Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2023/12/31

遅読のすすめ──中村佑子著『わたしが誰かわからない』をゆっくりと読む

  早々に手に入れたのに、なぜか読みはじめるのをためらうものがあって、ずっと机の上に置かれていた本がある。中村佑子著『わたしが誰かわからない──ヤングケアラーを探す旅』(医学書院)だ。

 早く読みたい、という気持ちと、心の準備がまだできていないんじゃないの? とどこからともなく聞こえてくる声のあいだで、ピンと張った糸が糸巻きできりきりと巻きあげられていく。このままだと、弦楽器の弦のようにバツッと切れてしまいそうだ。

 著者の中村佑子さんと斎藤真理子さんのトークが、12月2日に開かれることは知っていた。でも、読まないうちに「話」を聞くのは違うと思った。だから、本を未読のわたしにはそれを聞く勇気がなかった。きっと読んでから、聞いておけばよかったと「後悔」するんだろうな、とほとんど確信に近い気持ちも湧いた。

 それでも、何かが熟して、読むべきときがやってくるのを待つしかなかった。躊躇いが消えて、本にすっと手を伸ばして、きわどいまでに素晴らしいカバー写真を一気にめくる、その瞬間が訪れるのを待つしかなかった。

 自分でも、なんだか大袈裟なことを言っているような気がするけれど、ゆっくり読むこと、じっくり読むこと、絶対に急いで読まないこと、を自分に課したこの躊躇いそのものを、その理由といっしょに考え抜いていくための読書。これは、おそらく、そういう本だ。

 そして、その直感は正しかった。

 昨夜、読みはじめた。昨夜とは12月30日の午後だ。前半は「あ、これは以前読んだお話かな」と思って、初出一覧を見ると、初期バージョンがウェブに掲載されていたことがわかった。ジョルジュ・バタイユが出てくるところも、読んだ記憶がある。

 この本で圧倒的な力をこちらに投げかけてくるのは後半だ。著者がヤングケアラーと呼ばれるようになった人たちに話を聞いていくうちに、つい自分の経験とくらべていることに気づいて、そのことの意味を何度も反芻する場面が出てくる。いわゆる「話を寝かせる」ことをめぐる自己省察。

 この本は小さな鏡面を無数に持つ本である。読んでいて、父や母や兄と「家族として」暮らしたころ体験したシーンと、そのときの感情がありありと蘇ることがたびたびあった。東京に出て短からぬ独り暮らしのあと、自分の新しい家族を作ると決めて結婚し、子育てをした怒涛のトンネル時間の記憶から、忘れていた強い感情がふいに飛び出してきたり。思わぬところへ連れられていく本だ。強い光が当たると、あれはこういうことだったかもしれない、と再認識することになったり(記憶の上書きだ)。

 自己と他者の境界が滲んでいく体験、を扱った、なかなか油断のできない本だけれど、これを書いた中村祐子という人の分析力や自己観察の鋭さに対するわたしの尊敬の念は、前著『マザリング』のときよりさらに強くなった。たとえばこんな文章。

 ──ケアを必要とする精神疾患を抱えた家族は、彼女たちにとって傷であり、刃であり、深い穴である一方で、光であり、憧れであり、生きる意味だった。そして彼/彼女は自分自身であり、一方であまりに他者のようだった。

 少しだけ引用してみたけれど、引用した途端に前後の文脈に支えられて理解される何かが決定的にはがれ落ちてしまうようだ。それはこの著書全体を貫くもっとも柔らかで、もっとも大切な何かと重なるのだけれど。引用すると、部分的なことばによる固定化が先行して「プロセス」が見えにくくなるのだ──と思いながらも、すぐあとにこんなことばが並んでいると、また書き写したくなる。

──自分をとりかこむ輪郭線をいつでも崩れさせ、自己と他者の境界を横断することができる。自己の固着という安心からいつでも離れられる無防備さというものが、ケア的主体の真価だろう。

 そしてジョルジュ・バタイユとドゥルーズ=ガタリの話になる。これはぜひ本文を読んでいただきたい。この本のいちばん「おいしい」ところは7章からなのだ。

 著者の中村佑子の生年は、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェと同じ、わたし自身が「母になる」経験をした年である。27年という短からぬ時間をすっと飛び越え、読み手のところへ真っ直ぐ届けてくれることばを紡ぐたぐいまれな知性と直感力、そして丁寧な分析と熟考。他者の存在への共感を分有し、分有へいたったプロセスを言語化する不断の努力の積み重ねがあればこそ届くのだけれど。ちょっと怖くて、とびきりの瞬間をゆたかに含みもつ本である。

***追記***

──母になったことを後悔しているという本が売れたこともあった。あなたを生んで後悔しているという意味に容易にとれる言葉をタイトルにつけた本を、理由もなく生まれさせられた子どもが手に取る可能性は考えないのだろうか。ベストセラーだと聞いてわたしのなかにうまれた違和感はあまりに強かった。(p208)

 ここで語られている本のタイトルに対する違和感の強さは、「毒親」に匹敵するほどで、わたし自身もその違和感の強さは誰にも負けないと思ったのだった。


2023/12/30

来年は、J・M・クッツェー『その国の奥で/In the Heart of the Country』です

 今年1年を振り返る時期になったけれど、ここには来年のことを書いておこう。

 現在、新訳を進めているのは、長らく絶版だったJ・M・クッツェーの第二作『In the Heart of the Country/その国の奥で』だ。河出書房新社から、来年半ばには刊行される予定。河出書房新社はチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの邦訳全作品を出している出版社で、クッツェーの『鉄の時代』が入っている池澤夏樹個人編集の世界文学全集の版元でもある。

 この第二作目はまったくもって一筋縄ではいかない作品だ。ファンタジックでゴシックで、実験的という点では初作『ダスクランズ』をはるかに凌ぐ。とにかくものすごい妄想、また妄想なので、読みこんで日本語にするのは作品との「格闘また格闘」となる。やたら時間がかかる。半ページしか進まない日もある。翻訳を始めたのは何年か前だが、全139ページがまだ終わらない。それでも、あと〇〇ページを残すところまできた。

 この作品の出版をめぐる経緯については、以前このブログでも書いた。ウォルコヴィッツの『生まれつき翻訳』について触れたときだ。(ここで読めます。)クッツェー作品としてこの小説が英米で初めて出版されたのは1977年、南アフリカ本国でバイリンガル版として出版されたのは翌年のことで、『鉄の時代』の年譜にも書いたし、自伝的三部作の年譜にも、『J・M・クッツェーと真実』の詳細な年譜にも、必ず書いた。この作品が出版された経緯は、この作家の作家活動にとって非常に重要な細部だからだ。

 当時の南アフリカにはまだ厳しい検閲制度があり、異人種間の結婚はおろか、性交まで禁止する法律があった。世界から切り離されたような南アフリカ奥地の農場を舞台に、極端に狭い人間関係のなかで、事件は起きる。姦通、泥酔、銃撃、殺人、レイプ、ect. ect. しかしそれが実際に起きたのか、起きなかったのか、事実と妄想の境界がきわめて曖昧なのだ。銃を握るのは三十代の独身女性マグダで、彼女の独白が全編を貫いている。

 日本語訳は原著の出版から約20年後の1997年、スリーエーネットワークの「アフリカ文学叢書」の一冊として出た。それから四半世紀以上が過ぎて、その間、この作家は二度目のブッカー賞を受賞、その3年後にオーストラリアへ移住、直後にノーベル文学賞を受賞した。そんなニュースと相前後して作品が次々と紹介されて、作品や作家の全容がほぼ見えるようになった。

 今年6月に日本語訳が白水社から出版された『ポーランドの人』(それについてはここで)は、非常に無駄のない、端正な、流れるような文体で書かれていた。このレイトスタイルへ至るまでの半世紀におよぶ長い道のり。

 これまでにクッツェーは南アフリカを舞台にした長編小説を8作書いている。出版順にいうと、『ダスクランズ』『その国の奥で』『マイケル・K』『鉄の時代』『少年時代』『恥辱』『青年時代』『サマータイム』で、このうち6冊を拙者訳で読んでいただける。来年は新訳『その国の奥で』が出る予定で全7冊となるはずだ。

 南アフリカの作家クッツェーと出会った者として、あまり知られていな南アフリカの自然や風土、作品舞台となった時代の人間関係の細部をあたうるかぎり潰さずに、なおかつ、含みをもって伝える責任を、これでほぼ果たせるように思う。感慨深い。

 手元にあるこの作品の紙の書籍3冊と、Kindle版1冊のカバー写真をあげておく。左上からペンギン版のペーパーバック(1982)、右へ行ってヴィンテージ版(2004)、スイユ版のフランス語訳(2006)、そしてKindle版スペイン語訳(2013)である。

 いろいろ心が砕けそうになる事件や出来事が起きた2023年だったけれど、それでも今年は藤本和子さんの4冊目の文庫や斎藤真理子さんとの往復書簡集『曇る眼鏡を拭きながら』が出版された年でもあった。

 人生はまだまだ続く。La lutte continue!

 🌹 みなさん、どうぞ良いお年をお迎えください!🌹


2023/11/28

東京新聞夕刊(11月28日)マリーズ・コンデ『料理と人生』について書きました

 今日の東京新聞夕刊にマリーズ・コンデの『料理と人生』(大辻都訳、左右社)について書きました。リレーコラム「海外文学の森へ 69」です。

 すでに、やわらかなアプローチによる書評がいくつも掲載された人気の作品です。コンデ作品では1998年に日本語訳が刊行された『わたしはティチューバ:セイラムの黒人魔女』(風呂本惇子・西井のぶ子訳、新水社)以来の人気かも知れません。ついに、日本語読者もここまで追いついたか、なんてため息まじりの歓声をあげています。

 コラムでは、コンデの最初の自伝的作品『心は泣いたり笑ったり』(青土社)を2002年の暮れに訳した者として、これまでコンデが書いた4冊の自伝的作品を中心に、フランス語文学と奴隷制の歴史というコンテキストで、この作家の仕事を考えてみました。

 カリブ海に浮かぶグアドループという島に生まれ、16歳でパリに留学してからシングルマザーになり、ギニア人俳優と結婚して「憧れの」アフリカに渡り、筆舌に尽くし難い辛酸を舐めたであろうマリーズ・コンデが、ガーナでユダヤ系イギリス人のリチャード・フィルコックスと出会ったのは決定的な気がします。フィルコックスはコンデ作品の英訳者であり、終始献身的なケアラーであり続けて、『料理と人生』の聞き書きをして本にまとめた人です。

 コラムを書いてから気がついたのですが、マリーズ・コンデは、彼女が長年大学で教えたアメリカという国で、仲間に入れてもらえなかったという「アフリカン・アメリカン」の人たちとアフリカ大陸とをつなぐ貴重な立ち位置にあるのではないでしょうか。

 すでに誰かが指摘しているかもしれませんが、大西洋を中心にした地図を眺めながら思うのは、1950-60年代のアフリカ体験を書いたアメリカス出身の作家として、重要な仕事をした作家なんではないかということです。

もちろん、キャリル・フィリップスのような、カリブ海の小島に生まれて生後まもなくイギリスに渡り、学び育った英語で書く作家になって、アフリカへ旅をしてその経験を書いた人もいます。でも日本語圏文学では、そこまで視野に入れて「アフリカ」を見て、さらに「アメリカス」の文学を考える総合的な歴史的視点は、まだまだこれからなんだろうなと思うのです。


***

2023.12.13──東京新聞のコラム、貼っておきます。



2023/11/26

クリスマスのリースを出して飾った

23日の青山ブックセンターでのイベントが無事に終わり、ようやく、ささやかなクリスマスのリースを出して飾った。

 斎藤真理子さんとの往復書簡集『曇る眼鏡を拭きながら』(集英社)には大勢の方が来てくださって嬉しかった。どうもありがとうございました。いろいろ質問も出て、あっという間に時間が過ぎました。

 友情出演してくれた「塩の会」のメンバーにも感謝、イベントの準備をしてくれた編集者、書店の方々、おせわになりました。Muchas gracias!

 写真をアップしたクリスマスのリース、一つは80年代から我が家にある古典的な、というか、素朴なリースに自分で集めた草の実を絡めたもの。もう一つは数年前にやってきた、雪をかぶったような、ちょっとおしゃれなリース。いつものように、一つはリビングの天井近くの壁に、もう一つは玄関ドアの内側に飾った。

2023/11/18

11月23日、「公開 塩の会」が青山ブックセンターで開かれます

 斎藤真理子さんとくぼたのぞみの往復書簡『曇る眼鏡を拭きながら』(集英社)の刊行を記念したイベント「公開 塩の会」が、表参道の青山ブックセンターで開かれます。この書簡集には「藤本和子」という名前がほとんど毎回出てきます。それで「塩の会」の面々が出てくれることになりました。

 23日、祝日の午後1時半から。 

 登壇するのは、八巻美恵、岸本佐知子、斎藤真理子、くぼたのぞみ、です。

 申し込みはこちら。



『塩を食う女たち』など、藤本和子の著作を復刊させるために集まった女たちの会だったので、そのタイトルから「塩を食う女たちの会」とか「塩食い会」とか「塩の会」とか、その時々で勝手気ままにいろんな呼び方をしながら飲み会を開いて、知恵を出し合ってきました。

 これまで4冊が文庫化されました。

 この辺で一区切り、というわけでもないのですが(だって飲み会はまだまだ続きそうですから)とにかく、ちょっと振り返ってみるか、ぜんぜん振り返ったりしないか、ひたすらだだーっと前へ進むのか、何が飛び出すかちょっと想像がつかないイベントですが。。。

 よかったら、ぜひ!

 申し込みはこちらです。

2023/10/23

『曇る眼鏡を拭きながら』斎藤真理子さんとの往復書簡集

 2022年初めから一年間、集英社の雑誌「すばる」で、斎藤真理子さんと往復書簡というのをやりました。タイトルが「曇る眼鏡を拭きながら」、それが本になりました。タイトルもそのまんま『曇る眼鏡を拭きながら』で、集英社から10月26日発売です。

 その「みほん」がやってきました。とってもお洒落な本です。


装丁:田中久子さん

装画:近藤聡乃さん

ひとりでも拭けるけど、ふたりで拭けば、

もっと、ずっと、視界がひろがる。

「読んで、訳して、また読んで」


 2021年の秋に、クッツェー作品の翻訳で長年書きためてきたものを一冊の本にまとめて、エッセイ集『JM・クッツェーと真実』(白水社)として刊行。ほかにもメモワール『山羊と水葬』(書肆侃侃房)や『JMクッツェー 少年時代の写真』(白水社)もほぼ同時刊行だったので、もう完全燃焼でした。はあ~~~と気持ちが伸びきっていた直後に、なにやら怒涛の出来事が起きて、2022年はずっとその波を被りつづけました。そのあいだ、「すばる」の連載が、ともすれば倒れそうになる心身をシャキッとさせるための柱になってくれたのです。伴走してくださった斎藤真理子さん、若い編集者の2人のKさんには本当にお世話になりました。ほかにも支えてくださった方々に(お名前はあげませんが)深く、深く感謝します。💐

 ついに、こうして本になって感無量です。ありがとうございました。

 この本の発売を記念して、発売日の10月26日から表参道の青山ブックセンターで、「眼鏡拭きライブラリー」というフェアが始まります。本のなかに出てくる数多くの書籍のなかから(70冊ほどあったかなあ。。。)、現在入手可能なものから、真理子さんとわたしが20冊ずつ選んで、そのうち各10冊にはポップもつけます。いまその原稿を送ったところ。

 『曇る眼鏡を拭きながら』の発売を記念したイベントもいま準備中で、詳細はもうすぐ発表されるはずです。どうぞお楽しみに!


2023/10/01

J・M・クッツェー:ヨーロッパと外の世界──バルセロナ現代文化センターでの対話

 久しぶりの更新です。

9月30日、バルセロナ現代文化センターで、JMクッツェーとヴァレリー・マイルズの対話が行われました。

Europa i el món de fora/ヨーロッパと外の世界」という対話は、ヨーロッパ文化をめぐるいくつかの対話や講演の締めくくりだったようで、早速、カタルーニャ語のウェブサイトに報告が載りました。

詳細はいずれバルセロナ現代文化センターのウェブサイトに掲載されるそうですが、昨日の対話でクッツェーは<作家自身の「いま」と世界の「いま」>を結びつける重要な発言をしているようです。

とりわけ、この記事のタイトルとなった「J.M. Coetzee: “Escriure té més a veure amb cuinar que amb filosofar”」 の最後に、ロシアに対する世界のあり方をめぐるクッツェーの意見が紹介されていて、これは注目に値します。現在ロシアに対して行われている制裁が、国内にいて抵抗を続ける作家たちを見えない存在にすることにならないか、という危機感を表していて、アパルトヘイト時代の南アフリカに対して外部諸国が実行した文化制裁、経済制裁と、当時その国内にいたクッツェーの心情を彷彿とさせます。

(以下は記事をカタルーニャ語から英語、さらに日本語へG翻訳して、引用者が少しだけリライトしたもので、ざっくりした意味と理解していただければ幸いです。)

"ロシア古典の偉大な読者である作家は、この国についての彼の見解で話を終えたいと考えていたが、それはここ数十年の歴史、ソ連の敗北、そして90年代の資本主義の「有害な」押し付けによって彩られていると彼は語った" 

今はロシアとの関係を断ち、彼らを忘れ去るべき時ではない。 私たちはあらゆる機会を利用して、彼らの努力を支持していることを彼らに示さなければなりません。」(下線引用者)


***

J.M. クッツェー:「書くことは哲学よりも料理と関係がある」

ノーベル文学賞受賞者がCCCBでヴァレリー・マイルズとともに言語と文学について振り返る: 

Europa i el món de fora ヨーロッパと外の世界──ヌリア・フアニコ・ルマ、@バルセロナ 


作家 J.M. クッツェー(南アフリカ、ケープタウン、1940年生)は今週土曜日、バルセロナ現代文化センター(CCCB)を訪れ、ヨーロッパ大陸に対する自身の見解を語った。 しかし、クッツェーは南アフリカで生まれ、20年間オーストラリアに住み、残りの人生を米国で(引用者註・英国でも)過ごした。 このため、「Europa!」サイクルの締めくくりの話を始める前に、自分が習得していないものについて意見を言うことに非常にアレルギーがあると説明している。 「現在、全国民が自分の意見を広めるチャンネルを持っており、その意見の正当性や強さは、その意見が真実かどうかではなく、誰がその意見を支持するかによって決まります。私たちは、ある種の意見が生き残るダーウィンのような意見の市場に住んでいます。そうしない人もいます」とクッツェーは、作家・編集者のヴァレリー・マイルズ(ニューヨーク、1963年生)との会話で語った。


両者とも「ヨーロッパでは部外者」と感じていると告白しており、おそらくそれが地政学的問題よりも文学的な対話に焦点を当てた理由だろう。 この会議では、ガブリエル・ガルシア・マルケスやミゲル・デ・セルバンテスからロバート・バルザー、オクタビオ・パス、ギュスターヴ・フローベールまで、何人かの文学者を参照。 2003年にノーベル文学賞を受賞したクッツェーは、バルセロナを舞台にした最新小説『The Pole』(エディション62、ドローズ・ウディナ訳)の創作ギアを掘り下げている。

 カタルーニャ州の首都を主な舞台に選んだ理由は何ですか? 「書くことは、哲学することよりも料理と関係がある。私はバルセロナについてあまり知らないが、あの物語ではそれがうまくいった。私は直感に従って仕事をしている」とクッツェーは説明した。


アングロサクソン文化における「詐欺師」


『ポーランドの人』はピアニストと既婚女性の間のあり得ないラブストーリーだが、プロットを超えて、作家はこれが彼にとって完全な意思表示であることを示した。 クッツェーはここ数年はまずスペイン語で本を出版し、その後英語で発表してきた。 「スペイン語が英語に代わる優れた代替手段となり得ることを示したかったのです。私はアングロサクソン文化の中で詐欺師のように感じてきました。」と、芸術創作においてスペイン語がますます重要になっている著者は強調する。


「どの言語にも、哲学的、宗教的、歴史的に非常に大きな重みを持つ単語があります。それらを適切に翻訳するには、その背後にある意味論的な文脈を移す必要があります。英語で単語を書くとき、私はそれがどのような意味になるのかという問題を意識しています。 翻訳者に質問し、翻訳者が見つけられる解決策は何なのかを尋ねます。そのため、問題を引き起こす可能性のある造語は避けるようにしています」とクッツェー氏は振り返った。(下線引用者)


***

対話の相手、ヴァレリー・マイルズは『ポーランドの人』の謝辞にあがっていた3人の1人で、他の2人はスペイン語訳者のマリアナ・ディモプロス、フランス語訳者のジョルジュ・ロリです。カタルーニャ語訳は3月末に、イタリア語訳も8月末に出版されたのに、なぜかフランス語訳が出ないですねえ。

***
2021.10.2──付記:今日になって気がついたのですが、このバルセロナでの催しはKosmopolisという大がかりなフェスで、以前もこのブログで紹介したことがあります。ここです
 ルー・リードとアミラ・ハス、そしてJMクッツェーの写真が並んでいますが、ブログを見た友人に、この並びはすごい!と驚かれたことがありました。2009年3月でした。あれから、14年あまりのときがすぎたわけです!

2023/09/07

「海外文学の森へ 63」リディア・デイヴィス『サミュエル・ジョンソンが怒っている』

東京新聞火曜日の夕刊に隔週で掲載されるリレーコラム「海外文学の森へ」が始まったのは2021年1月だった。早いもので、あれから2年半が過ぎて、すでに63回 。

 今回は2023年9月5日夕刊に、「アメリカ小説界の静かな巨人」と言われるリディア・デイヴィスについて書いた。岸本佐知子さんの翻訳で『ほとんど記憶のない女』『話の終わり』『分解する』『サミュエル・ジョンソンが怒っている』の順に、単行本として出版されたものが相次いで白水Uブックスに入った。今回取り上げた『サミュエル・ジョンソンが怒っている』は、なんといってもそのタイトルが不思議におかしくて、泣かせる。

 さらに、つい最近、4冊とも電子書籍化されたことも嬉しい。

********「海外文学の森へ 63」******

 リディア・デイヴィスの作品はどこから読み始めてもいい。そこが好きだ。

 この『サミュエル・ジョンソンが怒っている』は『話の終わり』『分解する』と立て続けに白水Uブックスに入った、デイヴィスの訳書四冊の最後にあたる。単行本は書架にあるけれど、寝転んで読める軽い形は大歓迎、とわたしは小躍りして喜んでいる。

『サミュエル・ジョンソンが怒っている』はとても風変わりな短編集だ。タイトルになった作品はたった一行──蘇格蘭(ルビ・スコットランド)には樹というものがまるでない──だけで、エエッと声をあげたくなる。断章とか短文を集めたような構成で、味の際立つ逸品がならぶオードブルプレートみたいなのだ。ワイングラス片手に読むとその味が冴える。電車のなかでワインなしで読んでも、もちろん美味しい。

 気分が煮詰まってくると手を伸ばし、はらりとページを開く。するといきなり実況中継ふうの物語が始まって、書き手の外と内の世界が絡まり、出来事や場面が刻々と変化する。クイっと入って一つ読む、気分がカラッとする、切なくてじわっとくる。奥深い感覚描写に、唸る。

 カップルのすれ違いを詳述する少し長めの「「古女房」と「仏頂面」」を読んだときは声をあげて笑ってしまった。日常の微細な心理をここまで書くか、と作家の覚悟がひしひしと伝わってきたのだ。

 リディア・デイヴィスの名前を知ったのは『ほとんど記憶のない女』が出た二〇〇五年だった。五年後の『話の終わり』でハマって、いまはなきTV番組「週刊ブックレビュー」でイチオシ本に選んだ。傑出した自己洞察とヒリヒリするような繊細な文章に驚いたのを覚えている。

 父は大学教授、母は作家。とても知的な環境で育ったデイヴィスは、フーコー、ブランショなどを英訳し、プルースト『スワン家のほうへ』やフローベール『ボヴァリー夫人』の新訳も手がけている。

 ルシア・ベルリンがアメリカ本国で再評価されるきっかけとなった『掃除婦のための手引き書』にも序文を寄せるデイヴィス。訳者、岸本佐知子さんの「アメリカ小説界の静かな巨人」という紹介に深くうなずいてしまった。

くぼたのぞみ(翻訳家、詩人)  


2023/08/09

渋谷で映画「サントメール ある被告」を観てきたのだ

 朝から雷が鳴って、ざざーっと雨が降り、いきなり青空に白い雲が浮かんだかと思うと、また一天にわかにかき曇り……というのがくり返される1日だった。

 でも行ってきたのだ。金輪際いくもんかと思っていた「渋谷」へ。宮下坂側のBunkamuraシネマで観てきたのだ。噂の映画「サントメール」を! とてもよくできた映画だった。映画館で映画を観るのは、7年ぶりだ。

 まず大学の講義で始まる。マルグリット・デュラスがカメラに収めた白黒の映像が流れる。髪を切られて丸坊主にされる女性たち。対独協力者のフランス女性たち。

 講義をするラマは、売り出し中の若い作家だ。彼女が北部の町サントメールヘ赴くのは、そこで開かれる裁判を傍聴するためで、被告は15ヶ月の赤ん坊を満潮の浜辺に置き去りにした(自分では育てられない赤ん坊を海に返してやった?)女子学生ロランス。セネガルからやってきて、完璧なフランス語を話すロランスは、幼いころから現地語であるウォロフ語を話すことを禁じられて育った優等生だ。親の期待が重たかったと語るロランス、父は法律を学ぶなら学費を出すと言ってくれたが、彼女は哲学を学ぼうとする。すると学費を打ち切られ、身を寄せていた叔母との関係もうまくいかなくなって、ある男性と暮らし始める。やがて妊娠、ひとりで出産することになり、そして赤ん坊を……ラマはこの裁判を元に新作を書く予定なのだ。

 実際に起きた事件の裁判記録を用いてシナリオが書かれ、この映画が制作されたという。監督はセネガル出身のアリス・ディオップ。

 裁判の過程で、何が起きたかが少しずつ明らかになっていくのだけれど、このやりとりが絶妙。俳優の選び方もいい。裁判官も、被告の弁護士もキレキレの、しかし、人間的な心を失わない女性として描かれている。黒人女性のラマとロランス、白人女性の裁判官と弁護士、彼女たちの表情の変化と無変化で、観るものの想像力が否応なく掻き立てられる。

 何度か傍聴に通ううちに、ラマはロランスの母親と知り合う。直感力の鋭いその母親に、ラマは妊娠していることを見抜かれる。自分の母親と感情的にすれ違う記憶が何度もラマの脳裏をよぎる。

 事件の背景に埋もれる事実を掘り起こすための「なぜ?」が全編にあふれているが、決して「説明」的にならない。むしろそう簡単に文化の差異や歴史の暴力が、人間と人間の関係(ここでは母と娘)におよぼすものを言語化できるわけがないのだ。なぜ? と観客も自問し、考えながら、積極的にコミットすることをこの映画は要求してくる。裁判の結果も出さない。最終弁論と裁判官のコメントだけで終わる。それでいて、観るものにはある納得が準備されていもいて、制作者が安易な結論を観客へ押し付けない演出がなされている。そこがこの映画の最良のポイントだと言えるだろう。

 ヨーロッパ言語では「説明不可能」なものを、ヨーロッパ言語を使いながら、そこに浮かび上がらせる手法。

 シナリオを書いたのが、かの、マリー・ンディアイだと知って、膝を打つ。

 最後の方で、いきなりニーナ・シモンの「Little Girl Blue」が流れ、おそらくダカールと思われる街並みが映し出される。ここで感情がグッと柔らかくほぐされ、ほろりとしそうになるのだけれど。ああ、そうだよな、最後はやっぱり母と娘の関係の、繋がりの、、、ちょっとだけほの明るい場面が挿入されて終わる。それでこれは記憶のハッピー・メンテナンスなんだな、と納得するのだ。

 途中、ホテルでラマがPCで観る映画のなかに、息子を溺愛する母親の映像が挿入されていて(どうやらモロッコかアルジェリアが舞台の映画)、その息子が弦楽器を奏でる夢想シーンがある。そこに流れるのが、三味線を弾きながら女性が歌う端唄か小唄のようなんだが、そこがなんとも「エキゾチック趣味で」おかしかった。

(追記:PCの映画はパゾリーニの『王女メディア』1969 だそうです! 学生のころ観たけどな、全然覚えてなかったよ、マリア・カラス!😅)


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2023.8.12──付記。上の感想は作品構成とか背景とか描かれ方とかを中心に書いたのですが、この映画は2組の移民の「母と娘」を炙り出す映画でもあるんですね。

また、57歳の白人男性が、自分の娘の結婚式のときロランスを赤ん坊ともどもホテルに追いやっておいて、家族には絶対に紹介しなかったことが描かれているが、彼が身分の不安定な若いセネガル人留学生を「人間として壊れるほど軽く扱った」ある種の記録映画のようでもある←ここ、次に細かく書いてみたい。

2023/07/24

なぜ、クッツェーは覇権英語に抵抗するのか

2018年1月、カルタヘナで開かれた文学祭でJMクッツェーが行ったスピーチ。なぜ、英語で書くクッツェーがその言語を自分の言語ではないと思ったか、 詩と言語の関係、世界を映し出す鏡としての言語、少数言語に対する英語ネイティヴのアロガントな態度なども含めて。備忘のためにここにシェアしておきます。

http://coetzeecollective.net/audio/jmc-hegemony-of-english.mp3

カルタヘナの文学祭のようすは、ここで詳しく報告しました。


2023/07/23

日本語訳『ポーランドの人』の書評が掲載されました

「山陰中央新報」と「北國新聞」に、拙者訳のJMクッツェー『ポーランドの人』 (白水社)の書評が掲載されました。

 twitter で記事の写真をシェアしてくださった方がいたので、ここでもシェアさせていただこうかな。この作品をしっかり読み込み、限られた字数内にポイントを過不足なく書き込む離れ技をやってのけたのは、吉田恭子さん! Merci beaucoup!

どうしても文字がぼやけます。くっきり読みたい方は、twitter で!↓

https://twitter.com/mayumi3141/status/1683011623978692609/photo/2

「山陰中央新報」のサイトはここです。(7/22)↓

https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/420902

「北國新聞」のサイトはこちら。(7/23)↓

https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/1133119

2023/07/19

南アフリカ出身の文学研究者スー・コソーさんの書評

 まずシェアボタンのついている facebook や twitter でシェアして、つい後手後手にまわってしまうブログですが、 じつは後から検索をかけると、早く、確実に行き当たるのがこのブログだったりするので、やっぱりここに記録のために書いておきます。

the conversation の書評 

オーストラリア版の The Pole and other Stories がText Publishing から出版されたのは今月の初めだった。早速、書評があちこちに載った。じつに細やかな、痒いところに手が届きそうな読みで展開された書評が The Conversation というネット雑誌(?)に載った。書き手のSue Kossew さんは1990年代、南アフリカ文学にまつわる研究書にいつも名を連ねている人だったという記憶がある。モナシュ大学で教えていらしたようで、2014年にアデレードで開かれたJ.M.Coetzee: Traverses in the World に参加したとき、わたしもチラッとお会いして話をした。

 翌年2015年にイタリアのプラートで開かれたクッツェーと作品内に登場する女性をめぐるシンポジウムの主催者がモナシュ大学だった。そのこともまた、彼女の名前といっしょにわたしはしっかり記憶している。

 今回の書評は、The Pole と他の短篇について、個別に紹介し論じる内容で、クッツェーのファンだけでなく、クッツェー初心者にとっても、この本を読むための良い手引きになるだろう。

 書評ページの頭に犬の絵が出てくる。これがいい。このサイトにちょっとお借りすることにした。なぜ犬かというと、『モラルの話』では巻頭を飾った The Dog が今回の「短篇集」では最後に置かれているからで、その効果が抜群なのだ。今回の短篇集のような流れで読んでいくと、「犬」という短篇にはまた違った読みが可能で、動物と人間の生命との絡みで、ぐんと冴え渡る効果を生んでいるのだ。

 その橋渡しをしているのがひとつ前の短篇「The Hope/希望」なんだけれど、どういうことかはぜひ、10月に出るイギリス版で確認してほしい。ちなみにこの「希望」は、前にも書いたけれど、昨年7月に、ミラノで開かれた文学祭でクッツェーが朗読した作品だった。

 今回の書評に見られる、「肉体が衰弱していくとき重要性が増してくるのは魂である」という読みは、キリスト教文化ならではの把握かもしれない。確かに。

2023/07/14

シドニー・モーニング・ヘラルドに掲載されたThe Pole and Other Stories の書評


シドニー・モーニング・ヘラルドに、英語版として世界で最初に出版されたJMクッツェーの最新作The Pole and Other Stories の書評が載りました。記事のタイトルは、"Is this the greatest living philosopher writing fiction?"(いま生きているもっとも偉大なフィクションを書く哲学者なのか?)評者はDoug Battersgy さん。

 シドニー・モーニング・ヘラルドの書評

ざっくり訳してみた以下の引用は、オーストラリア版の書籍中いちばん長い「The Pole=ポーランドの人」の驚くほど感動的なところへの評価です──翻訳できないことの悲劇、ことばにはその言語のネイティヴではない人間には永久に伝わらずに終わる意味の深さがある、という悲哀に満ちた感覚。

>The tragedy of untranslatability, the elegiac sense that words have depths of meaning forever lost to non-native speakers, is the most surprisingly moving thing about this book.

記録として。

2023/07/07

マドリードのセルバンテス文化センターを訪れるJMクッツェー


 マドリードのセルバンテス文化センターを訪れるJMクッツェー。

セルバンテス文化センターを訪れて、スペイン語でメッセージを読み上げる。読み上げた文章にサインしてボックスに収め(動画を見るともっと分厚いから、違うテクストかもしれないが)、鍵をかける習わしらしい。その鍵(915)を受け取って記念写真に収まる作家。なんだか嬉しそうだ。セルバンテスはクッツェーが最も尊敬する作家だと述べたらしい。
”J. M. Coetzee ha bromeado con que su presencia en la #CajadelasLetras es un «accidente», aunque pertenece a la tradición en español «en un sentido espiritual». Y afirma que aceptó la invitación porque le permite asociar su nombre con el de Cervantes, el escritor que más venera."

2023/07/05

JMクッツェーとマリアナ・ディモプロスの対話──芸術の言語について(2023.7.3)


同時通訳のスペイン語が大きくかぶさっていますが、、、とりあえずシェアします。


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後記:2023.7.6──アクロバアティックな方法でざっくり見て聞いたところ、最初はベラスケスやフェルメールの絵画について語りながら、後半は『ポーランドの人』の翻訳をめぐる「言語」の話になる。相手はスペイン語翻訳者のディモプロスだから、話は超具体的。クッツェーとしては英語覇権の構造に異議申し立てをするためか、スペイン語訳をオリジナルテキストとしたい、それをオランダ語、ドイツ語、日本語などに翻訳するようにしたかったが、それはかなわなかったと。ヒエエエエーッ!すごいな。

 このテクストがもしもアルバニア語で書かれていたなら、その方針はすぐに変更されたはずだとクッツェーは指摘する。確かにそうかも。


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2021.7.12──ここで20分ほどに圧縮されたクッツェーの話が聞けます。英語です。

2023/06/29

プラド美術館を訪れているJ・M・クッツェー

 6月末から7月初めにかけて3週間、プラド美術館を訪れているJ・M・クッツェーです。ベラスケスの有名な絵画「ラス・メニーナス」の前で説明を受けるジョン・クッツェー。プラド美術館の公式twitterがアップした、6月20日付けの動画です。


https://twitter.com/museodelprado/status/1671117335493525507

2023/06/23

「恋愛」をめぐる UNLEARN

つい先日も日本のジェンダーギャップ指数125位 前年より後退、G7で最下位というニュースが流れたばかり。

 ブログ内を検索していたら、ちょうど5年前に書いた「はきちがえのはきだめから脱出するには?」という投稿を見つけた。

 80歳を過ぎた男性作家であるJ・M・クッツェーが書いた『ポーランドの人』(白水社)を、日本語に訳出した記念として、再度ここにアップしておく。光が当たっているテーマは、両者に通底しているからだ。日本語社会の周回遅れ、なんとかしたい!
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6月22日(2018年)

某大学教授で文芸評論家でもあるという60代の男性がセクハラで訴えられた。ニュースなどのことばを読むかぎり、自分が特権をもつ位置にある教育者だという認識が著しく欠如している。文学者であることで免除されると本人が思い込んできた長い歴史と、まあ仕方がないとそれを許してきた周囲の教育者・文学者などの価値観の、すべてが時代後れでゴミ箱に入れて削除してしまいたいようなウイルス性有害物と思われる。

 文学者であることを名乗るなら、まず、「恋愛」という表現の定義を学びなおしてほしい。

 恋愛感情とは、ひとりの人間がもうひとりの人間を、とても、とても大事に思い、憧れ、その人を独占したい、欲しいと思う性的欲望をも含んだ感情のすべてを呼ぶのだが、同時に、相手から自分もまたおなじように大事に思われ、憧れられ、独占したいと思われ、欲しいと思う性的欲望をもたれたいという気持ちであって、あくまで「対等な関係」が底になければ成立しないはずだ。それが近現代の思想的な始まりだったのだと。

 某教授のいう感情はまったくそれとは異なり、60代のオスの欲望にきれいなことばの衣をかぶせたものにすぎず、相手との「対等な関係」などまったく眼中にないものであることは疑いの余地がない。文学者として、これを「恋愛感情」などとゆめゆめ呼ばないでほしい。はなはだしく意味をはきちがえているといわざるをえない。近現代の日本の男性文学は(まあ女性文学もある意味)、この「はきちがえのはきだめ」からどう出られるか、が根底的に問われているような気がするが、どうだろう。

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2018年の付記:

備忘としてfacebook に記したオピニオンを転記しておく。ちょっと語調はあらいけれど、それも含めて。希望も含めて。

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2023年の付記:だから対等の人間として相手を見ているなら、「俺の女にしてやる」とか「俺の恋人にしてやる」とか「俺の女房にしてやる」という表現は全く出てこないはずだ。相手のことを深く知りたい、理解したい、という気持ちが相手に受け入れられたとき初めて、相互のやり取りが始まるんだ。一方的な「妄想」に突っ走ってしまわないことが、めっちゃ大切なんだよな。

追記:まあ、人間として対等であることは大前提だけど、恋愛感情のバランスに不均衡があるときは──そしてこれはいつの時代もとても多いんだが──悲しいかな、どちらかに悲恋、失恋が待ってるわけだけどね。でも支配、被支配の関係を示す「俺について来い」とか「お前を幸せにする」といったセリフが横行した時代が、ホント長かった。それって、どんだけ「主従の関係」を反映しているか、足元から考え直したほうがいいよね。いまだに自分の夫を「主人」と呼んでる女性たちも、もちろん男女問わずに「オタクのご主人」という人たちも!



2023/06/18

コンサート:2人のフランツ、青柳いづみこ & 高橋悠治 トークコンサート

 備忘のために昨日のコンサートのことを書いておこう。

 昨日はひさびさに都心まで出かけた。日比谷の「ベヒシュタイン・セントラム 東京 ザール」で開かれた、青柳いづみこ & 高橋悠治というビッグなピアニスト2人のコンサート。コロナもあけて、フランソワ・クープランとフランツ・シューベルトと聞けば出かけずにはいられません!

 帰りの電車が、事故の影響で動いているのは各駅停車のみで、ちょっと時間がかかったけれど、6月の晴れ渡った空を見ながらゆっくり帰宅。最寄り駅にたどりついてもまだ西の空は茜色。

 生で聴くピアノタッチの美しさが、胸に染み入るサイコーの一日だったナ。


2023/06/11

「海外文学の森へ 56」『過去を売る男』:ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ著、木下眞穂訳『過去を売る男』

東京新聞(6月6日夕刊)のコラム「海外文学の森 56」でジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ著、木下眞穂訳『過去を売る男』(白水社)を紹介しました。

 このリレーコラム、最初は「書評より、もっと柔らかく、身近なことも含めてエッセイふうに」という依頼だったように記憶しています。「柔らかく」がうまくいってるかどうかは別として、今回は、むかしのこともちょっと書いたり。

タイトルは、担当の記者の方が付けてくれたものです。

***アンゴラの風に乗って***

「トッケー、トッケー」と鳴くヤモリが壁を這う家に泊まったことがある。小さな娘たちとタイへ旅した遠い昔だ。『過去を売る男』を読んで、アンゴラのヤモリは笑うのか! と溜め息をつく。アンゴラのヤモリの声も聞いてみたかった。そんな叶わぬ旅への憧憬をかき立てる作品だ。

 主人公フェリックス・ヴェントゥーラはアルビノの黒人、資料を集めて過去を創作し、それを売ることを生業にしている。ポルトガル移民で古書店主の祖父、その息子が養父、という彼の系譜自体が謎めいている。おまけに家に住み着いたヤモリ語りに遠い記憶が入り込む。このヤモリ、かつては人間だったらしい


 舞台となるアンゴラはアフリカ南西部の大きな国だ。西は大西洋に面し、北はコンゴ民主共和国、南はナミビアに隣接し、かつてはポルトガルの植民地で奴隷の輸出国だった。独立は一九七五年だが二〇〇二年まで内戦が続いた。


 六〇年生まれのアグアルーザは、ポルトガル語にいくつかバンツー系言語が混じる環境で育ったのだろう。作品内には渇いた風が運ぶいくつもの微かな声音が響き、鮮やかな色調が揺れる。


 南部アフリカにはトカゲ、ヤモリといった動物が登場する神話、民話が多い。ズールー民族の詩人マジシ・クネーネが記録した民族創世神話ではカメレオンが神の使者だし、モザンビークの作家ミア・コウトにはハラカブマ(センザンコウ)が男の内部に棲みつく物語がある。


 本書は三十二の短章が深い奥ゆきをもって連なる。過去を買いにきた男、美貌の写真家、浮浪者といった登場人物を天井から眺めるヤモリ。エピグラフのボルヘスが道づれとなり先へ先へと飽きずに読ませる。夢のなかで真実と嘘が一瞬のうちに入れ代わり、過去と現在の境が揺らぐ。


 フェリックスがヤモリと語り合うときは、書き留めたくなることばが多い。雲は「夢の出口に見えない?」とか「幸福とは、たいていの場合、無責任だ」とか。


 土地に染みついた裏切りの記憶がカラフルな房糸となって、一気にほつれて謎が解ける。その向こうに「アンゴラの海」が見えるだろうか?


                      くぼたのぞみ(翻訳家、詩人)


PDFでアップできないので、そっくりペーストします。

2023/06/09

オリジナル英語版『ポーランドの人、その他の物語』がオーストラリアからやってきた:翻訳作業備忘録(5)

左がオーストラリア英語版、右が日本語版
 白水社から拙者訳が刊行されたばかりの J・M・クッツェー『ポーランドの人』、世界で最初に出版される英語テクスト『The Pole and other stories / ポーランドの人とその他の物語』がやってきた!
 オーストラリアのテクスト・パブリッシングから7月1日に出版されるバージョンだ。左の写真にあるように、カバーの真ん中に大きな文字で作家の名前が浮かんでいる。とにかく「J・M・クッツェー」で売るぞ!という本造り。

 英語版『The Death of Jesus(イエスの死)』が2019年10月に英米より先に発売されたときも、出版社はText Publishing だった。そのときはコロナ前だったので、日本からもオンラインショップで注文できた。そしてぴたりと発売日にとどいた。ここに書いたように。

 ところが今回、そろそろ出るころだなと出版社のサイトを見ると、オンラインショップがない。どうやって買えばいいのか、と問い合わせのメールを出したら、一冊ご好意で贈ってくれたのだ! Gracias!

 本は国際eパケットライトで送られてきたため、オーストラリア郵便が荷物を引き受けた時点から、現在どのような状態にあるか、何度もお知らせが来た。これはありがたい。「飛行機に乗ったところ」「着陸したので税関を通れば配送される」「配送された」と逐一メールがきたのだ。(残念ながら日本からの国際eパケットライトは現在取り扱い中止。)

 さて、この本には日本語訳となった『The Pole /ポーランドの人』の他に5つの短篇が入っている。パラパラめくっていくと、そのうち4つは日本語版『モラルの話』で読めるが、1つだけ新作が入っているとわかった。わお!

   The Hope

イギリス版
 ずばり「希望」だ。カタルーニャの村に住むエリザベス・コステロがいよいよ年老いて、物忘れがひどくなり、息子ジョンに電話をかける切迫した場面から始まる短篇。これは昨年7月にミラノの文芸フェスティバルでクッツェーが朗読したもので、最後から2つ目に置かれている。最後を締めるのが「犬」、『モラルの話』では真っ先に出てくる短篇だ。この二篇、「犬つながり」で読ませて「動物と人間」をめぐる強烈な余韻を残す流れになっている。

 このオーストラリア版と同じ内容のものが、10月にイギリス版として出版されるはずだが、サイトを見るとカバーが寒色系のモスグリーンから暖色系の濃いオレンジ色に変わっていた。そうなのか!The Hope が入る短編集だものなあ!


2023/05/30

「熱くならない火のような愛を描いた」J・M・クッツェーの恋愛小説:翻訳作業備忘録(4)


「シンプルな表現で、文芸コードを極限まで駆使して、熱くならない火のような愛を描いた画期的な作品スペイン語圏の新聞(el mundo)で絶賛された"El Polaco /The Pole"の日本語訳『ポーランドの人』、ついに発売です。

「緑の室内」がカバーになった本を「緑の屋外」で撮ってしまった!
と、あとから気づいた。

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版元サイトの紹介が、とても充実しています!

 https://www.hakusuisha.co.jp/book/b625006.html


 5月24日にはドイツ語版"Der Pole"も発売、それを南ドイツ新聞が大きなニュースで伝えていました。


J. M. Coetzee
hat sich jahrzehntelang streng an den kleinen Widersprüchen des Alltags abgearbeitet, die eigentlich unerträglich sind. Sein neuer Roman „Der Pole“ ist jetzt milder, fast versöhnlich. #SZPlus


 クッツェーは6月末から3週間、プラド美術館に滞在して短篇を書くプログラムに参加するというニュースが流れたばかり。美術と文藝を切り結ぶ興味深い企画「Writing the Prado」のトップバッターとしてクッツェーに白羽の矢が立ったようです。スポンサーはロエベ財団。どんな作品(短篇?)ができることやら、これもすごく楽しみです!

John Maxwell Coetzee, Nobel Prize for Literature (2003), has been selected as the first author to participate in the "Writing the Prado" program, a joint initiative with the Loewe Foundation that invites internationally renowned writers to engage literarily with the Museum's collections.