Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2018/07/29

アトランタで歌うニーナ・シモン

1969年6月アトランタのモアハウス・カレッジで To be Young, Gifted and Black を歌うニーナ・シモン。「若く、才能にあふれ、そして黒人で」──この曲は1965年に34歳という若さでガンで死亡したロレーン・ハンズベリーの、同名の劇作からヒントを得てニーナ・シモンが作曲した歌だ。ロレーンに捧げられているが、これからの若い黒人たちを力づける強いメッセージを伝えてもいる。




 演奏のあとの聴衆の表情をみると、ニーナ・シモンという歌手が黒人たちにどれほどの勇気と、喜びをあたえつづけた人であったかが、じんじんと伝わってくる。

 手元にあるCD"BLACK GOLD"(BMGファンハウス)というアルバムに収められているが、日本語の曲名が「黒人讃歌」などという、ほとんど何も伝えないタイトルになっているのはなぜか? 上っ面の紹介しか書かれていないことにも憤懣がつのる。ライナーノーツの筆者は、岩浪洋三氏。CDが再発売されたのは2002年だというのに、とても残念だ。

2018/07/27

日経プロムナード第4回「どこでも朝顔」と、2つ目の書評『モラルの話』

日経プロムナード第4回が載りました。

 どこでも朝顔

ドラえもんの「どこでもドア」みたいですが(笑)。
 いまわたしのいるところから、朝顔の鉢が2つ見えます。昨年朝顔が咲いていた植木鉢に、遅ればせながらたっぷり水をやったら、出るわ、出るわ。なにがって?芽が!です。雨水管から移植した朝顔といっしょに、すくすく育っています。


もうひとつお知らせ

今週末発売の図書新聞に『モラルの話』の書評が出ます。評者は中井亜佐子さん。

クッツェー研究会といえばこの人の顔を見ないのはまれ、という知る人ぞ知るクッツェー研究者です。この作家の作品を長年、読み込んできた人ならではの目で評する『モラルの話』。クッツェーを知らない人にも、作家の現在地や、この作品の背景がざっと理解できる内容で、おすすめです。

 「寓意」について。また冒頭の、クッツェーの「新作はつねに、それ以前の自身の作品の集大成」という指摘は、とりわけ作家が自伝的三部作を発表しはじめた1990年代半ば以降の作品に言えることかもしれません。78歳にして発表されたこの『モラルの話』は間違いなく、クッツェー文学とクッツェー思想の集大成と呼べるものでしょう。

2018/07/24

違和感から見える世界:クッツェー『モラルの話』書評

5月末にオリジナルである英語版に先駆けて出た拙訳、J・M・クッツェーの『モラルの話』(人文書院刊)の本格的な書評が出ました。書き手はなんという偶然!『鏡のなかのアジア』で快進撃をつづける作家、翻訳家の谷崎由依さん。配信は共同通信です。(写真はまだ部分ですが、いずれ全文をアップします!)

心に響いた箇所をいくつか書き出してみると:

最初の短編「犬」について──「主人公の女性が前を通りかかるたびに猛烈な勢いで吠えたてる」その吠え声が、ノイズとして全編を通して響いている、という指摘に、深くうなずく訳者。

 そして、主人公のコステロについて「舌鋒鋭く世のなかを批判するが、もう老いており、かみ合わない会話に困惑する子どもたちは、母親をどうやって世話していくのか考えている」とストーリー展開をざっくりと示しながら、「文学や哲学の考察が、人生のもっとも生々しい問題と結びついていく」と作品の全体像をほぐしていきます。

 瞠目するのは、「女性が主人公の作品ばかりなのに、むしろ気づくと男性性について考えさせられている」というところ、唸りました。鋭い!

 クッツェーが90年代からフェミニスト作家エリザベス・コステロというキャラクターを使って書いてきたものは、さまざまなテーマを議論の俎上にのせながら、この「男性性」を浮上させるための仕掛けにほかならなかったと、いまさらながら思うのです。
 オクスフォード大学の若手研究者ミシェル・ケリーは、「ひとつの男の哲学」へ奉仕する?──Serving'a Male Philosophy'? (註あり)──というタイトルの論を展開していますが、確かにそうかも。これはクッツェーという男の作家がフェミニストの女の作家になってみる試みですから。でも、この試みは画期的な領域をも開いていく。カウンター・エゴとしてのコステロを生み出したクッツェー自身が「コステロを統御できたことはない」と、先日のスペインのセッションでも語っていました。この辺が興味のつきないところです。

 書評にもどると、「自己陶酔は一切ない。読んでいるとつらくもなるのだが、ある一点を超えると頭がさえ渡ってくる」という指摘は、この作品の最大の特質をみごとにいいあてています。そう、一点突破すれば、ものすごい場所に出るのです。
 そして「違和感と違和感とがつながって、この世界を取り巻く事象の何かが見えてくる。驚くほどの明晰さで」という結語によって着地。
 
 この限られた文字数のなかで、なんといっても光るのは、作品の骨太のテーマを精査する眼力と探求の鋭さであり、目眩まし的な「見立ての奇抜さ」という主観枠にあてはめることなく、どこまでも作品自体に即して読みほどき、やわらかいことば遣いで作品の核心部分へ肉薄する力量です。Muchas gracias!!!

*****
2018.8.3──ちなみにこの"serve a male philosopy"という表現は、クッツェーの著書 Elizabeth Costello(2003) のなかに出てくる表現(原著p14)でもあって、そこで話はまたねじれてさらにややこしくなるのですが。

2018/07/21

少女の「静かなたたかい」

北國新聞と埼玉新聞に、サンドラ・シスネロス『マンゴー通り、ときどきさよなら』(白水社Uブックス)のステキな書評が載りました。

 詩は「静かなたたかい」
 少女の「静かなたたかい」

 22年ぶりに復刊されたこの本、現代の日本社会には以前よりもっともっと切実になっているような気がします。移民の問題、難民の問題、ふたむかし前はどこか遠くの出来事のように感じていた人も多かったかもしれないけれど(じつはすぐそこで起きている現実だったんですが)、2018年のいま、だれもが気づく時代になりました。
 だって、ほら、すぐ隣にいるんですから、土俵の上にも、グリーンの上にも、いろんなオリジンをもった人が。街をゆくこの土地生まれの子供が。


 温又柔さんの解説にもあるように、作品のなかでエスペランサに向かって、詩を「書きつづけなければだめよ。書けば自由になれるからね」と病気のルーペおばさんがいったところは、何度読んでも涙ぐみそうになります。


 そう──彼女は「静かなたたかい」を始めたんです。「ひとりで立つために。自由のとびらを開くために」──書いてくださった田村文さん、どうもありがとうございました。森佳世さんのすてきなイラストもついていて、復刊書なのに立派な書評あつかいです。こんなに嬉しいことはない。

この「本の世界へようこそ」は、14歳くらいの読者を想定したシリーズで、共同通信の配信です。

2018/07/20

日経プロムナード第3回「湿気のない土地」

日経新聞のコラム、プロムナード第3回目がアップされました。

  湿気のない土地

「なにもない」を背景にしたカバー
北海道生まれの人間には、東京の暑さや湿気はとてもにがて。数年前に、そんな湿気がない土地を旅したことを書きました。ケープタウンです。光がくっきりしていて、素人でも本のカバーなどに使える写真が撮れたのは驚き!
 ケープタウンを旅したのはいまから4年ほど前のことで、ちょうど自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代』(インスクリプト)を訳している最中でした。

 この三部作の表紙につかった写真は、ケープタウンから内陸をめざす国道1号線の途中で撮影したものですが、装丁の間村俊一さんから「なにを撮りたかったのかわからない」写真だ、と編集のMさんはいわれたと伝え聞きます。それで、わたしは思わずニヤリとなりました。だって、あの写真には「なにもないこと」が写っていたからです。

 クッツェーの三部作を訳し終えて、ゲラも読み終えたとき、結局、クッツェーの文体はこのなにもない空間の苛烈さと拮抗するのではないか、ということで上のカバー写真になりました。

2018/07/08

この夏は『鏡のなかのアジア』第1章でさらわれました!

谷崎由依著『鏡のなかのアジア』(集英社)
本来なら堂々と、きちんと書評すべき本だと思いながら、そういう「表だった場所」に自分の大切な読後感を晒したくない、という極めて私的な思いを抱かせる、これはわたしにとってとても貴重な本だと最初の短編を読んで、まず思った。切実だ。

 物語の筋はあるようで、ないようで、確かにあるのだけれど、それを理性的に分析して書きしるそうと思うより前に、ここに書かれている日本語の、美しい文体の、リズミックなことばの連なりの、流れの、その心地よさに浸っていたい! ことばの海にざんぶり身をひたして、そのまま流されようが、溺れようがかまわないから! という思いに完全に足をすくわれた。

 物語の舞台となるのはチベット。サンスクリット語と思しき「るび」が(もちろん英語もある)、アルファベットで、漢字やひらかなの単語や熟語にふられるというアクロバット。これ、いいなあ、こんな技があるのか、わたしもやってみたいな、と思わせる心憎いスキルである。そのルビが文体にあたえる華麗なまでの共振というか、視覚による擬似レゾナントというか、連想の奥行きというか。たとえば、

 「筆」に「pen」とルビがふられ、「牛酪」に「butter」、「獣」に「yak」、「僧院」に「gompa」、「空」には「gnam」、「ねずみ」に「tsi tsi」、「城」に「zong」、「湖」に「mtsho」なのだ。

 いきなり、ぼうぼうと岩山に吹く風の、乾いた音が聞こえてくるのだ。もうイヤなことばっかり続く、この湿気で腐敗しきった土地で読む、乾いた風景の作品世界がたまらない。リズミックにくりかえされる「馬の足で二日、風が強ければ五日、ひとの足なら十日かかる場所」といった距離感を示す、凛とした表現の妙。
 ここちよくさらわれてみたい文章がここにある。久しく体験しなかった詩的な散文である。幻想短編集というわかりやすい表現が、どこか平板に感じられるほどに。
 
 といった私的な感情のことをひたすら書き連ねたくなる本なのだから、そんな文体への思いつめた感想ばかり、公の書評では書けないじゃないか。それ以外のことは、たとえば物語の筋やら、登場人物やら、舞台背景のことやら、それぞれ大切なことなんだけれどあまり口にしたくないのだ。陳腐な表現で読者にわざわざ説明してもしかたがないし、説明なんかしてあげない、といいたくなるのだ。これじゃ全然、書評にならないし、作家に失礼だから、ブログに書くことにした。

 おまけに「鏡のなかの……」である。ぐんと近しく感じるタイトル。あと一冊加わると「鏡のなかの……」シリーズができあがりそう! ほら!

 『鏡のなかのアジア』
 『鏡のなかのボードレール』
 『鏡のなかの蝦蟇』とか。
  (そういえば、有名どころでエンデの『鏡のなかの鏡』があったわねえ。)

「気だるくやつれ伏すアジア、灼熱に身を焦がすアフリカ」もあっけなく凌駕して。いや、もう、幻視者(visionnaireとルビ)作家、谷崎由依、おそるべし! 


2018/07/06

日経新聞夕刊「プロムナード」の連載が始まりました!

7月6日から、日経新聞の夕刊で「プロムナード」の連載が始まりました。
 
担当は金曜日です。第一回は「翻訳の置きみやげ」というタイトル。
 肩書きが「翻訳家」ひとつになったので、それでは最初は翻訳を中心に。というわけで、ここ半年間のあれこれと、その置きみやげについて、書きました。

J・M・クッツェー『モラルの話』の主要登場人物、エリザベス・コステロに憑依された話です。でも、同時にゲラ読みしていたサンドラ・シスネロス『マンゴー通り、ときどきさよなら』のエスペランサも登場します。

 これまで肩書きは「翻訳家・詩人」と名乗ってきたのですが、ひとつだけに絞ってと言われて、そうなるとやっぱり「翻訳家」というわけで、後半の「・詩人」(ナカグロ・シジン)は消えました。これについてはまた別に書きます。

 こんな感じで金曜夕刊に年末まで書かせてもらいます。

 ウェブでも読めるので、みんな読んでね〜〜〜!