Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2024/03/21

プラド美術館で語るJ・M・クッツェー、マリアナ・ディモプロスとの対話

 昨年7月末にプラド美術館で開催された、ジョン・クッツェーとマリアナ・ディモプロスの対話の英語版(当初のバージョンはスペイン語の同時通訳がかぶさっていた)があった。ここ半年は『その国の奥で』の翻訳などに忙しく、フォローが遅くなったけれど、ここに備忘のためにシェアしておく。

 言語をめぐるJ・M・クッツェーという作家・思想家・言語学者の考え方の基本が伝わる動画だ。

 The Languages of Arts


最初は絵画(イメージ)と言語について、絵画の言語について語っているが、解釈、翻訳についても敷衍するかたちで話は進む。フェルメール、ヴェラスケスなどによって描かれる人物(写真に撮られる人物)の視線について、take the photograph(写真に撮る)、shoot them(彼らを写す)、という表現の動詞について。
 さらに翻訳する二言語間の歴史的、文化的差異について。例えばヴェトナム語にはbrotherにあたる語はなく、兄か弟しかないため(これは日本語もそうだけれど、アジアの言語の多くに見られることかもしれない)、原文にある2人のbrothersはどっちが兄でどっちが弟か、という翻訳者の質問に対してクッツェーは答えられなかった(つまり区別せずに書いているということ)、だからヴェトナム語の翻訳者が自分で決めてくれ、と(笑)。これはもう日本語への翻訳でいつもいつも悩むことだけれど、前後の文脈から訳者が自分で決めなければいけないことなのだ。質問しても答えはない! さらにresonance of the words の重要性についてスペイン語への訳者であるディモプロスは語る。

 そして『ポーランドの人』の翻訳の話になる。そこに描かれている2人の関係について、著者が言語上は意識せずに書いている「関係の変化」について、翻訳者は著者よりさらに意識的(創造的)に会話のことば遣いに配慮する必要があると、スペイン語訳者のディモプロスと非常に重要なことを語り合っているので、要注目だ。英語には二人称はyou しかないが、スペイン語などには距離をおく敬称 usted と、親しい人に使うtú があることの違いなど。

 The Pole という英語で書かれた作品が、スペイン語に翻訳され、そのスペイン語のテクストから(舞台はバルセロナ!)英語のテキストが作者自身によって書き変えられていくプロセスを語っていて、非常に面白い。確かに、最終的なテクストは最初に届いたPDFテクストから大幅に変化していた。照合するのが本当に大変だったなあと。ちょうど去年の今ごろ、その作業をやっていたんだった。


 さて、人とモノとのあいだには、そのモノを指し示す語がメディア(メディエーション)として入り込むが、絵画の場合はイメージが見る者にじかに伝わる。それから言語による解釈というテーマへと移っていったが、このメディアというテーマをクッツェーは第二作目『その国の奥で』で、主人公マグダが宇宙から飛行してきたと思われる存在に向かって、メッセージを必死で伝えようとするときに「あいだ」に入り込むものとして指摘している。
 マグダ(クッツェー)の場合、それはことばだ。面白いのは、第二作目の『その国の奥で』からクッツェーはメディアとしての言語にスペイン語を選んでいること。それも漆喰で白く塗った石を山肌に並べて、空飛ぶ円盤でやってきたものたちにそのメッセージを伝えようとすることだ。「スペイン語は普遍的な言語だ」として。実際に書かれたメッセージにはラテン語、フランス語、イタリア語などがゴチャゴチャと入り込んでくるのだけれど。


 そしてこの動画の最後に、イメージや絵画と小説を書くことの微妙で複雑な関係を、2人はきわめてシンプルな言語で表現していく。その「わかりやすさ」がこの動画のベストポイントだ。

2024/03/13

中村佑子「冬の日の連想」⇨ 置き去りにしたものに青い硬質な光があたる

 「me and you little magazine」というウェブマガジンがある。そこに中村佑子の連載「午前3時のソリチュード」(編集は河出書房新社の谷口愛さん)がぽつぽつとアップされる。これが面白い。

 この連載は、ことばがひたひたと迫ってくる小さな波のようで、穏やかながら、ひとつひとつの波は存外、感覚の深いところへ降りてきて、その周辺の記憶に響き、あざやかに揺らす。新しい文章が加わったというお知らせがXに載ったので、さっそく読んだ。「冬の日の連想」だ。

 書き出しは2歳の男の子の頭を撫でることから始まるのだけれど、それがミケランジェロ・アントニオーニ(1912-2007)の映画「情事 (1960)」のあるシーンに繋がっていく。出てくる女優がモニカ・ヴィッティ、「L'Eclisse/太陽はひとりぼっち (1962)」のあの女優だ。この映画については以前、クッツェーの『青年時代』に絡めてここに書いたけれど、初めて観たのは学生時代、いや10年ほど前か。『情事』はたぶん観ていない。

 ところが中村佑子は学生時代に、ミケランジェロ・アントニオーニが映画監督でいちばん好きだったと書いている。驚いた。1990年代のことなのだ。

 それで思い出した。まだノーベル文学賞を受賞する前のJ・M・クッツェーが、毎日新聞にコラムを連載していたことがあった。あれは1990年代半ばから文学賞受賞までだったか。日本語に訳されて紹介されたのは、当時の南アフリカ社会の断片をスパッと切るようなコラムだったが、あるとき自分の好きな映画監督ミケランジェロ・アントニオーニのことを書いた。でもそれは、あまりにも古いネタと見做されて没になった。これは担当記者のFさんから、後で聞いた話だ(註)

 「午前3時のソリチュード」は、去年まとめて読んだ。でも読みそびれていたものがあったことに今回、気づいた。「火の海」だ。のっけからマルグリット・デュラスの『ロル・V・シュタインの歓喜』が出てくる。でも、この作品と狂気について詳しく書かれているのは、ひとつ前の「現実の離人感」だ。とにかく、おお、デュラスかあ、とため息が出た。


 1968年に大学に入って、ストライキで授業がなくなって、それからまあ色々あって、授業が再開された。数人で作品を選んでそれについて発表することになった。そのとき5人の女子学生は、なぜか、翻訳が出たばかりのデュラスの『破壊しに、と彼女は言う/Détruire dit-elle』(訳:1969)を選んだ。ずらりと居並ぶ教授陣を前にして、あの作品をどう読んだのか、誰が何を言ったのか、いまやまったく覚えていないけれど、とにかくほぼ徹夜して、それぞれが書き上げたリポートが、デュラスの極めて難しいと言われる作品についてだったのだ。

午前3時のソリチュード」の書き手、中村佑子はマルグリット・デュラスを、この作家のもっとも深いところまで降りていって、読む。その狂気をも含めて、ぶれることなく読む。

 当初、デュラス作品を日本語にした翻訳者は清水徹、田中倫郎、平岡篤頼といった男性研究者が圧倒的に多かった。それはなぜだろう、と以前から考えていた。(研究者も翻訳者も圧倒的に男性だったからだろうな。)でも残念ながら、会話が、とりわけ女性が発することばが、どうもしっくりこなくてはがゆかった。(今世紀に入ってからは関連書籍を北代美和子さんなどが翻訳するようになって嬉しい。)

 大学を卒業してからも、デュラスは断続的に読んだ。とりわけ80年代に発表された『アガタ』『愛人』『苦悩』『物質的生活』『エミリー.L』『北の愛人』などはどれも、詩人Kさんといっしょに貪るように読んだ。デュラスの訃報に、Kさんと献杯した記憶もある。

 J・M・クッツェーの作品を翻訳するようになって、わたし自身はデュラスからは一気に遠ざかった。ある時点で、デュラスの本はほぼすべて処分している。それもいまにして思えば自然な成り行きだったかもしれない。でも表層的には学生、OL、母親、翻訳者をこなしながら、どこかに置き去りにしてきたものがあるのだ。そのことに思い至った。

 クッツェー翻訳が一段落したいま、そんな遠い20代、30代の自分と再会させてくれる、青い硬質な光を発する、中村佑子のことばに出会えたのは幸いだ。「冬の日の連想」を読んで、しみじみ抱く不思議な感覚に身震いする。

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註:発表されていれば、少年時代に写真家をめざしたクッツェーの映画論として、貴重な映像論になったのに、没になったのが惜しまれる。 

2024/03/07

アブドゥルラザク・グルナ『楽園』(白水社)の書評とエッセイ

忘れないうちに記録しておきます。

少し前になりますが、 2月17日付日経新聞朝刊にアブドゥルラザク・グルナの本邦初訳『楽園』(粟飯原文子訳、白水社)の書評を書きました。(左の写真は、白水社のXのTLから拝借。)

東京新聞のリレーコラム「海外文学の森へ」にも、エッセイ風にこの『楽園』について書きました。

日経新聞ではもっぱら本の内容紹介と、誰の目線で「アフリカ」を書くかに焦点を当てましたが、東京新聞ではグルナがノーベル財団から受賞の知らせを受けた時のエピソードや、この作家が作品を書くときの姿勢について触れ、結びを次のようにしました。

 ──ネットで視聴できる動画「インド洋の旅」でグルナは、自分が作品を描くことは制圧者により乱暴に要約されてきた「我々の複雑で小さな世界」を再構築する営みだと語る。

 1994年に発表されてその年のブッカー賞最終候補になった『楽園』は、作品として特別実験的な試みをするといった仕掛けなどはありませんが、淡々とした文章のなかにめくるめくスワヒリ社会の多様性が描かれていて、つい、メモをとりながら読みました。

 わたしにとってスワヒリ社会はほとんど未知の世界。いろんな人が耳慣れない名前で登場するため、これは「登場人物一覧」があると便利だなあと思いながら読んだことも書いておきます。

白水社から刊行された『楽園』でスタートしたグルナコレクションは、まだこれから3冊も続くそうです。とっても楽しみ!