Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2016/08/30

図書新聞一面に書評が載りました

  • 「硬派書評」をうた図書新聞(2016年8月27日発売号)にも『鏡のなかのボードレール』(共和国)の書評が載りました。

    評者は詩人の田中庸介さん。この本の書き手と本自体の構造的関係を「メタファー」という語を用いて解明する、とても力のこもった評です。なみなみならぬ意気が伝わってきて感動しました。
     それも一面に掲載、向かって左手です。偶然ながら、右手には奥田愛基さんのプロフィールがあり、西谷修氏の論考が。
     また、なかには管啓次郎さんらの『地形と気象』の書評もあって....読み応えたっぷりです。

     こうしてありがたくも書評が出そろうと、自分がなにを書いたのか、それが誰にどんなふうに受け止められたのか、ということが客観的にわかってきます。書き始めたときや、本を出したばかりのときには、まったく見えなかった視点がおぼろげながら見えてくる。
     ずらりとならぶ書評者はすべて男性。予想はしていましたが、例外なく、でした。

    毎日新聞──池澤夏樹氏
    北海道新聞──野村喜和夫氏
    日経新聞──陣野俊史氏
    週刊読書人──芳川泰久氏
    図書新聞──田中庸介氏
    東京新聞・中日新聞──男性記者?
    「本の雑誌」──都甲幸治氏

     でも、実は、女性読者からの感想もたくさんいただいています。「ボードレールからクッツェーまで、黒い女たちの影とともにたどる旅」というところに鋭く、強く反応してくれる方々が多い。ただし、それは活字にはなりにくい感想やことばで、まさに「境界の文学」のラインのあっちとこっちで、ぱっきりと分かれる、ということのようでもあります。そこにもまた、いろいろ考えていくヒントが埋まっていそうです。とても興味深い結果です。
     読んでくださったみなさん、どうもありがとうございました。

     まだまだ旅は続きます。これからもどうぞよろしく!

2016/08/26

明日発売の「現代詩手帖」に書評が……

明日発売の「現代詩手帖 9月号」が届きました。拙著『鏡のなかのボードレール』の書評(p121)が掲載されています。

 シャルル・ボードレール。この名はこれまでに、どれだけの読み手の胸を高鳴らせてきたのだろう。この極東の島国でもまた、──
 という書き出しの評を書いてくれたのは、トークイベントにも参加してくれた清岡智比古さんです。

──「ジャンヌ・デュヴァル詩群」を読んだときに、ジャンヌがシャルルに向けていた視線について、あなたは思いめぐらせることがあっただろうか?
 と問いかけながら、最後はこんな結びです。

──本書が提示する、詩と、視線と、歴史を巡る考察には、育てられるべき多くの種子が満ちている。画期的な、と形容できる一冊である。 

 Muchas gracias! 
 むっちゃ嬉しい!       ──と頭韻を踏んでみたくなりました/笑。

 ぜひ、手に取って全文を読んでください。
 *思潮社編集部さんに深謝します。

2016/08/23

ヘンリー・パーセルの「ゴールデン・ソナタ」

朝から午後にかけて、暴れまわった台風が東京から遠ざかって、虫の音が響く夜だけれど、なんかいいことないかなあ、と呟きたくなるほど、あっちでもこっちもひどいことばかり起きている。リオもひどい。沖縄は激しく辛い。
 だから、いや、だからこそ、ヘンリー・パーセルの「ゴールデン・ソナタ」を聴いて寝ようかな。心の健康のために。




2016/08/20

新刊めったくたガイド「本の雑誌 9月号」

うっとうしい雨と湿気がちょっと遠のいたか、と思ったらまた雨。台風の季節だものなあ、モンスーン気候の土地に生まれてしまった運命か、とため息が出てしまう。しかし。嬉しいこともありました。

『鏡のなかのボードレール』をめぐる究極の書評が出ました。
 都甲幸治さんが「本の雑誌」に連載している「新刊めったくたガイド」、9月号です。
 3冊の新刊書について書かれています。1冊目はわたしも大好きなリディア・デイヴィス、2013年に国際マン・ブッカー賞を受賞した米国の作家です。フランス文学に深く通じていて、プルーストの名訳者でもある。岸本佐知子さんの訳でこのデイヴィスの『分解する』が作品社から出たばかり。これはもう、ホント、泣けます。

 2冊目が拙著『鏡のなかのボードレール』なんですが、2冊つづけて評されていることが、まったくもって偶然とは思えない視点を浮上させています。この2冊を貫くものを評者はしっかり見抜いています。さすが。


「現代の女性は学校教育において男性として考えるように教育される。なにしろ古典の多くは男性作家のものだし、メディアでも依然として男性の視点が力を持っているのだから。しかしいざ大人になると、彼女たちは男性としては扱われない。そして彼女たちは、男の言葉を使いながら自分の心情を書くという課題に向かい合うことになる。デイヴィスはそうした軋みを見事に作品化している」

 そう書いたあとに、拙著を評することばが続き、「……<逆にいまは、ジャンヌ・デュヴァルのような女たちの声を代弁する現代文学を、日本の男性読者が若いうちに精読することの重要性をとても強く感じる>というくぼたの言葉には、日本の文学研究だけでなく、日本社会そのものを変える力がある」と結論づける、耳喜ぶことばがならんでいました。(ほら、チママンダ、聞こえた?)
 そして最後をミラン・クンデラの『小説の技法』(西永良成訳・岩波文庫)でしめるという、なんとも豪勢な盛り付け!「新刊めったくたガイド」という名もめっちゃ面白いよねえ。

「本の雑誌 9月号」、手にとって読んでみてください。ぜひ。

2016/08/19

ふたたび:16年前のJMクッツェーのロング・インタビュー



わたしはクッツェーという作家について考える時、何度もこのインタビューにもどる。南アフリカという土地と、彼のオリジンであるヨーロッパ文化と、クッツェーとの関係を知るための原点に近い。「美しさと慰め On Beuty and Consolation」

以下はこのビデオに含まれているクッツェーの発言( J.C.Kannemeyer からの引用:ちなみにカンネメイヤーの伝記には、このTVは2002年となっているが、オランダで初めて放映されたのは2000年)。


The peculiar cruelty and horror of apartheid was the very un-African aspect of it, a very rigid and ordered and in a sense European derived system imposed on a country and society to which it was really petrifying. And its horror was all the more because it seemed an absurd rerun in Africa of what the Nazis had done in Europe. It seemed a farcical repetition of a history of what then ought to have been obsolete. So you look here at a continent which is prolific of life and where life is cheap and always was cheap, but not in that way, not in a manner of systemized cruelty and extinction. So that has been the peculiar hideousness of the past half-century. In a country and on a continent which is not perhaps beautiful on the human scale, but [...] beautiful in a wild and grand and impressive manner. It is the contrast between the particular ugly, banal, systematic, cruel horror in an environment which is so huge and so lavishly beautiful. (Kannemeyer, p211)

2016/08/17

書評「二つの性を往還できるこの時代にふさわしい視点」

またひとつ、『鏡のなかのボードレール』の書評が出ました。「二つの性を往還できるこの時代にふさわしい視点」というタイトルで、掲載は8月12日発売の「週刊読書人」。評者はフランス文学の専門家、芳川泰久氏です。ボードレールの詩の訳についてまで突っ込んだ内容の評で、「なかでも読んできたことが累加的に焦点を結ぶ九章「J・M・クッツェーのたくらみ、他者という眼差し」は圧巻」ということばに筆者はとても喜んでいます。


 知人のなかに、自著や訳書に対する書評に「ありがとう」というのはおかしい、なぜなら、それは書評というのものが本来もっている「批評性」をそこないかねないから、という意見を持つ人がいます。わたしも、確かにそう! 日本語文化圏には日刊紙ならたった800字ほどの「書評」という名の「紹介記事」を書く文化が主流、あるいは書評紙や週刊誌などの書評欄にしても、3200字あまりの枠しかないのは、残念しごくです。
 たとえば、ニューヨークタイムズの書評は一本がもっと長いし、ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックスの書評にいたっては、その何倍もの量があり、ちょっとした論文のようだもの。
 あるいはフランス語圏のル・モンドの書評もがっちり長いし、突っ込んだ内容の辛口の評が載ったりする。フランスでは高校生のゴンクール賞というのまであって、そこで選ばれる作品の質の高さには定評があります。だから、本を読み、それについて評することは、たんなる読書感想文とはわけが違い、書評欄では当然、作品のよしあしとその理由を細かく論ずるスペースが確保される。

 それでも。それでも。この「本来の批評」の成立しにくい日本語文化圏に生きる者としては、やっぱり評が掲載されると、心のなかでつぶやいてしまうのだよね──Muchas gracias!

2016/08/13

『イエスの幼子時代』『イエスの学校時代』そして『イエスの……』


”オランダ語版『イエスの幼子時代』と『イエスの学校時代』De schooldagen van Jezus 
8月1日刊)、もう出ている。いつもながら英語版より早く出るところが、すごい! オランダ語使用者には、まず自作をオランダ語で読んでもらいたい、という著者のはからいだろう”──そう書いて、オランダ語版が2冊ならんだ左の写真をtwitter やfacebookにアップしたのが数日前。

 でも、やっぱりここにも書いておこうと思う。これはあくまでわたしの直感なのだけれど、しばらく前から、このシリーズには続巻があるのではないかと、ふと念頭に浮かんだ思いが離れないのだ。『イエスの青年時代』とか……。『イエスの成年時代』とか……。
 クッツェーが5月にパレスティナ文学祭に参加したとき、麦わら帽子をかぶって、カルーにも似たブッシュの散在する丘をながめながる写真があった。その写真を見たときひらめいたのだ──ひょっとしてパレスティナを訪れたのは、かつてこの地に生きた「あの奇人変人のユダヤ人預言者、ナザレのイエス」(『ヒア・アンド・ナウ』)のことを新たに作品として書くための、現地リサーチを兼ねていたのではないかと。

 もちろん最大の目的は、パレスティナ・イスラエルの現状を見るためだっただろう。でも、あの旅はいまひとつ、次作のリサーチも兼ねていたのではないか。最近の The Times の記事のタイトルを見ると、どうもそう考えるのはわたしだけではなさそうだ。案外あたらずとも遠からずの考えのような気がするが……。どうなか?

2016/08/07

オランダ語版 De schooldagen van Jesus/The Schooldays of Jesus


いつものようにクッツェーの新作はまず、アムステルダムのコッセ出版社から、オランダ語版が出版された。表紙は、なんと、羊さんである。

 De schooldagen van Jezus

英語版もいま見ると、予定より早く出るようだ。ブッカー賞のロングリストに入ると、扱いが違うなあ。イギリスの密林サイトでは、思ったより廉価で手に入ることがわかった。
 以下にコッセ出版社の書籍説明(Google翻訳)を貼り付けておこう。かなり突っ込んだ内容説明である。そういうことか、やっぱりなあ、と妙に納得。

JM Coetzee - The Schooldays of Jesus

Simón has arranged his life around his role as foster father of the wayward boy Davíd. Still, more is needed to understand the child, to love. He will have to open up to a world that was unknown to him; the rationale and thinking letting go and join a reality of intuition, feelings, music and dance.

They left in a hurry, fleeing the authorities. Simón and Inés find a home in Estrella, a quiet town that stands out with the special training. Since their six foster son Davíd not learn math or grammar, but - to the surprise of his parents - about the relationship between stars and dancing.

The pragmatic Simón understands nothing of the school, and less and less of Davíd. The boy constantly stresses Simón his real father is, and Simon's life lessons not penetrate to the child; feel Simón not understand something fundamental is growing by the day. But despite the unorthodox lessons, where school trips to a nudist beach to hear, Simón sees revive the boy. Only Dmitri, the caretaker of the museum located next to the school, worries him. Why he hangs all the time with the boy around with his clippings from dirty magazines, and his obsession with Ana Magdalena, the stunning dance teacher? Why he pops up everywhere, in the most unexpected places and moments, like a devil from a box?

The schooldays of Jesus shows us a father carrying his world view based on logic and facts, which relies more on his mind than his body, and a son who looks at all the opposite. But then something happens in the school that the whole city upside down. Simón slowly realizes that there might be another side of human existence: something besides thinking and reason. The body, the feeling, the dance; something still was elusive for him, but where Davíd living proof of that is. Simón does everything to love his son and finally understand.

The book of The Schooldays of Jesus by JM Coetzee is currently in stock in our warehouse. 

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Economistに掲載されたこの版画、クッツェーさんはいまではPCで原稿を書くんだけれどナ。五線譜と星と踊る少年ね。
"Life and Afterlife" というのは、意味深です。

2016/08/06

日経新聞夕刊に『鏡のなかのボードレール』の評が載りました

8月4日(木)の日経新聞夕刊に、こんな書評が載りました。
「目利きが選ぶ三冊」として、選者・評者は陣野俊史さん。
なんと五つ星で、おまけに書影がフルカラーです!

「自由で、」……「思考の足跡が描き出されている」という嬉しい評。


(貼り付けちゃいました、陣野さん、すみません、そして、Muchas gracias!)