Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2024/05/26

ことばの杭としての記憶──海外文学の森へ 81

 東京新聞「海外文学の森へ 81」に書いた、ハン・ガン『別れを告げない』(斎藤真理子訳、白水社)をアップします。多くの人に読んでもらいたい文章だから。

 原稿を送ってから、数日後にゲラが送られてきて、手を入れるための時間は数日あったけれど、結局、赤字はひとつも入らなかった。そんなことは初めてだった。タイトル「ことばの杭としての記憶」は記者の方が付けてくれたものです。

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"ことばの杭としての記憶"

「尾根から裾野に向かって」植えられた「何千本もの黒い丸木」に雪が降る。すべてを包み込むように、降る。これは#幻視者(ルビ・ヴィジョネール)の文学ではないか、読み終えてそう思った。


 二十年来の友人インソンが作業中に電動鋸で指を切断した。駆けつけた作家キョンハが彼女の家へ向かう。水と餌がなくなると、あっけなく死ぬ鳥の命を救うために。時間はない。バスを待つ身に降りしきる雪は、ふわりと落ちてすぐ溶けるぼたん雪だ。

 膝までの雪を漕ぐ。薄明かり、黒い樹影、手探りで進む物語の森は暗く深い。キョンハ自身の偏頭痛と豆のお粥、インソンの母が悪夢よけに、布団の下に敷いていたという糸鋸、洞窟。


 インソンの母は幼いころ「朝鮮半島の現代史上最大のトラウマ」ともいえる虐殺事件を体験した。1948年済州島四・三事件だ。偶然にも生き残った母の身振りや声、断片的な語り、娘の心に刻まれた重たい記憶の切れ端が、薄墨色の綾布を織っていく。

 インソンとキョンハは海辺に黒い丸木を林立させて、映像作品を制作しようとしていた。一旦中止になったその計画が、この物語になったのだろうか、記憶をことばの杭として打ちこむために。読者の想像力を極限まで引き出さずにおかない小説だ。


 封印されてきた歴史的事実を調べて生前の母の不可解な姿に光をあてる娘、それを幻聴のように聞きとる友人は、物語の双子のよう。次々と浮かぶ幻影を、語りの現在が固定具となって繋いでいく。その夢と救済の物語をしなやかな日本語で読むことは「死から生への究極の愛」を受ける恩寵に満ちた体験だった。

 

 解説に引用された「光がなければ光を作り出してでも進んでいくのが、書くという行為」という作家のことばに深く頷く。日本語使用者が心得るべき歴史を詳細に記す解説も迫力がある。

 出版後ただちに多くの読者に迎えられ、早々にフランス語に翻訳されてメディシス賞(外国小説部門)などを受賞と知って、フランスにも幻視者文学の長い系譜があったことを思い出した。


2024/05/21

幻視者の文学、ハン・ガン『別れを告げない』斎藤真理子訳について

 ハン・ガン『別れを告げない』斎藤真理子訳(白水社)について、東京新聞のコラム「海外文学の森へ 81」に書きました。今日5月21日夕刊に掲載されています。

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 これは「幻視者(ヴィジョネール)の文学」ではないか、というのが筆者の見立てだ。ヴィジョネールの作家・詩人についてはフランス文学に長い歴史がある。ネルヴァルとかミショーとか。もちろんフランスだけではないけれど(ドイツの美術とか)、この作品を読んで脳裏に浮かんできたのは、そのことばだった。60年代のフランス文学全盛時代に学生だった者にとって「ヴィジョネール」はある種、特別な意味を含んだ呼称なのかもしれない。例えば梶井基次郎なんかは「ヴィジョネールの作家」と言えるだろう。

 ハン・ガンの作風は、そんな幻視の世界へ読者の視線や心を引っ張っていく──というのは深い物語の森に入っていって、ここはどこ?と思ったときに気がついたのだけれど。

左がフランス語訳、右が日本語訳

 済州島 4.3 事件。この虐殺事件は日本帝国の植民地化からの解放まもない1948年前後に、東西対立、大国間のかけひき、朝鮮戦争といった政治事情が複雑に絡まりあう状況のなかで起きた。非情なジェノサイドである。その後、軍政権が何代も続いた時代に、解明されることなく、封印されて、記憶の風化が進むかと危ぶまれる時代になった。事件が解明されはじめたのはそれほど昔ではない。

 1970年生まれの作家ハン・ガンは、『別れを告げない』の語りの中心に、この虐殺事件のサバイバー2世である映像作家インソンと、その友人である作家キョンハを置く。物語はふたりの交流と複雑に絡まる記憶を薄墨色のざっくりした布に織り込むように進んでいく。全編に雪が降る。深い雪の世界だ。

 読んでいくうちに、キョンハとインソンが、幻聴や幻視のモノクロ世界で「物語」を構成する縦糸と横糸のような関係、いや、双子のように感じられてくるから不思議だ。

 とにかく読ませる。70年生まれのハン・ガンは、おそらくそれほど遠くない未来、ノーベル文学賞を受賞するんじゃないかと確信させる作品だ。もしそうなったら、アジア人女性として初めての受賞者になるのだろう。

 昨秋から現在形で続く「パレスチナ/イスラエル」のジェノサイドが二重写しになって迫ってくる。


2024/05/10

朝顔はいま──ローズマリーもぐんぐん育って

 ずいぶん間が空いてしまった。

 4月2日に蒔いた朝顔はいくつも芽を出し、双葉を広げ、本葉も大きくなってきた。今日は5月10日だから、38日ぶりか。そろそろ蔓を絡ませるための支柱を立ててやらなくちゃな。

 ローズマリーは、伸びてきた芽を何度か剪定したので(もちろん料理に使った)、枝葉がいくつも出て、全体にこんもりしてきた。

 今日もまた、陽射しは強く、風もとても強い。気温も低めだ。午前中にベランダに出て、つい油断したら、吹きつける風で体がすっかり冷えてしまった。気がつくと時計の針は12時をまわっている。あわてて温かいお茶を淹れて早めの昼食。それでもまだ寒さが体から抜けない。5月って、そういう季節だったっけ。

 一昨日の豪雨もすごかった。ひさびさに都心に出たのだ。地下鉄からJRに乗り換えるため、市ヶ谷駅のホームに出る階段をのぼっていると、工事のような轟音が聞こえてきた。ほとんど全方位から聞こえる。一瞬「?」と思ったら雨だった。両側から吹きつける雨のしぶきで、狭いホームは真ん中にいても濡れるほどだ。それでも、お堀に張り出した釣り堀のデッキで、何人もの人が釣り糸を垂れていて、これには感心した(嘘)。

 初夏になった。