2020/06/09

今日の午後は映画「奇跡の丘」を観たのだ

 今日の午後は、ピエロ・パオロ・パゾリーニ監督の映画「奇跡の丘」をじっくりと観た。ジョン・クッツェーが若いころからくりかえし観てきた映画だ。

 7年前にJ・M・クッツェーの『青年時代』の翻訳のためにDVDを買って観たのだけれど、そのときは「ふ〜ん」と思っただけだった。だが、クッツェーが着々と書き進めた「イエスの三部作」の最終巻「イエスの死」を昨年10月に英語版で読んだとき、この映画は絶対もう一度観なければと思った。今日それを果たして、なるほど、これか! と唸ってしまった。

『青年時代』によれば、これは青年ジョンがロンドン時代に政教一致の南アフリカで教育を受けた自分が、それまでに心身ともに染み込んでいるキリスト教文化の土埃を足から振り払ったつもりが、そうではなかった、最後に近いシーンでキリストの両手に釘が打ち付けられる一瞬一瞬に身体がぶるっぶるっと震えて、見終わったときは不覚にも涙が出てきた、という体験として述べられていた。彼が眼鏡を初めて作って観た映画でもあった。

パゾリーニの映画は、聖書のなかでもいちばん物語性の強い「マタイによる福音書」に基づいていて、聖書の有名なエピソードが次々と描かれる。音楽はバッハだ。マタイ受難曲や、耳慣れた曲がいくつも聞こえてくる。また、最初に聞こえてきたのはアフリカンアメリカンのゴスペル歌手、オデッタの「ときには母のない子のように」で、ああ、この映画は1964年製作だったんだとしみじみした。

 今回とりわけ印象に残ったのはイエスの母親役を演じた女優だ。なんと、パゾリーニ自身の母親だという。息子を磔にされる老女の悲しさが、震える全身から伝わってくるのだ。『鉄の時代』の主人公エリザベス・カレンの心象とつい重ねてしまいそうになった。

 パゾリーニの映画についてはこのブログでも何度か書いてきたが、とくに2017年にミラノで行われた映画祭のときにクッツェー自身が映画評を書いているのを再録しておく。元ポストはここ。

「弱き者と抑圧された者に寄り添うマタイ伝を忠実に映像化しようとした、イエスは超人的に描かれる、それはパゾリーニのイエス観にもとづく、神話を再現しようとしている、当初撮影が予定されていたパレスチナはイスラエルの意図により聖性が取り去られていて、南部イタリアに変更された、そこは先進国のなかの第三世界であり抑圧された土地だった、人々の慎みは聖地がもっていたものと同じである、その慎みと聖性は、現代のパレスチナのように、失われていくものだった、パゾリーニはのちにそれを嘆くようになる、パゾリーニはこの映画に中世の世界観を持ち込む、すなわち光は世界を照らすというものである、ゆえにこの映画の人々は逆光や真上からの光線により、造形的に正面から絵画的に描かれる、イコンのよう映像なのである。」(翻訳は土肥 秀行

「イエスの三部作」との関連はまた別に書こうと思う。

2020/05/13

ディアス・ビーチのJ・M・クッツェー

これで何度目かなあ、と思いながら2000年のJ・M・クッツェーのインタビューを見る。オランダのテレビ局が制作した「美と慰めについて/Of beauty and consolation」というシリーズ。最初のほうは、ケープタウンのホテルでのインタビューで、音楽的な美しさがあると著者自身がいう『マイケル・K』の最後の部分を、オランダ語で朗読するクッツェー。(このブログに埋め込むのは、たぶん、1度目2度目、そして今回の3度目)
 


(以下のメモは備忘のため)

「書くことについて/on writing」
世界をありのままに把握してそれをある枠組みのなかに置き、ある程度まで手なづけること、目標としてはそれで十分/grasping the world as it is and put it within a certain frame, taming it to a certain extent, that is quite enough for an ambition」

52:40
人は癒しのために美が、自然の美が必要なときがある、なにか小さな、花とか、あるいはワイルドで大きなここの風景のようなものによって、自分の、動物としてのオリジンと結びつくような自然の美が。。。

備忘録として少し書いておくが、最後のほうで、『鉄の時代』に出てくる「天国」の部分に関連させて質問している。クッツェーは「死」「神」「天国」といった概念について「考えていく」と明言していた。

1:15:00
ヨーロッパの伝統で人が神に「不死の生」をさずけてほしいと願ったのは誤りだった。

2020/05/12

『鉄の時代』のファーカイルは白人か、黒人か?

J・M・クッツェーの『鉄の時代』に出てくる浮浪者ファーカイルは白人か、黒人か?
河出文庫 2020.5.7発売
これはなかなか解けない問いのようだ。2008年に初訳が出たとき、ある研究者は白人と断定して自作内で論を立てた。ある読者は黒人とみなして感想を書いた。しかし。

主人公ミセス・カレンの家の敷地に無断で入り込み、ガレージのわきの通路にダンボールとビニールシートで家らしきものを勝手に作って、そこに身をまるめていたのがファーカイルだ。作品の最初に、まず書かれているのがファーカイルの風貌で、細かな描写がある。

「背が高く、痩せこけて、風雨にさらされた皮膚に、長い虫歯の犬歯、ぶかぶかの灰色のスーツを着て、縁のほつれた帽子をかぶっていた」

 これだけでは「黒人か白人か」はわからない。ところが数ページ後に非常に重要な語がはさみこまれる。

「馬面の、風雨にさらされた顔、酒で目のまわりがむくんでいる。奇妙な緑色の目──不健康な」

 この「緑色の目」というのが決め手となるか、ならないか。白人だ、と思ったひとはここで判断したらしい。しかし、ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』の主人公はカラード(混血)だが紺碧のような緑色の目をした男だった。ということは?
 だが、決め手は、じつは、もっと後ろにある。ミセス・カレンの家で働いているメイド、フローレンスには子供が3人いて、長男ベキがいつのまにかタウンシップから逃げてきて、カレンの屋敷に住み着いている。住み着いて、といっても庭に離れのように立てられた狭い召使い部屋に、ということなのだが、このベキがあとからやってきた友人ジョンと2人で、酒浸りのファーカイルに殴りかかり、ファーカイルが手に持っていたブランデーの瓶の中身を地面に捨てるシーンがある。ここが決定的なのだ。なぜか?

ペンギン版 2018.9.25発売 
白人の屋敷内で黒人少年(ベキというのはバンツー系/黒人の名)が、いくら浮浪者でも白人に殴りかかることは、まず考えにくい。87年のケープタウンでの出来事なのだ。まだアパルトヘイトの法律は歴然と存在する。そして、酒ばかり飲んでいて闘わない旧世代へ若い世代が憤怒を募らせてきた歴史的事実があったことを思い出したい。南アフリカの解放闘争の歴史を少しひもとけば、それはわかる。とりわけブランデーがカラードの労働者たちに給料の代わりに支給された事実は『デイヴィッドの物語』にも出てきた。だから、若者が「のらくら者」と思われるファーカイルに殴りかかるシーンは、世代間の対立をあらわにする場面でもあるのだ。 
 そこまで読み解けば、ファーカイルは白人ではありえないことがわかるだろう。たとえ緑色の目をしていても。

 また、「黒人」だという見方は、非白人をすべて「ブラック」と呼んで団結した人たちの用語からすればあたっているが、フローレンスやベキのような「黒人」は当時南アフリカの法律では「ネイティヴ」と呼ばれた。だから「ブラック」というのはあくまで「非白人」という大雑把なカテゴリーなのだ。そこにはカラードもインド系もアジア系も入った。闘争の最終段階では「we black」と明言した反体制の白人闘志もいたくらいだ。そしてケープタウンはこのいわゆる「カラード」が「ネイティヴ」より多い街だったのだ。

 ということを考えると、ファーカイルはやっぱりカラードか、と思いいたる。おそらく、そうだろう。カラードといっても、肌の色とか文化的な背景とか、じつにさまざまなんだけど。
 そして作家は「ジョン・クッツェーはあたうるかぎりこの語を使うのを避けた」と『サマータイム』のなかで元恋人・同僚のソフィーに言わせていたことも思い出したい。


(2014年11月にアデレードで開かれたTraverses: J.M.Coetzee in the World の初日の朗読でクッツェーはこの『鉄の時代』の冒頭を朗読した。)

***
付記:そもそもVercueil・ファーカイルという名前は、いわゆるバンツー系(コーサとかズールー)の黒人の名前ではない。この作品中に出てくるThabane・タバーネとか、『恥辱』のセクハラ委員会の委員長Mathabane・マタバーネはともにバンツー系の名前だが、Vercueil・ファーカイルは明らかにフランス語かオランダ語起源の名前をアフリカーンス語読みしたもの。「V」は「ヴ」ではなく「フ」に近い音なのだ。これは2006年の初来日時に、作家本人に何度も発音してもらって確認した。

2020/05/02

J・M・クッツェーのシカゴ講演:『子供百科』で成長すること(2)

なんだか妙に気温があがってきて、そよとも風が吹かない午後になった。
 連休中はどこも書店は休業を余儀なくされて、かろうじてネット書店で注文はできるものの、本や雑誌が手に入りにくくなってる。おまけに肝心要の図書館も閉まっている。そこで!

岩波書店の「思想 5月号」に掲載されたJ・M・クッツェーのシカゴ講演:『子供百科』で成長すること(約53枚)──の解説「J・M・クッツェーの最新スタイル」を期限限定でここにアップすることにした! 
 クッツェーの講演の中身は第2巻の日本語訳が出たばかりの「イエスの三部作」と切っても切り離せない内容の、非常にスリリングな話になっているのだ。


*****J・M・クッツェーの「新」スタイル ****

──ほかに読むものがないときは緑の本を読む。「緑の本を一冊持ってきて!」と病床から母親に向かって叫ぶ。緑の本とはアーサー・ミーの編纂した『子供百科』のことで………『少年時代』12章

 これはアレルギーで微熱をだしたジョンが書物を貪るように読みはじめた『少年時代』のシーンである。『青年時代』『サマータイム』と書き継がれた自伝的三部作(1)の初巻を訳してから「緑の本」とはどんな本だろうとずっと思っていた。謎を解いてくれたのが2018年10月9日に作家が古巣のシカゴ大学で行なったこの講演 Growing up with The Children's Encyclopedia (『子供百科』で成長すること)だ。母親が買いあたえた中古の百科事典が少年期の自己形成にどんな影響をおよぼしたか、それを細かく検証しようとする作家はこのとき78歳である。

「緑の本」と呼ばれた『子供百科』の編者アーサー・ミーとはどんな人物だったか、編集方針やその底に流れる思想はどんなものだったか。アングロ・サクソンを最優秀とする雑駁な人種概念、優生学的な進化思想、ひた隠しにされたセックス、みずからの命を捨てる犠牲的精神の称揚など、クッツェーが文章や図版を示しながら論じる内容はスリリングだ。

──中略──

『子供百科』がイギリス帝国のプロパガンダとして愛国的な子供を作るために編集された歴史的事実と、その時代背景を分析する視線が、南半球で生まれた彼自身の少年時代を容赦なく照らしだしていく。

 『イエスの幼子時代』(註3)『イエスの学校時代』(註4)『イエスの死』と書き継がれた三部作は「特別な」子供と教育をめぐる、すぐれて哲学的な思弁小説である。

──以下略──


2020/05/01

河出文庫版 J・M・クッツェー『鉄の時代』

植木鉢にハーブの種など蒔いていると、予定より早く入手可能になっていました。河出文庫版のJ・M・クッツェー『鉄の時代』です。

 最初、カバーを見たときはびっくりしましたが、1990年に出たハードカバーとならべてみると不思議な共通点が浮かび上がることに気がつきました。ともに女性のプロフィールなんです。

右:Secker&Warburg 版 (1990)
原著の表カバーは打ちっぱなしのコンクリのような、木製のような、壁の上に何枚かのガーゼを重ねて、茶色の染みのようなものをにじませ、遠くから見るとギリシア彫刻の、おそらくデメテルの顔が、ぼんやりと浮上するようになっています。裏表紙もまた女性の写真で、顔の上にガーゼが置かれています。
 今回の文庫では、そんな「病んだ人間」を思わせる「ガーゼ」こそ使われていませんが、また別の要素が加味されて……まあ、カバーの話はこのくらいにして。

1990年版ハードカバー裏
これでクッツェー作品の文庫化は、2003年に集英社文庫『夷狄を待ちながら』、2006年にちくま文庫『マイケル・K』(その後 2015年に岩波文庫)、2007年にハヤカワepi文庫『恥辱』に続いて、4作目になります。

 舞台はアパルトヘイト末期のケープタウン、元ラテン語教師だったミセス・カレンが娘にあてて遺書代わりに書く手紙、という形式の小説です。2008年に池澤夏樹個人編集の世界文学全集の第1期に初訳として入りました。翻訳作業が作家の2度目の来日と重なって、膝詰めで疑問点を解決できたのは本当にラッキーでした。そんな裏話は、このブログ内にも<『鉄の時代』こぼれ話>のタグをクリックするとたくさん出てきます。

 作家クッツェーがまだケープタウンに住んでいたころの骨太の作品です。動乱の時代に目の前の現実にどこまでも真摯に向き合おうとする、そんな緊張感がみなぎった作品はこの「コロナの時代」を生き抜くための救命ボートにもなるでしょうか。なるといいなと思います。今回、文庫化にあたって新たに「訳者あとがき──よみがえるエリザベス」を書き下ろしました。J・M・クッツェーの現在地と、彼の作家としての世界的評価についても書きましたので、ぜひ!☆
 

2020/04/30

土はいいなあ!──植木鉢に種を蒔いた

4月30日
3月26日
窓の外では新緑が日に日に鮮やかになり、レッドロビンが真っ赤に発色していく。

 4月最後の日、気温はぐんぐん上昇して、室内でも21度か22度近い。陽のあたるベランダはもっと高く、先月末に移植したローズマリーの葉先が微風に揺れている。

 ひと月あまりで、ひょろひょろだった針のような細い葉っぱも、茎も、少しだけ太くなって、緑の色も少しだけ濃くなった。このささやかな変化、つまり生長は、見かけはどうってことないけれど、毎日水をやったり観察したりしている者には嬉しいのだ。お風呂に入れた赤ん坊の体重を、毎日計測するような感じかもしれない。枯れずに大きくなって!

なかよく並んだセージとパセリ
先日、古い土に改良材を混ぜ、黒土も混ぜ、PH濃度を調整して寝かせておいたものに、今日は種を蒔いた。
 3つのふぞろいな植木鉢に、セージを2種類、イタリアンパセリを1種類。セージもパセリも以前は苗を買ってきて植え付けたものだった。でも今回は、りちぎに種からやってみることにした。どうなるかな? ちゃんと芽を出すかな? 
 これで日々、ささやかながら、閉じこもり生活の楽しみができた。

 土はいいなあ!

2020/04/15

J・M・クッツェーのシカゴ講演:『子供百科』で成長すること(1)

雑誌『思想 5月号』(岩波書店)にJ・M・クッツェーのシカゴ講演を訳出した。2回に分けてリポートする。

 『子供百科』で成長すること:Growing Up with The Children's Encyclopedia

 ここでも紹介した、2018年10月9日にシカゴ大学で行われた講演だ。許諾を得たときに著者クッツェーから送られてきた、じつに興味深い14枚の写真も一挙掲載。

 クッツェーは1990年代末から2003年まで約6年間シカゴ大学社会思想研究所に所属し、1年のうちの半年をシカゴで過ごしていた。ノーベル文学賞受賞の報を受けたのはここに滞在したときだった。クッツェー自身にとって思い出深い場所であり、親しい友人たちのいる古巣でもある。司会のジョナサン・リアは、だから、最初に「Welcome home, John!」と呼びかけて、クッツェーにマイクを渡した。

講演の内容は、子供時代の読書がその人間の自己形成にどれほど深刻な影響をあたえるか、ということをみずからの経験を探るように分析、検証していくものだ。
講演後のQ&A
『少年時代』に「緑の本」として出てきた、アーサー・ミー編集の大部な百科事典について、それが第一次、第二次世界大戦間に、イギリス帝国のプロパガンダとして編集され、世界中で売れた背景に何があったか。歴史的な意味を白日にさらしていくのだ。
 百科事典がおもにどのような思想にもとづいて、誰が書き、それがカウンターヴォイスをもたない幼い子供にどういう影響をおよぼしたか。それがいまも彼自身のなかで、どうしようもなくかきたてる感情について。
 講演の内容はスリリングきわまりない。自伝とフィクションの境界があいまいなクッツェー作品を愛読してきた読者には、必聴、必読の内容だ。
 
HarvillSecker版
2020.1
クッツェー作品はそれが書かれた同時期の評論と読み合わせると作品理解を助ける、というのは作家自身の発言で、彼は「蛮族を待ちながら/Waiting for the Barbarians」は同時期に書かれた論考「告白と二重思考」(『世界文学論集』みすず書房)と読み合わせるといい、と推奨している。

 このシカゴ講演はちょうど「イエスの三部作」の最終巻『イエスの死』を書き終えたころの講演だ。教育、子育て、といったテーマと重なる内容から「イエスの三部作」との併読をおすすめする。作品をより深く味わうことができるのは間違いない。(つづく


***
付記:公開日が4月15日になっているが、実際に公開した今日は25日。岩波書店から「思想5月号」がとどいたので、リンクを貼った。

2020/04/08

書評:関口涼子著・訳『カタストロフ前夜』

 「じんぶん堂」に関口涼子著・訳『カタストロフ前夜』(明石書店刊)の書評を書きました。

        声はわたし(たち)にも触れる

フランス語で書かれた3冊を、著者みずからが日本語に訳したという稀有な本です。もとの3冊、書名はこんな感じ。

 『これは偶然ではない/ Ce n'est pas un hasard』
 『声は現れる/ La Voix sombre』
 『亡霊食/ Manger fantôme』

 自作翻訳は、作家によってはややもすると部分的な表現の書き直しが起きやすいものですが、訳者である関口さんはこの本を原テクストにできるだけ忠実に訳したそうです。その意味は、本を読むとよくわかります。
 著者と訳者は同一人物ではあるけれど、書くことと訳すことに鋭く意識的であることは、著者が、そして訳者が、ファクトに対して誠実であろうとすることで、この訳書はそのことが浮き彫りになっています。いろんな意味でとても貴重な本です。おすすめです!

***
 非常事態宣言という名の引きこもり宣言が出て、今日から引きこもらざるをえない人が増えるけど、基本的に家で机に向かって仕事をする身には、ほとんど毎日が引きこもりなので、生活のペースはあまり変わらない。

 でも、医療現場、介護の現場、清掃や保育の現場、食料や必需品を作ったり売ったり詰めたりする現場、運送する現場、そういうところで働いている人たちに生活の基本的部分を負っていることを忘れずにいよう。心から感謝する。

 そして、今回の宣言の結果、仕事がなくなったり収入が途絶えたり、減収になったりする人に、政府は即座に現金を出す。そうしなければ生活が成り立たない人がいる。無条件ですぐに出さなければダメだと思う。そのための税金であり、そのための「政府」じゃないか。


2020/03/29

解説──ガエル・ファイユ『ちいさな国で』

朝、目が覚めると外は雪。大ぶりの牡丹雪が降っていて、すでに樹木はこんもりと白い帽子をかぶっていた。3月の末、東京はよくこんなぼた雪が降るんだった。満開の桜たちはどうしてるだろうなあ。さて。

 文庫化された本に解説を書きました。epi文庫『ちいさな国で』、早川書房から4月2日(木)の発売です。単行本として出た年に、日経新聞に書評を書き、「はじめての海外文学」でもおすすめの1冊にあげた作品でした。

   ── ガエル・ファイユのふたつの世界 ──

     自伝はすべてストーリーテリングであり、
       書くということはすべて自伝である。
            ──J・M・クッツェー

 この本は、ブルンジ出身のフランス語で書く作家でありラッパーであるガエル・ファイユの小説で、訳者は加藤かおりさん。とにかく書き方がうまいし、そこに出てくる事実に圧倒されます。おもしろくてぐいぐい、訳も読みやすく、最後は心に染みて、しばし沈黙──という感じです。

 ブルンジという小国で、フランス白人の父、ルワンダ難民のアフリカ人の母のあいだに生まれたガブリエルは、内戦が激しくなったブルンジからフランスへ向かう飛行機に、妹といっしょに乗せられていきなり「旅立つ」ことを強いられる。その体験の向こうに、その奥になにがあったのか。

 通称ギャビーが少年期の多感な日々を思い出しながら、あるいは創作しながら、みずみずしいタッチでつづったオートフィクション。背景にあるのはヨーロッパがアフリカを植民地化した歴史と、ルワンダ虐殺です。

 ガエル・ファイユはラッパーとしても活躍していて、むしろこっちが本業なんじゃないかと思うのですが、その魅力はYOUTUBEでも味わうことができます。ぜひ! この本と同名の「Petit Pays」の動画です。


 

(記録のために始めたブログ、最近はちょっと間があくことが多くて反省。。。こまめに書いておくと、不確かな記憶を探るため、あとで検索かければいろいろ確認できる。そう、わたしにとっては、それが本来のブログの役目だった。)



2020/03/27

フラットシューズのチママンダ

コロナウィルスのブレイクアウトが心配されている東京で、週末をどうすごすか? 食べ物、飲み物を確保して自宅で、自室ですごす。これまで読みたかったのに読めなかった本をかたっぱしから読破する。観たいと思っていた映画や動画を観る、というのもひとつの方法だと思います。料理というのもいいなあ。すぐに結果が出て、滋養豊か。

 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェのこれまでの動画のなかでも、特におすすめの一本をあげておきます。「エコノミスト」のSacha Nautaがインタビュアーになって、マンチェスターで行われたイベント、白熱したやりとりが展開されます。とくにterfについて突っ込まれたアディーチェの、明快な応答が聞けます。(昨秋このブログでアップしたものですが、再掲!)

 注意して見ると、いつもピンヒールに奇抜なドレスに凝ったヘアスタイルで決めるアディーチェが、このときはシンプルな白い服に紺色のフラットシューズ。髪もゴージャスながら自然のアフロです。

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マンチェスターで10月5日に行われたチママンダ・ンゴズィ・アディーチェのトークの実況中継。OPEN FUTURE FESTIVAL.


以下に大雑把な内容を。(あくまで粗い聞き取りですので引用はお控えください。)

 まずアイデンティティについて質問された彼女:アイデンティティというのは外部からの要求によって変わる、たとえば、最近もUSAの空港でプレミアの列にならんでいたら、あなたはあっちだと指差されたのはエコノミーのほうだった。これは肌の色で判断したからで、ナイジェリアではありえない。ナイジェリアでは、エスニシティか、ジェンダーによって分けられる。だからアイデンティティというのは外部からの問いによって、いくつにも変わりうるのだ、と述べている。だから自分としてはそれをたったひとつに狭めることはできない。

ストーリーテリングについて、作家として、と問われると:もっといろんな声がでてくることが必要だと強く思う。文学作品を読むということは、可能性として、自分の体ではない体から発せられる声を聞くことだと思う。書くというのは、自分の体ではない体から発せられる声を書くことでもある。どんな声であれ、わたしを呼んでいるならその声を物語に響かせていきたいと。

 これまでアフリカ、アジア、ラテンアメリカの物語は長いあいだ、そこの出身の人たちによって語られてこなかった。だから、ロンドンの書店に行っても、本がコロニアルなテイストでならんでいることが多い。もちろんそれは大事よ、だってイングランドはナイジェリアを植民地化してきたんだし、歴史としては……中略……でも、数日前の香港を見てもわかるように、世界中の土地は過去にずっと取り憑かれつづけている。

 それから、『アメリカーナ』について、かなり突っ込んだ質問がきて、アディーチェも非常にクリアに答えている。もう少しニュアンスをつけて、と編集者からいわれたが、それは、もう少し正直さ=あからさまにいうことを控えて、ということだった。

 なんでも比較的率直に語る英語社会で、「もう少しニュアンスを」といわれたとしたら、このニュアンスだらけで空気を読めとかいわれる日本語社会では、どうなるんだ😅?なんて思いながら最後まで見ましたが、最後のほうでオーディアンスから質問が出て、それに真っ向から答えるチママンダ、そして白熱の議論が展開されるようにもっていく司会のジャーナリストもなかなか。

 あとは動画をじかに見てください。

 もしも日本にチママンダを呼ぶなら、同時通訳があいだにはさまるとしても、これくらいの丁々発止のやりとりができるステージになるといいなあ、と思います。
 

2020/03/23

MALIA ふたたび、Covid-19とのつきあい

春だというのに部屋からあまり外に出ない暮らしがつづく。

©2014 Malia
ゲラ読み、書評書きも一段落して、ここ数日は少しゆったりした。そうだ、2月初めにとどいていたのに、まだ封も切らずにおいてあったCDが2枚。このところイアン・ボストリッジばかり聴いていたので、それとはまったく異なるジャンルで、異なるタイプの音楽を、と思ってかける。

 MALIA の CONVERGENCE

 このCDアルバムは最後のTurner's Ship がすごくいい。どこかアフリカンなリズムやメロディー。そうそう、Malia のお母さんはマラウィの出身で、10歳ころまでMalia も家族とマラウィに暮らしていたんだった。

 今月に入ってまだここに2回しか書いてなかった。そう気がついて唖然。2月、3月はぎっしりと仕事が詰まっていたことにあらためて気づく。おまけにコロナ、コロナ、である。Covid-19とのつきあいは、これからだ。先は長い。だって、治療法が見つかるまでは、とにかく緊張はつづくんだから。生活もつづくんだから。

 長いコロナウィルスとの共生まで 、今朝、NさんがまとめていたTV番組の内容を私なりに理解すると

(1)手指消毒──こまめに、丁寧に手指を洗う
(2)マスク──飛沫感染を避けるため、できるだけする
(3)ドアノブなど多数の人が触れるモノは消毒

次の3条件が重なる「場」を避けること

(1)密閉空間で換気が悪い
(2)手の届く範囲に多くの人がいる
(3)近距離での会話や発声がある。

 最初の(2)マスクについては、誰もが検査を受けられるわけではない日本では、自分が感染してるかもと思う人は、咳など症状がなくても、マスクしたほうがいいわけで、これは自分の予防のためではなく、他者を感染させないために必要だと思う。 マスク不足をとにかく解消すべき。まずは医療、介護関係者に重点的に支給すべき。買い占めは絶対にだめ。

 3条件が重なる「場」を避ける、といっても会社勤めをしている人にはほとんど無理な条件だから、ある程度おさまるまで、絶対量、絶対回数を減らすしかない。在宅勤務を積極的に取り入れるとか、交代制にするとか、ざっくりいっても、従来の考え方を変換する必要がありそう。
 もちろん、自粛自粛の結果として収入が激減して生活が成り立たなくなる人たちへの支援は絶対に必要。これは政治の仕事だ。

 なんか足りないところあるかな? とにかく長期にわたるから、これ。たぶん長期戦。Covid-19に対する治療法が出てくるまで。


2020/03/12

ロマン派について考えて、好き放題書いてみることにした(2)

2月に入ってから集中してきたJMクッツェー『鉄の時代』(河出文庫)のゲラ読み作業が一段落(発売は5月7日です)。さて、まわりは? と見わたすと。こもって仕事をする生活にコロナウィルスはほとんど影響しないことがわかった。人混みは、ふだんから極力避けているし。この2ヶ月のあいだ、ペースはほとんど変わらない。

 残念なのは友人との会食の回数がちょっと減ったこと。レストランやカフェなどは軒並み、がらん、街の店先も人影まばら。でも通勤する人たちにはあまり変化はないみたい、あの車内空間はまちがいなく最大の感染温床じゃないかな、と思う……。大変だよなあ。在宅勤務とやらの推奨もかなりあるらしいけど。子供は学ぶ機会を奪われて←これはひどいよ!対応策がなさすぎ!

 わたしのような「ひきこもり仕事」は自分で「区切る」ことがとても大事なので、ひとくぎり! 窓の外は春うらら。

 そこで余白に、「ロマン派アナトミー」の作業をすこしずつ進めよう。というわけで先週とどいたシューベルトの小曲がたっぷり入っているイアン・ボストリッジのアルバムを毎日聴いている。
「鱒」からはじまって「魔王」で終わる25曲。ピアノはジュリウス・ドレイク。1998年録音だから、1964年生まれのボストリッジは33歳か、若い!青い! 31歳で死んでしまったシューベルトには最適! とにかく、年老いて成熟する前に死んでしまった人なのだ、シューベルトは。こんなに「青春」と深く絡めて「ロマン派」を語るにふさわしい作曲家もいないんじゃないか、と勝手に思うことにした。

 じつは、このアナトミーはわたし自身の少女期の経験を分析してみようという作業でもある。1950年代後半から1960年代半ばというのは、ロマン派文学の翻訳が全盛を迎えた時代だったんじゃないだろうか?

 先日も少し年下の男性と話をしたんだけど、「ぼくたちが若かったころって新潮文庫をつぎつぎと読んだよね。「海外文学」と銘打たれた末尾カタログに載っているタイトルと著者名を、たとえ読まなくても、暗記するほどじっとながめてたよね」と彼はいう。
 それで身近に残っている60年代新潮文庫の後ろをながめてみた。最初に出てくるのがたいてい「フランス文学」、ずらりと「名作」がならぶ。それからイギリス文学、ドイツ文学、アメリカ文学、ロシア文学、その他の文学とくるのだ。この「その他」がねえ、摩訶不思議なジャンルだった。中学生のころ毎月楽しみにしていた「赤毛のアン」シリーズは、この「その他」、だってカナダだもん。

 ゲーテ『ウェルテルの悩み』、ヘッセ『車輪の下』、モーム『月と六ペンス』を全集で読んでから、この新潮文庫のリストをかたっぱしから読破、まずドーデ『風車小屋便り』から、という感じだった。

 肥大化した「フランス」「イギリス」「ドイツ」、いまなら考えられないほど末席におかれた「アメリカ文学」。イタリア、スペインなんか影も形もなかった。このようにして、60年代の読書人(!?)の頭のなかに世界地図が形成されていった。もちろんアフリカに文学があるなんて、ゆめゆめ考えもしない。なにしろ「暗黒大陸」だったんだから!!「本格派」はいつだって「西ヨーロッパ」の主要国から、だったのだ。とくにフランスとイギリス、ドイツ。

 戦後、手のひらを返したような「アメリカ化」が無批判に迎え入れられて、ハリウッド映画が怒涛のように流れ込んできた時代。テレビでもアメリカのホームドラマと西部劇が全盛で、「翻案」された和製ポップス(たいていアメリカから、ちょっとだけイタリアから、ほんのすこしだけシャンソン)が白黒テレビで流れた時代。
 そこへフランスからヌーベルバーグの新しい波がやってきた。映画青年たちはこぞって映画館に入り浸った。イギリスからはビートルズやローリングストーンズのロックミュージックが入ってきた。そんな時代。あのころの若者はどんな心情を育てながら生きていたのか?(つづく