2017/12/31

良い年をお迎えください!

今年の最後はふたたびこの曲でお別れです! 英語の字幕もついてます。




2017/12/30

白い濁り湯にひたる愉楽──木村友祐『幸福な水夫』

木村友祐『幸福な水夫』(未来社刊 2017)

 師走もおしせまった日に届いた、凝った装丁の『幸福な水夫』をはらりと開いて、つい読みふけってしまった。八戸から恐山をぬけて、老父と中年にさしかかった息子2人が温泉まで旅する物語は、最初から微温の湯に入る感覚で、どこかに思わぬ仕掛けが埋め込まれているかもなどと緊張せずに、安心して読みすすめられる。そこがいい。
 登場人物の人間関係がなんともマッチョな「男の世界」だけれど、人肌が感じられる下北弁での会話はどこか懐かしく、背後に戦後日本の時間の流れや、物語を加速させる叶わなかった父の恋を埋め込んだ物語としても楽しめる。

 ひなびた温泉旅館のスナックで、都会からやってきて、標準語で話してもらわないとわからない、と冷笑的にいう男たちに向かって、主人公があびせることば:下北では下北弁が標準語だ! がメトロポリスに抗する地方の力学を見事に描いていて、圧巻。
 どこまでも理知的な技巧を凝らしたクッツェーの作品のあとに読むと、肩の力がふいに抜けて、白い濁り湯にひたる気分になるのは、温泉に入りながら都会暮らしの緊張をほぐす主人公だけではない。荒っぽい男たちのことばの陰に埋め込まれた、田舎の土地が養う朴訥さに、まっすぐ反応する自分がいることを再確認させてくれる作品だった。

 ひと足お先におせち料理をいただいたような気分。ひょっとして、いろいろ心が挫けそうなことの多かった年の瀬に読むにはふさわしいかも。凝った装丁本は限定1500部!

2017/12/27

パリジェンヌ展/世田谷美術館

さあ、来年のイベントです!

 年明け早々の1月13日から、世田谷美術館で「パリジェンヌ展」がはじまります。ボストン美術館からやってくる美術品の数々が展示され、それが「1715年から1965年までの、文化の首都で描かれた女性たちのポートレート」とはまた、興味津々です。


所蔵がボストン美術館というところが面白い。つまり、アメリカ東部にもっとも古くから建設された都市ボストンが所蔵してきた「パリ」をめぐるあれこれなんです。

 新世界の植民地アメリカがイギリスと戦争をして独立したのが1776年、そのアメリカがヨーロッパ、とりわけフランスの「文化の首都」をどう見てきたか、独立の少し前から20世紀半ばまでの、彼の地への屈折した「あこがれ」の視線がどうあらわれているか。そしてそれは、とりもなおさず、東アジアにある日本社会が近代以降、追いかけてきたヨーロッパへの憧れの視線と重複するのかしないのか。これはもう見どころ、考えどころがたっぷりありそうです。

 イベントもいくつか開かれ、光栄にも、『鏡のなかのボードレール』の筆者にもお声がかかりました。2月24日のトーク・イベントに顔を出します。

 <褐色の肌のパリジェンヌ──エキゾティシズムが生んだミューズたち>
  2月24日(土曜日)14:00~15:00 世田谷美術館講堂
  話:くぼたのぞみ、聞き手:キュレーターの塚田美紀さん、です。
 
 19世紀最大のロマン派詩人といわれるボードレールのミューズ、ジャンヌ・デュヴァルは褐色の肌をした女性でした。時代が下って、アメリカで徹底的な差別を受けたミズーリ州セントルイス生まれのジョセフィン・ベイカーは、パリへ渡って大成功をおさめたアフリカン・アメリカンの女性。そのベイカーが「エキゾティシズム」による「美のオブジェ」として、当時のパリでいったいどんなパフォーマンスをしたか、やらされたか。
 彼女は「ブラック・ヴィーナス」の異名をとり、最後はフランス国葬になりました。そんなベイカーの姿もこの展覧会には姿を見せています。

 詳しくはこちらへ!

***
メモ:ボストンは1630年にイングランドから来た清教徒たちの手によって築かれた古い町。そのボストンで起きた茶会事件をきっかけに、アメリカが独立戦争を経て宗主国イギリスから独立したのが1776年。フランスの植民地だったルイジアナをナポレオン・ボナパルトから破格の値段で買い取ったのが1803年。奴隷制度を廃止したのは南北戦争(1861~65)後の1865年とされるが、実際の差別は延々と残り、南部ではリンチが後を絶たず、1960年代の公民権運動、ブラックパンサーの運動、アファーマティヴアクションなどで徐々に改善されてきたとはいえ、負の遺産はいまも続く。

2017/12/24

ショパンでメリー・クリスマス!

Joyeux Noël! Merry Christmas!

子供のころは生木に綿をのせて飾ったクリスマスツリー、自分が親になったらこっそりプレゼントを買っておいて、さてどこにしまっておこうかと頭を悩ませたクリスマス。楽しかったことばかり思い出すクリスマスだけれど、すでに子供たちは成人済み。
 さて、今年のクリスマスはどんなふうに過ごそうか。いつもおなじメニューのクリスマス・ディナーを作ることは決まっているし、リースもドアに飾ってあるし、仕事も一段落したし……



 ふとKさんのブログで、ショパンのピアノコンチェルト第1番の動画を見つける。懐かしい。学生時代に短期間メンバーだったオーケストラで演奏した曲だ。これはショパンの生地ポーランドのラジオ室内楽団と、緋色のドレスを着たオルガ・シェプスのピアノ。モスクワ生まれのピアニストらしい。

 ショパンは、若いころは「あますぎる」と避けたけれど、70年代に出たポリーニは針が飛ぶほどの勢いのあるLPを買って聴いた。50歳をすぎたころからは、お砂糖のような優しいアシュケナージを何枚も買い込み、肩こりをとるために(!!!)取っ替え引っ替えかけていたことがある。最近はまた聴かなくなっていた。

 ショパンはある年齢をすぎるとまたよくなる、というのは本当だ。ロマン派の作品を批判する視点を身につけてから、ふたたび、人生も晩年に近づくと、この「あまさ」に身を委ねる心地よさを welcome! したくなる瞬間があるものだ。詩はそうはいかないけれど、音楽は無条件にwelcome!
 しかしどこまでも、ときどき、ときたま、である。ふだんは、日常的にはやはりバッハでしょう。フランス組曲とかね。先日もグールドのフランス組曲第2番をOLの通勤のためにコピーしたばかりだった。
 では、あまいながらも凛としたショパンで:

 メリー・クリスマス!


2017/12/23

今年をふりかえる

2017年も残りわずか。備忘のために今年の仕事をふりかえっておこう。

 1月 昨年から引き続き、JMクッツェー『ダスクランズ』の翻訳、こつこつ。
 2月 『ダスクランズ』訳了。はあ〜〜〜!脱力。 アディーチェ『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』の初校。
 We=男も女も、にした理由。まだまだ、まだっ💢!
 ミア・コウト『フランジパニの露台』第1章「死んだ男の夢」(すばる)のゲラ。「白い肉体、黒い魂」のミア・コウト恐るべし。

 3月 『ダスクランズ』の解説「JMクッツェーと終わりなき自問」を書く。
   寝ても覚めても『ダスクランズ』──助けて〜!
   アディーチェ『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』の再校ゲラ。
   デイヴィッド・アトウェル来日、駒場で2日間、読書会、レクチャーと討論。
   (渋谷近くの居酒屋で、いやあ南アの80〜90年代は大変な時代だったねえ!
    現在のANCは……と嘆き合う。)
 4月 『ダスクランズ』の解説に手を入れる。キリがないほど何度も。
   「早稲田文学女性号」のためにアディーチェ「イジェアウェレ」を訳す。
   『ダスクランズ』の解説、完成。JMクッツェーのこれまでの仕事を俯瞰。
 5月 「たそ、かれ、ボードレール」を「すばる」に書く。
   70年代初頭の記憶が迫ってくる。
   ジャン・ミシェル・ラバテの講演(クッツェー作品の精神分析的研究)。
   「イジェアウェレ」訳了。子育てはやってみなけりゃわからないヨ!
 6月 『ダスクランズ』の初校ゲラ。これもまた手強い。
 7月 メアリー・ワトソン「ユングフラウ」(すばる)訳す。高密度の短編。
   『ダスクランズ』再校ゲラ。すっきりしてきた。
   Slow Philosophy of J.M.Coetzee の著者、ヤン・ヴィレムの講演。
   (「クッツェーと翻訳」について、滅法面白かった)。
 8月 「ユングフラウ」解説書く。メアリー・ワトソンはケープタウン大学卒。
   大学院でクッツェーも参加したブリンクの授業を受けた人。
   『ダスクランズ』最後の読み。すごい迫力でやりとり。完成!
 9月  アミラ・ハス来日。存在感に圧倒される。
   『パレスチナから報告します』復刊したい。
   『ダスクランズ』刊行! 
10月 資料と書籍類の整理。LPの断捨離。読書。大事な本が消えた😭。
11月 新たに翻訳開始。仕事してるのがいちばん落ち着く。
12月 80年代のシンプルなクリスマス・リースをサツキの茂みに絡みついてた
   蔓と実でカスタマイズ。

なんか他にもあったなあ。日経の書評(ガエル・ファイユ『ちいさな国で』)とか、ENGLISH JOURNALのコラム(アディーチェのスピーチをめぐり)とか、5月には『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』刊行記念の、B&B(星野智幸さん、お世話になりました!)や神田でのイベント(朝日のディアガールズのみなさんと!)とか、あれやこれや!
 去年はアディーチェ『アメリカーナ』の分厚いゲラと格闘しながら『鏡のなかのボードレール』も刊行したけど、今年は複数のことが同時進行して、次から次へとスケジュール表みながら動いた。来年はもう少しのんびり行きたいなあ。でも、しょっぱなから獰猛な「犬」に吠えられそうだ💦💦!

 そうだった、来年の干支は「犬」だよ。ひやあ〜。

2017/12/21

2010年5月アムステルダムで朗読するクッツェー

10年ほど前に友人からすすめられて始めたこのブログだが、今日ほど、これは便利と思ったことはなかった。自分でも忘れている情報が、キーワードを入れるととすぐに見つかる。ググっても簡単に出てこないリンク先や、写真、記事の要約、あるいはそれがいつごろの出来事だったか、といった情報への手がかりがしっかり残っているのだ。
 何冊ファイルがあっても、さて、どこに入れたか、ぱらぱらとやっているうちに見逃したり、異なるファイルを探していたり、情報量が増えるにつれて記憶があやふやになったり、書いた自分が忘れているようなことも、ブログで探すと手がかりが見つかる。これは本当に助かる。



 たとえば、今日さがしていた情報のひとつはこれ↑。2010年にJMクッツェーが70歳になったとき、アムステルダムで開かれたイベントでなにが朗読されたか? クッツェーはこのイベントで二つの朗読をしたのだが、その動画はアムステルダムの開催地のサイトからは消えた。でもひとつだけ、ここで見ることができる。(2016年1月にもこのブログにアップされていた!😅)
 クッツェーはここでオランダ語で謝辞を述べ、それから2009年9月に出た『サマータイム』から「マルゴ」の章を朗読している。

 もうひとつの朗読は、エリザベス・コステロが出てくる短編で(こっちが本命!)、まだ活字になっていない。この短編の朗読は翌年2011年1月のジャイプールの動画があるにはあるが、音質が悪すぎてよく聞き取れないし、楽しめない。そのうちどこかに出るといいのだけれど──!

2017/12/10

張愛玲の『中国が愛を知ったころ』

張愛玲著 『中国が愛を知ったころ』濱田麻矢訳(岩波書店刊 2017)
この本を読んで確認できるのは、文学作品とは、張愛玲のようなその時代にとって先駆的な視線をもつ人によって書かれ、読まれ、それを出版するしないを決定するのが早かろうが遅かろうが、とにかく最後は出版されて、こういう本が好きという読者に読まれつづけ、支えられるという事実だ。そんなことをしみじみと思う本だ。歴史の時間と、その歴史のなかで翻弄される人たちと、地理的移動を、いまという時代から一気に俯瞰できる、そんな出版を心から歓迎する。
 それにしてもいい本だ。目新しい「自由恋愛」という概念とその内実を手探りする登場人物たちの葛藤が、湿気を含まない鋭い視線で語られていく。それでいて、その情景内に描かれる、ふくよかな匂い、鮮やかな色、にぎやかな音、細やかな観察眼。
 
 思えば、恋愛とは、性にまつわる人間の感情、思想のきわめて内密なやりとりにほかならない。家父長制度によって抑圧されてきた東アジア的人間集団から「個人」が生まれいずるかどうか、それはかつて「生みの苦しみ」が生じる場でもあったろう。「個人」としての感情のやりとり、性のやりとり、それが可能となる生そのものの「場」。それは個人と個人が対等に向き合おうとするき、それぞれの真摯さが試される場でもある。いまもそれは変わらない。
 自分が相手を大切に思うのとおなじように、相手も自分を大切に思ってほしい──それが恋愛の根底にはある。しかし。男は複数の女を一段下の人間として愛でる、それを可能にする富や力を「甲斐性」などと呼んだ時代に、張愛玲の描く人物たちは「それでも愛する」と高らかに宣言するのだ。

 作者、張愛玲の生年は1920年、3年前に他界した1919年生まれのわたしの母と1年違い。あの時代を、植民地化と戦争の時代を、偶然にも、かたや中国で(その後は米国で)、かたや日本の北端で生きた女たちではあるけれど、「自由恋愛」という一点において、彼女たちの生と性には共通するものがあるのではないか。そんな長い時間軸で生の現場を鋭く凝視させる作品集である。翻訳された日本語もいい。

2017/12/08

「犬」──J・M・クッツェーの新作短編

少し前に、雑誌 New Yorker のウェブサイトにアップされた、JMクッツェーの新作短編です。タイトルはその名もずばり「The Dog・犬」

 主人公が毎日通りかかる家に「猛犬に注意」とあるが、それが "Chien méchant"とフランス語で書かれている。つまり作品の舞台はフランスのどこか、ということだ。とにかく獰猛な犬で、彼女が自転車で通りかかるたびに吠えまくる。どうやら、ジャーマン・シェパードかロットワイラーらしい。ニューヨーカーのサイトに出てくる牙をむく、ごつい犬はロットワイラーなんだろうか? こんな感じ。すごい迫力。


とにかく、彼女の気配を感じ取るや、すかさず吠えまくる。そこで彼女は一計を案じて……。
 

2017/12/04

コラム2つ:アディーチェのスピーチ

コラムを2つ書きました。チママンダのスピーチをめぐって。


 掲載は、12月6日発売の『ENGLISH JOUNAL 1月号』です。このブログでもここで触れた、今年ウィリアムズ大学で行ったアディーチェのスピーチが載っています。コラムのタイトルは「注目の作家が発信するスリリングなことば」そして「変革の力をくれる知性と誠実さ」。

 アディーチェのスピーチは、トランプ大統領が現実のものとなってから、フェミニズムを超えてさらに明解に、さらに力強く、わかりやすい表現で、現代世界へ切り込んでいくようになりました。ナイジェリアは自分が育ったころは軍事独裁政権で、不正があっというまに日常になっていったと。それは違う! と声をあげないと、あっという間に人はその不正に慣れていくのだと。


 よかったらぜひ、ぱらぱらしてみてください!


2017/12/02

アミラ・ハスの番組:明日3日早朝、そして9日にも放映

9月末に来日したイスラエル人ジャーナリスト、アミラ・ハスを追って番組が作られ、明日3日早朝に放映されるようです。再放送は9日で、これは午後。いずれもEテレ。
 残念ながらわたしはTVをもっていないため、観ることができないけれど、どなたかDVDに録画してください(涙)。知人からまわってきたポスターを以下に貼り付けます。

*外側からパレスチナ/イスラエル問題を見る目には、彼女のことを「イスラエル人でありながらパレスチナに住んで……」と表現するほうが分かりやすいのかもしれませんが、彼女の著書『パレスチナから報告します』を訳した者としては、「イスラエル人であるからこそ」ということばのほうが、彼女の心情をより的確に伝えていると思っています。その違いを、考えてみてください。

2017/11/26

「挑発的な」風のなかでほかほか

今日は朝から大勢で建物の周囲や芝生などの庭そうじ。日差しは暖かいけれど風は冷たく、緋寒桜の美しく色づいた黄色い葉を揺らしながら吹いていて、確実に冬が近づいているのを感じました。
 さて、人の心の温かさを試してくる挑発的な??その風のように😎──「挑発的」という表現でクッツェー『ダスクランズ』を的確に評してくれたのは、江南亜美子さんです。

「さあ行くぞ」。ちなみにこの掛け声は……冒頭一行目の言葉でもある──中略──作家クッツェーは、南アフリカの白人という自身のルーツにもかかわる物語を、三十歳にしてすでにこのように提示していた。ひと癖ある本作は、あくまで読者に挑発的で、まさにクッツェーらしさが横溢している。

写真は江南さんのtwitterから拝借しました
「本の雑誌」の12月号、「新刊めったくたガイド」のページに、いっしょに並んでいるのがこれまたすばらしい本たちです。ありがたきかな。寒風のなか心がほかほかします。
 
都甲幸治著『今を生きる人のための世界文学案内』(立東社)
・エンリーケ・ビラ=マタス著/木村榮一訳『パリに終わりはこない』(河出書房新社)
・ダニエル・デヴォー著/武田将明訳『ペストの記憶』(研究社)
・J・M・クッツェー著/くぼたのぞみ訳『ダスクランズ』(人文書院)

2017/11/19

秋の光のなかの収穫

つんと鼻にくる冷たい空気、急激に西にかたむいていく光。そのなかを散歩した収穫。






ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子著『大航海時代の日本人奴隷』

遅ればせながら『大航海時代の日本人奴隷』(ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子著 中公叢書)を読んだ。

 16世紀半ばから17世紀半ばまでの日本がスペイン・ポルトガル人と交易をするなかで、どんなことが起きていたのか。
 キリスト教を受け入れながら、あるいは反発しながら南蛮貿易にたずさわるなかで、戦国時代の「乱取り」と呼ばれる捕虜の習慣によって、あるいは年季奉公的な扱いや、親に売られた子供などが人身売買されて、日本人が太平洋を越え、メキシコやヨーロッパへ、あるいはインドネシア、インドを経由してアフリカ大陸まで渡ったプロセスが、豊富な歴史資料によって裏付けられ、浮かび上がる。それがこの本の大きな特徴だ。

 奴隷貿易といえば人は、ポルトガルやアラブの商人によってアフリカ大陸、とりわけ西アフリカからカリブ海を経由して南北のアメリカ大陸へ運ばれた黒人奴隷を思い浮かべることが多い。しかし、じつは、多くのアジア人が奴隷として売買されていたことは、南アフリカのケープタウンにある「スレイブ・ロッジ」を訪れたときから、筆者にもはっきり意識されてきた。この本は、そのもやもやした歴史的背景をクリアに開いて見せてくれるのだ。スレイブ・ロッジに残された記録として、奴隷の名前に日本人と思われる名があった理由が、その経緯が、この本を読むと納得できる。アジア、とりわけマカオ、マニラ、インドのゴアなどからポルトガル領アフリカ(現在のモザンビーク)や南アのインド洋に面したナタール(現ダーバン)を経由して、カフィール(アフリカ人奴隷)やインド系、他のアジア系の人たちといっしょに、日本人奴隷が南アフリカに入っていったことがわかるのだ。

 本文がわずか200ページにも満たない薄い本だが、そこに描き出される「世界史」の概要は、これまで日本国内で採用されてきた教科書では、少なくともわたしの世代では、まったく教えられなかった「世界史」の盲点を開いてみせてくれる。その意味でも、新たな「大航海時代」ともいえるグローバル化の時代に、「世界の歴史」として国境や言語を超えて共有できる、歴史家たちの貴重な仕事といえるだろう。本書は著者ルシオ・デ・ソウザの元本を岡美穂子がダイジェスト版として書いたものらしく、元本の翻訳もすでに完了しているという。出版されるのが楽しみだ。

2017/11/14

J・M・クッツェーの自己形成期(3)

そしてTLSの記事はこんなふうにまとめられる。
*****
 ライブラリーは若き芸術家の発達過程における鍵となる瞬間を刻みながら、最初期の文学的嗜好との決別を示してもいる。『少年時代』(拙訳 インスクリプト)』で述べられるように、クッツェーはイーニッド・ブライトンの推理小説、『ハーディ兄弟』シリーズ、「ビグルズ」の物語を貪るように読みふける。だが、この自伝作品はこういった本以外のものを読もうとする早熟な野心をも記録している。「もしも偉人になりたかったら、まじめな本を読まなければいけないのはわかっている」と。
 本棚はまた、クッツェーのヨーロッパの伝統的古典との複雑で、発展途上の関係を示す鍵となる瞬間を物語っている。エッセイ「古典とは何か?」のなかで、クッツェーはバッハの「平均律クラヴィア曲集」を聞いてその場に釘付けになった経験を「その音楽が続いている間、私は凍りついてしまい、呼吸する気力さえなかった。音楽がそれ以前には決して語りかけなかったような仕方でその音楽に語りかけられていたのである」(『世界文学論集』田尻芳樹訳 みすず書房)と述べる。彼が詳述するように、それはプラムステッドの家の裏庭で、「15歳だった1955年の夏、ある日曜日の午後」に起きた光景だ。バッハ体験の瞬間は極めて重要な出来事であり、知的発展と文化的嗜好の方向性を立て直す契機を刻印しながら、クッツェーが「ヨーロッパのハイカルチャーを選び取るシンボリックな」瞬間を示している。しかし当時を振り返りながら、クッツェーは自分の情熱的反応は「その音楽に固有の性質」によって惹き起こされたものなのか、あるいはバッハとは当時の辺境的南アフリカにおける「社会的、歴史的行き詰まり」を表象するものではなかったのか、と問いかける。若いクッツェーがその当時収集しはじめた書籍類は、その意味で、このような切望の結果だったといえるだろう。
エリオット、ワーズワース、キーツが並ぶ
 クッツェーはここに写っている書物のうちの何冊かとはそれ以後も長く深い関係を結んでいく。2010年にポール・オースターに宛てた手紙のなかで、書棚にあった一冊、トルストイの『戦争と平和』について「半世紀のあいだ、大陸から大陸へ移動する僕についてきた。僕はそれに感情的な結びつきを感じている──あの途方もなく大きなことばと思想の構造物であるトルストイの『戦争と平和』に対してではなく、1952年にリチャード・クレイ・アンド・サンズという印刷所から出てきて、ロンドンのどこかにあるオクスフォード大学出版局の倉庫から出荷され、ケープタウンにあるその出版局の販売代理店に配送され、そこからジュタ書店を経由して僕のところへやってきたモノに対してだ」(『ヒア・アンド・ナウ』拙訳、岩波書店)と書いた。写真のなかで、書棚の下段中央付近にある、背の低い、かなり厚めの本がそれだ。
 『戦争と平和』の隣にある、何度も読み込まれた本もまた重要である。それはフェイバー&フェイバー社から戦後出版されたT・S・エリオットの『選詩集 1990-1935』で、ペンギン版のエリオットの散文作品補遺として出されたものだ。第二の自伝作品『青年時代』でクッツェーはエリオットについて、彼の「詩と初めて出会って圧倒されたのはまだ高校生のころだ」と書いている。「Homage」というエッセイのなかでクッツェーは「エリオットの詩はじつに魅力的だと思い」「T・S・エリオットふうな詩を書いた」と吐露している。作家クッツェーがイニシャルを二つ重ねるスタイルは(J.M.はジョン・マクスウェルの略)、トマス・スターンズが言うように、エリオットの影響といえそうだ。
 書棚にある何冊かの来歴をたどることも可能だろう。たとえば『ワーズワースの詩作品』は、自伝作品に記述されたことばを信じるなら、クッツェーの父親から譲られたものかもしれない。『少年時代には「ある日、父親がワーズワースの本を手にして彼の部屋に入ってきて、「おまえはこれを読んだほうがいい」 といって、鉛筆でしるしをつけた詩を指し示す」気まずい場面が描かれている。やがて父親が戻ってきて「ティンタン修道院・Tintern Abbey」について息子と話をしようとするが、困惑した少年は知らんぷりを決め込み、興味がないという。クッツェーのロマン派文学との関係には相反する心情が混在しているのは確かである──少なくとも『恥辱』(1999)のなかでバイロンへのオブセッションを取りあげていることからも、それは推測できるだろう。
 自己形成期の読書を振り返りながら、クッツェーはエッセイ「Homage」のなかで、これは「人が人生において、ほぼ不可避的に、自己のアイデンティティを定義したり、あるいは、少なくともその境界づけを開始する」時期であり、「成長するにつれて失われる熱烈な没頭によって」本を読む時期だと述べている。こういった思春期の気持ちがゆるんだとしても、むしろ、さらに自意識の高い、自己批判的な態度がそれに取って代わり、『ダスクランズ』(1974)から始まるすべての本にその刻印が残されることになったのだ。

********
 二段重ねの書棚にならんだギリシア哲学、古典思想書、イギリスのロマン派詩人の詩集など、どれも『青年時代』で言及されたり、のちの作品にくっきりと刻印されるものだ。しかしこれは、16歳の少年が読破しなければならない、という強烈な野心によってならべた書物だということでもあるのだ。高校生というのは硬い哲学書を「読破」することを自分に課したがる時期でもあって、消化不良を起こしながらも、とにかく「読む」。クッツェーはおそらくこのうちから何冊かを大陸から大陸へ彼が移動するあいだずっと携えながら暮らしてきたのだろう。オースターに宛てた手紙に書いたように、たとえば『戦争と平和』、たとえば……
 クッツェーの自己形成期には、詩の本やロシア作家の小説はあってもイギリス小説がなかったことは彼の作品を考えるうえで、どこか決定的なことを物語っているように思えてならない。そこがわたしのような英文学門外漢にとって、まことに興味深いところなのだが。
(了)


J・M・クッツェーの自己形成期(2)

ケープタウンの画廊で開かれる写真展
ウィッテンバーグの文章から少し紹介しよう。
****
 J・M・クッツェーの最初の自伝作品『少年時代』にあるように、「すごい速さで、完全に没頭して」読むことは、クッツェーが早いころに確立した習慣だった。だが、若いジョンが我を忘れるほど熱中して読んだものとは、いったいどんなものだったのだろう?
──中略──
 下の写真が雄弁に物語るのは、これがクリエイティヴ・アートへ初めて分け入ろうとするクッツェーの最初の制作物だったことで、クッツェーがハイスクール時代(最近のオリヴァー・レディの論によれば)フォトグラファーになろうと思っていたことを表している。クッツェーは上質なカメラ、イタリア製のウェガ35ミリ(ライカIIより低価格のコピー製品)を購入していた。暗室をしつらえ、そこでネガをポジに現像してプリントにした。一家は裕福ではなかったので、経済上の理由からプリントは重要な写真に限られた。この写真は少年が、地図、キーツの詩、新聞、雑誌のカバー、ピアノ曲の楽譜(バルトークのルーマニア風舞曲)といった印刷物に熱中したことを示す写真数枚のうちの1枚である。

 ──中略──
ずらりと並ぶ古典
 この写真で注目せずにいられないのはその中身だ。16歳にしては、ずいぶん野心的で生真面目な選書である。20世紀前半に知の民主化をめざしたエヴリマン、オクスフォード、ペンギン各社から出版された詩集、哲学書、古典の翻訳から構成されているのだ。
 照明があまりよくないとはいえ、数多くのエヴリマン叢書の背表紙からいくつかの書名が判読できる。プラトン、聖アウグスティヌス、ホッブズ、スピノザ、ルソー、ロック、カント、デカルトの名があり、ロシア文学の古典であるドストエフスキーの『罪と罰』、トルストイの『戦争と平和』の文字が読み取れる。英文学の小説は皆無、シェイクスピアさえなく、あるのはT・S・エリオット、ワーズワース、テニスン、キーツの詩の選集だ。ユークリッドの『原論』などは数学者になろうとするクッツェーの野心を示しているが、マルクスの『資本論』はたいした影響力をもたなかったようだ。これらの書物のうち何冊かは、のちに彼のフィクションに痕跡を残すことになるが、将来大きな影響力をもつようになるパウンドやベケット、そしてカフカはこの時点ではまだ姿を見せていない。
つづく

J・M・クッツェーの自己形成期(1)

非常に興味深い写真がネット上で見られるようになった。JMクッツェーが少年時代に、といっても15歳か16歳のころに、みずから撮影したスナップショットだ。思春期のジョン・クッツェーが何をめざそうとしていたか、3回に分けて紹介する。

16歳ころプラムステッドの家で撮影されたショット
クッツェーの自伝的三部作『少年時代』『青年時代』『サマータイム』の第一部は、少年ジョンが8歳になり、ケープタウンから内陸の町ヴスターへ引っ越したところから始まるが、5歳か4歳、あるいは3歳ころかと思える体験もエピソードとして盛り込まれている。最初の記憶をさかのぼる話が秀逸だ。母親とバスに乗って山間の道路を移動しているときのキャンディーの包み紙をめぐる記憶、あるいは、ヨハネスブルグの託児所の窓から見た、道路で犬が……というシーン(まあ、創作かもしれないけれど)。そして最終章は、アニーおばさんが死んで、ストライプのダサい制服を着て墓地へ行く場面で終わる。作品内ではこのとき少年は14歳、しかし実際にアニーおばさんが亡くなったのは、カンネメイヤーの伝記によれば大学入学後だから、これは時期を前後させた創作部分だ。

 第二部の『青年時代』では、すでに大学に入学して親元を離れて暮らしている。つまり17歳以降のことが語られるのだ。しかしこの時期と微妙に重なるようで重ならない思春期に、クッツェーが凝りに凝っていたのが写真だったことが明らかになった。上の写真は15歳から16歳ころ、つまり聖ジョゼフ・カレッジに通ってクリケットのクラブに属していたジョンが撮影したものだ。

 2017年11月7日付TLSに、この写真とともにハーマン・ウィッテンバーグの面白い文章が載った。ウィッテンバーグはJMクッツェーの二つのシナリオを書籍化した人で、クッツェーのハイスクール時代の写真ネガを託された人でもあったことはすでに書いた
「Absorption and intensity・没頭と熱中」というタイトルのこの記事は、16歳ころのクッツェーのライブラリーをめぐる内容で、二段組みの木製の本棚にならんだ50数冊の書物の中身について興味深い事実を教えてくれる。なんと、そこには英文学の小説は皆無で、シェイクスピアさえなかったと。では、いったいどんな本があったのだろう?
つづく

2017/11/13

毎日新聞にインタビュー記事が載りました

自分のブログでお知らせするのをすっかり忘れていました(汗)。

11.9 毎日新聞夕刊
11月9日(木)の毎日新聞夕刊にインタビュー記事が載りました。

 読者を試す真実の曖昧さ
  クッツェー第一作を新訳

 J・M・クッツェーの衝撃のデビュー作『ダスクランズ』の新訳が9月に発売になり、それをめぐる話ですが、クッツェーのことになると、とりとめもなくあっちこっちへ話が飛んで、とまらなくなる訳者の話をきちっとまとめてくれたのは、記者の鶴谷真氏です。Muchas gracias!

 記事はネットでも読めます。 
『ダスクランズ』、じわじわ動いています。そしてまた、新たな作業がはじまりました。

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追記:『ダスクランズ』の帯について、備忘のために、あらためてここに記しておきます。

<暴力の甘美と地獄を描く、驚愕のデビュー作>
  ヴェトナム戦争期の米国と、植民地期の南部アフリカ
  男たちは未来永劫、この闇を抱え続けるのか

帯の部分は基本的に編集者の領分ですが、今回は訳者もあらかじめ相談を受けて意見や対案などを出し、その結果が今回の帯になりました。
 ある男性読者から「男たちは未来永劫、この闇を抱え続けるのか」というところに強いジェンダー・バイアスがかかっている、とご意見をいただきました。でも、この部分は訳者が考えたわけではなく、若い編集者Aさんの考案によるもので、訳者としては、鋭い、優れた切り込みだと感じていることをお伝えしておきます。そしてAさんは女性ではありませんので、誤解しないでくささいね。⭐️

2017/11/03

アデレード大学エルダーホールの夕べ

備忘録として3年前の催しの動画を。アデレードで開催された Traverses: J.M.Coetzee in the World の初日:2014.11.11 の夕べ全体をYOUTUBE で見ることができる。クッツェーが朗読したのは、なんと、Age of Iron の冒頭だった。

2017/11/02

テンプレートの枠内で思考するとは

今日の東京郊外は夕焼けがとてもきれいだった。今年は寒暖の差が大きく、樹々の紅葉がじつに美しい。散歩から帰るまもなく、近くのふとん屋さんに頼んで作ってもらったふかふかの純綿の敷布団が届いた。「もう65年もこの商売をやっているけど、このワタはいいワタで……」とにこやかに語る職人気質の白髪の店主が、みずから運んできてくれたふとんだ。長いあいだこつこつと続けてきた仕事に誇りをもっている人の笑顔もまたじつに美しい。

 クッツェーとオースターの往復書簡集の日本語訳『ヒア・アンド・ナウ』(岩波書店刊)が出版されたのは2014年の秋だった。そのなかで、ジョンがポールにあてて書いた2009年5月27日付の手紙のなかに、こんな箇所があった。


──これほど英語にどっぷり浸かった環境で暮らすことが僕におよぼす影響はひどく特異なものになってきた。つまりそれは僕自身と、僕がおおまかにアングロ的「世界観(ヴェルトアンシャウウング)」と呼ぶものとのあいだに懐疑的距離を作り出し、その世界観に組み込まれたテンプレートの枠内で人がどう思考し、どう感じ、どのように他の人たちと関係を結ぶかといった点で、その距離は広がるばかりだ。(p82-83)


 この「テンプレートの枠内」という表現が、それ以来ずっと頭のなかで、ちりちりと音を立てつづけている。訳者は日本語が第一言語で、10歳から学んできた英語も、学生時代にやったフランス語も、「それで」暮らしたことのない言語だ。生まれてこのかた、ほぼ全面的に「日本語のテンプレートの枠内で」思考してきた。日本語でものを考え、感じ、理解したことを記録し、あれはどうだったかと自問し、自分以外の人たちと日常的に挨拶やことばをかわし、相手のことばを理解し、記憶してきた。
 でも、ずっとなにか違和感を感じて、狭い日本語の枠内から外へ出たい、と考えてきたのも事実だ。つまり、日本語以外の「テンプレート」のなかで思考してみたいと感じてきたと言い換えることができるかもしれない。クッツェーの上のことばを読んでそう思った。
 クッツェーが「英語のテンプレートの枠」をなんとか超えようとする姿勢には、とても共感する。しかもクッツェーはそれを「英語で」やろうとするのだ。この一見矛盾する「立ち位置」に、わたしのような「日本語で」日本語に抵抗しようとする者が共感する余地があるのかもしれない。

2017/10/19

16歳のジョン・クッツェーのセルフポートレート

TLSに面白い記事が載った

 先月、オクスフォード大学とロンドン大学SOASで、あいついで開催されたJMクッツェーをめぐるシンポジウム(というかほとんど祝祭的な催しに見えるイベント)の詳細なリポートが掲載されたのだ。
 タイトルは:The Languages of J.M.Coetzee. (JMクッツェーの言語たち)
 書き手は:Oliver Ready(オリヴァー・レディはロシア文学の翻訳者らしい)

これを読むと、50~60年代構造主義言語学の申し子であるJMクッツェーという作家と、翻訳を前提とした言語、言語メッセージ、作品行為をめぐるこれからの議論の方向性が、ぼんやりながら透かし見える。

少年ジョンが16歳のときに、35mmで撮影したセルフポートレート
「ぼんやり」といえば左の写真。自伝的作品を翻訳してきた者としては、とりわけ、SOASで開催された「アーカイヴ会議」に興味がわくが、それと同時に展示されたクッツェーの少年時代の写真が面白そう。聖ジョゼフ・カレッジ時代のジョン少年は、自宅に暗室をつくるほど写真に凝っていたが、その時代の写真が展示されたのだ。(暗室内で火花を散らした実験で危うく失明しそうになったエピソードも残っている。)写真は大部分がネガの状態で、彼が2002年にアデレードへ移住するときケープタウンに確保していたフラットに残されていた。それらは、2014年にフラットを売却する時点で、ハーマン・ウィッテンバーグ(クッツェーの二作品のシナリオを書籍化した人:ウェスタンケープ大学所属)のもとへ移った。それが今回ロンドン大学のイベントで展示されたのだ。

 TLSに載った写真は、少年ジョンが16歳のときにイタリア製のカメラ、WEGA 35mm で撮影したセルフポートレートだ。見るものの想像力を喚起してやまない写真だ。文中では、このころから cool detachment があらわれていると指摘されていて、これはある意味、うなずけないわけではないけれど、まあ、それは数々の作品を読んできた者の後付けの理屈といえなくもないかな。

 そうそう、Slow Man をオペラにしたベルギーの作曲家ニコラス・ランスが、制作を終えてプレミア上演を待つ作品「Costello – this body that I am」からテスト・レコーディングしたアリアをかけてくれたとか。モチーフは「I believe in what does not need to believe in me」で、もちろんオペラのセリフはクッツェーが書いた。へええ〜〜またまたコステロか! 次のクッツェーの作品もコステロ絡みらしい。これは気になるな。

2017/10/10

デイヴィッド・リムニックと語るアディーチェ

 このところスパイシーなキレのよさで聞き手を思い切り笑わせてくれるチママンダ・ンゴズィ・アディーチェですが、この動画では「ニューヨーカー」の名物編集者、デイヴィッド・リムニックを相手にチママンダが語ります。



アメリカにきて自分が初めて黒人だと知ったことや、物議をかもしたトランス・ジェンダー・ウーマンについての発言と、それをめぐる周囲の反応などについても。実際には90分の長いトークですが、「ニューヨーカー」がそこから少しだけアップしています。

2017/10/07

「アーカイヴ会議」で朗読するJ・M・クッツェー

これも備忘録として。


10月6日にロンドン大学で開かれたクッツェーとアーカイヴ会議/Coetzee & Archive Conference2日目で『The Schooldays of Jesus』から朗読するJ.M.クッツェー。

(2017.10.19付記:TLSの報告記事によると予定を変更して、Boyhood の1~3章を朗読したようです。)

その後、ピアノの演奏があったみたい。曲はバッハのイギリス組曲。




2017/09/27

新作を予告するMALBAでのクッツェー

MALBAでの講演で短編「ガラス張りの食肉処理場」を読んだあと、クッツェーは新作について述べていた。次の本はエリザベス・コステロをフィーチャーした作品だと。まずスペイン語で出版されるらしい。
 ここに動画を貼り付けておく。最初の司会はスペイン語だけれど、スタールとのやりとりは英語だ。今朝、英語圏にニュースとして出回った。

2017/09/16

J・M・クッツェーとUNSAMの仲間たち

9月11日から13日まで、アルゼンチンのブエノスアイレスにあるMALBAおよびUNSAMで開かれたイベントと「南の文学」の写真をいくつか、備忘のためにアップしておく。

MALBAでアナ・カスミ・スタールと

JMクッツェーとカルロス・ルタ
スペシャル・ゲスト、キャロル・クラークソン
クラークソンの話にはヘッドフォンは不要😎

研究発表
ヘッドフォンでシンポを聞きながらメモするクッツェー、めずらしく黒いシャツ姿
「Foe」の演劇キャスト、スタッフたちと
左端がアナ・カスミ・スタール、3人目がキャロル・クラークソン
UNSAMの仲間たち、みんな笑顔



2017/09/15

お誕生日おめでとう!──チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ

オレンジ賞授賞式 2007
今日9月15日は、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの誕生日です。『パープル・ハイビスカス』でデビューしたチママンダ・アディーチェは当時27歳でした。1977年生まれの彼女も今年で40歳。

Happy Birthday, Chimamanda!!

初来日2010
最年少でオレンジ賞を受賞した『半分のぼった黄色い太陽』(2006)と、アフリカ人で初めて全米批評家協会賞を受賞した『アメリカーナ』(2013)という2冊の傑作長編小説で大ヒットを飛ばしたアディーチェ。
 昨年はTEDTalkの第2弾『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』のタイトル文字がディオールのTシャツの胸を飾って、ファッション界でも大きな話題をさらいました。「フェミニスト」ということばがそれで新たな生命を吹き込まれたように思います。そのアディーチェは、いまや一児の母です。

2016年秋
今年もまたノーベル賞が話題になる時季がやってきましました。まだ40歳のアディーチェが、すでにその渦のなかにあるというのはまったくの驚きです。
 アディーチェの日本デビューをはたすべく、それまであたためてきたプランが、日本独自の短編集『アメリカにいる、きみ』となって河出書房新社から出たのが2007年。早いものであれから10年です。2010年の来日をはさんで日本でも多くの読者にめぐまれているアディーチェ。

 これからがますます楽しみな作家ですね。


2017/09/09

『ダスクランズ』──J・M・クッツェーのデビュー作


みほんができた。作家が30代前半に書いたデビュー作は、「クッツェー、すげえ!」と口走りたくなるような本だった。こう書くか、ここまで書くか!と。

新訳『ダスクランズ』(人文書院刊)
彼の作品を訳しはじめて何年になるだろう。ペンギン版の『マイケル・K』と出会ったのは1988年だから、かれこれ30年か……とつい回顧的になってしまう。まあそういう年齢だからね(笑)。なにこれ?という驚きから始まり、ただならぬ作家と知って居住まいを正し、翻訳者としてこれは外せないと思うところを調べているうちに今日にいたった。この30年、いまも発見の連続なのだ。

 最初のきっかけとは前後するが、南アフリカ関連の書籍や短編をいくつか訳してきた。収穫は大きかった。それは翻訳する作品の時代背景を探るための、訳者として欠かせない作業にとどまらず、作家の生い立ちや考え方を形成したものを知る作業でもあった。いや、過去形ではなく、現在形としてそうなのだ。

・IDAF/UNESCO『まんが アパルトヘイトの歴史』1990
・マジシ・クネーネ『アフリカ創世の神話』1992
・ベッシー・ヘッド『優しさと力の物語』1996
・ゾーイ・ウィカム『デイヴィッドの物語』2012
・メアリー・ワトソン「ユングフラウ」2017──雑誌「すばる 10月号」

J.M.Coetzee in the World

クッツェーは「数々の偽装を凝らした作品」を書いてきた。だから、いろんなアプローチが可能だ。しかし彼にとってまず切実なテーマは「歴史の哲学」だった。『ダスクランズ』に入った第二部「ヤコブス・クッツェーの物語」は、米国滞在中に書きはじめた作品で、やむなく南アフリカへ帰国するころには、ほぼできあがっていた。この部分を訳しながら、作家としてのスタートラインを再確認できたのは大きかった。ここでクッツェーはみずからの「歴史的ルーツ」と「同時代的な現在」を見出そうとしたのだ!

 この作品には、自分が生まれ育った土地を中心にしたスパンの長い歴史を、強烈な「透視」によって貫こうとする強い意志がみなぎっている。それはいまだから見えるもので、『ダスクランズ』が発表された1974年は、かの地にはアパルトヘイトという人種に基づく暴力的搾取制度があり、それがクッツェー作品とどう繋がるか、部外者には見えにくかった。

カンネメイヤーの伝記
米国滞在期にヴェトナム戦争報道や反戦運動を目の当たりにして帰国してから、クッツェーは第一部「ヴェトナム計画」を書いた。1994年、日本語の訳書として4冊目にあたる『ダスクランズ』の初訳が出たころは、この二部構成の不可解な作品で作家がいったい何をしようとしているのか、よくわからないと言われたものだ。 
「歴史の哲学」を軸にして、二つの土地をゆるく、ときに緊密につなぐこの『ダスクランズ』から、ポストアパルトヘイトの状況を非情なまでに明晰な文体で描いた『恥辱』へと、数々の技巧を駆使した作品をクッツェーは書き継いでいった。だが、その底流を支えるものが誰の目にも明らかになったのは、2012年に「クッツェー・ペーパー」が公開され、JCカンネメイヤーの伝記や、デイヴィッド・アトウェルの本が出たあとだった。

自伝的三部作
とはいえ、2009年に出た自伝的三部作の最終巻『サマータイム』には、『ダスクランズ』を書いてデビューする若い作家の姿がリアルに描かれていた。『少年時代』や『青年時代』にくらべてフィクション性が強く、妻も子もいない独身者という設定になっているが、それでも、ここにはデビュー当時の作家の心情が強く滲み出ていた。当時の自分に対する作家自身のコメントが、登場人物の口を借りてはっきりと語られ、長い時間軸の上に自分の仕事をのせて、強烈な光をあてながら分析しているのだ。だから、『サマータイム』を訳したときから、『ダスクランズ』で始まるクッツェー作品全体を見直す作業が、避けて通れない課題になってしまった。

『ダスクランズ』の翻訳中には、これが、ここが、作家 J・M・クッツェーの紛れもない出発点だったのか、と再確認する瞬間が何度かあった。そこには、クッツェーがさまざまな実験を試みながら作品を書いていく萌芽がほぼすべて出そろっていたのだ。たとえば、作品は最初から「翻訳」だった。まさに born translated だ。作者が作中人物をどこか「外側から見ている感覚」が常につきまとっていた。運命に翻弄される人物を描き出す筆致は、じつは、サミュエル・ベケットのような究極のダーク・コメディをもとめていた、などなど。

 作家、J・M・クッツェー誕生とその後の軌跡について知るためには、『ダスクランズ』は必読の書だろう。30歳前後のワカゾーが書いた、聞きしにまさるエグい小説だけれど!! 解説は、この作家の始まりから現在までをざっと見通せるよう、いくつかのキーワードでまとめてみたが、おそらく作家クッツェーの真髄は、こんな「まとめ」をことごとくすり抜けてしまうところにあるのかもしれない。
 最後に残るのはテクストのみだ。

2017/09/05

メアリー・ワトソンを訳しました──「すばる 10月号」

すばる 10月号」が「あの子の文学」という特集を組んでいて、とても充実している。わたしも南アフリカ出身の作家、メアリー・ワトソンの短篇「ユングフラウ」を訳出した。
 2004年に出版された短篇集『Moss・苔』に収められたこの作品で、ワトソンは2006年にケイン賞を受賞した。同年9月に初来日したJ・M・クッツェーと会ったときも、この作品のことが話題になった。あれから10年あまりが過ぎて、ようやく翻訳紹介できた。嬉しい。
 
Mary Watson
「ユングフラウ」の舞台は海岸沿いの居住区、どうやらケープタウン南東に広がるケープフラッツの南端、グラッシー・パークらしい。ワトソンが生まれ育った土地だ。そこに住む少女の目からポスト・アパルトヘイト時代の日々を描く物語は、ワトソンが修士過程で書いたものが原型になっているという。ということは1990年代後半、クッツェーが『恥辱』を書いていた時期とかぎりなく重なる。ということもあって、多くの人に読んでいただきたいが、とりわけ『恥辱』ファンにはおすすめだ。

セックスをめぐる語りの中心が、片方は白人男性、もう片方が十代の(間違いなく非白人の)少女で、ジェンダーも人種も、いわば真逆の視点から、当時のケープタウンの人々の関係をのぞきみることになる。二つの作品は相互に強く響き合う要素をもっているのだ。「歴史の哲学」を最重要テーマとして『ダスクランズ』から出発したクッツェーがたどりついた『恥辱』、そして「ユングフラウ」を読むと、ふたつの物語の背後に広がる世界がじわり、じわりと迫ってくる。

 Mary Watson は1975年生まれ、ケープタウン大学で映画と文学を学び、クリエイティヴライティングの修士過程では故アンドレ・ブリンクの指導を受けた。2003年に出版された、南部アフリカの女性作家たちのアンソロジー『Women Writing Africa──The Southern Region』に協力者としてワトソンの名前がある。この分厚い本を編集した一人は知る人ぞ知るドロシー・ドライヴァー、クッツェーのパートナーだ。ドライヴァーはケープタウン大学の教授でもあったから、ワトソンはドライヴァーの教え子だったかもしれない。さらにワトソン自身がケープタウン大学で講師として映画論を教えていたという。めぐり、めぐる、人と時間。

「すばる 10月号」には、ほかにも岸本佐知子さん、柴田元幸さん、斉藤真理子さん、古市真由美さんが、それぞれとても興味深い作品を紹介している。ピンクの濃淡、青と紫の色に縁取られた特集号だ。

2017/08/31

オクスフォード大学でも「クッツェーと旅する」シンポが

今年もまた9月から、クッツェーをめぐる催し物が目白押し。

 すでに8月28日にはチリのサンティアゴで、これで3回目になる「クッツェー短篇賞」の授与式が行われるという記事があった。サンティアゴ近辺の学生を対象に、今年のテーマは「都市」。金、銀、銅、そして佳作3作が選ばれて、それぞれ講評が行われたらしい。昨年と一昨年の授与式では、これまでクッツェーが受賞した2つの賞(子供時代にもらった賞)について述べたが、今年はスウェーデン国王から授与された賞について語るとか。ノーベル賞のことだが、今回はスペイン語のスピーチが準備されていたそうだ。

それが終わったら、ブエノスアイレスの第6回「南の文学」だ。12日、13日にサンマルティン大学で開かれる今回は、シンポジウム形式で「ラテンアメリカ文学におけるJMクッツェーの影響」がテーマ。
 ケープタウン大学の元同僚で優れたクッツェー論『カウンターヴォイス/Countervoices』という著書をもつキャロル・クラークソン(2014年にアデレードで会いました!──いまはアムステルダム大学で教えている)がスペシャルゲストだ。詳しいプログラムはここ


 さらに9月末からは(9/29-30,10/1)オクスフォード大学で「クッツェーと旅する、他のアート、他の言語:Travelling with Coetzee, Other Arts, Other Languages」という魅力的なテーマの、ジャンルを拡大した大がかりなシンポがある。エレケ・ボーマーとミシェル・ケリーがオーガナイザーとして名を連ねているが、このプログラムを見て、ああ、クッツェー研究も若手が主体になっていくんだなあ、と感慨深い。
 2014年にアデレードで発表した人たちの名前もあるし、クッツェーの小説を演劇化したニコラス・ランスや、クッツェーの初期作品のシナリオを書籍化したハーマン・ウィッテンバーグの名もならんでいる。彼のセレクションでクッツェー自身の写真もならぶらしい。少年ジョンが聖ジョゼフ・カレッジの生徒だったころ、自宅に暗室をつくって写真に凝った時代のものだ。さらに『文芸警察』でアパルトヘイト時代の検閲制度を詳述した(現在オクスフォード大で教えている)ピーター・マクドナルドの名も見える。

 瞠目すべきは、この「クッツェーと旅する」シンポの最後に翻訳者が数名ならんでいることだ。セルビア語、オランダ語、イタリア語の訳者の名前があって、最後に、オランダのコッセ出版社代表であるエヴァ・コッセの名がある。エヴァ・コッセはクッツェーが70歳になったときに、アムステルダムで大々的なイベントを開催した人で、カンネメイヤーの分厚い伝記やアトウェルの本の編集・出版権を担当したツワモノである。(わたしも原稿段階の伝記をPDFで読ませていただいてお世話になりました。Merci beaucoup, Eva!)
 フランス語の訳者でクッツェーの古くからの友人であるカトリーヌ・ローガ・ドゥ・プレシの名がないのがちょっと寂しいが、いずれにしてもヨーロッパ言語間の翻訳をめぐってあれこれ論じられるのだろう。英語とヨーロッパ言語少し、という枠内の話だが、それでも興味深い。

 再度書いておこう。この催しのプログラムの詳細はここで見ることができる(Downloadで)。わたしの目を引いたのは、現在ウェスタン・ケープ大学で教えるウィッテンバーグが『マイケル・K』を論じるタイトル:「Against World Literature/世界文学に抗して」、そして、2014年にまだ赤ん坊だった男の子を連れてパートナーといっしょにアデレードにやってきたウェスタン・シドニー大学のリンダ・ングが「Coetzee's Figures of the non-national/クッツェーのノン・ナショナルな(「非国民・非国籍・非民族の」とでも訳そうか?)人物たち」という発表をすること。
 10月は先述したロンドン大学での催しも待っている。いずれも、最後にクッツェーがリーデイングをする、祝祭めいた催しだ。10月1日、聖ルカ礼拝堂で行われるクッツェーの朗読だけを聞くこともできるそうだ。

 ジョン・クッツェーさん、またまたロング・ジャーニーに出たんだな。こうして旅するあいだも、彼はどこにいようと、毎朝きっちりPCに向かって創作を続けていくのだろう。


2017/08/30

アディーチェがエディンバラ大学で名誉博士号を受ける

ああ、忙しい。クッツェーもアディーチェも神出鬼没、まるい地球上をあちこち飛びまわっている。追いかけるほうも大変よ〜〜〜😆。

 そう、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェがエディンバラ大学で名誉博士号を受けたというニュース。アディーチェ自身のfacebookへのポストで知ったのだけれど、大学のニュースサイトはこちら、さっそくYOUTUBE には動画もアップされている。ほら。



いつもながら、この人の笑顔はいいなあ。

2017/08/29

7月のミラノ──映画狂 J・M・クッツェーと3本の長い映画


 ミラノで7月7日、ラミラネシアナという総合文化祭でJ・M・クッツェーが映画を3本上映しながら講演する、というニュースが入ってきたのはいつだったか。

 その3本とは:
 ・黒澤明監督の「七人の侍」
 ・サタジット・レイ監督の「大地のうた」
 ・ピエロ・パオロ・パゾリーニ監督の「奇跡の丘」


 フェスの様子がイタリアの新聞に掲載された、La Lettura という新聞の日曜読書欄別冊300号記念の分厚い号で、 3本の映画についてクッツェーが書いているという。イタリア語なのでまったく読めない。ところが「世界文学・語圏横断ネットワーク」の事務局をつとめる土肥秀行さんが電子版を定期購読していて、ページ画像を送ってくれたのだ。日本語の概略までつけて。ありがたきかな、とはこのこと! さっそくこのブログでシェアしようと思う。

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 序として、
40年前にロンドンで映画を観ていた、昔は映画が一番身近な芸術で、世界中の若者が同じ映画を観ていた、いまもそうだろうが20代は影響されやすいもの、だから自分が影響が受けたものーそれは今の映画よりもアンビシャスだったーを紹介する。

『大地のうた』について──
ベンガル地方の言葉で撮られた映画で、世界中で有名になったものの、インドのなかではマイナーである、サタジット・レイは裕福な家の生まれで、イタリアのネオレアリズムやクロサワに影響を受け、カルカッタ郊外の田舎を舞台にした、「さまよう」という言葉がふさわしい撮り方と語り方である、インドでは右派からも左派からもたたかれた、彼自身「普遍的な人道主義」に根差したとコメントしていたから余計たたかれてしまった、(クッツェーがひきつけられている点として)ブレッソンのように人とモノが対等に溶け合う映像である。
『七人の侍』について(3本のなかでもべた褒め)──
筋は単純だが、現代的なテーマを抱えていて、一次的にサムライを雇って悪者を駆逐した農村はその後どうなるのか、また別の悪者があらわれたらまたサムライを雇うのか、それとも常備軍を整えるのか、農村にそんな余裕があるのか、それにそんなことをしたら軍人層に圧迫されないか…といった疑問を生じさせる、時代背景としては日本がアメリカ統治期に「時代劇」が戦中の「武士道」を煽ったため禁止されていた、しかし軍政下でも「時代劇」は前近代的なものとして制限されていた、「時代劇」の復活は、戦後の日本の大変革を後押しするために行われた、笑いや恋愛を交えて展開していくクロサワの語りはシェイクスピアに匹敵する、ベストな俳優たちがベストな演技をみせている、特にミフネは道化的かつ悲劇的ですばらしい。

『奇跡の丘』について──
弱き者と抑圧されき者に寄り添うマタイ伝を忠実に映像化しようとした、イエスは超人的に描かれる、それはパゾリーニのイエス観にもとづく、神話を再現しようとしている、当初撮影が予定されていたパレスチナはイスラエルの意図により聖性が取り去られていて、南部イタリアに変更された、そこは先進国のなかの第三世界であり抑圧された土地だった、人々の慎みは聖地がもっていたものと同じである、その慎みと聖性は、現代のパレスチナのように、失われていくものだった、パゾリーニはのちにそれを嘆くようになる、パゾリーニはこの映画に中世の世界観を持ち込む、すなわち光は世界を照らすというものである、ゆえにこの映画の人々は逆光や真上からの光線により、造形的に正面から絵画的に描かれる、イコンのよう映像なのである。
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 どれもいかにもクッツェーらしいコメントである。「七人の侍」については『Diary of a Bad Year/厄年日記』(2007)の巻頭を飾る章「国家とはなにか」で詳述しているし、「大地のうた」も「奇跡の丘」も『青年時代』に出てくる。ロンドン時代に映画を観ることが唯一の気晴らしだったコンピュータプログラマーのときの話である。とりわけ、インド映画の音楽に心身ともに揺さぶられたこと、母親と息子の関係の描きかたなどが心に残ったこと、が書かれていた。
 しかしなんといっても「奇跡の丘」を観たときの体験が印象深い。政教一致の南アフリカで彼は教育を受けた。それまでに心身ともに染み込んでいるキリスト教文化の土埃を足から振り払ったつもりが、そうではなかった、最後に近いシーンでキリストの両手に釘が打ち付けられる一瞬一瞬に身体がぶるっぶるっと震えたこと、見終わったときは不覚にも涙が出てきたこと、などが体験として述べられていたのだ。
 このへんのことが、いま彼が書いている「イエスの連作」とどう関連するのか。

 いずれにしても、上の映画評はたんなる印象評ではなく、それぞれの映画が制作された時代背景や、そのときどう評価されたかまで含めて、概略ながらじつに的確な論評である。全文をぜひとも英語のオリジナルで読んでみたいものだ。

Grazie mille, Doi-san!