2016/05/29

アパルトヘイトとパレスティナ──クッツェーが最終日にスピーチ

昨日の速報性を重視した投稿はいったん削除して、クッツェーのメッセージがより正確な表現になるよう訂正し、再度アップします。
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 5月26日「パレスティナ文学祭」最終日、ラーマッラーのカーリル・サカキニ・センターの、立錐の余地がないほど大勢の人で埋まった屋外ステージで、J・M・クッツェーは、一週間のあいだに多く見聞きしたこの土地の人々について語った。過酷な状況のなかでパレスティナの人たちがすばらしい努力と回復力を、そして美しさとユーモアも見せていることに心を打たれたと述べ、さらに、アパルトヘイトという語について、感情を挟まずに、過不足ないことばで定義づける。



 ここで起きていることは、自分が生まれ育った南アフリカで用いられたアパルトヘイト制度とおなじではないかと問われるが、「アパルトヘイト」という語の使用については、それが何かを生み出すステップだと思ったことはないと明言。さらに、アパルトヘイトという語を使うことは、その定義についての意味論的な論争に火をつけているので、手っ取り早く分析するが、としてそれぞれの状況を共通のことばを用い、差異も含めながら展開する。そして最後に、結論は各自が出してくださいと結んだ。

「アパルトヘイトとは、人種あるいは民族に基づく強制隔離システムであり、ある排他的な、自分たちだけで定義した集団によって植民地支配を強化するために導入され、とりわけ、土地とその天然資源の掌握支配を固めるためのものだった。エルサレムと西岸では──エルサレムと西岸についてのみ語るなら──ここに見られるのは宗教および民族に基づく強制隔離システムであり、ある排他的な、自分たちだけで定義する集団によって植民地支配を強化するために導入され、とりわけ、土地とその天然資源の掌握支配を維持し、実質的には拡張するためのものだとわかる」(下線筆者)

最終日のステージへ向かうクッツェー
作家であり、文学者であり、言語学者でもあるクッツェーが述べる「ことば」の定義の明解さ、明晰さは比類ない。粉飾を排した翻訳で、彼の「ことばの硬質性」を、日本語でも表現できるようになりたいものだ。

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2016.5.31日、付記:より正確なテクストを再度アップし直しました。引用元は:http://bookslive.co.za/blog/2016/05/30/an-inflamed-semantic-wrangle-jm-coetzee-scrutinises-the-israel-apartheid-analogy-at-palestine-festival-of-literature/

I came to Palestine to see and listen and learn.  In the course of the past week I have seen and heard and learned a great deal. I come away with an enduring impression of the courage and resilience of the Palestinian people at this difficult time in their history. Also, of the grace and humour with which they respond to the frustrations and the humiliations of the occupation.

I was born and brought up in South Africa and so naturally people ask me what I see of South Africa in the present situation in Palestine. Using the word 'apartheid' to describe the way things are here I have never found to be a productive step. Like using the word 'genocide' to describe what happened in Turkey in the 1920s, using the word 'apartheid' diverts one into an inflamed semantic wrangle, which cuts short opportunities of analysis. 

Apartheid was a system of enforced segregation, based on race or ethnicity, put in place by an exclusive, self-defined group in order to consolidate colonial conquest and in particular to cement its hold on the land and natural resources. 

In Jerusalem and the West Bank, to speak only of Jerusalem and the West Bank, we see a system of enforced segregation, based on religion and ethnicity, put in place by an exclusive, self-defining group to consolidate a colonial conquest, in particular to maintain and indeed extend its hold on the land and its natural resources. Draw your own conclusions.

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2016/05/25

今日、パレスティナ文学祭のゲストはアイン・ホドヘ

今日のパレスティナ文学祭のゲストたちが訪れた場所:アイン・ホド

ここは1948年に民族浄化されたパレスティナの村だが、破壊され尽くさなかった数少ない村のひとつ。いまはイスラエル人のアーチスト・コロニーになっている。もとの住民たちは山のなかに逃げて、自分たちの家のあった場所から数分のところに新しい村を作った。


写真中央に野球帽をかぶって、こちらを見ているのがJMクッツェー

2016/05/24

パレスチナをめぐる J・M・クッツェーの姿勢

 ポール・オースターとの往復書簡集『ヒア・アンド・ナウ』に収められた2010年4月17日付の手紙のなかで、クッツェーはパレスチナについてこんなふうに述べている。備忘録をかねて書き写しておく。(p169-172)


──君がイスラエルの問題を持ち出すのは初めてだ。イスラエルについて語るのは難しいが、僕の言うことを我慢して聞いてくれるなら、絡まり合った僕の考えを秩序立てて述べてみようと思う。
 イスラエル/パレスチナのニュースに注目すると愕然としたり嫌悪感が嵩じたりして、どっちもどっちだと言って顔をそむけてしまわないよう一苦労することがある。パレスチナ人に対してはおびただしい不正が行われてきた──それはわれわれすべてが認めるところだ。彼らは自分にまったく責任のない、ヨーロッパで起きた出来事の結果に耐えることを強いられてきたし、それは──君がワイオミングをユダヤ人のためにというファンタジーのなかで指摘するように──パレスチナ人を彼らの土地から追放することを伴わない、数ある方法で解決できたかもしれない。
 しかし、起きてしまったことは起きてしまったことであり、なかったことにはできない(訳注『マクベス』)。イスラエルは存在し、まだまだ存在しつづけるだろう。イスラエル人政治家は、アラブ軍が国境にあふれ、男を虐殺し、女をレイプし、神殿の契約の箱に尿をひっかけるというイメージを呼び起こしたがっているのは分かっているが、事実としてアラブ人は、必死で努力してきたこの半世紀にパレスチナ人の土地を一平方メートルすら取り戻せていない。かりに彼らが新たな侵攻を試みたところで、成果をあげるだろうと考える公平無私な観察者はいない。

 (そして運命論ともいうべき意見を述べる。)

──敗北というものがあり、パレスチナ人は敗北した。そんな運命はひどく過酷かもしれないが、彼らはそれを味わい、本当の名前でそれを呼び、甘受せざるをえない。彼らは敗北を認めざるをえず、それを建設的な意味で受け入れざるをえない。そうせずに非建設的な道を歩めば、明日は奇跡が起きて過ちはすべて糾されるという報復主義者の夢に滋養をあたえつづけることになる。敗北を認める建設的な方法としては、一九四五年以後のドイツが参考になるかもしれない。
 究極の報復の夢と僕が呼ぶものをパレスチナ人は究極の正義の夢と呼ぶのだろう。しかし、敗北は正義をめぐるものではない、それは暴力を、より大きな暴力をめぐるものだ。公正な結着を求めるパレスチナ人の表向きの嘆願の下でくすぶる、テーブルをひっくり返す究極の夢、それがイスラエル人に見えているかぎり、彼らが交渉による結着に熱意を見せることはないだろう──熱意を見せない以下だ。
 パレスチナ人に必要なのは「われわれは負けた、彼らが勝ったのだ、武器を捨ててわれわれにできる最良の降伏条件の交渉に入ろう、もしもそれが慰めになるなら、全世界が監視するだろうと心に留めながら」と大声でいえる人物だ。言い換えるなら、彼らに必要なのは偉人であり、彼らのなかから舞台へあがってくる、ヴィジョンと勇気をもった人物なのだ。不幸なことに、ことヴィジョンと勇気となると、僕には、パレスチナ人がこれまで生み出してきた指導者たちは小人という印象がする。そして僕の推測では、なにかの偶然で聖人があらわれたとしても、すぐに撃ち殺されてしまうだろう。
 ひょっとするとパレスチナの女性たちが指揮者の座を引き継ぐ時代がやってきたのかもしれない。

(こんな意見を読むと、どっきりする人もいるかもしれない。ここを訳しながらわたし自身、とても緊張した記憶がある。イスラエルの不正を糾弾したい強い感情のため、その反転像としてパレスティナの現実を見てしまいがちだからだが、となると、現実を苛烈な、曇りなき眼で見ようとするクッツェーの視点をとらえそこねる、と思ったからだ。しかし……。クッツェー自身はイスラエルについてこう述べる。)

──パレスチナ人についてこんなふうに言ってしまったのだから、僕はさらに続けて、歴代のイスラエル政府が執ってきたその方法には醜悪きわまりないものがあると言わなければならない──民主的に選ばれた政府が、超憲法的行動以外は絶対に変えられない、欠陥だらけの、お粗末な憲法下で進めてきたこと──これはもう正真正銘、胸くそが悪くなる。レバノンとガザで先ごろ行われたことを表現することばは一語しかない。「身の毛がよだつ/シュレックリッヒ」という語だ。「身の毛がよだつこと/シュレックリッヒカイト」──醜く、厳しい語──ヒットラー主義者の語──人間を扱う醜く、厳しく、容赦ない方法を意味する語だ。より良き人間になりたければ人間の歴史が教える教訓に耳を傾けるべきであり進歩にはそれが不可欠だ、と考えたがるわれわれ誰もがしばし黙考を促されるに違いない問い、それは、歴史はイスラエルにどのような教訓をあたえてきたか、ということだ。

(分厚い高いコンクリートの壁で囲まれたパレスチナはいまや「アパルトヘイト」の名で呼ばれるようになった。アパルトヘイトの元祖、南アフリカで生きた体験を交えてクッツェーはこう述べる。)

検問所を抜ける文学祭のゲストたち
──僕は人生の大半を南アフリカに住み暮らした。そこでは大勢の白人が黒人のことを、丁重な恩着せがましさから紛れもない侮蔑、さらには赤裸々な憎悪まで、ありとあらゆる口調で話していたが、それはイスラエル人が──じつに、じつに多くのイスラエル人が──アラブ人について話すときに用いる口調だ。「善い」イスラエル人がいるように(僕はそんな人たちに会ったことがある、彼らは地の塩だ)、かつての南アフリカにも「善い」白人はいた。だがここには慰めとなる教訓は潜んでいない。「悪い」南アフリカ白人が敗北したとしても、それは彼らのやり方が間違っていると「善い」南アフリカ白人が説得して改悛させたからではなかった。かりに「悪い」イスラエル人が敗北するとしても、それは「善い」イスラエル人が彼らを恥じ入らせるからではないだろう。それはまったく違う理由からであるだろうし、われわれにはそれがまだ見えない。
 僕は「左翼」の側の人間だと思われているため、パレスチナ人のための嘆願書に署名してくれとか、彼らの大義をおおむね支持してくれと頼まれる。頼まれたようにすることもあるし、しないこともある。常に決定は心の奥を探ることを要求するものだ(下線引用者)。この点ではきっと僕も例外ではないと思う。多くの非ユダヤ系西欧知識人を含む、他の多くの西欧知識人のように、僕はイスラエル/パレスチナについては引き裂かれた感情を抱いている。
 この僕がなぜ引き裂かれた感情を抱くか、それには二つの理由がある。第一の理由は、西欧文化内のユダヤ的要素が僕という人間の形成に影響をあたえたからだ。フロイトやカフカがいなければいまの僕はいないし、あの奇人変人のユダヤ人預言者、ナザレのイエス(下線引用者)については言を俟たない。それに対してアラブ文化やムスリムの宗教思想は、その客観的偉大さがどうあれ、僕という人間の形成になんら関与していない。
 もちろんフロイトやカフカはベンヤミン・ネタニヤフにとってなんの意味ももたない。ネタニヤフはユダヤ人の過去における最悪のものの継承者だ、最良のものではない。僕には、ネタニヤフと彼の共犯者が失墜すればいい、ユダヤ右派に楯つく度胸のある新しい指導者が到来すればいい、と熱烈に思うことになんら良心の呵責を覚えない。

ラーマッラーの丘で朗読を聴くゲストたち
(さらにクッツェーは、外部の人間にはいささかショッキングな、しかし、友情をめぐる、あるいは愛をめぐる、紛れもない人間の真実を──アパルトヘイト下の南アフリカで、多くの人たちが人間関係を引き裂かれ、常に選択不能なものの選択を強いられつづけた社会で、長いあいだ生きた者として──はっきりと言語化していく。ここまで突き放して、明言できる人も少ないかもしれない、とわたしなどは、湿気の多いアジアの土地で思うのだ。言外の意を汲み取ることをよしとするアジアは、この辺の問題になると、たいがい口を濁してしまいそう。彼が友情について、愛について出した結論は、ぜひ直接本にあたってみてほしい。
 そしていま、クッツェーはパレスティナ文学祭に招かれ、ゲストとしてパレスティナを訪れている。47歳のとき彼はエルサレム賞を受賞し、イスラエルに赴いた。76歳にしてパレスティナの地を踏んだ彼は、いま何を感じ取り、何を考えているのだろう。26日には朗読をするというが、どんなメッセージを発するのだろう。眼が離せない。)

パレスティナ文学祭のようす

facebook で、Palestine Festival of Literatureのサイトに、文学祭のようすが写真でつぎつぎとアップされています。こちらにも少し。参加者のなかにJMクッツェーの姿もあります。
バリー・ロペスがパレスティナ文学祭のオープニングで
「わたしはいま、離れるつもりのない人たちと共にあることを知っている。その人たちの、不正への異議申し立てはあまりに深いため、彼らは腕と腕を結び合って互いに離れないようにするのだろう」と述べた

岩のドームを訪れる文学祭のゲストたち
ラジャ・シェハデーが文学祭のゲストをラーマッラーの丘へ案内した。精力的に歩き回ったあとここで立ち止まり、シェハデーが自作の『Palestinian Walks』から朗読した。その後、みんなに冷たい西瓜が供された

アル=アクサ寺院の内部へ入ったゲストたち
ラーマッラーからカランディアの監獄建築を通って移動するゲストたち




2016/05/20

「ピンネシリから岬の街へ」がユング・ジャーナルに載りました

 ジョン・クッツェーの『青年時代』に出てくるエピソードと、ケープタウンを訪ねたとき思った故郷の山ピンネシリのこととが、なぜか突然つながって、一篇の詩になりました。それがウェブマガジン「水牛のように」に掲載されて、やがて詩集記憶のゆきを踏んで』(インスクリプト、2014刊)に収められました。

「ピンネシリから岬の街へ」

この詩が詩人の田中庸介さんのお目にとまり、「ユング・ジャーナル」に掲載されました。2016年冬号です。日本語のオリジナル・バージョンと英訳バージョンが左右見開きページにならんでいます。訳者は田中さんと、日本文学の研究者であり翻訳家であるジェフリー・アングルスさん。お二人に深く感謝します。
 ネット上のユング・ジャーナルはこちら! 全4ページの最初のページをここで見ることができます。

2018.6.13付記──いま見るとここで英訳の詩が読めるようになっていました。

2016/05/13

パレスティナ文学祭にクッツェーが参加

5月21日から26日まで開催される「パレスティナ文学祭」に、J・M・クッツェーが参加するようだ。パレスティナの作家や詩人の名前に混じって、モロッコ出身のライラ・ララミや、他にもアイルランド系の作家、コラム・マッキャンの名も見える。


 場所は、ラーマッラー、ベツレヘム、ガザ、ハイファ、ナブルスなど、あちこち変わる。16日には、いつどの会場で誰が参加するのか発表されるらしい。でも、開催は21日って、もう来週だよ!

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2016.5.14付記:クッツェーが「エルサレム国際作家フェスティヴァル」への参加を断ったのはちょうど2年前のことだ。パレスティナ/イスラエル問題の和平をめぐる進展がみられたら参加する、とそのときクッツェーは述べたと伝えられた。そのときの記事はこちらに。
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2016/05/12

『鏡のなかのボードレール』とフロート・コンスタンシア

Groot Constatia の入口
 さわやかな5月の夕暮れ。来月刊行予定の、翻訳付きのエッセイ『鏡のなかのボードレール』(共和国刊)の念校に、みっちり赤を入れて返送した。(編集者さん、すみません!)
 いつもなら、ほとんどふらふらになって、電話でピックアップを頼むところ、今日は風もなく、まぶしい光のなかを、散歩がてら、ゲラを入れた大きな封筒を抱えて郵便局まで行った。斜めに差し込む日差しが思いのほか強く、家に帰ってから、脱力してワイン三昧!

右奥がテイスティング・ルーム
 2011年11月に、クッツェーの自伝的三部作のリサーチに訪れたケープタウンで、亡霊のようにボードレールの一篇の詩が脳裏に浮かびあがった。その詩に出てくる「コンスタンシアのワイン」とは、ここのワインだったのかと驚いたワイナリー、それが「Groot Constantia/フロート・コンスタンシア」だった。

ホワイエの壁にかかった絵
拙著『鏡のなかのボードレール』は、『悪の華』からいくつかの詩篇を訳出しながら、話は時空を超えてあっちへ飛び、こっちへ飛び、テーマも19世紀象徴派詩人ボードレールの作品が日本語へ翻訳された歴史や、日本の詩人たちのボードレール詩の受容などを経て、最後はふたたびクッツェー作品に出てくるケープタウンへと戻っていく。

 キーパーソンはボードレールの「ミューズ」だったジャンヌ・デュヴァル、カリブ海生まれといわれる肌の黒い女性だ。
 小ぶりながら、掌にすっぽりおさまる pomegranate みたいな、握りしめると grenade のような本になるといいな!

2016/05/10

五月病を吹き飛ばす!──シスネロスの『マンゴー通り、ときどきさよなら』


早稲田文学 2016年夏号」の特集:「五月病を吹き飛ばす! 新入生にすすめる本」で、サンドラ・シスネロスの『マンゴー通り、ときどきさよなら』について書きました。
 英語のオリジナル版とならんで、シスネロスが敬愛するエレナ・ポニャトフスカのスペイン語訳もとりあげていただきました。英語、スペイン語、日本語、と三冊ならぶと、あらためて、アメリカスと日本を結ぶ太平洋上の三角形ができて、なんだか面白い。

 日本語訳は、図書館にはたいがい入っているし、まだ古書で入手できるけれど、そろそろ文庫化による復刊を期待したいところです!
 
 今朝、facebook を見ると、ちょうど昨年の今日、こんな書き込みをしていたというリマインダーがアップされていて、ちょっと驚きました。こちらにも貼り付けておきます。しみじみ……。

「詩人の長田弘さんが亡くなられた。享年75歳。1996年にサンドラ・シスネロスの『マンゴー通り、ときどきさよなら』と『サンアントニオの青い月』(いずれも晶文社刊)を翻訳するきっかけをつくってくださったのは、ほかでもない、長田弘さんだった。まだ駆け出しの翻訳人としては、まことにありがたいご指名だった。直前に出した第三詩集『愛のスクラップブック』(ミッドナイト・プレス刊)を読んでのご感想、ご判断だったようだ。ご冥福をこころからお祈りします」

2016/05/01

記憶の鈴蘭シャッフル

 スギ花粉もおさまって(ヒノキの花粉は幸いあまり苦しくない)、寒くもなく、暑くもなく、ようやく心身ともに「ほっ!」とできる季節になった。見ると、かわいらしい鈴蘭がちらほら、うつむきながらベルを連ねている。ほのかな香りが建物の入口にふわっと立ちのぼるこの時期は、一年のうちでもいちばん好きな季節だ。
 
 いまでこそ、東京の庭にも鈴蘭が咲くようになったけれど、わたしが上京した1968〜70年ころは、鈴蘭といえば北海道の花だった。札幌の花屋さんが切花を航空便で送るサービスをやっているからといって、母が毎年のようにアパートまで送ってくれた。それを持って、当時、桜上水に住んでいたジャズピアニストの菊池雅章さんのお宅まで、追っかけファンだったわたしは、厚かましくも届けにいったっけ。
 札幌の花屋さんのサービスは、切花から根付きの株になって、これは1990年代になってからだけれど、第三詩集の帯を書いてくださった矢川澄子さんに札幌から送った記憶がある。黒姫に住んでいた矢川さんから「無事に根がつきました」とお便りいただいたのはいつだったか。

 バルザックの作品に『谷間の百合/Le lys dans la vallée』というのがあるけれど、あれをそのまま英語にすると Lily of the Valley で「鈴蘭」のことになる。そう知ったのはいつだったのか?

 アン・バートンが歌っている曲:Sweet William にも出てきたなあ──と記憶はすでに故人となった人たちの影と絡まって、とめどなくあちこちに飛ぶ。香りがかもしだす、記憶の鈴蘭シャッフルだ。