Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2023/04/04

翻訳作業備忘録(1):J・M・クッツェーの最新作『ポーランドの人』

翻訳中のJ・M・クッツェーの最新作『ポーランドの人』の初校を返した。ふうう。

付箋だらけのスペイン語版とオランダ語版
 以下は備忘のための記録。

 The Pole として草稿が送られてきたのが2022年初めで、本格的に翻訳を開始したのが初夏だったか(アディーチェ『パープル・ハイビスカス』の仕事が終わったころ)、訳を仕上げたのが今年1月、翌月下旬に初校ゲラが手元に来た。

 昨年7月にまずスペイン語訳(写真左)がアルゼンチンの「アリアドネの糸」から出版されたが、今年3月にはオランダ語訳(写真右)も出て、続いて5月にドイツ語版が出る予定。そのことはここに書いた。

 ドイツ語版とほぼ同時に、カタルーニャ語版も出るようだ。作品の舞台となった都市バルセロナはカタルーニャにある。日本語版『ポーランドの人』もドイツ語版とほぼ同時に、、、という予定だったが、さて。

 スペイン語版が出たあと、昨年9月のEL PAÍSのメールインタビューで、作家は訳者ディモプロスと共同作業で作品を仕上げたと述べていた。取り寄せたスペイン語版をパラパラすると、確かに、最初に送られてきた英文テクストとは異なる内容が含まれている。あ、女性の身体部分について述べる微妙なところからウナギがいなくなったのね、とか、ベッドシーンで語られるトンチンカンな表現「ミ・カーラ」が「カリーニョ」になったんだ、とか、そういうことかと納得した(笑)。だって、舞台はスペインで訳者は登場人物のベアトリスと年齢が近い女性だものね。

オーストラリア版
 英語版の出版はまだだから、スペイン語訳で変更された部分も含め、改訂された新しい英文テクストが送られてくるだろうと待っていた。でも、どんどん時間が過ぎてゲラ読み作業まで進んでしまった。そこへ注文していたオランダ語版の本が届いた。さっそく問題のところを見ると、やっぱり書き換えられている。スペイン語版の内容に合わせてあるのだ。

 いや、これは困った。いったいどっちのテクストを使うべきなのか、英語の最新テクストを送ってほしいと作家にメールすると即座に、まるで空から降ってくるみたいに、改訂バージョンのPDFが送られてきた。エージェント経由で何度も催促してきたのに、なぜか届かなかったので大助かりではあるけれど、この期に及んで、一行一句、新旧のテクストをまるごと照合しなければならない。

イギリス版
 いやはや。でもやりましたよ。突き合わせ作業というのは一字一句の違いを見逃さないように緊張姿勢で読むため、背中が痛くなる。一週間かけて照合し、書き換えられた部分(ずいぶんありました!)を訳しなおしてゲラに反映させた。具体的には、訂正された日本語訳を部分的に印刷して切り取り、ペタペタとゲラに貼りつける。さらに作家から追っかけて修正リストまで送られてきて(細かなポーランド文字のドットなどの確認で、日本語訳には影響はなかったけど)、それではと思い切ってポーランド人の姓の発音をめぐる突っ込んだ質問をした。カタカナ表記付きでやりとりすると、これは興味津々の結果となった。

ヤブロンスカ Jabloṅska/ヤブウォンスカ Jabłońska」問題。


 訳者あとがきは、フレデリク・ショパンとジョルジュ・サンドのマヨルカ島への逃避行とか、ロマン主義的な恋愛観の「殿堂入り」とか、クッツェーがDiary of a Bad Yearでロマン派音楽についてここぞとばかりに書いている「音楽について」にも触れながら書きました。『ポーランドの人』はロマンチックラブを扱う「恋愛小説」なんです。72歳のショパン弾きヴィトルトと49歳の銀行家の妻ベアトリスの、まことに真剣な辛口のラブコメディ。ベアトリスが名前だけではなく銀行家の妻ってとこまで、ダンテのベアトリーチェを踏襲している。

 初夏には書店にならびます!