Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2020/09/06

DVD『去年マリエンバードで』を見る──ロマン派について考えて、好き放題書いてみることにした(3)

垂れ込めた雲が空をおおい、ときどき雷が鳴り、ザザーッと雨が降ったと思うと、いつのまにか陽の光が差している──今日はそんな変わりやすい天気。台風のせいだ。気圧のせいか、どうも頭がすっきりしない。気分もすっきりしない。こんなときは、と思い立って、買ってあったDVDで古い映画を見ることにした。

『去年マリエンバードで』監督アラン・レネ、脚本アラン・ロブ=グリエ。1961年の映画だ。日本で公開されたのは1964年。黒澤明監督の『羅生門』(1951)にヒントを得た映画だそうだけれど、黒澤の『羅生門』って芥川龍之介の『羅生門』と『藪の中』を合体させたような映画だったよね。
 
 なぜ『去年マリエンバードで』なんか、いまごろ見てるかというと、この映画にヒントを得てJ・M・クッツェーが第二作目の小説『その国の奥で/In the Heart of the Country』(1977)を書いているからだ。クッツェーの小説はタイトル内の「Heart/奥」で、ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥/Heart of Darkness』を響かせながら、映画のモンタージュ技法(アッサンブラージュ技法)を小説という形式に果敢に採用したポストモダン小説といわれている。各章に、1から266まで番号をふって、南アの農場に幽閉されているような主人公マグダの空想、妄想が「父殺し」をめぐって時間的に、場面的に、シャッフルされる構成なのだ。

『去年マリエンバードで』はマリエンバードというチェコ西部の温泉のある保養地を舞台に、きらびやかなブルジョワ趣味の男女たちが不自然ともいえるスチールときわめて限られたムーヴによって撮影されたシーンがシャッフルされて、記憶のあいまいさを追い詰めていく構成になっている。
 今回見て確認したのだけれど、この映画はいってみれば当時のヨーロッパにおけるブルジョワ男の人妻との不倫をめぐるストーカー的な妄想内でくりひろげられる物語だった。2020年になってみると、まあ、美しくも謎めいたオブジェとしての既婚女性とその心理が、じつに表層的なあつかいを受けて描かれていると思わざるをえない。あの当時はこんな感じだったんだよなあ、としか言いようがないけど。

 日本で封切られたのは1964年だが、60年代後半から70年代にかけて新宿3丁目にあったATGでヌーヴェルヴァーグ映画のリバイバル上映をやっていたころ、わたしはジャン・ジャック・ゴダールの『気狂いピエロ』やアラン・レネの『夜と霧』は見たけど、この映画は予告だけ見てスルーした。その理由も今回あらためて納得した。つまらなそうだったのだ。衣装も音楽もこてこてにブルジョワ趣味すぎたし。1960年代後半の東京のデパートはこのこてこて趣味をひたすら追いかけていたんだよね。ココ・シャネル! 
 
 でもおそらく60年代初めのロンドンでこの映画を見たクッツェーは、のちに自作にアッサンブラージュ技法を取り入れた。ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『太陽はひとりぼっち』を見て、モニカ・ヴィッティにぞっこんになる20代前半の青年がこの映画から刺激を受けるのは、十分すぎるほどわかる。7年ほど前にここにも書いたけど

 字幕を見ていて笑ってしまったことがある。「ベット」という語だ。映画はフランス・イタリア合作でフランス語が使われている。これは lit の翻訳なんだけど、当時の日本語は「ベッド」ではなく「ベット」だったのだ。いつからだろう、「ベッド」と濁音になったのは? そういえば「ハンドバッグ」も最初は「ハンドバック」だったなあ、と思い出す「昭和」のわたしです😆。

台詞がまたとてもよくわかるフランス語で、アテネフランセなどでもくりかえし上映されていたかもしれない。なつかしい、というのは抵抗があるけど、あのころのティーポットや灰皿、グラス、ファッション、ヘアスタイル、大ぶりのパールをたっぷり使った宝飾類を確認できるのは面白い。たとえば、ハイヒールの踵のめっちゃ細いこと! とか、この重たそうなイアリングはまだピアスじゃないよな、なんて。93分。ランチ前に見終わった。
(つづく)