごかったなあ。あれからはや、30年になりますか。まだ、産婦人科には、あれがあるのよね! もういいかげん、消えてなくなればいいのに!
えっ? なんのことかって? ではでは、こちらへぜひどうぞ!
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2014/5/3 遅ればせながら、3月に中村和恵さんの『dress after dress』が本になりました。傑作です! お薦めします。
その時点で、おそらく、web-heibon のリンクがなくなりましたので、ぜひ本を手に取って、興味津々の、愛に満ちた批判の力を楽しんでください。
2012/01/01
2011/10/07
静かにすぎた「ノーベル賞」喧噪週間
今年のノーベル文学賞はスウェーデンの詩人、トーマス・トランストロンメルが受賞した。たぶん何人もの人たちが机の前にスタンバイした状態で、6日午後8時にノーベル賞の公式サイトへ行って、「LIVE」という文字が左上にはりついた画面を見ていたことだろう。去年、一昨年は、どきどきしながらその瞬間を待っていた。でも、なぜか今年はすこしもどきどき感がなかった。なにかが決定的に変わってしまったようだ。
一昨年がル・クレジオだから2年後の今年はフランス語文化圏の受賞者はないだろうと思ったし、去年はスペイン語圏のリョサだったから今年あたりは韓国とかアラビア語圏へ行ってもおかしくはないか、もちろんアフリカもそろそろちゃんと考えたっていいはずだけれど、とか、個人的な期待感はあったけれど、なぜか、どきどき感はまったくなかった。
ふつうに仕事をしていて、あれ、7時58分だとふと気がついて、クリックして観た。まず、もうおなじみになった顔の発表者がスウェーデン語で述べて、次に英語でやります、といって、ペーパーを見ながら詩人の名前を発表した。あ、そういうことね、という感じ。自国の、80歳を超えた高名な詩人。多くの言語に作品が翻訳されている人だ。日本語訳も出ているみたいだから復刊されることだろう。詩に光があたるのは嬉しい。というわけで、また通常どおりの仕事へもどった。それから、半時間ほどして、検索するとネットのニュースにも流れていて、はい、今年はこれでおしまい。お疲れさまでした!
2011/09/30
毎日新聞、足立旬子さんの記事
本日朝刊に掲載された記事です。
「記者の目:原発事故とエネルギー政策見直し=足立旬子(東京科学環境部)」
facebook に投稿したら多くの人が「いいね」ボタンを押してくれたり、シェアしてくれたり、あるいは管啓次郎さんがご自分のブログで紹介したりしているのに、すっかりこのブログに書くのは忘れていました。
これは多くの人に読んでもらいたい内容の記事です。すごく、すごくまっとうです。こういう記事が大手の新聞にしっかり掲載されることは、いまの時期、絶対に必要なことです。
「記者の目:原発事故とエネルギー政策見直し=足立旬子(東京科学環境部)」
facebook に投稿したら多くの人が「いいね」ボタンを押してくれたり、シェアしてくれたり、あるいは管啓次郎さんがご自分のブログで紹介したりしているのに、すっかりこのブログに書くのは忘れていました。
これは多くの人に読んでもらいたい内容の記事です。すごく、すごくまっとうです。こういう記事が大手の新聞にしっかり掲載されることは、いまの時期、絶対に必要なことです。
2011/09/10
2011/09/04
嵐が去って・・・
2011/09/03
思いっきり「カナディアン・ロッキー」へ

台風12号はまだ四国、中国地方をうろうろしている。ずいぶん動きの鈍いやつだ。雨と風が断続的に激しく窓を打つ。止んだ、と思ったらまた始まる。気分だけでもカナダへ飛ぼう。
それにしても、あらためて思うのは、震災直後、3月の「計画停電」のこと。あれはいったいなんだったのか? 暑い夏でさえ停電はなかった。電力は十分補給されうるのだ。
だから3月の停電は明らかに脅し、そして、なにかを隠すためのプロパガンダだった。情報操作。その事実をどうしてもっと追求しないんだろう。国立などでは実際に停電が起きて、レストランや食料品店が営業上大きな被害を被った。損害賠償の訴訟を起こしてもいいくらいだ。
写真はすべて、Brian Smallshaw さん撮影。
2011/08/31
カナダは Brian Smallshaw さんの夏山の写真
8月も最後。今年の夏は、街に出ると空調温度が低め、これは助かった! でも、今年はどちらかというと涼しい夏だったように思う。
暑い日がつづいたと思うと、すとんと気温が落ちて雨が降り、頭の働きがにぶくならない程度の温度で、しばらくするとまた30度をこえて、といった具合に。
昨年よりはぐんと仕事がしやすかった。冷房はたった1日、夕方2時間ほどかけただけだ。今年から電気代請求書/領収書に使用電力の昨年比、というのが記載されるようになったけれど、節電に心がけている分、少しだけ減ったかな、という程度で、わがやはあまり変化がない。ふだんからクーラーを使わないし、乾燥機もない。電熱機と呼べるものは炊飯器とトースターだけだから、こんなものか。おそらくいちばん電気の消費量が高いのが、2台ある PC だろう。
さて、夏の終わりに、冷房なんていらない地方からのすてきな便り。カナダはブリティッシュ・コロンビア州に住むブライアン・スモールショーさんの夏山の写真を今年も。
付記:写真は Lake O'hara、アルバータ州のカナディアン・ロッキー。
2011/08/28
2011/06/06
2011/06/05
2011/04/29
「日本」という現場、個々人のフロント
こういう発言をする人がいる、ということに同時代人として希望を感じる。
小出裕章氏:
「どこかにモデルを求めてはいけないと思うんです。今あるのは、私たちのこの「日本」という現場があるわけで、それをどうやって変え、どういうところにもっていけるかという、たぶん、そういうことしか意味がないだろうと思います」
「ですから、東京みたいなきらびやかな街をつくることが豊かだと思ってる、六本木のような街を豊かだと思う、それは私は全然違うと思っています」
「私は、聞いていただいたように「東京の街づくりが間違えている」と言ったわけで、いわゆる大都市のつくり方が間違えている。それは逆に言えば、過疎地のつくり方も間違えているということです」
詳しくはぜひこちらへ
**************
「野に暮らす」と書いて「野暮」というが、しばらく前から「野暮」のどこがわるいの? とわたしは、ことあるごとに反論することにしている。おしゃれな都会の洗練された「粋」がもっともすばらしいものとされてきた、日本の中央文化主義の価値観そのものを変えることはできるだろうか?
原発をめぐる日本人の心の動きは、この文化の問題と不可分に結びついている。
もちろんそれは田舎の、過疎地の、農業などを営む人たちの心や人間関係のあり方とも不可分だ。
集団でも組織でもない、個人、が立ちあがるか、社会、ができるか、試されている。
小出裕章氏:「どこかにモデルを求めてはいけないと思うんです。今あるのは、私たちのこの「日本」という現場があるわけで、それをどうやって変え、どういうところにもっていけるかという、たぶん、そういうことしか意味がないだろうと思います」
「ですから、東京みたいなきらびやかな街をつくることが豊かだと思ってる、六本木のような街を豊かだと思う、それは私は全然違うと思っています」
「私は、聞いていただいたように「東京の街づくりが間違えている」と言ったわけで、いわゆる大都市のつくり方が間違えている。それは逆に言えば、過疎地のつくり方も間違えているということです」
詳しくはぜひこちらへ
**************
「野に暮らす」と書いて「野暮」というが、しばらく前から「野暮」のどこがわるいの? とわたしは、ことあるごとに反論することにしている。おしゃれな都会の洗練された「粋」がもっともすばらしいものとされてきた、日本の中央文化主義の価値観そのものを変えることはできるだろうか?
原発をめぐる日本人の心の動きは、この文化の問題と不可分に結びついている。
もちろんそれは田舎の、過疎地の、農業などを営む人たちの心や人間関係のあり方とも不可分だ。
集団でも組織でもない、個人、が立ちあがるか、社会、ができるか、試されている。
2011/04/16
このくにを捨てばやとおもふ更衣
このところずっと考えてきたことを言い当ててくれた翻訳家がいます。それまでほとんど毎日のように更新されていたブログが、3.11以降ぴたりと止まってしまい、どうしたのかと思っていましたが、今日のブログを読んでわかりました。池田香代子さんのブログ
「ふくいちよう、いつまでもくもくするつもりだ」という表現をtwitterで発見した池田さんはこう述べます。
***
「ふくいち」とは、言わずと知れた福島第一原子力発電所のことで、東京電力がつけた略名です。親しみ深さを狙っているのでしょう。それをそのまま受け止めて、「つもり」という語をつなげて、恐ろしい過酷事故を起こした原発をかわいらしく擬人化しています。過酷事故による放射性物質放出も、「もくもくする」とユーモラスに表現しています。
「ふくいちよう、いつまでもくもくするつもりだ」
そう書いた方に、この事態を矮小化する意図はなかったでしょう。そうではなく、「ふくいち」にこうして呼びかけて、哀しみを表現しているのだと思います。これが私たちの、綿々と続いている心性なのではないでしょうか。「私たち」がどのような範囲を示すのか、私にはわかりません。古来、この列島に住まう人びとなのか、アジアなのか、その一部なのか、あるいは地理的境界に意味はなく、権力からの遠さが「私たち」を規定するのか。わからないままに「私たち」と言っています。
怒るのではない。そこにあるのは哀しみ。どんな凶悪な厄災にも、「ふくいちよう」と呼びかけて、呼びかけ可能なものに変換して、引き受ける。引き受けてしまう。逃げない。たたかわない」
***
これを読んで思いました──日本人ってホントに、どうして怒らないの?(今日ばかりはステロタイプにも「日本人」ということばをわたしも使います!!)これほど生命が軽んじられているというのに。こんな理不尽がおこなわれているというのに。憤怒はふつふつとわいてきます。憂いに沈むこともあるけれど、沈んでばかりもいられないじゃない・・・子どもたちのことを考えると。再度いいたい! 地震と津波、これは天災です。でも、原発事故はあきらかに人災です。人災は人が作り出した災厄です。おなじ過誤をくりかえさないために、徹底的にその原因を明らかにして、責任の所在も明らかにして、防御する手だてを講じることができます。だから、
人災を天災みたいに受け入れないこと!
無力感におちいらないためにも、本来はメディアは決定権をもつ人たちの行動をチェックしなければならないはずです。決定権をもつ人=権力をもつ人です。ジャーナリズムは権力をチェックする、メディアの存在意義はそこにある。
ことばに関わる人間の「希望」もそこと深くつながっているはず。
日本のメジャーなメディアが世界中から批判されているのは、ここではないか。とりわけTVは・・・わずかな例外をのぞいて権力の出先機関になっている。その構造を日本人は受け入れてきた? はるむかしから? そんなのいやだな、わたしは。生きているかぎり。
多くの人がたたかわない? ずっと、ずっと? 命じられたことはするけれど、ひとりの個人として、おのれの心の底の声を聞いて、なにものかに抗い、たたかうことがない? たたかうという行為がいま一人の「他者」を発見すること、「他者」へはたらきかけること、「他者」との連帯=愛をも可能にすることなのに。諦観は、その愛する行為を始めないことなのに。なぜ??
この国を捨てばやとおもふ更衣 流火
むべなるかな。
これは太平洋戦争に青年将校として行った人が戦後あるいてきた結果を自問する句です。ひとりの個人が(おそらくはかつて自分を一体化させた)「国」と向き合い、それを問うところまでは進んだ。でもいま「捨てばや」と思ってみても、生きている限り、愚直にこの先も歩いていかなければならないことを多くの人は知っている。ひとりひとり、この土地を、この「日本語という島」を、このときを。だから、もうそんな「あわれ/我=彼」心情のうちに留まってはいられないわね。
*ネットから拝借した写真はわたしの大好きな北国のリンゴの花。
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