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2024/07/13

『その国の奥で』が空を写して、『マイケル・K』が電子書籍になる

続きです!

 J・M・クッツェー『その国の奥で』(河出書房新社)が、あるハプニングで予定より5時間ほど遅れて、昨日の午後に篠突く雨のなか届いた。 

 カバーの映像が出てから実物を手にするまでの待ち遠しさは、何冊訳しても馴れることがない。ネット環境のなかった頃より、待ち遠しさはむしろ加速されたんじゃないかとさえ思える(いや、気が短くなっただけか──🐐?? 今日は晴れたので屋外で撮ったら、なんと、空が写り込んでしまった、、、左の写真の左側)

 とはいえ2000年までは──とつい昔語りになるけれど──編集者とじかに会って「みほん」を手渡されるとき、初めてカバーの絵を目にすることが多かった。実物を目にするまでは、ファクスで送られてきたぼやけた画像から想像をたくましくするばかりで、ひたすら待つしかなかった。筑摩書房から出た初めての訳本『マイケル・K』を受け取ったのは、1989年の初秋だったか。国立のロージナ茶房で、何冊か入った袋がどさりとテーブルに置かれたときの感動は忘れない。 

 でも思えばあのころは、待つ時間はいまよりずっとゆるやかに、おだやかに流れていたような気がする。編集者ともじかに顔を合わせて、ゲラの引き渡しをしながら、細かな疑問をその場で解決するといった感じで作業は進んだ。人と人がじかに会ってことばをかわし、いろんなことを決めていた時代。ネット時代になって、それが簡略化されて、宅急便や郵便でやりとりすることが多くなった。いろんなことが省かれて、とにかく早い。連絡事項や決定事項が記録として文字として残るので、これは非常に確実。疑問などもすべてメールで即座に解決することが多い。備忘のためにも、齟齬をきたさないためにも、便利は便利。でも……。

 カバーデザインをPDF で前もって目にするようになって、それから実物が出来上がってくるまでの短からぬ時間は、まだかな、まだかな、と焦燥の念に駆られるようになったんじゃないかとやっぱり思うのだ。なんでも早くできる時代に、待つことに不慣れになり、ちょっと疲れて、頭のなかで少し横に置いたころ、どさりと届く──という感じになった。

『その国の奥で』を訳していて思った──J・M・クッツェーの作品を翻訳するのは、これで何冊目だろう。共訳を含めると軽く10作品は超えるかも知れない(数えてみると12作か)。南アフリカを舞台にした作品を、クッツェーは長短篇をすべて含めて9作書いているが、そのうち8作を訳したことになる。作品の背景や時代のコンテキストを重視する訳者として、南アフリカの事情を、はしょらず、正確に、ニュアンスを細部まで伝える努力をしてきたつもりだけれど、責務は果たせただろうか。

 とりわけジョン・クッツェーの生きた時代とぴたりと重なるアパルトヘイト時代の政治制度の内実や、人種による微妙な人間関係の心理をめぐる細部は、どんどん大雑把にまとめられて歴史の彼方へ葬り去られていくようだ。翻訳者も解説者も編集者も校閲者も、勘違いや見落としを最初から疑って、歴史的事実を正確に伝えるよう努力しなければいけない時代になった。
(たとえば、南アフリカで国民党が政権を奪取したのは1948年、1960年代ではない。1948年は時代の分岐点で、アパルトヘイト制度という人種差別制度が公然と開始されたのはこの年だこの年は少年ジョンがケープタウンから内陸のヴスターへ引っ越した年でもあった。)

 『マイケル・K』はそのアパルトヘイト末期を舞台に描かれた小説だ。1983年に発表されて、この年のブッカー賞を受賞した。1989年の初訳が出たころは、日本ではバブル経済で南ア産のプラチナを若い女性が買い漁った時代でもあった。

 現在入手可能なバージョンである岩波文庫『マイケル・K』が7月27日(7月25日に早まりました!)、電子書籍化される。単行本が出たのは35年前だ。2006年にちくま文庫に入り、2015年に岩波文庫になり、9年ごとの「変身」を重ねて、ついに電子書籍になる。カフカの『断食芸人』『審判』とも響き合うこの作品が、カフカ没後100年に、またまた変身して新世代の読者に届くのは訳者冥利に尽きる。

 J・M・クッツェー作品が初訳から一周、二周して、新しい読者と出会ってほしいものだ。

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2024/07/12

J・M・クッツェー『その国の奥で』のみほんが届いた

 J・M・クッツェー『その国の奥で』(くぼたのぞみ訳、河出書房新社)

 J・M・クッツェーの二作目に当たる『その国の奥で In the Heart of the Country』は、20世紀めの南アフリカ奥地で、外部世界から孤絶した農場を舞台に展開される。非常に実験的な作風は初作『ダスクランズ』を凌ぐほど。1~266の断章から構成される、孤独な、マグダという女性の暗い情念と観念と幻想の物語だ。

 1977年にまずアメリカで(タイトルを一語変えて)、次いでイギリスで出版され、翌1978年に南アフリカで、会話の部分がアフリカーンス語の二言語バージョンとして出版された。じつはこの作品が、アメリカ、イギリスなど北半球の英語圏での実質的デビュー作だったのだ。その経緯についてはここに詳しく書いた

 新訳『その国の奥で』のカバーは、版元サイトにも、ネット書店にも既に出ていて、このブログの右上にも少し前からアップされている。でもカバーの色が黒ではなく、青みがかったダークな色だと知ったのは今日みほんが届いたときだ。そのインクを混ぜたような黒色空間(たんなる平面には見えない)に浮かびあがる、もの言いたげな薄紫の花と花びら、その濃淡がかもしだす幻想世界、キリッとした白い文字。

 アメリカ移住がかなわず、1971年、無念を断ち切り船に乗って南アフリカへ帰国したジョン・クッツェーが、このまま「地方」に埋もれてなるものかという意気込みで『ダスクランズ』(1974)を発表し、その次に発表したのが、この『その国の奥へ』(1977)だった。さらに広い読者層を獲得したいという野心と、実験精神にあふれた若き作家の熱いエネルギーが行間からほとばしる作品なのだ。訳しながら時々くらくらっとなった。詳細は本書「訳者あとがき──J・M・クッツェーのノワールなファンタジー」を!



帯の文句がまた比類ない。きっちりと内容を伝える表の帯。

植民地支配の歴史を生きたものたちの、人種と性をめぐる抑圧と懊悩を、ノーベル賞作家が鮮烈に描いた、濃密な、狂気の物語。語りと思考のリズムを生かした新訳決定版!!!

 帯裏にはマグダの独白が具体的に引かれている。

「父さん、許して、そんなつもりじゃなかった、愛してる、だからやったの」
              

 装画は熊谷亜莉沙さんの作品。送られてきた最初のラフを見たときの、戦慄にも似た深い感覚は忘れられない。作品と挿画の、火花を散らすような、比類なく幸運な出会いだと思う。


 バックカバーの裏の折り返しにも注目してほしい。「その国の奥で」という文字といっしょにさりげなく、掘り抜き井戸の写真が使われているのだ。訳者のたっての希望で、最後の最後に入れていただいた。南ア奥地の半砂漠地帯カルーで農園を営むためには絶対に欠かせない掘り抜き井戸。風車の力を使って水を汲みあげ、貯水池に貯める。その水で農場の生き物たちは生を営む。空の部分をぼかした見事なアレンジだ。ブックデザインの大倉真一郎さん、ありがとうございました。


(思えば掘り抜き井戸は『マイケル・K』にも頻出するが、物語の最終場面にも象徴的なかたちで使われていた。)

 そして終盤、あまりにノワールで妄想的な物語世界に半分持っていかれそうになった訳者に、最後まで根気よく伴走してくれた編集の島田和俊さんに深くお礼をもうしあげる。


************

(この続きと、『マイケル・K』の電子書籍化については次回に!)


 

2024/02/29

JMクッツェー『その国の奥で』の訳稿、あとがき、送った!

🌸



 全部、ファイルで送って、今日から春です。

🌸🌸🌸

昨日、散歩してたら、花壇の🌷も芽をだしていた。

🌷🌷🌷🌷🌷🌷

早咲きの沈丁花もちらほら咲いて

窓から見える緋寒桜にヒヨドリがたくさん飛んでくる。

閏きさらぎ最後の日。

今年は冬が長かった(主観)、そんなに寒くはなかったけれどネ。


🌸kotoshi

2023/12/30

来年は、J・M・クッツェー『その国の奥で/In the Heart of the Country』です

 今年1年を振り返る時期になったけれど、ここには来年のことを書いておこう。

 現在、新訳を進めているのは、長らく絶版だったJ・M・クッツェーの第二作『In the Heart of the Country/その国の奥で』だ。河出書房新社から、来年半ばには刊行される予定。河出書房新社はチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの邦訳全作品を出している出版社で、クッツェーの『鉄の時代』が入っている池澤夏樹個人編集の世界文学全集の版元でもある。

 この第二作目はまったくもって一筋縄ではいかない作品だ。ファンタジックでゴシックで、実験的という点では初作『ダスクランズ』をはるかに凌ぐ。とにかくものすごい妄想、また妄想なので、読みこんで日本語にするのは作品との「格闘また格闘」となる。やたら時間がかかる。半ページしか進まない日もある。翻訳を始めたのは何年か前だが、全139ページがまだ終わらない。それでも、あと〇〇ページを残すところまできた。

 この作品の出版をめぐる経緯については、以前このブログでも書いた。ウォルコヴィッツの『生まれつき翻訳』について触れたときだ。(ここで読めます。)クッツェー作品としてこの小説が英米で初めて出版されたのは1977年、南アフリカ本国でバイリンガル版として出版されたのは翌年のことで、『鉄の時代』の年譜にも書いたし、自伝的三部作の年譜にも、『J・M・クッツェーと真実』の詳細な年譜にも、必ず書いた。この作品が出版された経緯は、この作家の作家活動にとって非常に重要な細部だからだ。

 当時の南アフリカにはまだ厳しい検閲制度があり、異人種間の結婚はおろか、性交まで禁止する法律があった。世界から切り離されたような南アフリカ奥地の農場を舞台に、極端に狭い人間関係のなかで、事件は起きる。姦通、泥酔、銃撃、殺人、レイプ、ect. ect. しかしそれが実際に起きたのか、起きなかったのか、事実と妄想の境界がきわめて曖昧なのだ。銃を握るのは三十代の独身女性マグダで、彼女の独白が全編を貫いている。

 日本語訳は原著の出版から約20年後の1997年、スリーエーネットワークの「アフリカ文学叢書」の一冊として出た。それから四半世紀以上が過ぎて、その間、この作家は二度目のブッカー賞を受賞、その3年後にオーストラリアへ移住、直後にノーベル文学賞を受賞した。そんなニュースと相前後して作品が次々と紹介されて、作品や作家の全容がほぼ見えるようになった。

 今年6月に日本語訳が白水社から出版された『ポーランドの人』(それについてはここで)は、非常に無駄のない、端正な、流れるような文体で書かれていた。このレイトスタイルへ至るまでの半世紀におよぶ長い道のり。

 これまでにクッツェーは南アフリカを舞台にした長編小説を8作書いている。出版順にいうと、『ダスクランズ』『その国の奥で』『マイケル・K』『鉄の時代』『少年時代』『恥辱』『青年時代』『サマータイム』で、このうち6冊を拙者訳で読んでいただける。来年は新訳『その国の奥で』が出る予定で全7冊となるはずだ。

 南アフリカの作家クッツェーと出会った者として、あまり知られていな南アフリカの自然や風土、作品舞台となった時代の人間関係の細部をあたうるかぎり潰さずに、なおかつ、含みをもって伝える責任を、これでほぼ果たせるように思う。感慨深い。

 手元にあるこの作品の紙の書籍3冊と、Kindle版1冊のカバー写真をあげておく。左上からペンギン版のペーパーバック(1982)、右へ行ってヴィンテージ版(2004)、スイユ版のフランス語訳(2006)、そしてKindle版スペイン語訳(2013)である。

 いろいろ心が砕けそうになる事件や出来事が起きた2023年だったけれど、それでも今年は藤本和子さんの4冊目の文庫や斎藤真理子さんとの往復書簡集『曇る眼鏡を拭きながら』が出版された年でもあった。

 人生はまだまだ続く。La lutte continue!

 🌹 みなさん、どうぞ良いお年をお迎えください!🌹


2023/02/21

アンジェイ・ムンクの『パサジェルカ/Pasażerka』を観る

 1963年のポーランド映画だ。監督のアンジェイ・ムンクはこの映画を制作中に、なんと39歳の若さで交通事故で急死してしまった。残されたスチール写真と動画をもとに、仲間が仕上げたという作品だ。映画の最初にその事情が語られる。『パサジェルカ/Pasażerka/乗客』。

 舞台は一艘の客船。時代は1960年。第二次世界大戦の記憶もまだ薄れていないころだ。

 船に乗っているドイツ人女性リザが、階段を登ってくる一人の女性を見て、突然、仕舞い込まれていた記憶に引き戻される。リザは戦争中はSSで「義務として、仕事として」きわめて職務に忠実に、ユダヤ人強制収容所の監視をやっていた。彼女の突然の狼狽に、いっしょに旅をしていた夫に問いかけられても、結婚前の出来事はあなたに語っていないから理解できない、とそっけなくリザは答える。

 収容所での出来事。ユダヤ人女性マルタにリザがかけた厚情をめぐって起きた事件と、その記録、記憶、記憶の揺れ、不確実性。

 60年も前の映画だけれど、少しも古びていないどころか、次々と発見がある。観終わった後に、あれ、あそこはどうなっていたっけ? そうか、もう一度見なくちゃ、確認しなくちゃ、と思わせる映画だ。たぶん、もう一度観るのだろう。58分にしてはじつに中身の濃い、事実とその記憶をめぐる、懐疑と内省を掻き立てる作品なのだ。

 J・M・クッツェーが『In the Heart of the Country/その国の奥で』を書くにあたって、クリス・マルケルのLa Jetée とともに、この作品から強い影響を受けたのが納得できる。

*2023.2.28 追記:写真は左上が英語字幕バージョン、右下が日本語字幕バージョン。両方見ましたが、細部までよくわかるのは、当然ながら、日本語字幕の方ですね。ぶつ切りにされたシーンにナレーションがかぶさることで、観客が積極的にコミットして理解するよう作られている映画なので。

2023/01/22

ペ・スア著・斎藤真理子訳『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』の入口で痺れまくる

 J・M・クッツェーの最新作『ポーランドの人/The Pole』の翻訳原稿をメールで送って、ひと息。机の上でじっと待っていてくれた書物たちの山に手をのばして、少しずつ崩していく。

 まず最初に、そこにあって強い単色の光を放っていた『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』斎藤真理子訳(白水社)を手に取る。ペ・スアという韓国の作家の作品だ。カバーがいい。「いい」を通り越して、気になって仕方がなかった。

 何人かの人がSNSでこの作品について語っているのを横目で見ながら、ああ、近くにありながら、わたしは遅れてしまう、遅れてしまった、と思いながら今日を迎えた。でも、晴れて一年でいちばん寒い季節にこの本を開いて、いい時期に当たったかもしれないと思う。北国の、雪に閉ざされた家のなかで、ストーブの熱を浴びながら読んだ数々の本たちのことを思い出すからだ。この季節は、東京はまだ雪こそ降っていないけれど、わたしにとって「冴えわたる」 と呼び変えてもいいかと記憶されている時期で──たんに記憶の連鎖によるもので、実際は違うのだが──そこがまた奇妙にこの作品と絡まり合って面白い。

 まず、ペ・スアのこの作品を日本語で読めることがありがたい。斎藤真理子さん、ありがとう。編集者さんたち、ありがとう。本のカバーをめくり、扉の絵に驚嘆し、訳者あとがきを読んで興奮し、本文を読みはじめて度肝を抜かれる。

 訳者あとがきにクリス・マルケルの名前を発見したとき興奮したのは理由がある。フランスのこの映像作家、というか、むかしふうに言うと「映画監督」は1962年に La Jeteé というモンタージュ風の短い作品を作っていて(昨年何度か観た)、それから大いなる影響を受けたのがJ・M・クッツェーだったからだ。クッツェーはその影響下に第二作『その国の奥で』を書いた。

『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』を書いたペ・スアという作家がドイツ語から韓国語へ翻訳をしてきた作家だというのがまた気になる。自作は韓国語で書くが、韓国にいるときはドイツ語から韓国語への翻訳をして、ドイツに滞在しながら韓国語で作品を書くのだという。この距離感が何にも増してその作品を特徴づけているらしい。でも翻訳はもうたっぷりやったといって打ち止めにしたようだ。誤訳した部分をめぐる発言がまた、創作者ならではの視点で語られていて、非常に興味深い。

 ある作品から最初に受けた印象は、作品を読めば読むほどどんどんそれとは異なるものによって上書きされ、更新されて薄まっていくものだ。だからとにかく忘却の彼方へ消えないうちに、どれほど新鮮な「痺れ」感覚があったか、ここにメモとして残しておく。杭を立てておかなければ不明瞭になってしまうのだ。メモとしてのこの杭はあとで必ず立ち戻るときが来る。

 さあ、本文へ突入しよう。

2022/04/23

南アで In the Heart of the Country が出版された年は?『生まれつき翻訳』

 ようやく時間ができたので、レベッカ・L・ウォルコウィッツ著『生まれつき翻訳』(監訳・佐藤元状、吉田恭子/訳・田尻芳樹、秦邦生、松籟社, 2021)を読みはじめる。監訳者の方々は「クッツェーファンクラブ」の面々なので、読むのを楽しみにしていたのだ。

 まずは序章「世界文学の今をめぐって」をざっくり読んでいくと、クッツェーという作家名がかなり出てくる。そこはゆっくり読む。するとチカチカと点滅する文字群に出くわした。p24の3つ目の段落はこう始まる

「ニューヨークやロンドンなど出版業界の中心から外れた場所にいる英語作家も、翻訳を余儀なくされることがある。ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴが最初の一連の長編をキクユ語で出版することにしたのはよく知られているが、自らの翻訳で英語でも出版してきた。チヌア・アチェベの『崩れゆく絆』にはイボの言葉がそこここに使われているが、一九六二年、ロンドンのハイネマンの叢書で出版されたときには用語集が必要だったし、クッツェーの『石の女』は一九七七年に南アフリカで初版が出たが、英国版では一部がアフリカーンス語から英語に翻訳されている」(下線引用者)


 アフリカ系/発の作家たちと言語との関係をざっと見渡す部分だが、下線を引いた箇所で「?」となった。クッツェーの第二作目に当たるこの本はまず、イギリスとアメリカで出たはずだ。念のため原文も当たってみたが、原文通りの訳になっているから、これは著者レベッカ・L・ウォルコウィッツの勘違いなんだろう。まず下線部前半。


1)クッツェーの『石の女』は一九七七年に南アフリカで初版が出たが

  In the Heart of the Country(わたしはいくつかの理由で原タイトル通りに『その国の奥で』とする) の「初版は」たしかに1977年に出ているが、南アフリカのRavan社からではなくイギリスのSecker社からだ。同年にアメリカのHarper社からもタイトルが一語異なる形で出ている(理由は後述する)。南アフリカで英語とアフリカーンス語の混じった「バイリンガル版」として出たのは翌年の1978年2月*だ。出版にいたる事情は非常に複雑。この出版年の微妙なずれについては、2014年の拙者訳『サマータイム、青年時代、少年時代』(インスクリプト)の年譜にも、昨年の『J・M・クッツェーと真実』(白水社)の年譜にも載せた。だからここはちょっと残念。


 クッツェーがこの作品を書き上げたときは2つのバージョンがあった、とカンネメイヤーの『伝記』(伝記 p288~)やデレク・アトリッジの著書(Attridge p22)は伝えている。デイヴィッド・アトウェルの作品論(p65~)にも詳しい。(参考図書はブログ下に)

Ravan 1978

 2つのバージョンのうち1つはすべて英語のバージョン。もう1つは会話部分がアフリカーンス語のバージョンだ。ロンドンのエージェント宛てのクッツェーの手紙によると、会話部分にフォークナーが南部訛りの英語を用いたように、自分も英語でローカルな感じを出したいとやってみたがうまくいかなかった、とある。会話は英訳前のアフリカーンス語バージョンがしっくりくるとクッツェーは述べる。


 テクストが海外版と南ア版で異なるこの作品の出版が、南アフリカで一年遅れた理由は、1970年半ばに南アフリカの検閲制度が大きく変化し、作家や編集者が検閲委員会の動きを注視せざるをえなくなったことと関連があるようだ。さらに、旧植民地をも市場にしたいイギリスの出版社と南アフリカの極小出版社との、販売権をめぐる複雑な事情が絡んでいる。


 これはまだ初作『ダスクランズ』が南アフリカでしか出版されていなかったころで、クッツェーは二作目はイギリスやアメリカで出版したいと強く希望していた。そこでレイバンの編集者とイギリスのエージェントと同時に交渉していたらしい。その結果、まず英語のみのバージョンがイギリスとアメリカで出版され、会話部分がアフリカーンス語のバイリンガル版が翌年、南アフリカで出版ということになった。


Harper Collins 1977
 米国版は内容は英国版と同じだが、タイトルがFrom the Heart of the Country になった。これは、Harper の編集者から、In the Heart of the Heart of the Country という書籍がすでにあって図書館に所蔵するときコンピュータ上混乱するので、Here in the Heart of the Country にしてはどうかと提案されたクッツェーが、それでは長すぎるし、自分がつけたタイトルはテキスト全体を貫くあるリズムを示しているのだ、としてFrom the Heart of the Country を提案し、決まった。(下線筆者)

 クッツェーが2つのテクストを準備した理由は、農場を舞台にした会話場面の多いこの作品の本質と関わってくる。南アフリカの農場で用いられる言語は、『少年時代』を読むとわかるが、圧倒的にアフリカーンス語だ。会話はアフリカーンス語であるほうが、クッツェーを含む南アの読者にとって自然なのだ。次に下線の後半部分。


2)英国版では一部がアフリカーンス語から英語に翻訳されている。
Secker&Warburg 1977
 先行する「初版が」が事実と異なるので、理解しにくいのだけれど、ウォルコウィッツは「南アフリカの初版」をアフリカーンス語含みのバイリンガル版と考えたのだろう。

 何語から何語への翻訳かは、アトウェルの草稿研究が明らかにしている。会話部分は最初アフリカーンス語で書かれていたが、作家が改稿の見直しをするとき、草稿の反対ページにアフリカーンス語会話の英訳を書きこむようになったのだ。「自分の作品は英語という言語にルーツをもっていない」と明言するにいたった作家の心情が、非常によく出ているのがこの農場を舞台にした『その国の奥で』だった。


 というわけで、どうやらこの作品の出版年をめぐるウォルコウィッツの誤記に、「クッツェーファンクラブ」の面々は残念ながら気がつかなかったらしい。些細な誤記ではあるが、1970年代南アフリカの出版事情は、J・M・クッツェーという作家の誕生にとって重要なポイントなのだが。

 なんでこんな文章を書いているのか、と自問してみる。どうやらそこには、日本のクッツェー研究者に南アフリカのことをもう少し突っ込んで探って欲しいと思っている自分がいることに気づく。アフリカなんか、と思わずに。クッツェーが生まれて育って、20代の10年間をのぞいて62歳まで暮らした土地なんだから。


 ウォルコウィッツのこの本は、トピカルなテーマを追いかける文芸ジャーナリスト顔負けの奇抜な見立てと文章力で読ませてしまうところが、すごい。でもその足場として透かし見える軸は、「世界文学」としての英語圏文学をマッピングして描こうとする「北の英語文学理論」の欲望にあるのではないか。バッサバッサと斬新なテーマで切っていく勢いには、辺境で生み出される個々の作品の、いってみれば英語以外の「その他の言語」で書かれる作品の出版事情なんかにいちいちこだわらなくてもいい、という姿勢が見え隠れする。いや、ぜんぜん隠れてないか(笑)。村上春樹とJ・M・クッツェーを「翻訳」というキーワードでおなじ土俵に並べてしまうのだから。この2人にとって作家として生きる言語環境と、「翻訳」の切実性や必然性の依って立つところは、まるで異なるだろうに。


 また born translated をわたしは「翻訳されて生まれてきた」と訳すことにしているが、それは「生まれつき翻訳」は「分類」「仕分け」には便利だが、作品が立ちあがる動きを切り捨てるニュアンスがあるためだ。おそらくそれは作品翻訳者の姿勢と、数多くの作品を「研究」する者の姿勢の違いからくると思われる。もう一つ、あえていうなら「生まれつき」に続く語にマイナスイメージ(差別語)を呼ぶ気配が消えないからだ。そのような表現を長く、耳から浴びつづけた世代だからかもしれないけれど。


 翻訳はさぞや大変だっただろうなあと推察する。膨大な作品数と原註、そのファクトチェックの結果と思しき訳註で、クッツェーの書評集と小説の冊数をめぐる警告が入っていたりして、苦労の跡がしのばれます……ご苦労様でした。👏👏👏👏


 ちなみに、2022.4.18現在のWikipedia(英語版)In the Heart of the Countryは、出版年、バージョンともに、きちんと事実を伝えています。💖


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追記:2022.4.24──

1)参考図書をあげておきます。(『J・M・クッツェーと真実』にも入れました。)

Derek Attridge: J. M. Coetzee and the Ethics of Reading, University of Chicago Press, Chicago, London 2004.

Peter D. McDonald: The Literature Police, Oxford University Press, 2009.
J. C. Kannemeyer: J. M. Coetzee, A Life in Writing, Scribe, 2012.
David Attwell: J. M. Coetzee and the Life of Writing, Viking, 2015.

Marc Farrant, Kai Easton and Hermann Wittenberg: J. M. Coetzee and the Archive: Fiction, Theory, and Autobiography, Bloomsbury, 2021.

Robert Pippin: Metaphysical Exile on J. M. Coetzee’s Jesus Fictions, Oxford University Press, 2021.


2)『その国の奥で』のことは『J・M・クッツェーと真実』第三章「発禁をまぬがれた小説」で、部分訳も引用しながら、詳述しました。

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さらに追記:2022.11.12──

*「6月」と書きましたが、正しくは「2月」でしたので、訂正しました。

2020/09/06

DVD『去年マリエンバードで』を見る──ロマン派について考えて、好き放題書いてみることにした(3)

垂れ込めた雲が空をおおい、ときどき雷が鳴り、ザザーッと雨が降ったと思うと、いつのまにか陽の光が差している──今日はそんな変わりやすい天気。台風のせいだ。気圧のせいか、どうも頭がすっきりしない。気分もすっきりしない。こんなときは、と思い立って、買ってあったDVDで古い映画を見ることにした。

『去年マリエンバードで』監督アラン・レネ、脚本アラン・ロブ=グリエ。1961年の映画だ。日本で公開されたのは1964年。黒澤明監督の『羅生門』(1951)にヒントを得た映画だそうだけれど、黒澤の『羅生門』って芥川龍之介の『羅生門』と『藪の中』を合体させたような映画だったよね。
 
 なぜ『去年マリエンバードで』なんか、いまごろ見てるかというと、この映画にヒントを得てJ・M・クッツェーが第二作目の小説『その国の奥で/In the Heart of the Country』(1977)を書いているからだ。クッツェーの小説はタイトル内の「Heart/奥」で、ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥/Heart of Darkness』を響かせながら、映画のモンタージュ技法(アッサンブラージュ技法)を小説という形式に果敢に採用したポストモダン小説といわれている。各章に、1から266まで番号をふって、南アの農場に幽閉されているような主人公マグダの空想、妄想が「父殺し」をめぐって時間的に、場面的に、シャッフルされる構成なのだ。

『去年マリエンバードで』はマリエンバードというチェコ西部の温泉のある保養地を舞台に、きらびやかなブルジョワ趣味の男女たちが不自然ともいえるスチールときわめて限られたムーヴによって撮影されたシーンがシャッフルされて、記憶のあいまいさを追い詰めていく構成になっている。
 今回見て確認したのだけれど、この映画はいってみれば当時のヨーロッパにおけるブルジョワ男の人妻との不倫をめぐるストーカー的な妄想内でくりひろげられる物語だった。2020年になってみると、まあ、美しくも謎めいたオブジェとしての既婚女性とその心理が、じつに表層的なあつかいを受けて描かれていると思わざるをえない。あの当時はこんな感じだったんだよなあ、としか言いようがないけど。

 日本で封切られたのは1964年だが、60年代後半から70年代にかけて新宿3丁目にあったATGでヌーヴェルヴァーグ映画のリバイバル上映をやっていたころ、わたしはジャン・ジャック・ゴダールの『気狂いピエロ』やアラン・レネの『夜と霧』は見たけど、この映画は予告だけ見てスルーした。その理由も今回あらためて納得した。つまらなそうだったのだ。衣装も音楽もこてこてにブルジョワ趣味すぎたし。1960年代後半の東京のデパートはこのこてこて趣味をひたすら追いかけていたんだよね。ココ・シャネル! 
 
 でもおそらく60年代初めのロンドンでこの映画を見たクッツェーは、のちに自作にアッサンブラージュ技法を取り入れた。ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『太陽はひとりぼっち』を見て、モニカ・ヴィッティにぞっこんになる20代前半の青年がこの映画から刺激を受けるのは、十分すぎるほどわかる。7年ほど前にここにも書いたけど

 字幕を見ていて笑ってしまったことがある。「ベット」という語だ。映画はフランス・イタリア合作でフランス語が使われている。これは lit の翻訳なんだけど、当時の日本語は「ベッド」ではなく「ベット」だったのだ。いつからだろう、「ベッド」と濁音になったのは? そういえば「ハンドバッグ」も最初は「ハンドバック」だったなあ、と思い出す「昭和」のわたしです😆。

台詞がまたとてもよくわかるフランス語で、アテネフランセなどでもくりかえし上映されていたかもしれない。なつかしい、というのは抵抗があるけど、あのころのティーポットや灰皿、グラス、ファッション、ヘアスタイル、大ぶりのパールをたっぷり使った宝飾類を確認できるのは面白い。たとえば、ハイヒールの踵のめっちゃ細いこと! とか、この重たそうなイアリングはまだピアスじゃないよな、なんて。93分。ランチ前に見終わった。
(つづく)

 

2009/10/08

フィクションの枠内で虚実のあわいを漂う”クッツェー”

J・M・クッツェーは発表する作品ごとに奇抜な手法を使って、読者を驚かせたり楽しませたりしてきた作家だ。8月にHarvill Secker から出た『サマータイム/Summertime』は1997年の『少年時代』、2002年の『青年時代』につづく自伝的作品の最終巻で、その斬新な手法にまたしても誰もがあっけにとられた。

「自伝的作品」とするのは『少年時代』も『青年時代』も3人称現在形でフィクションとして書かれているからだ。作家の少年期、青年期の横顔を彷彿とさせるエピソードには、きらりと光る真実がチップのように埋め込まれている。
 このような書き方の根底には、過去の自分をその当時の自分とは異なる存在が書いている事実をあいまいにしない、という意識的な姿勢がある。記憶や思い出を現在から見て都合よく変形しながら、1人称過去形で物語る従来の「自伝」という概念に対して、クッツェーは根底的な疑問をつきつけてきたといえるだろう。

 今回の『サマータイム』ではさらに、手法の劇的変換が見られる。これがまたすこぶる刺激的で、端正な文体はじつに軽やか。
 全体は7章に分かれ、第1章と最終章が作家の残したメモと断章で、まず第1章で米国から帰国した独身のジョンが、やもめの父親と廃屋のような家に暮らしていることが分かる。(実際は当時クッツェーには妻も子もいたし母親も健在、その事実は作品内から完全に消去されている。)
 ところが第2章からは一変してインタビュー形式となり、ヴィンセントなる若い伝記作家が登場する。そして読者はいきなり作家ジョン・クッツェーがすでに死んでいることを知らされるのだ。

 伝記作家は生前のクッツェーとは面識がなく、『ダスクランズ』を書きはじめたころから第二作目『その国の奥で』を仕上げていた時期(1972〜77年)に焦点をあて、彼と親交のあった5人の人物にインタビューを試みる。その5人とは、帰国したばかりのジョンの情人となる人妻ジュリア、カルーの農場でジョンが唯一心を開くことのできたいとこのマルゴ、ジョンが一方的にのぼせあがったブラジル人ダンサーのアドリアーナ、ケープタウン大学時代の同僚マーティン、10歳年下のやはり同僚でジョンといっしょにアフリカ文学の講座を教えるフランス人、ソフィーだ。
 とにかく女性たちの語り口がすごい。当時のジョンに対して情け容赦ないことばをあびせるのだ。そこに浮かび上がるのは、ヒッピーのように髭を生やして詩を書いている不器用な本の虫、他人に自分を開いて見せることができず、一族のあいだでも徹底的な変人として扱われる人物である。

 フィクションという枠内で、虚実のあわいを漂いながら、あくまで外側から突き放したように自画像を描こうとする物語は、ときに可笑しく、ときに哀切で、痛々しいまでに苛烈だ。「他者に語らせる自伝」という形式によって初めて、30代半ばという「朱夏のとき」を書くことができるとクッツェーは考えたのだろうか。長いあいだ温めてきたプロジェクトだと、作家自身は語っていた。
 研ぎ澄まされたことばと、行間にちりばめられた貴石のような沈黙が、心にしみる作品である。

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付記:J.M.クッツェーが3度目のブッカー賞を受賞したら、ある全国紙に掲載される予定で書いたものです。残念ながらブッカー賞ハットトリックならずで、ここに載せることにしました。
 2012.5.13/少し補筆しました。