Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2019/10/27

都会の擁護者こそ野蛮人──J・M・クッツェー

  メキシコ国立自治大学でのセッションは、ここ数年のJ・M・クッツェーの著作と幅広い活動の総まとめのような感じだった。

2018年4月末にアルゼンチンの大学で実施された「南の文学」講座のラウンドテーブルで、北のヘゲモニーを批判するクッツェーのことばを聞いて、「すばる 6月号/2019」にこう書いた。

「この作家が1974年に初作『ダスクランズ』を出すために、まずイギリスやアメリカのエージェントに何度も働きかけていたことを思い出す。すべて不首尾に終わって、ようやく南アフリカの小さな出版社から出すことができたのだ。そして『夷狄を待ちながら』でブレイクして世界的な作家になった。北で認められたいという野心をもって書いてきたと、2018年5月末にマドリッドでクッツェー自身が語っている。だからこれは自分の体験を批判、検証することによって見えてきたものなのだろう。ここでもまた批判の対象は作家である自分自身となる」
       ──「北と南のパラダイム──J・M・クッツェーのレジスタンス」

 これは今回のセルールの質問に対するクッツェーの答えと思いっきり重なるが、クッツェーはその当時の自分を「彼」として突き放し、精緻かつ簡潔なことばで表現していく。『ダスクランズ』を出したころの自分への分析にはさらに磨きがかかり、ロンドンやニューヨークの出版社から本を出すことをめざしていた自分は、北の大都会こそが「リアル・ワールド」だと考えていた、と述べる。青年ジョンの頭のなかには「本物世界」とは「北」だという思い込みがあったのだ。(東京へ出ることを北海道の片田舎でひたすら目論んでいた60年代半ばの自分をつい思い出す...)

 そして62歳でアデレードへ移り住んだジョン・クッツェーは、来年2月で80歳になろうとしている。UNAMでのセッション前日に公開された映画「Waiting for the Barbarians」のテーマについて問われたクッツェーは、北と南、都会と田舎、の関係を類比的に見透しながら、「大都会を擁護する者こそ本当の野蛮人なのかもしれない」と述べる。クッツェー自身の現在の立ち位置と、その世界観をきっぱりとあらわすところだ。
 これは田舎者が都会人になった「ふりをする」ことへの、根底的批判なのだろうか。それともなれなかったことを足場に考え抜いた結論だろうか。(なんだかアディーチェの『アメリカーナ』で、アメリカへ渡ったイフェメルが本来の自分にもどるためにラゴスへもどるところとも重なるな。
 しかし同時に、ジェンダーの視点からすると田舎の地縁血縁の容赦ない縛りからいったん逃れるためには、都市の暮らしは必要悪でもあるのだけれど...)

 だが、クッツェーの憧れは、自分の育った環境には複雑なアイデンティティーのあいまいさがあって、幼いころからThe Children's Encyclopedia という事典──これは2つの大戦間にイギリスで編集された、アングロサクソンを最優秀な人種とする、非常に差別的なプロパガンダだった──をすみずみまで見て、読んだこによる深い影響と不可分だったと語る。(この子供百科について述べたシカゴ講演は来年、雑誌に訳出します。)

 このセッションでは、『サマータイム、青年時代、少年時代』でくりかえし語られる「都会と田舎」の関係が、都会生活と田園生活といった対立&補完の構造を超えて、旧ヨーロッパ宗主国と植民地との関係がもたらした「現在」をベースに、いま「世界」の中心である欧米とそれ以外の地域との関係として語られるようになっていく。
 この自伝的三部作には、1997年に出た初巻『少年時代』から一貫して「Scenes from Provincial Life」という副題がついていた。3巻を1冊にまとめたとき、それが正タイトルとなった。ものごとの全体を類比的に考え抜こうとするJ・M・クッツェーの面目躍如といえるだろう。

 5年ほど前に、3巻まとめて出したとき、タイトルをどうするか、とても悩んだ。原タイトルの「Scenes from Provincial Life」をそのまま訳しても、訳書タイトルにはおさまりが悪い。いっそ一案として訳者が出した『とことん田舎者』とすべきだったんじゃないかといまでも思うのだ。

 ──クッツェーでそこまで崩していいんですか? 

と言われてあのときは引っ込めたけれど、じつは、この『とことん田舎者』というタイトルは結構気に入っているのだ。クッツェーが自分は「ダーク・コメディ」を書いてきたつもり……という、倫理性に込められた諧謔に満ちた「ひねり」が、じわじわと伝わるようになったいまは、それもありだったかなあと思う。惜しかったな😆。

 ちなみに2018年「すばる 5月号」には、作家から送られてきた「英語のヘゲモニーに抗う」という文章が引用されていたが、クッツェーの立ち位置を明言する、詩と言語をめぐるその文章が、今回のUNAMのステージでそっくり朗読されています。Please listen!

2019/10/26

英語版の動画がアップ!

メキシコ国立自治大学でのJ. M. クッツェーとラケル・セルールとの英語版のやりとりがアップされました。



2人とも、とてもゆっくりと話を進めるので、英語が学習言語の人にも聞き取りやすいやりとりです。さて、その内容が興味深いかどうか、ということになるとクッツェー作品を読んでいる人とそうではない人に多少分かれるかもしれません。でも、とにかく誰もが理解できる英語をクッツェーは話すよう心がけているのが感じられます。

 質問は多岐に渡りますが、最後のほうで「難民」について問われたクッツェーが、難民が押し寄せることを解決すべき問題としてとらえるのではなく、気候変動などによる人の移動をまず事実として受け止めて、それがわれわれの生活であると認め、それと共存することを考えるようにしてはどうか、と語るところで拍手が起きました。印象的な場面です。

2019/10/25

メキシコ国立自治大学でのJ・M・クッツェー

2019年10月24日、メキシコ国立自治大学でJ・M・クッツェーとラケル・スルールの対話が行われた。

動画もアップされたが、スペイン語の同時通訳がかぶさって英語が聞き取りにくいので、英語バージョンがアップされたらあらためて。ここには記録のために、何枚かの写真を拾っておく。


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SOCALOの記事より:(10/26追記)
24日のUNAMでのセッションを伝える記事。Waiting for the Barbarians の映画化にふれて、原作のタイトルはカヴァフィスの詩から採られたが「都市擁護者こそ本当の野蛮人」とクッツェーは述べたらしい。「とことん田舎者=provincial」であろうとする「世界的」作家クッツェーの面目躍如のところだ。

このセッションに先立って行われた3つの討論会のようすはこの記事の後半に出てきます。

https://monicamaristain.com/me-resisto-a-que-el-ingles-sea-el-idioma-universal-j-m-coetzee/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=me-resisto-a-que-el-ingles-sea-el-idioma-universal-j-m-coetzee

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ラケル・スルールとJ・M・クッツェー


サイン会で若い学生たちに破顔の笑みを見せるジョン・クッツェー。
子供たちのなかに希望を見ているのがわかります。



サインを求めるファンの列

2019/10/23

ラテンアメリカの J・M・クッツェー

 今日はひさしぶりに青空がひろがって、東京は気持ちの良い秋晴れです。北半球は秋ですが、南半球は春の訪れが聞こえてくるころでしょうか。

HarvilSecker版
J・M・クッツェーはこの季節になると毎年のようにラテンアメリカを訪れます。今年はまず短編賞の授賞式にチリへ、そしていまはメキシコでしょう。10月24日にメキシコ国立自治大学でクッツェーを囲んだセッションが行われるというニュースが流れました。

 テーマは三つ:「メキシコの作家のあいだのクッツェー」「クッツェーの作家活動」「クッツェーと現代の危機」←スペイン語の記事をグーグル英訳したものを、さらに日本語にしているので、かなり輪郭がぼやけたタイトルになってる可能性がありますが、あしからず。メキシコの作家たちがクッツェーをどう読んできたか、これはなかなか面白い視点です。

 この記事のなかで、おそらく、こういうことをいってるなと思われる心にしみる箇所があったので、わたしが理解した範囲で記録すると:
Viking版

「J・M・クッツェーの文学は読者の心の内奥にとどく手法をもっていて、まるで世界の異なる土地にいる多くの人たちの記憶を共震させるかのように訴えかけてくる」

 最新作『イエスの死/The Death of Jesus』はアメリカでもViking社から来年5月に発売されるようです。スペイン語版が出てちょうど1年後ですね。

 そうそう、最近はよく忘れ物をするので、この写真も記録としてアップしておこうかな。先日メルボルンの出版社から本を買ったら(『鉄の時代』と『マイケル・K』)、キャンペーン中だとかで無料のトートバッグが送られてきたんです。ロブスターやら、バラの花やら、時計やらがついてる袋ね(笑)。裏には「Incredible!」の文字が。。。

2019/10/18

最近のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの動画

マンチェスターで10月5日に行われたチママンダ・ンゴズィ・アディーチェのトークの実況中継。OPEN FUTURE FESTIVAL.


以下に大雑把な内容を。(あくまで粗い聞き取りですので引用はお控えください。)

 まずアイデンティティについて質問された彼女:アイデンティティというのは外部からの要求によって変わる、たとえば、最近もUSAの空港でプレミアの列にならんでいたら、あなたはあっちだと指差されたのはエコノミーのほうだった。これは肌の色で判断したからで、ナイジェリアではありえない。ナイジェリアでは、エスニシティか、ジェンダーによって分けられる。だからアイデンティティというのは外部からの問いによって、いくつにも変わりうるのだ、と述べている。だから自分としてはそれをたったひとつに狭めることはできない。

ストーリーテリングについて、作家として、と問われると:もっといろんな声がでてくることが必要だと強く思う。文学作品を読むということは、可能性として、自分の体ではない体から発せられる声を聞くことだと思う。書くというのは、自分の体ではない体から発せられる声を書くことでもある。どんな声であれ、わたしを呼んでいるならその声を物語に響かせていきたいと。

 これまでアフリカ、アジア、ラテンアメリカの物語は長いあいだ、そこの出身の人たちによって語られてこなかった。だから、ロンドンの書店に行っても、本がコロニアルなテイストでならんでいることが多い。もちろんそれは大事よ、だってイングランドはナイジェリアを植民地化してきたんだし、歴史としては……中略……でも、数日前の香港を見てもわかるように、世界中の土地は過去にずっと取り憑かれつづけている。

 それから、『アメリカーナ』について、かなり突っ込んだ質問がきて、アディーチェも非常にクリアに答えている。もう少しニュアンスをつけて、と編集者からいわれたが、それは、もう少し正直さ=あからさまにいうことを控えて、ということだった。

 なんでも比較的率直に語る英語社会で、「もう少しニュアンスを」といわれたとしたら、このニュアンスだらけで空気を読めとかいわれる日本語社会では、どうなるんだ😅?なんて思いながら最後まで見ましたが、最後のほうでオーディアンスから質問が出て、それに真っ向から答えるチママンダ、そして白熱の議論が展開されるようにもっていく司会のジャーナリストもなかなか。

 あとは動画をじかに見てください。

 もしも日本にチママンダを呼ぶなら、同時通訳があいだにはさまるとしても、これくらいの丁々発止のやりとりができるステージになるといいなあ、と思います。
 

デレク・アトリッジ氏の最新情報:「クッツェーによる南」

あちこちでシェアしながら、ここでお知らせするのをすっかり忘れていました。

The South According to Coetzee

 来月初めに再来日するデレク・アトリッジ氏がとても、とても興味深い文章を書いているサイトをお知らせします。英語版よりいちはやくスペイン語版で La muerte de Jesus を読んでいることが、彼の文章からうかがえます。


タイトルのThe South According to Coetzeeは、つい「クッツェーによれば南は」と訳してみたい誘惑に駆られます。

 駒場で開かれる講演でも、この文章に書かれた内容について言及されることになるはずですが、クッツェーの最新作 The Death of Jesus の読書会に出る方には必読でしょう。

2019/10/11

デレク・アトリッジ教授が再来日します

2012年5月に初来日して、J・C・カンネメイヤーが書いたJ・M・クッツェーの伝記と作家自身の自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代』の最終巻『サマータイム』とを比較しながら、すばらしいお話を聞かせてくれたデレク・アトリッジ教授がまた来日します。

 来日中の講演と読書会のお知らせをここに!



 講演会は「翻訳、世界文学、マイナー言語の問題」について。まるでここ数年、英語版より先にスペイン語版で自作を出してきたJ・M・クッツェーの問題意識を解き明かしてくれるようなテーマ設定ですよね。
 読書会は11月12日にメルボルンの出版社から出たばかりの英語版The Death of Jesus を読むそうですよ〜〜。面白そう! わくわく。

 

2019/10/07

『文藝』に斎藤真理子さんとの対談が

今日発売の雑誌『文藝』(2019 冬号)に斎藤真理子さんとの対談が掲載されています。
 8月25日にB&Bで行なわれたイベント「今日も眼鏡をふいている──翻訳・移民・フェミニズム」を起こしてまとめたものです。対談のタイトルは:

 新たな視野をひらくアディーチェの文学

「ジャンピング・フェミ・トーク」になるかも、との予測どおり、当日はあれこれ話が飛んで、これは終わりそうもないわ、とわれながら感じていました。
 あがってきた文字原稿を見ると、アディーチェをめぐる話になっていました。さすが! そりゃそうですよね。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの2冊の本『イジェアウェレへ フェミニスト宣言、15の提案』と文庫『なにかが首のまわりに』のW刊行記念なんですから。😆

 そうはいっても、こうして読むと、ちょうど10年の年齢差のある2人が体験した80年代の話が圧倒的なリアリティをもっている、とあらためて感じます。「潮干狩り」の話なんかとてもシンボリックで、しかもリアル。
 翻訳をめぐる話では、クッツェーのことはすでにブログに書きましたが、歴史的な出来事を作品化するハン・ガンとかアディーチェなど、若手の作家たちの話もしたんだった。
 当日、会場へいらっしゃれなかった方も、いらっしゃった方も、ぜひ!

2019/10/04

ちいさな月桂樹を移植

 9月8日夜半の突風で倒れた月桂樹、根元から伸びていたちいさな若木を植木鉢に移植してみた。来年の春まで待って、もう一度、地面におろしてやろうと思う。うまく活着してね、ローレルくん!

 右の写真は、16年で大樹に育ったローレルが、どうと地面に倒れた姿。どうやら、表層は柔らかい土だけれど、すぐ下に硬い粘土質の土が広がっていたため、根の張り方が浅くて、激しい突風で根こそぎ浮いてしまったらしい。

 根は半分ほどついているので、今日もまだ葉っぱは青々としてるのだけれど。

2019/10/03

JMクッツェー『イエスの死』読了

今日は、J・M・クッツェーのイエスの三部作最終巻『The Death of Jesus/イエスの死』を、朝から夕方までずっと読んでいた。午後5時過ぎに読了。
 記録として書き記しておく。内容についてはあらためて。しかし、親として早い時期に子供を亡くすということは。。。と書いていると、読んだという知人からメールがきて、感想が書いてあったので、こちらも手短にこう返した。

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「いや、感動的という表現でいいのかと思いながら、ときどきグサッとこちらに刺さってくる表現があって、涙ぐみそうになりました。
 つい、作家の実人生と重ねて読めてしまう細部があるから、ということもありますが、書き方がね、世界に対してもうこれ以上ないほど自分を削って差し出しながら書いてる感じがして。終わり方が、図書館の本への子供たちの感想コメントというのもうまいなあと。読書会、楽しみです」

2019/10/01

J・M・クッツェー"The Death of Jesus"がとどく

10月1日発売の本が、ぴたりとその日の朝にとどいた。メルボルンの出版社からエアメールで。

 J・M・クッツェー著、The Death of Jesus(Text Publishing)

イエスの三部作最終巻だ。全197ページ。さっそく読みはじめる。机上には分厚いゲラがどさりと載っているのに……。まあ、あっというまに読み終えるだろうけど。
 とりあえず記録のために今日、10月1日の日付がついた写真をアップしておく。