Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2024/04/02

ローズマリーを大きめのポットに移して、朝顔の種を蒔いた

 風が吹いて、陽射しの強い4月。「四月の魚=エイプリル・フール」も終わり、今日は2日。

 暮れに、水を入れたグラスにローズマリーの枝を漬けておいた。たっぷり根が出たものを植木鉢に移植した。太くて鮮やかな緑の、大ぶりの葉を出して、ぐんぐん育ってきたローズマリー。このままでは、間違いなく鉢が小さくなる。そこで3年前に朝顔に使った大きめの鉢に植え替えた。(写真右)

 それまでローズマリーが植えられていた鉢(写真左上)に新たに土を入れて、ベランダに放り出されていたポット類から朝顔の種を集めて蒔いてみた。プラスチックの鉢(写真左下)もあったので、それにも蒔いた。

 調べてみると、最後に朝顔ジャングルを愛でたのは2021年の夏だった(こういうときブログは役に立つなあ)。昨年と一昨年は、植物の世話を焼く時間も余裕もなかったけれど、今年はまた復活だ!

 空いていたのがたまたま白いプラスチックの鉢と、それまでローズマリーが植えられていた素焼きの鉢。どちらが先に芽を出すか、どちらが花をたっぷり咲かせるか、今年は観察が楽しい。そんな余裕がようやくできた。

 しかし種が古いのだ。もしも去年の種なら発芽率はぐんといいのだけれど、なにしろ2021年秋に結実した種だ。2.5年もベランダで風雨にさらされていたので、どうなるかなあ。発芽率はそれほど期待できないかもしれない、、、。新しく種を買って蒔いたほうがいいのかなあ。悩ましい。

 種蒔きには少し早かったかもしれないけれど、とりあえず、今日の日付を記録して、写真を貼っておこう。

 鶯が鳴いている。一週間ほど前は、ホーケキョ! と素っ頓狂な鳴き方だったけれど、今日はちゃんと「ホーホケキョ!」と「正しく」鳴いている😁。腕を上げたな、鶯くん!

2024/03/21

プラド美術館で語るJ・M・クッツェー、マリアナ・ディモプロスとの対話

 昨年7月末にプラド美術館で開催された、ジョン・クッツェーとマリアナ・ディモプロスの対話の英語版(当初のバージョンはスペイン語の同時通訳がかぶさっていた)があった。ここ半年は『その国の奥で』の翻訳などに忙しく、フォローが遅くなったけれど、ここに備忘のためにシェアしておく。

 言語をめぐるJ・M・クッツェーという作家・思想家・言語学者の考え方の基本が伝わる動画だ。

 The Languages of Arts


最初は絵画(イメージ)と言語について、絵画の言語について語っているが、解釈、翻訳についても敷衍するかたちで話は進む。フェルメール、ヴェラスケスなどによって描かれる人物(写真に撮られる人物)の視線について、take the photograph(写真に撮る)、shoot them(彼らを写す)、という表現の動詞について。
 さらに翻訳する二言語間の歴史的、文化的差異について。例えばヴェトナム語にはbrotherにあたる語はなく、兄か弟しかないため(これは日本語もそうだけれど、アジアの言語の多くに見られることかもしれない)、原文にある2人のbrothersはどっちが兄でどっちが弟か、という翻訳者の質問に対してクッツェーは答えられなかった(つまり区別せずに書いているということ)、だからヴェトナム語の翻訳者が自分で決めてくれ、と(笑)。これはもう日本語への翻訳でいつもいつも悩むことだけれど、前後の文脈から訳者が自分で決めなければいけないことなのだ。質問しても答えはない! さらにresonance of the words の重要性についてスペイン語への訳者であるディモプロスは語る。

 そして『ポーランドの人』の翻訳の話になる。そこに描かれている2人の関係について、著者が言語上は意識せずに書いている「関係の変化」について、翻訳者は著者よりさらに意識的(創造的)に会話のことば遣いに配慮する必要があると、スペイン語訳者のディモプロスと非常に重要なことを語り合っているので、要注目だ。英語には二人称はyou しかないが、スペイン語などには距離をおく敬称 usted と、親しい人に使うtú があることの違いなど。

 The Pole という英語で書かれた作品が、スペイン語に翻訳され、そのスペイン語のテクストから(舞台はバルセロナ!)英語のテキストが作者自身によって書き変えられていくプロセスを語っていて、非常に面白い。確かに、最終的なテクストは最初に届いたPDFテクストから大幅に変化していた。照合するのが本当に大変だったなあと。ちょうど去年の今ごろ、その作業をやっていたんだった。


 さて、人とモノとのあいだには、そのモノを指し示す語がメディア(メディエーション)として入り込むが、絵画の場合はイメージが見る者にじかに伝わる。それから言語による解釈というテーマへと移っていったが、このメディアというテーマをクッツェーは第二作目『その国の奥で』で、主人公マグダが宇宙から飛行してきたと思われる存在に向かって、メッセージを必死で伝えようとするときに「あいだ」に入り込むものとして指摘している。
 マグダ(クッツェー)の場合、それはことばだ。面白いのは、第二作目の『その国の奥で』からクッツェーはメディアとしての言語にスペイン語を選んでいること。それも漆喰で白く塗った石を山肌に並べて、空飛ぶ円盤でやってきたものたちにそのメッセージを伝えようとすることだ。「スペイン語は普遍的な言語だ」として。実際に書かれたメッセージにはラテン語、フランス語、イタリア語などがゴチャゴチャと入り込んでくるのだけれど。


 そしてこの動画の最後に、イメージや絵画と小説を書くことの微妙で複雑な関係を、2人はきわめてシンプルな言語で表現していく。その「わかりやすさ」がこの動画のベストポイントだ。

2024/03/13

中村佑子「冬の日の連想」⇨ 置き去りにしたものに青い硬質な光があたる

 「me and you little magazine」というウェブマガジンがある。そこに中村佑子の連載「午前3時のソリチュード」(編集は河出書房新社の谷口愛さん)がぽつぽつとアップされる。これが面白い。

 この連載は、ことばがひたひたと迫ってくる小さな波のようで、穏やかながら、ひとつひとつの波は存外、感覚の深いところへ降りてきて、その周辺の記憶に響き、あざやかに揺らす。新しい文章が加わったというお知らせがXに載ったので、さっそく読んだ。「冬の日の連想」だ。

 書き出しは2歳の男の子の頭を撫でることから始まるのだけれど、それがミケランジェロ・アントニオーニ(1912-2007)の映画「情事 (1960)」のあるシーンに繋がっていく。出てくる女優がモニカ・ヴィッティ、「L'Eclisse/太陽はひとりぼっち (1962)」のあの女優だ。この映画については以前、クッツェーの『青年時代』に絡めてここに書いたけれど、初めて観たのは学生時代、いや10年ほど前か。『情事』はたぶん観ていない。

 ところが中村佑子は学生時代に、ミケランジェロ・アントニオーニが映画監督でいちばん好きだったと書いている。驚いた。1990年代のことなのだ。

 それで思い出した。まだノーベル文学賞を受賞する前のJ・M・クッツェーが、毎日新聞にコラムを連載していたことがあった。あれは1990年代半ばから文学賞受賞までだったか。日本語に訳されて紹介されたのは、当時の南アフリカ社会の断片をスパッと切るようなコラムだったが、あるとき自分の好きな映画監督ミケランジェロ・アントニオーニのことを書いた。でもそれは、あまりにも古いネタと見做されて没になった。これは担当記者のFさんから、後で聞いた話だ(註)

 「午前3時のソリチュード」は、去年まとめて読んだ。でも読みそびれていたものがあったことに今回、気づいた。「火の海」だ。のっけからマルグリット・デュラスの『ロル・V・シュタインの歓喜』が出てくる。でも、この作品と狂気について詳しく書かれているのは、ひとつ前の「現実の離人感」だ。とにかく、おお、デュラスかあ、とため息が出た。


 1968年に大学に入って、ストライキで授業がなくなって、それからまあ色々あって、授業が再開された。数人で作品を選んでそれについて発表することになった。そのとき5人の女子学生は、なぜか、翻訳が出たばかりのデュラスの『破壊しに、と彼女は言う/Détruire dit-elle』(訳:1969)を選んだ。ずらりと居並ぶ教授陣を前にして、あの作品をどう読んだのか、誰が何を言ったのか、いまやまったく覚えていないけれど、とにかくほぼ徹夜して、それぞれが書き上げたリポートが、デュラスの極めて難しいと言われる作品についてだったのだ。

午前3時のソリチュード」の書き手、中村佑子はマルグリット・デュラスを、この作家のもっとも深いところまで降りていって、読む。その狂気をも含めて、ぶれることなく読む。

 当初、デュラス作品を日本語にした翻訳者は清水徹、田中倫郎、平岡篤頼といった男性研究者が圧倒的に多かった。それはなぜだろう、と以前から考えていた。(研究者も翻訳者も圧倒的に男性だったからだろうな。)でも残念ながら、会話が、とりわけ女性が発することばが、どうもしっくりこなくてはがゆかった。(今世紀に入ってからは関連書籍を北代美和子さんなどが翻訳するようになって嬉しい。)

 大学を卒業してからも、デュラスは断続的に読んだ。とりわけ80年代に発表された『アガタ』『愛人』『苦悩』『物質的生活』『エミリー.L』『北の愛人』などはどれも、詩人Kさんといっしょに貪るように読んだ。デュラスの訃報に、Kさんと献杯した記憶もある。

 J・M・クッツェーの作品を翻訳するようになって、わたし自身はデュラスからは一気に遠ざかった。ある時点で、デュラスの本はほぼすべて処分している。それもいまにして思えば自然な成り行きだったかもしれない。でも表層的には学生、OL、母親、翻訳者をこなしながら、どこかに置き去りにしてきたものがあるのだ。そのことに思い至った。

 クッツェー翻訳が一段落したいま、そんな遠い20代、30代の自分と再会させてくれる、青い硬質な光を発する、中村佑子のことばに出会えたのは幸いだ。「冬の日の連想」を読んで、しみじみ抱く不思議な感覚に身震いする。

***************

註:発表されていれば、少年時代に写真家をめざしたクッツェーの映画論として、貴重な映像論になったのに、没になったのが惜しまれる。 

2024/03/07

アブドゥルラザク・グルナ『楽園』(白水社)の書評とエッセイ

忘れないうちに記録しておきます。

少し前になりますが、 2月17日付日経新聞朝刊にアブドゥルラザク・グルナの本邦初訳『楽園』(粟飯原文子訳、白水社)の書評を書きました。(左の写真は、白水社のXのTLから拝借。)

東京新聞のリレーコラム「海外文学の森へ」にも、エッセイ風にこの『楽園』について書きました。

日経新聞ではもっぱら本の内容紹介と、誰の目線で「アフリカ」を書くかに焦点を当てましたが、東京新聞ではグルナがノーベル財団から受賞の知らせを受けた時のエピソードや、この作家が作品を書くときの姿勢について触れ、結びを次のようにしました。

 ──ネットで視聴できる動画「インド洋の旅」でグルナは、自分が作品を描くことは制圧者により乱暴に要約されてきた「我々の複雑で小さな世界」を再構築する営みだと語る。

 1994年に発表されてその年のブッカー賞最終候補になった『楽園』は、作品として特別実験的な試みをするといった仕掛けなどはありませんが、淡々とした文章のなかにめくるめくスワヒリ社会の多様性が描かれていて、つい、メモをとりながら読みました。

 わたしにとってスワヒリ社会はほとんど未知の世界。いろんな人が耳慣れない名前で登場するため、これは「登場人物一覧」があると便利だなあと思いながら読んだことも書いておきます。

白水社から刊行された『楽園』でスタートしたグルナコレクションは、まだこれから3冊も続くそうです。とっても楽しみ!

2024/02/29

JMクッツェー『その国の奥で』の訳稿、あとがき、送った!

🌸



 全部、ファイルで送って、今日から春です。

🌸🌸🌸

昨日、散歩してたら、花壇の🌷も芽をだしていた。

🌷🌷🌷🌷🌷🌷

早咲きの沈丁花もちらほら咲いて

窓から見える緋寒桜にヒヨドリがたくさん飛んでくる。

閏きさらぎ最後の日。

今年は冬が長かった(主観)、そんなに寒くはなかったけれどネ。


🌸kotoshi

2024/02/19

「アイドルを探せ」と青いラメのセーター

 5年前に「水牛のように」にこんな文章を寄せていた。すっかり忘れていたけれど、母が逝ってもうすぐ10年になるので、ここに再度アップしておきたい。

**********************************

難破船にヴァルタン(星人?)



いや、じつはヴァルタン星人の話ではないのだ。

 北海道の田舎町に住んでいた10代のころ、テレビで「シャボン玉ホリデー」が翻案和製ポップスをやっているのをよく観ていた。そのうちオリジナルの曲を聴きたくなって、遠い東京から飛んでくる電波に5球の真空管ラジオのダイヤルを必死で合わせた。木製で、スピーカーの前面が布張りのあれだ(と言ってもほとんどの人にはイメージできないと思うけれど)。ニッポン放送、文化放送、TBSラジオ、etc…1964年ころのことだ。

 そのころ流行った曲が、YOUTUBEを探すと出てくる、出てくる。いつだったかそんな曲をブログにアップしたことがあった。サンレモ音楽祭なんてのが話題だったころのウィルマー・ゴイク「花咲く丘に涙して」とか「花のささやき」とか、60年代末に流行った歌謡曲の「ひどい」歌詞をこてんぱんに批判しながら。
 数日前の深夜に、疲れた耳になつかしの一曲を、とペトゥラ・クラークの「ダウンタウン」の動画をクリックしたら、すぐ下にシルヴィ・ヴァルタンの「アイドルを探せ」が出てきた。おお! 白黒の、粒子のあらい動画だったけれど、これが思いのほかよかったのだ。中学生のころは、あまり聞こえなかったフランス語の歌詞が、耳にちらほら聞こえてきた。1964年のヒット曲か。

 Ce soir, je serai la plus belle pour aller danser⤵︎⤴︎ Danser⤴︎

 ス・ソワール、ジュ・スレ・ラップリュ・ベル・プーラレ・ダンセェエエ。ダンセェエ。
(今夜はあたし、サイコーの美人になって踊りにいくんだ、踊りに)
 
 中2女子の耳には「ラップリュ・ベル」が「ラッキュ・ベル」と聞こえて「?」だったのだけれど。動画のシルヴィちゃんは、あごまでの髪をふわっとカールさせている。でも、ひらひらの衣装は揺れても、髪が揺れない。これには笑った。あのころはスプレーでカチッと固めたのだ。だから一見ふわっとしたカールも、決して揺れない。
 じつはシルヴィ・ヴァルタンのイメージが苦手だった。マリリン・モンローふうに軽く口もとをゆるめて、あごをあげ、上目づかいの目線はどこか眠たげ、そんなショットが多い。男に受ける金髪美女のイメージ、知性は隠す。ああ、もやもやする。鬱陶しい。なにしろ反抗期まっさかりだからね。いまなら、I matter.  I matter eaqually.  Full stop. といえるんだけど。

 シルヴィ・ヴァルタンはブルガリアからの移民だと、Wiki を見て知った。1944年生まれ、8歳でフランスに家族で亡命、17歳でデビュー、20歳でロッカーのジョニー・アリディと結婚、翌年息子誕生、15年後に離婚、ect…。父は外交官でアーチストだったというから、移民とはいえ恵まれた環境で育ち、とことんエンタテナーとして生きてきた人なのね。日本に20回もきてたなんてぜんぜん知らなかった。後年きりっとカメラを直視する目はいいな──現在74歳か。ヴァルタン星人はこの人の名前からとられたって、ホントカナ? 『地球星人』は読んだばかりだけど。

 でも、じつは今回「アイドルを探せ」の初期バージョンを聴いて、ありありと思い出したのはまったく別のことだったのだ。ヴァルタンの声といっしょに浮かんできたのは、屋外のスケートリンクを青いラメ入りセーターで滑っている少女の姿だった。

 北の深雪地帯のスケートリンクは、雪を踏み固めて水をまいて作る、陸上競技場のトラックのような楕円で、まんなかに雪がうず高く積もっている。前夜に降った雪は除雪して、凹凸部分にはホースで水をまいて再度凍らせる。これで、つるつるの町営リンクのできあがり。場内には流行りの音楽が鳴っていた。あのころ、いつ行ってもかかっていたのがこの「アイドルを探せ」だった。だから記憶のなかでこの曲と強く結びついているのは、1964年の冬の、あの町のスケートリンクなのだ。
 青いラメ入りのセーターを着て、毛糸のマフラーに毛糸の帽子、伸縮する布のスキーズボン(スケートズボンとはいわない)、もちろん手袋は太い毛糸で編んだミトンで、まだレザーの手袋はなかった。黒いスケート靴を買ってもらったときは歓喜した。刃の長いスピードスケートで、前屈みの姿勢でエッジをきかせてコーナーワークをやる爽快感は、雪に閉じ込められて過ごす長い厳寒の冬を制圧するサイコーの復讐法だった。

 記憶をたどれば、スケート靴はたぶん母が買ってくれたのだ。ラメ入りのセーターはわたしのリクエストで母が編んでくれたものだ。激しい反抗期の中2女子は、もてあましたエネルギーをポップミュージックとスケート、スキーに投入した。記憶をたどれば、それを可能にしていたのは、女の子がスピードスケートなんかやって、女の子がスキーなんかやって、と周囲の人たちに陰口をたたかれても、気にしなくていい、やりたいことをやりなさい、といって長すぎるスキー板まで買ってくれた母のことばだった。思い出した。
 あのスケートリンクで鳴っていた「アイドルを探せ」が──シルヴィ・ヴァルタンはこの曲に尽きる──難破寸前の記憶の船から当時の母のことばをすくいあげ、救命ボートに乗せてくれたみたいなのだ。これは深夜の音楽救助隊か。Merci beaucoup, la musique!

 母が逝って5年が過ぎた。


(「水牛のように」2019年5月号)

2024/02/09

今日、2月9日はジョン・クッツェーの誕生日

Happy Birthday, John Coetzee!

February 9, 2024

🌺 🌺 🌺 🌺 🌺


  2024年になってから時の過ぎるのがひどく早い。あっという間に1月がすぎて、あっという間に2月も半ば。

 月曜日から雪が降って、少しだけ積もって、一瞬、雪景色!と思ったけれど、それもどんどん溶けて、寒さだけは本格化して、2月9日金曜日、今日は昨日よりちょっと暖かい。

 南半球は真夏です

 1944年2月9日にケープタウンで生まれたジョン・クッツェーさん、84回目の誕生日をやっぱり真夏のオーストラリアで迎えているのでしょうか?

 今年2024年は、作家J・M・クッツェーが誕生して50周年になります。初めての作品『ダスクランズ』が出版されたのが1974年でした。それから半世紀がすぎて、50周年を祝う催しが、4月にケープタウンで、6月にアデレードで開かれる予定。

 いま訳している『その国の奥で』は1977年に出版された第二作ですが、これがファンタジックこの上ないのです。今年半ばには書物の形になって、本屋さんに並ぶはずです。版元は河出書房新社です。がんばりま〜す!💕

 それにしても、自分の書く文章が、日本語だけれど、長年クッツェーを訳しつづけたせいか、どうもガッツリ系になっていく、というか、すでになってしまったなあとつくづく思います。35年間に12作も訳したんだから、よくもわるくも、影響受けないわけがないですよね。😂

 

2024/01/15

ナミビア:ドイツ公共放送によるナミビアでの植民地支配と虐殺の歴史を説明したビデオ

備忘のためにシェア。 DW News @dwnews · 2023年4月22日 Over 100 years ago, the German empire committed genocide in southern Africa. Its effects are still being felt in Namibia today.

2024/01/04

🌹🌹🌹

頌 春

風はひゅうひゅうと冷たいけれど、

午後になると暖かい陽射しが窓からさしこんできました。

 お正月に一族10人が集った食事会で、5歳になったばかりの孫娘から手渡された

ブーケの薄い紫色の薔薇をながめながら、74回目の誕生日を迎えました。

  今年もどうぞよろしくお願いします。