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2022/09/23

優しい地獄の天国行き

イリナ・グリゴレ『優しい地獄』(亜紀書房)について東京新聞に書きました。「海外文学の森へ」というコラムです。最初に「優しい地獄の天国行き」というタイトルをつけて送ったのですが、予想通り、そのタイトルはサラリと却下されました・笑。

 でも、そんなふうに、天国行き、という表現を使いたくなる何かがこの本にはあるんです。だから、却下されて文字には残らなかったけれど(まあ、当然でしょうが)、自分でも忘れてしまわないように、ここに記録しておきます。

 ルーマニア北部の農村で生まれて育ったイリナ・グリゴレという人が書いた本です。とにかく、すごい迫力の日本語でのっけから頭をガツンとやられます。その切迫性がもろに伝わってくるところがこの本の最大の魅力なんだけれど、書くことに対する厳しい方法論にも、映像文化人類学者であるイリナさんの美しいまでの矜持が感じられます。

 読んでいくと、1984年にチェルノブイリの近くで(ルーマニア北部からそれほど遠くないのだ)生まれ育ったことによる影響を、同じ世代の人たちがモロに受けていることが、じわじわと滲み出てくる内容でもあって、がっつり視野が開かれます。

 9月20日東京新聞夕刊の記事を、ここに全文貼り付けます。


優しい地獄の天国行き


 この切実さはなんだろう? と思いながらページをめくる手が止まらない。

 赤ん坊がいきなり世界に放り出されるときはこんな感じなのか。素描される世界のイメージと、それを感知する生身の感覚が、ざらりとした詩的表現として迫ってくる。


 土と木と畑の匂いが立ちのぼる。畑から素手でもいだトマトの味がよみがえる。著者はルーマニアの農村で生まれ、祖父母が作る畑と近くの森で採れた食べ物で育つ。家の前の桜の木の実、森のきのこや山菜。畑で葡萄を作り、育てた豚を屠り肉を貯蔵する。どの家にも地下に貯蔵室がある。お昼ご飯はいつも畑のそばの胡桃の木の下で食べた。それは自分もまた生き物であることを認識する、かけがえのない感覚であり記憶だ。


 母や父は町で教師として、工場労働者として働く社会主義時代。だが著者が生まれた二年後にチェルノブイリ原発事故が起き(詳細を知るのはずっと後)、五年後にチャウシェスク政権が打倒される。

 町の学校に通うようになったイリナは、十四歳のときここから出ていきたいと切実に思う。本当は映画監督になりたかった。でも、女性が映画監督になるには…分厚い壁が立ちはだかる。


「トンネルを抜けると雪国」と始まる川端康成の小説を読んでこれだと思った。日本語を学び、日本へやってきた。舞踏にのめりこみ、文化人類学者として獅子舞の研究を始める。現在は大学で映像人類学を教えながら二人の娘を育てている。寝る前の娘にダンテの『神曲』の話をしたときのやりとりから、この本のタイトルは生まれたという。


 自分の身体を舞台にして、そこで展開される生そのもののイメージを、獲得した言語で突き放すように書くオートエスノグラフィー。文学のオートフィクションへ通じる斬新さは「翻訳されて生まれてきた/born translated」ことばたちに支えられている。


 そんなことばが読み手に激しく流れこむとき、壁が音もなく崩れ落ちて、見えない境界がいくつもあったことを知らされた。

 この世に生まれて、<ある>、という違和感を、そのひび割れを満たしてくれる本だ。




2021/12/15

東京新聞「海外文学の森へ 21」グアダルーペ・ネッテル『赤い魚の夫婦』

12月14日の東京新聞夕刊「海外文学の森へ 21」に、グアダルーペ・ネッテル『赤い魚の夫婦』(宇野和美訳 現代書館刊)について書きました。

 読んだのは、あの、暑い、オリパラの8月でしたが(もうほとんど忘れかけている夏)、この本を読んだときの新鮮な驚きはいまもありありと蘇ります。



2021/01/17

東京新聞(夕刊)に「海外文学の森へ」第1回が掲載されました

 今年は、東京新聞の火曜日夕刊に隔週で載る「海外文学の森へ」の案内人の一人をつとめます。トップバッターを仰せつかり、第一回にハン・ガン著/斎藤真理子訳『回復する人間』(白水社刊)について書きました。1月12日の夕刊です。



 他にも名だたる書き手の方々が、次々と旬の作品を紹介してくれるはずです。
次回は1月26日夕刊です。

2010/11/16

ANC政権とたたかう87歳のナディン・ゴーディマ

サッカーのワールドカップが終わった南アフリカで「情報保護法案」をめぐる報道が目につくようになった。
 国益のため国家機密の保護をうたう法案だが、もし成立すると出版禁止や自由な議論の場が失われてアパルトヘイト時代に逆戻りする、と作家やジャーナリストたちは強く反発している。

 今月87歳になるノーベル賞作家ナディン・ゴーディマが、アンドレ・ブリンクやジャブロ・ンデベレ、ジョン・カニ、J・M・クッツェーなど、そうそうたる人物が名を連ねる嘆願書をズマ大統領に提出したのが9月上旬。さらに同月下旬、彼女はスウェーデンのヨーテボリで開かれたブックフェアに参加し、聴衆に法案反対の署名を呼びかけた。


 ヨーロッパ第2の規模を誇るこのブックフェアの、今年の焦点は「アフリカ」。ラトビア、エストニアなど、通常一カ国をテーマとするのにアフリカを一国扱いするのは、と批判もあったが、ゴーディマなど総勢70名の作家が28カ国から招かれた。

 20年前は自他ともに認める反アパルトヘイト闘士で、1990年2月までは非合法だった解放組織アフリカ民族会議(ANC)の隠れメンバーだったゴーディマはいま、政権党となって金銭をめぐる腐敗のうわさが絶えないANCと真っ向から闘う立場に立たされている。

「それはもう皮肉をはるかに通り越している」とこの作家はインタビューで語る。「人々は自由を手に入れるために死に、大きな代償を払って自由を手に入れたと思ったのに、またしてもその自由が脅かされているのだから」と。

 南ア国内ではこの法案に各界のリーダーたちも反対の態度を表明し、市民レベルの「R2K(Right to Know=知る権利)キャンペーン」も立ちあげられた。国外からの圧力も強い。

 憲法で保証された「情報へのアクセス権」をめぐる動きがどうなるか、それは今後この国がどこへ向かうかを知る重要な手がかりとなるだろう。

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付記:2010年11月9日北海道新聞夕刊に掲載されたコラムです。

2010/03/20

明日は・・・フランコフォニー祭へ!!

今日は春のプチ嵐のような風が吹いて、明日のお天気がすごく心配。なぜなら、明日は飯田橋の日仏学院でフランコフォニー祭があって、夜は、かのドベ・ニャオレがパフォーマンスをするというので、それを見に、それだけを見に、出かける予定だからです。

 ほかの催しに魅力がないわけではないのですが、なにしろ、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの長編『半分のぼった黄色い太陽』(8月刊行予定)のゲラ読みが佳境に入っていて、時間がたっぷりあるというわけにはいかなくて、というわけなのです。それでも、それでも、わくわくします!

 先日、ドベについて書いた文章をここに転載して、イヴの気分を盛りあげましょう!

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 ドベ・ニャオレ/Dobet Gnahoréをご存知だろうか。コート・ディヴォワール出身の多才なアーチストだ。来日歴もあり「ナ・アフリキ」というアルバムがある。乾いた温かい風のような、伸びやかな声の持ち主。ネットではエネルギッシュに踊りながら歌う姿も見られ、アフリカでは音楽がダンスと切り離せないことを再確認させてくれる。

 生い立ちがまた面白い。カメルーンの劇作家ウェレウェレ・リキン(2005年の野間アフリカ出版賞受賞)が1985年にアビジャン郊外に創設したアーティストコロニー、キ=イ・ムボックで育った。父は著名なドラマー。12歳のとき、学校からドロップアウトして音楽や演劇の道に進んだ。決定的な出会いは、コロニーへふらりとやってきたフランス人、コリン・ラロッシュ・ドゥ・フェリンと恋に落ちたこと。99年に渡仏した2人はバンドを組んで活動開始、数年後には押しも押されぬ存在になった。

 ドロップアウトといっても日本とはちょっと意味合いが違う。あまり学校へ行かせてもらえない女子が多いアフリカで、フランス式教育から積極的にドロップアウトした成果は、ダイナミックなステージをみると納得できる。ヨーロッパに洗脳されいていないのだ。

「アフリカへ」という意味の先のアルバムに入っている曲は、ディダ語(お金/彼を信じて/教えて/追悼/虐殺)、マリンケ語(イッサ/一夫多妻/キイムボック讃辞)、コサ語(私の涙)、ウォロフ語(女たち/近親姦)、フォン語(泣かないで)、ゲレ語(私の息)、リンガラ語(略奪)、とアラビア語まで交えて多様な言語で歌われる。
 アフリカで起きていることを歌う( )内のタイトルがなんともリアル。そう簡単に「ハクナマタタ(No problem!)」とはいかないのだ、と。

 でも、ドベの歌を聴いていると、民族や国家におさまりきらない、パンアフリカンな現実を世界にむけて開いてみせる、しなやかな才能が確実に育っているのがよく分かる。力強い、媚びない、ドベのパフォーマンスは、本当に楽しみだ。

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(北海道新聞2月23日夕刊に掲載された記事に加筆しました。)

2009/11/26

10年目を迎えたケイン賞

英語文学におけるアフリカ文学の登竜門、ケイン賞が今年で10回目を迎えた。今年はナイジェリアのE・C・オソンドゥが、難民キャンプを舞台に書いた短編「Waiting/待っている」で受賞し、1万ポンド(約150万円)を獲得した。

物語は10歳の少年オーランド・ザキが語り手。オーランドはもちろんフロリダのオーランドだ。赤十字からもらったTシャツの胸にそう書いてあった。だからそう呼ばれている。ザキは彼が発見された場所の名前だ。
キャンプにいる子どもたちはアカプルコ、ロンドン、パリといった具合に、着ているTシャツのキャッチコピーからとった、変な名前で呼ばれつづける。本人は意味がわからないまま、いつかその土地の人が自分を養子にしてくれることを夢想している。キャッチコピーだから、セクシーなんて名もある。

毎日、食料トラックが来るのを待ち、給水タンクが来るのを待ち、カメラマンが写真を撮りに来るのを待ち、戦争が終わるのを、家族が自分を見つけてくれるのをひたすら待っている。
この作品、平易な会話調で、ときにドキッとするほど過酷な日常がさらりと描かれている。そこが評価されたらしい。

ケイン賞の10年間の受賞者を見ると、ナイジェリアとケニアから各3人、南アフリカから2人、スーダン、ウガンダから各1人で、男女半々。

この賞はアフリカを、欧米の目からではなく、アフリカ人みずからの目で書くための場を作ってきた。その成果がバラエティに富むアンソロジーとなって、すでに何冊か出ている。たとえば今年出たのは『Ten Years of the Caine Prize for African Writing』

ぜひ、どこかで翻訳紹介したいものだ。

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北海道新聞2009年11月24日夕刊に掲載されたコラムに加筆しました。
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付記:2012.6.27/ 先日、都甲幸治さんと柴田元幸さんの対談を読んでいて、この短編を柴田さんが訳出紹介したという話が出てきて、おっ、そうなのか、と思った。もっとどんどん紹介されるといいなあ。今年、2012年の発表も間近です。

2009/02/11

グレイスさんのディスグレイス

『恥辱/ディスグレイス』といえば南アフリカ出身のノーベル賞作家、J・M・クッツェーの二度目のブッカー賞受賞作だけれど、それとおなじタイトルの短篇を季刊「季刊 真夜中 No.4」(リトルモア、1月22日刊)に訳出した。作者はこれまた南ア出身の作家、ゾーイ・ウィカム。昨年7月に出たばかりの短編集『出ていった人/THE ONE THAT GOT AWAY』に入っている作品だ。(写真はNew Press からもうすぐ出る予定の米国版)

 物語は、グレイス(恩寵)という名の主人公が、一枚の絹のスカーフをめぐって、不面目(ディスグレイス)なことになってしまう話で、語呂合わせをねらうタイトルは、そのままにするしかなかった。
 舞台はアパルトヘイト解放後のケープタウン。主人公は郊外のタウンシップから街の白人屋敷へ通う、74歳のカラード(混血)のメイドである。苦労して大学を出た娘のことや、のらくら者とグレイスの目にうつるその夫、預かって育てている孫たちとの暮らし、雇主の白人マダムやスコットランドからきた客、フィオナとのやりとりなどが、臨場感あふれる会話調の文体で生き生きと描かれている。

 作者のウィカムは1948年、ちょうどアパルトヘイト体制が制度化された年に、ウェスタンケープでカラードとして生まれている。20代で渡英し、解放後は一時帰国したけれど、現在はグラスゴーとケープタウンを行ったり来たりの生活だという。アパルトヘイト解放闘争の裏面史を描いた長編『ディヴィッドの物語/David's Story』(2000年)は、南ア国内では物議をかもした野心作で「南ア文学における途方もない達成」とクッツェーから絶賛された。

 この作家の最初の短篇集『You Can't Get Lost in Cape Twon/ケープタウンで道に迷うことはない』は1987年、ヴィラゴ/Virago から出版されている。それで、はたと思い当たった。これは、日本でもおなじみのハニフ・クレイシやキャリル・フィリップスなど、「第三世界」との関わりをもつ作家たちを強力に売り出すシリーズを出した出版社ではないか! 当時は「ブラック・ブリティッシュ」とずいぶん話題になったものだ。(この場合、「ブラック」というのが「非白人」を意味することは明白。)そうか、そういうくくりでウィカムも売り出されたのか、と改めて思いいたった。でも、ウィカムの場合、次の作品は2000年の『ディヴィッドの物語』まで待たなければならなかったけれど・・・。

 彼女の書くものは、とにかく、抜群にスパイシーだ。ナラティヴを多用したその文体も、他にちょっと類を見ない。昨年出た短篇集もまたスパイスの効いた作品が多く「外部から問うクールさと、内部の事情に通じる温かな眼差しを結合」とクッツェーも賛辞を惜しまない。

 来年のワールドカップ開催国の暮らしの内実を知る絶好の作品群である。

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北海道新聞夕刊(2月10日)に掲載されたコラム「世界文学・文化アラカルト」に大幅に加筆しました。
2009.6.28 追記:「ウィコム」と表記してきましたが、発音は「ウィカム」に近いと判断して、訂正いたします。ご了承ください。

2008/11/08

アフリカの若い作家たち

この夏、ナイジェリアで面白いワークショップが開かれた。ビアフラ戦争をテーマにした長編『半分のぼった黄色い太陽』(河出書房新社から邦訳予定)によって、2007年のオレンジ賞を最年少で受賞したチママンダ・ンゴズィ・アディーチェが、ナイジェリア国外から実力作家たちを招き、8月19日から約10日間の、若い作家を育てるワークショップを開いたのだ。スポンサーとなったのはラゴス市のフィデリティ銀行。

 講師陣がなかなかの顔ぶれだ。ケニアからは2002年にケイン賞を受賞したビンヤヴァンガ・ワイナイナが、米国からはピュリッツァー賞の最終候補となったベストセラー作家デイヴ・エガーズと、カリブ海文化と米国黒人文化の深いつながりを書くマリー・エレナ・ジョンが参加。
 今年が第2回のワークショップは、参加者を500人の応募者から25人にしぼり、書くことをめぐって、具体的作品をめぐって、これから作品を発表しようとする卵たちが、すでに世界的に評価の高い作家たちと忌憚なく、しかもユーモアたっぷりに論じ合ったという。さぞや中身の濃いセッションであったろう。

 ナイジェリアは約10年前に軍政から民政へ移行した。その結果、壊滅状態とまでいわれた出版、ジャーナリズムが息を吹き返し、ここ数年は目をみはる活動が伝えられる。
 その一端はアディーチェのような若い作家たちが、北側諸国の大学構内や出版サロン、自室に閉じこもることなく、独自に出版社を起こしたり、ワークショップを開いたり、「考える人」を育てる活動に惜しみないエネルギーを注いでいるからかもしれない。
 アフリカでは「書くこと」が政治、経済、社会の活動に直結しているのだ。

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2008年10月28日北海道新聞夕刊に掲載したものです。

2008/07/26

2008年ケイン賞はヘンリエッタ・ローズ=イネスに

 7月7日、本年度のケイン賞は南アフリカのヘンリエッタ・ローズ=イネスに授与すると発表があった。

 アフリカン・ブッカーの異名をもつこの賞は、アフリカの作家が英語で書く作品を対象とし、賞金は1万ポンド(約216万円)。今回の受賞作「毒/Poison」は昨年4月に、南部アフリカ・ペン賞を受賞した作品でもあり、そのアンソロジー「アフリカン・ペンズ/African Pens」に収録されている。

「毒」は、ケープタウン郊外を舞台に展開される、環境破壊の危機的物語だ。ハイウェイを車で走っている主人公リンの目に、遠く都心部の上空をおおう油じみた真っ黒い雲が見える。
 2日前になにかの爆発が起きて、テレビは深刻な状況に警告を発しつづけていたのだが、リンは気にせずにいた。3日目、喉のひどい痛みで、一刻も早く郊外へ出なければ、と遅ればせながらハイウェイへ出る。ガソリンスタンドには、少しでも遠くへ逃げようとする車の長い列が続く。そんな数日間の出来事が、密度の高い文体で描き出されていく。

 ヘンリエッタ・ローズ=イネスの名はかなり前から知られていた。最初の小説『鮫の卵/Shark's Egg』が南アの出版社クウェラから出たのは──手もとにあるヴァージョンを見るかぎり──8年前で、彼女が28歳のときである。経歴が面白い。ケープタウン大学でまず考古学を専攻し、大学院ではノーベル賞作家J・M・クッツェーの指導で創作を学び、「すばらしく緊密で、澄明な文章を書く」と賞賛された。

 昨年のケイン賞受賞者はウガンダのモニカ・アラク・デ・ニェコ、その前年は南アのメアリー・ワトスン、といずれも女性作家だ。これまでの9人の同賞受賞者のうち、2000年の第1回受賞者であるスーダン出身のレイラ・アブルエラーを含めて、5人までが女性である。
 書かねばならぬ物語を、アフリカから世界に押し出す彼女たちの力に、おおいに期待したい。そして、耳を澄ましていたい。

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2008年7月22日(火)の北海道新聞夕刊コラム「世界文学・文化 アラカルト」に加筆しました。

2008/04/28

Time of the Writer Festival

 毎年3月になると、南アフリカのダーバン市で「タイム・オブ・ザ・ライター」というフェスティバルが開かれる。今年も3月25日から6日間にわたって開催されたこのフェスティバルは、1998年からはじまり、すでに11回目を迎える。今年は10カ国から18人の作家が参加した。(これまでの参加者の顔ぶれを見ると、現在活躍中のアフリカ文学者のほぼすべてをカバーできるほどだ、というとちょっと大げさかもしれないけれど、その顔ぶれはすごい。なんといっても開催国である南アフリカが圧倒的に多いけれど、マグレブを含むアフリカ在住の作家や詩人はもちろん、アフリカ出身で他国に住む人や、カリブ海系のマリーズ・コンデやエドゥアール・グリッサン、インドのアルンダティ・ロイまで含まれている。)

 今年のオープニングは10年前の第1回とおなじ、ブライテン・ブライテンバッハ。彼は、アフリカーンス語を第一言語とする南アフリカの詩人・作家で、その詩はきわめて高く評価されてきた。アパルトヘイト時代には投獄され、長期にわたって国外追放されたことはつとに有名。しかし、英語で書かれた近作「A Veil of Footsteps/足跡のヴェール」の評はどうも芳しくない。使われた言語のせいかもしれない。

 今年の参加者は南アフリカをはじめ、ケニアの詩人シェリア・パテル、モーリシャスの作家アナンダ・デヴィ、コンゴ出身のフランス語で書く劇作家エマニュエル・ドンガラ、アンゴラ出身で南アに移民した作家シマオ・キカンバなど、どちらかというと南東部アフリカ出身者が多い。

 面白いのは彼らの経歴。大学で学んだものに、有機農業とか文化人類学といった項目がならぶのだ。大学で文学を学んでも、食べていくためのキャリアにはなりにくいからだろう。

 大会最終日を飾ったのは、オーストラリア出身のジャーナリスト、ジョン・ピルジャー。カンボジアのポルポト政権下で行われた虐殺をルポした「ゼロ・イヤー」をはじめ、すぐれたドキュメンタリーを手がけてきた人だ。

 こうして見ると「ライター」というとき、そこには日本語の「作家」よりぐんと幅の広い意味が込められていることがわかる。詩や小説や文芸評論を書くだけではなく、ジャーナリストとしてドキュメンタリーを手がけたり、劇作をしたり、さまざまなジャンルで「ことばを書く」こと、「ことばで伝える」ことを仕事としている人たちが集うフェスティヴァル。

 このような、国境、人種、性別、年齢、言語をこえて形成される、風通しのよいネットワークを基礎とするコミュニティーは、とても魅力的だ。喜んで、そのすそ野に加わりたいと思わせるものがある。
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☆2008.4.22北海道新聞夕刊のコラム記事に加筆しました。

2008/02/06

『厄年日記/Diary of a Bad Year』

 昨年9月、南アフリカ出身のノーベル賞作家、J・M・クッツェーの新しい小説『厄年日記/Diary of a Bad Year』が出版された。小説と銘打たれてはいるけれど、この作品には凝った仕掛けがある。

 舞台は、現在この作家が住むオーストラリア、主人公は一人暮らしの72歳の男性作家、「強力な意見」を書いてくれという、ドイツの出版社からの注文に応じて原稿を執筆中だ。国家の起源について、アナーキズムについて、デモクラシーについて、と「意見」が述べられていく。
 ある静かな春の朝、彼が住む高層マンションの1階ランドリールームで、真っ赤なワンピースを着た、若くて魅力的な女性、アンヤを見かけたところから「物語」が始る。

 冒頭部分が、作品の出版より数カ月前に、ある雑誌(New York Review of Books)に発表されてから話題沸騰のこの作品、じつは各ページが3段に区分けされているのだ。上段に「意見」が、2段目に老作家の声が、下段にアンヤの声が展開する。混成3部合唱のような、ポリフォニックな物語構成は、まるで室内楽のスコアを見ているよう。
(こんな構成の本を翻訳するときは、どうすればいいのか?! 横書きの言語ならそのまま移すこともできるけれど、日本語のような縦書き言語の場合は──翻訳者も編集者も思案に暮れそう!)

 さて、新境地を開くクッツェー氏が、一昨年の秋につづいて、昨年12月初旬に再来日した。今回は国際交流基金の招きで、東京、金沢、京都、広島、愛媛、長崎を訪ねてまわる2週間の旅だ。
 今年10月に刊行予定の拙訳『鉄の時代/Age of Iron』内の、メールでは伝わりにくい、固有名詞の発音上の疑問点を解決するために再会した。滞在先のホテルを訪ねると、几帳面なクッツェー氏はふたたび約束の時間きっかりにあらわれた。でも今回は初対面のときの緊張感はなく、終始にこやかに会話が進み、稔り多い会見になった。(この作家の「名前へのこだわり」については、次回に。)

 それから10日後の12月17日に、東京駒場で開かれた自作朗読会でのこと。作家は三声の『厄年日記』を微妙にアレンジし、切り替えのたびに「スイッチ」といいながら朗読した。印象的だったのは、朗読後、珍しく会場から質問を受けつけ、それに丁寧に答えていたことだ。

 駆け足で各地をまわった作家の日本への関心は、さて何処に? 長崎の出島記念館をまず第一の希望として訪れた、オランダ系植民者の末裔であるクッツェー氏、次作には江戸時代の日本が登場するのだろうか?
 ちなみに『鉄の時代』は、河出書房新社刊の世界文学全集第1期11巻に入る。
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2008年2月5日、北海道新聞夕刊に掲載されたコラムに加筆しました。

2007/12/16

明日、朗読会があるJ・M・クッツェー氏のノーベル賞受賞時の記事

 2003年10月に時事通信のために書いた拙文を「南アフリカのワインを飲む会」からここへ移動します。移動にあたって、事実関係をより正確にするため2箇所、加筆しました。
 あくまで2003年の時点で書いたものです。その後のことは2006年8月に出た拙訳『マイケル・K』のあとがきや、このサイトの「クッツェーの微笑、あるいは…」に詳述しましたので、参照してください。
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「2003年のノーベル文学賞はJ.M.クッツェーが受賞」         
 
J・M・クッツェーが、ついにノーベル文学賞を受賞した。
 毎秋、最終リストに彼の名が残るようになって何年になるのだろう。最初に耳にしたのは『マイケル・K』を訳していたときだから15年も前のことだ。以後『夷狄を待ちながら』など8作品が邦訳されている。
 南アフリカの作家、ジョン・マクスウェル・クッツェーは1940年2月9日、オランダ系植民者(アフリカーナー)の父ザカライアスと、アフリカーナーとドイツ系植民者の娘である母ヴェラとのあいだに、ケープタウンで生まれている。クッツェーという名は典型的なアフリカーナーの姓だが、家庭では英語が使われたため、この作家の第一言語はアフリカーンス語ではなく、英語になった。
 人種によって苛烈に区分けされた社会でアウトサイダーとして育ったことが、作家としての自己形成に深く影響していることは間違いない。アパルトヘイト(人種隔離)体制が強化された1940〜50年代の南アで、複雑な疎外感を感じながら成長したころのことは拙訳『少年時代』にも詳しい。
 ケープタウン大学で数学と文学を学んだ後、ロンドンでコンピュータプログラマーとして働きながら修士論文を書き(この時代のことは『青春時代』未邦訳…に詳しい)、さらに米国のテキサス大へ留学し言語学で博士論文を仕上げた。ニューヨーク滞在時にベトナム反戦集会に出たため、ビザが発給されなくなり、やむなく帰国。ケープタウン大学の教職を得て、74年に実験的作風の『ダスクランズ』を出版したのを皮切りに、発表する作品が次々と名だたる賞を受賞。1999年にはブッカー賞史上初の、2度目の受賞者となって、マスコミの話題をさらった(受賞作は83年の『マイケル・K』と99年の『恥辱』)。最新作の『エリザベス・コステロ』を含めて、これまでに小説やメモワールを11冊、エッセイ集を4冊発表、アンドレ・ブリンクとの共編著やアフリカーンス語からの翻訳などもある。

 クッツェーは、91年におなじくノーベル文学賞を受賞した南アの作家ナディン・ゴーディマと、作風や政治的スタンスなどをよく比較される。ゴーディマの作品が南アを舞台にしたリアリズムに貫かれているのに対し、クッツェーは一作ごとに南アと架空の舞台を行き来しながら書き方を変えてきた作家だ。
 だが、寓話的な手法を駆使した検閲制度下でもアパルトヘイト撤廃後も、無駄をそぎ落とした文体、痛々しいほどの内省といった特徴は変わっていない。西欧的カノンを引用し解体し、パロディ化しながら西欧植民地主義の源を根底から批判しようとする、知的で倫理的なその作風は、読者の意識の薄皮を何枚も剥がし、微妙にずらし、後戻りできないところへと導いていく。一度読んだら病みつきになる作家である。
 たまたま南アフリカという土地に白人として生を受けたことに、あくまで個人として向きあおうとする作家クッツェーの受賞は、狭い集団意識に逃げ込もうとする人間への痛烈な批判でもあり、また、西欧中心主義的な世界文学の受容から抜け出せない北のアカデミズムへの、南半球からの強力なパンチとも受け取れる。
 大のマスコミ嫌いで、ブッカー賞受賞式を2度とも欠席するという徹底ぶりだ。今回の受賞も、定例講義のためにシカゴ大学に滞在していたクッツェー自身はまったく知らず、スウェーデン・アカデミーが本人と連絡を取るのにずいぶん手間取ったと報じられた。
 人柄は誠実そのもの、拙訳書を送るたびに、几帳面にすぐ返事をくれた。『少年時代』の翻訳時、作品内の時間的矛盾について質問すると「嗚呼(アラース)、間違いました」とじつに率直なことばが返ってきたことを思い出す。

2007/11/14

ラッキー・デューベ、ナディン・ゴーディマ

南アフリカのカリスマ的レゲエ歌手、ラッキー・デューベが死んだ。
 享年、43歳。現地時間の10月18日午後8時すぎ、ヨハネスブルグで。車で子どもたち2人を親類の家まで送っていったところを、カージャック犯に撃たれたのだ。突然の銃撃と伝えられる。
 3年後のサッカーのワールドカップ開催をひかえて、南アの治安の悪さが話題になっている矢先、国民的英雄であるデューベが殺されたとあって、南ア警察は犯人逮捕にむけて、精鋭の捜査員からなる特別捜査班を組織。犯行から3日後、5人の容疑者がスピード逮捕された。
 そのうち4人(2人はモザンビークの出身*)が起訴されて23日、ヨハネスブルグの法廷に姿を見せた。だが裁判は手続き上の問題から1週後に延期され、30日には捜査不十分でさらに1カ月延期された。
 この半月にわたって南アのメディアは、不出世のミュージシャンを惜しむ記事や、大勢のファンがつめかけた追悼集会の模様などを連日伝えている。

年に2万人が殺人によって命を落とすといわれる南アで、暴力犯罪の対象となるのは有名無名を問わない。昨年はノーベル賞作家、ナディン・ゴーディマも自宅で強盗にあった。当時82歳のゴーディマが、ためらうことなく現金と車のキーを渡すと、若い犯人たちは66歳の家政婦と彼女を物置に閉じ込めた。
 無事に救出されたゴーディマは「1人が腕で私を押さえ込んだ。腕は筋骨たくましくて滑らか。そのとき思ったわ。この腕をもっとまともなことに使う場はないものかって」と語る。「南アフリカは暴力犯罪をめぐる深刻な問題を抱えている。でも、解決は警察だけの問題じゃない。犯罪の背後にあるものを見なければ。機会を奪われ、貧困のなかから出られない若者たちがいる。彼らには教育と職業訓練と雇用の場が必要なの。犯罪を減らす方法はそれしかない」とも。
 強盗に押し入られた恐怖よりも、この国が抱える貧富の差と、職のない大勢の若者のことに心を砕く、ゴーディマらしいことばだ。

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付記:11月13日付、北海道新聞夕刊に掲載されたコラムです。

 *カージャック犯の容疑者として逮捕された4人のうちの2人が、モザンビークから「富める」南アへ流入した人たちだったことが印象的です。これは、アパルトヘイト体制下の南ア政府が周辺国に対して、「不安定化工作」を行ったことと無関係ではなさそうです。当時白人政権は、アパルトヘイト体制維持のために、周辺国の反政府勢力になりふりかまわず武器や資金をあたえて政情不安をあおり、その国が安定した国力を得ないように画策しました。その結果、政治的に混乱し、経済的に疲弊した国の代表例が、モザンビークやアンゴラだったのです。
 ゴーディマは、強盗事件によって世界の耳目が自分だけに集まることに、とても戸惑ったと伝えられています。

2007/11/09

アディーチェ! アディーチェ! アディーチェ!


 昨日発売の「週刊文春」でこの本が取りあげられました。評者の池澤夏樹氏が、アディーチェの魅力を鋭く柔らかな感覚でじっくりと読み込み、この本の同時代的な意味を明らかにしています。とりわけ、いくつかの短編に出てくる、名前にまつわる人と人の関係の問題を、「誇り」ということばをもちいて的確に指摘していたことが嬉しかった。訳者としてはとても励まされる評でした。
 Muchas gracias!
 せっかくなので、中日新聞/東京新聞に書いた拙文を、ここに移動します。
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 いま一度、C・N・アディーチェ(Chimamanda Ngozi Adichie)のことを。
 この9月で30歳になったばかりのナイジェリアの俊才、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの作品を初めて読んだときは、心地よい驚きがありました。すばらしく切れのよい、心にしみる文章をさらさらと書ける、天性の資質に恵まれた作家がついにアフリカから出てきた、と思ったからです。
 短編集『アメリカにいる、きみ』のためにセレクトしたのは、運よく渡米した少女が異文化のなかで働きながら、恋人に出会い、閉塞感から解放されていく表題作をはじめ、ナイジェリアや米国を舞台にした、心にまっすぐ届く10編です。さまざまな国の人と隣り合わせになる暮らしのなかで、困難な同時代を生きるアフリカ人の声を、肩ひじ張らずに楽しんでもらえる本にしました。
 いま世界文学の先頭を切っている作家です。(2007年9月25日、河出書房新社より発売、1890円)
        東京新聞(10/25)夕刊「翻訳ほりだし物」より
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☆おまけ情報:もっと読みたいと思われる方は、つぎのサイトに最新作が載っています。この作家は、なんだか、ある種のリトマス試験紙みたいな存在になっていきそうな気配です。
My American Jon ←作家の写真も!
REAL FOOD ←これは最新エッセイです。
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2007/10/28

チヌア・アチェベにマン・ブッカー国際賞


 「近代アフリカ文学の父」といわれるナイジェリアの作家、チヌア・アチェベ(Chinua Achebe)がこの6月にマン・ブッカー国際賞を受賞した。この賞は隔年に受賞者が発表され、個別の作品ではなくその作家の仕事全体にあたえられるもので、賞金は6万ポンド(約1400万円)。
 1958年に出版されたアチェベのデビュー作『Things Fall Apart/崩れゆく絆』はこれまで世界中で1000万部以上も売れた超ロングセラーだ。200ぺージほどの小説だが、アフリカ文学を知るためにも、植民地化による近代アフリカ社会の変遷を知るためにも、必読の書といっていい。70年代に邦訳が一度、出たようだが、現在は入手困難。ぜひ新訳で読みたいものだ。
 受賞後、アチェベはBBCに対して「アフリカ文学がやろうとしてきたのは、世界文学という概念の枠を押し広げることだった──そこにアフリカを含めること、アフリカは含まれていなかったわけだから」と述べた。この作家が『闇の奥』を書いたジョゼフ・コンラッドを「べらぼうな差別主義者」と呼んだことが長いあいだ、英文学者たちのあいだで物議をかもしてきたことを考えあわせると、エキゾチズムではないアフリカ文学が世界文学のなかに正当な位置を占めるためには、半世紀の道のりが必要だったということだろうか。「英文学」から「英語(圏)文学」へと視点の転換が進む時代に、現在76歳のこの作家の存在を評価せざるをえない時代になってきた、と考えていいのだろうか。

 若手作家、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ──アチェベとおなじイボ民族出身──がガーディアン紙に、尊敬する大作家の受賞を喜ぶコメントを寄せていた。彼女自身この7月に、ビアフラ戦争の内実を克明かつ人間的に描いた2作目長編『Half of a Yellow Sun/半分のぼった黄色い太陽』でオレンジ賞を受賞したばかり。

 ビアフラ戦争というのは1960年代末に、石油資源の利権をめぐってナイジェリアで起きた内戦で、その後もこの国はアフリカ諸国の例にもれず、「資源があるゆえの」政情不安定に悩まされている。
 しかし、豊かな口承文芸を背景に持つ、アフリカ最大の多民族国家であるナイジェリアはまた、南アフリカとならんで、多くの文学者を生み出してきた国でもある。しばらくは、ナイジェリアから目が離せない。
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付記:2007年8月28日付「北海道新聞」に掲載したコラムに加筆しました。

2007/10/14

民族的詩人、マジシ・クネーネ逝く


「北海道新聞 2007.1.9 夕刊」コラムに、こんな記事を書きました。(掲載版に少し補足してあります。)
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 2006年8月12日、マジシ・クネーネが他界した。1970年の初来日と、80年代初めの2度の来日で、知る人ぞ知るズールー民族の大詩人だ。20余年の亡命生活を終えて、南アフリカに帰国したのが93年。享年76歳だった。
 初来日の目的は解放組織の活動資金調達だったという。70年当時、南ア国内は厳しいアパルトヘイト(人種隔離)政策のもとで、解放運動は壊滅的状況に追いやられていた。94年の解放で政府与党となるANC(アフリカ民族会議)も当時は非合法組織で、クネーネはロンドンを拠点とする財務担当として初来日したのだ。思うように資金調達がかなわず、離日するとき「日本の繁栄はわれわれの血によって贖われている」と言い残して、当時の若い支援者たちに「クネーネ・ショック」をあたえた話は有名である。

 詩人の第一義的な仕事は、民族の社会的価値観や哲学的概念を教え、伝えることにあるとするクネーネは、ズールー語で書いた作品をみずから英訳した。その一冊を訳してみないかと声をかけられたことがきっかけで、私は南ア文学のさまざまな作品と出会い、この国の政治情勢の変転や、文学者をとりまく環境の激変を見ることになった。だから訃報に接したときは、この20年間の出来事が走馬灯のように脳裏をよぎった。

 民族の創世を物語る長大な叙事詩『アフリカ創世の神話』(人文書院、1992、共訳)との格闘をはじめたのは86年のこと。だが、南アの事情に疎かった私も、原著の献辞にマンゴスツ・ブテレジの名をみつけたときは、さすがに放っておけない疑問を感じた。79年にANCを離れてから、ズールー民族組織インカタの長として、ことあるごとにANCと血で血を洗う凄惨な権力闘争(西側メディアは「部族抗争」と報じた)を繰り広げていた人物、それがブテレジだったのだ。(下欄の付記参照)

 叙事詩の翻訳は遅々として進まず、なじみのない哲学、宗教、文化の概念は、部外者などにそう簡単にわかってたまるか、とばかりに分厚い壁として立ちはだかった。なかでも、いささか辟易とした、その誇り高き民族主義は、西欧植民地主義に対抗する強力な精神基盤ではあったものの、皮肉にも、人種間の和解と諸民族の融合をうたう新生南アの国家概念とは、際立った対比を見せることになった。
 まことにアフリカ、いや世界は、一筋縄ではいかない。

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付記:
 後に、当時のアパルトヘイト政権が「部族抗争」を(国外向けに)演出するため、インカタに資金を渡していたことが発覚して、南ア国内で大きな問題になっていたことを思い出します。