Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2019/12/29

そのうちサルバドールが

虫色の目をしたサルバドールは、
くせ毛の髪にふぞろいの歯をしたサルバドールは、
先生に名前をおぼえてもらえないサルバドールは、
友だちがひとりもいない男の子。

っていくのは、どこかよくわからないけど、
景気がいいとはとてもいえない家並みのあたり。
粗削りの木材で作ったドアの奥で、
毎日、朝もまだ薄暗いうちに、
眠たそうな弟たちを揺りおこして、
靴のひもを結んで、
髪に水をつけてとかしてやって、
ブリキのカップにミルクとコーンフレークを入れて食べさせてやる。

のうちサルバドールが、遅かれ早かれ、
したくのできた弟たちと数珠つなぎになってやってくる。
赤ん坊のことで忙しいママの代わりに、
セシリオとアルトゥリトの腕を引っぱり、
ほら急いでっていってる。
だって今日は、昨日もだけど、
アルトゥリトがクレヨンの入った葉巻の箱を落っことして、
あたりに赤や緑や黄色や青のクレヨンや、
ちっちゃい黒い棒まで散乱して、
アスファルトの水たまりの向こうまで飛んでしまったので、
横断歩道のところで、交通安全のおばさんが、
サルバドールがクレヨンを拾い終わるまで
車の通行を止めてくれてる。

わくちゃのシャツを着たサルバドール。
喉もとから声を出してなにかいうとき、いつも
咳払いをしなくちゃならなくて、そのたびに、
すいません、というサルバドール。
体重18キロの少年の体に、
地図のような傷痕をつけて、
傷めつけられた歴史を背負って、
羽とぼろ布がつまったような腕と脚
をしたサルバドールは、目のところで、
心臓のところで、
両こぶしをあてるとドキンドキン
といってる鳥かごのようなその胸のなかで、
サルバドールだけが知ってることを感じている。

せの100個の風船と悲しみのギターをひとつ入れておくには
ちいさすぎる体をしたサルバドールは、
教室のドアから出ていくほかの少年とちっとも変わりがないのに、
校庭の門のあたりで待ってろよといっておいた弟たち、
セシリオとアルトゥリトの手をとって、
色とりどりの生徒の服や持ち物のあいだをぬって、
肘と手首を交叉させたバツ印をくぐりぬけて、
走りまわる靴をいくつもかわしながら、
急ぎ足で帰っていく。
みるみるちいさくなる姿が、
まぶしい地平線にとけていく。
ちらちら揺れながら消えていく凧の
残像のように。



****

<一年の終わりに>
23年ぶりに復刊したサンドラ・シスネロス『サンアントニオの青い月』(白水Uブックス)から、水彩画のようなタッチの、散文詩のような掌篇を。ここでは試みに、行分けにしてみました。

みなさま、どうぞよいお年をお迎えください!

2019/12/26

TORUS にインタビューが載りました

「物語」が「イズム」を超えるとき


 秋の日の昼下がり、まだ緑の木の葉が揺れる川の近くの公園で写真を撮って、それからカフェで数時間、話がはずみました。さあ、そろそろ、と腰をあげるとき、外はもう暗くなっていて......。

 アフリカとか、フェミニズムとか、移民とか、今年文庫になったチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『なにかが首のまわりに』と『アメリカーナ』を中心に話をすると、どうしても「アフリカ」「アメリカ」「ヨーロッパ」という三つの地点が視野に入ってくる。わたしにとって翻訳という仕事を始めたのは、南アフリカにかかわりだしたときで、最初に出たのがJ・M・クッツェーの『マイケル・K』でしたから、もう30年以上むかしのことになります。

 これまでクッツェー8冊、アディーチェ7冊、訳してきました。年齢は親子ほども、いやそれ以上ことなるアディーチェとクッツェーですが、訳者にとっては、アフリカ大陸で生まれ、そのこととまっすぐに向き合って書いてきた作家として、補完しあう関係にある、そんな話をしました。これまでの仕事をふりかえる大変よい機会をいただきました。Merci!

 あっちこっちに飛んでしまう話者の話を、きちんとまとめて記事にしてくださったKさんとSさんに感謝します。

2019/12/23

東京新聞「土曜訪問」に

東京新聞(中日新聞)の夕刊(2019.12.21)に記事を書いていただきました。facebook でも twitter でもシェアしたけれど、備忘録のためにここにも貼り付けておきます。

「土曜訪問」──最も深い読者になる


クッツェーの翻訳者として話を聞かせてください──という依頼で、あれこれ話しました。わたしが翻訳に向かった動機や、初めての訳書『マイケル・K』など、これまで訳したものについて。
 とても熱心に質問して、中身の濃い記事にまとめてくださった記者のMさん、どうもありがとうございました。

2019/12/19

サンアントニオの青い月:サンドラ・シスネロス

窓のむこうには、12月の曇り空に包まれて、鮮やかな黄色の葉を残す緋寒桜の木がいっぽん。

🎉🎉 白水Uブックスになったサンドラ・シスネロスの2冊 🎉🎉
ちょうど26年前のクリスマスイヴに、生まれて初めてアメリカ大陸の土を踏んだ私たち。私たちというのは、まだ小学生と中学生だった2人の娘とわたしのことだ。

 飛行機を降り立ったアルバクウェルケ(アルバカーキ)空港では、娘たちに大人気のダニーさんがトナカイの角をあしらったハットを被って出迎えてくれた。(Thank you so much, Dany!  We'll never forget your kindness.)

 左手にリオグランデを見ながら車で一路サンタフェへ。

 サンドラ・シスネロスの作品2冊を翻訳することは決まっていたのだけれど、そのまえにやらなければならない仕事があって、結局、晶文社からシスネロスの翻訳が出たのは1996年だった。ほぼ4半世紀という時をはさんで、まず『マンゴー通り、ときどきさよなら』が昨年、そして『サンアントニオの青い月』が今年、白水Uブックスから復刊された。感無量だ。

 カバーには今回もまた、テックスメックスのさまざまなモチーフを鮮やかな色合いで描いてくれた、沢田としきさんの作品を使わせていただいた。解説は金原瑞人さん。クリスマス・イヴには書店にならぶはずだ。プレゼントにぜひ!
 
🌺🌺🌺 原著とならんで 🌺🌺🌺
マンゴー通り、ときどきさよなら』では、女性をとりまくさまざまな問題がまだストレートなことばにならなかったので、10代の少女の声を借りて描いたけれど、この『サンアントニオの青い月』(原題は「女が叫ぶクリーク」)ではやっと女たち自身のことばで語ることができた、と作者シスネロスが語っていたのを思い出す。22篇の短編を読み進むと、その意味がじんじんと伝わってくる。
 原作が扱う時代は1980年代末から90年代にかけて。アメリカとメキシコの国境地帯のいまとメキシコ革命の時代だ。

 この作品が発表された当時から、シスネロスは自分のことを「戦闘的フェミニスト作家と呼ぶなら呼んでいいわよ」といっていた。でも、残念なことに、初訳が出た1996年の日本では、やっぱり「フェミニズム」とか「フェミニスト」という語を表に出して使うことがためらわれた。つい最近までそうだったわけだけれど。

 小説や詩や、いわゆる「文学」がフェミニズムやフェミニストという語と関連させることを忌避した時代は、本当に、長かった。でもじつは、女たちの生と性の底流では、いつだってずっと、その見えざるたたかいが続いてきたのだ。やっとそれが表に出てきた、つまり主流の文学のなかに堂々と認められるようになってきたのだ。それがここ数年の大きな変化だ。

 もう後戻りはできない。🎉🎉🎉

Photo by Keith Dannemiller
フェミニズムの勢いが伝えられるメキシコや、チリや、アルゼンチンといったラテンアメリカで書かれている女性たちの文学がもっと訳されるといいなと思う!
 
 こうしてシスネロスの作品が復刊されて思うのは、いまならサンドラ・シスネロスを「フェミニスト作家」と誇りをもって呼べるということだ。「フェミニスト」や「フェミニズム」が概念としてごわごわした分厚いコートのように感じられた時代は去り、ふわふわした薄着も柔らかな編み込みセーターも、真っ赤なルージュもそれはそれでみんなフェミよと、あっけらかんといえる時代になったのだ。
 ここまでくるのに、どれほど多くの人たちの苦しみと奮闘と、被害者というレッテルを剥がして人間として誇りを取り戻すための、逆転の力学がたたかいとられてきたことか。

 もう後戻りはできない。🌺🌺🌺


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夜に。サンドラ・シスネロス『サンアントニオの青い月』(白水Uブックス)のみほんがとどいた今日、ミッドナイトプレスの岡田幸文さんの訃報を知る。1990年代初めに、シスネロスの詩の翻訳をいちはやく、彼が刊行する詩誌に掲載して応援してくれたのが、岡田幸文さんだった。ご冥福を心からお祈りします。