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2013/12/13

「神奈川大学評論」にクッツェーとブラワヨの短編を訳しました!

「神奈川大学評論 76号」が出ました。「特集 アフリカの光と影」です。今朝届いた雑誌を見ると、書き手がなかなかすごい。

 わたしはJ・M・クッツェーの「ニートフェルローレン」と、ブッカー賞最終候補になって話題を呼んだノヴァイオレット・ブラワヨの「ブダペストやっつけに」(ブッカー賞候補作の第一章にあたります)を訳しました。
 その前書きとして「複数のアフリカ、あるいはアフリカ「出身」の作家たち」というエッセイも書きましたので、ぜひ!

 目次を見ると、おお! 瞠目すべき、おなじみの名前がずらりです。マンデラ解放時に一大イベントを開いた旧称「マンデラハウス」のオーナー、勝俣誠さんの名がまず目に飛び込んできました。
 ほかにも、カテブ・ヤシンの詩を鵜戸くんが訳している! 1988年からANC東京事務所の専従を務め、南アフリカに長期滞在して活躍していた津山直子さんもエッセイを書いている! アフリカ文学研究者である福島富士男さんがソマリア出身の作家、ヌルディン・ファラの作品について論じている! アフリカと人類学の関係についてはケニア社会に詳しい子馬徹さんが書き、アフロブラジル文化につとに詳しい旦敬介さんが、大西洋間で19世紀に頻繁に往来のあった奴隷海岸(ナイジェリアやベナンなど)とブラジルはバイーアのやりとりについて、具体的な資料をあげながら詳述している(写真もあり)。ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』の書評が中村和恵さんというのも嬉しい。

 ビニャヴァンガ・ワイナイナのエッセイ「アフリカのことをどう書くか」は、残念ながら次号掲載になりました。(版権の問題をクリアするためにあれこれやっているうちに、時間切れになってしまったのです。)雑誌「Granta」に掲載されて議論を呼んだあの刺激的な文章を紹介するのが、もう少し先になってしまったのは悔しいですが、来年3月には晴れて読んでいただけると思いますので、、、ご期待ください/涙。


 

 雑誌の入手方法は、こちらです

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ちなみに、ワイナイナの辛口エッセイ「How to Write About Africa」を英語でいいから早く読みたいという方はGrantaのこのページへ

2013/11/02

複数のアフリカ(中)──ブラワヨの『あたしたち、新しい名前が要る』

「神奈川大学評論 76号──特集:アフリカの光と影」(11月末発売予定)に「複数のアフリカ、あるいはアフリカ"出身"の作家たち」という文章を載せ、三つの短編とエッセイを紹介、と書きました。

 一つ目が、J・M・クッツェーの「ニートフェルローレン」

 そして二つ目が、2011年のケイン賞受賞作、ノヴァイオレット・ブラワヨの「ブダペストやっつけに/Hitting Budapest」です。(hit は「めざす」という意味ですが、この作品に登場する子供たちが、なんのためにブダペストという場所をめざすか、ブダペストがどんな場所か、を考えて、あえて「やっつける」としました。)

 ジンバブエ出身の1981年生まれの作家、ノヴァイオレット・ブラワヨが初めての小説『あたしたち、新しい名前が要る/We Need New Names』で、今年のマン・ブッカー賞のファイナルリストに残り、話題をさらったことは記憶に新しいところですが、じつはこの初小説の第一章にかなり書き換えられた「ブタペストやっつけに」が入っています。(私が訳出したのは、ケイン賞受賞作の短編のほうです。)
 
 文体がとっても、とっても特徴があって、あのね、あたし、〜〜なんだよね、それから、それから、〜〜じゃないからね、というふうなおしゃべり文体で、ローティーンの子供たちの目と耳と口と皮膚感覚を全開にして、そして思考を総動員して生きていこうとするようすが伝わってきます。しかし、そこに描かれるジンバブエという国の出来事は、その歴史を含めて、途方もなく苛烈。

 目の前で起きる理不尽な出来事に大人の価値観で意味づけせず、とにかくまっすぐに、彼らならこう考えるだろうな、こうするだろうな、といった位置から物事が見つめられています。子供の心に秘められた根拠のない憧れや希望、どうしようもない悔しさや痛みもふんだんに書き込まれ、生き延びるために幼いうちから否応なく鍛えられる生活力をもありありと描き出していく筆力、したたかな作品です。大人たちのやっていることを見る、子供たちの情け容赦ない視線やことばが、読んでいてホントに痛い。

 とりわけ、早い章(第6章)で明かされる、なぜ、どういうときに「あたしたちに」新しい名前が必要になるか、これはもう胃の腑がきりきりするほど。心身ともにシーンとなります。でも悲壮感というのが不思議とない。そこがうまい。言語や民族や、もちろん国境も突き抜けている。

 そして中盤以降は、おばさんを頼りにアメリカに渡った主人公ダーリンが経験する、ミシガン州デトロイトとカラマズーでの「アメリカン・ライフ」。ナイジェリアとアメリカのあいだで書いてきたのが1977年生まれのアディーチェ、ジンバブエとアメリカのあいだで書いているのが1981年生まれのブラワヨ。共通点はたくさんあるけれど、個別に見ると随分ちがう。

「アメリカのなかのアフリカ人移民」とひとくくりにはできないほど、アメリカのなかのアフリカ人そのものの多様性が具体的に、細部まで、ようやく書かれるようになったことが理解できます。考えたら、当たり前。これは、アメリカ社会のなかに暮らす日本人と、中国人と、韓国人が違うのとおなじことですから。

 ジンバブエはかつて、南部アフリカを植民地化したヨーロッパ勢力の象徴的存在、セシル・ローズの名にちなんで「ローデシア」と呼ばれた国。わたしが初めてアフリカ大陸に足を踏み入れたのは1989年1月、このジンバブエでした。当時は、長い独立戦争を戦って黒人政権を打ち立てて9年、もうすぐ独立10周年、南部アフリカの星といわれていました。

***つづく***

2013/10/20

複数のアフリカ(前)──クッツェーの『ニートフェルローレン』

立命館大学の生存学研究センターで行われた、「目の前のアフリカ 第4回──アフリカ文学の彩り/White, Black and Others」、無事に終わりほっとしています。

 質疑応答の時間につぎつぎと出た質問の中身がすばらしく濃くて、京都という土地の知的探求の独特の深さを実感しました。まことに得がたい、充実した時間でした。招待してくださった西成彦さん、お世話になったセンターの方々、聞きにきてくださった方々(遠くから駆けつけてくださった方もいて感激!)、本当にありがとうございました。

 その場でもお知らせしましたが、雑誌「神奈川大学評論 76号──特集:アフリカの光と影(11月末発売予定)に「複数のアフリカ、あるいはアフリカ"出身"の作家たち」という文章を書き、つぎの三つの短編とエッセイを紹介します。

 1)J・M・クッツェーの短編「ニートフェルローレン/Nietverloren」
 2)ビニャヴァンガ・ワイナイナのエッセイ「アフリカのことをどう書くか/How to Write About Africa」
 3)ノヴァイオレット・ブラワヨの短編「ブダペストやっつけに/Hitting Budapest」

 以下に、その予告編を少し。


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 じつは、J・M・クッツェーという作家は「ニートフェルローレン/Nietverloren」という短編を書いている。アフリカーンス語で「Not Lost/失われない」という意味だ。南アフリカの地図を調べると、実際にモッセル湾のそばに、ニートフェルローレンという名の古いワイナリーが出てくるが、作品内ではカルーのどまんなかに、古くからある農場の名として使われている。

 アメリカからやってきた古い友人カップルといっしょに車で、ケープタウンからジョハネスバーグへ向かう旅の途中、リッチモンドから国道1号線を15キロほど入ったところにあるとされるその農場を、ガソリンスタンドにあったちらしを見て、ランチがてらに訪ねてみる。すると農場で採れた食材を使った料理が出てくる。往事の台所や、羊毛刈りを手作業でやった時代の道具等が、お金を払えばそっくり見学できるという。そう、そこは観光客向けのテーマパーク農場だったのだ。

 この短編『ニートフェルローレン』をクッツェーは、2006年9月の初来日直前にトリノで朗読した。当時ネット上はイタリア語の翻訳バージョンしか発見できなかったが、少なくともそれ以前に書かれた作品であることは確かだ。(Nietverloren って何? とわたしは思いつづけていた。)
 今回、調べてみて発見したのだけれど、2010年6月にツールーズの「南アフリカ作家フェス」で、クッツェー自身が英語で、コメディーフランセーズの女優が仏語で、この作品を交互に朗読している写真もあった(上)。
 
 物語は、ジョンがまだ幼い子供だったころの思い出から始まる。父親がまだ従軍していたころとあるので、1944年前後だろうか。父方の農場へ母親と弟と3人で身を寄せたとき、広大な農場をあちこち歩きまわって発見した、不思議な土地があった。

「円形の剝き出しの平らな地面で、直径が歩いて十歩ほど、円周に石でしるしがつけられ、内部は草一本生えていない土地」、あれはいったいなんだろう、フェアリーリングだろうか、母親にきくと、そうだろうと母親はいう。しかしこんな暑熱の南アフリカに妖精がいるのか?

 ずっと後になって、それがなんの跡だったか、一枚の写真を見ているとき、みるみる謎が解けていく。その円形の土地は、じつは、小麦の脱穀がまだ人の手や馬力を使ってやっていた時代の脱穀所だったのだ。その脱穀という農作業をクッツェーは細かく、細かく描いていく。失われた自給自足農業の手作業プロセスとして。bladder を竿につけた農具、とあるのは、具体的には牛や羊の嚢、とくに膀胱を干して使ったのだろうか?
 
 そんな話のあと、友人たちとの南アフリカ横断(縦断?)の旅の途中に立ち寄ったニートフェルローレンをめぐり、南アフリカの農業事情や、解放後の南アフリカに対するクッツェーの思いが展開される。それがこの短編の、いってみれば筋立てだ。そこには、この地球上の暮らしの変化、歴史などに対する彼の考えが、短いながらしっかりと書き込まれている。

***つづく***

2012/05/18

We Need New Names──ノヴァイオレット・ブラワヨの初小説

2011年のケイン賞受賞者、ジンバブエ出身のノヴァイオレット・ブラワヨ/NoViolet Bulawayo の初めての小説「We Need New Names」の出版権をChatto が獲得、というニュースが流れた。
 
 ケイン賞を受賞した短編「Hitting Budapest/ブダペストやっつけに」はパラダイスという地区に住む6人の子どもたちが、旋風のように通りを駆け抜け、グアヴァの実がなっていて、別の国みたいで、あたしたちみたいじゃない人が住んでいる「ブダペスト」をめざす話だった。バスタード、チポ、ゴッドノウズ、シボ、スティナ、それに、あたし。名前からわかるように、半端じゃなく過酷な生活をおくっている、この子どもたちのやりとりがまたすさまじい。まだ幼いのに妊娠している女の子までいる。旋風というのはその文体にもあらわれていた。すごくさらさらと読ませながら、こぼれおちた子どもたちをありありと描き出す文体なのだ。

 そのノヴァイオレット・ブラワヨの小説が来年でるらしい。『あたしたち、新しい名前が要るの』「パラダイス」(なんと皮肉な!)に住む子どもたちの野心をぴったりあらわしているようなタイトルだが、さあ、どんな物語だろう、楽しみだ。

 ブラワヨとはジンバブエの都市の名で、イヴォンヌ・ヴェラが住んでいたところだ。このペンネームには(前にも書いたかな?)大先輩の作家へのオマージュが込められているのだろうか。

 そうだ、あのジュノ・ディアスが 'I knew this writer was going to blow up. Her honesty, her voice, her formidable command of her craft—all were apparent from the first page.' といった作家だということも忘れずに書いておこう。

 アフリカ大陸からどんどん若い書き手が出てくる。

2011/08/05

ジュノ・ディアスの話を聴いてきました

昨日、溜池山王で開かれたジュノ・ディアスを囲んだシンポジウム「オタク・災害・クレオール」に行ってきました。
『オスカー・ワオの短く、凄まじい人生』(このブログにも書評を掲載)の著者は、写真で見るより全体に細身。都甲幸治さん、小野正嗣さんと、なぜか3人チェックのシャツ姿でならび、短い時間ながら面白いトークを展開してくれました。

「オタク」「災害」とこなしていって、「クレオール」については残念ながら時間切れ。これを話し始めるとものすごく広いスパンの話になるなあと思っていて心配なほどだったけれど、やっぱり話はその手前で終わりましたね。

 エスパニョーラ島の東半分を占めるドミニカ共和国で生まれて6歳まで住んだカリブ出身者らしく、「災害」についてはとても敏感に反応、いや、きちんと考え、判断し、行動しているところが印象的でした。石巻まで行って、この冬に本格的なボランティアとして参加するための下見をしてきたとか。今回の日本の原発事故についても鋭い意見をきっぱり述べていたし。

 しかし、わたしのトリビア頭にいちばん印象に残ったのは、腰痛の話です。大学の教職につく前に肉体労働をしていたころ、毎日、ビリヤードのテーブルを運んでいたそうです。あれはものすごく重いですよ、試しに、今度見かけたら押してみてください、といっていた。それで腰掛ける姿勢をつづけていると腰痛に見舞われるとか。リアル!

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付記:さきごろ「Hitting Budapest」でケイン賞を受賞したジンバブエの作家、ノヴァイオレット・ブラワヨがインスパイアされた作家としてイヴォンヌ・ヴェラとともに、ジュノ・ディアスをあげている。やっぱりなあ。コミットする力と技法が飛び抜けてすぐれているもの。