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2021/04/19

フェミニズムの視点からJ・M・クッツェー『少年時代』を読み直す(2)

『少年時代』はこう続く。

 母親が独り裏庭で自転車の乗り方を習得しようとする。脚を両側にまっすぐ伸ばして養鶏場までの斜面を下る。自転車が倒れて止まる。クロスバーがないので母親が転ぶことはない。ハンドルにしがみつきながら、ぶざまな格好でよろめくだけだ。
 彼は内心、母親に反感を覚える。その夜は父親のひやかしに加勢する。これがひどい裏切りなのはよくわかっている。いまや母親は孤立無縁だ。

 それでも母親は自転車に乗れるようになり、おぼつかない、ふらつく乗り方ながら、懸命に重たいクランクを回転させる。

 母親がヴスターまで遠出するのは、午前中、彼が学校へ行っているときだ。一度だけ母親が自転車に乗っている姿をちらりと見かける。白いブラウスに黒っぽいスカート。ポプラ通りを家に向かってやってくる。髪を風になびかせて。母親は若く見える、少女のようだ、若くて生き生きとして謎めいている。


 この描写は、もちろん、当時の少年の心理を57歳の作家が鋭く分析しながら書いたものだ。

 少年は、周囲の環境のなかで孤立すると、どうして自分はみんなと違うんだろ、どうして自分の家族が「ふつう」じゃないんだろ、と悩む。でも、自分の母親がみんなとは違うことがちょっぴり自慢でもある。他の家族と違って母親が家で主導権を握っていることにも、変だと思いながら、ありがたいと思う。でも。


 父親は黒く重たい自転車が壁に立てかけてあるのを見るたびに冗談にする。父親の冗談によれば、ヴスターの住人たちは自転車に乗った女があえぎながら通り過ぎるあいだ、仕事の手を止めて身を起こし、口をあんぐりと開けているそうだ。よいしょ! よいしょ!  と彼らは母親を囃し立て、冷やかす。冗談は少しも面白くないが、彼と父親はそのあと決まって大声で笑う。母親のほうは、機知に富んだことばを返すことがない。そんな資質に恵まれていないのだ。「笑いたければ笑えばいい」という。

 そしてある日、なんの説明もないまま、母親は自転車に乗るのをやめる。それから間もなく自転車は姿を消す。だれもなにもいわないが、彼には身のほどを思い知らされた母親が諦めたことがわかる、そして自分にその責任の一端があることもわかる。いつかきっとこの埋め合わせをしよう、と彼は心に誓う。


 でも、幼ない子供にとって、母親は生きるための大地のような存在だ。とりわけ最初の子供は生まれ落ちたときから自分を中心に世界が回っている経験をすることが多いため、母親には、とにかく子供である自分を中心に生きていてほしい。少年の体験として、クッツェーは正直にそれを書く。

 自転車に乗っている母親の姿が彼の脳裏から離れない。母親がペダルをぐんぐんこいでポプラ通りを走りながら、彼から逃げて、自分の欲望に向かって行こうとしている。母親に行ってほしくない。自分の欲望をもってほしくない。母親にはいつも家にいてほしい、家に帰ったとき彼を待っていてほしい。彼が父親と組んで母親に対抗することは滅多にない。断然、母親と組んで父親に対抗したいほうなのだ。でもこの件では、男たちの側につく。

 そして「いつかきっとこの埋め合わせをしよう」と心に誓った少年は、ものすごい勢いで自立して成功への道を探る。ノーベル賞受賞時の晩餐会のスピーチにもあるように、「とにもかくにも、自分の母のためでなければ、われわれはノーベル賞を受賞するようなことを、はたしてするものだろうか?」といってテーブルについた大勢の客達から笑いをとった。

 実は、必ずしも母親でなくてもいいのだけれど、自分を大事に思ってくれる人、自分を大切にケアしてくれる人への繋がりが子供の成長にはとても大切なのだ。幼い生命にとっての養分なのだから、それが手当なく遮断されたり、長期的に途切れたりすると、幼い命は疲弊する。疲弊すると、花でも野菜でも、伸びやかには育たない。子供は自分だけの「誰か特別な人」がほしいものだ。長いあいだそれは「母親の仕事」とされてきた。1940年代の南アフリカでも。
 クッツェーの母親は周囲に同調して、みんなと同じように子供を育てることはしない。その子の性格や力に合わせた教育が大事だとして徹底的に保護する。『サマータイム』の最後の断章でも、シュタイナー、モンティッソーリという教育者の名前を作家自身が引き合いに出している

 『少年時代』の第1章の最後で、クッツェーは「男たちの側に」ついたことが母親への裏切りだったと自省する。フェミニズムという語が、今のような意味で使われるのは1960年代になってからだ。セクシャル・ハラスメントという語も知られるようになった90年代後半に、50年ほど前の田舎町ヴスターでの出来事を作家は書いている。それも自分自身が息子を早々と失ったのちに。。。

 そのことを考え合わせると、この第一章を書いている作家の位置が、二重、三重に違って見えてきた。読者によって、フェミニズム的視点から分析されるのを待っているような作品ではないか。

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2021.4.27──昨日、facebookとtwitter でシェアしたときのコメントを備忘のために追加:
「1940年生まれの作家が自分の少年時代、青年時代から30代の「朱夏のとき」まで、徹底的に自分を突き放すようにして他者化して、過去の記憶の内部をさらしながら物語にまとめる作業はフェミニズムという時代の風を受けてさらに輝いて見える」

2021/04/18

フェミニズムの視点からJ・M・クッツェー『少年時代』を読み直す(1)

J・M・クッツェーの『少年時代』を読みなおした。

 16歳の少年ジョンはカルティエ=ブレッソンに憧れて、将来は写真家になろうと考えていた。カレッジ時代のことだ。そのころ撮ったフィルムや機材などが出てきて、Photographs from Boyhood として2020年に出版された。そこにはアーティストとしてのクッツェーの出発点となる方法論が明確に出ている。(日本語訳も2021年の秋に出る。)

 翻訳作業にあわせて自伝的フィクション『少年時代』を再読した。そして面白いことに気づいた。これは個性の強い、しっかり者の母を持ち、その母から深く愛されて育った少年の自伝的物語として読めることだ。つまり、フェミニズム的な視点から読みなおすことができるのだ。

 アパルトヘイト制度が確立されていく1940年代後半の南アフリカで少年時代を送ったジョン・クッツェーは、母親をどんな風に見ていたか。白人女性である彼の母親は社会的にどのような位置にあったのか。母親と少年の関係を軸にしてこの作品を読み直すとどんなことがわかるか。

 学校の成績は抜群だが周囲から浮いてしまう男の子を母親がどう守って育てたか。その母親はどんな人物だったか。これは母と男の子の関係を考えるための宝庫のような作品だった。

 のっけから母親が家に閉じ込められることを嫌って、自転車を買ってくる場面がある。第一章だ。

 母親は、馬は買わない。その代わり予告なく自転車を買う。女性用の中古で、黒く塗ってある。やけに大きく重たいので、彼が庭で試してみても、ペダルをまわすことができない。

 母親は自転車の乗り方を知らない。たぶん馬の乗り方も知らないかもしれない。自転車を買ったのは、自転車なら簡単に乗れると思ったのだろう。そこで母親は乗り方を教えてくれる人がいないと気づく。

 父親は、それみたことかと笑いを隠さない。女は自転車になんか乗らないもんだという。それでも母親は負けない。わたしはこの家の囚人になんかならないわよ、わたしは自由になるの、といって。

 家に閉じ込められずに自由に生きたい、と移動の手段に、母は自転車を手に入れた。

 最初、彼は母親が自分の自転車をもつなんてすばらしいと思った。三人そろって自転車に乗り、ポプラ通りを走っているところを思い描いたこともある。母親と自分と弟と。ところがいま、父親の冗談に母親が頑固にだんまりを決め込むしかないのを見ていると、気持ちがぐらついてくる。女は自転車になんか乗らないもんだ、という父親のほうが正しかったらどうしよう? もしも母親に乗り方を教えてくれる人があらわれなかったら、もしもリユニオン・パークのほかの主婦はだれも自転車をもっていなかったら、とするとあるいは女は本当に自転車になんか乗らないものかもしれない。

 ケープタウンから移り住んだ田舎町は、「女は自転車なんか乗らないもの」とする社会だった。クッツェーの母親ヴェラが、今から見れば非常に自立心の強い頑張りやで、気骨のある女性だったことが伝わってくる。

 

2018/09/07

日経プロムナード第10回「ルサカ、闇の記憶」

9月に入って最初の回は「ルサカ」です。ザンビアの首都の名前。
 ずいぶん前になりますが、初めてアフリカ大陸の地を踏んだときの忘れられない思い出について書きました。

   ルサカ、闇の記憶

 連想は、なんと、大むかしの北海道に飛んで。

2017/03/27

デイヴィッド・アトウェル教授との2日間

3月24日と25日、東京大学の駒場キャンパスで、JMクッツェー研究の第一人者、デイヴィッド・アトウェルさんを迎えて読書会と講演会があった。主催は田尻芳樹教授研究室。

 一日目はクッツェーの最新作:The Schooldays of Jesus を読む会で、細やかな分析と自伝的な事実との絡み、他作品との響き合いなど、クッツェー読みならではの視点から参加者全員が深くコミットする意見、質問、指摘などを出し合って、濃密な時間があっというまに過ぎていった。

 二日目は講演会で、まずアトウェルさんの"The Comedy of Seriousness in J.M. Coetzee"というレクチャーがあり、さらに三人の研究者のとても興味深い発表があった。アトウェルさんの講演は、真摯さのなかにアイロニカルな笑いがちりばめられたクッツェー作品を、いくつかのキーワードを交えながら縦横に分析するもので、metalepsis という語が印象に残った。ほかにもtradgecomedy, immortality of writer, contingency, non-position, otherness, unsettlement of planters といった語がメモに残っているが、時間がすぎると細かな記憶がどんどん遠ざかっていく。

 余韻としてくっきりと残っているのは、むしろ、アトウェルさんの深い響きのいい声、人柄、話し方、語調といったことで、それは出席者全員によって共有された gift なんだろうと思う。作家や作品への共通の関心をもつ人たちが実際に会って、率直にことばを交わし、ハグして触れ合うことの大切さ。限られた人生の時間で、それは、いろんな情報を交換する以上に大切なことかもしれない、そんな気がする。

会が終わったあとの食事会、飲み会で出た話がまた、とてつもなくおもしろかった。80年代、90年代の南アフリカの細かな事情や、日本でそのころ反アパルトヘイト運動があった話や、先日他界したミリアム・トラーディのこと。ANCの資金調達係として初来日したズールー詩人マジシ・クネーネが80年代に亡命先のカリフォルニアからクッツェーに、クッツェー作品を賛辞する長い手紙を書いていたというのは初めて聞いた話だった。ほかにも現在の南アフリカの学生の動き、政治状況、出版事情など、じつにいろんな裏話が聴けた。

 二日目の最後の発表がゾーイ・ウィカムの作品についてだったためか、「『デイヴィッドの物語』を日本語に訳したきっかけは?」という問いが訳者へまわってきた。そのとき即座に「JMクッツェーの作品の歴史的な背景を日本語読者に知って欲しかったから」と答える自分がいた。それで、あらためて、そうだったのだと自分でも再認識したのだった。クッツェー作品をより深く(勘違いせずに)理解するためのコンテクスト(まあ、もちろん、それだけではないんだけれど)としての南アフリカ文学。カウンターとしての作品──あっちにもこっちにも、デイヴィッドがいるんだもんなあ。マニアックな話ですが……。
 
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付記:2017.3.29──デイヴィッド・アトウェルさんはクッツェー作品のなかで、なんといっても『マイケル・K』がいちばん好きだ、といっていたのを付記しておきます。彼の著書の副題"face to face with time"は、マイケルがスヴァルトベルグ山脈の洞穴のようなところにこもって、考えたことばだった。しみじみと、嬉しい。

2016/12/18

一夜明けると『アメリカーナ』が毎日新聞「2016 この3冊」に

 窓から差し込む陽の光がまぶしい日曜日。
 
昨日は池袋まで行ってきた。立教大学の「共生社会研究センター」が日本の反アパルトヘイト運動を記録するためのアーカイヴを作ってくれて、その記念イベントがあったからだ。

 1989年10月に長いあいだ獄中にあった政治囚が解放されはじめ、翌1990年2月にネルソン・マンデラが釈放されて、血みどろの混乱と権力移譲のかけひきを経て、南アフリカがアパルトヘイトという軛からようやく解放されたのが、1994年だ。
 このプロセスは、ベルリンの壁が1989年11月に崩れて、旧ソ連を中心とする共産圏経済が崩壊していった時期とみごとに一致していた。この歴史的事実は、しっかり記憶にとどめておきたい。

 あらためてここに、アパルトヘイトとは何だったのか、その体制内で生まれ、生きた作家 J・M・クッツェーの定義を再掲しておく。今年5月にパレスティナ文学祭に参加したクッツェーが「最後の日に行なったスピーチ」の一部である。

アパルトヘイトとは、人種あるいは民族に基づく強制隔離システムであり、ある排他的な、自分たちだけで定義した集団によって植民地支配を強化するために導入され、とりわけ、土地とその天然資源の掌握支配を固めるためのものだった。

「排他的な集団」というのはヨーロッパから大陸南端に上陸して土地を奪っていったヨーロッパ白人部族のことをさす。最初はオランダ系、それにイギリス系植民者が加わって少数グループとして白人至上主義を先鋭化させていった。
 1980年代に入って国際連合が「Crime against Humanity=人道に反する罪」と定義づけてから、アパルトヘイトは西側諸国の普遍的価値観である「人権」に反するものとして槍玉にあげられ、やがて、その体制は崩壊していった。だが、そこには大国を軸にした「経済的利害」の天秤の存在があったことはしっかり記憶されていくべきだろう。根幹には常に植民地主義的経済の世界システムが働いていたのだ。共産圏諸国の後ろ盾で独立することの多かったアフリカ諸国が採掘権を握る膨大な資源を有する大陸、そのアフリカ大陸へ西側諸国がアクセスするための入り口、それが南アフリカという国だったという指摘もクッツェーは『ヒア・アンド・ナウ』でしている。

 そしてニホンという国は、尻尾を振るようにして黄色い肌をした有色の「名誉白人」となり、経済的なやりとりのためのみに嬉々として「白人扱い」してもらい、他の有色の人たちと自分は違う、という差別感情を内面化していった。こんな恥ずかしいことはない。そんなねじれた感情が、「見ないことにした現実」(自分たちの顔)がいまも尾を引きずっている。
 

 さて、20年以上前にいっしょに行動した懐かしい顔ぶれが、まるで同窓会だね、と笑い合うおしゃべりの翌日、はらりと新聞を広げると……毎日新聞の「2016 この3冊」に中島京子さんがアディーチェの『アメリカーナ』をあげてくれているではないか。
 あれ、一週間前もこれと似た展開が……という既視感とともに、嬉しさがこみあげてくる。
 
「人種」が特別の意味を持つ大国・アメリカの現在を描いて……人種問題を正論で語るときの欺瞞や鬱屈も描かれ、トランプ次期大統領を生んだ社会の背景が……

『アメリカーナ』という小説は、アメリカという世界の大国で「人種」がどのようなものとして機能しているかを、クリアに、詳細に、描き出していく作品でもあるのだ。それもナイジェリア出身の若い女性の曇りない目を通して。

 戦後、ややもすると「単一民族」などという妄想に目を塞がれ、アメリカ製ホームドラマ、西部劇、ディズニー映画などで目くらましを食らいながら、「白いアメリカ」やその反転像としての「黒人文化」に憧れてきたニホンが、多民族国家であるアメリカ社会内の「本当は見たくない、見たくなかった現実」を根底部分から容赦なく描き出している作品であるかもしれない。そろそろこういう事実ともまっすぐに向き合おうか、「トランプのアメリカ」から目をそらすわけにはいかないのだから。


 そして。今日のグーグルは、なんと、1977年に当時のアパルトヘイト政権の警察が拷問・虐殺した黒人意識運動の主導者スティーヴ・ビコの写真だ。そうか、12月18日はビコの誕生日だった。享年31歳の彼が生きていたら今年70歳。アフリカの若き指導者の多くは、とても若いうちに、暗殺、虐殺された。ビコ、ルムンバ、トマス・サンカラ、カブラル。ルムンバのようにCIAがらみのケースも多いだろう。

 ちなみにナイジェリアは南アフリカのアパルトヘイトに対して、常に反対をとなえてきた国である(これは南部アフリカ諸国もおなじだ)。アディーチェも小学生のとき獄中にあるマンデラの話を聞いて、みんなでお小遣いからカンパをした、とどこかで語っていたっけ。


2016/09/17

9月のクッツェー、今年もチリ、エクアドル、アルゼンチンへ

受賞者に賞を手渡すクッツェー
9月のクッツェーの活動です。
 まず、チリでクッツェーの名を冠した文学賞(18歳までが対象の短編小説賞)の受賞者に賞を手渡し、つぎはエクアドルのグアヤキルで開かれたブックフェアに参加してキーノートスピーチを行い(テーマは「検閲」で、クッツェーさんはスペイン語でスピーチをしたそうです)、12日からはアルゼンチンのサンマルティン大学で、恒例の「南の文学」講座に参加。23日まで。詳細はここで。

検閲について語るクッツェー
 ゲスト講師は、モザンビークからミア・コウト/Mia Couto、そして南アフリカからはアンキー・クロッホ/Antjie Krog。

テーブル席最左がコウト
 ミア・コウトはポルトガル語圏屈指の作家で、数年前に国際マンブッカー賞のファイナルに残りました。専門は環境生物学で、両親はポルトガルからの移民です。ミア・コウトは幼いころからモザンビークで南部アフリカの風土を皮膚から吸い込んで育ったために、いわば、アフリカ的感覚とヨーロッパ的知性が渾然一体になったような文章をポルトガル語で書いている(らしい)。(何冊も英語に訳されています。)この作家の作品を日本語に訳してくれる人があらわれないかと、首を長くして待っているひとが何人もいるのですが……。

 一方、アンキー・クロッホは南アフリカのオランダ系の名前。アフリカーンス語で書く詩人でジャーナリストです。1994年にアパルトヘイトから解放された直後、デズモンド・ツツ主教の先導で真実和解委員会がたちあげられました。アパルヘイト政権下で行われた暗殺、拘禁、拷問死など、数々の不正に手をくだした人間が、もし、犠牲者の家族の目の前で真実を語るなら恩赦をあたえよう、という趣旨で始められた委員会でしたが、このやりとりの一部始終を詳細にわたって報告したのがアンキー・クロッホでした。


クッツェーとアンキー・クロッホ
 その結果が Country of my Skull (1999)という分厚い本にまとめられて出版されました。日本でも『カントリー・オブ・マイ・スカル』(現代企画室)というタイトルで2010年に訳が出ています。*
 アンキー・クロッホについては、クッツェーが『厄年日記』で一章をさいて書いているのを、何年か前にこのブログでも紹介しました。ここです。


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2017.5.29──このときの写真や動画が見つかりましたので埋め込みます。



左がクロッホの、右がコウトの、スペイン語訳



2016/07/20

『恥辱』のメラニーの肌の色は?

先日のB&Bの『鏡のなかのボードレール』をめぐるイベントで、こんな質問が出ました。

──クッツェーの『恥辱』に出てくるメラニーが前後の脈絡から白人ではありえない、とありますが、どうしてですか? 「メラニー」は白人の名前としてごくふつうに使われる名前ですが。

 あのときは実証例をあげて即答できませんでしたが、昨日そのことをあとづける部分を発見しました。メラニーがいわゆる「カラード」だという理解はあちこちで見かける意見で、南アフリカの研究者たちもそう述べていたと記憶していますが、それは次の箇所をどう読むかにかかっています。

 原著『Disgrace』のp164です。主人公デイヴィッド・ルーリーが娘ルーシーの農場からケープタウンへ車で向かう途中、ジョージという町に立ち寄ります。メラニー・アイザックスの家族が住んでいる町です。そこでルーリーはメラニーに対してレイプまがいのセクハラをしたことを家族に詫びるのですが、最初にアイザックス家を訪ねたときは1人の少女しかいませんでした。少女の名前を尋ねると、彼女は「Desiree」と答えます。デジレーと読むのでしょうか(デジリーア、とアフリカーンス語現地音ふうに読むのでしょうか)。そしてこう続きます。

Desiree: now he remembers. Melanie the firstborn, the dark one, then Desiree, the desired one. Surely they tempted the gods by giving her a name like that! 

デジレーか。それで彼は思い出す。メラニーは初めての子で、浅黒い肌の子、その次がデジレー、強く望まれた子。きっと、彼らはそんなふうに彼女を名づけることで、神々の意思にあえて挑んだのだ!)

 つまり、最初の子供であるメラニーは「dark one──浅黒い肌の子」だったが(melaninを暗示か?)、次に生まれた Desiree は強く望まれた子であり、より美人だった(Desiree, the beauty と4ページ先でルーリーは呼ぶ──p168)。

 上記の「dark one──浅黒い肌の子」という部分が効いています。
カラードの人たちは自分たちの中に白人、アジア人、先住民、黒人などの血が混じっていることを熟知していて(歴史的に混じり合ってきた人たちを制度上「カラード」と括ったわけですから)、それがどんなふうに子供に出てくるか、はらはらしながら、より白い子が生まれてほしい、と考えていたことがわかります。より白い肌で生まれてくるなら、膚の色で人口登録された「アパルトヘイト制度」のなかでは、地位も富もより上位のものが約束される。場合によっては「白人」で通すことも可能だ、と。
 アイザックス家の雰囲気を見て、プチブル的上昇志向の強い家族だとルーリーは判断しています。もしもアイザックスが白人の家族であれば、作家は上記のような書き方をすることはなかったでしょう。(夕飯に招かれて出された料理がカレーという駄目押しまでついています!)

 巧みな、暗示に満ちた書き方ですね。事情に通じた南アフリカの人たちにとっては言わずもがなの事実でも、外部にいる読者にはなかなか自信をもって断定できない要素でもあります。

 イベントこぼれ話のひとつでした!



2016/05/29

アパルトヘイトとパレスティナ──クッツェーが最終日にスピーチ

昨日の速報性を重視した投稿はいったん削除して、クッツェーのメッセージがより正確な表現になるよう訂正し、再度アップします。
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 5月26日「パレスティナ文学祭」最終日、ラーマッラーのカーリル・サカキニ・センターの、立錐の余地がないほど大勢の人で埋まった屋外ステージで、J・M・クッツェーは、一週間のあいだに多く見聞きしたこの土地の人々について語った。過酷な状況のなかでパレスティナの人たちがすばらしい努力と回復力を、そして美しさとユーモアも見せていることに心を打たれたと述べ、さらに、アパルトヘイトという語について、感情を挟まずに、過不足ないことばで定義づける。



 ここで起きていることは、自分が生まれ育った南アフリカで用いられたアパルトヘイト制度とおなじではないかと問われるが、「アパルトヘイト」という語の使用については、それが何かを生み出すステップだと思ったことはないと明言。さらに、アパルトヘイトという語を使うことは、その定義についての意味論的な論争に火をつけているので、手っ取り早く分析するが、としてそれぞれの状況を共通のことばを用い、差異も含めながら展開する。そして最後に、結論は各自が出してくださいと結んだ。

「アパルトヘイトとは、人種あるいは民族に基づく強制隔離システムであり、ある排他的な、自分たちだけで定義した集団によって植民地支配を強化するために導入され、とりわけ、土地とその天然資源の掌握支配を固めるためのものだった。エルサレムと西岸では──エルサレムと西岸についてのみ語るなら──ここに見られるのは宗教および民族に基づく強制隔離システムであり、ある排他的な、自分たちだけで定義する集団によって植民地支配を強化するために導入され、とりわけ、土地とその天然資源の掌握支配を維持し、実質的には拡張するためのものだとわかる」(下線筆者)

最終日のステージへ向かうクッツェー
作家であり、文学者であり、言語学者でもあるクッツェーが述べる「ことば」の定義の明解さ、明晰さは比類ない。粉飾を排した翻訳で、彼の「ことばの硬質性」を、日本語でも表現できるようになりたいものだ。

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2016.5.31日、付記:より正確なテクストを再度アップし直しました。引用元は:http://bookslive.co.za/blog/2016/05/30/an-inflamed-semantic-wrangle-jm-coetzee-scrutinises-the-israel-apartheid-analogy-at-palestine-festival-of-literature/

I came to Palestine to see and listen and learn.  In the course of the past week I have seen and heard and learned a great deal. I come away with an enduring impression of the courage and resilience of the Palestinian people at this difficult time in their history. Also, of the grace and humour with which they respond to the frustrations and the humiliations of the occupation.

I was born and brought up in South Africa and so naturally people ask me what I see of South Africa in the present situation in Palestine. Using the word 'apartheid' to describe the way things are here I have never found to be a productive step. Like using the word 'genocide' to describe what happened in Turkey in the 1920s, using the word 'apartheid' diverts one into an inflamed semantic wrangle, which cuts short opportunities of analysis. 

Apartheid was a system of enforced segregation, based on race or ethnicity, put in place by an exclusive, self-defined group in order to consolidate colonial conquest and in particular to cement its hold on the land and natural resources. 

In Jerusalem and the West Bank, to speak only of Jerusalem and the West Bank, we see a system of enforced segregation, based on religion and ethnicity, put in place by an exclusive, self-defining group to consolidate a colonial conquest, in particular to maintain and indeed extend its hold on the land and its natural resources. Draw your own conclusions.

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2014/12/12

アンキー・クロッホ/Antjie Krog について


J・M・クッツェーの未邦訳の著作『厄年日記/Diary of a Bad Year』(2007)から、南アフリカの詩人・ジャーナリスであるアンキー・クロッホ(1952年生)について書かれた文章を訳出します。

〈アンキー・クロッホ/Antjie Krog について〉

放送波にのって昨日、アンキー・クロッホが自分で英訳した詩を読むのを聞いた。ぼくの間違いでなければ、彼女がオーストラリアの聴衆の前に姿を見せたのはこれが初めて。テーマは大きい──彼女が生きる南アフリカでの歴史的経験だ。詩人としての才能は挑戦を受けて立つことで伸び、決して萎縮することはなかった。強烈な、女性的知性に裏づけられた断固たる誠実さ、そこに描かれる、胸が引き裂かれるような経験。彼女が目撃した恐るべき残虐性に対する答え、引き起こされた苦悩と絶望への答え──子供たちに、人類の未来に、永遠に再生する命に向きあって。

 オーストラリアには、これに比肩する熾烈さで書く者はいない。アンキー・クロッホという奇才は、ぼくにはとてもロシア的に思える。南アフリカでは、ロシアのように人生は悲惨だが、なんと勇敢な精神がすっくと立ちあがり応答することか! 
                   (『厄年日記』より、2007、p199)

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 クロッホはアフリカーンス語で書く詩人です。アパルトヘイト政権下で行われた国家権力による残虐な暗殺、拘禁、拷問といった非人道的行為について、真実を語ることで罪を問わないという前提で「真実和解委員会」が開かれましたが、クロッホはこの委員会について詳細な報告書を書いています。それはCountry of My Skull という分厚い本になりました。邦訳もそのままの『カントリー・オブ・マイ・スカル』、現代企画室から出版されています。

2014/05/18

さわやかな五月の午後に


 昨日は風かおる五月の空を見ながら、南アフリカ大使公邸で開かれた催しに行った。

日本での反アパルトヘイト運動を記憶、記録するための催しといっていいだろうか。いまひとつ貴重な経験だったのは、日本と南アフリカのグラスルーツ的な繋がりをつくる努力をしてきた若い人たちの声が聞けたことだ。

 会場にはアパルトヘイト白人政権下の南アフリカ時代から縁の深い外務省や、経済界の面々もいたようだが、もちろん面識がないからわたしにはわからない。わかるのは、かつて日本で反パルトヘイト運動をやった広い意味での仲間たちだ。それについては昨年暮れに一度書いた

 さわやかな五月の風に吹かれて、これで訪れるのが三度目になる、南ア大使公邸の庭でいただく白ワインのおいしかったこと! ズールー民族の出身だという大柄なペコ大使の笑顔がなかなかすてきだった。

 その場でもらったペーパーのなかに「日本で出版された反アパルトヘイト関連書籍」のリストがあって、そこに、ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』が入っていることにいまごろ気がついた。なんと!

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時事通信でもう記事になりました


PS: 肝腎なことを書き忘れました。この催しは、南アフリカ民主化20周年と、日本と南アの人々の連帯と協力の50周年を記念したものでした。ほら、民主化というのは1994年のアパルトヘイトからの解放のことで、撤廃は1991年ではないのですよ。くれぐれも、お間違えのないように!

2014/03/10

アンチ・アパルトヘイト・ニュースレター全号の「目次」完成!

昨年の暮れにお知らせした「アンチ・アパルトヘイト・ニュースレター」のサイトに、全号の目次ができました! ぜひ、活用してください。
 
 このニュースレターについては、ここで詳しく紹介しましたが、1988年から1995年まで、創刊準備号を含めて全86号が、毎月刊行されていました。日本の反アパルトヘイト運動の歴史を知るための絶好の資料です。元編集長の須関さんが、すべて手打ちで入力して作られた目次です。

 目次はここです。

2014/02/11

『現代思想 ネルソン・マンデラ特集』

現代思想 3月臨時増刊号──ネルソン・マンデラ総特集

さきほど届きました。厚い! 昨年12月5日に95歳で他界したネルソン・マンデラ元南アフリカ大統領の特集号です。マンデラ自身のことばもたっぷり含まれ、J・M・クッツェー、ナディン・ゴーディマ、ゼイクス・ムダら南アフリカの同時代の作家たちの追悼文、ナイジェリアの劇作家ショインカが80年代に書いたマンデラへのオマージュともいえる詩もあります。

 また、日本における反アパルトヘイト運動の中心人物であった楠原彰氏のインタビュー、ANC東京オフィスの専従スタッフだった津山直子氏と西アフリカの政治を専門とする勝俣誠氏(マンデラ歓迎委員会の副委員長でもあった)の対談、ジェンダーを切り口にした楠瀬佳子氏の文章や、鵜飼哲氏のインタビューなど、長期にわたり南アフリカに関わってきたそうそうたる人たちの文章が掲載されていて、非常に読み応えがあります。オバマ大統領のマンデラ追悼集会でのスピーチの訳や、音楽で透視する東琢磨氏の文章もある。
 
 わたしはクッツェーとムダのマンデラ追悼文とショインカの詩を訳し、ゴーディマの長い追悼文をクッツェーの文章と比較しながら紹介しました。80年代後半の日本の状況も書き込みました。充実した内容の目次を見てください。




 2月13日発売です。













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2014.2.14:付記──いろいろ興味深い論考やインタビューがならんでいるなかで、峯陽一さんの文章「闘いはわが人生」が秀逸です。政治家としてのマンデラ像が非常にクリアに立ちあがってくる。ANCという組織のトップとして、南アフリカ共産党員でもあったマンデラが、武装闘争を呼びかけたのちはテロリストと呼ばれ、「自由憲章」の実現を夢見て、多くの盟友とともに何を成し遂げ、何を成し遂げることができなかったか。南アフリカという土地を舞台に、1918年に生まれて2013年に没するまで、思想家というよりは飛び抜けてすぐれた政治家であったネルソン・ホリシャシャ・マンデラが生きた航跡。そのコンテキストがよく理解できる文章です。お薦めです。

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2014.2.15:付記のつづき──巻頭に訳出したJ・M・クッツェーの追悼文には「F・W・デクラークとともに──モラル上はるかに劣る人物ではあれ、彼もまた彼なりに、南アフリカ解放への貢献者なのだ──マンデラは・・・」とある。このデクラークをめぐる発言の真意はなにか? クッツェーはオースターとの往復書簡集でこう書いている。

「軍の将軍たちを蚊帳の外に置いたことはF・W・デクラークの功績だった。それはみずから劇的な制度改革に着手する前に彼が舞台裏でやったことだ。」

 これは、舞台裏でデクラークが南アフリカ国防軍を抑えておかなかったなら、あの国はクーデタが起きて内戦に突入したかもしれない、その危険を示唆しているように思えてならない。1980年代から90年代の騒然とした南アフリカを歴史的に見る冷徹な視線がここにはある。これもまたゴーディマとの際立った違いだろうか。

2014/02/02

ことばを「言葉」と書かない宣言


「ことば」を「言葉」と書かないことにした。

「言の葉」は水に流れて消えてしまう。いま目の前を通り過ぎれば、それで終わり。赤、紅、黄色の病葉とともに「水に流して」それで終わり。

 日本語のことば、は定義が実にあいまい、ヨーロッパ言語とくらべると、ニュアンスだらけ。彼らの「定義づけ」の安定が支えてきたもの=たとえば英語なら、ニュートン以来の純化された自然科学用語に始まる、法律、思想、哲学などなど、を日本は近代化の過程で「言の葉」にのっけてきた。

 その結果、その中身の重さに耐えられないでいるのか? 
 それをいま「われわれ/?」は目の前にしているのか?
 この地震大国で。原発がいくつも解けて、放射能が消えない世界で。なにもかもなかったことにして、見えないようにしようとして、、、Out of sight, out of mind.....と。
 
 まったく逆にクッツェーなどは(とまたクッツェーの話になってしまうが/笑)南部アフリカで用いられる言語の、白黒のコントラストの明確さに辟易して、作品に使われることばに込めたニュアンスを読み取ってほしい、と常々思ってきたようだけれど。。。。

 たとえば、南アフリカでアパルトヘイト時代に用いられたディスクールのあまりの融通のきかなさに苛々して、文学をあくまで「闘争の武器」とする解放運動の狭い視野に苛々して、ケープタウンで1987年に開かれた Weekly Mail のBook Week で読んだ文章で、ベケット風の無機的くり返しをやらかしたクッツェーは、スピーチ内にゴキブリを登場させて人びとの怒りを買った、、、、「The Novel Toddy」。

 日本はその真逆だな。ことばを、ずらし、ぼかし、響かせ、感じ取らせる妙技にかけてきた長い歴史のなかで、そのバックグラウンドそのものが危うい。というより、正念場にいたって歯止めがかからないのだ。
 憲法まで含めて、法律なんていかようにでも解釈できると考える政治家たちに、なぜ裁判所は異議を唱えない? 定義があいまいだと、あいまいなまま法律もなにもかもスルーさせてしまう、この土壌は?
 「空気読む」というのがその代表例か?
 はっきりモノを言うと、田舎者、ダサイ、と言われつづける......

「ことば」を「言葉」とは書かないことにした。

 葉っぱのように風に吹き飛ばされてしまわぬよう。朽ちてしまわぬよう。水に流されてしまわぬよう。ひとりの日本語使用者のささやかな抵抗として。

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写真はネット上から拝借しました。あしからず。

2013/12/31

反アパルトヘイト・ニュースレター、全ページがアップ


2013年がもうすぐ終る。今年はドリス・レッシング、チヌア・アチェベ、そしてネルソン・マンデラが逝った。来年早々にはそのネルソン・マンデラ追悼特集があちこちの雑誌に掲載されることだろう。1950年代にアパルトヘイトに抗して抵抗運動を組織したネルソン・マンデラとその仲間たち。たぐいまれな品格と、その意志と思想の強さで、27年という獄中生活を耐えた人は、南アフリカの抵抗運動、解放運動のシンボルとなっていった。

 日本でも古くは60年代初頭に、南アフリカの人びとと繋がろうとする反アパルトヘイト運動が芽吹いた。70年代初めにマジシ・クネーネが来日して当時の若者たちにあたえた「クネーネ・ショック」、それを契機に運動は着実に継続され、ネルソン・マンデラ解放時に最盛期を迎えた。この運動についてはもっと知られてもいいだろう。また当時の日本社会がどんなようすだったかも振り返ってみるのは悪くない。
 その運動のおおまかな歴史(日本各地に自発的につくられたグループがあり、それぞれに思い思いのかたちで展開された)を、東京のグループである「アフリカ行動委員会」の実質的中心人物、楠原彰氏がまとめたものがここで読める

 わたしが知っているのは80年代末、そのマジシ・クネーネというズールー詩人の叙事詩の翻訳で悪戦苦闘していたころからネルソン・マンデラが解放され、来日した時代のことだ。それについては中村和恵編『世界中のアフリカへ行こう』(岩波書店 2009)に詳しく書いたので、ぜひ。
 特筆にあたいするのは、日本における反アパルトヘイト運動が、それまでわたしが抱いていた「運動」のイメージを快く裏切ってくれたことだ。つまり、組織特有の束縛が一切なく、あくまで自発的個人の意思による活動の場として確保されていたのだ。これは60年代末の全共闘に端を発する運動がセクト化してやせほそり内向きになっていくのを学内でちらちら横目で見ていた者には、じつに新鮮だった。
 だから、集団がからきしダメというわたしのような人間もすっと入ることができた。つまり、あの運動は「あ、それ、わたしがやります!」と手をあげて事実やってしまう人間の集まりであり(そのなかでみんな力をつけた)、命令とか指令とか動員とか、上下関係とか、初心者とかベテランとか、先輩とか後輩とか、そういうものとは無縁だったのだ。人と人の関係が、いわゆる「縦系」の縛りから完全に解放されていた。

 きみもぼくもわたしもあなたも、来る者はこばまず、去る者は追わず。ほんの数年ではあったけれど、のびのびと、やりたいことをやらせてもらったように思う。自分の仕事ともリンクさせることができたし、大いなる学びの場として、また、面倒な人間関係もおなじ志を仲立ちにしてのりこえ、深めていけることも学んだ。だから、心地よく裏切られたり勘違いしたりしたこともあったけれど、恨みとか怨嗟とは無縁だった。世はバブルたけなわ、喧噪とは縁のないわたしの30代から40代にかけての例外的事件だった。

 先日、20年ぶりにそのころの仲間数人とテーブルを囲む会があった。同窓会などとは違って、すっとあの時期に戻っておしゃべりできて、さらに現在この社会で起きていることをも気兼ねなく話題にできた。そういう人間関係。これは貴重。
 運動の最盛期、東京を中心に活動していた「アフリカ行動委員会」は「あんちアパルトヘイト・ニュースレター」を毎月発行し、定期購読者に郵送していた。1987年の準備号を出した森下ヒバリ編集長から始まり、つぎの高柳美奈子編集長が第三種郵便にする努力を惜しまず、それを引き継いだ須関知昭編集長の超人的な遠路往復で、1995年まで全85号が発行された。その全ページがその須関氏の努力で「アーカイヴ」にpdf ファイルとしてアップされ、読めるようになった。

 当時はまだインターネットはなかった。ようやく小型のワープロが出まわってきたころで、紙面はそれを駆使して打った原稿をそのまま写植で起こして即印刷された。そのため、字間行間に独特のニュアンスが残る。購読料だけでやりくりしたので、経費上ざらっとした紙が使われ、当時はまだコピーも上質ではないため、滲みも多い。いまから見れば紙面は苦労がしのばれるものではあるが、わずか20年のあいだに、われわれを取り巻く活字媒体の変化は恐ろしいほど変化したことをも実証している。
 
 あのころの南アフリカと日本の関係がどうだったのか、バブルにわく日本社会の裏側で、南アフリカの解放運動を横目でながめながら、経済的に裕福になった不名誉な、恥知らずの「名誉白人」がどう振る舞ったのか。80年代に白人アパルトヘイト政権下の議員たちと「友好議員連名」なるものをつくり事務局長をやった当時の国会議員、のちに長らく東京都知事をやった人の名前も登場する。あの時代に若者だった人たち、子供だった人たち、そしていま社会の最前線で活躍する人たちが、なにを得てなにを失い、なにを引きずっているのか。
 いずれ、各号の「目次」もできるはずだ。そうなれば、もっと使いやすくなるだろう。これはまちがいなく貴重な記録だ。2013年大晦日の、わたしからのプレゼント。


 では、みなさま、よいお年をお迎えください。

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付記:2017.5.28──昨日開かれた「反アパルトヘイト運動と女性、文学」の場で、アフリカ行動委員会のニュースレターのアーカイヴが移設された先を知ったので、上のリンクをいくつか更新しました。

2013/12/15

1990〜94年/危険な時代に騒然となった彼の国を統括したマンデラ by クッツェー

 今日、12月15日(日曜日)、マンデラの遺体はイースタンケープ州の彼の生地クヌに埋葬される。アパルトヘイト時代から一貫して盟友であったデズモンド・ツツ主教の出席しない葬儀のあとで。(註/紆余曲折の末、ツツ主教は参列することになったようです。)(左の写真は遺体がクヌまで運ばれるようす。)

「ネルソン・マンデラが長い生涯を終えた──長いとはいえ、嘆かわしいほど切り詰められた人生だった。終身刑に処されて、人間としての最良の時期を27年間も幽閉されて過ごしたのだ」

 と始まるのは先に紹介した、J・M・クッツェーのネルソン・マンデラへの追悼文(12月6日付の「シドニー・モーニング・ヘラルド」紙)。マンデラという人物のプロフィールと「彼の国」に対して果たした役割を、適確な、無駄のないことばでクッツェーは書く。以下に引用しながら紹介する。それはこう続く──

「幽閉されながらも、彼は無力であったわけではない。長い刑期の最後の数年、事実上、彼は国の外交政策に対しては拒否権を行使し、看守たちに対しては統制力をますます強めていった。
 F・W・デクラークとともに──モラル上ははるかに劣る人物ながら彼もまた彼なりに、南アフリカ解放への貢献者だ──マンデラは1990〜94年という危険な時代に、騒然となった彼の国を統括した。その大いなる個人的な魅力を発揮して、新しい民主的な共和国内には白人の居場所もある、と白人たちを説得し、一方では一歩一歩着実に、分離主義をかかげる白人右翼勢力を骨抜きにしていった。

 その正統な権利によって大統領になるころ、マンデラはすでに老人だった。公正な経済秩序を創造するという、時代の差し迫った仕事に対して、彼がもっと多くのエネルギーを注ぎ込むことができなかったのは、不運だったとはいえ無理もなかった。ANCの他の指導者同様、彼は世界規模で起きている社会主義の崩壊に不意打ちをくらい、政党は新たな、略奪を目的とする合理的経済理論に哲学をもって対抗することができなかった」

 これは先日のブログにも一部引用したところだが、「彼の国」と書いているところにわたしの針はぴくり、ぴくりと大きく触れた。「ニューヨーカー」(12月5日付)に載ったナディン・ゴーディマの文章の書き出し:「おなじ時代におなじ故国にネルソン・ホリシャシャ・マンデラと生きてきたことは、わたしたち南アフリカ人が共有する導きであり恩典だ。わたしはまた彼の友人になるという恩典にあずかった。私たちが会ったのは1964年・・・」とはひどく対照的だ。そしてクッツェーはマンデラという人間について、曇りない歴史的な光をあてる。


マンデラの個人的、政治的権威は、アパルトヘイトには武力をもって抵抗する、という鍛え抜かれた防御論と、その抵抗のために受けた過酷な刑罰に基礎をおいている。さらにさかのぼるなら、・・・(中略)・・・これが個人としての一貫性というヴィクトリア朝風の理想と大衆のために献身的に奉仕することを、彼の目前に示しつづけたのだ。
 
 ・・・中略・・・

 マンデラは過去においても偉人であり、死期が近づくころには世界的な偉人になっていた。偉大さという概念が歴史的陰影のなかに後退していくとき、彼はおそらく偉人といわれる最後の人になるだろう」


「偉人=偉大な人物」という考え方が消えようとする時代に、われわれは生きているのか。
 しかしまた、ゴーディマの先の文章の結びが、ウィットとユーモアに富んだ人だったマンデラのエピソードを伝えているのは嬉しい。マンデラが獄中にあったとき、すでに他に恋人ができていたウィニーと1996年に正式に離婚したあと──マンデラは1998年にグラサ・マシェルと結婚した。モザンビークでポルトガルの植民地支配と闘った解放闘士であり、モザンビークのサモラ・マシェル初代大統領夫人だった人だ。マシェル大統領は、アパルトヘイト政権を支持する南アフリカ人の工作によると言われる飛行機事故で殺害された・・・結婚式の「誓います」という儀式と喝采ののち、グラサはマシェルという名前をこれからも名乗ると公言した。それをどう思うかと問われたマンデラは──「彼女の」名前を名乗ってほしい、と彼女から言われなかったのは良かったよ──と答えたという。

 5日にマンデラが長い一生を終え、その翌日6日に、今世紀最悪の法律といわれる「特定秘密保護法」が日本の国会で、十分な審議もないまま、多くの人たちの反対や慎重論を踏みにじるようにして、まるで、民主制とは形式を踏めばいいのだといわんばかりに暴力的に採決された。忘れない。

2013/12/06

追悼ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ── forever!!


最近はもっぱら「マディバ」の愛称で呼ばれたネルソン・マンデラが危篤状態とのニュースが流れてから数カ月。ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ、95歳。ついに逝った。試練のたびに自分を鍛え抜いた、見事な政治家だった。ひとつの時代が終わろうとしている。

1990年2月2日、東京は前日に降った雪が凍って、踏みしめる靴の下でざくざく鳴った。その日、南アフリカに郵送する為替をつくるために、わたしは西新宿の東京銀行まででかけた。駅までの雪道を歩いたとき、この日のことをずっと記憶しつづけるだろう、とはっきり意識したことを、ざくざくというあの靴音といっしょにいまも鮮明に思い出す。前日の1990年2月1日は、それまで違法とされた解放組織が合法化された歴史的な日だったからだ。

 当時、国家の厳しい検閲によって出版停止、記事の黒塗りなど、度重なるban(出版禁止)にもめげず、反アパルトヘイトの姿勢を貫いていた週刊新聞「Weekly Mail」を定期購読するためには、ジョハネスバーグの新聞社に書留で銀行為替を送らなければならなかった。4万円あまりの為替を作成するのに手数料が5千円くらいかかった。カード決済はまだできなかった時代だ。

 周囲では、27年間も監獄に入れられていた解放闘争のヒーロー、ネルソン・マンデラがいつ釈放されるかという噂でもちきりだった。そして2月11日、本当にそのマンデラ自身が釈放された。南ア国内の人たちはもちろん、世界中の反アパルトヘイト運動にかかわった人たちが歓喜した。しかし、それにしても不名誉な「名誉白人」扱いを最後まで返上できなかった日本人、あの人種差別という非人間的な搾取制度を打倒するための世界的経済制裁の波に最後まで加わらなかった「経済利益至上主義」の日本人。人の生命より儲けを優先する日本人。この歴史的事実はいまも、忘れようにも忘れられない。(そして、いまこの国はどこへ向かおうとしているのか?)

 1990年2月11日に大勢のジャーナリストや、歓迎を叫ぶ群衆が押し寄せるなかを、ネルソン・マンデラとウィニー・マンデラが拳をふりあげ、にこやかな笑みを見せながら歩いていく感動的な映像が世界中に流れた(1枚目の写真)。
 その下はいまは観光地のようになっている無人の道路(2枚目の写真)、これが彼らの歩いたヴィクター・フェルスター刑務所(後にドラケンスタイン刑務所と改名)前の道だ。入口の近くに、それを記念するマンデラの銅像もあった(右下)。後半2枚は2011年11月、南アへ旅したとき、内陸のヴスターへ行った帰りに立ち寄って撮影したものだ。

 ネルソン・マンデラという人物については、いまさらここで述べるまでもないだろう。「テロリスト」という汚名を着せられながら、人間としてのあるべき姿を信じつつけたこの不屈の闘士に敬意を表して、1996年に共同通信からの依頼で書いた、彼の伝記『自由への長い道(上下)』の書評を、彼の病状悪化のニュースが流れたときに、ここにアップした。
 

2013/11/23

ジョンとポールの往復書簡、翻訳まっさいちゅう

どんどん進みます。ジョンとポールの往復書簡集「Here and Now」。

 昨日と今日、訳したところで、すごく面白いところがありました。1947年にアメリカで生まれていまもそこに住むポール・オースターと、1940年に南アフリカで生まれてここ10年ほどはオーストラリアに住むジョン・クッツェーがやりとりする手紙のなかで、話題はイスラエル/パレスチナ問題から発展し、旧南アのアパルトヘイト体制のことに及びます。

ポールがイスラエルと旧アパルトヘイト体制下の南アフリカを比較して、少なくとも南アフリカはイスラエルのように周辺諸国から威嚇されることはなかった、と述べると、ジョンは、いや、80年代にアンゴラとの戦争で南アは負けたんだ、キューバの友軍がソ連製の優れたジェット戦闘機で数の上でも性能の上でも南ア軍を圧倒したと、ポールの認識をただす場面があります。

 それに対してポールは、あ、ごめん、ばかだった、と反省しながらも、ふたたび「アパルトヘイトは基本的に国内問題だったよね」と述べるところがあるのですが、これに対してジョンは次の手紙の「追伸」でこんなふうに返します。


追伸/南アフリカの歴史についてこれ以上、無用に議論を広げたいとは思わないが、もしも冷戦がなかったら、南アフリカの混乱全体がもっと早期に解決していたかもしれない。何十年ものあいだ、南アフリカの政治制度は、鉱物資源に富んだサハラ砂漠以南のアフリカへロシアが侵攻するのを防ぐための要塞代わりを務めていたのであって、合州国政府は代々そのシナリオに乗っかってきたんだ。ANC(アフリカ民族会議)が南アフリカ共産党と網の目のように絡まったことは助けにならなかった。
 南アフリカの旧制度は、合州国が冷戦時代に戦略上の目的で資金援助した独裁制や寡頭政治からなる世界規模のラッツネストの一つにすぎなかった。ソ連が崩壊し、ベルリンの壁が倒れたおなじ年に、F・W・デクラークがANCを合法化したのは偶然の一致ではなかったんだ。


 ここに読み取れるのは、外交関係について圧倒的な支配力をおよぼすアメリカという大国内に生まれ、いまもそこに住み暮らす人間の世界認識と、世界全体のなかでは周辺に位置づけられる国に生まれた人間の、グローバル経済をめぐる紛れもない認識の差です。
 いまやこの国も、このラッツネストの一つであることがあらわになってきたことを考えると、これは大変に興味深いですね。

付記:写真はカタルーニャ語版。スペイン語版ももちろん出ています。スペイン語を母語とする話者は世界に4億2000万ですが、カタルーニャ語は約300万人。なのにあっという間に訳されるクッツェーというのもすごい。ちなみにフランス語の母語人数は7200万、日本語は1億3000万で倍近いというのもあらためて驚きます。
 日本人の頭のなかでは、総人口にしろ言語の話者人口にしろ、ヨーロッパ偏向的書き換えが起きているのでは? と思う瞬間がありますが、それにしても、カタルーニャ語がんばっていますね。ざっと40倍の話者のいる日本語なんですから、がんばらなくっちゃ。

2013/11/10

YOUNG BONES by Malia ──いま、待っているアルバム

 ひさびさの音楽情報。友人が教えてくれたマラウィ出身のシンガー、マリア。

 試聴したかぎり、きわめてオーソドックスなジャズヴォーカルだ。ちょっとかすれた声の質がわたしの好みにぴったりで、すぐにCDを2枚注文した。いまはネットショップの試聴コーナーでちらちら聞いたり、YOUTUBEの動画を見ているところ。
 歌は英語だったり、フランス語だったり。プロデュースしているのがどうやらフランス人らしい。マリア自身は、お父さんが英国人、お母さんがマラウィ人、生まれたのは1978年とある。

 マラウィという国はちょっと微妙な国だ。1964年にニアサランドとして英連邦内で独立したけれど、それ以後、長いあいだローデシアの白人政権やアパルトヘイト政権下の南アフリカ政府と友好関係を結んでいたのだ。

 クッツェーの三部作には『青年時代』のなかに、マラウィ出身の女性がひとり出てくる。ロンドンで青年ジョンが家賃を節約するため留守番をする文化人類学者の家で、メイドをしている女性シオドラだ。文化人類学者夫婦がフィールドワークにマラウィ(当時はニアサランド?)に行ったとき、彼らの幼い娘のナニーとして現地で雇われた女性である。学者一家がロンドンに引き上げるとき、シオドラもまた一家についてロンドンへやってきた。自分の子供たちを国に残して......彼らに生活費を送金するために....

 白人のアフリカ人である若者ジョンと、アフリカ黒人である中年のメイドのシオドラが、無言の対立感情を抱きながら、1960年代初頭のロンドンで、一つ屋根の下で暮らす場面。そこには当時の「アフリカ人」や「アフリカーナ」に対するジョンの複雑な思いが、みずからの生地と歴史的立ち位置を確認しようとする青年の、強烈な印象を残すことばとともに描かれている。
 
 

2013/09/26

J・M・クッツェーの自伝的三部作、通読完了!

終わった! クッツェーの自伝的三部作の見直し作業が終わった。まだ細かな統一などは残っているけれど、とにかく、三冊分の本文の通読は完了した。

 最初は8月いっぱいで終わる予定が、9月にずれ込み、猛暑がじりじり続くなかで休みなく、毎日、PCに向かって、読んだ。すでに体力の限界を超えた感がするけれど、もうよく分からない.......
 こうして机に向かっていられるのは、たぶん、慣性の法則ゆえだろう。しばし、沈没しよう。どぼん!
 
 いま後ろで流れている音楽は、前にも触れたサティマ・ビー・ベンジャミンの「Song Spirit」。ヨハネスで生まれ、ケープタウンで育った人だ。(付記:両親の離婚でおばあさんの家で育ったそうだ。そのおばあさん一家は、セントヘレナ島からケープタウンへやってきた人たちで、そこにピアノがあって音楽に親しんだとか。)
 彼女、アパルトヘイト時代は長期にわたりエグザイルしていたシンガー。あの国が「南アフリカ共和国」なんてのになったとき、14か15歳だったというから、およそ年齢の見当はつくかな。
 歌はスローで、かったるくって、脱力にちょうどいい。

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追記:今日読み終えたのは、クッツェーが2009年に発表した『サマータイム』。30代初めから半ばのジョンが主人公だ。5人の登場人物+クッツェー自身が残したノート、という構成。人生の朱夏のときに交流のあった女性たちと男性のインタビューがメインディッシュ。2009年のブッカー賞のファイナルリストに残った作品である。クッツェーという人物(もう死んだことになっている!)の、核心に迫る自画像スケッチブックというところか。

 ベンジャミンの例のアルバムの4曲目に「インディアン・サマー」という曲がある。秋になってもじりっと暑い日。小春日和より、たぶん、もう少し暑さの度合いがきつそうな一日を歌った曲だ。今日はひんやり涼しいけれど、これからの東京はまだこの小春日和やインディアン・サマーもどきの日がやってくるんだろうなあ。
 三部作ができあがるまで、もう少し時間がかかるけれど、楽しみに待っていてください!

2013/08/21

「名誉白人」は名誉なのか???!

 猛暑のなか、クッツェー漬けの毎日で、ブログに書くこともクッツェートリビアばかりです/笑。でも今日は、ちょっとガツン! で行きます。この暑いのに.....と頭すずやかに読んでください。

 日本人は一般に、都合の悪いことは忘れる、知らんぷりする、しょうがないと諦める、この三つにかけては天才だ。でも、今回ばかりは、2011年3月11日以降のさまざまな出来事を見てきて、そのなかで生きてきて、今回ばかりはこの天才性を放棄しなければいけないときに来ていると思う。

 たとえば、こういうこと。あまりにも情けないことだが、愚直に問題にしていきたい。
 先日、若い人たちの前で話をするチャンスがあり、南アフリカという国に「アパルトヘイト」という合法的人種差別システム(搾取システム)があったという話になった。そこで、日本人は「名誉白人」という扱いを受けた時代があった、と話すと、いまの20代の人たちのなかに、高校の授業で「名誉白人」ってのは聞いたような気がするけれど、名誉なことだと習った印象があるという。これには、心底びっくり! アチャーである。

英語とアフリカーンス語で「白人専用」
アパルトヘイトが完全になくなったのは1994年、いま20代の人たちが生まれたころだ。映画「遠い夜明け」も「ワールド・アパート」も知らない、マンデラ来日も知らない世代なのだ。

 ヨーロッパ人種のように白くなりたい(美白?)という願望が日々、ファンションや音楽や映画など、さまざまな媒体から、これでもか、これでもか、と流れてきて、戦後そんな価値観を内面化してきた多くの日本人は、ありのままの自分を受け入れることができなくなった。まあ、これは、いまも、むかしもそうかな? 相当長い時間、この価値観にほとんど暴力的にさらされつづけてきた。(ここ十数年はとりわけ、若い子たちが、とりわけ女の子たちが、不必要に、病的なまでに、どんどん痩せてしまった。痩せなければ、と強迫観念を抱くようになった。)

だからこそ、アジア人であることを一瞬忘れて「名誉白人」扱いされることを、尻尾をふって喜んだのだろうか? オランダと昔ながらのやりとりがあってか、「お前は黄色いカラードだが、特別あつかいして、貿易相手としてだけ白人並みにあつかってやる」というのが「名誉白人」の中身だったのに。
 人種間結婚が禁止されていたから、当時の南アフリカでは日本人と白人のカップル、日本人と黒人のカップルが同一地域に住むことは違法だった。つまりそれだけで逮捕されたのだ。あるいは国外追放。

 それはすっかり忘れて、見たくないものには幕引きをして、アフリカとえいば未開の「暗黒大陸」から、サファリの、冒険の、自然豊かな秘境へ、そして次は「資源大陸」としてのアフリカへ、あくまで「ふつうの人が住み暮らす土地」を横に置いて、見たいアフリカだけに焦点をあてる。それでは、まさにアディーチェのいうシングルストーリーを、意図的に地でいく姿勢だ。

 そもそも「名誉○○」というのは「○○」にはなれないが、特別扱いしてやろうという完全上から目線の差別主義者の思想なのだ。「名誉白人」という語の裏にある歴史的な、優生思想に基づいた深い意味合いをもう一度、しっかり考えてほしい。

 2007年に会ったときジョン・クッツェーも、わたしが「日本人として名誉白人を返上できなくて残念だった!」というと、苦い苦い笑いを浮かべていたっけ。(とまあ、結局、クッツェートリビアで終わるのかっ、また!。。。爆)