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2021/12/18

中村和恵さんが『J・M・クッツェーと真実』の書評を東京新聞に!

多様性のルーツに肉薄 


2021年も残り少なくなりました。今年は、コロナウィルスが世界に蔓延して2年目、8月には猛暑の東京で、1年遅れのオリンピック、パラリンピックが開催されるという悪夢のような出来事もありました。しかし、過ぎ去ってしまえばすでに遠い、という感じが否めない。

 でも、今年2021年はわたしにとって、なんといっても10月に3冊の著書、訳書を出せたことが大きな出来事でした。『J・M・クッツェーと真実』『少年時代の写真』(ともに白水社)『山羊と水葬』(書肆侃侃房)です。

 そして今日の東京新聞に、今年の最後を飾るかのように、『J・M・クッツェーと真実』の書評が載りました。評者は、中村和恵さんです。「多様性のルーツに肉薄」というタイトルの文章で、外部から見れば「謎めいた」ように見えるクッツェーの姿を立体的に、核心をついた表現で伝えてくれました。

「J・M・クッツェーについて詳細に、同時にわかりやすく書く、という離れ業を本書はやってのける」と始まり、「現在はオーストラリア在住だが、やはり彼は南アの作家なのだ」と指摘する中村さんは、長年オーストラリアの先住民について調べてきた人です。

 最後に、わたしが訳してきたアフリカ大陸出身の作家の名をあげながら、「あの大陸にはまだまだ、語られるべき物語、読まれるべき話がある」と結ぶ。この評者ならではのことばのシャベルで、時間と空間を掘り起こす視点が光ります。

Merci beaucoup!


2019/09/16

トニ・モリスン『他者の起源』より

今年8月5日に88歳で他界したアフリカン・アメリカンの作家、トニ・モリスンが2016年にハーヴァード大学で6回にわたって行った講義の記録、『The Origin of Others/他者の起源』(2017)を読んでいる。

 キーワードは「Other/他者」、「Stranger/よそ者」、「Foreigner/異邦人」、「Outsider/アウトサイダー」といったいくつかの語で示されているが、なかでも「アフリカ」や「ブラック」「ニガー」という語が抽象的な意味合いで文学作品にあらわれるとき、それは作者のどのような心理を照らし出しているかを分析するモリスンの舌鋒は鋭く、たいへん興味深い。興味深いだけではなく、『白さと想像力』(1992)からしばらくご無沙汰していたせいか、ここまで明確に言語化されるようになったかと、感慨深いものがある。

 昨日42歳になったナイジェリア出身の作家、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ(お誕生日おめでとう、チママンダ!)は『アメリカーナ』のなかで主人公イフェメルに、自分はアメリカに渡って「人種」を発見したといわせたが、そんな若手の作品を訳したあとで、モリスンの分析を読むと、モリスンが描いてきた作品の風景がまったく異なったものとして立ち上がってくるのだ。

 とりわけ『The Origin of Others/他者の起源』の最終章に、次のような文章が出てきたときは、書き写さずにいられなかった。記録として、ここに引用しておく。


 With one or two exceptions, literary Africa was an inexhaustible playground for tourists and foreigners. In the works of Joseph Conrad, Isak Dinesen, Saul Bellow, and Ernest Hemingway, whether imbued with or struggling against conventional Western views of a benighted Africa, their protagonists found the world’s second largest continent to be as empty ...... The Origin of Others by Toni Morrison (2017)

 ひとつふたつの例外はあっても、文学作品に出てくるアフリカは、旅人やよそ者にとって無尽蔵の活動の場だった。ジョゼフ・コンラッド、イサク・ディネセン、ソウル・ベロウ、アーネスト・ヘミングウェイの作品のなかで、未開のアフリカという型通りの西欧的視点に染まっていようが、それに抗い奮闘していようが、主人公たちは世界第二の巨大な大陸をからっぽと見なした......
                                          『他者の起源』、トニ・モリスン(2017)

****
 読みながら、かれこれ11年も前にJMクッツェーの『鉄の時代』を訳していたとき、メモを取ったことを思い出した。アフリカ大陸に対する文学者たちの「からっぽ」という認識は、クッツェーが南アフリカの白人文学について書いたエッセイホワイト・ライティング/White Writingで、明確に論じられていたことでもあったのだ。1988年にイェール大学出版局から出た本だ。

 クッツェーは、1652年にアフリカ大陸南端の喜望峰にヨーロッパ人がはじめて植民地をつくってから、ヨーロッパ系植民者がどのような視点から文学を紡ぎだしてきたか、それを詩や、農場を舞台にした小説を具体的に論じながら解明した。そして、植民者たちがどのような人間的退廃をたどっていったかを明らかにしたのだ。

2019/02/13

ナディン・ゴーディマの『夷狄』への感想

備忘のために、ナディン・ゴーディマが1980年ころにJMクッツェーの作品について述べたことばを記録しておく。ペンギンから送られてきた Waiting for the Barbarians のアドヴァンス・コピーを読んだゴーディマは、その感想を乞われてこう書き送った。

「JMクッツェーの視線は存在の中枢を射抜く。そこで彼は多くの人が自分について知る以上のものを見つけて、それを、有能な作家のもつ、緊張と優雅さという熟達の技で伝えてくれる」

”J.M.Coetzee's vision goes to the nerve-centre of being.  What he finds there is more than most people will ever know about themselves, and he conveys it with a brilliant writers mastery of tension and elegance.”

2019/01/25

『イジェアウェレへ』について語るアディーチェ

暮れから引き込んだ鼻風邪がお正月まで尾を引いて、お正月があけたら次にギクリと腰に痛みが走って......なんともさえない2019年の始まりでしたが、やっと抜けたかな、という感じです。外はまだ寒いけれど、紅梅も咲き出して、春はすぐそこまでやってきている気配。枯れ木の枝と枝のあいだを甲高い声を響かせて百舌が行き交っています。
 
 ようやくチママンダ・ンゴズィ・アディーチェ著『イジェアウェレへ/Dear Ijeawele, or a Feminist Manifesto in Fifteen Suggestions』の訳文みなおしを終えて、書籍化への本格的な作業が動きはじめました。いまグーグルで調べて知ったのですが、Ijeawele という名前はイボの女性の名前で、意味は「A Smooth Journey」あるいは「Safe Journey」だとか。へえ、そうだったんだ。すんなりと行く旅。安全な旅。おかしいのはGoogle翻訳では「Online」になっちゃうこと😆。



 アメリカでこの本が出版されたときの動画をここに埋め込みます。2017年春ころでしょうか。Bustle and Strand Bookstore で。
 日本語訳が「早稲田文学」に掲載されてから時間がたちましたが、そのあいだもアディーチェは行動範囲をぐんぐん広げ、つい最近はロンドンでのミシェル・オバマの自伝出版記念イベントで対話の相手をしたりしています。ステージにあがるたびにナイジェリアのデザイナーたちの奇抜な衣装を身につけ、ヘアスタイルも次々と変えて。世界を駆け巡るチママンダの姿は眩しいばかり。
 日本にアディーチェを紹介したのが2005年の北海道新聞のコラムでしたが、あれからすでに14年。まさに光陰矢の如しです。

2019/01/04

誰の寵児にもならぬがよい

Be Nobody's Darling      by   Alice Walker


誰の寵児にもならぬがよい
除けものでいるのがよい
おまえの人生の
矛盾を
ショールのようにして
身を覆うがよい
石つぶてを避けるために
からだが冷えぬように

……
……
……

口にした
勇気ある痛烈なことばのために
数知れぬ者たちが死に滅んだ
川岸で
陽気なつどいをもつことだ

誰の寵児にもならぬがよい
除けものでいるのがよい
死者とともに
生きる資格をもて



朝日新聞社刊 1982
アリス・ウォーカー『メリディアン』(朝日新聞社、ちくま文庫、高橋茅香子訳)の解説「衰弱と再生」で引用されている詩で、藤本和子さんの訳です。ウォーカーの第二詩集『革命的ペチュニア』に入っている詩篇。

『塩を食う女たち』北米黒人女性の聞書集(岩波現代文庫)が多くの人から歓迎されているのは、作品のもつことばの力ゆえでしょう。でも、60年代の公民権運動の果実はほかにもあって、なかでもお薦めはアリス・ウォーカーの『メリディアン』。ピューリッツァー賞を受賞して映画化された『カラー・パープル』も有名ですが、じつは一作前の『メリディアン』がダントツにすばらしいんです。
 この作品で、ウォーカーは運動のなかの「暴力」について徹底的に自問しながら、白人、黒人のカラーラインを超えて仲間と対話する人物たちを登場させます。
 解説を書いている藤本さんの文章がまた、比類なきすばらしさ。ここで全文が読めますので、ぜひ!

 この7巻本の解説も、ぜひ1巻のアンソロジーとして復刊させたいと思っているのですが.......!!!!

2018/09/14

「英語教育 10月増刊号」に書きました

大修館が出している「英語教育 10月増刊号」に、一文を寄せました。

手元に届いた大判の雑誌をぱらぱらめくって、ちょっとびっくり!「ワークシート大集合」とか「2018年版 英語教育キーワード集」という特集があって、最後に「2018年度 英語教育資料」とならぶのですが、この「教育資料」の最後に「文学・今年のベスト3」を書きました。でも、自分で書いておいてなんですが、そこだけ突然、「なぜ??」といいたくなるような内容です。
 その理由は……ぜひ、読んでみてください。

 「文学・今年のベスト3」としてあげたのは以下の3冊

 ・ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子著『大航海時代の日本人奴隷』(中央公論社)
 ・ガエル・ファイユ著/加藤かおり訳『ちいさな国で』(早川書房)
 ・張愛玲著/濱田麻矢訳『中国が愛を知ったころ』(岩波書店)

 3冊とも、英語からの翻訳ではありません。英語の教育雑誌に今年度のベスト3として、英語以外の言語からの翻訳書があがってしまいました。ポルトガル語、フランス語、中国語の翻訳書です。「??」となるでしょう? でも、そこには筆者なりの意味が込められています。
 集団の外から見ること。これ、モラルの問題に通じるのかもしれませんが。
 それも、あとから気づいたのですが、「文学」だったんですね。まあ、歴史も広義の文学なんで。そういう枠の「外側」が、いま必要かもしれません。切実に。なんだかちょっと言い訳めいて聞こえますが💦💦💦。

2017/05/19

無関心な人びとの共謀

 敵を恐れることはない──敵はせいぜいきみを殺すだけだ。
 友を恐れることはない──友はせいぜいきみを裏切るだけだ。
 無関心な人びとを恐れよ──かれらは殺しも裏切りもしない。
 だが、無関心な人びとの沈黙の同意あればこそ、
 地上には裏切りと殺戮が存在するのだ。
                      
                  ヤセンスキー『無関心な人々の共謀』より
                      
共謀罪法案が衆議院法務委員会で強行採決された。こんなひどい法案が、こんな雑で非論理的な説明のままゴリ押しされて成立してしまうのを放置するこの社会、民主思想のかけらも感じられない政治家たちを国会へ送り込んでしまう選挙民の愚挙、それを抑制したり阻止したりできないままの無責任はどこからくるのだろう。

 1970年代に読んだこんな詩を思い出す。思い出すだけでなく、何度でも認識しなおしたい。レジスタンスの方法も各人で、あきらめずに考えていこう。あきらめないで。

付記:まだ「成立」したわけではない。法務委員会で強行採決されただけだ。だから。。。。

2017/04/09

抒情詩との決別──安東次男のことば

 安東次男氏が逝ってから15年がすぎた。今日4月9日は彼の命日。1950年8月、安東次男は初詩集『六月のみどりの夜わ』を出した。「あとがき」から引用する。


 ぼくは時には政治という風景を、時には文学という風景をじぶんに許されたものとしてしらずしらずそれをゆるめたかたちで書いてきたようにおもう。しかしこれは安易にあまえた態度であり、最後のぎりぎりのところでじぶんの人間的立場をあいまいにするものだということを感じはじめている。
 そういうところからぼくはもういちど歌いなおさねばならぬ。ぼくにはアラゴンのいうような「たたかい」も「人」もうたえてはいない。そのことはぼくに、あらゆる「たたかい」の場に於て──ぼくがそれを黙認してきたかたちになつたかつての日本帝国主義侵略期の戦争をもふくめて──いかに抵抗を持ちつずけることがむつかしいかということをおしえた。このおしえはぼくにとつてもう決定的なものとなるであろう。
 そういうところからぼくは持続する歌をうたっていきたい。感情の高まりの頂点に立つような歌ではない。感情の低まつた谷間谷間がそのままで頂点に立つような歌をだ。

(下線は引用者)


人それを呼んで反歌という

「叙情詩は危ない」時代がある、という危機感をもったのはいつだろう。抒情的なものに感動し、なにかと一体化する至福感に酔って、足元を一気にすくわれていくのは危ないと思ったのはいつだろう。抒情的なものに満たされる自分がいることに気づいたときがあった。日本的抒情(あわれ)が現実を見えなくすることにも、そのとき気づいた。うっとりと溶ける、自他の境界が消える、それはこの土地では、下手をすると、自己憐憫や自己惑溺と表裏一体だ、という覚醒が危機感のように襲ってきたのはいつだろう。


 抒情については、1969年の激動の時間のなかでよく考えた。それはよく覚えている。抒情というのとは少しずれるが、セックスによって全宇宙との一体化をめざすヒッピー思想が嫌いだったのは、それが理由かもしれない。女は当然のように「一体化される客体」としてもとめられた時代だ。それを称揚する歌も流行った。奥村チヨの「恋の奴隷」、広田三枝子の「人形の家」。和製フォークもひどく薄っぺらく思えた。いつか足をすくわれる、日本浪漫派のように、と思った。

 暴力について、人と人がかかわることについて、両方の立場から考えてみることを自分に課したのもそのころだった。人とのかかわりが、結果として、抑圧や暴力となってしまうことがあるのかと、愛も、情も、そういうものを伴わずにはありえないのだろうか、と。


 以来、ぬくもりはいつも渇いた場所で見つけてきたように思う。男も女も、厳しい表情がふいに破れて笑顔になるときほど、その人の優しさが強く感じられるときはない。

 たぶん、抒情詩と別れたのは、あの時代だったのかもしれない。うっとりする、足をすくわれる、それはなにかに盲目になることを意味すると、気づいてしまったからだ。Love is Blindという歌に、だから、泣いた。


 安東次男のことを、晩年は「国内亡命者」のように暮らしていた、といったのは確か 粟津則雄氏だった。

 この国を捨てばやとおもふ更衣   流火

 しかし、いまにして思えば、安東次男のことばは、あの戦争に駆り出された被害者としての自己認識はあっても、加害者としての自己認識は不完全だった大正生まれの、わたしの親の世代に共通するものだったかもしれない。

「自然は じつに浅く埋葬する」と歌った詩人は、日本語の外部へ出ることを最終的に恐れ忌避した。その問題を問題として問いそこねた次世代である「われわれ」は、いま、まだ不完全な自己認識を、自己への批判性を、時代の裂け目に試されているような気がする。


2017/03/16

デイヴィッド・アトウェル著からの切り抜き帳

 来週末のデイヴィッド・アトウェル氏の講演会まで、何回かに分けて、彼の近著、 J.M.Coetzee and the Life of Writing, 2015, Viking から気になる箇所を抜き出して紹介する。この本はJMクッツェーにケープタウン大学大学院で教えを受けたアトウェル氏が、クッツェー作品をその生成過程に肉薄して解き明かした本で、本当に面白い。

 これまで『マイケル・K』『少年時代』『鉄の時代』『サマータイム、青年時代、少年時代』『ヒア・アンド・ナウ』と訳してきた者にとっては、なんとなくわかっているが確信がもてないことをいろいろ質問できる絶好のチャンスでもある。予習、予習! 再発見としては、たとえばマイケル・Kについて、今日もこんな記述を見つけた。


More than any other character in Coetzee’s fiction, K embodies a capacity to survive the nightmare of history. It is not fanciful to suggest that by the time Coetzee wrote Michael K, the Karoo had become an essential part of the substrate of his creativity, a key element in his poetics. ──David Attwell, J.M.Coetzee and the Life of Writing, p54.
クッツェーのフィクションに登場する人物のなかで、Kほど歴史の悪夢を生き延びるための素質を体現している者はいない。クッツェーが『マイケル・K』を書くころには、カルーこそが彼の創造性の根幹をなす基本部分となり、彼の詩学を解くための重要な鍵となっていた。

2016/09/23

ドストエフスキーについてクッツェーは

 クッツェーが二度目の来日をしたのは2007年12月だった。この年に出版された『厄年日記』の主人公が、スペイン語の名前であることは以前も書いた。フアンだ。作品内ではセニョール・Cとも呼ばれている。著書に Waiting for the Barbarians があるとされる72歳の作家でオーストラリアに住んでいる。この本の後半部にあたる「第二の日記」の最後を飾るのが「ドストエフスキーについて」という文章だ。そのひとつ前がバッハ。
 彼の最新作 The Schooldays of Jesus を読み、作品内にアロヨ(バッハ)やドミートリー、アリョーシャといった『カラマーゾフの兄弟』の名前が出てきたとき、驚きながらも、そうか、やっぱり、と思ったのだ。

 クッツェーにとってドストエフスキーが特別の存在であることは、彼の作品やエッセイを読み込んできた人にはわかるはずだが、なかでも選りすぐりの日本独自版エッセイ集『世界文学論集』(みすず書房)におさめられた「告白と二重思考」は圧巻だった。
 また、息子ニコラスの死を乗り越えるためにも書かざるをえなかった『ペテルブルグの文豪』(1994)の主人公はそのままドストエフスキーという名の作家だった。それ以外に、クッツェーがこの文豪について書いている文章はひとつしかない。ヨーゼフ・フランクのドストエフスキーの伝記、第四部 Miracurous Years に対する書評だ。これは2001年に出たエッセイ集 Stranger Shores におさめられている。

 クッツェーがドストエフスキーの作品をどのように読んでいるか、老作家フアンの口を借りて書いているのが次の文章だと思えばいいだろうか。これがまた、すごいのだ。フアンという作家の性格や年齢によって脚色され、こういう書き方になっているのだろうが、その底流にはクッツェー自身の本音もちらほら見え隠れして、どこまでが創作でどこまでが本音なのか、といつもながら興味がつきない。
 すこし訳出する。

********************
 昨夜、『カラマーゾフの兄弟』の第二部第五章*をまた読み直した。イワンが、神の創造した世界へ入るための入場券を突き返す章だ。堪えきれずに、わたしはすすり泣いてしまった。

これまで数えきれないほど何度も読んできたページなのに、それでも、そのページを前にするとその力に慣れるのではなく、むしろ以前にも増して自分がどんどん感じやすくなっていくのがわかる。なぜだろう? なにもイワンの復讐心に燃える考え方に共感しているわけではない。彼とは違い、わたしは政治的倫理への貢献でもっとも偉大なものはイエスによってなされたと考えるからだ。私たちのなかで、傷つき、腹を立てている者に、イエスが、もうひとつの頰をも差し出すよう促し、そうすることで復讐と報復のサイクルを断ち切るよう言ったときのことである。とするなら、なぜイワンのことばが、心にもなくわたしを泣かせてしまうのか?

 答えは倫理や政治とはまったく無関係、すべてはレトリックに関係している。許しを認めようとせずに長々と熱弁をふるうイワンは、恥知らずにも、自分の議論を進めるために感情(犠牲になった子供)や戯画(残虐な地主)を利用する。あまり説得力のない彼の議論の中身よりはるかに力強いのは、苦悩を強調する語調であり、それはこの世界の恐怖に耐えられない魂の個人的苦悩である。わたしを圧倒するのは、ドストエフスキーによって言語化されたイワンの声であって、彼の理屈ではない。

 あの苦悩の口調は本物だろうか? イワンは「本当に」彼が主張するように感じているのだろうか、そしてその結果、読者は「本当に」イワンの感情を共有することになるのか? 後者の質問に対する答えは厄介だ。答えは、共有する、だ。ここで人が悟ることになるのは、イワンのことばを聞いているときでさえも、彼が自分の言っていることを心から信じているだろうかと疑いながらも、自分も立ち上がって彼にならって入場券を突き返したいのかと自問しながらも、それはいま読んでいる単なるレトリック(「単なる」レトリック)ではないのかと疑いながらも、疑い、衝撃を受けながらも、キリスト教徒であり、キリストの従者であるドストエフスキーが、どうしてイワンにこれほど力強いことばを語らせることができるのか、なのだ──そのようなさなかにもまた、こう考える余地はある──すばらしい! ついにわたしは目の当たりにしている、至高の地における激しい戦いがくりひろげられているのだ! だれかに(たとえば、アリョーシャに)、言葉によって、あるいは例証によってイワンを論駁するためにそれがあたえられるものであるなら、キリストの言葉はそのときこそ、永遠にその正しさが証明されるだろう! それゆえ人はこう考える、栄光の(スラヴァ)、フョードル・ミハイロヴィチ! あなたの名が永遠に名声の殿堂に鳴り響かんことを!

 そして人は、ロシアに、母なるロシアにもまた感謝する、そのような異論の余地なき確かさで、われわれの目の前に、真摯な小説家なら誰しも骨惜しみせずに到達すべく努力しなければならない水準を設置したということに。たとえそこへ到達するには千載一遇のチャンスしかないとしても。それは、一方に文豪トルストイが、他方に文豪ドストエフスキーがいるという水準である。彼らを模範とすれば、より良き芸術家になれる。より良きというのは、技巧に長けているという意味ではなく、倫理的に優れているという意味だ。彼らは人の不純な虚勢を消し去り、視界を澄明にし、腕の力を強化するのだ。⭐︎


*「プロとコントラ」の章:米川、池田、原、亀山各氏の訳を読み比べてみた。勢いをつけて、わ~っと読めたのは新訳で、日本語の移り変わりの早さをあらためて思い知らされた。

2016/09/16

J・S・バッハについてクッツェーは

 15歳のときに偶然、隣家から流れてきたバッハの音楽に少年ジョン・クッツェーが凍りついた話が「古典とは何か?」(『世界文学論集』所収)に出てきたけれど、以来、クッツェーはJ・S・バッハの音楽をつねに身近に置いて暮らしてきた。『サマータイム』には、バッハにはまった少年が、テバルディ好きの父親と戦闘状態に入ったという、少年時代のエピソードも書かれていた。

 彼の最新作 The Schooldays of Jesus のなかに、ヨハン・セバスチャン・バッハの名前や彼の音楽理論のようなものが書き込まれているのを読んで、ふと思い出したことがある。2007年に出版された『厄年日記/Diary of a Bad Year』だ。
 この本は奇妙な構成で、全体が第一部「強烈な意見/Strong Opinions」、第二部「第二の日記/Second Diary」の二部からなり、さらに、その主文ともいえるオピニオンやダイアリーの下に、まるで楽譜のスコアのように下部パートが二つならんでいる。今回、思い出したのは、ポリフォニックな装いで小説仕立てにするためのそれら下部パートではなく、あくまで主文のほうだ。

 この本の「第二の日記」の最後から二番目に「 J・S・バッハについて/On J. S. Bach」という一文があったのだ。クッツェーが大バッハをどのように評価しているかを考えるよき道しるべになる文章と言えるだろう。

 試訳を少し引用しよう。
************ 
                  
 人生は良きものであり、それゆえに神はやはり存在するかもしれず、神がわれわれの幸福を望んでいることを証明する最良のものとして手元にあるのは、われわれ万人には、生まれたその日からヨハン・セバスチャン・バッハの音楽があたえられていることだ。それは贈り物として、労せずして、不相応にも、無償であたえられている。
                             
 一度でいいからあの人と、とうの昔に死んでしまった人ではあるが、話をしてみたいものだ!「見てください、二十一世紀のいまも、われわれはあなたの音楽を演奏し、その音楽に深い敬意を抱き、愛しつづけています。心を奪われ、感動し、力づけられ、楽しませてもらっています」とわたしは言うだろう。「全人類の名において、とても十分とはいえませんが、どうかこの賛辞を受け取ってください。そして、あなたが晩年に耐えた辛い歳月を、痛ましい目の手術も含めて、忘れ去ることができますように」

 なぜバッハなのか、なぜバッハだけに話しかけたいという願望をわたしは抱くのか? なぜシューベルトではないのか(酷い貧窮のなかで生きなければならなかったことを忘れることができますように)? なぜセルバンテスではないのか(無残にも手を失ったことを忘れることができますように)? ヨハン・セバスチャン・バッハとは、わたしにとって何者なのか? 彼の名をあげることで、生者と死者のなかから父なる人を選んでよいと言われて、自分は彼の名をあげているのだろうか? そういう意味で、精神的な父としてわたしは彼を選んでいるのか? そしてその口元に、初めて、かすかな微笑みをついに浮かばせたことで、わたしが償いたいと思うものとは、いったい何か? 生涯にわたり、わたしがかくも悪しき息子であったことだろうか?
⭐︎                        
この最後のところが泣かせる。というか、『厄年日記』の2年後にあたる2009年に発表された『サマータイム』の息子と父親の関係に、まっすぐつながっていくところが要注意だ。
 考えて見ると、奇妙にもスペイン語が出てくるのは、この『厄年日記』からだった。72歳の書き手がスペイン語のフアンという名になり、セニョール・Cと呼ばれていたのだ。ここから「イエスの新シリーズ」は羽を生やして、飛び立ったのかもしれない。

2016/06/07

クッツェーの創作プロセスを探るアトウェル


デイヴィッド・アトウェルがその著書『J.M.Coetzee and the Life of Writing──face to face with Time』についてインタビューに応えている中身が、とても面白いので、その続きを。

──この本のサブタイトルに、face to face with Time とありますが、どういうことですか?
DA:このフレーズは『マイケル・K』のある草稿から採ったものです。マイケルはスヴァルトベルク山脈に逃げ込んで、ここまでくればもう追っ手は自分を探し出せないと思ったとき、「これでついに俺は時間と差し向かいだ」と考える。クッツェーが人間の存在と向き合う方法としてフィクションをどのように使っているかを論じるために、僕はこのイメージを使いました。

──あなたの書いた本は、伝記とどう違うのですか?
DA:伝記作家は作家を包装して棚に飾ります。作家の作品を小さくまとめて個人生活にしてしまうことも多い。クッツェー自身、一度、伝記作家というのは作家が書いていないとき何をしているかについて書くんだと指摘していたことがありました。僕はちょっと違うことをしようと思った。生活ではなく、作品から始めることで、つまり、どのように作家の人生が変形されて作品内に具体化されていったかを見ていった。

──クッツェー作品を通して、彼のどんな内面が、どのように把握できるのでしょう?
DA:クッツェーの一般的イメージは、厳格で、よそよそしく、感情を顔に出さない、それに、つまらないやつには手厳しいというものです。彼の書いたもの(原稿類や出版された小説)からわかるのは、彼が傷つきやすくて、間違いもやるし、不安症だということです。とはいえ、クッツェーほど自分に厳しい人はいない。自分自身への要求は信じがたいほど厳しく、自己統制と、自分の仕事へのコミットは半端ではありません。

──アトウェルさんはこの本を、どうのような読者を想定して書いたのですか?
クッツェーとアトウェル 2014
DA:クッツェーの小説を読んだ人なら誰でも、もっと知りたいと思う人は誰でも読めます。批評家は、これは役に立つ内容だと思うでしょうが、僕はあくまで一般読者に向けて書きました。いちばん得るところが多いのは、たぶん、作家たちではないかと思っています。どんなふうに作品が書かれたのか、彼らはとても知りたいでしょうから。

──作家が書くプロセスについて書いたわけですね、アトウェルさん自身、そこからご自分の書き方について何を学びましたか?
DA:自伝を書きたいという欲求は、あながち悪い出発点ではないということです。クッツェーはほとんどいつも個人的なことから書き始めています。そのあと徹底的に文章の練り上げをやります──何度でも書き直す──書き直しの回数たるやすごい。

──クッツェーとその小説に対する考え方がどう変わりましたか?
DA:学生時代に彼の最初の小説『ダスクランズ』を読んでから40年ものあいだ、僕はクッツェーのフィクションの賞賛者でした。(ついでにいうと『ダスクランズ』は植民地主義がテーマ、というか、脱植民地主義を舞台化したものだといったほうがいいでしょう。読破にはちょっと胆力が必要ですが、扱われている暴力は現在に通じるものです。)長年のつきあいで、僕は、クッツェーがたどった旅の、なにがしかを理解できたように思います。彼の作品のファンとして出発し、いまではさらに、彼が作品を生み出すにいたった創造性とそのプロセスを理解できるようになりました

2016/05/24

パレスチナをめぐる J・M・クッツェーの姿勢

 ポール・オースターとの往復書簡集『ヒア・アンド・ナウ』に収められた2010年4月17日付の手紙のなかで、クッツェーはパレスチナについてこんなふうに述べている。備忘録をかねて書き写しておく。(p169-172)


──君がイスラエルの問題を持ち出すのは初めてだ。イスラエルについて語るのは難しいが、僕の言うことを我慢して聞いてくれるなら、絡まり合った僕の考えを秩序立てて述べてみようと思う。
 イスラエル/パレスチナのニュースに注目すると愕然としたり嫌悪感が嵩じたりして、どっちもどっちだと言って顔をそむけてしまわないよう一苦労することがある。パレスチナ人に対してはおびただしい不正が行われてきた──それはわれわれすべてが認めるところだ。彼らは自分にまったく責任のない、ヨーロッパで起きた出来事の結果に耐えることを強いられてきたし、それは──君がワイオミングをユダヤ人のためにというファンタジーのなかで指摘するように──パレスチナ人を彼らの土地から追放することを伴わない、数ある方法で解決できたかもしれない。
 しかし、起きてしまったことは起きてしまったことであり、なかったことにはできない(訳注『マクベス』)。イスラエルは存在し、まだまだ存在しつづけるだろう。イスラエル人政治家は、アラブ軍が国境にあふれ、男を虐殺し、女をレイプし、神殿の契約の箱に尿をひっかけるというイメージを呼び起こしたがっているのは分かっているが、事実としてアラブ人は、必死で努力してきたこの半世紀にパレスチナ人の土地を一平方メートルすら取り戻せていない。かりに彼らが新たな侵攻を試みたところで、成果をあげるだろうと考える公平無私な観察者はいない。

 (そして運命論ともいうべき意見を述べる。)

──敗北というものがあり、パレスチナ人は敗北した。そんな運命はひどく過酷かもしれないが、彼らはそれを味わい、本当の名前でそれを呼び、甘受せざるをえない。彼らは敗北を認めざるをえず、それを建設的な意味で受け入れざるをえない。そうせずに非建設的な道を歩めば、明日は奇跡が起きて過ちはすべて糾されるという報復主義者の夢に滋養をあたえつづけることになる。敗北を認める建設的な方法としては、一九四五年以後のドイツが参考になるかもしれない。
 究極の報復の夢と僕が呼ぶものをパレスチナ人は究極の正義の夢と呼ぶのだろう。しかし、敗北は正義をめぐるものではない、それは暴力を、より大きな暴力をめぐるものだ。公正な結着を求めるパレスチナ人の表向きの嘆願の下でくすぶる、テーブルをひっくり返す究極の夢、それがイスラエル人に見えているかぎり、彼らが交渉による結着に熱意を見せることはないだろう──熱意を見せない以下だ。
 パレスチナ人に必要なのは「われわれは負けた、彼らが勝ったのだ、武器を捨ててわれわれにできる最良の降伏条件の交渉に入ろう、もしもそれが慰めになるなら、全世界が監視するだろうと心に留めながら」と大声でいえる人物だ。言い換えるなら、彼らに必要なのは偉人であり、彼らのなかから舞台へあがってくる、ヴィジョンと勇気をもった人物なのだ。不幸なことに、ことヴィジョンと勇気となると、僕には、パレスチナ人がこれまで生み出してきた指導者たちは小人という印象がする。そして僕の推測では、なにかの偶然で聖人があらわれたとしても、すぐに撃ち殺されてしまうだろう。
 ひょっとするとパレスチナの女性たちが指揮者の座を引き継ぐ時代がやってきたのかもしれない。

(こんな意見を読むと、どっきりする人もいるかもしれない。ここを訳しながらわたし自身、とても緊張した記憶がある。イスラエルの不正を糾弾したい強い感情のため、その反転像としてパレスティナの現実を見てしまいがちだからだが、となると、現実を苛烈な、曇りなき眼で見ようとするクッツェーの視点をとらえそこねる、と思ったからだ。しかし……。クッツェー自身はイスラエルについてこう述べる。)

──パレスチナ人についてこんなふうに言ってしまったのだから、僕はさらに続けて、歴代のイスラエル政府が執ってきたその方法には醜悪きわまりないものがあると言わなければならない──民主的に選ばれた政府が、超憲法的行動以外は絶対に変えられない、欠陥だらけの、お粗末な憲法下で進めてきたこと──これはもう正真正銘、胸くそが悪くなる。レバノンとガザで先ごろ行われたことを表現することばは一語しかない。「身の毛がよだつ/シュレックリッヒ」という語だ。「身の毛がよだつこと/シュレックリッヒカイト」──醜く、厳しい語──ヒットラー主義者の語──人間を扱う醜く、厳しく、容赦ない方法を意味する語だ。より良き人間になりたければ人間の歴史が教える教訓に耳を傾けるべきであり進歩にはそれが不可欠だ、と考えたがるわれわれ誰もがしばし黙考を促されるに違いない問い、それは、歴史はイスラエルにどのような教訓をあたえてきたか、ということだ。

(分厚い高いコンクリートの壁で囲まれたパレスチナはいまや「アパルトヘイト」の名で呼ばれるようになった。アパルトヘイトの元祖、南アフリカで生きた体験を交えてクッツェーはこう述べる。)

検問所を抜ける文学祭のゲストたち
──僕は人生の大半を南アフリカに住み暮らした。そこでは大勢の白人が黒人のことを、丁重な恩着せがましさから紛れもない侮蔑、さらには赤裸々な憎悪まで、ありとあらゆる口調で話していたが、それはイスラエル人が──じつに、じつに多くのイスラエル人が──アラブ人について話すときに用いる口調だ。「善い」イスラエル人がいるように(僕はそんな人たちに会ったことがある、彼らは地の塩だ)、かつての南アフリカにも「善い」白人はいた。だがここには慰めとなる教訓は潜んでいない。「悪い」南アフリカ白人が敗北したとしても、それは彼らのやり方が間違っていると「善い」南アフリカ白人が説得して改悛させたからではなかった。かりに「悪い」イスラエル人が敗北するとしても、それは「善い」イスラエル人が彼らを恥じ入らせるからではないだろう。それはまったく違う理由からであるだろうし、われわれにはそれがまだ見えない。
 僕は「左翼」の側の人間だと思われているため、パレスチナ人のための嘆願書に署名してくれとか、彼らの大義をおおむね支持してくれと頼まれる。頼まれたようにすることもあるし、しないこともある。常に決定は心の奥を探ることを要求するものだ(下線引用者)。この点ではきっと僕も例外ではないと思う。多くの非ユダヤ系西欧知識人を含む、他の多くの西欧知識人のように、僕はイスラエル/パレスチナについては引き裂かれた感情を抱いている。
 この僕がなぜ引き裂かれた感情を抱くか、それには二つの理由がある。第一の理由は、西欧文化内のユダヤ的要素が僕という人間の形成に影響をあたえたからだ。フロイトやカフカがいなければいまの僕はいないし、あの奇人変人のユダヤ人預言者、ナザレのイエス(下線引用者)については言を俟たない。それに対してアラブ文化やムスリムの宗教思想は、その客観的偉大さがどうあれ、僕という人間の形成になんら関与していない。
 もちろんフロイトやカフカはベンヤミン・ネタニヤフにとってなんの意味ももたない。ネタニヤフはユダヤ人の過去における最悪のものの継承者だ、最良のものではない。僕には、ネタニヤフと彼の共犯者が失墜すればいい、ユダヤ右派に楯つく度胸のある新しい指導者が到来すればいい、と熱烈に思うことになんら良心の呵責を覚えない。

ラーマッラーの丘で朗読を聴くゲストたち
(さらにクッツェーは、外部の人間にはいささかショッキングな、しかし、友情をめぐる、あるいは愛をめぐる、紛れもない人間の真実を──アパルトヘイト下の南アフリカで、多くの人たちが人間関係を引き裂かれ、常に選択不能なものの選択を強いられつづけた社会で、長いあいだ生きた者として──はっきりと言語化していく。ここまで突き放して、明言できる人も少ないかもしれない、とわたしなどは、湿気の多いアジアの土地で思うのだ。言外の意を汲み取ることをよしとするアジアは、この辺の問題になると、たいがい口を濁してしまいそう。彼が友情について、愛について出した結論は、ぜひ直接本にあたってみてほしい。
 そしていま、クッツェーはパレスティナ文学祭に招かれ、ゲストとしてパレスティナを訪れている。47歳のとき彼はエルサレム賞を受賞し、イスラエルに赴いた。76歳にしてパレスティナの地を踏んだ彼は、いま何を感じ取り、何を考えているのだろう。26日には朗読をするというが、どんなメッセージを発するのだろう。眼が離せない。)

2016/02/18

キルメン・ウリベの『ムシェ──小さな英雄の物語』

遅ればせながら、キルメン・ウリべの『ムシェ──小さな英雄の物語』(金子奈美訳 白水社刊)を読んでいる。
 これはある種のファクツ・フィクション。すでにあちこちに書評が載って、高い評価をえている作品なので、内容の紹介はそちらにゆずって、ページを開いてまず感じるのは、日本語としての安定したリズムだ。
 前作の『ビルバオ──ニューヨーク──ビルバオ』ですでに、文体の確かさついては指摘されていたけれど、今回は前作に増してことばづかいに磨きがかかったようだ。アトランダムに開いたページを少し書き出してみようか。
 たとえばこんな箇所:

 ロベールは空襲に遭う。気がついたときには、周りのものすべてが崩壊している。足下には地面、頭上には空。目の前の家で、瓦礫のなか、石材や木の板や鉄くずの下から誰かの声がする。帽子、割れた食器、ひびの入った古時計をよけ、……

 あるいはこんな箇所:

 住民のあいだには強い連帯感があった。ムシェ家の下の階には、ある画家が住んでいた。画家はロベールに、万が一警察がやってきたら、窓から中庭に降り、そこから自分のアトリエを通って裏口から逃げなさいと言ってくれた。裏通りの角には小さな食料品店があった。緊急の場合はそこから電話をかけることができた。

 どのページを開いても、淡々と情景や場面を描いていく端正な文章に出会う。抑制の効いたことばの連なりが描き出す悲劇的な物語は、しかし、悲しさや辛さにまつわることばで読者の感情をあおることがない。そこがいい。
 むしろ静かな、衒いのないことばの奥に広がる作者のまなざしが、読者に、透明なガラスの向こうに目をこらすような覚醒感をうながすのだ。ここには、作者の文体が──といってもバスク語はまったく理解できないが──訳者の文体とまれに見る幸福な関係にあるのではないかと、読んでいて、想像をたくましくするものがある。

 翻訳の至福!

2015/10/30

『戯れ言の自由』── 平田俊子さんの新しい詩集

 今日、半透明の紙に包まれて、一冊の詩集が届いた。瀟洒な装丁の、平田俊子さんの『戯れ言の自由』(思潮社)という詩集だ。

 平田さんの詩のことばは、いま、こうして読んでみると、とても心が休まる。なぜだろう。読み手が頭をフル回転させたり、気持ちの持ち出しをしなくても、ことばが穏やかに、いっしょに歩いてくれる、そんなリズムがあるからだろうか。短い詩行が数ページ続いて終わる。ほどよい飛翔感を残して着地するひとつひとつの詩が、日々、目にする、すさんだ日本語の荒れ地のなかに、まっさらな飛び地のように、すなおに広がっている、そんな気がするからだろうか。一篇、書き出してみる。


  〈美しいホッチキスの針〉

   きょう届いた数枚の書類は
   ツユクサの花の色をした
   美しい針で綴じられていた
   灰色の地味な針しか知らない私に
   その色は新鮮だった
   曇天のように重たいこころを
   艶やかな針の色が
   少し明るくしてくれた

   ホッチキスの役目は紙を綴じること
   針の色にこだわる必要はないのに
   美しい色に染めた人がいて
   その針を選んだ人がいて
   そのうちの一本が
   旅をし 私のもとに届いた
   ツユクサを通して
   知らない人たちと
   手をつないだような気分だ

   人のこころを慰めるのは
   花ばかりではない
   油断すると指を傷つける
   小さく危険なものにさえ
   人は心を遊ばせる
   夕焼けの空 朝焼けの空
   空が青以外の色に染まったときも
   人は満たされ 立ち尽くす


 詩集の最初に置かれた詩だ。最後まで読んでこの詩に戻ってきたけれど、じつは、平田さんの詩の後ろには、ぴりりと辛い真実も潜んでいて、歳月の厳しい雨風、それを通り越した暴風雨にも耐えて、生き延びてきたような確かさもあるのだ。でも、風通しがじつにいい。観念語の多用でいつまでも現実に届かない、読む側の焦燥感をかきまわす、ことばの無駄がない。

半透明の紙に包まれて届いた
 最後から二つ目に置かれた「揺れるな」は懐かしい(とためらいながらも言ってしまおう)。2011年3月11日の大震災のあと、渋谷で開かれた「第一回 ことばのポトラック」で朗読された詩だ。わたしも参加させていただいたとき、何年ぶりかで平田さんと会ったのだった。そのとき平田さんが開口一番おっしゃったことばが、ずいぶん昔の記憶を呼び起こした。平田さんとは一度、あるトークの会でご一緒したことがあったのだ。そのときのことを、平田さんも、わたしの顔を見て思い出したらしい。
 シスネロスの『マンゴー通り、ときどきさよなら』から朗読したときのことだったから、1997年とか1998年ころだろうか。場所はたしか駒込だった。平田さんは駒込が出てくるご自分の詩を読まれたのだった。
 こんなふうに、わずかな点と点を結ぶような出会い方ではあるのだけれど、平田さんの詩を読むと心が休まるのは、多分、同時代を生きてきた人のことばがここにあると確認できるからかもしれない。それが嬉しい。しかも、それは時代を超える戯れ言たちでもあるのだ

2015/03/23

岩波文庫『マイケル・K』のゲラ読み完了

三度目の正直、とはこのことかと思いながら、J・M・クッツェー作『マイケル・K』(岩波文庫)のゲラを読んだ。初訳が出たのは1989年10月だったから、かれこれ26年以上も前だ。二重の意味で初訳書だった。クッツェーの作品が日本語になるのも、わたしが訳者となる本が書店にならぶのも初めてだったからだ。インターネットなどない時代で、南アフリカの事情や固有名詞を調べるのには本当に苦労した。

 二度目はちくま文庫に入ったときで、2006年だった。いろいろ気づいたことがあったので全面的に改訳した。そして三度目の今回は、作品を読んでいてまったく異なる風景が目の前に立ちあらわれて驚いた。理由はいくつも思い当たる。
 
 まず、クッツェーの作品をすでに6作も訳してきたので、初訳時と違って、この作家のことがかなり深く理解できていること。ことば遣いの特徴、文章のリズム、作家の好きな表現や癖、疑問符の多用、くり返される自問など、いろいろある。なんといっても大きな違いは、この10年のあいだに作家自身と何度も会って話をし、人柄などがじかに分かったこと、数年前に南アフリカを旅して作品の舞台となった風景を実際に見てきたことだ。

『マイケル・K』はいわばロードノベルだ。マイケルはケープタウンから内陸部のプリンスアルバートまで徒歩で旅する。その道程は地図通りに進んでいく。いまなら、グーグルマップでたどることもできるし、ストリートビューを使えば、田舎町の大通りをゆっくり車で走る気分さえ味わえる。

 作品が書かれたのは1980年代初頭、30年以上も前のことだ。だから、もちろん違いもある。アパルトヘイトは1994年に完全撤廃され、新体制に変わった。これは決定的だ。ヴスターへ向かう国道1号線も変わった。マイケルがプリンスアルバートをめざしたころは、まだユグノートンネルは着工されたばかり。当然、マイケルは山を登り、峠を越える道をたどる。それでもケープ半島や内陸のカルーの風景そのものは、基本的に変わっていない。気候だってそれほど違わない。出てくる地区、道路、街、山脈、川といった固有名も地図を探せば見つかる。

 今回、あらためて発見したのはスヴァルトベルグ山脈の近くの風景が、まさしく赤い岩石質の土だということだった。放棄された農場にやっと辿り着いて畑を耕し始めたが、かつての持主の孫が脱走兵としてあらわれて彼を下僕にしようとした。そこでマイケルは農場をいったん離れてこの山のなかにこもる。洞穴ぐらしをして、岩肌に咲いた花を両手に何杯も食べて胃が痛くなったりもする。それがこの赤土の山だ。

俺が欲しいのは緑と茶色ではなくて黄色と赤の大地だ。湿った土ではなくて乾いた土、暗色ではなく明色の土、柔らかい土ではなくて固い土だ。かりに人間に二種類あるとしたら、俺は違う種類の人間になろうとしている。手首を突き出してじっと見ながら、傷を負っても血は噴き出さずに滲み出すだけかもしれない、そう思った」(岩波文庫版、p106)

 1989年に初訳が出たとき、この本を「マジック・リアリズム」と評した人がいたが、これほど実際とかけなはれた読み方もないだろう。南アフリカという土地について、日本語読者が地理、歴史といった基本的な知識をもたない時期だったせいだろうか。背景や流れがよく分からないものに、このレッテルを貼って分類するのが流行りだったのか。
 
 それで思い出すのは、「マジック・リアリズム」という語について、ハイチ出身の作家エドウィージ・ダンティカが鋭い批判を述べていたことだ。ガルシア・マルケスの作品内で起きる出来事について、あれはカリブ海社会の「日常だ」と彼女は言ったのだ。このことは「リアリズム」という語について、誰の目から見て「リアル」なのかを考えるとき、とても示唆的だ。

思えば80年代後半という時代は、南アフリカだけでなく、世界を見る目が恐ろしいほど偏っていたのではなかったか。南アでは、1994年に悪名高いアパルトヘイトから解放され、2010年にはサッカーのワールドカップも開催された。日本語読者との距離感は明らかに変わった。でも、無意識に眠る西欧中心主義、名誉白人は名誉であるという意識は、はたして変わっただろうか? むしろ「グローバリズム」だとか「英語中心主義」の文脈のなかで、暗黙のうちに強化されてはいないだろうか?
 作品の背景にある暴力的な格差社会(不平等社会と呼びたい)も、ある意味、南アフリカ固有のものではなくなって、世界中どこでも、じつに身近なものになってしまった。

 今回の決定版のために訳文は再度見直しをし、訳者あとがきもここ10年間にえた新情報を盛り込んで、クッツェーという作家の全体像がこの作品を通しても透かし見えるようにした。この「決定版への訳者あとがき」には昨年のアデレードの作家宅訪問の成果も入れたのでお薦めしたい。

**
写真は上から「国道1号線からの風景」(道の両側に必ずこんな金網のフェンスが張ってある。)。2枚目が「タウスリヴァーの駅舎」でマイケルが鉄道の土砂崩れに労働力として駆り出され、汽車でたどり着いた場所だ。3枚目が「スヴァルトベルグ山脈の道」、赤い山肌を見せてそそり立つ絶壁。4枚目がSecker&Warburg から1983年に出た原作の英国版ハードカヴァー。

2015/02/11

クッツェーがブリンクについて書く

同僚であり共編者、アンドレ・ブリンク──J.M.クッツェー
ぼくが初めてアンドレ・ブリンクの名前を耳にしたのは1960年代、合州国に住んで学んでいたときだった。故郷から伝えられる噂では、アフリカーンス語文学の保護者が変わり、アンドレやヤン・ラビ、エティエンヌ・ルルーがリードする新しい世代が台頭してきたということだった。ヤン・ラビ(アイス・クリッジの友人で「オンラス」サークルの一人だったと思う)のことは聞いていたが、ほかの二人は知らなかった。探してみると、ブリンクの著書だけが入手できた。英訳版の Die Abassadeur だ。

1971年に南アフリカへ帰国して、ぼくは南アの新聞をまた読めるようになった。日曜版「ラポート」紙で偶然、アンドレ名義の長い文学評論をいくつも読んだ。それは他の文学ジャーナリズムのなかでも抜きん出ていた。新しい詩やフィクションについて評するその文章は、ぼくには分野全体を完璧に把握しているように思えたが、ごく普通の教育を受けた読者なら思わず誘い込まれるうまい書き方でもあった。書き手がヨーロッパやアメリカの同時代文学で起きていることに精通しているのは明らかだった。

実際にぼくがアンドレと接するようになったのは1980年代のことで、コース・ヒューマンの働きかけによって彼とぼくが新しい南アフリカ文学のアンソロジーを共同編集することになったときだ。このアンソロジーは、イギリスではフェイバー社から、アメリカではヴァイキング社から出版されることになったが、南アフリカの作家たちの、英語で書く作家とアフリカーンス語で書く作家の作品を(翻訳で)一冊の本に収める企画だった。ぼくは英語作家を、アンドレはアフリカーンス語作家を受け持った。選集にはあたうるかぎり最新の情報を盛り込むことにした。

スーパースターとして、そしてアフリカーンス語文学界の「アンファン・テリーブル」としてのアンドレの噂は知っていたので、ぼくはさぞかし苦労の多い時間になると覚悟した。たとえば、かんしゃくを破裂させたり、最後通牒を出したり、締め切りを守らなかったり。ところが、彼は共同作業者としてはじつに完璧、素早く、無駄なく、文句をいうこともなく、第一級の仕事をしたのだ。われわれの共編書『引き裂かれた土地:同時代南アフリカ読本』(1986)はいまでも、この種の本としてはなかなかの出来に思える。それは、より広い世界に対して、南アフリカの歴史上の危機的時代における文学を、スナップショットとして伝えている。

その後、彼がローズ大学を去ってケープタウン大学へくるまで、アンドレとぼくは持続的な連絡をとることはなかった。ローズ大学では比較文学の教授というのが彼の持ち味を生かす地位だったが、UCTには比較文学の学部がないため、彼の所属は英文学部となった。そこに彼はすっかり馴染んた。英文学も米文学も、彼の新しい同僚とおなじように、ときにはそれ以上に熟知していたのだ。彼はロマンス語の学部でだって十分教えられたのではないかと思う。

アンドレはUCTでは大学院生をおもに教えた。英文学や他の文学研究の修士課程で学ぶ者、あるいはクリエイティヴ・ライティングの修士の院生である。補助教師としてぼくは彼の修士の授業にいくつか参加した。彼が教える院生は途方もなく恵まれていると秘かにぼくは思った。クリエイティヴ・ライティングの院生が自分の書いたものについて指導を受けるとき、その指導はまっすぐ問題の核心を突きながら、じつに思いやりのある、じつに理解ある態度で表現されていたからだ。文学を志す学生は本物の文人が仕事をするようすを目の当たりにする機会に恵まれたわけだ。彼の守備範囲はときに世界文学全体にまでおよび、哲学的にも洗練され、現代批評の最新の流れにも通じていたのだから。

20世紀後半の南アフリカの歴史に対する概観が定まろうとしているいま、われわれは、Sestigers つまり、1960年代に花開いたアフリカーンス語作家および知識人の世代のなかで、アンドレが果たした歴史的役割がなんであったかを理解することができる時期にいる。作品を通して彼はアフリカーンス語小説に、ヨーロッパやアメリカのモダニズムの方法と関心を持ち込んだ。と同時に、彼がおおやけの知識人(ひどく酷使された用語だが、彼の場合は偶然ながらぴったり適合する)として、そしてかなりの程度まで政治的知識人として生きた人生を通して、彼は1948年以降体制の独断的、文化的麻痺状態から、危険ながら刺激的なポストコロニアル世界へとアフリカーナーを引きずり出すことに大きな役割をはたした。彼の活動に対する罰として、彼は長年にわたって国家機関から嫌がらせを受け、執拗に悩まされた。彼は迫害する者に対して立ち向かい──勇敢に、とぼくには思えた──受けた分に等しく返しもした。やはり、人が誇りをもって振り返るキャリアかもしれない。☆

**************
付記:これは先日、他界した南アフリカのアフリカーンス語作家、アンドレ・ブリンクのことを多くの人に知ってもらうために訳しました。ぜひ、彼の作品を実際に手に取ってみてください。日本語ならこちら。あるいは、この本も(いま、サイトをのぞいてみると、どこも売り切れですが、近いうちにきっと増刷されるはずですから、そのときはぜひ!)おすすめです。

2014/12/12

アンキー・クロッホ/Antjie Krog について


J・M・クッツェーの未邦訳の著作『厄年日記/Diary of a Bad Year』(2007)から、南アフリカの詩人・ジャーナリスであるアンキー・クロッホ(1952年生)について書かれた文章を訳出します。

〈アンキー・クロッホ/Antjie Krog について〉

放送波にのって昨日、アンキー・クロッホが自分で英訳した詩を読むのを聞いた。ぼくの間違いでなければ、彼女がオーストラリアの聴衆の前に姿を見せたのはこれが初めて。テーマは大きい──彼女が生きる南アフリカでの歴史的経験だ。詩人としての才能は挑戦を受けて立つことで伸び、決して萎縮することはなかった。強烈な、女性的知性に裏づけられた断固たる誠実さ、そこに描かれる、胸が引き裂かれるような経験。彼女が目撃した恐るべき残虐性に対する答え、引き起こされた苦悩と絶望への答え──子供たちに、人類の未来に、永遠に再生する命に向きあって。

 オーストラリアには、これに比肩する熾烈さで書く者はいない。アンキー・クロッホという奇才は、ぼくにはとてもロシア的に思える。南アフリカでは、ロシアのように人生は悲惨だが、なんと勇敢な精神がすっくと立ちあがり応答することか! 
                   (『厄年日記』より、2007、p199)

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 クロッホはアフリカーンス語で書く詩人です。アパルトヘイト政権下で行われた国家権力による残虐な暗殺、拘禁、拷問といった非人道的行為について、真実を語ることで罪を問わないという前提で「真実和解委員会」が開かれましたが、クロッホはこの委員会について詳細な報告書を書いています。それはCountry of My Skull という分厚い本になりました。邦訳もそのままの『カントリー・オブ・マイ・スカル』、現代企画室から出版されています。

2014/11/06

わたしの父 ── クッツェー『厄年日記』より


 クッツェー作品には、ほとんどいつもといっていいほど頻繁に、親子の関係が書き込まれる。母と息子/娘、父と息子/娘、これはなにを意味するのだろう? 三部作を訳了したいま、このことを考えてみるために、以前、試訳した「わたしの父」をアップすることにした。

わたしの父  ──『厄年日記』(第二の日記、03)より 

 ケープタウンの保管場所から最後の荷物が昨日とどいた。おもに引越荷物に入りきらなかった書籍と、破棄する気になれなかった書類だ。
 そのなかに、父が三十年前に死んだときにわたしの所有物となった、ちいさなダンボール箱があった。いまもラベルが貼られたままだ。父の遺品を詰めた隣人が書いたもので、「ZC││抽き出しの中身」とある(訳註/ZC=ザカライアス・クッツェー)。箱には第二次世界大戦中の一時期、彼が南アフリカ軍に従軍してエジプトやイタリアに行ったときの思い出の品々が入っていた。戦友たちと映った写真、記章、勲章、書きはじめてはみたが二、三週間後に中断されて再開されることのなかった日記、遺跡(大ピラミッド、コロッセウム)や風景(ポー谷)の鉛筆画、それにドイツ軍がプロパガンダ用にまいたビラの数々。箱の底には晩年に書き散らした紙片があり、新聞の切れ端にことばを書きなぐったものが含まれていた ──「なんとかならんのか、おれは死にかけてる」。
 人生にごくわずかなものを求め、ごくわずかなものしか受け取ることのなかった男が残した遺稿(ナーハラース)だ。根っから勤勉ではない ── 最大級に優しいことばで「気楽な」── 人間が、それでも中年からは諦観の境地で、代わりばえのしない単調な骨折り仕事をつぎつぎと渡り歩いた男。アパルトヘイト制度が保護し、恩恵をあたえるべく構想した世代の人間でありながら、そこから彼が得たものはきわめて僅か! 最後の審判の日に、奴隷酷使者や利益搾取者を待ちうける地獄に彼を追いやるには心を鬼にしなければならないだろう。
 わたしのように彼もまた、軋轢、激発、怒りを顔に出すことを嫌い、だれとでもうまくやろうとした。彼がわたしのことをどう思っているか、話してくれることはついになかった。だが心の奥では、高く評価してはいなかっただろう、わたしにはわかる。自分勝手な子どもだ、それが冷たい人間になった、そう思っていたにちがいない、それをわたしは否定できるだろうか?
 とにかく、彼はこの形見の入った、あわれなほどちっぽけな箱へと縮んでしまい、そしてここに歳をとるばかりの保管者、わたしががいる。わたしが死んだら、だれがこれを取っておくのだろう? この品々はどうなるのだろう? それを思うと胸が締めつけられる。

 第一作目の『ダスクランズ』の前半部には、ヴェトナム戦争の心理作戦計画の立案にたずさわる若いユージン・ドーンなる人物が出てくるが、彼には妻マリリンとのあいだに5歳の息子がいる。精神に異常をきたしはじめたドーンは、その息子を連れて逃亡する。物語は独房内のドーンのことばで終る。そこにはちらりと「ヴァンパイアの翼を広げる」母親のイメージが出てきて、これについてはまだ全然書いていない、なんていってるが、すでにここには母と息子の愛憎にみちた関係を暗示する不穏なことばがしっかり書き込まれていたのだ。

 二作目『その国の奥で』では、南アフリカの奥地の農場を舞台に娘マグダが父親を殺す場面が出てくる。これはつい最近、クッツェー自身の手になるシナリオが本になったばかり。
 三作目の『夷狄を待ちながら』には直接的な親子の場面はないけれど、その次の『マイケル・K』は、31歳のマイケルが病んだ老母アンナを古い農場へ連れて行く、という設定。さらに『フォー』は、気丈な女性、スーザン・バートンが消息不明になった娘を探す旅に出るというものだ。次の『鉄の時代』はガンの再発を宣告されたミセス・カレンが渡米した娘に書き残す手紙、という枠組みのなかで物語は展開される。『ペテルブルグの文豪』は紛れもない文豪ドストエフスキーが息子パーヴェル(妻の連れ子)の死をめぐって懊悩する物語だし、ヒット作『恥辱』は旧体制の価値観から抜け出せない大学教授の父デイヴィッド・ルーリーと、新体制のもとでなんとか細々と農場暮らしを切り開こうとする娘ルーシーの物語だ。

 もちろん『少年時代』『青年時代』『サマータイム』といった自伝的三部作には、作家自身のヒストリーとして、現実的なモデルとしての父と母がつねに顔を出す。
 オーストラリアへ移住してからの作品にもまた、なんとなく影は薄くなるけれど、親子のイメージはくり返される。『遅い男』には、独り身の主人公ポールが思いを寄せる家政婦マリアナにはドラゴという息子がいて、彼の教育費をポールが援助しようとする話が出てくるし、最新作『イエスの子供時代』にも、架空の土地に、記憶を消されて船で移民した男シモンと5歳の男の子ダビッドという疑似親子が登場する。
 
 ここにアップしたのは『厄年日記/Diary of a Bad Year』(2007)の後半に含まれている断章だ。『少年時代』や『サマータイム』に登場する父親ザカライアス・クッツェーの話と思われる。30年前に死んだとあるが、事実1988年没だから史実とほぼ一致する。書いているのは JC という72歳の作家で、『夷狄を待ちながら』という作品を書いた南アフリカから移住してきた人物だ。
「J」が「フアン」の頭文字であることは作中で明らかになるが、これはジョンのスペイン語読みだ。作家と書き手がまたまた微妙にダブる仕掛けになっているのだ。作家クッツェーはこの作品を書いているとき、すでにスペイン語世界の入口に立っていたことがあらためて分かる仕掛けだが、断章自体はもっと切実な何かを暗示してもいる。老父への追想が胸をしめつけられる思いとして書き留められているのだ。思えばこれは、クッツェーが二度目の来日をする直前に発表した作品だった。

2014/10/22

『J・M・クッツェー:カウンターヴォイス』by キャロル・クラークソン

冷たい雨が降る日。ふと目をあげると窓の向こうに、色づく杏の葉が見える。雨に濡れるとひときわ鮮やかさを増す色合いを楽しみながら、キャロル・クラークソンの『J.M.Coetzee:Countervoices』を読む。

 クラークソンは J・M・クッツェーの研究者でケープタウン大学の教授だ。2012年12月にクッツェーが同大学で『The Childhood of Jesus』から朗読したとき、彼を「Welcome home, John!」と紹介した人である。

 この本は2009年に出た。近刊書として本のタイトルを目にしたのはちょうど『鉄の時代』の解説を書いているときで、早く読みたいと思ったものだ。拙訳『鉄の時代』は2008年9月刊行だったので、結局、解説の参考にはできなかったけれど、それでもおおまかな備忘録的な意味を込めて、解説内に「カウンターヴォイス」という語を入れておいた。というわけで「カウンターヴォイス」はそれ以来ずっと宿題のようになっているのだ。

 クッツェーの自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代』を訳し、自伝とフィクションをめぐる作家の立ち位置を考えながら解説も書き、本自体の出版も無事に終えたいま、あらためてクラークソンのこの本を読みなおしてみる。彼女は、クッツェーが自分を語る英語内で一人称と三人称を意識的に使い分けることについて、言語学的な背景と倫理学的な背景の両方から迫っていく。ちなみにクッツェー自身は60年代の構造主義言語学を学んだ人であり、その理論を十全に取り込み、それを超えるべく実験的作品や批評を書いてきた作家である。この本は、クッツェーのそういった試みを、作家の文章や発言を具体的にあげながら解明しようとするスリリングな著作なのだ。

以下に目次を。これを見るだけでも、興味がそそられるではないか。

 Introduction
   1  Not I
   2  You
   3  Voice
   4  Voiceless
   5  Name
   6  Etymologies
   7  Conclusion:  We
   Notes
   Bibliography
   Index

 2009年刊なので、この本が扱っている自伝的作品は『少年時代』(1997)と『青年時代』(2002)までで、2009年の『サマータイム』は残念ながら出てこない。だが、彼女の議論の延長線上にこの三作目をのせて考えてみると、ぱっと視界が開ける瞬間がある。クッツェー作品には美学と倫理学のまれにみる幸福な結婚があるのだ。

 Not I はベケットから。最後の結論:We までの展開は? 読者と書き手の、自伝をめぐる暗黙の了解事項をどう揺さぶるか。読者としての書き手の位置は? You と I のあいだに入る三人称。he を I で書き換えてみると見えてくるもの。
 日本語は、もともと You が明確に存在しないところが厄介だ。彼我の境目もはっきりしないのはさらに厄介(「あわれ」は、あれ、と、われ、がミックスしたものか?)なんてことを考えながら読んでいく。
 記憶は時間の経過とともに上書きされ、作られていくことは紛れもない事実だ。そこを明確に意識化しないと『少年時代』や『青年時代』で三人称現在が用いられている意味は理解できないかもしれない。また、語る者と語られる者がきっぱり分離して、作品内で熾烈な格闘をする『サマータイム』は容赦なく読者を試してもくる。クッツェーを読むといつも、自己検証能力がびしびし鍛えられる。そこがクッツェー作品の最大の魅力なのだ。

 ちなみに、クラークソンのこの本は2013年に学術書としてはめずらしくペーパーバックになっている。多くの人に読まれている証拠だろうか。そういえば、2年ほど前に来日したデレク・アトリッジ氏が「キャロルの本は読んだ?」と聞いていたことも思い出される。