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2025/01/01

あけましておめでとうございます

 今年はゆっくり(自社比)歩いていこうと思います。よろしくお願いします。

 昨年11月に日経新聞のコラム「こころの玉手箱」に書かせていただきました。有料記事ですが、ここにリンクを貼っておきます。
 タイトルは「クッツェーと格闘した36年」となりました。おもに、J・M・クッツェーの『マイケル・K』に出会ってからほぼ36年にわたる翻訳作業について書いたからでしょう。


・初回は、1988年に高田馬場の洋書店ビブロスで買った『マイケル・K』の原書と作家のポスターについて。

・次は、1974年に大学最後の冬休みに初めて国際線の飛行機に乗ってパリ、ロンドン、南仏へ行ったときの、大失敗。

 ・そして、クッツェーからもらったフルーツケーキの入った赤い箱がブレスレットボックスだったこと。

・ケープタウン空港でビーズ細工のチョーカーとブレスレットを買った土産物店の名前に、カレン・ブリクセンの有名な作品名が使われていたこと。

・最後が、10歳のとき母から手渡されたL・モンゴメリの分厚い一冊『赤毛のアン・続赤毛のアン』、文庫化された最終巻『アンの娘リラ』まで夢中で読んだ中学生時代。そこから始まった北米、ヨーロッパ、アフリカ大陸を経る「学びほどき、学び直す/アンラーン」の旅の帰還が、認識地図のなかで明らかになった──わたしが学んだ日本の歴史教育が教えなかった──北海道が旧植民地だったこと。

 2024年はクッツェーが30代に書いた『その国の奥で』の新訳、22年前の訳書マリーズ・コンデの『心は泣いたり笑ったり』の復刊、そして『マイケル・K 』からのクッツェー翻訳を振り返るコラム連載で、大きな一区切りになりました。

 2022年2月に始まったウクライナ・ロシアの戦争は先が見えず、2023年10月からのイスラエルによるパレスチナのジェノサイドを世界は止めることができず、想像を絶するスーダンやチャドの死者数は滅多に伝えられることがない。

 今年はどんな年になるのやら、ですが、とにもかくにも、この世界にあるかぎり──ハン・ガンが言うように──人の心と心をつなぐ糸を紡ぎ、わずかでも暗雲を払うような仕事をしたいものです。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。

2024/07/13

『その国の奥で』が空を写して、『マイケル・K』が電子書籍になる

続きです!

 J・M・クッツェー『その国の奥で』(河出書房新社)が、あるハプニングで予定より5時間ほど遅れて、昨日の午後に篠突く雨のなか届いた。 

 カバーの映像が出てから実物を手にするまでの待ち遠しさは、何冊訳しても馴れることがない。ネット環境のなかった頃より、待ち遠しさはむしろ加速されたんじゃないかとさえ思える(いや、気が短くなっただけか──🐐?? 今日は晴れたので屋外で撮ったら、なんと、空が写り込んでしまった、、、左の写真の左側)

 とはいえ2000年までは──とつい昔語りになるけれど──編集者とじかに会って「みほん」を手渡されるとき、初めてカバーの絵を目にすることが多かった。実物を目にするまでは、ファクスで送られてきたぼやけた画像から想像をたくましくするばかりで、ひたすら待つしかなかった。筑摩書房から出た初めての訳本『マイケル・K』を受け取ったのは、1989年の初秋だったか。国立のロージナ茶房で、何冊か入った袋がどさりとテーブルに置かれたときの感動は忘れない。 

 でも思えばあのころは、待つ時間はいまよりずっとゆるやかに、おだやかに流れていたような気がする。編集者ともじかに顔を合わせて、ゲラの引き渡しをしながら、細かな疑問をその場で解決するといった感じで作業は進んだ。人と人がじかに会ってことばをかわし、いろんなことを決めていた時代。ネット時代になって、それが簡略化されて、宅急便や郵便でやりとりすることが多くなった。いろんなことが省かれて、とにかく早い。連絡事項や決定事項が記録として文字として残るので、これは非常に確実。疑問などもすべてメールで即座に解決することが多い。備忘のためにも、齟齬をきたさないためにも、便利は便利。でも……。

 カバーデザインをPDF で前もって目にするようになって、それから実物が出来上がってくるまでの短からぬ時間は、まだかな、まだかな、と焦燥の念に駆られるようになったんじゃないかとやっぱり思うのだ。なんでも早くできる時代に、待つことに不慣れになり、ちょっと疲れて、頭のなかで少し横に置いたころ、どさりと届く──という感じになった。

『その国の奥で』を訳していて思った──J・M・クッツェーの作品を翻訳するのは、これで何冊目だろう。共訳を含めると軽く10作品は超えるかも知れない(数えてみると12作か)。南アフリカを舞台にした作品を、クッツェーは長短篇をすべて含めて9作書いているが、そのうち8作を訳したことになる。作品の背景や時代のコンテキストを重視する訳者として、南アフリカの事情を、はしょらず、正確に、ニュアンスを細部まで伝える努力をしてきたつもりだけれど、責務は果たせただろうか。

 とりわけジョン・クッツェーの生きた時代とぴたりと重なるアパルトヘイト時代の政治制度の内実や、人種による微妙な人間関係の心理をめぐる細部は、どんどん大雑把にまとめられて歴史の彼方へ葬り去られていくようだ。翻訳者も解説者も編集者も校閲者も、勘違いや見落としを最初から疑って、歴史的事実を正確に伝えるよう努力しなければいけない時代になった。
(たとえば、南アフリカで国民党が政権を奪取したのは1948年、1960年代ではない。1948年は時代の分岐点で、アパルトヘイト制度という人種差別制度が公然と開始されたのはこの年だこの年は少年ジョンがケープタウンから内陸のヴスターへ引っ越した年でもあった。)

 『マイケル・K』はそのアパルトヘイト末期を舞台に描かれた小説だ。1983年に発表されて、この年のブッカー賞を受賞した。1989年の初訳が出たころは、日本ではバブル経済で南ア産のプラチナを若い女性が買い漁った時代でもあった。

 現在入手可能なバージョンである岩波文庫『マイケル・K』が7月27日(7月25日に早まりました!)、電子書籍化される。単行本が出たのは35年前だ。2006年にちくま文庫に入り、2015年に岩波文庫になり、9年ごとの「変身」を重ねて、ついに電子書籍になる。カフカの『断食芸人』『審判』とも響き合うこの作品が、カフカ没後100年に、またまた変身して新世代の読者に届くのは訳者冥利に尽きる。

 J・M・クッツェー作品が初訳から一周、二周して、新しい読者と出会ってほしいものだ。

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2024/07/12

J・M・クッツェー『その国の奥で』のみほんが届いた

 J・M・クッツェー『その国の奥で』(くぼたのぞみ訳、河出書房新社)

 J・M・クッツェーの二作目に当たる『その国の奥で In the Heart of the Country』は、20世紀めの南アフリカ奥地で、外部世界から孤絶した農場を舞台に展開される。非常に実験的な作風は初作『ダスクランズ』を凌ぐほど。1~266の断章から構成される、孤独な、マグダという女性の暗い情念と観念と幻想の物語だ。

 1977年にまずアメリカで(タイトルを一語変えて)、次いでイギリスで出版され、翌1978年に南アフリカで、会話の部分がアフリカーンス語の二言語バージョンとして出版された。じつはこの作品が、アメリカ、イギリスなど北半球の英語圏での実質的デビュー作だったのだ。その経緯についてはここに詳しく書いた

 新訳『その国の奥で』のカバーは、版元サイトにも、ネット書店にも既に出ていて、このブログの右上にも少し前からアップされている。でもカバーの色が黒ではなく、青みがかったダークな色だと知ったのは今日みほんが届いたときだ。そのインクを混ぜたような黒色空間(たんなる平面には見えない)に浮かびあがる、もの言いたげな薄紫の花と花びら、その濃淡がかもしだす幻想世界、キリッとした白い文字。

 アメリカ移住がかなわず、1971年、無念を断ち切り船に乗って南アフリカへ帰国したジョン・クッツェーが、このまま「地方」に埋もれてなるものかという意気込みで『ダスクランズ』(1974)を発表し、その次に発表したのが、この『その国の奥へ』(1977)だった。さらに広い読者層を獲得したいという野心と、実験精神にあふれた若き作家の熱いエネルギーが行間からほとばしる作品なのだ。訳しながら時々くらくらっとなった。詳細は本書「訳者あとがき──J・M・クッツェーのノワールなファンタジー」を!



帯の文句がまた比類ない。きっちりと内容を伝える表の帯。

植民地支配の歴史を生きたものたちの、人種と性をめぐる抑圧と懊悩を、ノーベル賞作家が鮮烈に描いた、濃密な、狂気の物語。語りと思考のリズムを生かした新訳決定版!!!

 帯裏にはマグダの独白が具体的に引かれている。

「父さん、許して、そんなつもりじゃなかった、愛してる、だからやったの」
              

 装画は熊谷亜莉沙さんの作品。送られてきた最初のラフを見たときの、戦慄にも似た深い感覚は忘れられない。作品と挿画の、火花を散らすような、比類なく幸運な出会いだと思う。


 バックカバーの裏の折り返しにも注目してほしい。「その国の奥で」という文字といっしょにさりげなく、掘り抜き井戸の写真が使われているのだ。訳者のたっての希望で、最後の最後に入れていただいた。南ア奥地の半砂漠地帯カルーで農園を営むためには絶対に欠かせない掘り抜き井戸。風車の力を使って水を汲みあげ、貯水池に貯める。その水で農場の生き物たちは生を営む。空の部分をぼかした見事なアレンジだ。ブックデザインの大倉真一郎さん、ありがとうございました。


(思えば掘り抜き井戸は『マイケル・K』にも頻出するが、物語の最終場面にも象徴的なかたちで使われていた。)

 そして終盤、あまりにノワールで妄想的な物語世界に半分持っていかれそうになった訳者に、最後まで根気よく伴走してくれた編集の島田和俊さんに深くお礼をもうしあげる。


************

(この続きと、『マイケル・K』の電子書籍化については次回に!)


 

2022/12/02

1983年『マイケル・K』がブッカー賞を受賞したときのジョン・クッツェー

 めずらしい動画がアップされていました。1983年、J・M・クッツェーが『マイケル・K』で最初のブッカー賞を受賞したときのようすです。全体で50分あまり。クッツェーはロンドンで行われた授賞パーティには出席していませんが、撮影クルーがケープタウンまで行って録画しておいた動画が流されています。

 ラフなシャツ姿の43歳のジョン・クッツェーが──おそらくケープタウン大学の研究室でインタビューを受けたのでしょう──声も若々しく、自作について語っています。

 最初は『マイケル・K』の作品紹介があって、作品からクッツェー自身の朗読や短いインタビューなどが映像にかぶさります。『マイケル・K』という作品の背景になった南アフリカの状況を、クッツェーが具体的に語っています。作品内には主人公が白人か黒人かということは直接書いていないし、時代設定は'80年代末だけれど、列車に乗るにも、移動するにも、結婚するにも、その度に、公的機関からあなたの人種は何かと問われる……と。


 いま、こうして極東の日本という土地でこの1983年の映像を見ると感慨深いものがあります。本邦初訳のクッツェー作品として『マイケル・K』が出版された1989年、この作品を「マジック・リアリズム」だと評する文が雑誌に掲載されました(何度か書いてきましたが)。いま読めば「リアリズム」そのものなんですが。でも、当時の日本の文芸ジャーナリズムは、おそらく、その意見を疑うことさえなかったのではないか。それほど南アフリカの社会的状況の内実は伝わっていなかったし、バブルにわく日本社会は南ア産のダイヤやプラチナを買い漁る人たちがいる時代だった。「見る目が曇っていた」のではないかと思います。むしろ「マジックリアリズム」なのだとレッテルを貼ることで「わかった」ような気になる状況だった。

 南アフリカといえば人種差別制度=アパルトヘイトの国だ、ということだけは伝わっていたけれど、その具体的な内実は分からなかった時代、それが1980年代末の日本だった。でも、この状況は変わったかな? 南アについては情報は入るようになったけれど、レッテル貼りで理解したつもりになることは加速度的に進んじゃったのではないかなあ(愚痴です)。

 さて、上の動画は、さらに他の作家の作品について紹介があって、審査委員長(フェイ・ウェルダン)によって受賞作が発表されます──彼女はしっかり「クッツェー」と後半部の長音「エー」にアクセントを置いて発音してますねっ! (ただしThe Life and Times of Michael Kと The がついてしまってるけど💦)

 代理の人が賞金(多分小切手)を受け取り、司会者がクッツェーのことを「シャイというより self-effaceing(表に出たがらない)人なのだ」と述べて、後半のインタビューが始まります。およそ48分からです。

 どうぞお楽しみください!

 ちなみに、1983年にはまだ「ブッカー・マコンネル賞」という名前だったんですよ〜〜。舞台背景に明示されていますが。

2020/12/11

訳者あとがきってノイズ?──『ブルースだってただの唄』復刊を祝って


 この本(傍点)はあとがきを書くために翻訳した──と冗談まじりに口にしたのは、忘年会には少し早い、楽しい酒席でのことだった。するとテーブルの端から「訳者あとがき」について原稿依頼が飛んできた。締め切りまで間があったので、それは頭の引き出しにしまい込まれた。ところが、冬だというのになにやら薄暗がりでつぶつぶが芽を出して、光を放ちはじめた。あれはひょっとしたら、口から出まかせではなくて本当だったんじゃないか、本当にあとがきを書くために翻訳したんじゃないのか、とつぶつぶが問いつづけるのだ。

「この本」とは昨秋、新訳したJ・M・クッツェーの初作『ダスクランズ』(人文書院刊)のことだ。そういえば翻訳作業のスケジュールでは、あとがきを書く時間を二カ月と最初から見積もっていたんだ。約四十枚と編集担当者にも伝えてあったじゃないか──増えたけど。仕上がった訳をそばに寝かせて、あとがきを書いた。取り憑かれたように、二十四時間そればかり。あそこはやっぱりこうかもしれない、ふと浮かんだことばを書きつけるため、真夜中にがばっと起きあがってキーボードに向かう、そんな日がつづいて「J・M・クッツェーと終わりなき自問」がぼんやりと形になっていった。


 二〇一七年三月下旬にクッツェー研究の第一人者デイヴィッド・アトウェル氏が来日して事実関係をあれこれ確認できて、あとがきはとてもすっきりしてきた。だが、それにも増して自分でもはっきりさせたかったのは、一度日本語になった作品をあらたに訳し直す理由である。この作家は一九七四年に『ダスクランズ』を出してから現在までどんな作品を書き継いできたか、その作品群を一望にするとなにが見えてくるか、それは書いてみなければ分からなかった。クッツェーという作家を日本に紹介することになった拙訳『マイケル・K』の出版からでさえ、ほぼ三十年が過ぎている。作家を見る視点を日本の読者、世界の読者がどのように変化させてきたかも探りたかった。寝ても覚めてもとはこのことか、と思いながら遅い春の日々を送った。さて。


 翻訳はね、コンテキストが生命よ!──と藤本和子さんはいった。八〇年代初めにわたしが翻訳をやろうと思ったときのことだ。きっかけは、これまでにも何度か書いてきたが、「女たちの同時代 北米黒人女性作家選 全七巻」との出会いだった。その編集翻訳をやってのけたのが藤本さんと、朝日新聞社図書編集室の故・渾大防三恵さんだ。一九三九年生まれの藤本さんは、この仕事を三十代後半から四十代にかけてやったことになる(驚嘆!)が、そのとき『塩を食う女たち』という黒人女性の聞き書き集も出している(岩波現代文庫に入ったのは本当に嬉しい)。


 選集には「女たちの同時代」とあるように、同時代を生きる黒い女たちの圧倒的な声があった。その力強さと存在感に打ちのめされて、貪るように読んだ。知らないうちに自分は「衰弱」していたのではないかと気づいたのだ。気づけばあとは回復をめざすのみで、そのパワーをもっぱらアフリカン・アメリカンの女性たちの作品群からもらったのだ。

 怒涛の六〇年代末から七〇年代初めにかけてたまたま学生時代を送り、四苦八苦しながら子育てのトンネルに入り、出口に光が見えたのはこの選集と『塩を食う女たち』を読んだときで、あれはわたしにとって生き延びるための文学だった、といまも思う。だから翻訳紹介をするときは呪文を唱えるように、コンテキスト、コンテキストとつぶやいてしまう。藤本さんからは、ただの紹介屋にはならないで、とも言われた記憶がある。わたしがそう受け止めただけかもしれない。ところが。


「あとがきはノイズだ」と言う人がいると聞いた。唖然とした。

 アフリカから出てくる文学や、アフリカにオリジンをもつ作家を紹介するとき、その背景を解説するだけでかなりの分量になる。たとえ詳細に書いても、受け手の網の目が粗いときは思うように伝わらない。そんなもどかしさを体験してきた者に「あとがきはノイズ」とはびっくりするような主張だった。そこからは、あとがきなどなしに読者は作品とじかに接する方がいいと言う「正論」が響いてくる。作品の真価は作品のみで理解されるべきだと言い切れる強さがにじみ出てくる。だが、その強さはどこからくるのだろう。

 目を凝らし、耳をそばだてて観察すると、おぼろげに見えてくるものがある。「あとがきノイズ論」を支えているのは、かりにそこにあっても、目に見えるものだけが存在して見えないものは無、と断言できるマジョリティゆえの強さではないのか。ラルフ・エリソンの小説『見えない人間』を思い出す。人間以下のものとして無視されてきた存在が書くことで可視化され、書かれることで存在を主張しはじめる、そのことをこのタイトルは示している。


 敗戦後、日本に入ってくる情報は圧倒的にアメリカから、となった。それを世界の情報をめぐる「非対称性」と言ってみる。わかったようで実感の伴わない表現だ。でもほら、バドワイザーに訳註はいらないけど、チブクビールはどう? ワシントンといえばすぐに当たりがつくけど、アブジャと言っても「?」となるでしょ。かく言う筆者もメルカトール図法の歪みから頭を解放するため、就職したての娘に地球儀を買ってもらったのは何歳の誕生日だったか。それを見て、おお、イスラム世界のなんと広いことか、とため息をついたのだった。そして世界を、地球上の人間の営みの全体像を、地球儀に乗って爪先立ちするつもりで想像してみるのだ。眼球の表面にごしごしと、懐疑というブラシをかけて。


 アフリカ大陸南端で生まれた作家の作品を三十年前に翻訳しはじめたわたしは、「アフリカに文学あるの?」という問いに出くわすたびに絶句してきた。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェのTEDトーク「シングル・ストーリーの危険性」が世界を駆けめぐったころから、さすがにそんな、あからさまに差別的な質問を面と向かって言う人は少なくなったけれど。アフリカ大陸は、面積だけでも日本が約八十個すっぽり入る広さで、国の数はゆうに五十を超えるのだ。どれほど多種多様な人たちが多種多様な文化をいとなんできたか、いるか。「暗黒大陸」として学んだ者(わたし)が蒙を啓かれることに遅すぎはしないのだと、今日も地球儀を引き寄せる。


 なにをわたしは言いたいのだろう? 文学作品を日本語に訳して出版するプロセスで、あとがきがノイズだと言えることが、どれほど特権的かということだ。もちろん場合にもよるが、そこにはいちいち説明しなくても、読者がすでに作品の背景や文化をある程度知っている、あるいは知らなくていい、という前提が暗黙の了解としてある。それがいかに特権的なことか。イギリスの文化、フランスの文化、と言い換えてもこれはある程度あてはまるだろう。日本とアメリカとヨーロッパだけが「世界」の中心ではないのだと陳腐なことをまた言わなければならないのだろうか。でも「欧米」とひとくくりにする乱暴な物言いが「あとがきノイズ論」では生き生きとよみがえるのだ。


 一歩踏み込んで、もう少し奥行きをもって見てみると、そのアメリカでさえ、たとえば黒人文学と呼ばれるものは、ある程度の歴史的、社会的背景を浮上させる解説がなければ伝わりにくいことがわかるだろう。その事実と早い時期から向き合ったのが先述した「北米黒人女性作家選」だった。全七巻の各巻に、丁寧な解説と日本で書くことを仕事とする女性たちの「応答」の文章が添えられていた。ントザキ・シャンゲの『死ぬことを考えた黒い女たちのために』の巻末には、先日他界した石牟礼道子さんがエッセイを寄せている。つまり、読者の社会内部の「見えない存在」を照らし出す網が、国境や言語を越えるつながりとして準備されていたのだ。


 そこには、六〇年代南部アメリカの公民権運動、都市部の貧困対策として子供たちに給食を提供することから始まったブラックパンサーの運動、それらをくぐり抜けて滋味豊かな果実として生み出された黒人女性作家たちの作品と、その全体像を伝えたいと腐心する編者たちの熱意があった。通信手段は郵便、電話、テレックス等に限られ、インターネットはおろかファクスさえない時代だ。作品を日本語に移し替えて読者に手渡すときの立体化、コンテキストの可視化への努力がそこからはひしひしと伝わってくる。アフリカン・アメリカンのアート作品を全巻にあしらった美しい平野甲賀氏の装丁によるこの選集は、出版文化賞にあたいするきわめて先駆的な仕事だった。当時のアカデミズムには逆立ちしてもなし得ない性質の仕業だったのではないか。しかし、時代はバブル期へ向かい、その後の流れはアメリカ発のミニマリズムへと舵を切り、他者と関わらないことを強く決意する端正な文体の小説が読まれる時代へと向かった。


 いま、顔を黒塗りするミンストレルショーに差別のニュアンスがあることが指摘される時代を迎えて、ようやく奴隷制をめぐる歴史は過去のものではないと認識されるようになったのだろうか。だとすれば、これまで翻訳文化が「主に」追いかけてきたアメリカは「白い」アメリカだったと知るべきだろう。それが認識の地図を激しくゆがめてきたことも。


「訳者あとがき」はノイズなどではない。とはいえ、どれほど調べて書いても、それに代価が支払われるわけではなく、やればやるほどボランティア性が高くなる作業だ。それでも、訳者あとがきは、そばにあるのに見えなかった世界を示す広角レンズになる。広い視野から世界を見渡すパースペクティヴ装置にもなる。「コンテキストがすべて」とは、そのことを言っているのだろう。それは日本語文学に風通しのよさを吹き込む「同時代性」をも指差している。

 それで『ダスクランズ』の新訳とあとがきはどうなったかといえば、視界は良好、クッツェーの現在地を伝える最新作『モラルの話』を、なんと英語のオリジナルより先に出すため翻訳中(二〇一八年五月刊行)、とお伝えしておく。


(岩波書店「図書」2018年5月号掲載)

2020/05/13

ディアス・ビーチのJ・M・クッツェー

これで何度目かなあ、と思いながら2000年のJ・M・クッツェーのインタビューを見る。オランダのテレビ局が制作した「美と慰めについて/Of beauty and consolation」というシリーズ。最初のほうは、ケープタウンのホテルでのインタビューで、音楽的な美しさがあると著者自身がいう『マイケル・K』の最後の部分を、オランダ語で朗読するクッツェー。(このブログに埋め込むのは、たぶん、1度目2度目、そして今回の3度目)
 


(以下のメモは備忘のため)

「書くことについて/on writing」
世界をありのままに把握してそれをある枠組みのなかに置き、ある程度まで手なづけること、目標としてはそれで十分/grasping the world as it is and put it within a certain frame, taming it to a certain extent, that is quite enough for an ambition」

52:40
人は癒しのために美が、自然の美が必要なときがある、なにか小さな、花とか、あるいはワイルドで大きなここの風景のようなものによって、自分の、動物としてのオリジンと結びつくような自然の美が。。。

備忘録として少し書いておくが、最後のほうで、『鉄の時代』に出てくる「天国」の部分に関連させて質問している。クッツェーは「死」「神」「天国」といった概念について「考えていく」と明言していた。

1:15:00
ヨーロッパの伝統で人が神に「不死の生」をさずけてほしいと願ったのは誤りだった。

2020/05/01

河出文庫版 J・M・クッツェー『鉄の時代』

植木鉢にハーブの種など蒔いていると、予定より早く入手可能になっていました。河出文庫版のJ・M・クッツェー『鉄の時代』です。

 最初、カバーを見たときはびっくりしましたが、1990年に出たハードカバーとならべてみると不思議な共通点が浮かび上がることに気がつきました。ともに女性のプロフィールなんです。

右:Secker&Warburg 版 (1990)
原著の表カバーは打ちっぱなしのコンクリのような、木製のような、壁の上に何枚かのガーゼを重ねて、茶色の染みのようなものをにじませ、遠くから見るとギリシア彫刻の、おそらくデメテルの顔が、ぼんやりと浮上するようになっています。裏表紙もまた女性の写真で、顔の上にガーゼが置かれています。
 今回の文庫では、そんな「病んだ人間」を思わせる「ガーゼ」こそ使われていませんが、また別の要素が加味されて……まあ、カバーの話はこのくらいにして。

1990年版ハードカバー裏
これでクッツェー作品の文庫化は、2003年に集英社文庫『夷狄を待ちながら』、2006年にちくま文庫『マイケル・K』(その後 2015年に岩波文庫)、2007年にハヤカワepi文庫『恥辱』に続いて、4作目になります。

 舞台はアパルトヘイト末期のケープタウン、元ラテン語教師だったミセス・カレンが娘にあてて遺書代わりに書く手紙、という形式の小説です。2008年に池澤夏樹個人編集の世界文学全集の第1期に初訳として入りました。翻訳作業が作家の2度目の来日と重なって、膝詰めで疑問点を解決できたのは本当にラッキーでした。そんな裏話は、このブログ内にも<『鉄の時代』こぼれ話>のタグをクリックするとたくさん出てきます。

 作家クッツェーがまだケープタウンに住んでいたころの骨太の作品です。動乱の時代に目の前の現実にどこまでも真摯に向き合おうとする、そんな緊張感がみなぎった作品はこの「コロナの時代」を生き抜くための救命ボートにもなるでしょうか。なるといいなと思います。今回、文庫化にあたって新たに「訳者あとがき──よみがえるエリザベス」を書き下ろしました。J・M・クッツェーの現在地と、彼の作家としての世界的評価についても書きましたので、ぜひ!☆
 

2020/01/18

ニューズウィークにも掲載されました

今日は朝から雪がちらちら。そしてだんだん本格的に降ってきて、風もでてきて雪の華が舞っています。窓ガラスを透して見る雪の華は美しいけれど、やっぱり寒い!

「物語はイズムを超える」翻訳家・くぼたのぞみと読み解くアフリカ文学の旗手・アディーチェ

Torus に載ったインタビューがニューズウィークにも掲載されました。タイトルが少し変わっています。「アフリカ文学の旗手」とあるので、「旗手」という語を調べてみました。手元の辞書にはこうあります。

 旗手:  団体しるししての旗を持つ役目の人。
      ②ある運動の先頭に立って活躍する人。

 ふむふむ。グループの先頭に「代表」として立ち、そのグループのサインのような旗を持つ人のことなんですね。たとえばオリンピックの開会式のときに各国の選手団の先頭に国旗を持って歩く人みたいな。
 だとしたら…………アディーチェ自身は、そう呼ばれることをどう思うだろうなあ、という素朴な疑問がちらりと脳裏をよぎり、「アフリカ文学」というくくりについても再度、考えました。

 こんなふうにタイトルはTorusのときから少し変わり、写真も1枚、入れ替わっていますが、インタビューの内容に変化はありません。最後のほうにクッツェーも出てきて、クッツェーとアディーチェが訳者にとって「補完しあう」関係であることもしっかり書かれています。より多くの人に読んでもらえると、嬉しい!


2020/01/02

エンプティネス──なにもない/ほっとする

 この写真はいったいなにを撮ったのか分からない……と装幀家に言われた写真がある。J・M・クッツェーの自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代──辺境からの三つの<自伝>』のカバーになった写真だ。装幀家とは間村俊一さんのことで、その発言を訳者に伝えてくれたのは編集者のMさんだった。

 忘れないうちに書いておこうと思う。

 写真は2011年11月にケープタウンへ出かけたときの1枚。内陸の町ヴスターをめざした日に、国道1号線を車で走っていたとき撮ったものだ。
 道の両側は見わたすかぎりのフェルト(平地というアフリカーンス語)、遠く低い山なみが続いていた。石ころだらけの渇いた赤土に、背の低いブッシュがまばらに生えている。それを見て、ああ、これがマイケル・K が旅した土地かと思った。J・M・クッツェーの『マイケル・K』の主人公は、ケープタウンからプリンスアルバートまで徒歩で行く。途中で母親が死に、軍に捕まって強制労働に駆り出されてからは、検問所のある幹線道路を避けて、ひたすら荒野を歩く。

textpublishing 版『マイケル・K』
なぜ翻訳者がこの写真をクッツェーの三部作カバーに使おうと思ったか、装幀家が首をかしげるのも無理はない。ご覧のとおり、がらんとして、中心になる「被写体」のようなものがないのだ。だから、なにを撮ろうとしたのか分からない、というのはその通り……でも、じつは、その「なにもないこと」が使った理由だったのだ。「がらんとした空漠=エンプティネス」に見えること、そこがポイントだった。ヨーロッパ植民者が「無主の地」と呼んだ理由もそこから透かし見えるかもしれない。
  
だが、先住の人たちにとっては、クッツェーが『White Writing』で書いていたように、見方はまったく異なっただろう。多種多様な植物の利用法、この土地に生息するさまざまな生き物。これはつい最近読んだトニ・モリスンの『他者の起源』でも指摘されていたことだ──「ジョゼフ・コンラッド、イサク・ディネセン、ソウル・ベロウ、アーネスト・ヘミングウェイの作品のなかで、未開のアフリカという型通りの西欧的視点に染まっていようが、それに抗い奮闘していようが、主人公たちは世界第二の巨大な大陸をからっぽと見なした」と。

 奥まりに「そのこと」が透かし見える、そんなカバーにしたかったのだといまは明言できる。二代、三代さかのぼれば、鬱蒼たる「原始林」で「無主の地」とされて「開拓」が進んだ北海道との類比を訳者が見ていたことは否定できない。

 この本を担当してくれた装幀家も編集者も、列島のなかではおだやかな地形といえる近畿地方の生まれで、訳者にとっては異郷に近い「京都」で青春を送った人たち、そのこともいまになってみると興味深い。がらんとして「なにもないこと=エンプティネス」にほっとする北国の田舎育ちの感覚と、それとはまったく異なる細やかな配慮の文化内で育った人たち。

若いころのジョン・クッツェーは、カルーと呼ばれる内陸にある父方の農場フューエルフォンテインを頻繁に訪ねている。早朝に屋敷を抜け出し、フェンスをいくつもくぐり抜けて、お昼ご飯の時間までフェルトを歩きまわっていたと、クッツェーのおじさんにあたる人の証言も残っている。この三部作のなかには、その農場のあるカルーへの作家の愛があふれているのだ。

 そしてできあがった三部作のカバーは、その「なにもない」写真のまんなかに白抜きの横長の箱を入れ込み、そこにタイトルと著訳者をはめ込んだすばらしい装幀になっていた。その「なにもないこと」のみごとな利用作法に脱帽した。

 こうして今年もまた、クッツェーで明ける。

2019/12/26

TORUS にインタビューが載りました

「物語」が「イズム」を超えるとき


 秋の日の昼下がり、まだ緑の木の葉が揺れる川の近くの公園で写真を撮って、それからカフェで数時間、話がはずみました。さあ、そろそろ、と腰をあげるとき、外はもう暗くなっていて......。

 アフリカとか、フェミニズムとか、移民とか、今年文庫になったチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『なにかが首のまわりに』と『アメリカーナ』を中心に話をすると、どうしても「アフリカ」「アメリカ」「ヨーロッパ」という三つの地点が視野に入ってくる。わたしにとって翻訳という仕事を始めたのは、南アフリカにかかわりだしたときで、最初に出たのがJ・M・クッツェーの『マイケル・K』でしたから、もう30年以上むかしのことになります。

 これまでクッツェー8冊、アディーチェ7冊、訳してきました。年齢は親子ほども、いやそれ以上ことなるアディーチェとクッツェーですが、訳者にとっては、アフリカ大陸で生まれ、そのこととまっすぐに向き合って書いてきた作家として、補完しあう関係にある、そんな話をしました。これまでの仕事をふりかえる大変よい機会をいただきました。Merci!

 あっちこっちに飛んでしまう話者の話を、きちんとまとめて記事にしてくださったKさんとSさんに感謝します。

2019/12/23

東京新聞「土曜訪問」に

東京新聞(中日新聞)の夕刊(2019.12.21)に記事を書いていただきました。facebook でも twitter でもシェアしたけれど、備忘録のためにここにも貼り付けておきます。

「土曜訪問」──最も深い読者になる


クッツェーの翻訳者として話を聞かせてください──という依頼で、あれこれ話しました。わたしが翻訳に向かった動機や、初めての訳書『マイケル・K』など、これまで訳したものについて。
 とても熱心に質問して、中身の濃い記事にまとめてくださった記者のMさん、どうもありがとうございました。

2019/10/23

ラテンアメリカの J・M・クッツェー

 今日はひさしぶりに青空がひろがって、東京は気持ちの良い秋晴れです。北半球は秋ですが、南半球は春の訪れが聞こえてくるころでしょうか。

HarvilSecker版
J・M・クッツェーはこの季節になると毎年のようにラテンアメリカを訪れます。今年はまず短編賞の授賞式にチリへ、そしていまはメキシコでしょう。10月24日にメキシコ国立自治大学でクッツェーを囲んだセッションが行われるというニュースが流れました。

 テーマは三つ:「メキシコの作家のあいだのクッツェー」「クッツェーの作家活動」「クッツェーと現代の危機」←スペイン語の記事をグーグル英訳したものを、さらに日本語にしているので、かなり輪郭がぼやけたタイトルになってる可能性がありますが、あしからず。メキシコの作家たちがクッツェーをどう読んできたか、これはなかなか面白い視点です。

 この記事のなかで、おそらく、こういうことをいってるなと思われる心にしみる箇所があったので、わたしが理解した範囲で記録すると:
Viking版

「J・M・クッツェーの文学は読者の心の内奥にとどく手法をもっていて、まるで世界の異なる土地にいる多くの人たちの記憶を共震させるかのように訴えかけてくる」

 最新作『イエスの死/The Death of Jesus』はアメリカでもViking社から来年5月に発売されるようです。スペイン語版が出てちょうど1年後ですね。

 そうそう、最近はよく忘れ物をするので、この写真も記録としてアップしておこうかな。先日メルボルンの出版社から本を買ったら(『鉄の時代』と『マイケル・K』)、キャンペーン中だとかで無料のトートバッグが送られてきたんです。ロブスターやら、バラの花やら、時計やらがついてる袋ね(笑)。裏には「Incredible!」の文字が。。。

2019/03/25

『イエスの死・The Death of Jesus』 から読むクッツェー

オーストリアのハイデンライヒシュテインで22-23日の2日にわたって開かれた「霧のなかの文学」で、クッツェーは『イエスの幼子時代』『イエスの学校の日々The Schooldays of Jesus』と続いたイエスの三部作の最後『イエスの死 The Death of Jesus』から女優のコリンナ・キルヒホフといっしょに朗読したと伝えられる。

編集者ハンス・ユルゲン・バルメスと語るJ.M.クッツェー
この文学祭、今年は全面的にクッツェー祭りになったようで、初日はクッツェーの朗読のほかに、1990年代からクッツェー作品や南アフリカの作家をドイツ語に翻訳してきたラインヒルト・ベーンケReinhild Böhnkeが翻訳について語り、2日目は名だたる作家が『サマータイム』『マイケル・K』『その国の奥で』『恥辱』『鉄の時代』といった作品から朗読した。そして最後にドイツ語版の出版社フィッシャーの編集者であるハンス・バルメスHans Balmes とクッツェーが会話をするという流れだったようだ。元記事はこちら

北を介さずに3地域を結ぶ文学構想
バルメスとの会話では、最新作『モラルの話』がなぜ英語ではなくスペイン語で最初に出版されたかと問われて、「自分の本は、どれも英語という言語に根ざしてはいない。自分は特定の言語を志向してはいない。世界の主要言語という位置付けで覇権を握る英語によって、その他の言語が追いやられている現状には、うんざりしている」と答えたという。
 この辺まではすでに拙訳『モラルの話』のあとがきや、昨年のスペインでのイベントでブエノスアイレスの編集者コスタンティーニと交わされた会話の内容とも重なるが、クッツェーは、ふたたび「南の文学」を、ニューヨークやロンドンを経由せずに直接交流することで、それぞれ独自の複雑な歴史や文化背景を有する南の世界が発信する文学として発展させたいと述べたという。この主張については昨年4月末の南の文学ラウンドテーブルの内容を、ある雑誌にまとめたので近いうちに読者に読んでもらえるはずだ。

 会話では、クッツェーはまたグローバリゼーションを激しく非難。人はその消費行動によってのみ消費者として定義付けされるが、自分はそんなことに興味はない(強調筆者)と。1980年に出た『夷狄を待ちながら』について問われると、現代社会を引き合いにだして語り、野蛮とみなされる相手に対する防御自体が野蛮な行為に繋がる、と述べた。これはいわゆる先進諸国がもちだす「対テロ戦争」のことをいっているのかもしれない。
 
 また、歴史的に南アフリカで用いられた「アパルトヘイト」という語をイスラエル/パレスティナの関係にも使うことについて、3年前すでにパレスティナを訪れたとき、両者の状況を歴史的、社会的、経済的な観点からきっちりと定義して、こう語っていた。今回もまた、この語を使うことは建設的な話し合いを不可能にすると述べて、ヨルダン川西岸と東エルサレムでのイスラエルの行動を厳しく批判したと伝えられる。


*今回の文章を書くにあたって、ドイツ語の記事を翻訳してくださった市村貴絵さんに助けていただきました。どうもありがとうございます。Merci beaucoup!

2018/11/07

世界文学に抗して──『マイケル・K』の読み直し

今日、11月7日3時から、アデレード大学にあるJ・M・クッツェー・センターでとても面白そうなレクチャーが開かれる。

 Against World Literature: Photography and History in Life & Times of Michael K(世界文学に抗して──『マイケル・K』における写真術と歴史)

 講師は、ハーマン・ウィッテンバーグ。ウェスタン・ケープ大学の准教授で、クッツェーが少年時代に撮影した写真やフィルムの編集をまかされた人だ。クッツェー自身の初期作品2昨(In the Heart of the Country, Waiting for the Barbarians)のシナリオを出版した人でもある。 

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 J・M・クッツェーの『マイケル・K』(Life & Times of Michael K)がグローバルな文芸市場に華々しく参入したのは、この作品が1983年にブッカー賞を受賞したときである。南アフリカという国の狭い文脈をはるかに超えて、世界文学という、より広い文化的フィールドでこの本は読まれはじめた。『マイケル・K』を、南アフリカという原点を超えて、ヨーロッパ中心の世界文学という、さらに広いスペースの一部として読むよう後押しをしたのは、もちろん、小説の間テクスト的なオリジンであるクライストの中編小説や、カフカを連想させる一連の偽装である。そういった読み方が主流になったことは、クッツェーが初期のインタビューで「Kという文字はなにもカフカの占有物ではない。それにプラハが宇宙の中心でもない」と指摘していることからみても、クッツェー自身を困惑させたようだ。

この論文は、エミリー・アプターの研究からタイトルを借りながら、『マイケル・K』を再中心化し、さらに、安易に翻訳して世界文学に同化することのできない複雑でローカルな物語として、その作品が根ざしている特定の地域と歴史への認識を失わずに、再読しようとするものである。論文は、写真とノーザン・ケープ州の農場労働者ヤン・ピーリガの物語の影響を考慮することによって、この複雑な事情をたどることになるだろう。
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註:上の文の最後にあるヤン・ピーリガJan Pieriga とは、1980年代にノーザン・ケープ州カミースクローンで起きた殺人事件の殺人犯の名前だという。『マイケル・K』の最初のほうに出てくる「カミースクローンの殺人犯」を記憶している人はどれだけいるだろうか? 母親アンナが働いていた家のある街区が暴徒によって襲われ、暴風雨で荒れた室内をかたづけていたマイケルが発見した古新聞にのっていた写真、そこに写っていた男の射るような眼差し、殺人犯がもっていたとされる武器(棍棒などなど)。その写真を冷蔵庫に貼り付けてマイケルは作業を続けた。

ウィッテンバーグ(中央)Adelaide,2014
 これは実際にノーザン・ケープ州の農場で起きたある事件を下敷きにするものだった。クッツェーはその事件の新聞記事を切り取って参考資料として残していたことは、ランサム・センターに移ったクッツェー文書を精査してデイヴィッド・アトウェルが指摘している。
 カフカやデフォーの作品へ連想を誘う要素をちりばめたこの『マイケル・K』という作品を、もう一度、南アフリカの80年代という個別の歴史と絡めて読み直す試みがなされるというのは、とても、とても興味深い。

 なんでも「世界文学」という大風呂敷のなかに放り込んで、細部が捨象されて読まれていくとしたら、作品そのものが生み出された文脈の必然性が消えていくことになりはしないか? それは作者の望むところだろうか? それは読者のもとめるものと合致するのだろうか?──というのは、わたし自身もクッツェー作品を翻訳しながら、ずっと感じていたことだったからだ。
 とりわけ初期から中期にかけて書かれた南アフリカを舞台にした作品が翻訳されるとき、南アの歴史的事情の細部がブルトーザーでならすように訳されてしまうことに大きな不安を感じてきた。世界文学へ吸収されてしまった視点からは見えない細部こそ、じつは、辺境にある人々にとって、底辺にあって世界の目から見えない(インヴィジブルな)人々にとって、最重要な要素なのではないかと思うからだ。作家は「世界に向けて」その細部をこそ書きたいと思ったのではないかと。

付記:2020/8/24──「北と南のパラダイム」というエッセイを雑誌「すばる」(2019.6)に掲載したが、そこに引用したJ・M・クッツェーの議論にはこの「世界」をめぐる北と南の力学について鋭く論じるクッツェーがいて、この作家の現在地を鮮やかに伝えている。

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2018.11.9──クッツェーが『少年時代』から朗読するようすです。








2017/08/31

オクスフォード大学でも「クッツェーと旅する」シンポが

今年もまた9月から、クッツェーをめぐる催し物が目白押し。

 すでに8月28日にはチリのサンティアゴで、これで3回目になる「クッツェー短篇賞」の授与式が行われるという記事があった。サンティアゴ近辺の学生を対象に、今年のテーマは「都市」。金、銀、銅、そして佳作3作が選ばれて、それぞれ講評が行われたらしい。昨年と一昨年の授与式では、これまでクッツェーが受賞した2つの賞(子供時代にもらった賞)について述べたが、今年はスウェーデン国王から授与された賞について語るとか。ノーベル賞のことだが、今回はスペイン語のスピーチが準備されていたそうだ。

それが終わったら、ブエノスアイレスの第6回「南の文学」だ。12日、13日にサンマルティン大学で開かれる今回は、シンポジウム形式で「ラテンアメリカ文学におけるJMクッツェーの影響」がテーマ。
 ケープタウン大学の元同僚で優れたクッツェー論『カウンターヴォイス/Countervoices』という著書をもつキャロル・クラークソン(2014年にアデレードで会いました!──いまはアムステルダム大学で教えている)がスペシャルゲストだ。詳しいプログラムはここ


 さらに9月末からは(9/29-30,10/1)オクスフォード大学で「クッツェーと旅する、他のアート、他の言語:Travelling with Coetzee, Other Arts, Other Languages」という魅力的なテーマの、ジャンルを拡大した大がかりなシンポがある。エレケ・ボーマーとミシェル・ケリーがオーガナイザーとして名を連ねているが、このプログラムを見て、ああ、クッツェー研究も若手が主体になっていくんだなあ、と感慨深い。
 2014年にアデレードで発表した人たちの名前もあるし、クッツェーの小説を演劇化したニコラス・レンスや、クッツェーの初期作品のシナリオを書籍化したハーマン・ウィッテンバーグの名もならんでいる。彼のセレクションでクッツェー自身の写真もならぶらしい。少年ジョンが聖ジョゼフ・カレッジの生徒だったころ、自宅に暗室をつくって写真に凝った時代のものだ。さらに『文芸警察』でアパルトヘイト時代の検閲制度を詳述した(現在オクスフォード大で教えている)ピーター・マクドナルドの名も見える。

 瞠目すべきは、この「クッツェーと旅する」シンポの最後に翻訳者が数名ならんでいることだ。セルビア語、オランダ語、イタリア語の訳者の名前があって、最後に、オランダのコッセ出版社代表であるエヴァ・コッセの名がある。エヴァ・コッセはクッツェーが70歳になったときに、アムステルダムで大々的なイベントを開催した人で、カンネメイヤーの分厚い伝記やアトウェルの本の編集・出版権を担当したツワモノである。(わたしも原稿段階の伝記をPDFで読ませていただいてお世話になりました。Merci beaucoup, Eva!)
 フランス語の訳者でクッツェーの古くからの友人であるカトリーヌ・ローガ・ドゥ・プレシの名がないのがちょっと寂しいが、いずれにしてもヨーロッパ言語間の翻訳をめぐってあれこれ論じられるのだろう。英語とヨーロッパ言語少し、という枠内の話だが、それでも興味深い。

 再度書いておこう。この催しのプログラムの詳細はここで見ることができる(Downloadで)。わたしの目を引いたのは、現在ウェスタン・ケープ大学で教えるウィッテンバーグが『マイケル・K』を論じるタイトル:「Against World Literature/世界文学に抗して」、そして、2014年にまだ赤ん坊だった男の子を連れてパートナーといっしょにアデレードにやってきたウェスタン・シドニー大学のリンダ・ングが「Coetzee's Figures of the non-national/クッツェーのノン・ナショナルな(「非国民・非国籍・非民族の」とでも訳そうか?)人物たち」という発表をすること。
 10月は先述したロンドン大学での催しも待っている。いずれも、最後にクッツェーがリーデイングをする、祝祭めいた催しだ。10月1日、聖ルカ礼拝堂で行われるクッツェーの朗読だけを聞くこともできるそうだ。

 ジョン・クッツェーさん、またまたロング・ジャーニーに出たんだな。こうして旅するあいだも、彼はどこにいようと、毎朝きっちりPCに向かって創作を続けていくのだろう。


2015/12/16

2012.4.24の投稿がなぜか2015.12.16の日付に??──ローレルの花とオリヴァー・シュミッツ監督

曇り空がつづいたあと、からりと晴れて光がまぶしい。今年もローレルの花が咲いた。いつもより一週間ほど遅い。桜とおなじように。

 数年ぶりに書棚の整理をした。古いペーパー類も選り分けて捨てた。

 古い南アフリカ関連のファイルのなかから、映画「マパンツラ」の監督、オリヴァー・シュミッツさんの写真や手紙が出てきた。1990年にアップリンクが映画上映にさいして、監督を日本に招待した。彼がフリーの一日、当時の仲間と鎌倉山にのぼった。そのときの写真だ。オリヴァーさんの若いこと! もちろん、ほかの人たちも。

 クッツェーの『マイケル・K』の翻訳が出た翌年だった。オリヴァーさんはあの作品のことを、はにかみながら「I love it!」といった。電車のなかでつり革につかまった姿勢でそういった彼の横顔が、写真を見ていると、ありありとよみがえる。「友だちがあの作品を映画化しようとしたんだけれど、うまくいかなかった」とも語っていた。1960年生まれで、ケープタウン大学を出ている彼は、きっと、クッツェーの授業にも出ていたのだろうなあ。いまになってみれば、もっと話を聴いておけばよかったと悔やまれる。
 
 グーグルで検索してみると、新しい作品がいくつか出てきた。DVDになっている2本をさっそく注文した。「Hijack stories」と「Life, above all」だ。「なによりも、生命」は最近の南アフリカを描いた作品らしい。楽しみ!

 そういえば、まだネット書店もないあのころ、「なにか南アの本で必要なものがあったら送ってあげる」というご好意にあまえて、ズールー語の辞書を送ってもらった。分厚いその辞書はいまも手元にあって、ときどきお世話になっている。

2015/12/07

J・M・クッツェーの『世界文学論集』をめぐって

──これからの「世界文学」のために──

先月、J・M・クッツェーの5冊のエッセイ集のなかから、厳選された、内容の濃い『世界文学論集』が、みすず書房から出版された。訳者は田尻芳樹さん。編集者は1989年に拙訳『マイケル・K』を担当してくれたOさん。

 このプロジェクトが立ちあがったのは、2012年から2013年にかけてのことで、作家の三度目の来日時にクッツェー氏、田尻氏と三人で、いまはなきホテル・ニューオオタニのカフェで打ち合わせをしたと記憶している。翻訳中の彼の自伝的三部作の疑問点を解決したのもこのときだった。あれは2013年の3月初旬だったから2年半がすぎて、しっかりと本になった。プロジェクトが順調に動き出してから、どんな本になるのかなあ、とわくわくしながらながめていた。
 その間、2014年11月にはオーストラリアのアデレードで開催された「世界のなかの J・M・クッツェー」で田尻さんは発表をして、わたしは毎日新聞にリポートを書いたりしたのだった。
 今回、出版されたこの評論集をめぐってパブリッシャーズ・レビュー」の巻頭ページに「これからの『世界文学』のために」というエッセイを書いた。この本について、というより、むしろ作家クッツェーの周辺情報、現在地のようなものと考えていただいたほうがいいだろう。それが、この文学論集を読むときの、きっかけ、刺激、あるいは補助のようなものになればいいと思っている。
 このレビューはタブロイド判の出版情報誌で無料。ぜひ。

2015/11/27

2000年の J・M・クッツェーをふたたび

<2年前の7月にアップしたブログを一部加筆、変更して再掲>

2000年に晩秋のケープタウンで録画された動画を紹介する。



 オランダのテレビ番組として撮影されたものだ。語りはオランダ語、インタビューとクッツェー本人の話は英語だ。(なんと最初のダンスをするカップルは映画『シャル・ウィ・ダンス』からだ、と今日、気づいた。)
 1時間19分と少し長い動画だが、まだケープタウンに住んでいた2000年に、ジョン・クッツェーがインタビューワーのさまざまな問いに対して、ゆっくり考え、考え、表情ゆたかに、真摯に答えている。
 ケープタウンのホテルの部屋で語るクッツェー:美について、美と慰藉の関係について、愛における美とピースについて、気分が落ち込んだら料理をすること、そしてまたアパルトヘイトについて。ようやく過去のものとなったアパルトヘイトについてここまでことばを尽くして、平明に、正直に語るクッツェーは初めてではないか。『恥辱』を発表した翌年であることも興味深い。オランダのテレビで語っているという事実もまた。

 インタビューを受けるのは苦行ですか?──ええ。──なぜ? ──(沈黙)なぜならそこには内省/reflection がないからです。
 
 『マイケル・K』の最後のフレーズについて語り(ここで彼は非常にめずらしく、自作解説をする──「『マイケル・K』の最後のいくつかの文章は、自分でもその音楽がとても好きなのだが、それは驚くような、ハッピーで、美学的にも魅力的な結末をもたらしているWhen I think that the final sentences of Life and Times of Michael K, I very much like the music of these sentences, they bring the book to conclusion which I find surprising,  happy and aesthetically attractive, all the same time35:10」と述べている)、それからオランダ語版を朗読する。

ケープ半島のディアズ・ビーチ
そして、ケープ半島の岬近くのディアズ・ビーチで、冬が間近に迫った晩秋に、打ち寄せる波しぶきを見ながら訥々と語るクッツェー:この季節にしては穏やかな良い天気の日だが、ここの美しさは好天の穏やかなときではない。冬場はひどく荒々しい場所になる。この海岸線の美しさは穏やかなものではなく、ワイルドという語がいつも使われる。

 冷たい風に吹かれて、イノセンスについて、南アフリカという土地の自然と植民者たちの関係について、人間と動物の関係について、戦時中のポーランドの詩人ツヴィグニェフ・ヘルべルトについて、自然の美が癒しになることについて、南アフリカの厳しい現実との対比、容易ではない死・・・、作品行為と癒し、人のオリジンを、癒しを、あくまで自然のなかに見るクッツェー、書いていないときはどんどん落ち込むこと、また、人間という生物種について、死のない世界を考えることについて、天国を作り出した人間をめぐる話など、見ていて、聞いていて、興味が尽きない。オランダ語のナレーションが理解できないのがとても残念!

 60歳当時の──こうして見ると、すごく若々しい/笑──彼が、非常にリラックスした感じで、ことばを探りながら語っています。

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付記:田尻芳樹氏の翻訳でクッツェーの『世界文学論集』がみすず書房から出た。それを読んでいて、もう一度この動画を見たくなり、再度シェアすることにした。長いけれど彼の創作態度、ケープ半島地区への思いなどがじつによく伝わってくる。バッハの『平均律クラヴィーア』がかかるなかをディアズ・ビーチまで車が走る、その風景もいい。
 最初にシェアしたのは2013年7月、選挙の前日だった。あれから2年。まさに驚くほど大きな変化のなかに、この社会はある。

2015/07/11

新刊めったくたガイドに『マイケル・K』が

都甲幸治さんが、「本の雑誌」8月号の「新刊めったくたガイド」で、クッツェーの『マイケル・K』をまた取りあげてくださった。マイケルも、さぞや嬉しがっていることでしょう。
Muchas gracias!

8月号だから、夏休みに向けた読書ガイドってことかな。
それにしても、この「新刊めったくたガイド」って名前、いいな!

ここにあがっているパク・ミンギュの『亡き王女のためのパヴァーヌ』、読んでみたい。とっても。

2015/07/08

クッツェー作品には風景描写が少ない?

先週末に駒場で面白い研究会があった。そこで、J・M・クッツェーの作品研究をしている院生の発表を聴いた。若い研究者たちの熱のこもった発表がとても面白かった。

南アフリカ大使館fbから拝借
現在、クッツェー研究の世界的な潮流として、オースティンのクッツェー・アーカイヴの調査は不可欠だ。そこにおさめられた作家の創作ノート類を細かく調べることで、作品の立ちあがる瞬間、逡巡しながら作品を書き進むようす、それまでの草稿を反古にしてあらたな作品を書き出したきっかけなどが、細かく分かるようになったからだ。
 各作品の立ちあがりと時代との絡みは、もちろん、じつに興味深いものがあるし、クッツェー作品にくりかえしあらわれる共通のモチーフやテーマで作品群を分析すると、思わぬ視界が開けそうな気配も強く感じられる。これからは各作品が、J・M・クッツェーの生い立ちや時代背景、彼の人生そのものと関連づけられながら、各作品のテーマとどう結びついているかを論じることで、この作家の全体像がクリアに見えてくることだろう。クッツェーが自分のペーパー類を生前に公開した、というのは、そのような研究姿勢を(つまり、作品の読み方を)作家自身が求めていると考えてまちがいない。

筆者撮影、2011
その研究会のなかで、いやその後のオフ会だったか、ある人がふと口にしたことばが、ずっと頭から離れなかった。それは「クッツェーって風景をあまり描きませんね」ということばだ。それに対して「『マイケル・K』にはかなりありますが」とわたしは答えたけれど、その人が言った「風景描写」とわたしが言うものとはずれがあったように思う。
『マイケル・K』は一種のロードノベルだ。旅する主人公の目がとらえる個々の、地を這うような場面描写は、風景というよりはあくまで光景というか情景というか、そういうたぐいのもので、「風景/ランドスケープ」となると、もう少しスカーンと広い範囲の見晴らしのいいものだろうな、と思う。

 そのことをここ数日、考えるともなく考えてきて、ふと思い至ったのは、そうか、南アフリカの白人作家や詩人は長いあいだ、まさに、この風景/ランドスケープを描いてきたのだ、ということだった。(公式の歴史文書は長いあいだ、19世紀のキリスト教到来の時代まで、われわれが現在南アフリカと呼んでいる内陸がいかに無人であったかという物語を伝えてきた──『ホワイト・ライティング』)
  クッツェーは1989年に発表した『ホワイト・ライティング』のなかで、このブログでも何度もとりあげてきたが、誰もいない風景の美しさをことほぐ詩や小説について、ある批判を込めて書いた。つまり、美しいカルー、愛するカルー、誰もいない風景と、そこに多くはないにしろ人が住んでいたにもかかわらず、その人たちは滅びたものとして作品を書いてきた伝統がホワイトライティングにはあったのだ。

筆者撮影:南ア出身のAttwell, Wittenbergと
だから、その延長で南アフリカのランドスケープをことほぐことをクッツェーはみずからに禁じたにちがいない。白人である彼がこの土地の美しさを無条件に、手放しで書くことは、その土地を精神的に所有することにつながるからだ。本来ヨーロッパ人のものではなかった土地を「愛する」と言ってしまうことを抑制する心情がクッツェーには働いたのではないのか。

 クッツェーという作家が抱く南アフリカという土地への屈折した意識/愛については、『サマータイム、青年時代、少年時代』の解説にも書いたけれど、あの土地をたんに自然/ランドスケープとして描くことに抵抗を感じ、抑制した意識がはたらいたことと、彼の作品内に風景描写が少ないこととは、密接な関係があると思うのだが、どうだろう。

これは私自身が北海道という土地の美しさを無条件に書くわけにはいかない、と感じることにも繋がっていくのだけれど。